みな人は、今のポゴレリチをオカルト→宗教→信者乙と捉えるが、本当にそうか?現状を真摯に聴いてなおそのように思うなら、もう何も言えないが、誰かの批評を読んで聴いたつもりになるのはもったいない。それこそオカルトではないか。
+ + + 【2012年5月9日(水) 19:00~ サントリーホール】●ショパン:Pfソナタ第2番変ロ短調 op.35《葬送》 ●リスト:《メフィスト・ワルツ》第1番 ●ショパン:ノクターン ハ短調 op.48-1 ●リスト:Pfソナタ ロ短調 ⇒イーヴォ・ポゴレリチ(Pf) 2010年のリサイタルがどうも忘れがたい印象を残しているので、また聴きに行った。今度はP席1列目という栄誉に浴したが、ステージは暗い。 僕にはやはり、この人のやっていることが真っ当な藝術行為に思えてならない。 ピアノ弾き系クラヲタからすると、おそらく彼の演奏実践は禁忌と違反だらけで、とてもじゃないが藝術とは認めがたいのだろうと思う。それはなんとなくわかる。でも非ピアノ系クラヲタである僕の耳には、彼の音楽はピアノであることを放棄する代わり、オーケストラや合唱のような「交響」を強く志向しているように感じられたんだよね(今回は特に)。 僕たちは、瞬間々々に鳴る音の質そのものや、彼自身の審美に基づいてコントロールされた音価そのものを、シンプルに聴き味わうべきなんじゃないかな。自分の知っている、あるいは弾いたことのある曲が、自分の知らないやり方で実践されていたから厭だ変だ嫌いだ、と反応するのはもったいない。みんなももったいないおばけが出んようにしとるかの。 そのように考えることができるのも、2010年来日時に比べるとある程度は、彼の音楽における「交響の公共性」みたいなものが安定していたからなんだけど、何よりも彼自身が、彼の内面との整合性を取ることに配慮が届くようになったのが大きいように思う。前回の究極の自閉的独り言から、今回は客席にカボチャが並んでいることを認識するくらいまでは、発展があったようだ。開場も開演も遅れなかったしね。 ショパンの《葬送》は予想よりずっとフツー。 覚悟していた第3楽章は、軽々とした主題の歩みにトリオが多少しっとり絡みつく程度である。むしろ今回のポゴレリチにおいては、第1楽章のほうに重心が掛かっているのがありありとわかり、興味深い。この世への憎しみを打鍵によって表現するような大仰なタッチは、別に、この作品のフォルムを壊したりしないみたいだった。案外ショパンという男の本質を抉っているのかもしれない。 リスト《メフィスト・ワルツ》第1番。これは前回も聴いた曲。 中間部(un poco meno mosso)に差し掛かってからの、アスファルトに滲んだガソリンの虹のような美しさは今回も味わえた。ガソリンで拙ければ、永遠に終わらないトリスタンとイゾルデの愛の夜とでも言い換えようか。どちらも(相似通っていると僕は思うが)そこに美を観測するかどうかは聴き手次第だろう。トリスタンとイゾルデだけが藝術だと思い込むのは(繰り返すが)もったいない。 + + + ただし、上記が、前半だけを聴いて帰った聴衆の感想文だということに触れないのはフェアじゃないので、書いときます。 GW明けから風邪を引き、前日に熱を出していたのを抗生物質で無理やり鎮めて出勤、一日フラフラしながら仕事をした後だったので、メフィスト・ワルツを聴いている途中から頭痛が酷くなり、休憩時間に離脱したのだった。 各所のレヴューを読むと、プログラム最後のリストのロ短調ソナタが「とんでもなくひどく」「悪趣味」だったということだけど、前半の2曲のような「交響の公共性」は保たれていたのだろうか。こればかりは想像すべくもない。 + + + 開演間際に、ホール入り口の主催者窓口に向かって「俺あさって六ヶ所村行きますよ(るん♪)」とおしゃべりされてる許先生を見た。とても趣深い光景である。彼の著作活動の一次資料というか、幻の歌枕というか…。 その1から続く。【125】5/3 1800-1900 ホールB7〈チェーホフ〉 ●ラフマニノフ:《楽興の時》op.16 ●チャイコフスキー:Pf組曲《くるみ割り人形》 ●ラフマニノフ:Pfソナタ第2番変ロ短調 op.36 ⇒アレクセイ・ヴォロディン(Pf) 今回の大収穫。この人は、すぐにラフォルジュルネでは聴けなくなるようなクラスのピアニストじゃないかと思う。 最近のラフマニノフ運の強さは異常なほどである。昨秋に聴いたテミルカーノフの第2交響曲も最強だったが、ヴォロディン氏の楽興の時+第2ソナタも最強だった。 実は最近、クラヲタ歴10数年目にしてついに、ショパンとリストとラフマニノフの偉大さに気づきつつある。 つまるところ彼らは、どこまで行っても哀れで、汗臭く、夢見がちな男の浪漫を音楽にして残しただけなんだろうな(リストは少し違うかもしれんが…)。こんな簡単なことに思い至るのに、10年以上も掛かってしまった。 語弊を恐れずに書くが、男臭い浪漫に惹かれる女性ファンが多いのは非常に理解できるところだし、それに昭和のヒョーロンカとヒョーロンカに引き摺られている僕たちヲタ層が、コンプレックスと十分に融け合って切り離せないアンチ浪漫主義に基づいて、ショパンやラフマニノフを(たとえばバッハやベートーヴェンに比べて)なんとなく一段下に見てきたのも自明という気がする。 + + + 1977年生まれのヴォロディンは、タチアナ・ゼリクマンとエリソ・ヴィルサラーゼに師事したロシアン・スクールの正統的逸材として名高い(ようである)。 でもそんな能書きは、ラフマニノフを聴けばすぐにぶっ飛ぶ。彼のラフマニノフは、上に書いたような男臭い甘みと、自己陶酔的苦みが渾然と融合したアダルトなスイーツのよう仕立てて、僕たち聴衆を一気に虜にした。口に入れるとすぐに溶けるが、甘みと苦みがずっと舌の奥に残る。隣席の女性はあまりの感激に苦しそうにして耳を傾けていたし、となりのおっさんも感極まってブラヴォを飛ばしていた。 チャイコフスキーは箸休め程度に考えていた僕に、ヴォロディンはさらにいろいろなことを示す。 この人は指がたいへんよく回るので、まずタッチの粒立ちの美しさが比類ないレベルである。でもそれだけじゃなくて、ピアノからピアノ以外の響きを錬成する技術にも長けているんだなあ。 序曲の金管、金平糖のチェレスタ、パ・ド・ドゥ(アンダンテ・マエストーソ)のハープとチェロ、そうした楽器の響きをちゃんと想起させながら、なおかつピアノの音それ自体としても美しいという一回転が起こっていたのだった。ピアノ弾き系クラヲタにとってはどうでもいいことかもしれないけど、非ピアノ弾き系クラヲタにはかなり大切な事象なんである。 そして最後のラフマ第2ソナタ! この巨大なソナタの胸苦しい第2楽章を聴きながら確信する。ああ、自分にとってはラフマニノフがなくてはならない存在になりかかっているんだと。少し前なら考えられなかったようなことが自分の中で起きている。 ヴォロディンはときに傲然と、ときに傷つきやすく、つまりはきわめて男臭くこのソナタを捌いていく。しかし野暮ったさや鈍重さとはいっさい無縁で、楽興の時やくるみとは少し違う種類のダンディズムが漂う。アタッカで第3楽章に侵入する第1撃の輝かしさに、フィナーレの怒濤のフォルティシモに、これまた帝政ロシアの復活を思わずにはおれない。 最後の和音が鳴り終わらぬうちに、どうしてもとどめきれない拍手が雪崩れ込む。僭越ながら、僕もブラヴォを飛ばさせていただいた。彼、1月にオペラシティでリサイタルやってたんだなあ。行きたかったなあ。 この後、展示ホール「ディヤギレフ」でヴォロディンのショパン集を買う。 + + + その3へ続く。 【133】5/3 1500-1545 ホールB5〈ツルゲーネフ〉●アレンスキー:Pf五重奏曲ニ長調 op.51 ●シュニトケ:Pf五重奏曲 op.108 ⇒ボリス・ベレゾフスキー(Pf) スヴャトスラフ・モロズ(Vn) ミシェル・グートマン(Vn) エリーナ・パク(Va) アンリ・ドマルケット(Vc) 水も漏らさぬ、というアンサンブルではなかった。アレンスキーもシュニトケも、音程の定まらないところやユニゾンが破綻している箇所はいくつもあった。水はダダ漏れである。でも、湛えている水の性質が佳い。それが大事だ。 アレンスキーは第2楽章が印象深い。この楽章は変奏曲形式なんだけど、変奏していく主題の独特の高貴さは、音程やアンサンブルのメカが整っていることを必ずしも必要としてない。LFJ大好き熊さん・ベレゾフスキーをついにライヴで聴いたけど、この人も精緻さではなくムードの追求に余念がない。すなわちこの作品によく合う。 シュニトケはもう少し難物だけど、ショスタコムードの忠実な実践であるから、ソヴィエト臭い荒々しさで乗りきることもできる。特に第3楽章アンダンテから第5楽章パストラーレにかけて、たいへん荒涼として素晴らしい演奏が続いた。 【134】5/3 1645-1730 ホールB5〈ツルゲーネフ〉 ●キリルス・クレーク Cyrillus Kreek:晩祷、首誦聖詠(詩篇104) ●作曲者不明:讃歌《沈黙の光》(ズナメヌィ聖歌) ●ペルト:《カノン・ポカヤネン》 ~オードI, III, IV、コンタキオン、イコス、カノンの後の祈り ○アンコール メロディアスな何か ⇒ヤーン=エイク・トゥルヴェ/ヴォックス・クラマンティス ECMからディスクをリリースしているオサレ系合唱団のみなさん。考えてみれば、メジャーレーベルから録音が出てるような合唱団を、合唱団だけのライヴで聴くのはこれが初めての体験かもしれない。 最初のクレークは1889年に生まれて1962年まで生きたエストニアの作曲家。いみじくメロディアス。次の単旋律聖歌(ズナメヌィ聖歌)との対比をなす。 しかし背筋が粟立ったのは、やはりペルトの《カノン・ポカヤネン(痛悔のカノン)》である。いちおうは4声合唱のために書かれているようなんだけど、声部内でも微妙にディヴィジが起こってるように僕には聴こえた。10数名のヴォックス・クラマンティスのメンバーがそれぞれ細かく分かれた声部を担当することで、物凄い不協和音の音波が押し寄せてくる。ドラッグを用いるとこういう感覚に陥るのかなあ。 ま、ホールB5はまったく残響のない直方体なので、ちゃんと豊かな残響のあるホールで聴いてみたかったというのも本音。あれだけ乾いた空間でちゃんと合唱を聴かせる彼らこそ讃えらるべき。5/5勅使河原三郎の舞踏付きというのも面白げ。 この回のお客さんは、これまでの自分LFJ史上もっとも静かな人びとであった。みんな固唾を呑んで聴いていた。小さく携帯が鳴っても集中力が途切れない。 + + + 雨がだらしなく降り続いている。寒くはないが陰鬱な心地。これも露西亜。その2へ続く。
昨年はLFJ「本体」に一切参加しなかった。LFJ出演をキャンセルした演奏家たちを許すまじとする首都クラヲタ的空気に、震災後の自分の心中からして、少しでもかかずらうのが厭だったからである。
でも今年は一日だけ参加することにしたんです。LFJ1年目のベートーヴェンで体感したドタバタの熱狂が、やっぱり恋しい。 ![]() ◆5月3日(木) ・133 ベレゾフスキー他 アレンスキー&シュニトケ:Pf五重奏曲 [B5] ・134 ヴォックス・クラマンティス ペルト:カノン・ポカヤネン [B5] ・125 ヴォロディン ラフマ+チャイコ+ラフマ! [B7] ・156 VA “クレール・オプスキュール” [D7] ・137 ペヌティエ “スクリャービン最後のリサイタル” [B5] 今年は例年の反省を踏まえて、15時からの参加に。ピアノ成分が濃いので小さめのホールばかりになりました。あと、ショスタコは聴きません。 Tags:#ラ・フォル・ジュルネ
【2012年4月15日(日)14:00~ サントリーホール】●ラフマニノフ:ヴォカリーズ ●マーラー:歌曲集《子どもの不思議な角笛》~ むだな骨折り/不幸な時の慰め/天国の喜び/ 魚に説教するパドゥアの聖アントニウス/ 塔の中の囚人の歌/死んだ鼓手/少年鼓手 →トーマス・バウアー(Br) ●スクリャービン:交響曲第2番 ⇒大友直人/東京交響楽団 某オークションで良席がずいぶん安く出ていたので、急遽落札して聴きに行くことに。大友氏の指揮を聴くのはとーっても久しぶりです。 シェーンベルク年度の最後に《ペレアスとメリザンド》を聴いて、東響の恐ろしく深い音色に心から感じ入ったのだったが、その音色はこの日も比較的同じであった。あるプロジェクトを通じてオケの音色がもう一段階上に昇格するということはあるんだね。僕はスダーンの音楽づくりすべてに賛成という立場じゃ(たぶん)ないけど、「監督」の役割を着実に果たしている点に関して、強く敬意を表するものです。 + + + 後半のスク2、あまり緻密な交響曲じゃないようだけれど、妙に破天荒な勢いがあって面白い作品だったな。。 ワーグナーの魂がリンツに避暑してブル3、ヤルタにバカンスに出掛けてスク2、といった風。曲中に愉快なリズムピースがたくさん潜んでるのも、ブルックナーと共通している。でも最終楽章でハ長調を爆発させちゃうのは、熱いロシア魂がなせるわざだ。しつこいパウゼのコンボに苦笑。 しかし肝心の大友氏は、、トゥッティを勢いに任せても響きに清潔感があり、若々しい音楽が形成されるのはよいものの、リズムピースを全然重視しないところ、それから音色のパレットに数色しか絵の具がないのには閉口した。パターン化は決して悪いことじゃないが、特に音色の単調さについては、共感覚を持ってたようなひとの音楽ではいかにもまずかろうと思う。また、しばらく聴くのを止そう。。 + + + でも、前半のマーラーがたいそう佳かった。 ソロを取ったバリトンのバウアーが、やや軽めの、健康的な明るい声質を活かしつつ、知的なデクラメーションを駆使してテキストを解釈してく。 この曲集、実はクヴァストホフ+オッター+アバドの録音がピンと来なくてこのかた、ずいぶん聴いてなかったんだけど、この日のバウアーの歌唱によって、この曲集のマーラー音楽における重要性を再認識することができた。 つまり、いくら1900年頃のマーラーが独墺楽壇の異端だったとしても、いちおうはシューベルトのような均整を踏まえた上で歌曲を作曲していたということを、歌い手と伴奏者は忘れるべきじゃないってことです。 〈塔の中の囚人の歌〉や〈死んだ鼓手〉で、イロニーの後ろに静かに響いている寂寥感は、歌い手のわざとらしい諧謔で簡単に打ち消されてしまう。この日のバウアーの自然で高貴な発音は、浪漫の泥濘からちゃんとマーラーを掬い上げていたし、大友氏の清潔な音楽性もここではプラスに働いていました。 ◆11時―●《シランクス》 ●《牧神の午後への前奏曲》 ●《6つの古代の墓碑銘》 ●《ベルガマスク組曲》~〈月の光〉 ●《夢想》 ●《2つのアラベスク》~第2番 ●Fl、VaとHpのためのソナタ ⇒工藤重典(Fl)、山宮るり子(Hp)、藤井一興(Pf)、 ロジャー・チェイス(Va) ステージの照明も落ち、ハーピストがこっそり出てきたのに気をとられていたら、客席脇の扉から工藤重典氏が《シランクス》を吹きながら登場、そのまま登壇して《牧神の午後への前奏曲》。シンプルだけどかっこいい演出です。気の早い花見客で溢れかえった公園改札から、隔絶されたクロード祭へ。 しかしFl+Va+Hpソナタのクールさに圧倒される。この曲を生で聴くと、見事な錬成にいつも惚れ惚れしちゃうのだ。たとえば柿とこんにゃくと鯖みたいに、融け合うようで融け合わないキャラたちを、見えない調味料でまとめて懐石料理に仕立てたような。。ナッシュ・アンサンブルのヴィオリストが男臭くていい音の持ち主。 + + + ◆13時― ●サティ:《薔薇十字団のファンファーレ》~〈教団の歌〉 ●《忘れられた映像》 ●《前奏曲第2集》~〈花火〉 ●《映像第2集》~〈金色の魚〉 ●《海》(ドビュッシーによる四手Pf編曲版) ⇒藤井一興(Pf)+本田聖嗣(Pf) 素晴らしい一時間。藤井一興氏を高く評価する声は以前からしばしば聞いていたけれど、しっかり生で聴いてみて、音のカラフルさと鮮烈さ、洒落ているくせにねちっこいタッチなど、なかなかに魅せられた。《忘れられた映像》のサラバンド、そして〈花火〉での空間の拡がり、見事だったなあ。 《海》は二人の熱気が正確さをざぶんと飲み込んで波浪警報発令だったけど、大オーケストラのクラングを完全に四手に移植したドビュッシーの魔術には驚嘆せざるを得ない(特に第2楽章は骨格がはっきりと見えてたいへん面白い体験だった)。 + + + ◆15時― ●《ビリティスの3つの歌》 ●《艶やかな宴第1集》 ●《前奏曲集第1集》~〈亜麻色の髪の乙女〉 ●《子供の領分》~〈グラドゥス・アド・パルナッスム博士〉 ●ショーソン:《リラの花》 ●同:《7つの歌曲》~〈ハチドリ〉 ●同:《ヴェルレーヌの2つの詩》 ●《子供の領分》~〈小さな羊飼い〉〈ゴリウォーグのケークウォーク〉 ●《夢に》 ●《花に》 ●《フランスの3つの歌》 ⇒林美智子(MS)+河原忠之(Pf) ごめんなさい。ドビュッシーの歌曲にはまだ親しめない。幸せの昼寝時間。 + + + ◆17時― ●《夜想曲》(サマズイユによる四手Pf編曲版) ⇒藤井一興(Pf)+本田聖嗣(Pf) ●弦楽四重奏曲 ト短調 op.10 ⇒渡辺玲子(Vn)+小林美恵(Vn)+川本嘉子(Va)+向山佳絵子(Vc) カルテットの予想通りの素晴らしいパフォーマンスに大満足。この布陣で良くないわけがないのだ。 よく、常設団体>非常設団体みたいな図式を目にするけど、それは演奏する曲による。たとえばこの曲のように各パートのキャラクタが激しく対立する音楽なら、非常設団体に漂う緊張感が良い方向に作用するわけです。 今回も、互いに「これはソロVn(またはVa、Vc)と弦楽三重奏のための組曲よ!」みたいな4人の思いがぶつかり合って音楽が硬く引き締まり、鉱物のようなテクスチュアが生み出されてました。いやー素晴らしかった。 前半に演奏された《夜想曲》の四手バージョンは、ドビュッシー自身の編曲じゃないからなのか、原曲フォルムの取捨選択の仕方がなんとなく咨意的な感じがして。 ところがその咨意性の結実として、よりによってあの〈シレーヌ〉が、まるで南国の夕暮れの渚のように極上トロピカルミュージックに変容していたのは、特筆すべき吃驚ポイントだったと言える。 + + + ◆19時― ●《前奏曲集第1集》~〈デルフォイの舞姫〉 ●メシアン:《鳥のカタログ》~〈キガシラコウライウグイス〉 ●《映像第1集》~〈水に映る影〉 ●ラヴェル:《水の戯れ》 ●《映像第2集》~〈葉末を渡る鐘の音〉 ●ミュライユ:《別れの鐘と微笑み―オリヴィエ・メシアンを悼んで》 ●《12の練習曲集》~〈5本の指のための〉 ●マントヴァーニ:《4つの練習曲集》~〈レガートのために〉 ●《仮面》 ●メシアン:《4つのリズムの練習曲》~〈火の島Ⅱ〉 ○《前奏曲集第1集》~〈亜麻色の髪の乙女〉 ○クルターク:《激昂した亜麻色の髪の乙女》 ⇒永野英樹(Pf) ラフォルジュルネで十分に懲りてるはずなのだが、朝から夜まで生演奏を聴くとさすがに集中力が持たない。が、この最終公演ではすっかり引き込まれてしまった。 永野英樹氏を知ったのは、10年くらい前に帰朝公演の様子がNHK-FMで流れたのを聴いたとき。Ensアンテルコンタンポランのピアニストは伊達じゃなく、ルー・ハリソンのピアノ作品をバリバリ弾いてるかっこええ兄ちゃん、という認識でいたが、この日の公演で、メシアンとミュライユをバリバリ弾くかっこええ兄ちゃん、にアップロード。見かけはイチローみたいなのにね! 彼の明晰なタッチはエマールをさらに細身にしたような感じ。つまり耳に痛いくらい鋭敏であるから、メシアンの鳥もずいぶん生き生きとピーチクやるし、ミュライユの鐘もぎゅんぎゅんと鳴り渡る。メシアンは神懸かっていたなあ。。 でも、そんな彼が弾くドビュッシーは瑞々しい果汁のように甘口で、とても興味深い。象徴主義文学ヲタとしてのドビュッシーのキャラクタを忠実に掘り下げると、案外こういう様式が正しいのかもしれないな。 メシアンの《火の島Ⅱ》大噴火演奏のあと、アンコールとして〈亜麻色の髪の乙女〉が食後のソルベのように供された。爽やか。 で、これで終わりかと思いきや。最後でまさかのクルターク〈激昂した亜麻色の髪の乙女〉が僕らを待ち構えている。最初は「亜麻色の髪の主題によるインプロヴィゼーション」でも始めたのかと思ったけど、ちゃんとこういうパロディ作品があるんですね。デザートにも熱くて苦いソースを掛けるのを忘れない永野シェフ。2曲ずつセットの趣向も楽しかったな。 + + + 一日券を買って楽しんでるコアなファンが、目算では20人くらいはいたように思う。会場のオペレーションがアルバイト学生ばっかりでパッとしなかったり、各1時間の休憩時間をすっかり持てあましたりしたが(一度などは上野公園の坂を下りて一蘭に入りとんこつラーメンをすする始末)、そんな環境も含めてお祭り。でもそのわりにはガチな演奏ばっかりだったよなー。 すっかり満足して家路につくころには日も暮れて、いまだ春浅し。 【2012年2月26日(日) 13:00~ 浜離宮朝日ホール】●ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ op.87 ⇒アレクサンドル・メルニコフ(Pf) 自分がショスタコーヴィチに共感を覚えるたちで本当によかったと思った。そうでなければ、この3時間のショスタコ漬けに耐えられないス。 ニコラーエワの録音を聴いていたところで書いた、この曲集の巨大さ勁さへの畏怖は、通しで聴いてみてもあまり変わらなかった。しかしニコラーエワが一歩一歩の徒歩登頂とすれば、メルニコフはもう少し「ずるい」。 ロープウェーを利用したり、自動車でショートカットしたりすることも厭わないかわり、突然、匍匐前進や五体投地を始めたりもする。それでショスタコーヴィチのマジメ性(バッハ性と言ったほうがいいか)は一気に減ぜられるわけだが、反面ショスタコーヴィチのなかに確実に最後まで存在したスラップスティック的好みが炙り出されてくるので、メルニコフの捉え方のほうが初演者ニコラーエワよりもかえって本質に近いかなという気もした。 (※wikipediaにこの曲集を評して「平明な音楽」と堂々と書いてあるのは、何か違うと思うんだよね。五線譜の土中から掘り起こされてないだけでさ。) + + + 個々のピースの感想文を書いていくと際限がないので止しますが、第14番のことと、第22番ト短調から第24番ニ短調への緊張に満ちた時間のことは書いておこう。 第14番の前奏曲は、この曲集の中でいちばんショスタコーヴィチらしくない変な曲である。僕はムソルグスキーの影響を強く強く強く感じるんだけど、あるいはムソルグスキーの師匠のバラキレフ、そこに流れ込んでいるリストの残響も聞こえる。 メルニコフの演奏は理想的であった!あまり理知的ではない化け物がでろでろと這いずり回る…様子を説話で聴くような、演出された気味悪さがまさにディカーニカ近郊夜話の趣き。 さて、前述のように比較的賑やかで抑揚の強い演奏をしてきたメルニコフだったが、最後の3曲では音楽が静謐な運動に還元されていくのがよくわかる。曲集の途中は上述のようなドタバタコメディも許されるけど、最後の3曲だけはそうもいかないんだよなあ。第23番のプレリュードはショスタコーヴィチの優しさが強く滲み出た、不思議と明るい音楽であるが、メルニコフはここも期待を裏切らない。第24番のフーガでは、あくまでも静謐な運動のまま大伽藍を組み上げる禁欲的姿勢に天晴れ! 聴き終えて理性は晴れ晴れ、でも感情はこんな感じ↓。とにかく疲れたのである。 ![]() ※会場でK産党のC書記長を見かけた。さすが斯界一のタコヲタ! 【2012年3月4日(日)14:30~ 日比谷公会堂】●シチェドリン:カルメン組曲 ●ショスタコーヴィチ: 交響曲第14番 op.135 →アンナ・シャファジンスカヤ(S) ニコライ・ディデンコ(Bs) ⇒井上道義/オーケストラ・アンサンブル金沢 2月26日のメルニコフの感想がなかなか書けなくて困っている。日比谷の件を先に書く。 ショスタコーヴィチの交響曲のうち、ついぞ生で聴いたことがなかったのが《バービィ・ヤール》と《死者の歌》である(最難関の第2第3は2003年の井上/都響で済んでる)。これでついに残すところあと一曲となった。 巨大匿名掲示板によれば、第14番が日本で演奏されたのは10回に満たぬ由。この薄ら寒い午後に生を聴いて知ったのは、この「敬遠」状態の正当性であった。死の香りがあまりにも濃厚すぎる。 + + + さて、これまでに聴いていた録音とライヴでもっとも違って聴こえたのは、激しくディヴィジされた弦楽器のニュアンスが予想以上に艶かしく、カラフルに感じられるという点。 〈ラ・サンテ監獄にて〉や〈おおデーリヴィク〉といった静かなアダージョは、これまではレンブラントの暗い銅版画のような風景を思い浮かべていた。漆黒の闇ですね。でも実際には、深夜のデパートのおもちゃ売り場のごとく、そこにはさまざまな形象と色彩が溶闇していた。13番目の弦楽四重奏曲や第15交響曲の風景に、思ったより近いんである。とても興味深い発見(日比谷の超絶デッド音響のおかげかも)。 それらが最晩年様式の表出とすれば、壮年期の禍々しさと露西亜浪漫は、より激烈なかたちで〈自殺〉や〈コンスタンティノープルのスルタンに対するザポロージェ・コザックの返答〉に結実している。 + + + この日のソリスト2人は、悪いところがひとつも見つからない。バスのディデンコはアレクサーシキンの代役だけど、録音で聴くかぎりでは僕はアレクサーシキンが好きじゃないので、むしろ大歓迎だったし、現に素晴らしい成果を残した。 ソプラノのシャファジンスカヤの見せ場、つまり〈自殺〉から〈用心して〉、〈マダム、ご覧なさい〉までの流れが、この午後は極度に感動的だったと言ってよい。 彼女は〈深き淵より〉の抑制が強かったのでちょっと心配だったんだけど、〈ローレライ〉の途中から音にGを伴う烈しい加速を果たして(ライン身投げ!)、ヴィシネフスカヤが霞むくらいの捨て鉢歌唱となった。 〈自殺〉で歌われるТри лилииの三本目では歌詞通りに、彼女の心の口も、周囲の空間もびゃーっと裂ける。戦慄するほかない。 この楽章の途中からシャファジンスカヤは感情を昂らせて涙を流している。曲の合間に涙を拭うけれども、声が上ずる。おかげで次の二つの楽章が(近親相姦と寡婦の楽章が)、あからさまに「疑わしい語り手」になったのは言うまでもない。хохочу хохочу...は美しい欺瞞の笑いである。 ミッキー/OEKは、予想をはるかに上回る稠密なアンサンブルで歌手を下支え。それでも〈ラ・サンテ監獄にて〉の真ん中(ウッドブロックが出現する暗い回廊)で織り目がほつれ、分解間際まで行ったのはスリリングだった。大変な難曲である。 + + + それにしても日比谷公会堂の妖気たるや! 昭和4年の竣工から、シゲティにティボーにコルトーにシャリアピンに…伝説の巨匠の音を梁や壁に蓄え込み続けて80年。ここで聴くショスタコーヴィチは究極としか言いようがない。豪奢な昔を偲ばせる内装にレニングラードを幻視する。 幕間に探検しに上がった二階で、iioさんとばったり遭遇。少しだけ立ち話をさせていただいたけど、この希有な空間は(端的に言えばLFJで)もっと活用されるべきと僕も感じる。国際フォーラムのホールD7とか、音響的にはこことほとんどどっこいどっこいだよね。 美しい五月に有楽町からアクセスする日比谷公会堂はいかにも佳さそうだ。溜池山王も初台も錦糸町も、申し訳ないが日比谷のゲニウスロキの敵ではない。 さて僕の隣席には、でっぷりと太って宝飾品をじゃらじゃらさせた婆さんが座って、テンプレのような金持ちトークを繰り広げていた。彼女はカルメン組曲に喜び、死者の歌で眠りに落ちていた。 どうやら麻布狸穴町のソ連大使館が、資本家の典型的悪行を宣伝するために工作員を雇ったようだった。ここは東京、1969年―。 【2012年2月25日(土) 18:00~ サントリーホール】●モーツァルト:Vn協奏曲第5番イ長調 K219 ○バッハ:無伴奏Vnソナタ第3番~ラルゴ →パク・ヘユン(Vn) ●シェーンベルク:交響詩《ペレアスとメリザンド》 ○シェーンベルク:Hpと弦楽のためのノットゥルノ ⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団 魂を奪われてしまった。シェーンベルクに。ぼうっとする。 僕が1905年のウィーンで初演を聴いた作曲科の学生だったと仮定すれば(毎度勝手な仮定で恐縮ですが)、そのまま楽屋に駆け込んでシェーンベルクに弟子入り志願。 ロマンティシズムって佳いなあ、と心の底から思う。 この曲に限らず、また僕が改めて言うまでもなく、そしてその作曲様式の種類を問わず、シェーンベルクが表現しているのは彼の中でぐじゅぐじゅに発酵する浪漫なんである。アルバン・ベルクだけが新ウィーン”浪漫”楽派とされて、シェーンベルクが無視されるのは納得がゆかぬよ。 + + + スダーン/東響は、極上のパフォーマンスをやってのけてしまった。僕がこれまでに聴いてきた国内オケの公演のなかでも、これは特に屈指の体験だったと言える。 熱に浮かされたような首席Va青木さんのソロ、ニキティンコンマスの清澄なソロ、絡み合う木管が描く蔦文様、表現主義のギッザギザが見えるTp、深いため息のようなTb。。スダーンのフェティシズムがすっかり浸透した結果だろうか、この夜の東響は本格的重厚であった。何しろオケの響きが飴色に光っていたもの!もはや「プチ」重厚と書いたら失礼に当たるくらいには、ひかひかてらてらと。 細かな評論は評論家先生方に任せよう。僕はただ、紫の浪漫煙が充満し、いろいろなキャラクタの声部がびゅうびゅうと交錯し、おまけにそれら音の線たちがとろっと光るあの空間に身を置けただけで、もう十分に満足であります。 + + + 東響はこのあと、おそらくはこの音色を維持したまま、マーラーの歌曲プロジェクトに突入するわけだ。伝説的な完成度が期待される。定期会員になろうかなあ。
僕はこのコンサートにイザベル・ファウストを聴きに行ったはずなのだが、気がついたらベルトラン・ド・ビリーのファンになっていた。おそろしい。
+ + + ![]() 【2012年2月11日(土) 18:00~ NHKホール】 ●ドビュッシー:《牧神の午後への前奏曲》 ●プロコフィエフ:Vn協奏曲第1番ニ長調 op.19 ○バッハ:無伴奏Vnソナタ第3番ハ長調 BWV1005~ラルゴ →イザベル・ファウスト(Vn) ●シューベルト:交響曲第8番ハ長調 D944 ⇒ベルトラン・ド・ビリー/NHK交響楽団 僕の心をぐっと掴んだのは、ド・ビリーのきわめて安定して高品質な音楽的センス(なかんずくテンポと木管バランスに関する感覚)と、それを生かしていろいろな様式を巧みに捌いてしまう彼の職人技なのである。この指揮者がヨーロッパのあちこちで引っ張りだこな理由がやっとわかったということだ。 昨日の多くの聴衆はもしかしたらド・ビリーを「特徴がない」とか「何でも屋」と捉えたかもしれないが、本当の指揮のプロはああいう音楽を作るということを忘れちゃいけない。鬼才に異才、奇演に凄演、そんな音楽ばかりでは、僕は厭なのだ。 まことに勝手な想定だが、僕がドイツとかベルギーに住んでいるつましい商売人とか小役人だったら、余裕があるわけではない家計からお金を捻り出してでも、ド・ビリーのような指揮者が監督をやっているオケの会員になるし、自分の子どもにはド・ビリーのような音楽を日常的に聴いて育ってほしいと思うだろう。 そういうことです。 + + + 最初のドビュッシーから、木管のバランスの良好さに驚いた。N響ソロ管のなかで僕がもっとも信頼し尊敬しているのが神田さんのフルートなのだが、彼による導入から木管の緩やかなマーブル模様が拡がり、たいへん美しい。 それと同時に、風呂敷を広げすぎない「小体の美学」とも言うべきド・ビリーの手堅さに、感興がぶくぶくと湧くのであります。 プロコフィエフは、ホールが広すぎていかにもファウストの音が遠い。昨年の新日フィルとのブリテンほどには心に響かなかったのが無念。それでも第1楽章の澄み切ったフラジョレットや、甲虫のように光るスル・ポンティチェロ、第3楽章の夢幻的空間の出現など、いくつかのポイントはしっかりと感じ取れた。しかしもっと小さいホールで聴きたい。決定的に。 さてここでも、ド・ビリーの底堅いセンスがよくわかる。あくまで軽やかに。 後半のグレートは名演だったと言わざるを得ない。 フルトヴェングラーのグレートや、チェリビダッケのグレート、そういうどろどろしたシューベルトがお好みの方の琴線には全く触れないだろうが、明るい青空にクリスプなクラング塊がぷかぷかと浮いているような横方向のつくりは、20世紀浪漫でも、20世紀古楽でもない、独特の(あるいは1950年代のカラヤンにうり二つの!)センスに基づいている模様。 なるほどこれなら「小体なグレート」が実現される。第3楽章のトリオが極上な此岸的美しさを湛えているのも好いし、第4楽章のコーダで品の良いアッチェレランドをちゃんとかましてくれるのも花丸。ピリオドにあえなく呑み込まれてしまったと思われていたノイエザッハリヒカイトの正統的嫡流、なんて書いたら大げさだろうか? いやいや、ぜんぜん大げさじゃねーだろ。 このスタイルはノリントンの64倍くらい新鮮。そして256倍くらい上質。始めに話を戻すと、要は、僕はこのひとにN響の監督になってほしいっつーことです。 < 前のページ次のページ >
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