カテゴリ:演奏会聴き語り( 380 )

ブリュッヘン・プロジェクト第4夜|新日フィルのシューベルト三態@すみだ(4/15)

c0060659_238152.jpg【2013年4月15日(月) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第4夜:シューベルト>
●交響曲第5番変ロ長調 D485
●交響曲第8番ハ長調 D944《グレイト》
 ○劇付随音楽《ロザムンデ》D797~間奏曲第3番
⇒フランス・ブリュッヘン/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


飛び去ったとんぼの影を追いかけて、追いかけちゃならないようにも思ったけれど、来てしまった。すみだ。
当日券で1階7列目中央ブロックに座る。そこが当日残っているくらい、お客さんの数は少ない。18世紀オケの3公演の後では仕方がないのかもしれないが、新日と公演の順番が逆だったら果たしてどうだっただろう。

オール・シューベルト。
前半の第5番は僕にとってはプラスの方向に評価するのが難しい演奏だった。遠くに飛び去ったとんぼの、そのまた影を眺めるようなもどかしさ。
極薄に刈り込まれたアンサンブルがなんだかヒリヒリして、あの優しい第5番が立ち上がるのに必要なふあっとした実体がなく、荒涼としたランドスケープが広がっている。弦楽隊のみんながボウイングの伸びやかさを抑えこまれ、ガチガチに凝り固まったフレーズの断片が風に揺れるばかり。このコンビが18世紀オケと同じ響きになるわけがないのだけど、でもハイドンやベートーヴェンツィクルスのとき以上に、枯れた花のような音楽になってしまっていた。

求めていたのはこれじゃないのだ…!と強く感じつつ、いっぽうで、これは00年代ブリュッヘン好みの北極点だったのではないか?という思いもある。18世紀オケの《未完成》はオケのメンツが此岸で踏ん張っていたんだなあ(ちなみにGlossaの新ベートーヴェン全集も、ああなるぎりぎり一歩手前みたいな演奏です)。リコーダー仙人がひとりで踏み込んでしまうと、こうなるのかもしれない。

+ + +

後半もこんな演奏だったらどうしよう…と思った僕を、ブリュッヘンはその音楽で温かく平手打ちにした。

僕はこれまで、ブリュッヘンと新日フィルのコンビネーションに対して、どこかで18世紀オケの影を重ねようとしてきた。ないものをねだるようにして。でもついに新日フィルは、新日フィルの特徴的な響きのままブリュッヘンの文法講座を修了し(あるいは習得に限りなく近づき)、その卒業演奏を僕たちに聴かせてくれたのだ。「守破離」で言ったらこの夜が間違いなく「離」だった。

硬く凝縮した第5番から一転し、単純に舞台上の人数が増えたことだけでは説明できないような響きの広がりが、第1楽章の序奏から徐々に生まれてくるのを観測していく。しかもその文法は弦楽器の側からアーティキュレーションに細心の注意を払わせた公平なバランス、つまり18世紀オーケストラと同様ながら、響き自体はたしかに少し腰高で細身の、あの新日フィルの音によって担われている。
これがどれほど単純で複雑なパフォーマンスであることか。2005年からの、8年越しの音楽文法講座の集大成である。

全編にわたって恐ろしく燃焼した演奏だったけれど、特に真ん中の2つの楽章はブリュッヘンのコントロールがよく効いていたように思われた。

まず第2楽章。僕はたしかにここでマーラーの子葉を聴いたのだけど、それはシューベルトのなかの古いウィーン性みたいなものが胚乳として利用されていたからに相違なく、その(ビーバーやフックスから流れてきているはずの)古いウィーン性は、ブリュッヘンが指示する管楽器の特徴的な厚みや強いアクセントによって増幅されている。それを養分に子葉が別の進化を歩むと、あのアンコールで示されたヨゼフ・シュトラウスになるのだろう。
最後の和音はとても整ったメッサ・ディ・ヴォーチェ。ブリュッヘンが新日フィルを「吹いて」いるようで、胸が熱くなる。

そして第3楽章。あの美しいトリオで自分は涙腺が壊れたようにだぼだぼ泣いたのだ。大編成の弦楽隊はパートとパートの間で静かな対話を繰り返しつつ、そこに対峙する木管隊はメリーゴーランドのように多幸感をきらきらと放射する。それらはどこまでも公正なバランスに乗って届いた。

第1楽章第4楽章は新日フィルの想いが昂ぶって、たいへん熱い演奏だった。ブリュッヘンも「しぃーっ」ていうやつをやっていなかったから、想いに応えていたのかもしれないです。豊嶋コンマスの渾身のリード、すごかったな。僕はプロのコンマスがあれほど気持ちを全身に乗せて弾いている姿を見たことがなかったし、演奏後にあれほど魂が抜けてしまっているプロのコンマスを見たこともなかった。

+ + +

アンコールには18世紀オケとの初日(僕は聴けなかった)でも演奏されたという《ロザムンデ》の前奏曲。
典雅な和音が穏やかに並んで生成されていくなかで、老人が指揮台から「クンッ」と軽い指示をコントラバスに飛ばすと、急に音楽の底が抜けて、漆黒の闇が口を開くんである。たいへん恐ろしい瞬間であって、これもずっと忘れないだろう。

その後、ロザムンデの後にもみんな譜面を急いで捲っていたので、どうもアンコールがもう一曲あったんじゃないかという気がしている。しかしブリュッヘンが車いすに座ったまま自分を指さしながら「俺はもう疲れた」みたいに豊嶋コンマスに話しかけて、そのまま解散となったのだった。
でも、これでよかったように思う。最後のアンコール曲は、もしかしたらあの最初のラモーの再演だったかもしれないし、あるいはまたバッハやシュトラウスだったかもしれないけれど、寂しく輝く美しいロザムンデが、最後に強い「。」ではなく余韻のある「―」を置いて、そうして中空に消えていった。
by Sonnenfleck | 2013-04-23 23:17 | 演奏会聴き語り

バッハ・コレギウム・ジャパン《ヨハネ受難曲》@彩の国さいたま芸術劇場(3/30)

3月末から4月初旬に受難曲を聴く習慣は、もちろんクラヲタになってから身についた後付け設定なのだけど、なんだかすっかりしっくりくるように脳みそがチューニングされている。
BCJによるバッハの受難曲を聴くのは何度目だろう。聴くたびに新しい発見があり、何かを得て家路につく。

今年は3/29が聖金曜日。オペラシティでBCJを聴くのをなるべく避けたい者として、翌日にさいたま芸術劇場の公演が設定されているのは幸運でした。
さいたま芸劇は、いまの居所からならそれほど遠くはない(すみトリとあまり変わらず、MMよりは間違いなく近い)にもかかわらず、これまで足が向かないホールだった。最寄りの埼京線・与野本町駅からのアプローチは、三鷹の風のホールに似ているけど、さらに最大公約数的郊外。ホール内部は典型的な中ホールで、内装もアコースティックも上質。これはもっと足を運ぶべきだなあ。

+ + +

c0060659_2245227.png【2013年3月30日(土) 16:00~ 彩の国さいたま芸術劇場】
●バッハ:ヨハネ受難曲 BWV245
→ジョアン・ラン(S)
 青木洋也(A)
 ゲルト・テュルク(T)
 ドミニク・ヴェルナー(Bs)
⇒鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン


何年か前、名古屋のしらかわホールでBCJを聴いたあたりからだろうか、僕はBCJの音楽に強いアクセントや濃厚な明暗を感じるようになってきています。初めて聴いたころのBCJはもっと平明で、レオンハルトが指揮するカンタータみたいにルネサンスのモードを感じさせる演奏が多かったような気がするのだけれど。

この日の演奏は、その明確なコントラストをさらに一歩進めた、マイBCJ史上もっとも激しく揺すぶられる音楽でした。

まず冒頭合唱の第1音に、ホールの空気がビリビリと震える。ほとんど絶叫に近いが、このナンバーは元来、それを許すくらい浪漫的でもある。さっそく秀美氏+優人氏を中心とした通奏低音隊に耳の焦点を移せば、これまでに彼らの演奏では聴いたことがないくらい激しいアタックを繰り返しているのだ。。

ユダヤ群衆を描写しながら同時にコラールを歌う合唱は、この午後、人間の醜さと美しさを交互にわれわれに聴かせて、真実の藝術を発露していたと思います。

群衆の合唱は、これもマイBCJ史上最強の立体感を表し、x軸y軸z軸、いずれの方向からも僕を苛みました。
「ユダヤの王様wwww万歳wwwwwww」のあたりなどは本当に下衆の極致で、耳を塞ぎたくなるくらい醜悪。なのに(なのに!)直後のコラールではどっしりとしたオフホワイトの光を聴衆の内面に向けて照射するのです。この激しい美醜のコントラストに滂沱の涙。いったいどうしたらいいんだ。。精神を掻き乱されるような事態に身体は硬くなるだけ。。

+ + +

エヴァンゲリスト、ゲルト・テュルクももう何度めかわからないが、やっぱりこのひとのプレーンな朗唱スタイルが好きだ。バラバ!のときに1箇所だけ入りをミスってしまったような気がするが(気のせいだったかもしれない)、その直後のテノールのアリアを弱々しげに歌う姿には思わず少し萌え。

通奏低音耳からすれば、特にエヴァンゲリストのレチタティーヴォは秀美氏のVc鑑賞大会になるわけですが、ペテロが兵卒の耳を斬り落とすときの剣の一閃、そして終わりのほうで槍がイエスの脇腹に突き刺さる一撃、いずれも強烈なボウイングによって壮絶な音がVcから発せられていました。

ソロではソプラノのジョアン・ラン、アルトの青木氏の、特にそれぞれ2回目のアリアが絶品だったなあ。特にランは非常に強い感情が入ってしまっていて(それでいて藝術としてもぎりぎり破綻していないのがすごいのだが)、歌い終えてから合唱の中に戻っても何度かまなじりを拭っていたのだった。

青木氏のアルトは何よりもあのなよやかなフレージングが魅力。受難曲のなかでバッハがアルトに与えるアリアにはだいたい艶と怨が込められているように思うんだけど、青木氏の歌唱が安定感を帯びたとき、雅明氏の思い描く受難曲の姿が固定される。

バスのドミニク・ヴェルナーは発音の不明瞭さや腰の重さがあまり好みではなく(前はそんなこと感じなかったような気がするんだけど)、今回はアンサンブルからひとり浮び上がっているように思えた。どうだったかしら。

+ + +

オーケストラも、ソロを含む合唱と同様の傾向を示しているように感じる。とりわけ管楽隊のくっきりとしたアタックや、コンチェルトの様相を厭わない歌い上げには、雅明氏の現在の好みがよく現れているんじゃないでしょうか。昔のBCJからずっとライヴを聴き続けている方に感想を伺ってみたい。

で、このはっきりした明暗嗜好が保たれたまま、6月の管弦楽組曲全曲@調布音楽祭に突入することを願うばかりなのだった。イタリアンとまではゆかずとも、光と翳がくっきりしたすこやかフレンチになる予感がする。
by Sonnenfleck | 2013-04-19 22:09 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン・プロジェクト第3夜|18世紀オーケストラのシューベルト、メンデルスゾーン@すみだ(4/6)

c0060659_7382884.jpg【2013年4月6日(土) 18:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第3夜>
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調 op.56《スコットランド》
 ○バッハ:カンタータ第107番《汝何を悲しまんとするや》BWV107~コラール
 ○ヨゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ《とんぼ》op.204
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ


嵐の夕べ、すみだで18世紀オーケストラは19世紀オーケストラに変貌していた。
ブリュッヘンが18世紀老人から19世紀老人に変容して新日フィルを指導していたのは何度か聴いているが、CDで何度も鑑賞してきた彼「ら」のロマン派作品をこの耳で最後に体験できたのは、本当に、本当に幸せだった。

+ + +

まずシューベルトは。これは僕の当初の予想にもっとも近い、典型的な00年代ブリュッヘン像をしっかりと示していた。とにかく静かで、不穏で、冷たい風がひゅうひゅう吹いているようなグロテスクな音楽。生で聴くとああいう感じなんであるなあ。
2007年のブリュージュライヴをFMで聴いて書いた感想文とほとんど変わらないので、それをほぼそのまま転載しておく。
まず1曲目の《未完成》を聴いて、冗談ではなく心臓が止まるかと思った。暗くて、激しい、どん底の演奏でありました。一筋の光明もない。

第1楽章。胸を抉るような低弦の響き、Flが断末魔の声のように引き伸ばされて第1主題を締めくくり、したがって第2主題はなかなか訪れない。訪れたら訪れたで、気を病んでしまったような暗鬱な音をしている。音楽家は、お客を集めて、お金を取って、こんなに破滅的な音楽をやっていいんでしょうか。。

展開部が来ても、再現部が来ても、この暗さがまだ続くのかという印象が強い。夜のあとに夜が明けない、残酷な音楽です。咆哮がこの世のものとは思えないのです。大袈裟に書いているのではありません。全部本当にあったことです。

第2楽章。今度は予想外に軽くてそっけない。最初の下行音型主題の提示が終わって、付点の付いた主題が登場すると、いよいよ音の量感がすーっと消えます。青く美しく透き通った沼地、それは毒が流れ込んで生き物が住めないから。
2007年7月6日
+ + +

そして後半の《スコットランド》で、僕たちは19世紀のリアルを聴いた。
19世紀のリアルとは何か?19世紀のリアルとは、つまりそれは数十年前までバロックだったということ。簡単な事実です。

相対的に数を増やしていった弦楽隊に埋もれてしまっている木管隊の旋律を復権させ(第3楽章)、低音擦弦楽器とファゴットに通奏低音のフォルムを要請し(特に第1楽章のおしまい)、トランペットとティンパニには彼らが誕生した原初の「ランドスケープ」を思い出させる(第4楽章)こと。

30年間ずっと一緒にやってきた彼「ら」が簡単そうにこれをやってのけるのを目の当たりにしながら、僕はメンデルスゾーンを愉しむ。ただ演奏実践がすべてであった時代の音楽を。これが彼「ら」の着陸地点なのだろうなあといま思うのです。第3楽章の美しすぎるメロディと、それを自在に歌い上げるオーケストラの幸せな横顔とブリュッヘンの大きくて小さな背中を見ていて、涙が出て仕方がなかった。

+ + +

正規のプログラムを聴きながら、アンコールには何をやってくれるのかを断片的に考えていた。《真夏の夜の夢》のスケルツォなら寂しくて据わりがいいな。

ところが、車いすから降りて再び指揮台に上がったブリュッヘンが長い腕を振り下ろすと、明らかにバロックのダンスナンバーがオケから流れ出したので驚く。
付点のある3拍子系、寂しいメロディ、フレーズの残り香は少なからずフランス風、なので、心のなかで密かにラモーを期待していた僕はラモーと判断したのだが、耳からの様式判断がよろしくないのはかつて大学で学んだことなのであった。



↑この16:17~。バッハのカンタータ第107番から最終コラール。
コラールなので厳密に言えば世俗のダンスじゃないわけだけど、これはたとえばバッハが管組第1番で使ってるフォルラーヌのリズムの準用なのだ。19世紀オーケストラはまた18世紀オーケストラに戻った。
今どきのハイパーな古楽アンサンブルのバロックとは少し違う、どっしりした粒あんの大福みたいなバロック。明晰より野趣。しかし付点のリズムはきつくなく、角は柔らかい。最後に彼「ら」は僕たちにバロックを聴かせてくれたのだ。何を悲しもうとしているのか。僕たちは。

客席に、徐々にスタンディングオベーションが広がっていく。東京の音楽シーンで自然なスタオベが起こることはほとんどない。そうなんだよね。みんなブリュッヘンと18世紀オーケストラを聴きに来たひとたちなんだ。僕も立ち上がる。

そして最後に舞台から流れてきた音楽も、僕たちの度肝を抜いた。
ヨゼフ・シュトラウスの《とんぼ》!
やはりメンデルスゾーンと同じ公平な管弦バランス。透き通った羽の、優しくて、華やかな、寂しいとんぼ。いまこうして思い出していても、胸にこみ上げるものがある。満場のスタオベに応えて、指揮者の一般参賀が二度。そして最後に、ブリュッヘンを真ん中にしてオーケストラみんなが横一列に並んでみんな参賀。とんぼの羽に腰掛けて、リコーダー仙人は遠くに行ってしまった。ありがとうブリュッヘン。ありがとう18世紀オーケストラ。
by Sonnenfleck | 2013-04-14 08:32 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン・プロジェクト第2夜|18世紀オーケストラのモーツァルト&ショパン@すみだ(4/5)

c0060659_23194737.jpg【2013年4月5日(金) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第2夜>
●モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K550
●ショパン:Pf協奏曲第1番ホ短調 op.11
●ショパン:Pf協奏曲第2番ヘ短調 op.21
 ○ショパン:夜想曲第5番嬰ハ長調 op15-2
 ○ショパン:マズルカ第25番ロ短調 op.33-4
→ユリアンナ・アヴデーエワ(Pf/1837年パリ製エラール)
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ


本当はこの金曜日、会社の飲み会が入っていたのだけど、急にキャンセルになったのを幸いに、やりかけの仕事を全部引っ掴んでかばんに詰め込み、錦糸町に駆けつけたのだった。

このブログを読んでくださる皆さんであればご存知かもしれません。僕はブリュッヘンに対して特別な思い入れがあります。
彼らの(ら、の!)音楽を初めて聴いたのは、シューベルトの5番とメンデルスゾーンのイタリアがカップリングで入ったディスクだったと思う。でも2002年のみなとみらいでベートーヴェンの第9が聴けたのを最後に、「ら」の公演を聴くチャンスは日本では巡ってきませんでした。

2005年のすみだで新日フィル初共演のラモーの第1音に度肝を抜かれたのは間違いないことだけど、新日フィルとのハイドン、ベートーヴェン、ロ短調ミサなどをずっと聴いてきて、何かが物足りなかったんだ。何か?それが古楽器の濃厚な響きじゃなくて何だというのだ!

彼ら(ら、の!)の来日公演はもう行われないだろうというのが大方の意見だったけれど、10年の時を経て彼らは再び来日した。でもこの10年でブリュッヘンはすっかり老いた。ついに今宵は車いすで指揮台に運ばれてゆくくらい老いた。
ネットラジオで一生懸命聴いた00年代の「ら」の演奏、つい最近リリースされた新しいベートーヴェン全集、どれも嶮岨で静かな名演奏に変貌している。80年代の録音で聴ける「ら」の合体魔法をやるには、もう「MPがたりない!」なのではないだろうか…。「ら」の再来日に歓喜するいっぽう、僕はそう思っていました。

+ + +

でも!でもモーツァルトの40番が鳴りはじめて、僕はブリュッヘン+18世紀オケの合体魔法を正面からまともに浴びて256ダメージ!何も違わない!80年代の録音のあの濃密な音楽が戻ってきてる!

管楽隊のびゅわっ!というあの響き、弦楽器のしゃららー+ごりっ!というあのブレンド感。00年代ブリュッヘンの静謐な音色も今ではパレットに加わって、高濃度モーツァルトが描かれていく。フォルムは一切崩れず、明暗はあくまでも克明。そこへ、指揮者の爺さんが発する「zuuuuuu...ziiiiiiii.........」という風の歌が聞こえてくる。

驚いたのは第3楽章と第4楽章で、舞曲を処理するみたいにアンチナラティヴなリズムを付加してゆく指揮者と、あの旧い響きが帰ってきた18世紀オケが反応しあって、明らかにラモーの音楽が転生したようなモーツァルトができあがっていたこと。あの音は生涯忘れないだろう。
ありえない空想だけど、18世紀のどこかの宮廷に存在した老宮廷楽長とハイパー名人宮廷楽団に、仮にタイムマシンでモーツァルトのスコアを届けたら、一生懸命、彼「ら」の流儀でこんな演奏をするんじゃん?そういうことだ。

なお、ハイパー名人宮廷楽団にはウルトラコンマスがいて、ときどき中身が抜けて骨格だけになる老宮廷楽長の手の動きや目線の方向を察知し、完璧にサポートしていました。ウルトラコンマスのザッツと老宮廷楽長の震える指先の、その狭い隙間に湧き上がってくる音楽のピュアな響き。

+ + +

ショパンの感想文(特にソリスト、アヴデーエワ女史のこと)を書くのは、僕には荷が重い。
伴奏部分について語るなら、ブリュッヘンと18世紀オーケストラの演奏によって、それがまるでシューマンを思わせるほの暗い大気が充満した音楽に翻訳されていたことに触れておきたい。そしてVc首席はFgとの連携を常に意識しながら、明らかに他のパートとは異なる文法でソロパートにひたり...と寄り添っていた。ショパンのなかに潜む昔。
by Sonnenfleck | 2013-04-06 00:33 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その四 能「草子洗小町」@国立能楽堂(3/20)

c0060659_23113881.jpg【2013年3月20日(水) 13:00~ 国立能楽堂】
<国立能楽堂3月特別公演>
●仕舞「蝉丸」(宝生流)
→三川泉(シテ)
●狂言「花盗人」(和泉流)
→野村萬斎(シテ/男)
 野村万作(アド/何某)
●能「草子洗小町」(観世流)
→観世清和(シテ/小野小町)
 藤波重光(子方/帝)
 坂口貴信(ツレ/壬生忠岑)
 坂井音晴(ツレ/官女)
 角幸二郎(ツレ/凡河内躬恒)
 武田宗典(ツレ/官女)
 観世芳伸(ツレ/紀貫之)
 福王茂十郎(ワキ/大伴黒主)
 石田幸雄(アイ/黒主の下人)
→藤田六郎兵衛(笛)
 観世新九郎(小鼓)
 安福光雄(大鼓)ほか


1 スーパー爺タイム~蝉丸
「仕舞」っていうのは、能の一部分を抜粋して面や装束を着けずに演じる略式形態です。序破急の美学は損なわれるけれど、シテの技の骨格をより濃密に楽しむにはよいものかもしれない(2台Pf編曲版の交響曲みたいなものか)。特に能を学習している人たちにとっては。

で。この日の最初の演目は91歳の人間国宝による狂女なのでした。
これがまた足取りもおぼつかないのに打ち震えるほど凄艶で、ほんの10分ほどの舞と地謡に、能の真髄のひとつの姿を見たように思う。専門用語を使って感想文を書くことはいまの僕にはできないけれど、
我ながら浅ましや、髪はおどろを戴き、
黛も乱れ黒みて、げに逆髪の影映る、
水を鏡といふ波のうつつなの我が姿や。
というコロスの淀んだ響きに乗り、扇を頭上に揚げて一瞬、正気に戻るかのような羞恥心を老翁が見せたのは驚愕であった。よぼよぼ乙女。

2 万作×萬斎の繚乱ユニバース~花盗人
この作品では可笑しみは隠し味にすぎないわけです。淫らなくらい爛漫に咲く桜花の幻影を感じさせるので、仮に「この台本はもともとは能なんだよ」なんて説明されたとしてもまったく違和感を持たない。

(1)おはなし
庭に咲く満開の桜の枝を折られて怒った何某は、今宵も花盗人が現れると踏んで張り込む。折しも花盗人が現れ、折り取る枝を吟味しているところを、何某は桜の幹に縛り付ける。
花のために斬られる身の不幸を悲しみ、花盗人が古歌を引きながら独りごちているのを耳にした何某は、花盗人が教養のある人物と知り、この桜を歌に詠めば許そうと提案。花盗人は見事に即興で歌をつくり、何某は大いに喜んで彼を解放する。
興が乗った何某、満開の花の下で花盗人に酒を勧め、花盗人は朗々と歌い上げて返礼する。何某は自ら桜の枝を折り取って、花盗人に呉れてやる―。

(2)アリアとレチタティーヴォとダンス
「花盗人」は野村万作・萬斎父子の共演だったわけです。正三角形と表現すべき万作氏のどっしりとした演技に比べ、萬斎氏は逆三角形的なエキセントリックな演技も多く用いているのがたいへん興味深かった(しかもそれがきれいにハマっている!)。これは彼の不変の個性なのか、やがてこれを捨てて万作氏(81歳人間国宝)のように重厚な存在に変わっていくのか。

今回、幸運なことに野村萬斎氏から3mくらいの席で彼に接したのですが、これまで見たどの媒体に比べても彼の全身に力がみなぎっていて、ああこれがこのひとの真実の姿なのだと感じ入ってしまった(狂言師の狂言が凄いのは当たり前なんだけど)

後半、桜の主と花見の宴になって、萬斎氏が長大なアリアを堂内に響き渡らせたのは本当に見事のひと言。これだけ巨大なアリアのある狂言は未体験だったこともあるし、萬斎氏の美声には頭がくらくら。ふと見渡すと会場の老若女性陣がうっとりとしているのが、やっぱり最後に可笑しいのであった。

3 二十六世観世宗家~草子洗小町
これまで3回、能を見た。そのいずれも、神様か怨霊が登場する超現実ストーリーの演目だったのですが、4回目の今回は「鬘物」と呼ばれる、女性を主人公に持つ(比較的)現実的な分類の作品。ライバルの奸計で窮地に陥った小野小町が、機転を利かせて真実を暴くという2時間サスペンス仕立てのストーリーです(プログラムでは「法廷劇」と表現されてた)

(1)おはなし
帝の御前での歌合戦。小町と当たる大伴黒主は勝ち目がないと考え、前夜、小町の邸宅に忍び込む。黒主は小町が詠む予定の歌を盗み聞きしたうえそれを万葉集のページに書き込んで、古歌を引用したと断罪する計略を立てる。

場面転じて歌合戦。予定どおりの歌を詠んだ小町に黒主は異議を唱え、帝に万葉集(書き込み済み)を見せて小町を陥れる。小町は筆跡や行の乱れを怪しみ反論するが、ふてぶてしく応じる黒主に圧され、大ピンチ。

そこへ、同席していた紀貫之が助け舟を出し、小町は万葉集(書き込み済み)を水で洗ってみせる。するとたちどころに黒主の書き込みが消え、企みは露見、黒主は恥辱に感じ自害しようとする。しかし小町と帝は「歌道に励む気持ちから出たもの」と彼を許し、最後は小町が天下泰平を寿ぐ舞いを披露して幕。

(2)オーケストラ
神様登場や闘いシーンで使われる太鼓を欠くほかは、笛+小鼓+大鼓のいつもの編成。僕は当初、笛奏者の音が苛烈すぎ、また大鼓奏者があまりにも巨大な破裂音を出し続けていたため、なんだかアンサンブルが破綻しているなあという感想を持ったんだよね。
でも百戦錬磨の彼らがそんな失態を犯すはずはなく、場面の転換とともにこの理由が明らかになる。

この作品、後半の歌合戦の場で、8人もの人物が同時に舞台に上がるんです。彼らがユニゾンで謡うこともあるし、その他にコロスである地謡がいつもどおり8人座ってるので、舞台上はまるで《アルプス交響曲》のような巨大編成になる。オーケストラに聴かれた強いアクセントは、まずこの巨大編成に十分に対抗するためのものだったんだろうなあ。
笛氏はObとTp、大鼓氏はVnからTb、Percまでの外声的なパートを体現し、小鼓氏はVa、Vc、Fg、Hrあたりを内声的にカバー。小町が装束を替えている間の間奏曲で、大鼓氏はシテの動きを横目で睨みつつ、どうやら他の2名に伸縮の指示を送っていた。囃子方アンサンブルの神髄というものかもしれない。

(3)ダンス
そしてさらに(これが本当に重要なのだけど)小町を演じる観世清和氏の圧倒的なダンスに、オーケストラはわずか3名でのバランス取りを要求されてたんである。オーケストラが強くなくてなんとする。

観世宗家の舞いを言葉でうまく表現するのは難しい。ぽうっと見蕩れてしまったから。の烏帽子を被り、短冊と色紙が装飾的に描かれた紫紺の装束を着けて舞う、結末の流麗な美しさは何だったか?円やかな袖の捌きかた、扇を操る指先の確かな自信、あれは才長けた艶美な女性である真実の小野小町だったぜ。

慣れ親しんだ分野の知識や経験を援用するならば、観世清和氏のシテはベルリン・フィルが演奏するベートーヴェンやブラームスのように、誰にも何も言わせない全能の空気を静かにまとっていたのだった。あれが「事も無げにできることではない」ということがわかるような視点を早く身につけたい。。もうそれだけだ。

上述のように、小町は窮地から歓喜を経由して寛恕に至る感情の流れをシテに要求するわけです。もちろん表情を変化させるギミックを能面が持っているはずもなく、すべてはシテの首の角度や指先の処理に委ねられている。

そして(大阪で見た「砧」もそうだったけれど)この日も面は雄弁に表情を変えた。恐ろしい。扇で草子に水をかけ、黒主の書き込みが洗い落とされた瞬間、確かに小町は安堵の微笑を浮かべていた。能はできるかぎり前の席で見るのがいい。「能面のように無表情」という表現が決定的に間違っていることは、能を至近でご覧になればすぐにわかるはず。。
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上村松園《草紙洗小町》(1937)

(4)アリア
最後に、小町が扇を使って水をさらさらと掛け流すシーンの美しい詞章(歌詞)を転記しておく。水と時間・水と空間の変遷を流麗に表現した一節。ヴォルフの静謐な歌曲みたいな美しさを感じたのだった。
地謡 旧苔の鬚を洗ひしは、
シテ 川原に解くる薄氷、
地謡 春の歌を洗ひては霞の袖を解かうよ、
シテ 冬の歌を洗へば、冬の歌を洗へば、
地謡 袂も寒き水鳥の、上毛の霜に洗はん、恋の文字なれば忍び草の墨消え、
シテ 涙は袖に降りくれて、忍ぶ草も乱るる、忘れ草も乱るる、
地謡 釈教の歌の数々は、
シテ 蓮の糸ぞ乱るる、
地謡 神祇の歌は榊葉の、
シテ 庭燎に袖ぞ乾ける、
地謡 時雨に濡れて洗ひしは、
シテ 紅葉の錦なり、―

4 クラ者の雑感
・うーん観世流ベルリン・フィル。日本で見る能はクラヲタ大好き本場ものだし、すぐそばで世界最高級のパフォーマンスが見られることをもっと多くのひとに知ってほしい。クラヲタが日本のクラシックを体験しないでどうする!!由緒正しい宮廷劇だよ!!
・「草子洗小町」のシュトラウス感がすごい。虚構と浪漫のバランス。
by Sonnenfleck | 2013-03-24 23:13 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]Ensemble Diamante ~織り込まれた宝石~@近江楽堂(9/23)

ぬか床の底に沈んでいるのを無理やり引っ張り上げてきました。これ、昨年の9月じゃありませんのよ。「古漬け」シリーズ屈指の古漬け。

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c0060659_22504992.jpg【2011年9月23日(金祝) 13:00~ 近江楽堂】
●テレマン:トリオ・ソナタ イ短調 TWV42:a1
●バッハ:Vgambソナタ ニ長調 BWV1028
●ヘンデル:トリオ・ソナタ ハ短調 HWV386a
●バッハ:トリオ・ソナタ ハ長調 BWV530
●テレマン:トリオ・ソナタ ニ短調 TWV42:d10
●ヴィヴァルディ:Rec協奏曲ヘ長調 RV100
 ○テレマン:トリオ・ソナタ イ短調 TWV42:a1~グラーヴェ
       トリオ・ソナタ ニ短調 TWV42:d10~プレスト
⇒アンサンブル・ディアマンテ
 宇治川朝政(Rec)、木村理恵(Vn)
 ロバート・スミス(Vc, Vgamb)、福間彩(Cem)


同じ月に行なわれた新大久保に続き、初秋のバロックアンサンブル第二弾。アンサンブル・ディアマンテの日本デビューコンサートへ。
前にも触れたとおり、彼らはブリュージュ国際古楽コンクールで第二位を勝ち取った団体。その自信のほどが、王道直球ど真ん中のプログラミングに表れてるよね。

古楽運動のなかの「吃驚させてやろう精神」はすでにまったく廃れている。
にも関わらず、名前のある音楽評論家や、ふだんバッハ以降を中心に聴く一般の音楽愛好家たちの間で、今でも「古楽=吃驚させてやろう精神」という図式が幅を効かせているのは、実に嘆かわしい。
今時の若くて優秀なアンサンブルはみなそれをよく承知しているので、ノリントンやオノフリのようにそれが彼らの個人様式にまで完璧に高められているならいざ知らず、無駄に派手な装飾や自己満足のためのフレージングなどはもう出てこない。もうそこで勝負する時代じゃないんだもの。

であるならば、アンサンブル・ディアマンテの勝負どころはどこか?
彼らの演奏は、真新しくて気の利いた建築物みたいな印象だ。様式への忠実なフィット感と、理知的合理的な振る舞い、上品で誰にでも好かれる心地よい雰囲気。こうしたものがない交ぜになって、アンチ吃驚とでも表現すべき力強い安定した推進力が醸成されている。安定感が一番の売りであるアンサンブルが古楽に登場して、いったい何の問題があるだろう?

例えば後半の3曲。バッハのオルガントリオ→テレマンの古典派漸近→ヴィヴァルディの典型的お祭り騒ぎと、様式の違いがまことに甚だしいわけだが、このズレを連続して描き分けるのは簡単じゃないです(バッハのオルガン鍵盤とヴィヴァルディのヴァイオリンが同じはずはないもん)
でもディアマンテの4人は、巧妙にフレージングとアーティキュレーションを変化させてちゃんと別の音楽にしていたような気がする。素晴らしい手腕と思う。

(ここで2013年に戻る)

最近は活動がストップしている(僕が知らないだけかしらん)のが残念なアンサンブル・ディアマンテ。あとはリクレアツィオン・ダルカディアが休日の公演をもっともっともーーーっと増やしてくれることを切に望むサラリーマンです。
日本発の古楽アンサンブルがBCJとかアントネッロだけだと思っている皆さん、それはまだまだ甘いですよ。聴くべき団体が多すぎる。
by Sonnenfleck | 2013-03-21 22:59 | 演奏会聴き語り

ハイティンク/ロンドン響|ブリテン、モーツァルト、ベートーヴェン@サントリーホール(3/9)

いろいろな切り口の「ベスト体験」があっていいと思うけれども、「音楽それ自体」に限りなく接近したという意味で、僕はこの日、これまでで最高の経験をしたと断言できる。今日まで音楽を聴きつづけてきて本当によかったと思う。

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c0060659_23342183.jpg【2013年3月9日(土) 14:00~ サントリーホール】
●ブリテン:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→マリア・ジョアン・ピリス(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 op.92
 ○メンデルスゾーン:《真夏の夜の夢》~スケルツォ
⇒ベルナルド・ハイティンク/ロンドン交響楽団


後半のベートーヴェン、第1楽章ですでに、僕は座席の上で硬直していた。

これまでに聴いてきたベト7は、この午後にハイティンクによって実際に開帳された「音楽」の劣化した影か、過度に装飾された写しでしかなかった可能性がある。「演奏」ではなく「音楽」と書いたのは、演奏者や指揮者の刻印がそこから完璧に消えていたから。
「演奏」を研ぎ澄ましていった先の最終形態が「音楽」だとすれば、あの瞬間に(恐ろしいことに)ベートーヴェンの姿さえ透過していたのが観測されたことも何らおかしくない。あそこにあったのは旋律と和音と拍節のただひたすら心地よいつながり、言ってしまえば「音楽のイデア」みたいなものだった。

僕は普段(「僕たちは普段」でもいいのかはわからないけど)、ある「曲」のことを知っていて、いつでも頭のなかで再生できる「曲」を基準に、あるときどこかで聴いた演奏について「こいつは愉しいフレージングだ!」とか「ここは演奏実践の失敗だ…」とか考えている。

でもハイティンク/ロンドン響のベートーヴェンは、普段は実在しないはずの概念としての「曲」が、信じがたいことにそのまま目前で展開されるという、イデアの降臨としか言いようのない体験だった。快感に恍惚。そして第4楽章のコーダでは、イデア界への扉が音を立てて閉まるような圧倒的な絶望感が快感のなかに混信してきて、もう何が何だかわからない。
いや、正確には、すべてわかったと書いたらいいのか。あれは自分の頭のなかでまた鳴らすことができるような気もするんだよね。実際。

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2003年の「スーパーワールドオーケストラ」、2009年のシカゴ響に続き、ハイティンクを生で聴くのはこれが三度目だったのだけど、過去の二度はここまでの感覚を得たことはなかった。
いま極端にレパートリーを絞り込んできている彼は、イデアの在り処や呼び出し方をよく知っている作品だけを選んで振るようになっているのかもしれない。つまり磨き上げられて僕たちに供されるのは、最上の普通。この最上の普通に辿り着くために、どれほど多くの指揮者が時間と労力を欲しているのだろうか!

かたやロンドン響は、この週の他公演でアンサンブル荒れ気味という感想がTwitter上で散見されていたのでちょっと不安だったんだよね。
でもピーター・グライムズ、じゃなく「4つの海の間奏曲」が始まってすぐ、オケの機能に不満を持つ必要がないことがわかってほっとする。

冷たく湿った良好なブリテンだっただけじゃなく、ハイティンクの要請に応えて各パートが無数のギアチェンジを行うことで、整然と柱廊が組み上がっていくような巨大な音響も確保される。
よく鳴っているだけでなく、フォルムもくっきりとしていて実に気持ちよいわけだけど、そしてブリテン音楽の場合はそれが「ブリテンらしい居心地の悪さ」へとつながってゆくのだった。このまま第1幕が始まったらいいのに、と思ったひとも客席には多かったことだろう。

モーツァルトの協奏曲はあまりにも心地よくて(またベト7とは違い、自分の頭のなかに再生可能な「曲」がなくて)うとうとしてしまったので、感想を書く資格がない。ただ、ピリスの打鍵が瑞々しく、力が抜けているのに力強い、不思議な雰囲気を示していたことは記しておきたい。ハイティンクのサポートも実に温かな音色だった。ような気がする。

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こんな感想文はオカルトのカテゴリに分類されたって文句は言えない。でも、賛意を示してもらうどころか共有されたいという気持ちもあまり強くはないのです。「音楽」を聴いて心の底から驚嘆したので、そのことについて書いた。
by Sonnenfleck | 2013-03-10 00:43 | 演奏会聴き語り

尾高忠明/東京フィル 特別演奏会|グレの歌@オーチャードホール(2/23)

2011年3月12日。帰宅を諦めて会社に泊まり込んだ僕は、残ったほかの同僚とともに、倒れてしまったキャビネットたちの搬出作業に午前いっぱいを費やして、昼ごろようやく平常運転に戻り始めた中央線を使って帰宅したのだ。

この土曜日、僕はラザレフ/日フィルのコンサートに出かける予定で、Twitterの情報を見るかぎりではそのコンサートは果敢にも開催されるようだったが、再び帰宅できる保証はなかった。こうして僕はそのチケットを無駄にした。

そして2011年3月20日。僕はもう一枚、死んだチケットを眺めなければならなかった。中止が発表された、東フィルの創立100周年記念演奏会、グレの歌である。

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c0060659_20414482.jpg【2013年2月23日(土) 15:00~ オーチャードホール】
<特別演奏会>
●シェーンベルク:《グレの歌》
→ヴァルデマル王:望月哲也(T)
 トーヴェ:佐々木典子(S)
 山鳩:加納悦子(A)
 道化クラウス:吉田浩之(T)
 農民・語り:妻屋秀和(Bs)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
⇒尾高忠明/東京フィルハーモニー交響楽団


でも東フィルは諦めていなかった。今度は作品の初演100年目のその日に、グレの歌はついに演奏されたのだった。

1 作品のこと
《グレの歌》は、表現主義期のシェーンベルクが取り組んだ、全曲2時間を超える巨大な世俗オラトリオ=歌付きの交響曲=舞台なしオペラ。
時間だけじゃなく、編成も本当に巨大。ロマン主義の断末魔を表現するためにシェーンベルクは150人規模の大オーケストラを指定しちゃったんだよね。さらにそこへ5人のソロ歌手と混声8部合唱が加わるので、もう浪漫的妄執の産物と言っていいだろう。オーチャードの奥行きのあるステージを隅々までみっちり占有して、それでどうにか収まる。
(※この日は弦楽器があまりに多すぎて、ふだんは打楽器がいるあたりにようやく木管の1列目が並び、金管はその奥。打楽器陣の絶望的な眺望は推して知るべし。)

全曲は次のような構成(以下、当日のプログラムから抜粋)。
<第1部>(約60分)
序奏
第1の歌「今 黄昏に 海も陸も」(ヴ王)
第2の歌「月が滑るような光を投げ」(トーヴェ)
第3の歌「馬よ なぜ こうも歩みが遅いのだ!」(ヴ王)
第4の歌「星は歓びの声をあげ」(トーヴェ)
第5の歌「天使たちの舞いも」(ヴ王)
第6の歌「今 初めて告げる」(トーヴェ)
第7の歌「真夜中だ」(ヴ王)
第8の歌「あなたは 私に愛の眼差しを向け」(トーヴェ)
第9の歌「不思議なトーヴェよ」(ヴ王)
間奏
「グレの鳩たちよ」(山鳩)

<第2部>(約5分)
「神よ 自分のなさったことをご存じか」(ヴ王)

<第3部>(約65分)
「目覚めよ ヴァルデマル王の臣下たちよ」(ヴ王)
「柩の蓋がきしみ 跳ね上がる」(農民)
「王よ グレの岸辺に よく来られた!」(臣下たち)
「森は トーヴェの声で囁き」(ヴ王)
「鰻のような 奇妙な鳥」(道化クラウス)
「天の厳格な裁き手よ」(ヴ王)
「雄鳥が鳴こうと 頭を起こし」(臣下たち)
序奏
「アカザ氏に ハタザオ夫人よ」(語り手)
「見よ 太陽を!」(合唱)
実はこの2時間、地の文の時間軸ははなはだ不安定に遷移するんだよね。
第1部の終わり、第9の歌までは、時間軸はヴァルデマル王とトーヴェの逢瀬をだらだらと描写する。しかし急転直下、間奏でトーヴェの死が暗示され、山鳩は葬列を歌う。そして第2部はヴァルデマル王の最後の呪詛。たぶんここで王は死ぬ。

第3部の前半はヴァルデマル王の死後、幾星霜を重ねたのちの時代のようだ(明示はされないけど)。
亡霊となったヴァルデマル王が、やはりすでに葬られている臣下を墓から呼び覚まし、グレの大地を徘徊する描写が続く。アンデッドの長い夜は、それが一夜のことなのか、それとも繰り返される苦しみの夜々のことなのか、明確にはならない。

そこへオーケストラの序奏とともに、夏の朝の風が吹き込んでくる。時間軸はやはり明らかにならないが、「朝」がやってくるのである。この永遠の朝とともに時間が消失して、この長大なオラトリオは終わる。

時間は自由に伸縮する。そこでの主人公は誰か?ヴァルデマル王?山鳩?トーヴェの幻影?ゾンビ軍団?
いやいや。このオラトリオの主人公は「グレの大地」ではないかい。
これは呪われたグレの大地に永遠の安らぎが訪れたことを寿ぐオラトリオだったのだ。震災で中止に追い込まれたこの作品の公演が、いま復活する意義はある。せめて藝術の中だけでも、永遠の安らぎの朝が訪れたっていい。。

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2 音楽のこと、演奏のこと、うたのこと

この作品は、興味深いことに途中で作曲が中断された経緯を持つ。
この日のプログラム解説(舩木篤也氏)によると、第1部から第3部の農民の歌くらいまでが1901~03年、それ以降が1910年の作曲とのこと。この間、シェーンベルクは表現主義から無調の時代に突入したけれど、1910年に作曲された部分もいちおうは表現主義時代の様式に基づいている。…かに聴こえる。

でも、実際はそうではない。
ラトル/BPOのCDでこれまでずっと予習してきて、ここの「接ぎ木」部分はそれほど気にならなかったんだけど、生で聴くと明らかに第三部途中からのテクスチュアがそれまでと異なっていて、かなり吃驚してしまった。Twitterでどなたかが「これだけ巨大な音響になると録音には入りきらない、または家庭のオーディオでは再現できない部分が多い」と指摘されていて、今はそれがよく納得できる。

つまり、1910年部分からは、それまで分厚い「塗り」の後方に押し込められていた立体感が急に前面に出てくるということ。
アンサンブルの単位は小さくなり、ソリスティックなパッセージが急増、その小ブロック同士のぶつかり合い=異化し合いで音楽が進んでいく。表現主義的な旋律が乗っかっているけれども、これはシェーンベルク十二音に進化していく骨格だよね。



尾高氏と150人フル編成の東フィルは、立ち上がりの黄昏音楽こそぎくしゃくしたものの、初速が遅い重機械のように尻上がりに調子を上げて、やがて「山鳩の歌」に到達するころにはこの世のものとは思えないくらい絢爛な音響を振りまき始める。

このお方は案外、しっくりくるレパートリーが広くない印象なんだけど、尾高氏の真骨頂である上品でさらりと甘いハーモニーセンスは、むしろ第3部の「接ぎ木」以降、とてもよく映えたように感じた。最後の5分間、朝がやってきてからの素朴な高揚感には、胸が締め付けられるような思い。震災のあと、最初に聴いた生演奏は尾高氏のマラ5だったけれど、僕はまたこのお方に大深度心理を救われたな。

声楽は、肝心のヴァルデマル王の望月氏が不調(というより、そもそも威圧的な大管弦楽には対峙できないという声質アンマッチによる悲劇?>二期会《カプリッチョ》でフラマンを歌ったときはとっても好かった!)に見舞われてほとんど声が通らなかった以外、新国の合唱団も含めて全員大健闘だったと思う。
それにしても妻屋氏の野太いシュプレヒシュティンメ、さすがだったなあ。彼が最後の5分を朗らかに導いた。

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モニュメンタルな公演でしかも極めて良質な演奏だったのに、終演後に客席があまり盛り上がらなかったのはなぜだろう?最近「盛り上がりすぎる」公演にばっかり足を運んでいたからそう感じたのかな。。
by Sonnenfleck | 2013-02-24 20:43 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その三 能「砧」@大槻能楽堂~はじめてのおんりょう~(2/9)

c0060659_2310307.jpg【2013年2月9日(土) 14:00~ 大槻能楽堂】
<大槻能楽堂自主公演能 日本探訪シリーズ 研究公演>
●お話「砧考 世阿弥の砧を読み解く」
→天野文雄(国際高等研究所副所長)
●能「砧」(観世流)
→野村四郎
 (前シテ/蘆屋某ノ北方|後シテ/北方の亡霊)
 上野雄三(ツレ/夕霧)
 福王茂十郎(ワキ/蘆屋某)
 喜多雅人(ワキツレ/従者)
 小笠原匡(アイ/下人)ほか


土曜20時開演の大井浩明ワールド@京都カフェ・モンタージュに合わせ、何かいい公演がないかと探した結果、今回は大阪の難波宮跡近くに建つ大槻能楽堂を訪れることにした。観能を始めてからまだ日が浅い僕は、これが初めての国立能楽堂以外での公演であります。

地下鉄中央線・谷町四丁目(「た」にまちよんちょうめ!)から少し歩くと、古い映画館のようなコンクリート建築が姿を現す。内部の様子は、たまたまここで収録された半能「石橋」をテレビで見ていたのである程度わかっていたが、かなり古めかしい。実家にいるような独特のにおいも趣深い。

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観能3回目の今回、初めて脇正面の席を選んだのだった。脇正面は演者たちが登場する長い廊下に沿ったエリアで、正面とは90度異なる面から舞台を眺める。上の写真だと壁画の松に向かって左側に廊下が伸びて、舞台袖に通じてます。

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これまでに見た2公演(11/10「賀茂」、1/5「弓八幡」)はいずれも「脇能」、つまり神様が登場する、荘重でおめでたいオペラ・セリアのような作品だったわけですが、今度は違う。「砧」は「雑能」という雑多なカテゴリのなかの「怨霊物」に属する作品で、これでいよいよ、能の世界に深く沈潜することになろう。

現在の能の上演形態でもっとも多いのが2つないし3つの能で1つないし2つの狂言を挟むスタイルだが、この日は大槻能楽堂の「研究公演」とのことで、能「砧」の詞章(歌詞)を世阿弥が書いたとおりに復元しよう!というピリオド能公演。「砧」1作品が古典学者の解説付きで上演されました。

1 おはなし
訴訟で都に上ってから、3年もの間戻らぬ蘆屋某。蘆屋某の妻はそれを嘆き悲しんでいる。そこへ蘆屋某から伝言を預かった侍女・夕霧が帰郷、妻は故事に倣い、砧を打って己の不遇を慰めようとするが、「今年も戻らない」という伝言を夕霧から聞いた妻は、嘆きのあまり命を落とす。
後半。慌てて帰郷した蘆屋某の願いによって、妻の亡霊が現れる。砧を打ち続けよという地獄の責め苦の辛さを訴え、蘆屋某を呪い、怨む。しかし夫が唱える法華経により、妻の亡霊は成仏する。

2 ダンスとオーケストラ
今回、もっとも心を揺さぶられたのは、観世流・野村四郎氏演ずるシテ=蘆屋某の妻である。
野村氏は日本能楽会会長にして藝大名誉教授という凄い77歳。巨匠の至芸と書いていいのだろうと思う。震える指先を加齢のためとはつゆほども思わせず、むしろ哀しくも「重い女」の心の有り様を示す。
後半、亡霊の能面(痩女 ※ちょっと怖いのでご注意)を被ってからはさらに力が増し、激しく取り乱して顔を覆う仕草や、憤怒の形相で蘆屋某に詰め寄る様子、そして怨みと恋しさがメタメタに混ざった苦しみなど、すべてを身体から放射していた。ほんの少しの顔の傾け方で、能面の表情は千変万化する。凄艶のひと言。

オーケストラは太鼓を欠いた編成(笛・小鼓・大鼓)。席の関係かもしれないが、大鼓の方の声があまりにもよく通って、全体のアンサンブルが破綻しかかっているように感じた。
これは彼個人の解釈なのか、「砧」の楽譜の指定なのか、関西の能が全般的にそうなのか、あるいは僕の囃子アンサンブル観が間違ってるのか、理由は不明。観能の場数を踏まないとこのへんはよくわからんですな。

3 演出?
能に「演出」が有り得そうだ、というのも今回見出されたこと。
これまでに見た能は、いずれも、すでに舞台に並んでいる囃子方が奏する前奏曲が始まってから、演者が舞台に進み出てきた。しかし今回、アンサンブルは舞台袖のなかで前奏曲をやり、その後シテたる蘆屋某の妻がアンサンブルの面々と一緒に無音のまま登場。劇の始まる前から舞台に座っている。

ト書きに最初から厳密にそう書かれているのであれば認識は改める必要があるし、そんなん珍しくも何ともないわ、ということなら別にいいんだけど、僕としては、能にも音楽を中断したり改変したりする上演(あるいは作品)があるんだなあと今回感じ入ったことは記録しておきたい。

4 クラ者の雑感
・なお、読み替えにより舞台が1950年代のアメリカに…なったりはしない模様。

・前半で妻が落命するところと、後半で妻が成仏するところ、つまりこの作品の胆と言える部分で、同じ婆さんが二度も携帯を鳴らしおった。永遠に呪われれ。
・でもクラシックみたいに客席が殺気立つことがないんだよなあ。これは本当に文化の違いというか面白いギャップ。みんな冷静に舞台に集中してる。大人。

・BADかつ消え入るような終結は、チャイコフスキーの悲愴を蒸留して純度を高めたようであったことだ。そして彼女は妄執から救われる。
by Sonnenfleck | 2013-02-13 23:14 | 演奏会聴き語り

大井浩明×クラヴィコード 「6つのパルティータ」@カフェ・モンタージュ(2/9)

冬の京都になぜか今年は縁があり、こうして2月に再び訪れることになった。1月に比べれば、心なしか日差しが暖かい。
この日は夕方まで大阪の大槻能楽堂で観能。その後、たぶん生まれて初めて阪急に乗って京都・烏丸へ。ホテルに荷物を置いて、演奏会場に向かう。

「カフェ・モンタージュ」は「京都の街中の小さな劇場」として昨年オープンしたばかりの、音楽カフェ兼小さなスタジオである。京都御所南の静かな一角に居を構えたオーナーの高田氏が、音楽や演劇でたいへん先鋭的な取り組みを行なっている。関東だと、、うーん、、関東にこんな空間はないかもしれないぞよ。いや、あるいは中央線沿いの音楽喫茶たちはちょっと似た雰囲気なのかもだが。。

店内は広くない。道路に面した入り口から半地下のガレージのように下がって、その奥にこの日はクラヴィコードが鎮座している。座席は満杯に詰めて40席程度で、この楽器を楽しむには限界のキャパなのね。

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c0060659_16265151.jpg【2013年2月9日(土) 20:00~ カフェ・モンタージュ】
<バッハ&高橋悠治>
●パルティータ第1番変ロ長調 BWV825
●《アフロアジア的バッハ》~「空」「沈む月」
●パルティータ第2番ハ短調 BWV826
●《アフロアジア的バッハ》~「浮き雲」「闇のとばり」
●パルティータ第3番イ短調 BWV827
●《アフロアジア的バッハ》~「煙の渦」「瞬く炎」
●パルティータ第4番ニ長調 BWV828
●《アフロアジア的バッハ》~「さざなみ」「冷たい雨」
●パルティータ第5番ト長調 BWV829
●《アフロアジア的バッハ》~「散る砂」「黄昏」
●パルティータ第6番ホ短調 BWV830
→大井浩明(クラヴィコード)


クラヴィコードは少しスマートな置床、あるいは横倒しにしたAEDケースくらいの木箱です(的確なたとえが思い浮かばない)
発音システムは、撥弦式のチェンバロよりも打弦式のピアノにまだ近い。しかし鍵盤が直接弦を叩くぶん、機構が1段階増えるピアノに比べると打鍵がストレートに伝わる面白さがある。そして音量は極小。かつ、速やかに減衰して空気に溶ける。

c0060659_16503094.jpg

このブログにたまに登場しているオルガニストの友人は、かつてチェンバロ、スピネット、クラヴィコードを自室に隠し持っていて、仲間うちの深夜の語らいの合間に、われわれは彼のクラヴィコードを聴いたりしたものだ。

友人が早く入場し席を確保してくれたため、幸運にも最前列かぶりつきの栄誉に浴することになった。筐体からの距離はわずか2メートル。そこへ怪人(と書くのをどうかお許しください)大井浩明氏が悠々とやってくる。プロの演奏家によるクラヴィコードはこれが初体験で、どんな聴こえ方になるのか想像がつかない。

大井氏は、彼が展開している現代音楽シリーズ「POC」のために東京の音楽シーンではややもすると現代音楽専門家のように見なされがち。でもこのひとのライヴを初めて聴いたのがスクエアピアノによるベートーヴェンの《テンペスト》だった僕は、数少ない古楽とゲソのハイブリッド者のひとりとして氏を捉えてます。

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この夜、バッハの巨大な世俗山塊であるパルティータを聴いて、僕は改めて大井氏の豊かなセンスに魅了された。

まず、適切で必要十分なリズム感覚。舞曲の集合体であるパルティータは、動きのないリズム感で塗り潰すと実に退屈な音楽に堕ちる。昔取った通奏低音の杵柄で少し慎重に聴いたりもしたんだけど、大井氏のサラバンドやジーグ、クーラントは完璧にハマっていた。恐れ入る。
欲を言うなら、できればリピートありの演奏で大井氏がどんな装飾づけをするのか聴いてみたかったが、それでは終演が軽く0時を超えてお客さんがみんな帰宅できなくなっちまうので、仕方がない(笑)

そして、楽器の特性を活かしきることによる色彩感覚。パルティータが曲者なのは、舞曲じゃないナンバーも、あるいは舞曲のかたちをしていても内容物が巨大すぎて舞曲の殻をぶち破っているナンバーも、そこに混入している点だと思うんだよね。
たとえば第2番のシンフォニア第4番の序曲、ジーグ第6番のコレンテなどは、ほとんど管弦楽を想定したかのような幅広い音色を要求しているのだけど、チェンバロでそれを実現させるのは実は至難のわざ(パルティータにモダンピアノの名録音が多いのはこのためじゃないかと)。そして…クラヴィコードはモダンピアノ以外にこの音色絵巻を実現しうる唯一の鍵盤楽器だったりするわけだ。

この日の大井氏は、ダイナミクスを自在に付けられるクラヴィコードを用いて、左手でB.C.ファゴットやヴィオラやティンパニ、右手でオーボエやヴァイオリンやトランペットをそれぞれよく想起させる音を実現。このシンフォニックな箱庭!全能の小器械クラヴィコードの音が、夜の京都のしじまに次々と溶けて消えてゆく!

+ + +

素晴らしい演奏実践と、終演後にオーナーの高田氏がお客みんなに振る舞ってくれた赤ワインに気分を良くしたわれわれ。その後、カフェ近くのイタリア料理店「クァルテット・コルサーレ」に突入し、すっきり系白ワインと美味しい魚介料理に舌鼓を打ちつつ、終電がなくなるまで音楽話に花を咲かせたのであった。

c0060659_16572165.jpg

(※入店時に入れ違いで、某有名ヴァイオリニストご一行に遭遇したのが愉快な思い出になった。ご贔屓にされてるらしい。)
by Sonnenfleck | 2013-02-10 17:21 | 演奏会聴き語り