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晴読雨読:藤谷治『船に乗れ!』|R-28の青春音楽(悔恨)小説

藤谷治『船に乗れ!』、2008年、ジャイブ(2011年、ポプラ文庫ピュアフル)
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そもそもこの作品を知ったのは、僕がいつも更新を楽しみにしているふたりの書き手さん(「木曽のあばら屋」さんと「Blue lagoon」さん)がこの作品に賛辞を寄せていたからである。
音楽一家に生まれた僕・津島サトルは、チェロを学び芸高を受験したものの、あえなく失敗。不本意ながらも新生学園大学附属高校音楽科に進むが、そこで、フルート専攻の伊藤慧と友情を育み、ヴァイオリン専攻の南枝里子に恋をする。夏休みのオーケストラ合宿、市民オケのエキストラとしての初舞台、南とピアノの北島先生とのトリオ結成、文化祭、オーケストラ発表会と、一年は慌しく過ぎていく。書き下ろし、純度100パーセント超の青春音楽小説。(「BOOK」データベースより)
事務的なあらすじはこんなもんだが、主題として紹介すべきなのは、
・人間はどこまでも利己的で醜悪であるということ
・努力は報われないことのほうが多いこと
・取り返しはつかないことのほうが多いこと
・相容れない存在や苦しい事実を是認しながら生きていくしかないこと
・それでも、音楽と一体になれば痺れるような法悦が得られること
というようなところ。
本書は出版されたレーベルがヤングアダルト向けのようで、書店に出かけていっても「上等なラノベ」くらいの扱いしか受けてないのだが、自分はこれを中高生が喜んで読むとは到底思えない。むしろ未来に希望を持つ若人にとっては害毒ではないかとさえ思う。「何ものにもなれなかった」後悔の濃霧が全体を覆い尽くしている。

+ + +

おそらく―おそらくと書いておこう、人生はフィクションのように綺麗に伏線が回収されたりしないし、理由のない出来事も多かろうと思う。
その真理をあえてフィクションに入れ込んでしまうなんてことをすれば、表裏が裏返って「エンタメ作品としては」破綻しそうなものだが、作者は微妙なバランスでもって破綻を最小限に食い止めようと試み、でも結局は絶妙に破綻して、ジュブナイルでも恋愛小説でも青春追憶小説でもない、何ものでもない痛痒い余韻を残しながら物語は終わる。
ともかく、読後の後味の悪さは近来のエンタメ小説とは確実に一線を画す。僕は今のところ、この作品を再読しようという気が全然しない。

このままでは、僕はこの場で紹介文を書こうとは思わなかったと思う。
しかし、この本筋に対して宿命的に、分かちがたく絡みつく悪い蔦のような音楽の描写(より正確には奏楽の描写)が、異常なほど優れている。クラを愛する者であれば一発でハートを持っていかれる。それを心の底から請け合いたいと思うから、この小説をご紹介する。
技術的な恐怖、我のぶつかり合い、合奏の法悦。上のほうで「何ものでもない」と書いたが、もしかしたら、これは頗る変わった姿をした音楽小説かもしれない。

ブラ5、貼っときましょうか。時代的にはリヒターがいいですね。


by Sonnenfleck | 2012-06-12 22:38 | 晴読雨読

晴読雨読:浦沢直樹・勝鹿北星・長崎尚志『MASTERキートン 完全版』1・2

c0060659_19422633.jpg浦沢直樹・勝鹿北星・長崎尚志『MASTERキートン 完全版』 1・2、2011年、小学館ビッグコミックススペシャル。

大学時代、僕が所属するサークルの部室には、諸先輩方が残していった種々雑多なマンガが蓄積されており、『MASTERキートン』を初めて読んだのは、おそらくそこだったのではないかと思われる。
その筋では高名な作品ゆえ、何を今更と笑われるかもしれないが、背景と表情と仕草で緻密に描かれた人間模様、苦い味わいとマンガならではの痛快さを両立させるバランス、読後ほのかにかき立てられる学問への思い、、ほとんど最強のマンガと言うべき存在だ。浦沢直樹という作家の代表作は、『YAWARA!』でも『MONSTER』でも『20世紀少年』でもなく『MASTERキートン』だと、僕は勝手に思っている。

実はこの『MASTERキートン』、長い間絶版になっていたんです。理由は定かならずも、漏れ聞くところによれば、原作者たちの間で権利にまつわるトラブルが発生したため、、とのこと。この素晴らしい作品が、当然備えられるべき書店に並んでいない、という異常事態が長く続いてたわけで。ところが、何らかの障害が取り除かれたのかついに2011年の8月、完全版として覆刻されることになったのですな。

ストーリーはこんな感じ。
ロイズの保険調査員(オプつまり探偵)である平賀・キートン・太一は、オックスフォード大学を卒業した考古学者であると同時に、元SASのサバイバル教官でもある。フォークランド紛争や在英イラン大使館人質事件では隊員として活躍したとされる。
父は日本人の動物学者、母はイギリス人。オックスフォード大学時代に日本人女性と学生結婚し、一女をもうけたが、離婚。別れた妻は、数学者として大学教員を勤めている。本人は考古学の道を進みたいと思っているが、職もままならない。発掘費用のために調査員を続けるが、過去の経歴からいろいろな依頼が舞い込み、数々の危険な目にも遭ってしまう。
冷戦終結前後の社会情勢、考古学、そして太一をめぐる人々のドラマを描いた作品。
(wikipediaより)
ともかくも再発売された第1巻と第2巻では、「迷宮の男」から「赤の女」までの24話分が収録されていて、ああそうだったそうだった…と感慨にふけりながら、休日の夕方を使ってすべて読み通す。
以前と同様の痛快な心地を体験する話もあれば、学生の頃とは異なるニュアンスを感じる話もあり、いつまでも色褪せない名作だなあと改めてしみじみ。第15話・第16話「RED MOON/SILVER MOON」など、のちの『MONSTER』のサスペンスにつながっていくような闇を感じたし、第9話「貴婦人との旅」、第23話「昼下がりの大冒険」などは、昔とは違う印象を持ってしっとりと読んだのだった。

第3巻、9月30日発売予定。
by Sonnenfleck | 2011-09-03 20:28 | 晴読雨読

晴読雨読:ルネ・マルタン+高野麻衣『フランス的クラシック生活』

この本でクラシックと出会うひとは幸せだと思います。何しろ、誰々のブルックナーなど聴きにいく方がわるい、とか、邪悪、とか、もうそういうのやめにしませんか、ということをきっぱりと示した、気高い本なものだから。
クラシックを聴こうとしているひとに、僕はこれから、この本をプレゼントすることにしたいと思う。そういう本が見つかってとても嬉しい。

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c0060659_8344393.jpgルネ・マルタン+高野麻衣『フランス的クラシック生活』、2011年、PHP新書。

「電車内読書のお供に」「5月、友だちを家に招いて」「秋、散る落ち葉を眺めながら」「つまらないデート、つまらないケンカ」「静かな夜の音楽」といったシチュエーションごとに、シチュエーションに寄り添う音楽をルネ・マルタンが薦め、それを受けた解説や、解説からの楽しい逸脱を含むエッセーを高野さんが記していくというスタイル。マルタンの名前が大きく出ているが、実際は半分以上のセンテンスを高野さんが担当しておられる。

この本の主役は、あなたです。洋服も、お茶の時間も、ちょっぴり物語を意識して演出してしまうようなあなたです。そうした方たちと、音楽についておしゃべりする―これがまさに、ルネに教えてもらったフランス語「partager(分かち合う)」だと思うのです。それは、
「美しい音楽を見つけたよ。この音楽の裏にはこんな物語がある。最高の演奏だから、君に聴いてほしい」
そんな、軽やかで自由な連帯感です。自由であるからには、「本物」を伝える責任が大前提としてあります。しかしそれは、知識をひけらかしたり、自分と違う聴き方を見下したり、好みでないものの悪口を言ったりする態度とは対極にあります。そこには本物の音楽の姿があると、私は信じています。

高野さんは、あとがきでこのように表明されている。

ルネ・マルタンはLFJで用意するプログラム・演奏家に関し、絶対に手を抜かない(今年はいろいろ不幸が重なったが)。たとえお客さんが、初めてクラシックに触れる子どもたちや家族連れであっても。2005年のベートーヴェンのときに僕がもっとも驚いたことのひとつは、そこなんだよね。
これまでのライトなクラシック入門書は、この点に関して圧倒的に弱かった。パッヘルベルのカノンに、モルダウに、花のワルツに。演奏はなに、全部カラヤンでいいや。初心者には初心者向けの音楽を当てとけ。。手加減と見下しは表裏一体。

そして、なお悪いことに、この次のステップにある数多のディスクガイド本が、知識をひけらかし、あるいは悪口を言うものばかりなのだな。ここに読者の背伸びが加わると、無知は恥だと、悪口は当然なのだと、そういうドロドロした流れができ、ほら、あっという間に一人前のクラヲタができあがる。

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マルタンも高野さんも、シチュエーションに合わせてクラシック音楽の「雰囲気」を楽しむ、ということを衒いなく勧めている(僕だって、クラシックを聴き始めたほんとうに最初のころはそうやって楽しんでたじゃないか!)。そしてシチュエーションのセレクトはひとつひとつ洒落ている。
もちろん、選曲や推薦する演奏に関して、マルタンはこの入門書でもまったく手加減していない。最初のシチュエーション「晴れた朝、窓を開けて」に対する選曲からして、ロドリーゴの《アンダルシア協奏曲》←アランフェスじゃないですからね。運命も未完成も新世界もなくて、その代わりにシューベルトのトリオやショスタコーヴィチのワルツが入っている。

ぼくの選曲は誰にも媚びない、ぼくだけのもの。麻衣さんのコラムだってそうだし、あなたもそうであっていい。それは洋服の着こなしといっしょで、真似をしながら、少しずつあなたのオリジナルになっていくものだ。
だからこそ分かち合おう。すてきなクラシックは、あなたのすぐ隣にある。

と、マルタンの言。いいこと言うじゃない?日本の音楽おじさんたちの中からついにこういう本が生まれなかったのは、残念だけども。

[参考リンク]乙女のクラシック | GIRLS GUIDE to Music, Movie & Books
by Sonnenfleck | 2011-05-08 08:41 | 晴読雨読

晴読雨読:中川右介『昭和45年11月25日』

c0060659_22203255.jpg中川右介『昭和45年11月25日―三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』、2010年、幻冬舎新書

事が起こったのは、僕が生まれる10年以上前のことである。

「好きな作家はたれか」という問いに「三島由紀夫です」と応じると、周りの「大人」たちが少し変な顔をする理由を、僕はこれまでずっと知りたがってい、逆にそれと同じくらい知りたがっていなかった。
僕が好きな、唯、虚構と美文に淫することに天才を発揮した作家・三島由紀夫と、市ヶ谷で割腹自殺した(らしい)丸刈りの人物とが、どうしても結びつかない。結びつかなければ結びつけなくともよい、と思って、彼の小説と戯曲に積極的に浸ってきたのとは異なり、彼が書いた思想的エッセーや、事件に関連した文献には、なんとなく触れ得ずにここまできてしまった。

そんなふうだから、なのかもしれないけれど、割腹自殺の件について「大人」たちが何かを語るのを、20代後半の僕は見たことがない。
アンタッチャブルとして処理される理由は、もう公言されていない。なんとなく、昭和の終わりころまではアンタッチャブルの理由が暗黙の共通認識になっていたのではないかと予想するのだが、きっと「思想」が特殊なひとの玩具として専門店で売られるようになったために、それも崩れている。

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この一冊は、当然のことながら中川右介氏の著作であり、氏の解釈と意向に沿って練り上げられているものとは思う。

だけど、昭和に生きていた120名の「昭和45年11月25日」への発言がコンパクトに取りまとめられたデータ集としての、わりあいに中立的な二次資料としての側面も間違いなく持っていて、これが新書みたいに手軽な形式で読めるようになったのは画期的ではないかしらと感じる。声が大きいひとの、思い入れたっぷりの一人称ではない、そこがこの一冊の優れたところなんだろう。こういう資料を読んでみたかったんだよね。
通常は時間の流れによって自然に形成される歴史の淵を、無理にコンクリートで固めて造った感は確かに否めないのだけれども、誰も何も語らない事件については、これくらいの公共工事が必要なのかも。

時系列を追うシンプルな4章立てで、なるほど作者があとがきで触れているように、『サド侯爵夫人』のごとく複数の視線によって本人がホログラムのように浮かび上がる格好。サド侯爵本人が登場しないのと同じように、三島由紀夫の肉声は語られない。中川氏はこんな状況を「情報が多すぎて、何が真実なのかわからない」とし、結論を曖昧にしている。これも賢明な投げ出し方だと思う。

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感想を語る120人は政治家、作家仲間から演歌歌手まで、本当に幅広いんだけど、事件の理由を三島由紀夫のウヨク思想に持ってきてる人が(それも、当時の若者が)思っていたよりかなり多くて、ただの美文ファン、ただの虚構ファンとしては、定めしそんなもんだべなあ…と思いつつもなにか腑に落ちない。

僕は2010年から振り返ってみて完全に「美学的自殺」だと思っているのだが、これは、三島由紀夫の作品しか残っていない今日だから持ちうる視点なのかな。死んだ行動家が芸術家として認識されているなんてのは、あるひとたちにとっては許しがたいのかもしれない。(逆説的な作劇が大大大好きだった本人はあるいは、多磨霊園の地下で大喜びしているかもしれない。)

晩年の三島由紀夫のああいった思想や行動は、僕には全部ポーズだったとしか思えないのだよな。本書に収録された「檄文」の、うっとりするような美しい修辞を目にして、あらためてそう感じる(念には念を入れて書き添えるが、あの内容は、僕には心底どうでもいい。強烈な自己愛の結末。ただ、あのようにして死んだら美しい、のための事務的準備。それでよくね?別に?

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「大人」の皆さん。あなたはあの日、何をしていましたか。何を思いましたか。
by Sonnenfleck | 2010-11-25 22:53 | 晴読雨読

晴読雨読:青柳いづみこ『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』

c0060659_18533030.jpg青柳いづみこ『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』、1997年、東京書籍(2008年、中公文庫)

面白かった。新たな視点が提供された。
ドビュッシーが、特に彼のテキスト付き作品において「作曲家」ではなく「解釈者」だったと喝破するくだりには、目からうろこの盾でした(痛い)。猫として育てられた犬のように、作曲家として育てられた文学青年・ドビュッシーは、音楽によってテキストに「解釈」を試みてしまう人物だったと。

著者はドビュッシーが音楽化しようとしたものを「いうにいわれぬ秘めた思い=
エクトプラズム」
と名づけている。
この「エクトプラズム」は、演奏家が読譜を元にして内側に想起し、演奏行為によって聴衆に伝えるものと同義で、つまり青柳説に従えば、ドビュッシーがテキスト作品を音楽化した作業というのは、解釈を音楽化する作業に他ならず、演奏行為と何が違うのか、ということになる。

「解釈」命のドビュッシーは、さらに、若い頃の演奏家としての立場からも自由になれなかった。よく知っている聴衆の保守性と、自分の中にある「19世紀末文学ヲタク」の黒々としたぬめりとの間に大きなギャップを見つけてしまい、その妥協点として、ぬめりを脱色して「状態としての印象主義」に甚だ接近してしまった、という言説もなるほどなと思わせる。
未完のまま遺された《アッシャー家の崩壊》は、聴衆の保守性に合わせて脱色された語法が用いられた結果、ドビュッシーが原作から捉えたエクトプラズムの音楽化にも成功していないのかもしれない。確かめたいぞ。

去年の夏、青柳氏が、浜離宮朝日ホールで「アッシャー家コンサート」を開いていたんだけど、いくつかのブログでレヴューを拝見してみると、《アッシャー家...》の遺された部分の演奏のみならず、他のプログラムもまさに本著に語られた内容に即した内容だったようで、行かれなかったのが悔やまれる(《アッシャー家...》のいくつかの主題は、弦楽四重奏曲や〈カノープ〉、《6つのエピグラフ》なんかに共通したものが認められるようです)

+ + +

本著は単純な伝記ではありません。豊富な一次資料を用いて、ドビュッシーが文学ヲタとして出発する原因となった世紀末文学の流れ、彼が《ペレアスとメリザンド》《アッシャー家の崩壊》という2作品へ辿り着くまでの道のり、およびその山に分け入ってからの登山の道行きから、上述のような袋小路にはまるまでを描いていくという、がっしりとした論文です。

それもそのはず、本著の土台は、青柳氏が藝大博士課程の学位論文として提出した文章なんですな。だから、ドビュッシーの真髄を探るには絶対に欠かせない資料なのだけど、論文としての整合性を保つための生硬さが繊維状に残っているので、ちょっと消化には手間取る。読み物としての伝記を期待する人にはあんまりオススメできないかも。熱い内容で興奮するけどね。

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2009年12月、谷中霊園の黒猫。この次はポーを読み返そう。

by Sonnenfleck | 2010-05-30 18:55 | 晴読雨読

晴読雨読:ゲーテ/池内紀訳『ファウスト』

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ゲーテ/池内紀訳『ファウスト』、1999年、集英社(2004年、集英社文庫)

文系型中二病に端を発する『ファウスト』への思いは、故郷の中学の冬の朝の図書室からずっと、この身にくすぶり続けています。そしてくすぶったまま挫折を繰り返し、年月は過ぎる。凡そ文系であればこのへんの屈折した感情は同意いただけるものと思うのです。
9月、意を決して池内訳を買い揃えてから、12月12日にようやく読破。長患いの中二病に一つの決着がついた達成感とともに、この作品の複雑な(しかし意外に直截な)美を俯瞰することができた喜びは強い。

なぜ読み通すことができたかというと、池内訳は散文なのです。
ちょっと長いけど、彼自身の解説を引用しましょう。
『ファウスト』には、実にさまざまな詩形が使われている。二十代から八十代までにまたがっているのであれば当然である。その場に応じてもっともふさわしい詩形が、もっとも効果的に使われた。この点だけでもゲーテはまさしく天才だった。
(中略)しかしながら翻訳すると、ゲーテがドイツ語で苦心した一切が消えてしまう。韻律が乏しく、まるきりべつの構造を持った日本語にあって、詩句を踏襲しても、はたしてどのような再現ができるだろう。
 詩句をなぞるかわりに、ゲーテが詩体を通して伝えようとしたことを、より柔軟な散文でとらえることはできないか。いまの私たちの日本語で受けとめてみてはどうだろう
 そんな考えで、この訳をつくった。いまひとたびの出発のためである。名のみ高くて読まれることの少ない古典を雲の上に祭りあげるかわりに、われらの同時代に引き込もうとした。
池内先生には(先生と呼ぼう)、一生頭が上がりませんな。ドイツ語を自在に操りながら原文を味わう能力がない以上、日本語話者のままで「いまひとたびの出発」に立ち会える贅沢な喜びは、言葉では言い尽くせない。仮令この「出発」がリライトと小馬鹿にされようとも、ガチガチの韻文訳の表面を舐めてわかったようなふりをするよりはずっといい。

+ + +

第一部のストーリーは有名だから、韻文でも気合いを入れればなんとかなりそうだったんですよね(何度かの挫折からわかったこと)。でも、老ファウストの強い絶望感と若ファウストの欲望、誘惑されるグレートヒェンの心の機微、憎めない皮肉屋メフィストフェレスの実際など、散文にしかないであろう生々しさに胸が躍ります。思ってたよりもずっと愉快で猥雑な人間ドラマなのだなあ。

問題なのは第二部。なるほど池内先生が解説に書いているとおり、こちらはマクロコスモスなのだ。第一部がせいぜいテレ朝21時の二時間推理ドラマだとしたら、第二部は、何十チャンネルかを分割画面で同時に見ていくような感じ。視点も時間も複数が同時に進行しているから論理なんかズタズタだし、登場人物が普通の意味で「登場」しているかどうかだって怪しいものだ。

つまり第一部とは全然位相が異なるわけで、さすがの池内訳散文でも意味を捉えるのに心の強度が必要な部分が多いのです。でもそんなときは無理に意味を取ろうとせず、無心になって、池内先生が日曜喫茶室で聞かせる話し方そのままの柔らかい日本語と、圧倒的なイメージの氾濫に淫するのが一番だということがわかった。
瓶詰め生命のホムンクルスが海に向かう第二部第二幕は、今回の体験の中でもひときわ圧倒された局面でした。海神ネレウスの娘ネレイデスとセイレーンがエメラルドグリーンのエーゲ海で歌い交わすシーンの巨きな美に、座って本を読んでいた電車のシートがぱあっと浮かび上がって上空に飛ばされるような、物凄い感覚に襲われたこと、これは書いておかなければならない。
なんという氾濫だったろう!あれは!

※この副産物として、『崖の上のポニョ』が、『人魚姫』よりも《ワルキューレ》よりも、何よりもずっと『ファウスト』第二部第二幕に近いということがわかった。あの、深読みを誘う(しかし深読みしようとすると破綻する)物語に思考が囚われていては、宮崎駿の中の海と官能のイメージに入り込むことはできないような気がする。イメージに論理も何もあったものではないから。。

+ + +

そして、音楽ファンとしての最大の喜びは、マーラーの第8交響曲にさらに深く接近するための道筋がわかったことです。
よくもまあ…あの第五幕の最終場を音楽化しようとしたなあという尊敬の念がまず浮んでくる。ファウストが息を引き取った後のことだから、もはや人称らしい人称はなくなって、「山峡、森、岩」の隠者たちと天使たち、マリア崇拝の博士、かつてグレートヒェンと呼ばれた女、そして栄光の聖母らが、めいめいばらばらにファウストの救済と肯定を歌い上げている、ポリフォニックなテキスト。

しかし、ここにファウストの転生フラグが立っていることに、恥ずかしながら今回テキストを読んでみるまで気づいていなかったのです。《大地の歌》のテキストだって、最後は永遠の救済のようなものを望んでいるわけだから、もしマーラーが自分をファウストに重ねていたとしても、それは自然なことだと思う(アルマはメフィストフェレスほど甲斐々々しくはなかったかもしれないが)。

a音とu音とo音が多い池内訳の結尾には、神々しいほどの単純さがある。
これでマーラーは救われるだろうか。
うつろうものは
なべてかりもの
ないことがここに
おこり
ふしぎがここに
なされ
くおんのおんなが
われらをみちびく

by Sonnenfleck | 2009-12-14 23:04 | 晴読雨読

早すぎたんだ

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途中に休載が入ったので、とーっても久しぶりな感じののだめ新刊。羽田空港の丸善で買ったです。

シュトレーゼマンとショパンの協奏曲で共演し、衝撃的なデビューを飾るのだめ。しかし 第21巻での予想通り、オクレール先生が守り育ててきた才能は崩壊し、メフィストフェレスに魂を喰われたのだめはまたも音楽と向き合うのをやめてしまう。救いのグレートヒェンをも拒絶するのだめ、そして萌えキャラと化した千秋の末路やいかに。―

抜き差しならぬスケルツォのように、ストーリーは大きく動きます。
シュトレーゼマンがオクレール先生にたしなめられてシュンとしてしまう展開にはかなり失望しましたが(悪魔なんだからそんなのも見通した上でのことだったのでは…)、ともあれ、この作品はそろそろ幕引きを視野に入れるべきと考える向きにとっては、ひとつのターニングポイントとして大切な巻になりそうです。

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今回、50ページに及ぶショパンの協奏曲の描写が実に見事だと思いました。二ノ宮センセのフィルターを通して音楽が逆流してくるような。。ドン・ジョヴァンニ序曲→ショパン→ブラ4と、プログラミングもナイス。
のだめのショパンは、どうなんだろう。コルトーみたいな演奏をイメージすればいいのか。

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で、「腐ってやがる」なタコ娘を従えるのがエリーゼ皇女殿下だ。


by Sonnenfleck | 2009-08-14 09:50 | 晴読雨読

晴読雨読:天野こずえ『ARIA』

c0060659_6412994.jpg天野こずえ『ARIA』(全12巻)、2002-2008年、マッグガーデン

マンガなんか読まなそうな硬派な友人が読んでいたので、何かある作品だなと思って、とりあえず第1巻と第2巻だけ買ってみたのです。そしたらこれが大当たり、、怒涛の有引力により全巻一気買いせざるを得なくなったのだった。

西暦2301年、人類は火星を改造して、地球とほぼ変わらない水の星にしている。極冠の氷が大量に融けたことによって地表の9割が水に覆われ、「AQUA」という新しい名前を手に入れた火星には、今では多くの人類が移り住み、島嶼部には街が作られている。そんな街のひとつ「ネオ・ヴェネツィア」でゴンドラの漕ぎ手になった女の子が、一人前に成長してゆくお話。

この作品はスポ根でもラブコメでもミステリでもSFでさえもない。作中は全編メゾピアノのようにして起伏は緩やか、嫌な人物や嫌な出来事はひとつも登場せず、脂も毒もなく、小学校の道徳のように適度に倫理的な世界。その中で主人公が人間関係を構築したり、休暇に遊びにでかけたり、季節感を感じたり、ただそれだけのマンガであります。

このように言い切ってしまうと、絵柄がいかにもかわいらしいのもあるし、ヲタク保守本流の人が現実逃避するための作品かとお感じになるかもしれません。しかし何と言ったらいいのか、、単純な逃避感よりも、ここからまったくシンプルな実直さや平易さの成分を分けてもらうことによって、再びリアルワールドに立ち向かうための力を得る、そういう強い作品だと僕は感じるのです。
ここに誉め言葉として、作者の強烈な作為を認めないわけにはいかない。実直で素直な世界として中途半端でない硬さで完結しているために、ダーティなものごとにまみれたリアルの人間がぶつかっていっても、疑念や臭みを感じさせないのだと思う。全12巻できっぱりエンディングを迎えているのも清々しいところです。この完結感。(もし『のだめ』が日本編で幕を下ろしていたら、佳品としてずっと評価されていくことになったかもしれない。ボソ。)

さらに、作者が女性だからなのかもしれないけど、人体の柔軟な描写に驚かされるし、それも含めた上で小さなコマの中に力強い構図が出現しているのも、この作品を評価したいポイントなのです。作中の「ネオ・ヴェネツィア」は、海面水位上昇によって海に沈んだ地球のヴェネツィアを完全に模して作られた、という設定なので、自然とヴェネツィアの建築物や夕映えの海の風景が多く描かれることになりますが、いずれも奇を衒わないストレートな美しさに満ちている。この作者さんのことはこれまで知らなかったけど、相当な画力がなければあのような描写は不可能だと思います。無理なく眼に優しいんですよ。

空気感はモンポウのように緩やか、旋律はセヴラックに似て質朴、時にドビュッシーのようなミステリアスな和音も見せる、なかなか厚みのあるマンガです。日常が汚れてしまったなあと感じているあなたにオススメ。
by Sonnenfleck | 2009-07-03 06:45 | 晴読雨読

晴読雨読:鈴木博之『東京の地霊』

c0060659_629574.jpg鈴木博之『東京の地霊』、1990年、文芸春秋社(2009年、ちくま学芸文庫)

昨年から断続的に放送されていたNHKスペシャル『沸騰都市』シリーズが面白かった。
その最終回「TOKYOモンスター」を見ていたら、この回だけ攻殻機動隊みたいな秀麗なショートアニメが挿入されていた(意欲的なつくり)。その中の登場人物が手にしていたのが、この『東京の地霊』なのでした。読んだことがなかったので、さっそく近所の本屋へ走って購入。

本書での「地霊(ゲニウス・ロキ Genius loki)」という概念はそんなにオカルト的なものではなくて、まえがきにおける著者の言葉を引用すれば「ある土地から引き出される霊感とか、土地に結びついた連想性、あるいは土地がもつ可能性」ということになる。
土地に結びついた連想性というのが自分としては(主語が明確なように思えるので)いちばんしっくりくるかな。ただしこの直後に「その土地のもつ文化的・歴史的・社会的な背景と性格を読み解く要素も含まれている」ともされます。

したがって、本書においては、いくつかの「由来の深い」東京の土地がセレクトされて、地道かついくぶん羅列的な考察作業が行なわれます。基本的には関係者の行動や古地図資料を丹念に読み込んで「感じ」を言語化してゆくのですが、その反面、突如として飛躍的な結論に達するところも多く、フィクショナルな楽しみも味わえるのが面白いところです。真面目な建築学の先生がキレて思いの丈をぶちまけたような熱さがある(ギャップ萌え?)

東京で、あるいは東京へ簡単にアクセスできる場所で生まれ育った方はどうなのか知りませんが、少なくとも僕にとっては東京はまだまだ謎が多い場所です。あそこはこんな感じの街、こっちはこういう感じ、というのを無意識に会得しているのが街リテラシーかなと思うんですが、東京については、おぼろげな了解こそあるもののいまだ無意識のレベルには全く達しないなあ。いつか達するかなあ。
ともかく、本文の内容をここで述べるのはもったいないのでやめますが(ぜひ買って読んでください)、断絶したように思える戦前からの東京は案外残っているのだなあと感じ入りました。もうちょい落ち着いたら、東京の街を歩いてみよう。
by Sonnenfleck | 2009-05-15 06:30 | 晴読雨読

悪魔的展開部

c0060659_6233710.jpgそうかそうか。そうきたか。
第20巻の感想文で「ついにこの第20巻で巨大な展開部に突入したのではないか」と書きましたが、第21巻ではいよいよ胸苦しいような展開が始まります。。以下ネタバレ。

Ruiと千秋によってラヴェルの協奏曲を演奏されてしまったのだめ。音楽で獲得できなければ生物的法律的に獲得してしまえと言わんばかりに、いきなり千秋へ結婚を迫るわけですが、その「逃げ」を見通していた千秋はヒラリとかわす。
そこへ現れたシュトレーゼマン=メフィストフェレスが、のだめ=ファウストのピアノにすっかり魅了されてしまって、ファウストを誘惑するわけです。汝の伴侶となろう、ってね。魔方陣の中からのだめに手を差し出すシュトレーゼマンの歪んだ表情、いいなあ。多くのレヴューではシュトレーゼマンの聴力が失われてきていることへの「泣きました」的コメントが目立ちますが、むしろ音楽に対するシュトレーゼマンの欲望が巧妙なタッチで描かれている点に感銘を受けました。しぼんでいた欲望がにわかに立ち上がる様子に、波乱の予感。

次巻、シュトレーゼマンによって禁断の薬を与えられるのだめ、オクレール先生が慎重に慎重を重ねて育ててきた才能は、急激な伸張を経験することで脆くも崩れ去ってしまうのか?そして千秋=グレートヒェンの構図は実現されるのか?BGMには、どろどろした緊張を孕んだシューマンの《ファウストからの情景》序曲を、クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管で。

<第21巻のクラヲタポイント>
・ヴィエラ先生が振っているオペラは、本命:グノー、対向:ボーイト、大穴:ブゾーニ。
・ってのと《二人でお茶を》、黛の《舞楽》くらいしかないなあ。本筋が動き始めると。

+ + +

昨日の名フィル名曲シリーズ面白かったなあ。感想文は明日くらいに。
by Sonnenfleck | 2008-09-01 06:29 | 晴読雨読