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カテゴリ:on the air
  • on the air:ブリュッヘン、5分間だけドビュッシーを振る@ユトレヒト(3/16)
    [ 2012-05-24 22:04 ]
  • on the air:日曜の朝のニクソン・イン・チャイナ(4/22)
    [ 2012-04-22 12:43 ]
  • on the air:ルネ・パーペ Bsリサイタル@トッパンホール
    [ 2012-04-20 06:29 ]
  • on the air:【必聴】1984年のブリュッヘン+ビルスマ+レオンハルト@シャンゼリゼ【オンデマンド】
    [ 2012-01-29 10:11 ]
  • on the air:大河ドラマ「平清盛」第1回・第2回
    [ 2012-01-22 01:17 ]
  • on the air:タモリ倶楽部「潜入!環状第二号新橋・虎ノ門トンネル」(11/19)
    [ 2011-11-19 01:30 ]
  • on the air 番外編:この美しいリアルに、ベネズエラのラモー。
    [ 2011-11-02 22:35 ]
  • on the air:ギルバート/NYPの”くるみ”でラブのような何かが注入される。
    [ 2011-10-26 21:44 ]
  • on the air:Bach méridional|オノフリが導く南欧風バッハ
    [ 2011-10-17 22:19 ]
  • on the air:《ヴェニス・ヴィヴァルディ・ヴェルサイユ》音楽祭のアレッサンドリーニ
    [ 2011-10-12 23:08 ]
on the air:ブリュッヘン、5分間だけドビュッシーを振る@ユトレヒト(3/16)

【2012年3月16日(金) 20:15~ ユトレヒト・フレーデンブルフ音楽センター】
●ドビュッシー/ラヴェル:《ピアノのために》~サラバンド
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→アンドレアス・シュタイアー(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60
⇒フランス・ブリュッヘン/オランダ放送室内フィルハーモニー
(2012年3月27日/Nederland Radio 4 オンデマンド)


150年に一度の快挙である。ブリュッヘンの振るドビュッシー(というかラヴェルというか)がどーーーうしても聴きたくて、つまりこのたかだか5分程度の音楽を楽しみにして、オランダ国営放送のサイトにアクセスしたのだった。

+ + +

今回取り上げられたのはドビュッシーのサラバンド、つまり4月1日の東京春祭ドビュッシーマラソンでも聴いた、あの曲である。あのとき藤井一興氏が言っていたけど、《忘れられた映像》のサラバンドと《ピアノのために》のサラバンドは、ほぼ同じ曲でありながら微妙に#や♭の有無が異なってるそうだ。もちろんラヴェルが知り得たのは《ピアノのために》のほうだから、編曲したのはそちらだろう。

で、たしかにフォルムは古い舞曲なれども、旋律は明確にドビュッシー、管弦楽法は明白にラヴェルである。フレージングはどことなくぎくしゃくしながら、マチエールは聴き間違えようのない濃厚なブリュッヘン節であった。彫りは深く、打点は重く、陰翳も濃い、昔ながらの彼の剛胆な音楽づくりが、ドビュッシーについてこのような方向に働くとはね。

歌い出しから古色蒼然とした音色がオーケストラに(特に木管隊には厳しく)要求されているようだ。古楽のひとがモダンオケを振って19世紀末の懐古趣味音楽をやってるんだから、状況は相当に捩れまくっているわけだが、何かストンと落ちてしまって違和感ゼロだな。最後に銅鑼がくぉーん…と鳴るまで魔法のような5分間。

+ + +

こっから先はおまけのようなものですが、モーツァルトはシュタイアーが借り猫のように大人しくてちょっと拍子抜け。というかブリュッヘンとシュタイアーの方向性があんまり違わないのかもしれない。少なくとも反発し合うという感じではない。第2楽章の終結部でも合体技・黒々とした不穏が垣間見えた。

ベト4はなんというか、かなり自由な造形になってきてます77歳。

by Sonnenfleck | 2012-05-24 22:04 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air:日曜の朝のニクソン・イン・チャイナ(4/22)

【2012年4月18日(水) パリ・シャトレ座】
●アダムズ:《ニクソン・イン・チャイナ》
→リチャード・ニクソン:フランコ・ポンポーニ(Br)
 パット・ニクソン:ジューン・アンダーソン(S)
 ヘンリー・キッシンジャー:ピーター・シドム(Bs)
 毛沢東:アルフレッド・キム(T)
 江青:スミ・ジョー(S)
 周恩来:Kyung Chun Kim(キム・キュンチュン?)(Br) ほか
⇒Chen Shi-Zheng (陳士争)(演出)
⇒アレクサンダー・ブライガー/パリ室内管弦楽団、シャトレ座合唱団
(ARTE Live Web/2012年4月22日)


METライブビューイングで見逃してからも、一度は映像で見てみたかった作品。シャトレ座での4日前の公演がARTE Live Webで配信されてるのを聞きつけて、朝7時半から3時間にわたって鑑賞しました。

+ + +

初演を演出したピーター・セラーズに立ち向かった演出家は、陳士争という中国系アメリカ人の映画監督とのこと。
ニューヨークタイムズなどで見るセラーズの演出は、実際の事象を固定的に想起させる方向に(つまり映画の一場面のように)われわれを導くが、映画監督を本業としているはずの陳士争の演出がより抽象的で、かえって生々しいのが面白い。事象は必要最小限の小物によって固定されているだけである。

群衆の動かし方にはどことなく「慣れてねえ」感が残るんだけど、そのいっぽう、ほんの数種類に還元された色彩のつかい方がたいへん巧みで、無機質のなかに妙な湿度を感じさせる。こんな色彩設計のなかでニクソン夫妻とキッシンジャーは居心地が悪いだろうが、主席と江青は上機嫌ですね(周恩来は食えない男)

ある一面から見れば、アダムズの音楽はポピュリズムに染まっているのかもしれないが、ニクソン訪中という1972年の出来事を五線譜に落とし込むにあたってはそれ以外考えられないくらいしっくり来る。
アダムズの音楽はひたすら叙情的に美しく流れてゆき、ジャズのイディオムやリヒャルト・シュトラウスの引用めいた箇所を経由しながら静かで茫洋とした終幕につながっていく。イデオロギーの対立などそもそも存在しなくて、あるのは救いがたく情緒的で感覚的な人間(たち)同士の関係と相互運動だけである。

だから、終幕の演出はとても素敵だ。登場人物たちの衣装から初めて色彩が消えて、立場を放棄している(でもいちおうは、最後に思い出したようにポーズをキメる)。この期に及んでそんな文脈に何らかの意義を与えようとしている周恩来こそ、このオペラの真面目なアルルカンなんだろう。舞台中央にずっと置かれた主席の銅像をひたすら磨き続ける黙役と、周恩来が重なって見える。

歌手たちは全員が完璧な歌唱だったと言いたい。特にふたりのソプラノ、ジューン・アンダーソン(パット・ニクソン)とスミ・ジョー(江青)には惜しみないエア拍手。前者の暗めの声質と、後者の羽のような軽い声質が絡み合う第2幕後半から第3幕は絶品だった。スミ・ジョーはしばしば柴田理恵に見えたけれど。

by Sonnenfleck | 2012-04-22 12:43 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air:ルネ・パーペ Bsリサイタル@トッパンホール
【2011年2月19日 トッパンホール】
●シューベルト:音楽に D547
●同:笑いと涙 D777
●同:夕映えに D799
●同:野ばら D257
●ミューズの子 D764
●シューマン:《詩人の恋》op.48
●ヴォルフ:《ミケランジェロの詩による3つの歌曲》
●ムソルグスキー:《死の歌と踊り》
 ○R. シュトラウス:《献呈》
 ○シューマン:《子どものための歌のアルバム》op.79~〈子どもを見守るもの〉
⇒ルネ・パーペ(Bs)+カミロ・ラディケ(Pf)
(NHK-FM/2012年4月3日)


いっときルネ・パーペとルネ・コロとの区別がついていなかったどうも僕です。

最初のシューベルト5曲は、特に《夕映えに》が素敵だったな。深い飴色を思わせる高貴な声質に、このリートの拡がりゆく巨きな静けさがよく合う。人の良い王様が戯けて歌っているような《ミューズの子》も可笑しい。

《詩人の恋》には歌い出しから圧倒された。この曲集をあまり工夫のないテノールで聴くと、性根の捩じ曲がったルサンチマンしか感じられないわけですが、パーペの声で朗々と歌われるとまるで別の音楽のように神々しく堂々として、自信に満ちあふれて聴こえるから不思議だ。Im wunderschönen Monat Mai... この歌唱のように安定した暖かな春と風がそろそろ恋しい。

〈恨みはしない〉がもっとも変な雰囲気。まことに全然、恨まんよ構わんよという裏表のない音楽に仕上がっている。これでいいのかと問い詰められたら僕は回答に窮してしまうけれども。
〈あの歌を聴くと〉は逆に裏表がなさ過ぎて、嫉妬を通り過ぎて情欲の迸りみたいな感じである。伴奏のカミロ・ラディケもここぞとばかり真っ黒な打鍵で応じる。
〈僕は夢の中で泣いた〉は曲の持つ禍々しさが、ヴォルフのような前衛性がよく現れていると言える。ここまで自信たっぷりの男臭い男が、急に不安に襲われてへたり込んでしまった。パーペのアーティキュレーションはちょっと不安定で、乾いて掠れたような夢の風景を表す。
終曲〈古い忌わしい歌〉が、まるでピカレスク・ロマンのよう。

+ + +

それで後半は《ミケランジェロの詩による3つの歌曲》《死の歌と踊り》である。濃厚な死の香り!
はあぁ。ヴォルフはそれにしてもなんという音楽を書いているんだろう。第2曲〈生あるものはすべて滅ぶ〉の有機的な腐臭は。。
Menschen waren wir ja auch,
Froh und traurig,so wie ihr,
パーペが下線部に与えた苦痛の叫びは筆舌に尽くしがたい。総毛立つような思いで聴いた。この半年後にヴォルフは梅毒のために発狂する。

トリを飾るムソルグスキー。ロシア語の発音が巧みで仰天する。
古来より死神や悪魔の誘惑は甘美と決まっているが、ムソルグスキーも第2曲〈セレナード〉の最後に極めて恐ろしい音楽を与えている。
Нежен твой стан, упоителен трепет...
О, задушу я тебя
В крепких объятьях: любовный мой лепет
Слушай!... молчи!... Ты моя!
下線部は、お聞きなさい!…静かに!……そなたは私のものだ!という死神の勝利宣言なんだけど、絹のように柔らかく歌ったあとの残忍な叫びに戦慄。威風堂々たる白バスもいいが、聴き手に無条件の恐怖を植え付ける黒バスも好きです。

アンコールの《献呈》でこの世に再び呼び戻された。ああよかった。

by Sonnenfleck | 2012-04-20 06:29 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air:【必聴】1984年のブリュッヘン+ビルスマ+レオンハルト@シャンゼリゼ【オンデマンド】
【1984年10月6日 シャンゼリゼ劇場】
<France Musique rend hommage à Gustav Leonhardt>
●デュパール:組曲第4番ロ短調
●フォルクレ:組曲第1番ニ短調~la Laborde, la Forqueray, la Bellmont, la Portugaise
●コレッリ:《ラ・フォリア》
●ウッチェッリーニ:?
●バルトロメオ・デ・セルマ:カンツォーナ
●フレスコバルディ:Vcと通奏低音のためのカンツォーナ
●フォンターナ:ソナタ第2番
●ルイジ・ロッシ:トッカータ
●カステッロ:ソナタ第2番
⇒フランス・ブリュッヘン(Rec)
 アンナー・ビルスマ(Vc)
 グスタフ・レオンハルト(Cem)
(2012年1月29日/France Musique オンデマンド)


フランス国営放送から、レオンハルト追悼企画として28年前のライヴ音源が蔵出しになった。バロックのソロソナタ編成を、ステージと客席に段差のないホールの最前列に座って聴くとちょうどこんな感じですね。生々しい音質が嬉しい。

+ + +

番組表だとテキトーな記述なんで、聞き取れた範囲で曲目も書いた。ご覧のように夢のような豪華なプログラムなんだけど、最初の1曲目はシャルル・デュパール Charles Dieupart (1667?-1740?) の第4組曲です。

ねばねばしたアルマンドの歩みに、また、烈しいジーグの跳躍に(本当に烈しいのです…)、われわれが彼の的確な通奏低音魂を聴かなくてどうする。ブリュッヘンは笛吹きキャリアの最後期でも相変わらず獅子王だし、ビルスマも思いっきり見得を張るし。名曲の名演奏としか言いようがない。

続いてフォルクレのニ短調の組曲からの抜粋を、レオンハルトのソロで。
もしレオンハルトのことを「無味乾燥な教条主義者」だと思っている方がおられたら、この演奏だけでも聴いていただかなければ困る。このフォルクレを聴いてもなおそのように思われるなら、僕が諦めることにしよう。
前に「フォルクレは女神転生」と書いたことがあるけれど、その表現を完全に満たす演奏が実現されている。驚いた。悪魔のような演奏(魔神クリシュナ LV57…)。チェンバロが破滅的に囂囂と鳴っている。センペやアンタイはお師匠さんのこういう側面をしっかり受け継いでいるんだな。

いっぽう、コレッリ《ラ・フォリア》には、脂が乗りきったおっさんたちのダンディズムが平らかに薫る。彼らの若いころの録音と違って、スリルではなくコレッリのコレッリ性をこそ追求してる、というか。
ブリュッヘンとビルスマに見せ場がたくさんあるのは変わりないので、レオンハルトは完璧な通奏低音者に徹することにしているようだ。

+ + +

続く17世紀作品たちだが、上の3曲から続く一夜のコンサートなのかどうか、自信がない。録音状態もまちまちなので、もしかしたら別日程を組み合わせて放送してるのかもしれん(フランス語よくわからないんで…)。

こちらのリンクから、たぶん来月17日までオンデマンドで聴くことができる。

by Sonnenfleck | 2012-01-29 10:11 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air:大河ドラマ「平清盛」第1回・第2回
近年の大河ドラマのなかではかなり楽しみにしていた部類で、現に、期待は裏切られていない。躍動感があるうえに政治劇らしい禍々しさにも欠けず、何より真摯だ。昨年同じ時間に同じチャンネルで放送されていた、歴史お笑いファンタジー「江」などとはずいぶん違っている。

そして音楽が良いのも当然、満足感に結びついているわけです。
吉松隆の無国籍的抒情が、どこの国とも知れない900年前の日本の遠さをよく下支えしているように思うんだよね。OPで(たぶん舘野泉が)弾いている「今様」のメロディは、劇中では吹石一恵と松田聖子が口ずさんでいることもあってすでにしっかり耳に残っているし、怜楽舎の演奏する吉松邦楽に乗って松山ケンイチが舞うシーンからも、独特の感覚を想起させられた。
(※久しぶりに吉松のFg協奏曲《一角獣回路》を引っ張り出して聴いてる。)

ところで、どこかの県知事が「画面が汚い」と公に発言したことにはかなり驚いた。こういう愚昧な感覚の大人もいるんだなあ。あたしは演出を演出と理解できません!って市民に向かって大告白してるわけですから。幼稚な審美眼のまま年老いてしまうってどういう気持ちなんだろうね。気づかないから幸福なのかな。

+ + +

さてもこのあたりの時代について、自分は何も知らないのである。悔しいので年末から「平家物語」を読んでいる。

といっても残念ながら原文を読んでいく能力はないので、中山義秀訳(河出文庫)上中下を入手してるんだけど、中山の訳文体が平明で温かく、たいへん読みやすい。すいすいと進んでゆける。このひとは1938年の芥川賞作家ということだ。

「平家物語」は平清盛が入道相国と呼ばれるようになってから、すなわち彼の晩年の、後白河院や平家以外の貴族に対する悪逆非道ぶりを告発し、平家が滅亡に向かう様子が内容の中心だけど、大河ドラマ「平清盛」はそこに至るまでの長い道のりを描いていくようなので、順序は逆さま。
でも「平家物語」ですでに死んで(≒清盛に殺されて)怨霊になって登場するような人びとが、大河ドラマでは生きて登場するので楽しかったりもする。このへんはちゃんと補完してますね。中山義秀訳、おすすめです。

by Sonnenfleck | 2012-01-22 01:17 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air:タモリ倶楽部「潜入!環状第二号新橋・虎ノ門トンネル」(11/19)
開通前に入れてもらおうシリーズ!潜入!環状第二号新橋・虎ノ門トンネル
~都会のど真ん中新橋にでかいトンネルが掘られている!外堀通りの先が地下に!超感動の初潜入!(テレビ朝日/2011年11月18日 24:20~)


小生、正直に申し上げますとこのあたりの地区に勤務しておりまして、それこそ毎日のように「環状第二号新橋・虎ノ門トンネル」の存在を感じながら出退勤を繰り返してるんであります。
レンガ通り、柳通り、そして新橋西口通りのあたりは、シャレオツな汐留とは全然違って、古き良きオトナの新橋の佇まいをかすかに残す静かな街区と、新興の低俗な情景がまだらに混じり合い、複層的な魅力のある街並みが形成されとります。

これらの通りを東西にずばとぶち抜くトンネルが、その巨大な開口部を第一京浜に向けてむき出しにしている光景…これを初めて目にしたときは度肝を抜かれたものです。それまで通行人の視線からトンネルの存在を隠すようにしていたフェンスが取り除かれてからというもの、いつかタモリが「タモリ倶楽部」か「ブラタモリ」でここに潜ってくれないかとずっと思ってきたのですが、ついにそれが叶いました。

+ + +

虎ノ門から汐留にかけて、地下10メートルという比較的浅い地点を掘り進めたトンネルです。もとは海底だったこの地区ならではの、堆積物から成る柔らかい土壌を掘っていくのにはかなりの労苦があると見えて、まだまだ未着手の箇所も多い模様。土留めの錆び錆びが生々しくも男臭くて風情がある。

「ブラタモリ」では久保田アナ(とNHK)に相当気を遣ってはしゃぎ方もだいぶ落ち着いてるんだけど、「タモリ倶楽部」で街歩きや巨大構造物観光をするときは、子どものように喜ぶ姿を見せてくれるので、ファンとしても嬉しい。今夜のタモリ倶楽部では、テンションが上がりすぎてトンネルを全力疾走する66歳の姿が見られた。

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by Sonnenfleck | 2011-11-19 01:30 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air 番外編:この美しいリアルに、ベネズエラのラモー。
【2011年4月14日 カラカス、シモン・ボリバル・ホール】
<たぶんオール・ラモーのプログラム、順不同>
●《優雅なインドの国々》~シャコンヌ
●《優雅なインドの国々》~未開人の踊り
●《ゾロアストル》~地獄の神々のエール
●《ゾロアストル》~ルールとパスピエ
●《ゾロアストル》~メヌエットとコントルダンス
●《ダルダニュス》~序曲と戦士のアントレ
●《カストールとポリュックス》~闘技者のエール
●《カストールとポリュックス》~第1幕のエール、第2幕のエール
●《ダルダニュス》~タンブーラン
●《カストールとポリュックス》~〈悲しい身支度を〉への導入
●《カストールとポリュックス》~シャコンヌ
●《アカントとセフィーズ》~序曲
⇒ブルーノ・プロコピオ/シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ
(YouTube/BPROC1さんのチャンネルから)

うおお。
シモン・ボリバル・ユース・オーケストラとジャン・フィリップ・ラモー、出会ってはいけないもの同士が化学反応を起こし、禁断の魅力を朦々と放っている。

指揮はグスターボ・ドゥダメル、ではなくて、ブラジル人チェンバリストのブルーノ・プロコピオ(この人も1976年生まれなので若い)。パリに渡ってから最初はノエル・スピートのクラスで勉強を始め、ルセ、アンタイ、ランヌー姐さんにケネス・ワイスといった錚々たる面々に学んだ逸材である由。
YouTubeに本人のチャンネルを発見し、4月14日の演奏会を視聴した。

+ + +

通奏低音系の古楽指揮者だから当然、アンサンブルは正攻法の組み立てを目指している。よく聴いていると、当然ながらチェンバロとチェロ、コントラバスに主導権を渡そうと試みているのがわかるんだが、…それはそれ。

何しろ、SBYOVのヴァイオリン隊のアピール力が実に強大なのだ。ために、響きのセンターがぐうううっっと高音楽器に引き寄せられてるということ。
ピッチがぎらぎらと高いのもあれだし、だいいち土台は正攻法なのに外装のテンションが高すぎるというのが、冷帯や温帯の古楽アンサンブルでは体験したことのない類の興奮。爛熟のフランス系アンサンブルで聴く陰翳ラモーも好いが、リア充なラモーも同じくらい好い。わくわくするよぅ。


↑《優雅なインドの国々》からシャコンヌ。

あきらかに「弾き慣れてない」舞曲ではアンサンブルに雑駁なところも散見されるが(コントルダンス、タンブーランなどは怪しい)、それらも気にせず、勢いをつけて描く太い筆の輪郭線でヤッと収めてしまう。
いま世界的に流行っている懶惰と精妙のラモーが廃れたら、次はこういう「こまけぇこたぁいいんだよ」が主流になるのかもしれない。

by Sonnenfleck | 2011-11-02 22:35 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air:ギルバート/NYPの”くるみ”でラブのような何かが注入される。
仕事でどうしようもなく疲れ切って電車に乗るときなど、女子のように甘いチョコを、あるいはおじさんのように駅前の居酒屋でホッピーを口にする代わりに、iPodに入れたプレヴィンの《くるみ割り人形》をかなり大きな音量で聴く。目をつむってだまって聴く。聴き終えるころには、意外に疲れが遠のいている。

+ + +

【2011年7月24日/コロラド州、ジェラルド・R・フォード野外劇場】
<ヴェイル・ヴァレー音楽祭2011>
●ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 op.43
→アレクサンドル・ロマノフスキー(Pf)

●チャイコフスキー:《くるみ割り人形》op.71~第2幕
 ○同:《エフゲニー・オネーギン》~ポロネーズ
⇒アラン・ギルバート/
 ニューヨーク・フィルハーモニック
(NYP オンデマンド)

そんな”くるみ”が、10年代初頭のアメリカでどう演奏されているのかがとても気になって、ニューヨーク・フィルのサイトで聴いてみた。今年の7月、コロラド州の国立森林公園のなかにある野外劇場でのライヴ(Google先生で確かめてみると劇場の周りは本当にただの山林である)。
7月の夕暮れ、外でくるみ。これは実に気持ちがいいだろうな。

野外での録音なので直接音がびりびりと響くが、ギルバートの切れ味鋭いフレージングではそれが良い効果を上げていて、《中国の踊り》《葦笛の踊り》のエッジの立ったパフォーマンスなどたいへんな快感です。

ところがそれらの純粋にスポーティな瞬間よりも(そういうのを突き詰める仕事はこれからのBPOとかに任せておけばいいだろう)第15曲《終幕のワルツとアポテオーズ》と、アンコールで演奏された《エフゲニー・オネーギン》のポロネーズに聴かれる20世紀後半様式のブリリアントな演出に、今はむしろ強く惹かれた。見栄っ張りで煌びやかで健康的で明快なサウンド、これは有効なセルフブランディングの帰結だろう。NYPに期待するのはやっぱりこういう音楽だったりする。

大喜びしているコロラド州の観客は、良い気持ちで家路についただろうと思う。

by Sonnenfleck | 2011-10-26 21:44 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air:Bach méridional|オノフリが導く南欧風バッハ
「AMBRONAY」っていうオサレ系の古楽レーベルがあるじゃないすか。あれの母体が音楽祭だっていうことを自分は知りませんでした。そんなわけでその中から、オノフリと彼のアンサンブルの演奏を聴く。

+ + +

【2011年9月18日/アンブロネ大修道院】
<アンブロネ音楽祭2011>
●P. A. アヴォンダーノ:シンフォニア ニ長調
●同:カンタータ《アベルの死》抜粋 *
●同:シンフォニア ヘ長調
●テレマン:カンタータ《雷神を称える》TWV 6:3 *
●ヴィヴァルディ:4Vn協奏曲ロ短調 op.3-10 RV580
●バッハ:Obダモーレ協奏曲イ長調 BWV1055a
●ヴィヴァルディ:Vn協奏曲二長調 RV.208《ムガール大帝》
→アナ・クイントン(S)
⇒エンリコ・オノフリ/ディヴィノ・ソスピーロ
(France Musique オンデマンド)

"Bach méridional"と題されたこの演奏会、バッハが編曲対象にしたヴィヴァルディの協奏曲を二つ並べていていかにもちゃんとしているのだが、そうすると前半に配されたペドロ・アントニオ・アヴォンダーノ Pedro Antonio Avondano(1714-1782)という作曲家が謎である。wikipediaによればリスボンの宮廷で活躍したイタリア人作曲家らしいんだけどね。

ただ、音楽を聴いてみてわかったのは、アヴォンダーノのきわめて器用な作曲姿勢であった。エマヌエル・バッハ(1714-1788)と同い年の彼の音楽は、エマヌエル以上に変わり身が上手だったようで、ヘ長調のシンフォニアではヴィヴァルディ風を描いてみせているが、その返す刀で、ニ長調のシンフォニアでは兄グラウン風の華麗なギャラント、そしてカンタータ《アベルの死》では一気にグルックくらいまで作風を進めている。各様式への適応の見事さはテレマン級と言ってもいいと思う。

リスボンの隠れバッハ、ということ?かな。アヴォンダーノは様式を統合してさらに新しいものを生み出しているのではなさそうだし、フリーデマンやエマヌエルのような変態っぽさはまったく感じないが、エマヌエルとクリスティアンの間にJSの「音楽的庶子」がいたらこんな感じだったのかもしれないね。

+ + +

さて、2ヴィヴァルディ1バッハで感じたのは、オノフリさんこれまで聴かず嫌いでまことにすみませんでしたという点に尽きる。
90年代、アントニーニ/イルジャルの下でコンマスをやっていた頃の録音のイメージがあまりにも強くて(つまり、なんとなく「やることが読めてしまう」ような先入観があって)、近年のオノフリを全然聴かないできたんだけど、いやいや実際は黒光りするような高級感があって面白かった。

特に、バッハの1055aでの、余裕たっぷりのダンディズムには吃驚です。
相変わらずアントニーニ流でキアロスクーロがきついのは想定どおりだけど、拍の捉え方・枠組みの作り方にしっかりとした工夫が窺われるんです。

まず、第1楽章を「よゆーッス」という感じでぶっ飛ばす演奏が主流であるなかで、あえて四股を踏むようにどっしりと構えているのが好い。根本的に音の陰影が強いので(このへんはいかにも、音色による表現に強いこだわりがある南欧のアンサンブルという感じだ)、同じ四股踏み傾向のカフェ・ツィンマーマンの録音のように、プラスチックのようなペラペラ感に陥ることもない。

逆に第2楽章と第3楽章では、拍を前に前に取ることによって、横方向への進行を軽くし、刹那的でギャラントな雰囲気を醸し出したりしている。巧妙である。1055は難しい作品だけど、オノフリの高級志向の曲づくりにはブラヴォを贈りたいと思う。

by Sonnenfleck | 2011-10-17 22:19 | on the air | Trackback | Comments(0)
on the air:《ヴェニス・ヴィヴァルディ・ヴェルサイユ》音楽祭のアレッサンドリーニ
【2011年7月2日 シャペル・ロワイヤル】
<ヴィヴァルディ>
●グローリア ニ長調 RV.589
●TpとObのための協奏曲ニ長調 P.210 RV.563
●マニフィカト ト短調 RV.611
→ロベルタ・インヴェルニッツィ(S)
 ラファエラ・ミラネージ(S)
 ロミーナ・バッソ(CA)
⇒リナルド・アレッサンドリーニ/コンチェルト・イタリアーノ&アカデミア
(France Musiqueオンデマンド)

毎年やってるのかなあこれ。ヴェルサイユ宮殿とNaïveがタイアップして、6月から7月にかけて「3V」音楽祭が開かれてたみたいです。クリスティ、スピノジ、ビオンディからジャルスキー、バルトリ姐さんまで、なるほど豪華な出演者陣。

+ + +

アレッサンドリーニ、個人的にはかなり好不調の波の激しい指揮者だと思っていて(この人はよく「学究肌」とか書かれるけど、僕は全然そう思わない)、調子の良いときはほかの誰も辿り着かないような軽やかな音楽をやるのに、調子が沈むとそれこそ死んだような音楽を鬱々とやる。で、死んでるほうがちょい多め。
(※蛇足だけど、須賀敦子の随筆などを読んでいると、イタリア人のインテリってこういう振れ幅の大きな人が大多数なんじゃないかという気がしてくる。)

この日の演奏は、良いときのアレッサンドリーニが最高のかたちで表出してた。
グローリアもマニフィカトも、ヴィヴァルディらしいシンプルな起承転結には持ち込みにくいフォルムをしているので、彼の厖大な作品の中でも演奏困難なほうに属していると思うのだ。最強の機会音楽にしてアンチ機会音楽の親玉…これはバッハのいくつかの作品と事情がよく似ているんではないかしらん。

で、アレッサンドリーニはそれを逆手に取る。いや、ヴィヴァルディらしい起承転結がそんなに得意でない人だからこそ、これが可能なのか。

マニフィカトは特にお見事。各構成部分ごとにトゥッティに対して多彩な色分けを施し、なおかつコンティヌオをきゅっと引き締めて、細くて強い光線が空間に向かって放射されるのを眺めるような快感、さらにそこから、ヴィヴァルディがこの作品に与えた自律的な安定感まで感じさせた。当然ながらインヴェルニッツィもバッソもその安定感をよく守っている。

ヴィヴァルディに「反機会性」を発見できずにお困りのドイツ系バロヲタの皆さん、いくつかのヴィヴァルディ作品の、なおかつ良い演奏ではそれが聴けるから、騙されたと思って耳を傾けてみてくださいな。

by Sonnenfleck | 2011-10-12 23:08 | on the air | Trackback | Comments(0)