【HMF/HMC902105】●ベルク:Vn協奏曲 ●ベートーヴェン:Vn協奏曲ニ長調 op.61 →イザベル・ファウスト(Vn) ⇒クラウディオ・アバド/オーケストラ・モーツァルト ベルク。 ここに刻みつけられているオーケストラの豊饒な響きに、心奪われないひとがいるだろうか?アバドが備えている緻密な色彩感覚は、今や彼の弟子筋に流れ込んで「指揮者ならこれができて当たり前」というスタンダードになりつつあると思うが、本人は78歳になってもその感覚を衰えさせないばかりか、いや増さんばかりにカラフルな音楽を生み出している。 たぶん、アバドのこうした手法はすべての音楽に平等に幅広く通用するものではなくって(それゆえこの偉大なマエストロへの毀誉褒貶は振れ幅が大きいのだろう)、しかし、はまったときに訪れる法悦は何ものにも代えがたい。 この協奏曲の第2楽章で幾度も訪れる激昂や絶叫の局面でも、オーケストラ・モーツァルトの音は驚くほど曖昧さがなく、切り子細工のような透明な色と乱反射によって響きは高次に引き上げられている。 終盤でバッハの旋律線を奏でるクラリネット隊にアバドが与えた空虚なパステルカラー。。それからあとの響きは驚くべきふわふわ時間である。色彩が触感を伴うなんて信じられますか?エロスは雲散霧消して、かわりにアガペーの暖かい光が差してくるような心地さえ。重い。アガペーが重い。 + + + ベートーヴェン。 この協奏曲はニ調の弾力を確実に持っているくせに曲調は起伏が少ないので、プレイヤーもリスナーも音楽の力によって逆方向に引き裂かれる。だからこの曲の演奏は至難だと考えているんだけど、アバドによって最適解がもたらされてた。 第2楽章がいい。平穏な曲調をあくまで平穏に、脱力しきって構築するアバドの秘策は、オーケストラの色彩によるセリー天国とでも言うべき手法であった。もちろん総天然色のベルクとは少し趣が違うけれども、ベートーヴェンでは同色の系統の中に凄まじく細密なグラデーションが起こり、それらがベルクと同じようにしっかりとした感触を伴っていて、ニ調の弾力をキープしている。 で、ファウストである。 上のほうでは積極的に触れずにきたが、ベルクもベートーヴェンも、彼女はこのアバドの手法にぴったり寄り添っている。すでにブリテンやプロコフィエフの実演でも体験したけれど、ごく緻密なアーティキュレーションの持ち主として、あたかも協奏交響曲の一ソリストのように違和感なく(そしてもちろん一頭地を抜けた存在感でもって!)アバドのランドスケープのなかに溶け込んでいる。上述してきたような音色世界にあっては、伴奏やソロという関係はあまり意味がなかろ。 第1楽章のカデンツァはシュナイダーハン版。 + + + なお、本CDはアートワークも愉快だ。ディジパックを開くと、ジャケットにも使われているクリムトの《ヘレネ・クリムトの肖像》が現れ、それをまたぽうっ…と見つめるアルバン・ベルクの横顔が見え、最後にベルクを捲ると裏側にベートーヴェンの素描が怖い顔をして待っている。 【DGG/POCG4085】<ヴォルフ> ●ミニョンI 《語らずともよい》 ●ミニョンII 《ただあこがれを知るひとだけが》 ●ミニョンIII 《もうしばらくこのままの姿に》 ●ミニョン 《ごぞんじですか、レモンの花咲く国》 ●《四季すべて春》 ●《問うなかれ》 ●《お澄まし娘》 ●《羊飼い》 ●《ヴァイラの歌》 <マーラー> ●《無駄な骨折り》 ●《ラインの伝説》 ●《去って!去って!》 ●《高い知性への賛美》 ●《春の朝》 ●《ファンタジー》 ●《わたしは緑深い森を楽しく歩んだ》 ●《想い出》 ●《セレナーデ》 ●《トランペットが美しく鳴るところ》 ⇒アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(MS)+ラルフ・ゴトーニ(Pf) 今や熟女の魅力でわれわれを煙に巻くフォン・オッターおばさんだが、このディスクは、まずジャケ写真の80年代的雰囲気に驚かされる。オッターの厖大な録音歴のごくごく初期のものであるらしい。そしてなぜか、彼女自信の公式サイトのディスコグラフィからは消去されている。 ヴォルフの音楽はほんとうに変だ。変すぎて今でもあまり聴かれていないのは納得のいくところで、至極まっとうな現状だ(わかりやすい藝術などクソ喰らえ)。ヴォルフと並べて聴くと、マーラーが根っこに持っているポピュリズムが芬々と臭ってきて実に厭な気持ちになるのが、このディスクの善いところ。 ところで、むすめさんが唄うヴォルフは佳い。 フォン・オッターおばさんになってからアーティキュレーション錬金術の生け贄になって消えてしまった、素肌の奥にわだかまっている闇のような暗い地声が、ヴォルフの奇怪を引き立ててやまない。
ここ数回のエントリがなぜ(久しぶりに)ショスタコーヴィチづいているのかといえば、きたる2月26日(日)に、本邦ショスタキスト必聴の《24の前奏曲とフーガ》全曲演奏会が行なわれるからである。
ピアニストはアレクサンドル・メルニコフ。 + + + 【Regis(Melodiya)/RRC3005】●ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ op.87 ⇒タチアナ・ニコラーエワ(Pf) そのまえに、ニコラーエワの1987年盤をiPodに入れて、朝な夕なの通勤時間で予習を続けてきた。今が冬であればこそ(またいつもより厳しい冬であればこそ)、街区で聴くショスタコーヴィチの味わいは何十倍にもなる。 この曲集は(率直に言って)以前の僕の理解の及ぶところではなかった。が、今このように改めて襟を正して対峙してみても、その巨きさと勁さに圧倒されてしまってやっぱり言葉にならない。 中期ショスタコーヴィチらしく烈しい局面も確かに多くて、そのときは第8交響曲などを聴くときの耳にチューニングすれば済みます。でもこの曲集ではそうした「滑稽と悲惨のステージ」をはるかに通り過ぎて、すでに後ろの番号の弦楽四重奏曲と同じような深淵、光の差さない暗い森が、ゆらっと覘いている。 ニコラーエワの演奏はただ悠然としている。彼女のタッチは急がないし、見得も張らないし、危険なアクロバットもやらない。彼女の演奏からはただ、静かな「音楽の皺」のようなものを感じる。 スコアに潜んでいる深い暗闇にあえて挑んで全部をぶつけるというのではなく、彼女自身に刻まれている「音楽の皺」の谷間の暗がりを、僕たちに聴かせている。老女の昔語りが、時としてものがたりよりも「ものがたり」であるように。 + + + 1973年生まれのメルニコフの演奏は、どうだろうか。また、全曲を通しで聴いてしまったら、どんな気持ちがするものだろうか。 彼が2008年にとうとう録音してしまったこの曲集の評価や感想は、あえて避けてきた。プレーンな耳で判断したいのだけれど、僕の予想では、メルニコフはショスタコーヴィチの深淵に正面から切り込んでいって、しかもその征服に成功してるんじゃないかという気がしている。明日を待て。
ここ12年のショスタコ第10のディスクのなかから、まずは、もっとも若い指揮者が振っている録音を聴いてみたい(過去のライヴも含めてあと4枚くらいあるが―何せ当たり年―、このままシリーズ化できるかは不明)。
ダーヴィド・アフカム David Afkham は、1983年フライブルク生まれの指揮者、独印ハーフとのことです。このライヴ録音の時点では26歳か27歳だろう。ロビン・ティチアーティと同い年なので、ドゥダメルとフルシャの2年、インキネンの3年後輩。ハーディング、ネルソンスやネゼ=セガン、ソヒエフ、V. ペトレンコ、K. ペトレンコ、V. ユロフスキといった1970年代組よりもさらに若い。 + + + 【Orfeo D'or/C797111B】●リゲティ:《アトモスフェール》 ●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93 ⇒ダーヴィド・アフカム/ グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団 (2010年8月14日、ザルツブルク・フェルゼンライトシューレ) タコ10が取り上げられることが増えてきた今、この曲の長くて重い第1楽章に、細かいアクセントやギミックを施していくのがトレンディなやり方だが、このトレンドに正しく乗って、アフカムもこの作品を軽く鋭く組み立てていく。 (※もう何度も書いているが、80年代から90年代の録音ではこの楽章を「とにかくもやっとさせよーぜ/^q^\」ってのがトレンドだったので、まさにタコ10暗黒時代としか言いようがなく、実際に何人かのイギリス人指揮者の録音は本当にひどい。意味もない「意味ありげ」の罪は重いよ。) 第2主題、フルートのアーティキュレーションの彫り込みが深くて嬉しい。ここがぼんやりしていると全曲を聴き通していく気が失せてしまうからね。 また、楽章終結部の茫洋とした風景を、あえてそれまで以上のヴィヴィッドな音色・輪郭のくっきりさを木管に要求して彩っているのもなかなか良いセンスと思う。GMJOの1stファゴット氏がたいへん「語りたがる」名手なのも、この曲であれば全体の完成度に寄与していますよね。 第2楽章は、GMJOが巧すぎて笑う。ユースオケで腕も立つと来たらこの楽章は燃えて燃えて仕方がないだろうし、アフカムもわりと非情なテンポを要求しているんだけど、実際はひょいひょいっと軽く捌いておしまいっ、てのが可笑しい。クラシカルな趣きさえある。第4楽章も同じ傾向。 + + + ところでこの録音でもっとも素晴らしいのは、実は第3楽章である。この楽章に頂点を持ってきている演奏は最近の記憶にはない。頂点となる内容を持つ楽章ながら、これまでほとんど誰もそれに気づかなかったということか。 「謎めいた雰囲気」という、この楽章に対する使い古された表現では片付けられない、呪術的な、何かどろっとしたものを、アフカムの曲づくりから僕は感じる。それは打楽器や、弦楽隊のpizzのリズムの取らせ方があまり西洋音楽的ではないからじゃないかという気がするんだよね。ごくごくわずかだけれどもそれらの音符だけが前に繰り上がって、西洋音楽の音価の秩序を多少なりとも侵している。 それでいて中間部では、急に慣れ親しんだソヴィエトの空気に先祖返り。中間部での烈しい揺れ動きと追い込みぶりは、こりゃまるでコンドラシンじゃないか。。 どっちがアフカムの本質だろう。どっちであっても最近の若手指揮者のメインストリームからはちょっと離れている。面白えー。 + + + GMJOのアシスタント・コンダクターに就任しているアフカム(GMJOの公式サイトでは音楽監督アバドの隣にちゃんと1コーナー持ってる)。これからどんな音楽をやっていくんだろう。
2012年1月25日、シベリウスのオーソリティとして名高いフィンランド人指揮者、パーヴォ・ベルグルンドが亡くなった。82歳。ベルグルンドは左手にタクトを持つ数少ない指揮者のひとりとしても有名だった。
新聞記事風に書くと、以上。おしまい。 でもさあ。僕は実はベルグルンドのシベリウスを聴いたことがない(なにしろシベリウスが自分にとって大切な作曲家だと気がついたのがごく最近だ)。タワレコから再発売された3回目のシベリウス全集を慌てて買ったんだけど、僕にとってのベルグルンドはショスタコーヴィチを巧妙に振る20世紀の重要な指揮者、というイメージなので、せっかくならショスタコ指揮者としての切り口から追悼文を書こうと思う。 + + + 【HMV CLASSICS(EMI)/HMV5738582】<ショスタコーヴィチ> ●交響曲第9番変ホ長調 op.70 ⇒マリス・ヤンソンス/ オスロ・フィルハーモニー管弦楽団 ●交響曲第10番ホ短調 op.93 ⇒パーヴォ・ベルグルンド/ ボーンマス交響楽団 本当は、2001年5月にベルグルンドがベルリン・フィルに客演した際の第8交響曲が物凄いライヴなのだが、NHK-FMを録音したMDがいまは手元にないので、代わりにCDの第10交響曲について書きましょう。 (※ジャケ絵は小さくて見にくいですが、セルゲイ・プリセキンの "All power to the Soviets"(1988)という作品>ソヴィエトに勇気を!か。くすくす。ラファエロ《アテネの学堂》の完璧なパロディだが、プラトン+アリストテレスとは異なり、中央のレーニンとスターリンは全然対話してない。) ベルグルンドが振るショスタコーヴィチは実に冷たく醒めきっていて、そのうえで、楽器バランスの取り方がどことなく変だ。 親しみ深いコンドラシンやロジェストヴェンスキーのようなソヴィエト流でも、ハイティンクやプレヴィンのようにシンフォニックなアプローチでもない、どうにも聴き慣れない清涼なバランスでトゥッティが鳴る。 この「変な」バランスは、大きく盛り上がる局面より、静謐な瞬間をこそ聴かせようというベルグルンドの考えに立脚しているような気がしている。 第1楽章の静かな場面なんか弦楽器のコントロールが本当に精緻だし、管楽器もオルガンみたいに鳴って、ショスタコーヴィチがまるでカンチェリのように聴こえるという逆流が発生してるんだよね。 しかもその後、響きが爆発してもコントロールが失われないのが巧妙です。客観的な緊張感が全体を覆うことになるので、この楽章終盤の静かで空虚なワルツもすっかり性格性を喪って、風がびょうびょうと吹きすさぶ夕方の荒野のような雰囲気。 第2楽章の清浄な緊張感はまったく不思議。第3楽章はモーツァルトみたい。 + + + この交響曲は、21世紀に入ってからますます若手指揮者の興味を強く喚起し続けているが、彼らの演奏からは、俺を刻印したい、という欲求が強く臭いすぎて辛いときもある。無為無策の「ふいんき」重視タコは最悪だが、一方で、ベルグルンドの遺した「静かな」録音から彼らが学ぶべきことはあまりにも多い。 R.I.P.
ワイセンベルクも亡くなっている。
僕は彼の熱心なファンではないどころか、僕と彼の間に在ったのはたった一枚のアルバムでしかない。しかしその一枚が僕のなかで絶対的な位置を保っているわけだから、ワイセンベルクについて何も書かないなんて許されないよ。 + + + 【DGG/POCG7097】<ドビュッシー>●版画 ●組み合わされたアルペジオ ●ベルガマスク組曲 ●子供の領分 ●亜麻色の髪の乙女 ●喜びの島 ●レントより遅く ⇒アレクシス・ワイセンベルク(Pf) その一枚というのは、ワイセンベルクが1985年にDGへ録音したドビュッシー作品集です。 このアルバムは、僕のクラ歴のごく初期に、父親のライブラリからほとんど無理やり譲ってもらったものであると同時に、僕が初めて聴き込んだドビュッシーのピアノ作品集でもある。 刷り込みというのは恐ろしいもので、以来ミケランジェリもフランソワもクロスリーも、ワイセンベルクのように心に響くことがない。唯一モニク・アースが別のドアから優しく入り込んできたが、このことからしてもよくわかるのは、ワイセンベルクのドビュッシーがフォルムの強靭さ、しなやかさではなく硬度の点で、他のピアニストの追随を許さないのだろうということだ。 ケークウォークのクソ真面目なエッジ、きりりと冷えた金属線が交錯し林立する喜びの島。ここに萌える。これはドビュッシーの聴き方として間違ってるだろうか。間違ってるかもしれない。でもいいんだ。いつまでも、このアルバムで僕はワイセンベルクのことを覚えているだろう。
何度か書いているが、この数年、明るく美しくちょっと哀しい旋律に奇妙に惹かれる。ヨハン・シュトラウスやレハール、コルンゴルト、ワイルにコール・ポーターまで、昔は大して興味がなかった作曲家たちに心を揺すぶられてたまらない。
+ + + 【DGG/00289 479 0050】<LIVE AUS DER SEMPEROPER - The Lehár Gala from Dresden> ●《ジュディッタ》~ワルツ ●《ジュディッタ》第1幕~〈Freunde, das Leben ist lebenswert〉 ●《パガニーニ》第2幕~〈Liebe, du Himmel auf Erden〉 ●《ルクセンブルク伯爵》~間奏曲 ●《フリーデリケ》第1幕~〈Die Mädels sind nur zum Küssen da〉 ●《微笑みの国》第2幕~〈Wer hat die Liebe uns ins Herz gesenkt〉 ●《野ばら》 ●《パガニーニ》第3幕~〈Wer will heut Nacht mein Liebster sein〉 ●《パガニーニ》第2幕~〈Gern hab' ich die Frau'n geküsst〉 ●《パガニーニ》第2幕~〈Niemand liebt Dich so wie ich〉 ●《理想の夫》序曲 ●《エヴァ》第1幕~〈Wär es auch nichts als ein Augenblick〉 ●《ロシアの皇太子》第3幕~〈Warum hat jeder Frühling, ach nur einen Mai〉 ●《ジプシーの恋》第2幕~〈Zigeuner-Marsch: Endlich, Jószi, bist du hier〉 ●《ジプシーの祭り》~バレエのシーン ●《微笑みの国》第2幕~〈Dein ist mein ganzes Herz〉 ●《この世は美しい》第3幕~〈Ich bin verliebt〉 ●ヨハン・シュトラウス:《10人のポルカ》op.121 ●オスカー・シュトラウス:《Eine Frau, die weiss was sie will》~ 〈Warum soll eine Frau kein Verhältnis haben?〉 →アンゲラ・デノケ(S)、アナ・マリア・ラビン(S) ピョートル・ベチャーラ(ベチャラ)(T) →ドレスデン国立歌劇場合唱団 →クリスティアン・ティーレマン/ドレスデン国立歌劇場管弦楽団 このCDはタワレコで視聴して、一発で購入を決めた一枚である。 それにしても、このブログにティーレマンが登場するとはね!! ティーレマンはセルフブランディングが本当に巧い。最近彼がVPOを振って出したベートーヴェンなどは、店頭で掛かっているのを聴いて「オエーッ」って感じであるが(お好きな人、ごめんなさいね)、かつてのバレンボイム以上の上手な手腕で、ますます保守層を味方に付けていく。 ティーレマンの大時代的で粘度の高い音楽づくり、混濁を気にしない強烈な主旋律重視、メロディ原理主義は、レハールを当然のように燦然と輝かせる。シュターツカペレ・ドレスデンを豊満に、また傲然と鳴らして素敵だ。Ah, Heil Christian!! …はっ。毒にやられてる。 でも、そのような叫びが身体から湧き上がってきてしまうのだ。 ティーレマンが振りまく毒エロの頂点は、トラック6《微笑みの国》からの二重唱、そして続く《野ばら》かなと思う。ベチャーラとデノケのデュオは金襴緞子の趣き。甘みのある液体がぽた、ぽた、と滴り落ちるような、何とも言い表せないエロい音楽をさんざん聴かされてはこらえきれません。このようにしてあたしもティーレマンを翼賛することができて光栄でございます。 ことほど左様にレハールも佳いんだけど、最後の、たぶんアンコールで取り上げられたオスカー・シュトラウスも物凄いです。とても2011年の今とは思えない。1930年代のウィーンはこのような猛毒に満ちていたのであろう。
クラシックを聴き始めたころは、シベリウスはすなわち、自室の外のクマザサや地吹雪と同義であったために、敢えて取り出して聴く音楽ではないと思われて仕方がなかった。また、その意味で極端に具象的な音楽であるものよなという気もし、人々がなぜシベリウスにそれほど惹かれるのかわからなかった。
気候の烈しい北国に生まれて育った18年間で自分の中に蓄積されていた、厳しい自然への親近感や、その裏返しの恐怖のようなもの。いつしか、焙煎した珈琲豆から炭酸ガスが抜けるみたいにしてゆっくりとそれらが失われてゆき、今度は、都会暮らしの湿気やある種の臭みが、僕の内部の空いた組織に染み込んできた。あれほど当たり前に周囲にあった山や森への憧れが、近年は特に高まっている(僕がほとんど毎年のように北海道に出かけてしまうのは、たぶんそのためだ)。 そうした惨状下で、シベリウスの音楽はもしかすると生涯の伴侶となるべき存在なのかもしれぬという考えが、頭にまとわりついて離れない。ことに、都会に暮らす苦しみを和らげてくれるのは、バッハやショスタコーヴィチではなかった。 + + + 【DECCA/POCL1089】<シベリウス> ●交響曲第4番イ短調 op.63 ●交響曲第5番変ホ長調 op.82 ⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/ サンフランシスコ交響楽団 そんなわけでブロムシュテットのシベリウスを初めて聴いてみる。 サンフランシスコ響との共同作業ではシューベルトの5番&8番が(特に5番の出来が)あまりにも素晴らしく、今でも隠れてこっそり聴いているのだが、このシベリウスもエッジが厳しく立ってて気持ちが良い。 Amazonのレヴューに「もう少し母性的と言うか、優しさや温かさと云った表情も出せていれば理想的な定盤になっていたことだろう」って書いてあって、まさしくそれがこの演奏の特徴を簡潔に言い当ててると思った。自然について受け手が何を言おうが思おうが、自然は意に介さない。シベリウスもそうじゃないか? じねんに、さらさらと聴こえるようにブロムシュテットが巧みに響きを束ねている4番。けっして肥大しない非人間的な推進力、自律性が、この人の音楽を決定的に高級なものにしている。もちろん、響きをストイックに束ねるのを得意にする指揮者はほかにも大勢いるのだが、その一歩前の、味付けされていない素材まで丁寧に見せてくれるひとはほとんどいないんじゃないかと思う。 まれにハイティンクの演奏でそれを感じることがあり、しかしブロムシュテットはだいたい何を振ってもそのように仕上げるのが凄い(9月のN響《新世界から》も、ブルックナー味のソースが掛かっていたにせよ、素材の繊維は溶けてしまわずにちゃんと主張してた)。唐突に途切れる第2楽章から、旋律のかたちも定かでない第3楽章にかけて、そして曇天に霙の第4楽章後半など、誰かが何かを感じ取る前の、一次資料としてのクラングがひゅうと流れていく。 5番もまったくアンキャッチー。険阻だが、昇ってきた陽は暖かい。 【VALOIS/V4642】<ファリャ> ●バレエ音楽《三角帽子》G.53 ●クラヴサン協奏曲 G.71 →トニー・ミラン(Cem) ⇒エドモン・コロマー/スペイン国立ユース管弦楽団 素晴らしい。たいへん素晴らしい演奏。 自分が《三角帽子》に期待しているもののすべてがここに入っている。すなわち、微妙に緩いアンサンブル、妙に艶っぽい楽音、そして、いざという小節での脊髄反射的な跳躍感など。これまでに聴いていた巨匠指揮者+ガチなプロオケによるどのような録音にも増して、このディスクからはそうした要素がビンビンと伝わってくる。 + + + 〈粉屋の女房の踊り〉では、左右から音の波しぶきをかぶるような豊かな揺らぎを感じるし、〈ぶどう〉で聴かれる管楽器たちのコケティッシュな素振り、一転してセギディーリャでは空気がしっとりとして、夜の香りが漂ってくる。 〈粉屋の踊り〉でパーカッションが激しい打ち込みをやらかせば、負けじとストリングスが鮮やかなアッチェレランドをかます。内部に競奏感覚があるヴィルティオーゾなユースオケって最強の存在ではないか? 〈代官の踊り〉での強烈なスパーク、そして、ホタでの弾けるような身体性。《ラ・ヴァルス》の最後みたいにして混沌と熱狂のうちに幕が下りる。いいねえ。 クラヴサン協奏曲も素敵だ。この曲はプーランクの亜流のように鳴ってしまいがちだが、ユース管の首席、及びゆかりの人物たちが組んだこのアンサンブルでは、楽音の生っぽさがより強調されて、土の香りと苦みと甘みを兼ね備えた最高の野菜サラダをシャクと囓るような幸福が感じられるのであった。 楽員たちの腕の良さももちろんだけど、エドモン・コロマーという指揮者の豊饒な色彩感覚も得難いものだと僕には思われる。これだけ烈しい色をぶつけ合って、混ぜずにちゃんと並立させてるのだ。ブラヴォだよほんとに。 何がこの録音をここまで高めているんだろう。同じくコロマーとスペイン国立ユース管でVALOISに録音してるらしい《恋は魔術師》や《スペインの庭の夜》も、いつか聴いてみたいものだわいな。 【DGG/00289 477 5353】<ラヴェル> ●Pf協奏曲ト長調 ●左手のためのPf協奏曲ニ長調 ●ソナチネ ●高雅にして感傷的なワルツ →ポール・パレー/フランス国立放送管弦楽団 ⇒モニク・アース(Pf) とっても佳い演奏です。知らなかったあ。 ラヴェルの協奏曲でいつも聴いてるロルフ=ディーター・アレンス+レーグナー/ベルリン放送響の録音は、オケの音色はほとんど最強なんだけど、ピアノが微妙な瞬間も多々あって、なんとかならないものかしらんと感じていたのだが、ここへ来てやっと美しいバランスの演奏に出会うことができた。 + + + ト長調のほう。 アースおばさんのきめ細やかさな音色は、彼女のドビュッシーを何度も何度も何ぁーん度も聴いた自分には、ごく当たり前に染み入ってくる。ばあちゃんの味噌汁という感じだ。ドビュッシーのプレリュードと異なるのは、そこでタッチのさらなる怜悧さが追求されているところかな。 パレーのサポートはちょっぴり癖がある。ラヴェルが本来的に抱えている「かたち」のエグさエロさをわりにストレートに演出することで、ドビュッシー風に流れるのをよく防いでいると思う(蛇足だけど、パレーはドビュッシーでも「ドビュッシー風を避ける」ので、結果としてあの剛毅な不思議音楽ができあがる)。 第2楽章の複調的階層を、一部の管楽器をかなり強調することで炙り出したり、第3楽章ではピアノからゴジラ主題を受け取ってゾワゾワと蠢かしたり、この指揮者ならではの細かさは枚挙にいとまがない。 そして、より素晴らしく、理想的な演奏なのが「左手」。 ラヴェルの管弦楽作品のなかで最もラヴェルが「素」の状態なのが「左手」だと思っているんだけど、ほかの作品のお洒落な外側に影響されて、この協奏曲の岩山のような荒々しさはあまり顧みられない。でもこの録音は違う。 ここでのアースのタッチは野人のようであり、野人が岩山を駆けるような軽快な運動性と、同時に、野人が感じているシンプルな哀しみのようなものにもちゃんと気を配っていて、軸がぶれない。 パレーは岩山を蔽う黒雲や稲妻のような烈しい伴奏をつける。だいたい模っ糊り模糊模糊としてしまうこの曲のオケ部からちゃんと「かたち」を見つけ出して、いつものように鋭角的に仕上げている。藝術を感じる。 + アンコール風に置かれた2曲。パレーもオケもいなくなってアースおばさんの肩の力が抜け、親しみ深いドビュッシーの薫りがふあふあと立ちのぼってくる。「ワルツ」が本当に高雅で感傷的に聴こえる演奏はけっして多くない。 < 前のページ次のページ >
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