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スラヴァ×セイジのモダン・タイムス

結婚してから生活のスタイルが変わり、難しい顔をして音楽をじっくり聴きながらPCの前に長時間座っているのが難しくなった。これではブログのエントリを生み出すことができない。できないが、したい。

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c0060659_22515769.jpg【Erato/WPCS22184】
●プロコフィエフ:交響的協奏曲ホ短調 op.125
●ショスタコーヴィチ:Vc協奏曲第1番変ホ長調 op.107
→ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)
⇒小澤征爾/ロンドン交響楽団

HMVのセールで756円くらいになっていた。安いね。
小澤とロストロポーヴィチ、という組み合わせがいかにも昔風に見えるのはどうしてだろう。ところが組み合わせから受ける印象に比べて、ここに録音された演奏実践は意外にもスマートで聴きやすい。ひょっとすると「モダン」かもしれない。

まずロストロポーヴィチが、一般的にイメージされるような鈍重さをあまり感じさせない(僕の脳みそに残っている指揮者としてのロストロポーヴィチがテキストの前面に出てしまっているのだろうなあ)。
80年代後半にチェロを持ったときのロストロポーヴィチが敏捷ですらあった(!)ことを、この録音が証拠として伝えている。少し強引な歌い回しと鋭敏さがミックスされたマチエール、これがモダニズムの薫りをそのまま宿しているわけですが、たぶん今世紀の若いチェリストが同じことをやろうとすれば、そればメタな視点からしか獲得できないはずなのであります。

それから小澤だけれども。
なめらかに整えようとする圧力と、ガサガサに掘り下げようとする圧力の両方から常に引っ張られて、その強い張力や緩んだときの対処にいつも悩まされているような気がするのです。このひとは。

ところでショスタコーヴィチの楽譜は、実は小澤の(僕が勝手に想像している)悩みに対して意外によく合致するのではないかと思われて仕方がない。
とある両側の圧力に「悪意のある器用さ」で対応したのがショスタコーヴィチとすれば、小澤征爾は悪意なんて考えることもなくどこまでも真摯に楽譜をなぞる。それによって、髭のグルジア人とその後継者を横目にしていたショスタコーヴィチの悪意が打ち消されてしまい、ただ器用なスコアがイコールの向こう側に浮かび上がるではないですか。ロンドン響のつるっとした音響はここで完璧にプラスに働いています。

小澤は結局、ショスタコーヴィチを彼のキャリアのなかに置かなかったことが少なくともレコード史的にはわかっているけれど、このようにニュートラルな器用さがばっちり表面に出てくるショスタコーヴィチ演奏というのは実はあまり思いつかないんである。皆さんはどうでしょうか?アシュケナージ?ハイティンク?いやいや、少し違う。何でもない何か、である。

2010年代は、ショスタコーヴィチの悪意に指揮者の悪意を掛け合わせた悪意2乗のゲテモノ演奏がはびこっている。そんなときに僕たちは小澤の器用で真摯な運転に乗った、ナイーヴで力強いロストロポーヴィチの歌を懐かしく思い出すのかもしれません。これがモダンのひとつの正体。

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プロコフィエフについて書く時間がありませんでした。追記できるかな?


by Sonnenfleck | 2015-06-03 23:21 | パンケーキ(20)

ぼくのクライズラー&カンパニー

c0060659_22571266.jpg【BIS/CD-1196】
<クライスラー>
●ウィーン風狂想的幻想曲
●中国の太鼓 op.3
●蓮の国
●ジプシー奇想曲
●ファリャ/クライスラー:《はかない人生》~スペイン舞曲第1番
●グラナドス/クライスラー:スペイン舞曲
●アルベニス/クライスラー:タンゴ op.165 No.2
●ジプシーの女
●ヴィエニャフスキ/クライスラー:カプリース 変ホ長調
●道化役者のセレナード
●オーカッサンとニコレット
●ロマンティックな子守歌 op.9
●ドヴォルザーク/クライスラー:スラヴ舞曲第2番 op.46 No.2
●同:スラヴ舞曲第16番 op.72 No.8
●同:スラヴ幻想曲
●愛の悲しみ
●愛の喜び
●ウィーン奇想曲 op.2
レオニダス・カヴァコス(Vn)+ペーテル・ナジ(Pf)

僕がクラシック音楽について初めて「これはクラシック音楽のようであるぞよ」と認識したのは、たぶん、葉加瀬太郎が率いていた「クライズラー&カンパニー」が編曲演奏するクライスラーの曲たちを子ども時代に聴いたときなのである。だからいま、葉加瀬太郎がどんなに脂ぎった太めのおっさんに変容していたとしても、彼への感謝の念が薄れることはない。

やがてクラシックへの傾倒が強まるにつれ、ご多分に漏れずそうしたものを小バカにし始めた僕は、それから後、クライスラーの小品を集めたCDを1枚も持たないで暮らしてきた。でもいま一度立ち返ってみる。

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以前も書きましたが、現役最強のヴァイオリニストはテツラフとカヴァコスだと思っています(2人は1歳違いなのよ)。抜群の切れ味を誇る最新鋭の超硬工具のようなテツラフに対して、カヴァコスはまったくその逆、20世紀前半の西欧のヴァイオリニストのように艶やかで乾いた貴族趣味を感じさす気品ある唄い口が魅力。

どの曲がどんな演奏で、という感想文はこうした音盤には似合わないだろうから、カヴァコスの銀線のように細身の美音によって織り上げられていく総体の印象を愉しむのがよい。ウィーンのお澄ましからスペインに旅し、そこからひらりと翻って後半のスラブ趣味から、最後はまたウィーンに回帰していく、この章立て。しかしそれでも、スペイン=アラブ風味が5曲続く地区ではカヴァコスのボウイングが特に冴えて、伊達な仕上がりが聴かれるようには思うんですけどね。

このディスクはカヴァコスのディスコグラフィの比較的初期に録音されたものだと思うんだけど(ジャケットのセンスもどこか冴えない)、クライスラーがたくさん作った例の擬バロック様式の作品がチョイスから漏れているのが面白い。ヨーロッパの空間を自在に移動するアルバムに、時間の軸を導入しないことによってコンセプトをくっきりさせる。洒落ていますよね。

やっぱり買ってよかったな。小さめの音で、よく晴れた土曜日の朝に聴きたい。
by Sonnenfleck | 2013-05-28 22:58 | パンケーキ(20)

夢十八夜

不思議な話をします。

ある朝、目覚めたら、枕元にライヒの《18人の音楽家のための音楽》のCDが置いてあった。僕は寝る前に絶対にそんなことはしていないと断言できるし、僕が寝ている間にそんなことをやらかしそうな他の生物も部屋にはいなかった。僕は寝ぼけても多少は記憶が残るたちなんですが、一切、何も覚えていない。

不思議に思って見遣れば、そのCDが挟まっていたあたりの積ん聴きCDタワーに若干崩れが見られる。現実的には自分で寝ぼけてCDが必要になり、適当に(もちろん夜中なんだから部屋は暗い)たまたまライヒを選んできたのだろうと思う。
そう思いたい。

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c0060659_6155635.jpg【ECM/ECM1129】
●ライヒ:18人の音楽家のための音楽
→スティーヴ・ライヒ(Pf, Mb)ほか

《18人の音楽家のための音楽》を初めて聴いたのは最近のことです。
加藤訓子さんの驚くべきライヒ作品集にすっかりハマった僕は、いよいよライヒ自身の古典的な演奏で彼の作品を聴いてみようと思い立ったのだった。そしてみんなが誉めているこの「名盤」に手を出し、打ちのめされ…なかった。最初は。

Linnの極上にクリアな録音で加藤さんのマリンバやスティールパンに淫した愛好者からすれば、18人樂でカウンターポイントシリーズと同じ感激に浸るのは難しかった。編集の荒々しさ、楽音のハンドメイド感、そして何より、激しく自己の存在を喧伝するかのようなその「長さ」などが、ECMのドライな録音と相俟って、一昔前の流行りものに触れるみたいで少し埃っぽかった。

そう何度も聴くことなくiPodから消去されることになった18人樂。
でも。あの夢十八夜のあと、僕はもう一度この曲に向き合っている。

より短い作品であったカウンターポイントシリーズのことを考えてみると、たぶん僕は繰り返しの回数や加藤さんの演奏の変化を聴きながら「記憶」していたんではないかと想像する。
ミニマルミュージックが「記憶」されてしまうということが、犬が繋がれ鯉が生け簀に閉じ込められるのと同じであるとすれば、何度聴いてもどこをさまよっているのか理解できない18人樂には、野生のライヒとして永遠に狎れぬままにしておくべきなのかもしれない。そしてたまに会いに行く。
by Sonnenfleck | 2013-04-04 06:18 | パンケーキ(20)

L'étoile de la danse

c0060659_23165292.jpg【EXTON/OVCL-00472】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ長調 op.43
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団

レコードアカデミー賞大賞!の惹句が、わりとマジで気になって購入してみたのです。日本のオケ録音に大賞が出たことについて、陰謀論者は疑い深い視線を投げかけるのかもしれないけれど、僕は純粋に興味がある。

録音で聴いてきたインバル/ウィーン響のショスタコは、僕にとっては何か、言いたいことを言い切っていないような、噛みしめても繊維質がボソボソと口に当たるような生煮えの雰囲気を感じていた。
ところがインバル/都響のショスタコは、その半端な印象をしなやかに投げ飛ばし、もってインバル流レシピの決定版たるを得てます。ほんとです。

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ここに録音されたタコ4は、他のどんな演奏にも似ていない。

この演奏は、ザミャーチンの宇宙船インテグラル号のようなディストピア的全能でもなければ、社会主義リアリズムの泥をぼとぼと飛ばすようなどん底でもない。この演奏が表現しているのは、絶望的に乾ききった新古典主義バレエ。個人的にはものすごいショックである。
インバルはこういうショスタコーヴィチがやりたかったんだなあ。それはニュートラルかつ上手で品の佳い音のするオーケストラを絶対的に必要とする。たぶんオーケストラは「機能的」みたいな服すら脱ぐことが求められて、いわんやアクの強いウィーン響では十分にインバルの意志を実現することができなかったのだろうと思う。都響は理想的な道具なんだろうなあ。納得納得。

第1楽章で聴こえてくるのはストラヴィンスキーの遠い残響。アヴァンギャルドが支配する直前、帝政最末期のストラヴィンスキーが生み出していたバレエのように、露西亜の呪術的民話を内包しつつも肌を切り裂きそうな乾いた風が吹き抜ける音楽。この交響曲をマーラーからもアヴァンギャルドからも遠ざけた演奏で聴くのはこれが初めてかもしれない。
バレエを想起させられるのは、インバルが都響に対して命じている、恣意性を排除した音色とリズム感が完璧にハマっているからだろう。
もっとも強烈だったのは、あのプレストのフーガが「優雅」だったことである。いちばんしっくり来る形容詞がよりによって「優雅」だよ?

じっとりしつこいマーラーをやらせると今では世界で一二を争うインバルだけど、マーラー成分が混入しまくってる第2楽章は意外にふわとろ系。バレエのロマンスシーンかというくらい、拍節感を維持しつつふんわりした音響で支配する。

第3楽章もやはり第1楽章と同じ傾向。苛烈な音響や粗雑なアゴーギクは退けられ、キリッと引き締まったリズムと、冷たく乾いた優雅なマチエールで音楽が展開していく。途中の木管隊による斉奏の、どこのものでもない中庸な美しさには呆然としちゃいますよ。これが無個性無個性と貶められ続けてきた日本のオーケストラの「個性」なのかもしれないな。だとしたらこんなに嬉しいことはない。

この楽章、いつもペトルーシュカの最終場・謝肉祭を彷彿とさせるんですが、インバル/都響のこの演奏に振り付けてバレエを上演したら、さぞかしクールだろうな。作りものじみててさ。
by Sonnenfleck | 2013-03-13 23:18 | パンケーキ(20)

羊の腸はレニングラードの夢を見るか

c0060659_23564722.jpg【Hänssler Classics/CD98.644】
<ショスタコーヴィチ>
●弦楽四重奏曲第3番ヘ長調 op.73
●弦楽四重奏曲第4番ニ長調 op.83
●弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調 op.108
→メタ4


2004年のショスタコーヴィチ国際弦楽四重奏コンクールで第1位を受賞した弦楽四重奏団・メタ4。ライナーノーツの情報によると、彼らの楽器は全員が18世紀のオリジナルとのことである。
ということを書くと、僕らは彼らの音をボッケリーニやハイドンの器でイメージしてしまいがちなんだけど(事実、彼らのデビューアルバムはハイドンみたいだが)、なんとまあ、彼らが取り上げたのはショスタコーヴィチ。これは彼らの出自であるコンクールを踏まえるとまったく正しい挑戦じゃないかと思うし、古楽器タコには純粋に興味がある。

さて、第3番の最初の音を聴くと、どうもこれは全員がガット弦を張っているとしか思えない。もしボウイングだけでこんな音を出しているのならけっこう驚きだけど、たぶんそうじゃない。彼らの楽器を考えるとガットが自然な選択。

ショスタコーヴィチの音楽は具体的な何かを想像させることが多い。そして時には具体性の高まりが汚濁になったりするのも魅力のひとつ。でも、メタ4さんたちの演奏を聴いていると、もっと透明感のある音楽に変貌を遂げているので面白い。古楽タコの愉悦。これは嘘っぱちかもしれないけど、つまらない真実より魅力的な嘘がより善かったりするのが藝術ですよね。

唯一、遊びで弾いてみたことがあるのが第7番の第1楽章なのだけど、ここも古楽由来な感じのサービス精神にあふれる。アーティキュレーションのあちこちに楽しいこだわりが潜んでいるいっぽうで、その楽しい発音の瞬間、他のパートがさっと最適化されてカチリカチリと前に進んでいく。クリスティアン・バッハみたいに。

第3楽章でフーガ風の展開のあと、チェロが中心になって威圧的な音型を弾くところでも、ぜんぜん圧力勝負じゃない。彼らは汚濁を武器にしないんである。そのままユニゾンで第1楽章の主題を取り戻し、ワルツを踊って終わる。カチリカチリ。

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昔、許光俊が「弦楽四重奏曲は音のぶつかり合いが汚い、指揮者によって調整されるべき」というような趣旨の奇妙な言説を披露していたけれど、許センセはガットによるカルテットを聴いてもなおそのように思うんでしょうかね。
by Sonnenfleck | 2013-01-16 00:07 | パンケーキ(20)

新世紀プーランク慕情

c0060659_6211287.jpg【Zig Zag Territories/ZZT110403】
<プーランク>
●2台Pfと管弦楽のための協奏曲ニ短調
●《フランス組曲》
●《田園のコンセール》
→クレール・シュヴァリエ(Pf)
 カテジナ・フロボコヴァー(Cem)
⇒ジョス・ファン・インマゼール(Pf)/アニマ・エテルナ

インマゼールのモダンシリーズのなかで、最強のスマッシュヒットと思う。
革命的なプーランク。

まず2台ピアノのコンチェルトを耳にして、ぶったまげてしまった。
それは、プーランクの「愉快」や「諧謔」だけでなく、そうしたアトモスフィアを生じさせようと意気込んだ作曲家の設計図面までつまびらかにされるような、ほとんど残酷と言ってもいい細かな作り込みがインマゼールによって展開されているからだ。そのせいで音楽は極端に重層的になるし、プーランクの―たぶん彼の本質であるところの―宗教的厳格までもが炙り出されている。

ストラヴィンスキー趣味の第1楽章・第3楽章では、これまでこの曲には存在しないと思っていた陰翳が、ふあさふあさと五線譜の隙間に降り積もっている。それはインマゼールが非情に微細なフレージングをこれでもかと積み重ねた結果であるが、それがために、プーランクらしいフラットな感興が損なわれていると感じる人がいてもおかしくはない。それぐらい凡百のプーランクとは異なる。

特に第1楽章の終結部では(しかしおそらく、これは1896年製と1905年製エラールのおかげでもあるが)、仄暗いなかから非情に奇妙な「何ものでもない音楽」が立ちのぼってきて戦慄する。直後、第2楽章の擬モザールに救われました。

《田園のコンセール》も、ずいぶん厳しくて清潔な風貌の音楽に姿を変えている。第1楽章の序奏なんか、まるでカベソンでも聴いているかのようだ。

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インマゼールもここまで来たのなら、いっそショスタコーヴィチまで駆け抜けてほしいもんです。第1、第6、第9交響曲、あるいはぐるっと一周して死者の歌や第15交響曲。それからもちろん弾き振りでピアノ協奏曲第1番。鼻に黄金時代にボルト(このへんは組曲があるんだからちょうどいい)。インマゼールのスタンスが通じるこれらの作品たちはきっと著しく成功するだろう。
by Sonnenfleck | 2012-11-12 06:22 | パンケーキ(20)

続|オハン・ドゥリアンは誰でしょう

c0060659_6195972.jpg【PHILIPS(TOWER)/PROC1152】
<ショスタコーヴィチ>
●交響曲第12番ニ短調 op.112《1917年》
⇒オハン・ドゥリアン/
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
●《ステパン・ラージンの処刑》op.119
⇒ヘルベルト・ケーゲル/
 ライプツィヒ放送交響楽団+合唱団

バイエルン放送響とのタコ10海賊盤が驚愕だったオハン・ドゥリアン。タコ12には正規盤があって、塔様が覆刻くだすった。

工藤先生のサイトを拝見するかぎり、1961年のムラヴィンスキー盤に続く「東側系」2例目の商業録音として、このドゥリアン盤にはまず大きな価値があるように思う(DECCAのロゴが無粋)。起用されたのがソヴィエトオケじゃなく、コンヴィチュニーからノイマン時代の旧いゲヴァントハウス管というのもなにか好い。

あの滅茶苦茶な第10交響曲からこの指揮者を知った人間からすると、ドゥリアンのここでの音楽づくりは、一聴すると拍子抜けするくらい格調高い。
オケの腰の重さを十分に理解したうえでの静かな第2楽章。この森閑とした趣きはコンヴィチュニーのショスタコーヴィチによく似ているし、第3楽章なんかムラヴィンスキーの忠実な副官みたいにして、冬宮に向け整然とした砲撃を喰らわせている。それでいて第4楽章は、勝利の金管がまるでブラームスみたいな渋~い音色を投げ掛けてきてたまらなく愛おしい。そして格好いい。

むろんドゥリアンはこの交響曲の本質をがっちり見抜いて、このように仕立てている。間違いなく。
第12交響曲は、ショスタコーヴィチの体制萌え系交響曲の総決算である。最近思うようになったのは、5番とか11番、12番みたいな作品を懐疑の目で解剖するのは「粋ではない」ということだ。男の子が巨大な建築物や重厚なメカに目を輝かせるような感覚は、簡単に消えるものではない。内面の比較的表層部分が感じていることを、作曲家が交響曲にしてはいけない決まりでもあるんだろうか。

並列的に何枚も舌を持ってるんじゃなく、レタスの葉っぱみたいに幾層も重なる別々の(≒同一の)個性が作曲家を運営していたのだ。今はそう思っている。

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《ステパン・ラージンの処刑》は実は初めて聴きました。なるほど。バービィ・ヤールの第6楽章に収まっててもおかしくないし、第14交響曲のプロトタイプとも言える。聴けてよかった。ケーゲル特有の寒々しい音色もバッチリ。
by Sonnenfleck | 2012-10-30 06:21 | パンケーキ(20)

世界の中心でЯ настоящий русский!と叫んだけもの

c0060659_22403568.jpg【EMI(TOWER RECORD)/QIAG50084】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第13番変ロ短調 op.113《バービィ・ヤール》
→ディミテール・ペトコフ(Bs)
→リチャード・ヒコックス/ロンドン交響楽団合唱団
⇒アンドレ・プレヴィン/ロンドン交響楽団


武田泰淳の最後のエッセー集『目まいのする散歩』(中公文庫)を読んだ。最晩年のベートーヴェンのいくつかの作品のような、透徹したフモールが行間からこんこんと湧いていることに、僕たちは気づかされる。そしてやはりあの老楽聖と同じような、自分自身を含めたありとあらゆる事象を他人事として、「―でないものとして」眺める冷徹な視線(あるいは可笑し味)がこのエッセーの主成分なんである。

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プレヴィンは第1楽章をかぎりなく「モダン」に、メタリックに響かせる。このようなマチエールはたとえばハイティンクの録音とは微妙に異なるし、あるいはここ何年かウェブラジオで耳にする何例かのすっきりとしたライヴとも違っていて、コンドラシン(世界の中心で Я туточки!と叫んだけもの)のカウンターパートとしての西側録音の金字塔と言っていいのだろう。

この詩をものしたエフトゥシェンコは「ユダヤ人でない/ユダヤ人ではないがゆえにユダヤ人として反ユダヤ主義者に憎悪される」という視点からこの詩をものし得たのだから、ロシア人でない指揮者とオーケストラと合唱団によって紡ぎ出されるショスタコーヴィチはまさに、そのことによって強靱な価値を持っている。

第2楽章に漂うヒンデミットみたいな冷笑はとても不思議な感触だ。旅芸人のフルートに導かれてくるショスタコーヴィチらしいユニゾンも、なんだかセルフパロディみたいに薄膜が掛かって距離感がある。しかし、だからといって物足りないわけではないのだ。全力でスケルツォをやるソヴィエト流の演奏とは、ただ、全然違う。

そして第3楽章のあちこちで聴こえる花が咲いたような幸福な音響は、第4楽章で語られる【恐怖】を先取りしているようにしか思えない。このお花畑ふんわり感は【言いがたい恐怖】を表していないか?この第4楽章の背景処理の、ブリテンのように冷たく湿った様子は。
第5楽章でむしろ明るくなりすぎないのは予測通りで、希望のクスリで明るい未来を望みたいソヴィエトの指揮者たちはみなこの楽章を大切な孫娘のように優しく扱ったが、プレヴィンはちゃんと冷ややかな視線を忘れない。コーダに至る道筋に配された楽器たちはどこかよそよそしい。

全編にわたり、ソロのペトコフも男声合唱も、生真面目な歌唱を義務づけられている。それが全然おかしくない。

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武田泰淳の言い回しを借りれば、近年N響に来てモーツァルトなんかを震えながら振って帰っていく「半恍惚」状態のプレヴィンがプレヴィンの本質として人びとの記憶に残っていくのは、僕には無念だ。あの老人はかつて、こんなに強いエネルギーを放射して、冷徹にリズムを運び、そして「ソヴィエト製でないショスタコーヴィチ」をこんなに完璧に実現させていた指揮者だったのだ。
by Sonnenfleck | 2012-08-21 06:30 | パンケーキ(20)

納涼帝国樂

c0060659_20323475.jpg【Linn Records/CKD 385S】
<kuniko plays reich>
Electric Counterpoint version for percussions (1987/2009)
Arr. for steel pans, vibraphone & marimba and pre-recorded tape (arr. KUNIKO)
Six Marimbas Counterpoint (1986/2010)
Arr. for solo marimba and pre-recorded tape (arr. kuniko)
Vermont Counterpoint version for vibraphone (1982/2010)
Arr. for vibraphone and pre-recorded tape (arr. kuniko)
⇒加藤訓子(Perc)

実は昨夏からずうっとiPodに収まってて、昨夏今夏のヘビロテどころか、10年代前半の個人的テーマアルバムとなりぬべらなり。

パーカッショニスト・加藤訓子さんを生で聴いた、たった一度のコンサート「武満徹を聴く、武満徹をうたう」コンサート@愛知県芸(2007年1月)は、強烈な蝕みを僕の精神に遺している。むなりばいむなり。

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このアルバムを初めて聴いた瞬間のイメージの強度も、おさおさ劣らない。
スティールパンの眠そうな打撃音が漸増するにつれて、夏の大気が満ちた駅のホームがぐらりと揺れて、傾きに沿って線路に転落しそうになる。目の前をびゅいいと通り過ぎる急行電車は、カナルを突き破って届く蝉の声は、僕を押しとどめる―

Electric Counterpointが進展し、やがてMovement III: Fastに辿り着くと、マリンバの破裂音がスタジオの壁にぶつかって砕ける音とともに、総体としての音楽は前向きなニュアンスを得、薄まって消える。

Six Marimbas Counterpointは、印象をガラリと変えてくる。
きつく閉じた蕾が、押しとどめられない内的な欲求によって開くようにして、音場は閉じた隘路から開けた広場へと拡がっていく。そして聴き手は、それを外側から視ることを許されている。それが「空に知し召す」前曲との圧倒的な相違である。

モノトーンの前2曲と対照的に、色とりどりの音符がさらさらと転がっていくようなVermont Counterpointを、僕たちはデザートのように楽しむことを許されるだろうか。加藤さんの巫女ライクな禁欲性を思えばこっそりと。

+ + +

巧拙などは取り上げらるべき話題にもならない。晝の暑いさなかにこうした音をしんみり聴いていると、夏がやがて去っていくことがふと思い起こされる。
by Sonnenfleck | 2012-08-13 22:01 | パンケーキ(20)

オランゴーナ|ソヴィエトの反人民的炭酸がやってきた。(その2)

承前

c0060659_22231163.jpg【DGG/4790249】
<ショスタコーヴィチ>
●未完のオペラ《オランゴ》からプロローグ(ジェラルド・マクバーニー Gerard McBurney によるオーケストレーション版世界初録音)
●交響曲第4番ハ短調 op.43
⇒エサ・ペッカ・サロネン/
 ロサンジェルス・フィルハーモニック

2004年、ショスタコーヴィチ学者のオルガ・ディゴンスカヤは、モスクワのグリンカ音楽博物館のアーカイヴからとあるピアノスコアを発見した。これが1932年、26歳のショスタコーヴィチによって書き進められていたオペラ《オランゴ》のプロローグである。
ディゴンスカヤはこの未完の作品を、ボリショイ劇場が1932年の十月革命15周年を祝うために用意しようと試みたものではないかとしている。ところがボリショイは何らかの理由でこの計画を断念し、ショスタコーヴィチの手稿のなかにプロローグのピアノスコアだけが残ったというわけ。

70年後、ショスタコーヴィチ未亡人のイリーナ・アントノーヴナは、オーケストレーションをジェラルド・マクバーニーに依頼し(マクバーニーは《南京虫》や《条件付きの死者》などショスタコ作品の再構成で有名な作曲家/音楽学者)、2011年12月、ついに《オランゴ》はわれわれの前に姿を現す。

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アレクセイ・トルストイとアレクサンドル・スタルチャコフによる台本は、何かを予感させるのに十分だ。
現代(註:1930年頃)のモスクワ。労働者たちが奴隷的身分からの解放を祝して集会を開いている。集会の目玉はなんといっても「サル人間」オランゴの見世物だ。オランゴはナイフで食事もするし、鼻もかむし、あまつさえ資本主義国の人間のように「へへへ!」と笑うこともできる。
囃し立てられたオランゴは悲しそうに嗤ってみせるが、突然、彼は唸りを上げて観客の女性に襲いかかる。どうやら理由がありそうだが…。

そこへ新しい人物たちが現れる。雌ザルにオランゴを産ませた父親である発生学者、発生学者の娘でオランゴの異母妹、そしてジャーナリストという3人の外国人である。彼らは語り始め、いつしか労働者たちは、オランゴの秘密にじっと耳を傾けている―
ケモノ系ダークSF(ブルガーコフ!)が始まろうとしている。これから資本主義国へのネガティヴキャンペーンが来るんだろうな。

さて肝心の音楽。
第1曲の序曲から、実は《ボルト》序曲の転用だったりするのが萌え。マクバーニーによれば、作曲家は失敗に終わったこのバレエを救済しようとしたみたいだけど、そのあとに控えている音楽はボルトほどドライではなく、むしろ彼の映画音楽によく似た甘美なスラップスティックをよく示している(マクバーニーのオーケストレーションがそれを志向しているからなのかもしれんけど)。ために、われわれは後年の《チェリョームシキ》を思い出さずにはおれない。

でも、中期タコ風の分厚い響きをまといつつ、各ナンバーのコクとキレは典型的な20年代テイストで、これはマクバーニーの復元も上手なんだけど、ダスビ定期のアンコールなんかで取り上げたらかなり盛り上がるんじゃないでしょうか。

サロネン/LAPhのパフォーマンスはここでもデジタルでハイパーでスマートである。まったく期待を裏切らないどころか、すべての局面において余裕がありすぎて、何度か繰り返し聴かないと何が凄いかすらわからない。音色や響きに際立った特色があることもなく、ただ整然と楽譜が処理されてゆくのみである。なべて世は事も無し。それはロシアン・アヴァンギャルドの見果てぬ夢だったかもしれない。

レーニンがあと30年くらい長生きした超ディストピア時空のパラレルワールドを空想して、1950年のレニングラードで精製されるこんな演奏のことを思う。

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「Обезьяна-человек!!」から「Он мужественный человек!!」という男声絶叫の遠い萌芽を夢見るのは、勝手だ。あの「ユーモア」はユーモア自身もユーモアで扱っていたけれど、オランゴはどうだったろう。今となっては誰も知らない。
by Sonnenfleck | 2012-08-08 22:24 | パンケーキ(20)