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円光寺雅彦/名フィル 第416回定期演奏会@愛知県芸術劇場(9/6)

c0060659_10484791.jpg【2014年9月6日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場コンサートホール】
●スメタナ:《売られた花嫁》序曲
●ドヴォルザーク:Pf協奏曲ト短調 op.33
 ○同:ユーモレスク
→スティーヴン・ハフ(Pf)
●マルティヌー:交響曲第1番 H289
⇒円光寺雅彦/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


半年書いてないと書けなくなるものですわな。どうやって話を運べばいいか忘れてしまった。名古屋引っ越し後やっと名フィルに行けた記念で、ひさびさに感想文を上げます。

2014.4-2015.3シーズンの名フィルは「ファースト」というテーマで、相変わらず孤高のマニアック路線を貫いている。僕が6年前に名古屋を離れる前からこの姿勢がしぶとく続いているのは、シンプルに「いい根性してる!」というひと言に尽きるのではないかと。オーケストラの財政にはあまり興味がないクラシック音楽オタクである僕は、誰が何と言おうと今でもこの姿勢に賛辞を送りたいのです。
知られざる佳い音楽を街に広める活動と、それが儲かるかどうかというのは根本的に別問題で、後者はそれについて詳しい別の方が批評すればよい。僕は前者の、作品の力による都市文化の底上げ活動を全力で応援します。名フィル定期会員の善良なるおじさまおばさま、そしてY席にお行儀よく座って熱心に聴いている中高生たちはそろそろ、Eテレで見るN響の退屈なオール名曲プログラムに我慢できなくなってきているのではないでしょうか(期待を込めてね…!)

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この日のプログラムはマルティヌーの「ファースト」である交響曲第1番がメインに据えられていて、僕はこの曲を聴きに来たつもりだったのですよ。でも終わってみれば、強く印象に残ったのは真ん中のドヴォPfコンだったわけ。

ドヴォルザークのPf協奏曲、たぶんどこかの演奏会で聴いたことがあったんだろうと思うんだけれど、ブラームスのPf協奏曲にシューベルトのセンスを振りかけたような捉えどころのない曲想が災いしてかそもそもあまりいい印象を持っていなかった。
ブラームスのPf協奏曲がそもそも輝かしいソリストの技巧を聴くという作品ではないし、それがさらに迷いの森のようなテクスチュアを与えられればなおのこと。この日もこの曲で寝てしまうことを覚悟でホールに向かったのだった。

ところが、まずソリストのスティーヴン・ハフが試みていることに圧倒されてしまった。僕はピアノが弾けないのでピアノ弾きの方が聴いたときに把握されるハフの秘策がいまいちわからないのだけど、どうせなら感性学徒のはしくれとして、どこまでも可感的に把握できればと思っている。
そうして可感的に把握できるハフの端正な美音、そしてメロディラインのごくわずかな揺れから、雨後の渓谷のような香気が音楽として形成されていたのだよねえ。その少し冷たい香気を鼻からいっぱいに吸って、ドヴォルザークの音楽を胸にためた。一説によればオーケストラとソリストの間には「危険な瞬間」があったそうだけど、少し遠くに離れた地点からの聴取ではそんなに気にならなかった、というのが本音(単に聴き取れていないだけかもしれないけどね)。

ところがねえ。。マルティヌーがねえ。
ドヴォルザークで聴かれていた渓谷の香気は、鈍重なダムのような極端につまらない解釈によってずたずたにされてしまった。円光寺氏の指揮っぷりを聴いてこれまでに佳いと思ったことはただの一度もないけど、今回も順調にその履歴が更新されました。やったね☆

この交響曲は舞踊的なリズムと冷え冷えとしたメロディをどれくらい精密に実践できるかが勘どころと思いますが、ビエロフラーヴェク/BBC響の優れた演奏で予習していったのが仇となった感あり。ずーずーずー、べーべーべー、という「力点のない」リズム把握ではもうどうにも弁護のしようがない(オーケストラの側には絶対に非がない!と断言はできないかもしれないけど、こういうもっさい性質の音楽づくりでは、プラスアルファの「自発性」が「逸脱」と見なされてしまうのだろうなあ…と推察するところであります)。こういうガックリくる経験を積み重ねておくと、佳き演奏に巡り会えたときの感動はひとしお。応援しています名フィル!
by Sonnenfleck | 2014-11-01 11:10 | 演奏会聴き語り

フライブルク・バロック・オーケストラ|ブランデンブルク協奏曲全曲演奏会@三鷹(2/15)

せめて、ひと月に一度の更新くらいは死守したいよね。

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c0060659_10174032.jpg【2014年2月15日(土) 17:30~ 三鷹市芸術文化センター・風のホール】
<バッハ>
●ブランデンブルク協奏曲第1番ヘ長調 BWV1046
●ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調 BWV1051
●ブランデンブルク協奏曲第2番ヘ長調 BWV1047
●ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調 BWV1048
●ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調 BWV1050
●ブランデンブルク協奏曲第4番ト長調 BWV1049
○テレマン:Vn、Obと2つのHrのための協奏曲ヘ長調 TWV54:F1 ~ジーグ
⇒ペトラ・ミュレヤンス(Vn)+ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ(Vn)/
 フライブルク・バロック・オーケストラ


いかにも雪の多い2月であった。
2月14日の昼から降り始めた関東甲信の雪は、日が暮れると勢いを増し、大規模に降り積もっていった。2月15日の朝、われわれは東京とは思われないような光景を目の当たりにするのである(別に北国ならふつう)。よって、摩周岳登山に活躍した登山靴を引っ張り出すことになり、ひさびさに「雪わらを漕いで」三鷹へ向かうのだ。

自宅からバスでアクセスできる三鷹市芸術文化センター。ここはたいへん素直な響きの中ホールを持っていて、案外、古楽の重要公演が開かれることが多い。2012年のフライブルク・バロック・オーケストラ初来日公演も、僕はこのホールで聴いた。
聴いたが、感想文を書いていない。なぜか。
僕は2012年1月に初めて「古楽のベルリン・フィル」であるFBOを耳にして、どうにもピンと来なかったのである。
理由はいくつか考えられるが、このときの演目がバッハの管弦楽組曲全曲だったのは鍵になり得る。FBOのパリパリッと(ときどきゴリゴリッと)しながら特に 束 感 の あ る 響きは、特にヘンゲルブロックが去ってからこの楽団のアイデンティティになっていると思うんだが、このキャラクタと「かんくみ」のフランス様式とは必ずしも相性がいいわけではない、と感じるんだよねえ。

そのため、翻ってバッハの「コンチェルトグロッソ」であるブランデンブルク協奏曲に相対したとき、彼らの音楽づくりが輝くのは十分に期待ができ、またその期待ははっきりと満たされたのであった。

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チェンバロを搬入する予定だった「チェンバロ漫遊日記」さんのこのエントリにも少し触れられているが、2月15日の公演はチェンバロ・コントラバス・ヴィオローネといった大型の楽器がついにホールに到着することができず、ホール備え付けのチェンバロに、市中で調達した(!)コントラバスとヴィオローネを用いるという苦肉の策で、どうにか開演に漕ぎ着けるFBO。だいいち本人たちも、飛行機がキャンセルになったため急遽新幹線で京都から戻ってきたのだから、気の毒である。

こうしたトラブルがあったためか、冒頭の第1番についてはアンサンブルの状態が最上ではなく、少し心配させられたのではあったが、やがて尻上がりに調子を出し始めるのがさすが「BPO」なのですな。
アンサンブルは優秀な個の音の積み重ねであるというすんごく当たり前のことを、第6番と第2番で胸ぐらを掴まれグワッと理解させられる。バロック音楽で時には大切な「ひとつの円やか」に、やはり彼らは収斂されない。でもその代わり、果てしない重層構造が聴こえてくる。この強靱な束感こそFBOの美質なのだなあ。

後半は第3番のアダージョが思いのほかどす黒い装飾を与えられていたのでびっくりしたが、白眉は第5番の第2楽章と第4番なのだった!
この日、第5番でチェンバロを担当したセバスティアン・ヴィーナント Sebastian Wienand氏の軽やかで色気のあるタッチ、そして通奏低音Vcを弾いたシュテファン・ミューライゼン Stefan Mühleisen氏のしっとり吸いつくような美音により、第2楽章は震えるほど美しい時間になった。
ミューライゼン氏は特に、これまで自分が生で耳にしたなかで最強のアンサンブル系古楽Vcだったと断言できます。フォルムは強固なのに芯は空疎で、その「洞」に高音楽器の旋律をぴたりと填めてしまうあの音。自分のなかに少しだけ残っているプレイヤーとしてのペルソナが、あんな音が出せたら死んでもいいなと言っている。


↑シュテファン・ミューライゼンが通奏低音に参加した、ヴィヴァルディのトリオ・ソナタ編成《ラ・フォリア》。お聴きくださいよこの音を。

トリの第4番は、言葉で形容するのが難しい。こういうときは本当にアマチュアでよかったなあと思うのよ。プロの物書きはあの究極的なアンサンブルの魔法を分析して、それをわかりやすい言葉で公衆に提供しなければならないんだから。
第1楽書の終わり、無数の美しい音の束に優しく縛られて法悦を感じてしまったことを書いておく。聴き手を音楽的ドMに突き落とす演奏実践ってどうなのよと思う。それは確実に大正義だけれども。

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アンコール。テレマンっぽいなあ、きっとテレマンだなあと思って聴いていたら当たりだった。このアンコールの演奏からすると、いまのFBOはファッシュやジェミニアーニといった華麗系下世話バロックでも平然と素晴らしい演奏をするはず。聴いてみたい。ものすごく。
by Sonnenfleck | 2014-02-23 11:34 | 演奏会聴き語り

2013年感想文まだで賞(上)慶應リュリからブロムシュテットのブラームスまで

音楽会の感想文はこのブログの主たるメニューであるが、もう全然書けてない。溜まりに溜まってもう首が回らない。2013年分はここらでご破算としましょう。

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◆慶應義塾大学コレギウム・ムジクム合唱団・古楽アカデミー演奏会
【2013年1月5日(土) 18:30~ 慶應義塾大学・藤原洋記念ホール】
●シュッツ:《宗教的合唱曲集》、《シンフォニア・サクラ集》より*
●ハッセ:《クレオフィーデ》序曲ニ長調
●ヴィヴァルディ:4Vnのための協奏曲ロ短調 op.3-10
●ムファット:《音楽の花束》第1巻より組曲第6番ホ短調
●リュリ:《ロラン》~第4幕最終場・第5幕*
⇒佐藤望/慶應義塾大学コレギウム・ムジクム合唱団*
⇒石井明/慶應義塾大学コレギウム・ムジクム・古楽アカデミーオーケストラ


慶應の教養のいち授業として発足したコレギウム・ムジクム。その合唱団とオーケストラの初めての大規模合同演奏会。
曲数が多すぎて明らかに練習の足りていない作品もあったのだけど(3-10とか)、最後のリュリ抜粋で帳消しかと思う。驚くべきことにちゃんとリュリの舞台上演なのだった。バレエもパントマイムも、合唱もオケも、照明も字幕も手作り。バロックの演奏実践は音程より発音・フレージングが絶対条件になると考えていますが、この点ではオケも合唱も相当に訓練されていた。ただの総合大学の教養の授業で、よくここまでマニアックに仕上げたなあと素直に驚いたのだった。

※ちなみに年末年始にはコジファントゥッテを上演してしまうみたい。行かれないのが残念。

◆大野和士/水戸室内管弦楽団 第86回定期演奏会
【2013年1月13日(日) 18:30~ 水戸芸術館コンサートホールATM】
●ドヴォルザーク:弦楽セレナード ホ長調 op.22
●ブリテン:《ノクターン》op.60
→西村悟(T)
●シューベルト:交響曲第6番ハ長調 D589
⇒大野和士/水戸室内管弦楽団


大野さんのブリテンが聴いてみたくて、初の水戸遠征となった。
前半の《ノクターン》ではあの素敵なホールの親密さがぐるっと反転、寒さと孤独と夜の気配が空間を満たして、忘れられない藝術体験になってしまった。振り返ってみると10月のギルクリスト+ノリントン/N響よりさらにきめ細やかな残忍さが全体を覆っていたように思う。西村さんの声質も、バボラークのホルンも、アルトマンのティンパニも、みな冷たく光っていた。

後半、凍りついた心胆を再び温め直してくれたのが、シューベルトの第6。マエストロ大野のシューベルトはまるでロッシーニみたいに、楽しいものも、きれいなものも、美味しいものも、気持ちのいいものも、全部ぎゅうぎゅうに詰まった幸せ空間であった。第4楽章を聴いていてどんどん頬が緩んできたのを覚えている。

この夜、帰りのフレッシュひたち号でNHKスペシャルのダイオウイカを見逃したことを知る。ノクターン第2曲のクラーケンが脳裏に浮かぶ。

◆東京春祭 ストラヴィンスキー・ザ・バレエ
【2013年4月14日(日) 15:00~ 東京文化会館】
●《ミューズを率いるアポロ》
→パトリック・ド・バナ(振付)
⇒長岡京室内アンサンブル
●《春の祭典》
→モーリス・ベジャール(振付)
⇒ジェームズ・ジャッド/東京都交響楽団


控えめに言ってうーん…という感じ。自分はバレエ観者にはなれないかもしれないなと改めて思ってしまった。
能や歌舞伎からのエコーで今回のような振付のバレエを見ると、「ルールなんかないのサ!」というルールに縛られてるようですこぶる窮屈に感じる。びょんびょん飛んだり跳ねたりするモダン振付バレエの身体性が、能や歌舞伎ほどには納得できない。いやまったくすとんと落ちてこない。ギチギチのルールの中で身体を満開に咲かせている日本の劇作品のほうが、端的に言って好みなんであるよ。

でもそれゆえに、古典的な振付のバレエをちゃんと観なければばならない。くるみ割り人形とか。

◆ヘレヴェッヘ/コレギウム・ヴォカーレ+シャンゼリゼ管弦楽団来日公演@所沢
【2013年6月9日(日) 15:00~ ミューズ所沢】
<モーツァルト>
●交響曲第41番ハ長調 K551《ジュピター》
●《レクイエム》ニ短調 K626
→スンハエ・イム(S)
 クリスティーナ・ハンマーストローム(A)
 ベンジャミン・ヒューレット(T)
 ヨハネス・ヴァイザー(Br)
→コレギウム・ヴォカーレ・ゲント
⇒フィリップ・ヘレヴェッヘ/シャンゼリゼ管弦楽団


初めての生ヘレヴェッヘで嬉しい。
まず前半のジュピター、アンチ通奏低音な演奏実践にすごく驚いたのを覚えている。指揮者を含めて誰も(低弦やファゴットでさえ!)リズムに責任を持っていないように聴こえるんだけれど、しかし中音域にコアのあるオケは、清涼な小川のようによく横に流れてゆく…。これは実践の文法が違うだけなのだね…。いま思い出してみても特異な演奏だった。面白い。

そして後半のレクイエム。これは別次元の名演奏だったと思う。
前半、ヘレヴェッヘが何を指揮しているか自分にはよくわからない局面も多かったのですが、後半にコレギウム・ヴォカーレが入って、あれは声を最上位に置いた指揮なのだと確信。ヘレヴェッヘの両手は合唱とぴたり、、声が拍節を支配しているのだよねえ。声はヘレヴェッヘにとって旋律であり拍子であり和音なのだなあと改めて感じたのだった。

◆沼尻竜典/東京トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ 第64回定期演奏会
【2013年6月30日(日) 15:00~ 三鷹市芸術文化センター風のホール】
●プロコフィエフ:交響曲第1番ニ長調 op.25《古典》
●ショスタコーヴィチ:交響曲第14番 op.135
→黒澤麻美(S)
 デニス・ヴィシュニャ(Bs)
⇒沼尻竜典/東京トウキョウ・モーツァルトプレーヤーズ


武蔵野でひっそりと執り行われた演奏会だったけれど、実は日本のショスタコーヴィチ演奏史上、決定的な名演のひとつだったのではないかと思う。からっとドライ、喉ごし鮮烈、、からの、、深い闇。抉られる日曜の午後。指揮者もオーケストラも歌手もお客さんも、あの小さなホールごと闇に沈んだ。
今日の日本でもまだ、演奏することに価値があるように思われがちなショスタコの第14交響曲に、沼尻さんはちゃんと第5や第10と同じ「交響曲」としてメスを入れていた。演奏で精一杯、なんていう時代はもうお終いにしよう。この交響曲では比較的単調になりがちな響きの色づけ、特に弦楽器のアーティキュレーションを丹念に見直すことで、フルカラーのショスタコーヴィチが眼前に現れて、、そして第11楽章のв нааааааас!!!!!!!の絶叫とともにホール中の照明を落とした。

若くて主張のはっきりしたTMPの巧さと、彼らをキレよくドライヴしてゆく沼尻さん。前半のプロコフィエフの第1交響曲もたいへん好みで、この作品のライヴであそこまで納得がいったのは初めてだと思う(プロコの古典交響曲は極めて難しい作品だと僕は考えてる)。あちこちでぶつかり合い反応し合うフォルムによって、ホール中に色や形が散乱していた。実に気持ちよかった。

◆ブロムシュテット/N響 第1761回定期公演
【2013年9月21日(土) 18:00~ NHKホール】
<ブラームス>
●交響曲第2番ニ長調 op.73
●交響曲第3番ヘ長調 op.90
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団


先日、Eテレのクラシック音楽館でも放送されたので、多くの方がご覧になったのではないかと思う。言葉には尽くせない稀代の名演奏だった。

前半の第2番では第2楽章の艶と照り、第4楽章の爽快な爆発が印象に残る。こういう演奏をいまでも自在に繰り出すあの老人には心から敬意を表したい。何なんだろう。すごい。
後半の第3番は第3楽章がばらっとほどけて始まったんだけれど、風で揺れる梢が、瞬間的に途方もない複雑性を獲得するような感覚を受け取った。これまでブラームスでは体感したことのない不思議なマチエール。ブロムシュテットはブルックナーでもときどきこういう「自然のような複雑性」を花開かせたりするので、今回も何らかの事故ではなくああいう設計だったと考えている。

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(下)に続く。
by Sonnenfleck | 2013-12-28 11:50 | 演奏会聴き語り

ガッティ×モリーニ|未出版作品集”アッシジのコレッリ”世界初演@白寿ホール(11/21)

長い文章は書かずにいると書けなくなるなあと思った12月でした。すべての出来事や思いが140字に収まるわけがないのだ。

この11月、敬愛するヴァイオリニスト、エンリコ・ガッティが5年ぶりの来日を果たしました。まずはその初日、何とコレッリの未発表曲の世界初演という前代未聞のプログラムを聴きに行ったのであります。

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c0060659_9392733.jpg【2013年11月21日(木) 19:00~ 白寿ホール】
<コレッリ没後300年記念>
●アッシジのソナタ第1番ニ長調
●アッシジのソナタ第2番イ長調
●アッシジのソナタ第3番ニ短調
●アッシジのソナタ第4番ハ長調
●アッシジのソナタ第5番イ短調
●アッシジのソナタ第6番ト長調
●ソナタニ長調 anh.34
●アッシジのソナタ第7番ヘ長調
●アッシジのソナタ第8番ハ短調
●アッシジのソナタ第9番変ロ長調
●アッシジのソナタ第10番ト短調
●アッシジのソナタ第11番ホ長調
●アッシジのソナタ第12番イ長調
●ソナタイ長調 anh.33
●ソナタイ短調 anh.35
 ○ソナタニ長調 anh.36~Allegro
 ○アッシジのソナタ第8番ニ長調~Allemanda (Presto)
 ○ソナタヘ長調 op.5-10~Preludio:Adagio
⇒エンリコ・ガッティ(Vn)+グイド・モリーニ(Cem)


コレッリ農園の若い果実が、12個並んでいる。種類はすべて異なる果実。
ネットで子細は調べてもいまいちよくわからないのだけど、この12曲のVnソナタは10代後半のコレッリがボローニャで作曲し、アッシジの聖フランチェスコ教会の図書館に収蔵されていたらしい。
プログラムノートの寺西肇さんの記述をそのまま援用していくと、ガッティはこの手稿譜を注意深く校訂し、今回ようやく演奏可能な状況にこぎつけたとのこと。11月29日-30日にコレッリの生地・フジニャーノで開かれた学会で演奏される予定だったので、この11月21日の東京公演が本当の世界初演だった模様。

12個はいずれも、やがて成熟してのちの作品5に到達する道筋を示していた。旋律の運びはいかにもコレッリ好みで、平明と緊張を行き来しながら小体な世界を形成しているのであります。
ただ、技法が発展途上であるがゆえの未成熟な青臭さは、そのコレッリらしい小体な世界に少ない分量ながらも確かに混在していました。後年であればもっと自在に展開して広がるはずのメロディがすとん…と切れてしまったり、継ぎ目が不自然だったり、フレーズの形に少し無理があったり(ただ、第5番イ短調の妖しい旋律運びなどはコレッリ以前の世界をよく伝えていて、単なる若書き以上の煌めきを放っていた)

もちろん、こうした青い苦さはコレッリの成熟の土台になっているのだろうけれども、そのことを逆に強く印象づけたのが、一緒に演奏された「作品5には入らなかったソナタ」と、アンコールで取り上げられた作品5-10なのであった。

出版されたものの、作品5の12曲には組み入れられなかった3曲のソナタ。これらはあり得たかもしれない作品5のパラレルワールドとして十分な完成度を誇り、若書きの味から苦みやえぐみだけが注意深く取り去られているのがわかる。

しかしどうだろう。作品5-10のプレリュードの完熟した味わいは…!
その第一音から、黄金色の蜜が小さなホールをなみなみと満たしていく。装飾が丁寧に施された旋律線、その甘美にして健康な蜜の味わいに聴衆が息を呑む。ガッティのボウイングが余韻を完璧にコントロールして蜜が消え去ると、皆、痺れ薬から覚めたかのように震える溜息を吐いて、やがてじわじわと拍手が高まっていく。青い果実の酸味に慣れていた数十分の最後に、とどめの蜜なのであった。
なおこの日の装飾音はガッティ不滅の名盤とは少し違って、ちょっと爽やかテイストだったことを書き添えておきたい。

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エンリコ・ガッティは、僕がこの世の中で最も尊敬する音楽家のひとりなのですが、ついにこれまで生で体験することができずにいた。
2008年の「目白バ・ロック音楽祭」(これがもし続いていたら、首都圏の初夏はずっと薫り高いものになっていたでしょう)で来日して以来、ガッティはずっと日本には足を運んでくれなかったのだった。

初めて生で聴くガッティの音色は、もちろん録音で慣れ親しんできたとおりのフルーティな甘みを誇っていて、最初の調弦からして芳醇な香りがする。
ところがよくよく聴いていくと、そこには甘みだけではなくて、ハーブのような複雑な野性味がひとつまみ加えられているのがわかる。ボウイングの微かな加減によってこのビターな味わいが存在しているようです。

さらに、今回たいへんに驚きかつ心を揺さぶられたのは、彼の音色が燦燦と輝く太陽のような開放感を伝えてきたこと。密室の悦楽、室内の妖しい遊戯である後期バロック音楽のその入口に、燦然と輝く太陽!コレッリの音楽に「絶対的に不可欠な」強い陽光を、僕はついに聴き知ったように思う。
by Sonnenfleck | 2013-12-23 09:43 | 演奏会聴き語り

アンドレアス・ショル リサイタル@武蔵野市民文化会館(10/12)

【2013年10月12日(土) 19:00~ 武蔵野市民文化会館小ホール】
●ハイドン:絶望、さすらい人、回想
●シューベルト:ワルツ op.18-6*
 林にて D738
 夕べの星 D806
 ミニョンに D161
 君は我が憩い D776
●ブラームス:間奏曲 op.118-2*
●モーツァルト:すみれ K476
●ブラームス:《49のドイツ民謡集》~
  かわいいあの娘は、ばらの唇
  今晩は、ぼくのおりこうなかわいこちゃん
  我が思いの全て
  下の谷底では
●シューベルト:丘の上の若者 D702
●モーツァルト:ロンド ヘ長調 K494*
●シューベルト:死と乙女 D531
●ブラームス:《49のドイツ民謡集》~
  かよわい娘が歩いて行った
  静かな夜に
●モーツァルト:夕べの想い K523
○イダン・レイチェル:静かな夜に
○イギリス民謡:恋人にリンゴを
→アンドレアス・ショル(C-T)+タマール・ハルペリン(Pf*)


武蔵野文化会館はわが庵からぎりぎり徒歩圏内なのだが、何しろ大事な公演が平日に集中するので、真面目に会員になってチケットを押さえる気にはなりません。
それでも年に数回は、こうしてどうしても聴きたい音楽会が週末に開催されたりするので気が抜けない。八方手を尽くして、カウンターテナーのスター、アンドレアス・ショルのリサイタルに足を運びました。

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ショルを初めて生で聴くのにバロックではないことについて、当初、全く不満を覚えないではなかった。バッハやヘンデルで彼が聴かせる完璧な歌唱を(それから伴奏をつける活きのいいバロックアンサンブルたちを)CDで楽しんできたのだから、これは仕方がないと思う。
でもタマール・ハルペリンとの19世紀リートプログラムに、この夜、僕は打ちのめされたのだった。

まず、何を措いてもシューベルトです。
「カウンターテナーの」という形容詞を、僕たちは無意識に欲する。それは彼らが歌うリートが表層的にはソプラノやテノールのリートとは異質な様相を呈するからだけど、硬い表層に守られて蠢くシューベルトの深淵に一度到達してしまうと、「声の種類」なんていうのは実に大したことのない問題に成り下がる。むしろ、シューベルトの硬い表層は、カウンターテナーの異質性によっていとも簡単に破られる、と書くべきかもしれぬ。ある種の劇的な薬品が染みわたるように、化学反応が起こっているから。

ショルのディクションは、よく聴き慣れた彼のバッハやヘンデルとは少し違っていた。ほんのわずかに均整が崩れて、深々と絶望するような浪漫が灯る。人間らしさに声が湿る。
そのような美しいドイツ語で実践されたシューベルトは、ほんの瞬間的な違和感の直後、そのでろでろとした深淵を覗かせる。これは恐怖であった。《ミニョンに》もだし、《丘の上の若者》も。…《死と乙女》で乙女パートと死神パートを歌い分けたのは、ファンには面白くても、少し表面的な試みだったかもしれないけれど。

そしてモーツァルトのとき、声が急激に乾いてからりと明るいディクションになったのは、まさに聴き逃がせないポイントだったと言える。僕がよく知っているショルの発音実践はこちらだったからだ。

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ただしこの日、ショルのコンディションはどうやら万全ではなかった。第一声に僅かにスモークされたような香りがあり、こんなものかなあ年取ったのかなあと思っていたら、前半のあちこちで「…ェヘン」「…コホ」と小さな咳払いを確認。
最後のブラームスではついに歌いながら咳き込んで、一時的に演奏がストップしてしまうという珍しくも気の毒な事態に。それでもすぐさま体勢を立て直せるのはプロだなあと思う。

サイン会のときにお大事に、と声を掛けたら、深く息を吸い込むとどうしてもネ、みたいな反応だった。身体が楽器であればこんなこともあるよね。今度は万全な状態で彼の美声を楽しみたいものです。
by Sonnenfleck | 2013-12-01 09:32 | 演奏会聴き語り

新国立劇場《リゴレット》|明るい廊下の光に208号室は隷属する(10/12)

c0060659_10395040.jpg【2013年10月13日(土) 14:00~ 新国立劇場】
●ヴェルディ:《リゴレット》
→マルコ・ヴラトーニャ(リゴレット)
 エレナ・ゴルシュノヴァ(ジルダ)
 ウーキュン・キム(マントヴァ公爵)
 妻屋秀和(スパラフチーレ)
 山下牧子(マッダレーナ)
 谷友博(モンテローネ伯爵)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→アンドレアス・クリーゲンブルク(演出)
→ピエトロ・リッツォ/東京フィルハーモニー交響楽団


自分が中学生のころに読んだものの本によると「俳句を詠む作法には大きく2通りある」ということであった。ひとつは季語そのものを季語以外の言葉でもって深く説明するやり方、もうひとつは季語と季語以外の事象を衝突させて化合させるやり方。でもいずれの手法に対応するにも自分には才能がないことがわかって、それ以降は俳句の道から遠ざかった。

オペラの演出もだいたいはこの2通りのどちらかで説明がつくんじゃないかなあと思う。上述の俳句ハウツー本は続けて、季語そのものを掘り下げるほうが格段に難しいと断言していた記憶があるんだけれど、これもやっぱり演出に共通するよね。

今回の新国立劇場《リゴレット》、クリーゲンブルクの演出はおかしな異化にはそれほど頼っていなくて、作品そのものの掘り下げを狙いながらオペラの娯楽性を損なわない。
細部は雑な雰囲気もあったので全知全能の演出ではないかもしれないけど、このオペラの腐りきったストーリーの、そのなかでも特に腐乱した部分を明々と照らし出す厭な演出だった。まずはその一点突破主義において、クリーゲンブルクは賞賛されてもいい。

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マントヴァの宮廷から場所を移されたのは現代のラグジュアリーホテル。ラウンジをそぞろ歩く若い女性たちが形成する華やかな視界が、オペラを観る空虚な楽しさを増強する。しかし客席側に示されているのはラウンジと廊下だけで、客室の匿名性は絶対。
そんな匿名客のひとりが、ギャングのイケメン若頭・マントヴァ公爵。公爵とその手下のギャングたちは手当り次第に女性を客室に連れ込んでは痛めつけ、残虐非道のリア充生活を送っている。次の標的は道化が囲っているとされる「愛人」とのこと。

この演出で、ラグジュアリーホテルの独特の冷たい静けさは、マントヴァ公爵の人格性の薄さに直結している。彼はセックスマシーンと言うべき正確さで事を終え、すぐに次の仕事に掛かるわけだけれども、その同質感がホテルの廊下に並ぶドアたちと瓜二つなのよね。客室のつくりがどの部屋でも寸分違わないのと、マントヴァ公爵の餌食になる女性に固有名詞が不要なことは、よく似ている。

それとは反対に、人格性が強くて替えが効かないのがリゴレットやジルダ。でも残念ながら、その固有性を活かすところまでクリーゲンブルクが考えていたかどうか僕にはわからない。マントヴァ公爵と廷臣たちの「空虚で楽しい世界」がリアルすぎて、リゴレットやジルダのほうがむしろ奇矯な人物に見えてしまうんだよね。この演出ならオペラ《マントヴァ公爵》と呼ばれるべきだったかも。

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主役の3人はいずれも好印象。リゴレットのヴラトーニャは立派な体格と朗々たる声で、なんで廷臣に加わって一緒に悪さをしないのかわからない。ジルダのゴルシュノヴァは比較的強靱な声質の持ち主で、役の頑迷固陋な一本気とはすかっと一致。
それからマントヴァ公爵のキムは(すでに各所で話題になったとおり)朝青龍によく似た見た目と朗らか残忍な美声の持ち主で、こちらも作品のキャラクタとしっかり合致してしまっていた。

指揮者とオーケストラには少し問題があったと思う。丁寧に硬く小さくまとまっているなあ、たぶんヴェルディをやるにはこれはよろしくないんだろうなあ、と冒頭から感じていたんだけど、この箱庭感はたとえばモーツァルトや《ペレアスとメリザンド》や《鼻》を活かす種類の感覚ではないかしら。ほかの作品で聴いてみたい。リッツォ氏。
by Sonnenfleck | 2013-11-16 11:49 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その十 国立能楽堂開場30周年記念公演@国立能楽堂(9/16)

内容に一部誤りがありました(ご指摘ありがとうございました)。
当該箇所については訂正・削除しました。ご迷惑をおかけした方にはお詫びします。

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c0060659_1838739.jpg【2013年9月16日(月祝) 13:00~ 国立能楽堂】
<国立能楽堂開場30周年記念公演>
●能「住吉詣」 悦之舞(観世流)
→大槻文藏(シテ/明石の君)
 梅若玄祥(ツレ/光源氏)
 武田志房(ツレ/惟光)
 寺澤幸祐(ツレ/侍女)
 大槻裕一(ツレ/侍女)
 松山隆之(立衆/従者)
 土田英貴(立衆/従者)
 角当直隆(立衆/従者)
 川口晃平(立衆/従者)
 小田切康陽(立衆/従者)
 武富晶太郎(子方/童)
 寺澤杏海(子方/随身)
 武富春香(子方/随身)
 福王和幸(ワキ/住吉の神主)
 山本則孝(アイ/社人)他
→藤田六郎兵衛(笛)
 曽和正博(小鼓)
 國川純(大鼓)
●狂言「鶏聟」(大蔵流)
→山本則俊(シテ/聟)
 山本東次郎(アド/舅)
 山本則重(アド/太郎冠者)
 山本泰太郎(アド/教え主)他
●能「正尊」起請文(金春流)
→金春安明(シテ/土佐坊正尊)
 武蔵坊弁慶(ツレ/本田光洋)
 金春憲和(ツレ/源義経)
 山井綱雄(ツレ/静御前)
 山中一馬(ツレ/江田源三)
 政木哲司(ツレ/熊井太郎)
 中村昌弘(ツレ/義経郎党)
 辻井八郎(ツレ/姉和光景)
 本田布由樹(ツレ/正尊家来)
 本田芳樹(ツレ/正尊家来)
 山本則秀(アイ/召使の女)他
→松田弘之(笛)
 幸正昭(小鼓)
 亀井広忠(大鼓)
 桜井均(太鼓)


この日は台風18号が正午に関東地方最接近という最悪のコンディション。鉄道各路線が次々と運転を取りやめるなか、自分の路線は雨風にめっぽう強いためぴんぴんしており、そのまま大江戸線に潜って事なきを得た。千駄ヶ谷ルノアールで軽めのランチ(そして、千駄ヶ谷に行くたびに使ってたニューヨーカーズカフェが閉店しているのを発見!)

国立能楽堂開場30周年記念公演は、東西の人間国宝たちが一堂に会し、能が3日間+狂言オンリーで1日=4日間が費やされる一大イベントでした。第1希望は有給休暇を取っての9/17(火)、第2希望は9/15(日)だったけど、まあそううまくもゆかない。9/16(月祝)だってそうそうは見られない巨大編成作品による番組だったのだから、これは文句は言いっこなしだ。

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まず、この日いちばん好かったことから書きましょう。

◆鶏聟
吉日の婿入りで舅に挨拶しようと意気込む聟が、しかし自分はマナーを知らないので教えてほしい、と意地の悪い教え手を訪う。教え手は「これこそ当世風である」と騙して、舅に会ったら鶏がつつき合うように振る舞うのがよい、と聟に吹き込む。

そして実践してしまう聟。ところがこの狂言の真骨頂はここからで、奇怪な振る舞いの聟に相対した舅が「これに驚いては物を知らない舅と思われる…!」と考え、同じように鶏の真似をして応対するのだよね。この人間らしい悲哀。完全な真面目。

◆やはらか狂言
舅役の人間国宝・山本東次郎さん(これまでにもどこかでお姿を見ていたかもしれない)のしなやかな身体に、この日は否応なく引き込まれた。舞台上を浮遊しているのではないかという足運び、泰然と生真面目の同居、柔らかく凛として、しかも聴き取りやすいディクション、、狂言でこんなに透き通った身体感覚を感じたことがなかった僕には、たいへんなショックなのだった。

その「やはらかな」演技は、硬質な山本則俊さんの聟の演技と互いに引き立て合って、藝術としての狂言の深淵をぱっくりと覗かせていた。でも、それでいてくすくすできるのだから、まったく狂言というのは興味深いじゃないですかー。

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◆住吉詣
「源氏物語」第五十四帖「澪標」に基づく、源氏と明石の君の哀しいお話です。
住吉神社に大願を懸けて詣でる源氏の行列。たまたまそこを訪れていた元カノ・明石の君は、行列の麗々しさに気おされながら源氏にひと目会うことを望み、やがて感興を催した源氏の前でひとさし舞う。しかし源氏は留まることなく帰っていく。

◆人物たちであって人物たちでない
「住吉詣」のコアには光源氏と明石の君がいるけれど、この能には源氏の随臣たちが大勢登場する。源氏の乳母子である惟光は多少の台詞も用意され、人物として機能しているが、それ以外の人物たちはあまりそのようには見えない。

加えてこの公演では、梅若玄祥さんの源氏も、大槻文藏さんの明石の君も、軽やかさより石像のような重厚感を帯びる。より率直に言い換えれば「抑制された人物らしさではなくて、どこまでも人物らしくなさ」を辺り一面に照射していたように感じたのだった。

●正尊
この公演の少し前に、Eテレ「古典芸能への招待」で放送された「正尊」。頼朝からの刺客・土佐正尊と義経一行のチャンバラ劇です。

神様も亡霊も鬼も何も出てこないあの能は、能のフォームを利用する意味があるのだろうか?陰翳を欠いたドラマトゥルギーと、金春流の不思議な謡い方が精神を酔わせる。どやどやと頭数が揃って、しかし歌舞伎のような群舞の美しさもない。当分、この演目を見ることはないだろうなと思う。

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めでたく観能10回目を迎えまして。
あの舞台上の緊張感は、たとえば《大地の歌》の最後の3分間が80分間に引き延ばされたようなもので、およそ現実世界では味わうことができない。クラシック音楽の、弛緩した心地よさより凝縮した緊張感のほうを好む皆さんは、思い切って能に向かってみることを強くお勧めするものであります。
by Sonnenfleck | 2013-11-04 21:33 | 演奏会聴き語り

ノリントン/N響|この麗しのブリテン日和に 第1764回定期@NHKホール(10/20)

c0060659_19161033.png【2013年10月20日(日) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:《エグモント》序曲
●ブリテン:《ノクターン》op.60
→ジェームズ・ギルクリスト(T)
●同:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲 op.33a
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 op.93
⇒ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団
 *ゲスト・コンサートマスター:ヴェスコ・エシュケナージ


今年の東京の10月は天候が不順である。すっきりと晴れてカラッと暑いこともある例年に比べて、今年は台風に脅かされて、じめっと蒸し暑かったり肌寒かったり、どんより曇ったりしている。
この日、この公演に行くかどうか実はかなり判断に迷った。篠突く雨をかいくぐり、朝イチから三井記念美術館で桃山の陶器を眺めたまではいいものの(そのうち感想文が書ければよい)、どうにも寒くて動けない。風邪の神様がこっちを見つめている。

しかし風邪の神様はヤヌス。もう一面にブリテンの顔を貼りつけている。こんな冷たい雨の秋の日曜日は、年にそう何度もない絶好のブリテン日和。それでノリントンとギルクリストが《ノクターン》を演るのに聴きに行かなくてなんとする。。

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《ノクターン》は非常に精妙な音楽なので、できれば歌い手の直接の声が飛んでくる場所で聴きたい。当日券売り場で奮発して、1階の前方席を買う。

果たして、この選択は当たりだった。
BCJのソリストとして歌うこともあったらしいギルクリストは、もしかしたらどこかで聴いているかもしれないんですが、それにしても驚いたのは魔術的なディクションの威力です。ボストリッジがまるで256色の8ビットカラーに思えてしまう「24ビットカラーの不吉」。この作品でブリテンが使用した厭な色、夢幻の色、暗示的な色が凄まじい精度でプリントされていく。ギルクリストは道化のようにふざけて語り、後シテの死霊のように静かに謡う。

そしてノリントンとN響は。こちらも素晴らしいのひと言に尽きる。たとえば〈しかしあの夜〉の救い難い悪意や、〈夏の風より優しいものは何だろうか〉の幽かな空間。。
ノリントンのノンヴィブラート奏法(通称Norring-tone)が適用されたブリテン音楽を聴くのはたぶんこれが初めてなんだけど、その冷え冷えとした肌合いは、5月に接したアンサンブル・アンテルコンタンポランの対局にあるのかもしれなかった(澤谷夏樹氏が告発していたとおり、フランスの彼らは案外、発音に対するこだわりを持っていなかった…)。音楽のそれぞれの様式が演奏家に要求する実践のなかに、音の風合いや肌合いが含まれるのは、バロックも20世紀も同じなのだわいね。

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翻ってベートーヴェンの第8は?
細部の整えが行われていないピリオドのベト8は、とても残念だけれども今日ではすでに、それほど価値を持たない。同じ方角の遥か彼方にハイパーなトップランナーたちが幾人もいて、道を切り拓いた先蹤がいまや追い抜かれていることを聴衆は知ることになる。
昨年の「第九演奏会」のしっかりとした統率とはほど遠い渾沌のアンサンブルのまま、フレージングから生み出される勢いだけで音楽を推進させる様子に、ノリントンの「老い」を初めて感じた。オーケストラはブリテンのときより混乱していて、しかしそれでもアーティキュレーションが相変わらず異様に鮮やかに機能しているぶん、少なからず悲しかったんである。
by Sonnenfleck | 2013-10-27 19:50 | 演奏会聴き語り

前田りり子リサイタルシリーズ・フルートの肖像Vol.9|バルトルド・クイケン×前田りり子@近江楽堂(9/7)

c0060659_947592.jpg【2013年9月7日(土) 14:30 近江楽堂】
●オトテール:2Flのための組曲 ロ短調 op.4
●クープラン:趣味の融合、または新しいコンセール第13番
●バッハ:無伴奏Flのためのパルティータ イ短調 BWV1013**
●テレマン:2重奏のためのソナタ ニ長調 op.2-3
●C.P.E.バッハ:無伴奏Flのためのソナタ イ短調 Wq.132*
●W.F.バッハ:2Flのための二重奏曲第1番 ホ短調 Fk.54
○C.P.E.バッハ:小品(曲名不詳)
○W.F.バッハ:小品(曲名不詳)
⇒バルトルド・クイケン(Fl*)+前田りり子(Fl**)


バルトルド・クイケンのふえを聴くのはたぶんこれで三度目くらいなのだけど、むろん、近江楽堂のように狭い空間で贅沢に体感したことはない(りり子女史のふえはもう何度目かよくわかりません)

当日の近江楽堂は、あのクローバー型の空間の中央に2つの譜面台と1つの椅子が置かれて、100名弱のお客さんが四方から取り囲む形式。遅れて到着した僕は、譜面台の向きから判断するにP席に相当するブロックの最前列に「まー背中からでも近いからいいかー」と座ったのだが、後からこれが幸いする。

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で、入場してきたお師匠さんとお弟子さん。小柄なお弟子さんが立奏すると大柄なお師匠さんが座った高さとちょうど合うらしく、バルトルドは椅子に腰掛ける(あとでりり子女史が教えてくれたのだけれど、バルトルドはひと月前に足の骨を骨折してたとのことで…)
そしてありがたいことに、1曲ごとに回転しながら方向を変えて吹くよーとの仰せ。P席が一気にS席に早変わりするの図です。

さて、僕としては最初のオトテールのデュオがこの日のクライマックスだったと言ってよい。
本業の多忙が続いて、1ヶ月以上コンサートにご無沙汰していたのもあるし、バルトルド御大とりり子女史の音を至近距離で聴けるというミーハーな喜びもある。しかしオトテールの、お約束どおり終曲に置いてあるパッサカリアが、やっぱりお約束どおり中間部で長調に転調して見せるに及んで、バロックの血がじゅっと沸騰するのを感じたのであるよ。

ふつう、クラシック音楽全般をレコード芸術的に幅広く聴くひとがあれば、彼らがイメージするバロック音楽というのは《マタイ受難曲》だったり《ブランデンブルク協奏曲》だったり《水上の音楽》だったりする。ところがバロック音楽の本質のひとつであるキアロスクーロは、巨きな管弦楽や大合唱よりも、小さなアンサンブルの細部に宿っていることが多いんである。
閉ざされた部屋における密かな明暗の悦びをこっそり分けてもらうこの上ない贅沢は、ふえを知悉しきったオトテールによって、また師匠と弟子の親和する一対の息によってもたらされる。パッサカリアが緊張したロ短調から解放されるその瞬間の光を、僕たちは深呼吸するように味わう

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バルトルドのソロで演奏されたエマヌエル・バッハも(企画の主であるりり子女史には申し訳ないけれども)、この日聴きに出かけて本当によかったと思わせる仕上がり。これもバロック音楽の本質のひとつである「究極の名人芸」に触れたわけですが、目にも止まらぬ速さで鮮やかに撫で斬りされたみたいで、死んだことに気づかない浪人Aみたいな心地。御大が吹いていたのは仕込み笛でござった。

還暦を過ぎてますます進化を続けるバルトルド。BCJの女王(すいません)りり子女史も、大師匠の前では何やら少女のように可憐な姿を見せている。
by Sonnenfleck | 2013-10-14 09:48 | 演奏会聴き語り

スクロヴァチェフスキ/読響 第67回みなとみらいホリデー名曲シリーズ|そして8年後…(10/6)

c0060659_2281916.jpg【2013年10月6日(日) 14:00~ みなとみらいホール】
●ベルリオーズ:劇的交響曲《ロミオとジュリエット》op.17~〈序奏〉〈愛の情景〉〈ロミオひとり〉〈キャピュレット家の大饗宴〉
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
 読売日本交響楽団


正直に告白すると、僕はスクロヴァチェフスキを「何かもういーや」と思っていた。かつてあれほど心酔したにも関わらず、ここ最近の動向について情報を集めることすらしてこなかった。
ところが今年の読響客演のショスタコーヴィチが、何やら大変な反響を呼んでいる。そうなると現金なもので、2005年客演時のショスタコの極めて素晴らしいパフォーマンスを思い出し、やがて当日券を頼みにホールへ足が向いてしまうのであった。

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で、どうだったか。
第4楽章の凄まじいギアチェンジ、この考え抜かれ鍛え抜かれた推進力には恐れ入った。自分が8年前に書いた感想文がそのまま生きるので、引用しましょう。
緊張を保持したまま、アタッカで第4楽章。恐ろしく遅いテンポで辺りを蹂躙したかと思えば、シニカルなリタルダンドを掛けてニヤリとさせたり、楽しい仕掛けが満載。ちょっとおこがましい言い方ですが、この曲をよく知っていればいるほど面白いのです。最後、普通の指揮者は素直にコーダに重心を置きますが、スクロヴァはコーダの直前に大きなクレッシェンドを掛け、異常に肥大した山を作る。聴き手はここでもまた度肝を抜かれます。なんていう人だ。。
でも8年後の僕が腰が抜けるほど驚いたのは、この第4楽章ではなくて、第3楽章の信じられないくらい荒涼とした心象風景なのだった。
ショスタコーヴィチの第5交響曲は、もしかすると、ただ第3楽章のために存在しているのかもしれず、また、スクロヴァチェフスキと読響の8年間はそれを証明するのに十分な関係を互いに構築させたのかもしれません。

ご存知のようにこの曲の第3楽章は、ショスタコが書いたもっとも美しいアダージョのひとつです。この美しさをストレートに表現することで成功している演奏もかなり多いし、そのアプローチについて僕はそれほど疑念を持たない鑑賞者だった。そうだったけれども、今日からは違う。

スクロヴァチェフスキは、ここに甘美なブルジョワ糖蜜をたっぷり掛けたりしなかったし、「<強制された歓喜>に対する<抵抗>の自己表現」にもしなかった。爺さんの前でこの楽章はただ、凍てつく冬に「商店」に並ぶ小母さんたちの偉大さに捧げられた、バビ・ヤールの第3.5楽章として存在していた。こんなマチエールの第3楽章は、ただの一度も聴いたことがない!!

バビ・ヤールの言葉なき追加楽章とするために、ポルタメントで厭らしく粘つく2ndVnや、裸のままで乾いたアタックのCb、一斉に縦方向に叫ぶ木管隊、空間を横方向に切り裂くヒリヒリとしたハープに至るまで、スクロヴァ爺さんは容赦なく必要なものを集める。そして彼のいつもの「構築」の柱や梁として、それらのリソースを実に贅沢に使い倒す。
そのようにして組み上げられた響きの空間は、この交響曲が後期ショスタコーヴィチの培地たりうる大傑作であることを、再び僕たちに教えてくれる。「自発的に次に亘る」演奏の前では、誰かが”証言的である”と決めつけるのも、”証言的でない”とみなすのも、等しく意味がない。こうした視点を、僕たちは90歳の元祖モダニスト老人から授けられる。

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それから(これもちゃんと書いておきたい)第2楽章も見事のひと言なのだった。
この1年、能と一緒に狂言を見るようになって、優れた狂言の実践は最初から最後まで厳格な真面目さによって貫かれているということがわかってきた。この楽章はカリカチュアライズが簡単にできるので、今世紀の演奏はかなり露悪的なものが多いように思いますが、それだって狂言と同じで、クソ真面目にドタドタやってこそ活きる。露悪の裏に何もない、すっからかんの素寒貧。この日のスクロヴァチェフスキのドライヴは、ちょっとコンドラシンを思い出させるくらい、完璧だった。

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さて前半のロメジュリ抜粋。「4楽章の劇的<小>交響曲」の形式に整えられたベルリオーズの、異常な前衛性に僕たちは気がつかなければならない。膨張して1839年の木枠を突き破るその姿に、1937年に鉄の文化政策を腐食させ、次代の芽を宿していた音楽を重ねてみるのも、おそらく悪くないのでありましょう。

スクロヴァ爺さん。僕はやっぱりあなたの元に戻ることになりそうです。


by Sonnenfleck | 2013-10-06 23:00 | 演奏会聴き語り