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[感想文の古漬け]スダーン/東響 第600回定期演奏会@サントリーホール(5/26)

8ヶ月ものの古漬け。発酵してます。

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c0060659_21223035.jpg【2012年5月26日(土)18:00~ サントリーホール】
<マーラーのリート・プロジェクトその2>
●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 K385《ハフナー》
●マーラー:交響曲《大地の歌》
→ビルギット・レンメルト(MS)
 イシュトヴァーン・コヴァーチハーズィ(T)
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


前半のハフナーがあまりにも名演で、気分が高揚してしまったのが記憶に残る。
アーティキュレーションの隅々までピリオドのスパイスを利かせつつも重厚な拍節感が保たれているので、あたかもカール・ベームの古い録音のような「格調高い」空気も感じるのが面白かった(東響の音色ともよく合致)。この交響曲の様式はたとえばプラハや第39番とはかなり違っているので、これはフツーにアリだよねえ。

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後半は「連作歌曲集」としての大地の歌が、より鮮やかにフォーカスされる。
スダーンとオケはきびきびした歩みが全編にわたって特徴的。歌い手がいない隙間は、歌い手の不在を補完するように濃密なテクスチュアが採用される。そして歌い手が舞い戻ると「織り」がサッと薄くなるのである。

当然のことながらそれはスコアの要求でもあるはずだが、ベートーヴェンやブルックナーと同じようにマーラーのシンフォニーを集中的に録音している指揮者たちでこの「歌曲集」を聴くと、意外にもそうした趣は感じられないんである。みんなこれを「交響曲」として捉えるということだが、スダーンはそうしなかったというわけ。

加えて、楽章間の連関があまり重視されないのも面白い。《美について》と《春に酔える者》などは濃厚なお化粧が施された結果、独立したオーケストラリートのように変貌する。そしてこうした処置は、バーンスタインの得意技でもある。。
by Sonnenfleck | 2013-02-07 21:23 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]ゲルギエフ/マリインスキー劇場管弦楽団来日公演@所沢ミューズ(11/18)

古漬けのなかでも比較的漬かりが浅いほうから。。

晴れた休日の午後に所沢に向かう西武新宿線の車窓が、たまらなく好きなんだよね。
あの変わりばえのしない多摩の平和が、この路線に凝縮されてると言っていいだろう。年に数回の所沢ミューズ遠征のお楽しみ。 ミューズのロケーション、航空公園駅から広い道をてくてく歩いて15分というのも好い。

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c0060659_238641.jpg【2012年11月18日(日) 15:00~ 所沢ミューズ・アークホール】
●グリーグ:組曲《ホルベアの時代から》
●ブラームス:交響曲第2番ニ長調 op.73
●ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14
 ○ベルリオーズ:ラコッツィ行進曲
⇒ヴァレリー・ゲルギエフ/
 マリインスキー歌劇場管弦楽団


ゲルギエフ。これまでの音盤やエアチェックから判断すると、彼が得意でしっかりモノにしている作品とそうでない作品との演奏の差があまりにも著しく、そこがちょっと不思議な指揮者です。
そんな印象も手伝って、ライヴではあんまり聴いていません。これがたぶん、2003年に読響とベルリオーズのレクイエムをやったとき以来の生ギエフ。あのときはサントリーホールの1階前方の席で、指揮者の汗が飛んできそうな熱演だった。この日はアークホールの3階正面に座る。

まず組曲《ホルベアの時代から》
小さく刈り込んだ編成の弦楽合奏の前にゲルギエフが立つと、実はこの日いちばんの予想覆しが。小体でふあふあと柔らかくまとまった、たとえばルドルフ・バウムガルトナーのような感触の響きがホールに流れ出したんである。
彼の中にある「ぼくのかんがえたりそうのようしき」で作品を整えることに成功すると、自信たっぷりの、文句の付けようがない音楽が生み出されるのだ。ゲルギエフを全面的に評価している人たちはこれが好きなんだろう。これならわかる。。

で、2曲目のブラ2は急に自信のない、へなちょこの演奏になってるんだなあ。
ブラームスは怖い。世界で一流のマエストロのひとりと目されている人物でも、準備や理解に不足があると全然料理にならない。彫り込みの浅い習作みたいなブラームスもどきを楽しめるほど、僕はゲルギエフを愛していない。

でも今日のゲルギエフは、ブラ2なら表層的にぴたりとはまるであろう過激なドライヴ感を封印してたのです(僕らが「ゲルギエフに期待する」ようなアレです)。培養中の「りそうのようしき」が彼のなかで熟成されて、いつか僕たちの前に出てくる前兆として捉えたいと思う。

そして休憩を挟んだ幻想交響曲は、極上のエンターテインメント!
ホルベア組曲と一緒で、やっぱり彼は一度モノにしてしまうととてつもないパワーを発揮して、全身から音楽を放射するような演奏を仕上げてしまう。こういうところは天才なんだなあ。
第2楽章の、絢爛にして遠くが見渡せないほど巨大なワルツ。鮮やかすぎて酔いそうなくらいの演奏実践だったことよ。得意なんだなあゲルギエフ。本当に。

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このあとゲルギエフはどうなっていくんだろう。
作品の消化は彼のなかで進んでいくんだろうか。彼の理想のベートーヴェンやブラームスが完成するまで幾度失望させられるかわからないけれど、そっと頭の片隅に置いておくくらいのことはしたいと思う。
by Sonnenfleck | 2013-02-04 23:10 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・歌舞伎座のクラシック者]その一の下 壽 初春大歌舞伎@新橋演舞場(1/26)

「その一の上」から続く。

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c0060659_22335074.jpg【2013年1月26日(土) 11:00~ 新橋演舞場】
<壽 初春大歌舞伎>
●一、 寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)
→三番叟 中村梅玉
 千歳  中村魁春
 附千歳 片岡進之介
 翁 片岡我當
●二、 菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)~車引
→梅王丸 坂東三津五郎
 桜丸  中村七之助
 杉王丸 坂東巳之助
 金棒引藤内 澤村由次郎
 藤原時平公 坂東彌十郎
 松王丸  中村橋之助
●三、 新古演劇十種の内 戻橋(もどりばし)
→扇折小百合実は愛宕山の鬼女 中村福助
 郎党右源太 中村児太郎
 郎党左源太 中村国生
 渡辺綱 松本幸四郎
●四、 傾城反魂香(けいせいはんごんこう)~土佐将監閑居の場
→浮世又平後に土佐又平光起 中村吉右衛門
 女房おとく 中村芝雀
 狩野雅楽之助 大谷友右衛門
 土佐修理之助 中村歌昇
 土佐将監 中村歌六
 将監北の方 中村東蔵


3 観てみた&聴いてみた
今でも「ハイライト集」の上演が続いている歌舞伎の世界。こういうスタイルってクラシックではもう廃れたけど、こっちのほうが客席の欲望に忠実と言えるんだろうねえ。
そして音楽やダンスは4演目ともばらばら。これが歌舞伎感想文の難しさを助長している。丁寧に書くと長くなるし、知識を前提にすると歌舞伎ファン以外には途端にわかりづらくなってしまう。。仕方がないので地道に書いていきます。

(1)寿式三番叟
おはなし
まずこれは20分くらいの全曲上演。能「翁」から派生した演目なので、ストーリーはあってないようなもの。歌舞伎では翁と千歳、三番叟に附千歳の4人が鳴り物付きで踊る舞踊に変化している。

伴奏と役者と踊り
この演目では、舞台奥の台に13人の大オーケストラ+7人のコロスが座っていて、その重厚な伴奏で4名が舞う。三味線が7人もいると圧巻だが、どうやらコンサートマスターみたいな「首席三味線」がリードして合奏を行なっていました(このオーケストラは囃子連中、と呼ぶみたい)
さらに面白いのは、小鼓や大鼓、笛以外の打楽器。バスドラムやトライアングル、グロッケンシュピールみたいな音のする打楽器は舞台の上におらず、袖のほうでドンシャラやってるんだよね。この差は何。能から派生しているからなのか。

歌舞伎の舞いは、僕には「舞い」じゃなく「踊り」に見える。「舞い」にないあざとさや外連味、クールな肉体さばきは、歌舞伎の芸能としての矜持だと思います。その意味ではチャイコフスキーなんかのバレエとそんなに遠くない。

で、コロス(長唄連中、でいいんだろうか)が唄う歌詞。
今月の初めに国立能楽堂で素謡「翁」を聴いたばかりで、同じ歌詞が使われながらもあまりにも異なる歌舞伎の様式に驚きを隠せない。たとえるなら「Veni Creator Spiritus」というラテン語歌詞を持つヒルデガルト・フォン・ビンゲンの聖歌と、同じ歌詞のマーラーの交響曲第8番第1部と、これらの差を思い起こす。

(2)菅原伝授手習鑑~車引
おはなし
菅原道真と藤原時平の政争を土台にしたすっげえ長い演目から、3兄弟が敵味方に分かれてケンカする幕を抜粋。時平も出るでよ。
寿式三番叟は舞踊だったけれど、この演目以降はすべて劇です。

伴奏と役者と劇
さて伴奏。急に小編成になるのが可笑しい。地の文を唄うエヴァンゲリスト的ナレーター・浄瑠璃と、それを伴奏する三味線のたった二人が、基本的に全編を前に進めていく(三味線の通奏低音チェンバロ感がすごい)。浄瑠璃のディクションは明快のひと言なので、字幕なんかなくたって問題ない。

坂東三津五郎・中村橋之助・中村七之助という、歌舞伎ファンでなくても知っている著名な俳優陣を間近で見る。これがまずミーハーな楽しさとして確かに存在する。
で、よく眺めていると、彼らの肉体とそこから繰り出される所作、江戸弁と古い口語の混合する台詞捌き(能と違って役者は「唄」わず語る)があまりにも美しくてついつい引き込まれてしまうんである。やっぱりかっこええ。

劇は3兄弟がそれぞれのボスによって引き裂かれているという鉄板の設定。そして後半で時平が現れて睨みを利かすシーンは、マンガやRPGの前半でラスボスが出てきて主人公たちを圧倒する作劇法の先祖みたいな感じで、妙にしっくりくるのよな。

(3)戻橋
おはなし
河竹黙阿弥作。鬼が夜な夜な人を攫うと噂の一条戻橋。通りかかった渡辺綱は、独り歩きの妙齢の女性を守って家まで送り届けようとするが、その女性こそ鬼だった、というこれまた鉄板のパターン。最後は渡辺綱に腕を切り落とされた鬼が、黒雲の彼方に飛び去るというワイヤーアクションも見もの。

伴奏と役者と劇
オーケストラは1st2nd3rd三味線の3名のみ。これに加えて、能の地謡のように地の文を担当する3名の唄い手が、舞台上手の台座に座ってる。作品によって伴奏のスタイルがあまりにも異なっていて混乱するなあ。。
三味線は原則的には3声部ユニゾンが多いんだけど、ときどき和音を発生させることにもこだわっているようなんだよね(内声である2nd三味線とかがキーマンっぽい)。謎の音楽だ。三味線の巧拙なんてこの先もわかる気がしない。。

それでです。この演目で、僕は歌舞伎の重大な魅力にとりつかれてしまったようだ。
それは、女形・中村福助が演ずる「扇折小百合実は愛宕山の鬼女」の凄まじいエロス。一流の女形は、女性なら無意識的に行うことができる仕草や表情を、実物の何倍にも増幅して客席に放射するんだなあ。手足の指先から頭のてっぺんまで、毒々しいくらいの女性性
女性は観ていて気持ちが悪くないのだろうか、、と勝手に心配するのだが、僕らはケルビーノやオクタヴィアンを聴いて楽しめるんだからあんまり関係ないのかな。。

(4)傾城反魂香~土佐将監閑居の場
おはなし
近松門左衛門作。絵師・土佐将監に師事する吃りの又平。弟弟子に栄達の先を越された悲しみのあまり又平は自害しようとするが、妻おとくの懇願で、生涯最後の作品として庭の手水鉢に自画像を描く。すると奇跡が起こり、手水鉢の反対側の面に自画像が透けて現れる。その一部始終を見ていた将監は又平に土佐の苗字を与える。歓喜する又平とおとく。

伴奏と役者と劇
今度のオーケストラは三味線2本のみ。エヴァンゲリストたる浄瑠璃がストーリーを進め、舞台の上の役者たちもよくしゃべる。

中村吉右衛門の又平。魯鈍な表情とトロい身のこなしを演じ、セリフも吃りまくりでほとんど何を言っているのかわからない。もっとも彼の巧妙さを感じさせたのは将監から苗字を許されたときの「笑い泣き」の演技で、歓喜が極まった大笑いから嬉しさのあまりの男泣きへ、完璧にシームレスな移行を果たしていた。これが人間国宝の至芸なのか。。

そして中村芝雀のおとく。前の演目で女形のエロスにKOされていた僕はもちろんこの役者さんをしっかり観たのだが、中村福助の若々しい官能とはまた一味違った秋の落ち葉のような情感に、涙が出てくるのであった。歌舞伎に泣かされるとはねえ。周囲の善男善女もみんなまなじりを拭ってました。

この演目は昼の部のトリだけあって長大だったが、退屈とは無縁だった。他愛もないプロットだけど、破綻はしていない(少なくとも日本人の僕としては無理のない展開に思える)。これはトンデモなストーリーを音楽の力で無理矢理つなぎとめているオペラと異なるんだなあ。

4 クラ者の雑感
・歌舞伎は全般的に19世紀オペラに似ていたけど、台本に感じる納得感が善い。オペラは劇として楽しむには台本がひ弱なことが多いし、歌入りの器楽として楽しむには台本が主張しすぎる。歌舞伎は(もちろん例外もあるんだろうけど)まごうことなく言葉と音が統合された歌劇だと思う。これは非常にショックです。

・能でも思ったことだけど、終演後の拍手が恐ろしくあっさりしている。これがクラシックのマナーともっとも異なる点だろうなあ。これだけの長丁場で、最後の演目も感動的、しかもこの日は千秋楽なのに、一般参賀どころかカーテンコールすら起きないんである。みんなこの昂った気持ちをどこにぶつけてるの??

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これが歌舞伎かー。おもしれー。
by Sonnenfleck | 2013-01-31 22:38 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・歌舞伎座のクラシック者]その一の上 壽 初春大歌舞伎@新橋演舞場(1/26)

歌舞伎は謎の存在だった。

TVで観ていると見かけはオペラのようでもあり、伴奏音楽の大部分は三味線が君臨するジャパニーズな音響、役者の所作は客観的に見ても独特すぎる、上演中にも関わらず「中村屋!」「成田屋!」とかいう謎の掛け声が飛んでいる、客席は客席でお金持ちの和装おばはん連中ばっかりっぽい、必ず幕の内弁当を買わなきゃいけないような気がする、チケットの買い方もよくわからない、もう!

でも、ここ数ヶ月で能にはまり込んでからは歌舞伎への興味も少しずつ高まってきていた。能という巨大な岩盤の上に歌舞伎や文楽が繁栄しているのであれば、それらも確認しなくちゃならない。

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c0060659_5524249.jpg【2013年1月26日(土) 11:00~ 新橋演舞場】
<壽 初春大歌舞伎>
●一、 寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)
→三番叟 中村梅玉
 千歳  中村魁春
 附千歳 片岡進之介
 翁 片岡我當
●二、 菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)~車引
→梅王丸 坂東三津五郎
 桜丸  中村七之助
 杉王丸 坂東巳之助
 金棒引藤内 澤村由次郎
 藤原時平公 坂東彌十郎
 松王丸  中村橋之助
●三、 新古演劇十種の内 戻橋(もどりばし)
→扇折小百合実は愛宕山の鬼女 中村福助
 郎党右源太 中村児太郎
 郎党左源太 中村国生
 渡辺綱 松本幸四郎
●四、 傾城反魂香(けいせいはんごんこう)~土佐将監閑居の場
→浮世又平後に土佐又平光起 中村吉右衛門
 女房おとく 中村芝雀
 狩野雅楽之助 大谷友右衛門
 土佐修理之助 中村歌昇
 土佐将監 中村歌六
 将監北の方 中村東蔵


1 チケットを買ってみた
Twitterで先達に教えていただき、デビュー戦に選んだのは新橋演舞場の「初春大歌舞伎」。今年は1月2日から3週間以上、昼の部と夜の部を毎日繰り返していて、僕が買ったのは千秋楽26日の昼の部。初心者にもわかりやすく華々しい演目が多いというアドバイスによった。

東京では、

・歌舞伎座 ※リニューアルにつき閉館中
・新橋演舞場
・国立劇場
・その他(浅草公会堂、日生劇場などを借りて)

というあたりが歌舞伎の会場であり、このうち国立劇場以外は松竹が運営。チケットはチケットWeb松竹で簡単に買える。ちなみに国立劇場はこちら

デビュー戦でもどかしい思いをするのは自分のなかに遺恨を残すので、思い切ってサントリーやオペラシティならS席に相当する1等A席、1階の7列目を購入してみたのです。16,000円也。でもオペラに行くと思えばむしろかなり安いんだよね。これ。どうせ休憩も含めれば4時間くらい座ってることになるし。

2 出かけてみた
今回の会場は新橋演舞場。東銀座駅と築地市場駅の間くらいの、いかにも江戸港湾部っぽい場所に建っている。
建物入口でチケットをもぎって入場すると1階ロビー。お弁当や飲み物、プログラムを売る売店が所狭しと並んでいる姿は…これはNHKホールとよく似てる。NHKホールのなかにある露骨な売店や自販機が許せないとかいうクラヲタがいますが、あれはこういう施設から派生しているんだろうからむしろ正統!

座席はちゃんと椅子である。畳敷きとか枡席だったりはしない。暖色をベースに非日常が広がっている様子は、能楽堂よりはクラシックのホールに近いです。おそらく新しい建物ではないけれど、公共の施設じゃないから高級感の追求には余念がない。

客層は能を少しチャラくした感じ。つまり「≒バレエ」である。おばはんたちが主流ではあるものの、家族連れもいれば若い男女もいるし、じいさんたちも多い。そしてクラシックではマジョリティの40~50代のおじさんお一人さまが、ここではマイノリティ。

あとお弁当ね!みんな買って持ち込んでましたよ!
この日は二番目と三番目の演目の間に30分の休憩があって、そこで各自食事をする。みんなまた楽しそうになんだよねえこれが。新国立劇場のバーコーナーで高いシャンパンを啜っているお客と、どっちが幸せなのかはわからない。
僕は事前にコンビニで買っておいたカツサンドと、デザートに大福を食べました。サントリーホールでお弁当をぱくついてたら係員がすっ飛んでくるよねえ。この愉快な違和感!

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さて前段が長くなりすぎたので、ここでいったん筆を置きます。
鑑賞してどうだったかは、続き(その一の下)をご覧ください。
by Sonnenfleck | 2013-01-29 06:21 | 演奏会聴き語り

インバル/都響<新・マーラーツィクルス>その5@東京芸術劇場(1/20)

c0060659_23334721.jpg【2013年1月20日(日) 14:00~ 東京芸術劇場】
●モーツァルト:Fl協奏曲第2番ニ長調 K314
→上野由恵(Fl)
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団


くどくどと感想を書く気になれない音楽会。
僕はインバルの全面的信奉者じゃない。しかしインバルに率いられた今の都響が一段階ステージを上がってしまったのは間違いなかった。こういう演奏は好き嫌いの次元で語ってはいけない気がする。

都響マーラーツィクルスの5回目。僕が聴いた芸劇公演は3度演奏されるマラ5のうちの第2回目だった。
白眉は第1楽章と第2楽章。インバルは粘り気を込めつつも違和感のない(もうちょっと言うならベタな)フレージングを全面的に採用していたけれど、縦の一瞬一瞬ではまさに痺れるような音響を作り出していた。特に弦楽の内声・管楽器たちの音色に対する優れたこだわり、マーラーに必要な、切なげに甘えるような音色を実現するセンス、これに恵まれて失敗するわけがないんである。

僕は今回芸劇のRB1列、つまり舞台直上に座ったのだけど、第2楽章に顕著なユダヤっぽいメロディの瞬間のインバルは、恍惚として鼻歌を唄いながらVaやVc、Clにねっとりとした指示を出していた(ちなみにこの席は芸劇のなかでもっとも好い音がする場所と思う)。その結果として都響が啼く。その音響はである。
繰り返すけどこういうマーラーは苦手だ。でもあの響きを評価しないなんて許されない。矢部コンマスの鬼神のようなリードも忘れがたい。

アダージェットがドライだったのも違和感がない。こういうところでインバルが見せる醒めきったバランサーとしての姿は「敵ながらあっぱれ」という感じ。

むろん終演後は凄まじいブラヴォの嵐。僕の席はだいたいステージ上と同じような聞こえ方がしていたはずで、楽員さんたちの喜びと驚きの表情もよくわかる。最後はインバルの一般参賀→インバルがTp高橋首席の手を引っ張って一般参賀その2→さらに矢部コンマスまで捕まえてきて一般参賀その3、という大盛り上がりなのであった。

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この公演の前日、マーラーツィクルス後期セット券を購入した(本当は芸劇がよかったけど、諸々の事情からみなとみらい)。後期交響曲はインバルの大きくてふてぶてしい自意識をがっしりと受け止めるのだから、これを聴き逃すわけにはいかないんだよね。ただ多くの人たちがそのように考えたみたいで、1回券がほとんど発売されないかも、という回もあると聞いている。。

みなとみらいはベルティーニのマーラーをたくさん聴いた思い出のホールだけど、いつまでも彼の思い出のなかに生きるわけにはいかない。今のハイパーな都響を、きっとベルティーニもにこにこして見つめているだろう。
by Sonnenfleck | 2013-01-27 00:08 | 演奏会聴き語り

メッツマッハー/新日フィル 第503回定期演奏会@すみだ(1/12)

c0060659_9333315.jpg【2013年1月12日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
●J. シュトラウスⅡ世:《ウィーンの森の物語》op.325
●ヤナーチェク/マッケラス:《利口な女狐の物語》組曲
●R. シュトラウス:アルプス交響曲
⇒インゴ・メッツマッハー/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


メッツマッハーを聴くのはこれが初めてではない。前にもどこかで書いたかもしれないけど、2004年に、ペーター・コンヴィチュニー演出の《モーゼとアロン》をハンブルクへ観に行ったことがあって、そのときにタクトを執って異様に鮮やかな音楽を聴かせてくれたのがインゴ・メッツマッハーでした。これまでの新日客演はタイミングが悪くて聴き逃しちゃったけど、ついに9年ぶりの再会。

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この日のプログラムはすべて、作曲家が自然を解釈して生まれたはずの作品だったのだけれど、メッツマッハーは不敵にも、何かの描写を一切行わなかった。客席が自然を想像するための補助線としての表情づけや音色効果が、ない。

その作業はまず《ウィーンの森の物語》を、ヨハン・シュトラウスの「交響詩」のようにしてシンフォニックに仕立てることから始まった。
先月、僕はハーディングのショスタコーヴィチを聴いて、マッシヴな迫力を感じさせないのが新日の個性だと書いた。でもメッツマッハーは、冒頭から全力でゴリゴリした響きを生み出そうとしている。そしてそれが上手くいっている…!驚いてしまった。いつもの新日の音と全然違うのだから。

ともすると緩やかに「和し」がちなこのオーケストラを、鮮やかに分離させることで「主張」のぶつかり合いに導いている。ゴワゴワした織物になるけど、そのゴワゴワがダイナミックに揺れ動く愉悦は、たぶんこれが19世紀音楽のひとつのあるべき姿なんだと思うんである。
メッツマッハーの指揮姿には、彼のやりたいことがストレートに表現されている。彼が考える交響的ワルツは、豪快に跳ねたり伸縮したりする。オケもちゃんとついてきてる!

利口な女狐組曲は、さらに一歩進んで構築されている。ヤナーチェクのなかに埋まっている都会性を、ヨハン・シュトラウスからのシームレスな展開でちゃんと炙り出しちゃうんである。ヤナーチェクの青春はブルノという工業都市にあったということを忘れてはならない。
まさに小股の切れ上がったヤナーチェク。組曲のあちこちに浮かび上がる器械的リズムは、ビストロウシュカを未来主義的女狐として華麗に変化させている。どんどん先に流れていくのだ。こんなヤナーチェクがあったっていいんだよね。

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そしてアルペン。これも見事のひとことでした。
あえて無理やりに登山に例えるなら、タイムアタックトレッキング。実際の所要時間はほかの数々の演奏と大して違わないんだろうけど、体感する音楽の流れの速いことといったら!流麗だ!
そして(前半のプログラムを聴いていてもよくわかったけど)メッツマッハーは各パートの統合じゃなく、分離の良さを第一に考えている。オーケストラの100人が、100通りの軌跡で横に展開していくんだよね。穏やかにまろやかに統合された響きは、別の指揮者に求めよう。これは、すべての楽器がコンチェルティーノになりうる、リヒャルト・シュトラウスのコンチェルト・グロッソだった。

過去の《モーゼとアロン》では感じ取れなかったメッツマッハーの重要な美質として、この日のアルペンは「横の流れへの鋭敏な感覚」を気づかせてくれた。

それは、こういうふうに横方向に豊麗かつ急速な流れができる指揮者、たとえばマルケヴィチやベイヌムに通じる美質。ハイパーな解像度で。僕は聴きに行かれないけど、今日のサントリーのブルックナーは必ず面白い演奏になる。
by Sonnenfleck | 2013-01-19 09:34 | 演奏会聴き語り

フルシャ/都響 第745回定期演奏会Bシリーズ@サントリーホール(12/15)

c0060659_21225649.jpg【2012年12月15日(土) 19:00 サントリーホール】
●バルトーク:Pf協奏曲第2番 Sz.95 BB101
→ゲルハルト・オピッツ(Pf)
●コダーイ:《ガランタ舞曲》
●バルトーク:《中国の不思議な役人》組曲 op.19 Sz.73 BB82
⇒ヤクブ・フルシャ/東京都交響楽団


どこで見かけても感想はほぼ絶賛の嵐、という注目の若手指揮者ヤクブ・フルシャ。今年ようやく聴けたのだ。

フルシャは1981年生まれの31歳。僧帽筋が発達したハリポタのような雰囲気だけど、彼がつくる音楽もまた、魔法のように鮮やか。驚いた。
しかしもちろん彼の魔法は、たとえば20世紀中葉であれば魔法だったかもしれないが、いまや指揮者の呪術的カリスマによって立ち昇る紫の煙ではなく、明確に乾いた高速演算処理の賜物であるのが痛快だ。

協奏曲を飛ばしてまずガランタ舞曲。急激に立ち上がる豊穣な響き。
前半は自分があまり聴けていなかったのかもしれないが、細部の音色の選択が練りに練られているところに、舌を何回転かぐるぐるっと巻かざるを得ない。拍手と歓声もずいぶん大きい。

そしてミラクルマンダリン…。上述の鋭い音色センスに加えて、縦方向の精密な積み重ねがビシッ、、ズシッ、、と重たくキマっていくので、重厚で華麗なマチエールがちゃんと現れている。こういう拍感覚って今日の指揮者ではプリインストールアプリみたいなものだけど、フルシャのセンスはちょっと高級感がある。
さらにそこへ、都響のバランスのいいクリアな音色もうまく相乗し(彼らの音響はロンドン響に似てきていると思う)、ある種の現代的な格闘技を観戦しているような快感を想起させられたのだった。都響は佳いオケだよねえ。ほんと。

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さて。前半のバル2はいささか問題の多い演奏だったのだ。
フルシャと都響は(すでに書いたように)非常に精密でしかもマッチョな快感も忘れない伴奏を繰り広げていたようなんだけど、そこに、オピッツのソロが乗り切らない。。まるで東京メトロの運行システムに旧い蒸気機関車をムリヤリ乗せているかのような齟齬が続発している。

オピッツにはカーテンコールで鋭いブーが飛んでしまったが(とても見事なブーだった)、蒸気機関車自体はそれほど悪くない。もうちょっと異なるタイプの伴奏―つまりリズムや色彩、力感じゃなく、しっとりした空気感や「間」みたいなものに重点を置く伴奏だったなら、より佳い演奏になっていたんじゃないかと思うんだよね。

フルシャは、あるいは、オピッツに主導権を譲るべき局面だったかもしれない。でも、協奏曲を自在に合わせるスキルも、きっと彼なら身につけられると思う。今後のフルシャ追っかけが楽しみです。
by Sonnenfleck | 2013-01-11 21:25 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その二 素謡「翁」&能「弓八幡」@国立能楽堂(1/5)

昨秋からあれよあれよという間に嵌りはじめた能。2013年はコンサートホールじゃなく能楽堂でライヴ初めをすることにしました。

チケットをもぎってもらい入場すると、ロビーに正月のお飾りを発見。
これ、比べる対象が写っていないからわかりにくいけど、250L冷蔵庫くらいの存在感です。鏡餅の直径は下のお餅で30cmくらい。伊勢えびも誇らしげ。目出度い。
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ほぼ初体験と言っていい前回11月定期は正面の席に座ったのですが(下の写真では右の方に広がっているエリア)、今回はいちばん安い中正面という斜めの席をチョイス。舞台に近いしいいじゃん♪と開演前はるんるん。でもこの場所がなぜ安いのかは後ほど判明する。
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↑お正月限定の紙垂が鴨居に掛かってます

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c0060659_2222987.jpg【2013年1月5日(土) 13:00~ 国立能楽堂】
<国立能楽堂1月定例公演>
●素謡「翁」(宝生流)
→近藤乾之助(翁)
 金井雄資(千歳)
●狂言「牛馬」(大蔵流)
→大藏吉次郎(シテ/牛商人)
 善竹十郎(アド/博労)
 山本東次郎(アド/目代)
●能「弓八幡」(宝生流)
→大坪喜美雄(前シテ/老人|後シテ/高良の神)
 小倉健太郎(ツレ/男)
 福王和幸(ワキ/臣下)
 喜多雅人(ワキツレ/従者)
 是川正彦(ワキツレ/従者)
 善竹富太郎(アイ/山下の者)ほか


1 「翁」に驚愕
今回はまず「素謡」と言われる、囃子方(オーケストラ)も舞(バレエ)もいない、謡(ソロ)と地謡(コロス)だけの無伴奏合唱曲が演奏されたのだった。

「翁」っていうのは、どうも詳しくはわからないのだけど、能の演目のなかでもっとも成立が古く、能にして能に非ずと言われる作品らしい。
翁 とうどうたらりたらりら、たらりあがりららりどう
地謡 ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりどう
翁 所千代までおはしませ
地謡 我等も千秋さむらはむ
翁 鶴と亀との齢にて
地謡 幸ひ心に任せたり
翁 とうどうたらりたらりら...
ここにことばを載せた前半部分は、呪術的なオノマトペによって水滴からやがて滝の轟音を描写し、続く後半部分では鶴と亀のいる渚の砂(いさご)がさくさく、朝日の輝きを謡いあげて、最後は全員で「万歳楽(まんざいらく)」と和して終わる。ストーリーはない。天下泰平。寿ぎの極致。

たった6人の声楽アンサンブル、しかもソロを謡うのが84歳の老翁・近藤乾之助氏であるにもかかわらず、巨大なモダンオーケストラが演奏するスクリャービンやシェーンベルクと同じくらいの圧倒的な極彩色を感じ取った。遥か眼前の広大なランドスケープ。この体験は何だったか?

この15分くらいのうちに能の秘め事が全部入っていたような気がする。バッハでいうとフーガの技法、ベートーヴェンでいうと32番ソナタみたいな。隣の席に座っていたおじさんは、「翁」だけ聴いて帰っていった。

2 「弓八幡」に背筋を正す
牛と馬のどちらが優れているかを競い合うほんわか系狂言にうとうと。休憩時間に中庭に出て冷たい外気に触れて眠気を散らす。後半は能「弓八幡」です。

(1)おはなし
11月同様、神様の化身が出てきていろいろと由来を語ったのち掻き消えて、後半で神様本体が登場し舞う。たぶん「脇能」っていう種類だな。

八幡神がいる石清水八幡が舞台。後宇多上皇の臣下が参詣していると、弓を袋に入れて携えている老人と出会う。弓が袋に入っているのはすなわち天下治まった泰平の徴で、自分は実は石清水八幡の摂社※ の神(高良神)だと語って消え失せる。
(※この高良神社は、「仁和寺にある法師」が石清水八幡宮と間違えてお参りしてしまった徒然草のエピソードで有名みたいです)

やがてどこからともなく妙なる音楽と薫香が漂い、白髪の老人から若々しい黒髪の姿に戻った高良神が顕現、爽快にして雄渾な舞を舞う。やっぱりバロックオペラとそんなに変わらないぜ。

(2)アリアとバレエ
そういう演目なのか、演者のセンスなのか、その両方なのか、まだ全然判別できないんだけど(クラシック聴き始めのころと同じ!)、今回の「弓八幡」は前回観た「賀茂」よりずっと快活な語り口が多く、舞も涼やかで直線的だった。

ただ、ここに来て中正面に座ってしまった失敗がじわじわ効いてくる。
中正面が安いのは、ずばり「柱が邪魔だから」の一点に尽きる。正方形の舞台の対角線に沿って舞われる局面が多いので、演者と柱がダダかぶりで全然見えない!柱を切り倒したくなる、というのもよくわかるねえ。以後注意しよう。

ともあれ、特に後宇多院の臣下(ワキ)を演じた福王和幸氏のレチタティーヴォが弾むようなアーティキュレーションだったのと、後半で高良神(後シテ)を演じた大坪喜美雄氏の舞いが実にイケメンだったのが印象深い。黒に金の上着(なんて呼ぶのかわからん)の袖をぶあっっっと返す仕草に、金の砂子が飛び散るようなエフェクトを幻視。イケメン神様っていいよね!

3 クラ者の雑感
・やっぱり英語字幕がわかりやすい。ものがたりを追うことができる。
・" ...during the reign of the emperor Kinmei, Usa, Kyushu... "って表示されたときの「なんでアメリカなの?」感。
・今回の詞章は"emperor"を"he"に置き換えるとだいたいメサイア。なにしろheのreignを寿ぐ内容ですので。

・毎回の囃子方(オーケストラ)の演奏を比べて違いを聴きわけるなんて、今の段階では全然できる気がしない。そもそもあれは楽譜があるんだろうか…?

・実は今回、終演後に「みんなで謡おう!高砂」っていう超アグレッシヴなコーナーがあった。
・歌詞カードもプログラムと一緒に配られたんだけど、フツーの「《歓喜の歌》を歌いましょう」などとは格が違う。技術的困難を思って早々に退散。

・でもその後、ロビーでコートを着たりしていてもあんまりお客は出てこなかったので、みんな謡ったんだなと思われる。すげえなあ。この「鑑賞と実践のお隣感」はクラシックとは違うなあ。
by Sonnenfleck | 2013-01-07 22:06 | 演奏会聴き語り

ノリントン/N響 ベートーヴェン「第9」演奏会@NHKホール|または、具象の勝利(12/23)

c0060659_617688.jpg【2012年12月23日(日) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op.125《合唱付》
→クラウディア・バラインスキ(S)
 ウルリケ・ヘルツェル(A)
 成田勝美(T)
 ロバート・ボーク(Br)
→国立音楽大学合唱団
⇒ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団


ひと言で表すと「レトリックの塊」のような第9。
もともとベートーヴェンが意図的に(または無意識的に)第9のなかに詰め込んだ音楽修辞技法の数々を、サー・ロジャーは掘り起こし、土くれを払い、洗浄し、僕たちの前に鮮やかに並べてくれた。ただそれだけだ。それだけだが、まことに尊い機会。今この世界で、ここだけにしかない第9だった。

ネットで観測するかぎり、この公演は賛否両論である。あたりまえだ。

百万人の無辜の市民を歓喜の渦に巻き込むことなんか、ノリントンの頭にはない。彼の禿頭のなかに詰まっているのは、18世紀までの音楽の総決算としてのベートーヴェンを、いかにして鮮明に復元するか、その一点だけである。ノリントンの真価を、学究の最前線に吹き出すマグマを、僕はこの日ほど尊敬したことはない。

+ + +

この日唯一、ベートーヴェンが僕らの知ってるベートーヴェンだったのは、せいぜい第1楽章くらいだったかもしれない。
つまり、楽聖が得意にしていたフィグーラ、アナバシスとカタバシスの自在な組み合わせによる「運動」を、ノリントンはちゃんとこの楽章で展開した。冒頭の五度音程を1stVn-Va-Cbラインでヴィヴィッドに弾かせることから始まる、この楽章の緊張した運動。寄せては返す千万のアーティキュレーション。ノリントンの武器がノンヴィブラートだけだなんて、いったい誰が言ったんだい?

第2楽章第3楽章の美しいタイムスリップ!
ここでノリントンが向かうのは、ベートーヴェンに流れ込んでいるモーツァルト、あるいはモーツァルトに流れ込んでいるグルックやアレッサンドロ・スカルラッティ、ヘンデルの要素なんである!なんという!

第2楽章の奇妙に鈍重なテンポ。皆さんはどう聴かれたのでしょうか。
あのもったいぶったようなスケルツォ、僕には「フィガロ」の戯けたシーンへのオマージュとしか思えなかった。今にも第3幕のはちゃめちゃな6重唱が始まりそう。そこへベートーヴェン自身を体現するかのように自由なティンパニが躍り込んできて、さらに「異種対話劇」が始まってしまう。それでいて中間部の管楽隊の美しさには「魔笛」の3人の童子の重唱が透けて見えるのだ。
情報量の多さにくらくらする。こんな設計は、ノリントンの過去の録音ではやってないんだよね。でもこれを聴くと、これしかない、と思わずにいられない。

第3楽章の透明感は予想どおりだったけれども、あの教条主義的な静けさは19世紀の特産品ではなく、モーツァルトの道徳的なアリア、あるいは18世紀前半のオペラセリアが得意にしていた荘重なアリアから来ているような気がしてならない。それは何も思い込みによるのではなく、ヴィブラートを抑制し淡々と歩んでいくVcとCbの響きに通奏低音を感じたからにほかならない。サー・ロジャーは聴き手の耳をしなやかに過去へ向けさせていく。

+ + +

そしてさらにさらに驚きだったのが、第4楽章
ヲタの皆さん、昭和のヒョーロンカ先生の言うことを真に受けて第4楽章を小バカにしてませんか?いわく「第9が素晴らしいのは第3楽章まで!」みたいな。でもそれはもったいない。気づきの少ない演奏を聴いて浪費するには、人生は短すぎる。

ここに含まれていた音楽修辞技法は、僕たちの蒙昧を啓くのに十分。すなわち僕たちはここに、ベートーヴェンが企んだ(あるいは企んですらいないかもしれない)モンテヴェルディやジョヴァンニ・ガブリエリのゴーストを見るからである。

ベートーヴェンが用いたレトリックのうち、とある対象をはっきりと暗示するものがこの楽章で登場する。そのひとつはトルコ軍楽隊の行進であり、もうひとつは、神の楽器としてのトロンボーンである。

トルコの軍楽隊は、近づき遠ざかることで楽曲のなかに遠近法を導き、またモーツァルトの「後宮」などに代表される18世紀トルコ趣味を連想させて懐古をかき立てる。これは音場をデフォルメすればするほど効果的だと思うが、ノリントンの指示は極めて具体的で、あからさまである。

そしてトロンボーンは(もっと言ってしまえばサックバットは)ヴェネツィアのジョヴァンニ・ガブリエリ、そして彼に流れ込んでいる中世教会音楽を想起させるのに十分な濁った音色を、薄氷を踏むような慎重さで実現させていたのである。あっぱれ。本当にあっぱれだ。

それは具体的には、歓喜の主題がひとしきり爆発した直後、
Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
Brüder, über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.
の部分なのだが、なぜ各連を最初に歌うのが男声だけなのか、ということについて、ノリントンはちゃんと回答を出している。これは神の意向がサックバットによってもたらされる教会の音楽なんである。

またここで国立音大の学生さんたち、そしてN響トゥッティは、何を要求されていたか。そこも面白い。
合唱はあくまでもモンテヴェルディのマドリガーレのような非人間的マチエールを、またN響トゥッティは絶対にその合唱を塗り潰さないような微細な発音を、それぞれノリントンから指示され、ほぼ完全に達成していたんだよね。特に「俗な楽器」である弦楽器が人間の声の前に出てくるなんて、これが(18世紀の視点に立った)17世紀初頭の音楽へのオマージュだとしたら、そんなことはありえないんだ。

+ + +

「劇的」という日本語があるが、なぜかそこには「アクセント強め」とか「『悲』劇的」とか「ロマンティックな」とかいうイメージが小判鮫している。
でも本当の「劇」は、そんなイメージを片方に含みつつ、もっと豊饒な空間を示してはいないだろうか。よく動き、泣き、笑い、叫び、黙り、そして語らう。語らいのアンサンブルが蒼古たる音楽修辞学とがっちり結合したとき、そこに立ち上がるのは、抽象に対する具象の勝利なのである。

これから生で聴かれる方、そして年末年始にTVでご覧になる方。どうかお楽しみに。
by Sonnenfleck | 2012-12-25 06:20 | 演奏会聴き語り

ハーディング/新日フィル 第502回定期演奏会@すみだ(12/8)

c0060659_5364650.jpg【2012年12月8日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
<ショスタコーヴィチ>
●Vn協奏曲第1番イ短調 op.77
 ○パガニーニ:《うつろな心》による変奏曲 op.38
→崔文洙(Vn)
●交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒ダニエル・ハーディング/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


この日のハーディングのショスタコーヴィチは、会場に大勢つめかけていたタコヲタ諸氏のカタルシス希求を(たぶん)完全に裏切った。のと同時に、ショスタコーヴィチの音楽をもう一段階上に引き上げようというロケットエンジンの火花を、強く強く意識させる快演でもあった。

+ + +

そもそもハーディングと新日フィルの共同作業は、指揮者がオケの美点を必要十分に評価するところからスタートしているように思っている。
新日フィルはたいへん器用なオケではあるが、僕はいまだに彼らの演奏からマッシヴな充実を感じたことはない。それは彼らの個性だ。ハーディングはこの個性を十分に活かすことを大前提に、このショスタコーヴィチを構成したんじゃないかな。

ショスタコーヴィチを、量感と、響きがみっちり詰まった重さで捉える向きからすれば、きっとハーディングの音楽づくりは耐えがたかろうと思う。あるいはショスタコ自身ですら「オレは(この時期には!)こんな音楽を生み落としたのではない」と憤るかもしれない。
以前フェドセーエフのときに書いた「ショスタコーヴィチの中期様式」をハーディングはあえて完全に無視している。その結果、あたかも大人が幼時の夢を見るかのように、ショスタコーヴィチのなかに結晶化して眠っているアヴァンギャルドの毒が、じわりと表層に浮かび上がってきている。

かように俊敏な演奏の第10交響曲は、ライヴでは未体験ゾーンである。ラトル/BPOの海賊盤がちょっと似たような雰囲気だったけれど、ハーディングの要求はそれと同じか、さらにもう少しドライに音符の運動性能の向上にこだわっているふうだった。

たとえば第3楽章のワルツが完璧なインテンポだったこととか(これにはたいへん新鮮な感動を与えられた)、第1楽章や第4楽章の木管隊がオルガンのような響きを構成しながら激しく運動していたこととか、ハイドンのように理路整然とした第2楽章とか、枚挙にいとまがない。義体化ショスタコーヴィチ。アヴァンギャルドのゴーストはちゃんと宿っている。

+ + +

崔コンマスのソロは、いち新日フィルファンとしては楽しかった。でもこの協奏曲に高い完成度を期待する聴衆のひとりとしては、音量も音程も発音もすべて、率直に言って物足りなさが残った。おそろしい作品である。
by Sonnenfleck | 2012-12-19 05:43 | 演奏会聴き語り