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カテゴリ:on the air( 179 )

on the air:アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコのハイドン@スロヴェニア

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【2011年9月9日 スロヴェニア・マリボル ユニオン・ホール】
●ボッケリーニ:弦楽五重奏曲ニ長調 op.40-2 G341
●ハイドン:Vc協奏曲第2番ニ長調 Hob.VIIb/2
 ○ソッリマ:インプロヴィゼーション?
→ジョヴァンニ・ソッリマ(Vc)
●ロカテッリ:合奏協奏曲変ホ長調 op.7-6《アリアンナの嘆き》
●ハイドン:交響曲第63番ハ長調 Hob.I:63《ラ・ロクスラーヌ》(第2稿)
⇒ジョヴァンニ・アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコ
(2013年7月24日/NHK-FM)


ボッケリーニ。サヴァールの洒脱な大人ボッケリーニを知っているわれわれには、イルジャル好みに統一されたヤンキーボッケリーニはかえって格好悪いように聴こえるのだよなあ。とげとげとげ。
かねてからボッケリーニの作品は(たとえばベートーヴェンほどには)演奏者に「解釈」を許さないのではないかと思っている。魚が描いてある魯山人の絵皿にサイコロステーキを載せても仕方がないように、器に正しい料理を載せることはとても大切。

ハイドンはボッケリーニに比べて劇的に器の汎用性が増すので、アントニーニがやりたいように料理をつくっても音楽は耐えうる。
イルジャルのハイドンって初めて聴いたような気がするんだけど、溌剌とした第1協奏曲ではなく、バロックの優雅の裾を引きずった第2協奏曲で意外なマッチングを見せているのが面白い。優雅の裾の下にすね毛のいっぱい生えたごつい通奏低音を利かせているけれど、足はけっして裾から出てこないのがアントニーニの巧みさなのかも。ソッリマ(この作曲家氏の演奏実践も初めて聴いたな!)のなよっとして腰高な歌い回しを上手に支えている。

ソッリマのアンコール、NHKの番組表では「オリジナルのテーマによる変奏曲」とされていたけど、インプロヴィゼーションではないだろうか?明らかに直前のハイドンを元にした主題が上手に変奏されてた。

+ + +

さて後半。ロカテツのこの作品はちゃんと聴いたことがなかったなあ。
解説の方が話していたように、グロッソの名前を持っているくせにほとんどソロコンチェルトという詐欺みたいな曲ですが、コレッリではなく完全にヴィヴァルディに変質しているこのころのロカテッリにはイルジャル流のアプローチがよく合います。空間に溶けるようにしてぼやっと終わってしまった。ソロVnはオノフリ?

最後のハイドンは、名曲の名演奏だったと思う。
本当にここ最近、ハイドン不感症が治療される糸口が見つかり始めたんですが、ハイドンの1770年代に素材を求めることができるこの交響曲には、エマヌエル・バッハの残響がたくさんこだましているのがすぐにわかる。アントニーニ/イルジャルはもっとエマヌエル・バッハやクリスティアン・バッハをやればいいと思っている僕には、ここで示されている「チャラめな高校サッカー部員」みたいな運動能力の高いハイドンが心地よい。

それから、Vc協奏曲で感じられた「バロックの優雅の裾」の処理が、ここでも適切に行なわれているのが好ましい。第2楽章のある局面では、むしろその先のベートーヴェンの緩徐楽章にすっと繋がっていく理性の光も見える。以前よく聴いていた彼らのベートーヴェン録音(第1・第2)よりもその意味ではベートーヴェンらしい。アントニーニが少しずつ変わってきているのかな。。
by Sonnenfleck | 2013-07-25 23:11 | on the air

on the air:井上道義/兵庫芸術文化センター管のプロコフィエフ(2/17)

c0060659_20123941.jpg【2012年11月16日(金)15:00~ 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール】
<プロコフィエフ>
●バレエ音楽《ロメオとジュリエット》op.64から
●Vn協奏曲第2番ト短調 op.63
→パトリツィア・コパチンスカヤ(Vn)

●交響曲第7番嬰ハ短調 op.131
→井上道義/兵庫芸術文化センター管弦楽団
(2013年2月17日/NHK-FM)


井上ミッキーのオール・プロコフィエフ。
この御仁は現代日本でいちばんプロコフィエフの指揮が似合う人物だと思っていて(それはむろんプロコフィエフそっくりの見かけのためではなく)、このプログラムがもし東京で開かれていたら間違いなく駆けつけていただろう。

放送はなぜかメインの第7交響曲から始まった。
何度も書いているけれど、プロコフィエフの内面における抒情と破壊との分裂状態は、西洋音楽史上ほかに誰も陥ったことのない苦境へとこの作曲家を誘った。晩年のプロコフィエフはどちらかというと寂しげな抒情の方向へ作風を収斂させていったわけで、硬く結晶した破壊への憧れが薄桃色の抒情のキャンパスにぱらりと撒かれている様相に胸が詰まる。リリカルマシン。

第1楽章の超然としたメロディを、臆すことなく堂々と歌い上げるケレン。これはミッキーのとっても好いところで、しかも晩期プロコフィエフ演奏においてなくてはならない美点。音楽のお尻もキュッと引き締まって、あくまでも快活だ。
解説の伊東センセは「もっと奥の意味を主張した演奏がよかった」とかおっしゃってたが、僕は全然そうは思わない。プロコフィエフの「奥の意味」は決してフォーカスされてはいけない。ショスタコーヴィチじゃないんだ。プロコフィエフは。

第4楽章での急激な「運動」性の高まりは、まるでパステルタッチの絵本に機械が描かれているようなアンバランスを示す。
とってつけたように第1楽章の主題が回帰するところも、井上ミッキーは切々と愛おしむように歌う。そのあたりで音楽の実体は終わってしまって(ミッキーもそのような重点を構築していたように僕は感じた)、終結部は全然気の乗っていない改訂版。きっとこれでいいのだ。これで…。

+ + +

来週24日はコパチンスカヤをソロに迎えた協奏曲が放送されるみたい。こっちも必聴だなあ。
by Sonnenfleck | 2013-02-17 20:21 | on the air

on the air:ブロムシュテット/パリ管のブル8|ブルックナー・ダッシュターボ(9/27)

【2012年9月27日 パリ・サルプレイエル】
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
 ○同:交響曲第2番ハ短調~第3楽章
→ヘルベルト・ブロムシュテット/パリ管弦楽団
(2012年9月27日/France musiqueオンデマンド)


パリ管の副コンマス・千々岩英一氏が万感の思いを込めていろんなことをツイートしておられたコンサートです。

+ + +

やはり想定どおり、フレーズのひとつひとつは主や副に分かれておらず、野の草木や花と同じようにおのおの勝手気ままな非等速直線運動を行ないつつ、しかし全体としては緩やかにブルックナーを形成している。大蛇のように渾然一体となってのたくるブルックナーとは、あるいは一度分解され精密に組み上げられた上で機能を付加された義体化ブルックナーとは、まったく異なる。

ブロムシュテットのフレージング感とパリ管の魅力的な音色は、第2楽章を豊かな霧で包み、他のどのような演奏でも耳にしたことのない幻想的な総体としての山岳を生み出した。楽章が終わり霧を抜けると、狐に化かされたような感覚だけが残る。いいですか皆さん、第3楽章じゃなく、野人のスケルツォで、ですよ!

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霧を抜けた第3楽章は一転して、晴朗で快活でポジティヴな音楽が展開されている。アーティキュレーションの曖昧さは微塵もなく、フレージングは山中で出会う奇勝や高地の植物のように独特の自意識を湛えている。楽章の幕切れですら酸素が濃く、実体感を喪わない。第2・第3楽章のこのポジション逆転が澄明な心地よさを残すんだなあ。ああ。すげえ好いなあ。

聴き手の立場で表現するなら、ブル8のように登山道の姿形が有名な山であっても、目的地まで一気に駈けてしまわず、路傍の植物や鉱物の混沌にしばしば目を取られつつ、それでいて快速と快活を守る不思議な演奏であると言える。登山道に自分以外の人間は誰もいない。快活にして寂寞。

第4楽章のコーダは終わりではなく、続いていくものの途中である。

+ + +

アンコールのブル2スケルツォがまた開放的で、健康的で、すこぶる気持ちのいい演奏。あのブル8なら、登山が終わったあとにさっぱりしたデザートがあっても全然おかしくないよね!
by Sonnenfleck | 2012-10-10 06:18 | on the air

on the air:エレクトロニカの世界2012~渋谷慶一郎の電子音楽マトリックス~@NHK-FM

c0060659_8535582.jpg【2012年(収録日不明)】
●渋谷慶一郎:finger light
●同:one
●同:バラッド*
→渋谷慶一郎(Pf)
 ジム・オルーク(シンセサイザー)
●ケージ:ONE(1+5+7+8)
→渋谷慶一郎(Pf)
 ジム・オルーク(シンセサイザー)
 多井智紀(Vc)
(2012年8月18日/NHK-FM)


独奏楽器のために作曲されたケージの「ONE」を多重演奏する試み。

「互いに呼応していない」ことを強調する渋谷氏であったが、聴取者としての自分が捉えるのは、互いに呼応していない「ように偽装した」呼応した世界なんだわなあ。20分間の長いスパンで聴いたときに、この翌朝の「能楽鑑賞」のようなアトモスフェールを感じ取るのは、演奏者が能の幽玄を知っているからなのか、聴取者が能の寂寞を恋しく思うからなのか、あるいはその両方なのか。

だから、おおッこりゃあすげぇぜ、という感興は起きないんである。むしろ、ああ、これよく知ってる、という気持ち。気持ち。気持ち気持ちいい。でも多重演奏による問題提起みたいなものは感じ取れない。
後半、ゴルフボールを転がすようなノイズが闖入したのはクール。これは演奏者たちの動きを視覚で捉えることができれば、より刺激的なのかな?洗濯ばさみによるプリペアドチェロや扇風機によるパフォーマンスもあったみたい。

「聴くほうが調和を求めてしまう、耳の集中力が(まとまらない音楽たちを)統一させてしまう」というゲストのねーちゃんの最後のコメントにどきりとする。

+ + +

ところでアナログシンセ発のノイズはかわいらしい。あれ、そろそろ伝統楽器の仲間入りさせたげてよ。オンドマルトノみたいに。
by Sonnenfleck | 2012-08-25 09:00 | on the air

on the air:BBC Proms 2012 / Prom 3 - ガーディナー/ORRのペレメリ、炸裂するコレデショ感。

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【2012年7月15日 ロイヤル・アルバートホール】
●ドビュッシー:《ペレアスとメリザンド》
→Phillip Addis (Br/ペレアス)
 Karen Vourc'h (S/メリザンド)
 Laurent Naouri (B-Br/ゴロー)
 Sir John Tomlinson (Bs/アルケル)
 Elodie Méchain (A/ジュヌヴィエーヴ)
 Dima Bawab (S/イニョルド)
 Nahuel di Pierro (Bs/医師・牧童)
→モンテヴェルディ合唱団
⇒サー・ジョン・エリオット・ガーディナー/
 オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティク
(2012年7月21日/BBC Radio 3オンデマンド)


モダン楽器による腰高にして権高なペレメリは、ことごとくこの演奏実践の前に平伏すべきであると思うた。それくらい不遜なことを考えてしまう。

ガーディナーという指揮者の、音楽のフォルムに対する異常に厳格な態度は、しばしば僕を彼の演奏するバロック音楽から遠ざけてきた。率直に言って。
でもペレメリのようにフォルムの曖昧な(あるいはフォルムが音楽全体に亘って引き延ばされているためにその把握が難しい)作品では、彼の常の好みとしていずれの楽句も明瞭に、適確に処理されることで、むしろ蔦が這うている古い塔がくっきりと姿を現したように鮮明な感覚を与えてくれる。

それは間違いのないところだ。
しかしながらそれ以上に僕は、この演奏実践から、響きの複雑な美しさのほうをより強く感じるんだよね。これはガーディナーが主として想定している効果ではなく、アーティキュレーションの厳正な取扱いに伴う副産物として生まれ出たものなのかもしれないけれど、何しろ震えが来るくらい幽玄である。

第2幕「盲目の泉」の蒼古とした響き。その直後の、嫉妬を燃やすゴローにまとわりつく音の湿気と、第3幕に通底するメンデルスゾーンのような清涼感。そして、大抵は不自然に浮かび上がるイニョルドの声が、ほかのパートや楽器たちとともに合奏協奏曲のコンチェルティーノのようにしてテクスチュアに取り込まれている様子。

この演奏を評する幽玄という言葉は、曖昧の同義語ではない。そしてまた、ドビュッシーもしばしば曖昧とはかけ離れた音楽をつくる。
by Sonnenfleck | 2012-07-24 21:37 | on the air

on the air:ドホナーニ82歳、タングルウッド75周年を祝う@タングルウッド音楽祭'12(7/6)

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【2012年7月6日(金) 20:30~ クーセヴィツキー・ミュージック・シェッド】
<ベートーヴェン>
●《レオノーレ》序曲第3番 op.72b
●交響曲第6番ヘ長調 op.68《田園》
●交響曲第5番ハ短調 op.67
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/ボストン交響楽団
(2012年7月7日/WGBH Classical New England生中継)


タングルウッド音楽祭2012のオープニングコンサート。75年前のこの夜、クーセヴィツキーが振った同じプログラムを、ドホナーニが振ります。ということで久々のドホ爺ネタ。

+ + +

最近しばしば考えるのは、ドホナーニがやるような様式のベートーヴェンは、われわれの多くが気づかないだけで、もうすぐライヴでは聴けなくなる可能性が相当高いということである。

モダンオーケストラの機能を全開にした《田園》の音響の美しさよ。
この美しさは、五線譜の行間が拡張されて、増強されて、加重された結果なので、まったくナチュラルではないかもしれないが、ナチュラルなものだけが美しさのすべてではないのだ。それでいて清冽な透明感をまったく喪わないドホナーニ先生の手綱捌き、これが全然衰えていないのが確認できたのは慶賀の至り。
ドホ爺のものと思われる鼻歌が随所で聴かれる。萌えである。

第1楽章再現部の貴族的な高血圧、第2楽章での自信満々な低弦の勁さ、同じ楽章のおしまいに登場する「義体化カッコウ」、きわめて観念的な第4楽章などは、この交響曲が持っている複雑な性格を浮き彫りにしている。
ベートーヴェンの作品たちを18世紀交響曲の終わりとして見るのがフツーであるのと同じくらい、これらを19世紀交響曲の始まりとして捉える視座も、僕たちは忘れてはいかんのだと思う。ほんとに思う。

燦爛と輝く第5楽章の威力に恐れをなしつつ(omnipotent!!!)休憩。

後半の第5交響曲も、一貫して同じ哲学が底部にある。
第3楽章からまっすぐに伸びた高張力鋼のようなブリッジ、全曲における第4楽章の明確な優位性、ボストン響の高雅な音色、そしてもちろんドホナーニ好みの清冽な響き。どれをとっても第一級の20世紀中後半様式なのさ。いいね。とてもいいね。
by Sonnenfleck | 2012-07-15 11:20 | on the air

on the air:小澤/水戸室内管 第83回定期演奏会@水戸芸術館(1/19)

c0060659_2130192.jpg【2012年1月19日(木) コンサートホールATM】
●モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調 K136
●ハイドン:Vc協奏曲第1番ハ長調
→宮田大(Vc)
●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 K385《ハフナー》
⇒小澤征爾/水戸室内管弦楽団
(2012年6月17日/NHK-Eテレ)


らららクラシックの枠で放送。N響アワーではできなかったことが実現されていて、これはたいへんありがたい。

《ハフナー》は、進みたくない、留まりたい、という音楽。
進めないのではなく、進まない。
小澤はそれを淡泊な白身魚のような響きでやる。カラヤン/BPOのモーツァルトは、それを肉汁のしたたる響きでやった(そのようにミキシングしただけなのかもしれない)。あるのはその違いでしかない。そんなわけで第2楽章の美しさは比類がない。なんと書いていいのか。
第3楽章と第4楽章は巨大なモティーフを選んだ静物画のように感じられる。円環が完全に閉じている。進まないことに価値を見いだして、しかもそれを完璧に成功している演奏の真価を、僕は初めて知ったような気持ちだ。クレンペラーのモーツァルトをキングスウェイホールの最前列で聴いたらこんなふうに聴こえたのかもしれない。いや、わからないな。どうだろう。

ハイドンも、緩徐楽章の「留まりたいエネルギー」が厖大すぎて、思わず呻いてしまう。この辺り一面に照射されているものの正体は何だ。バーンスタインのスタンドが発動しているのか。
2012年ごろの小澤がこういう音楽をやっていたことを、僕はこの先も忘れられないと思う。あるいは、今そのことに気がついただけなのだとしても、今気がついた、ということを覚えていたい。何が小澤にそうさせる?20世紀が?

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ところで宮田君は、はち切れそうなパワーを小澤の閉じた円環のなかに押し込めている。彼のチェロはついに縁がなくてこの夜の放送まで聴いたことがなかったけれど、ううん。巧いんだなあ。留まらない音楽ではどんなふうに演奏するんだろうか。
彼のチェロは齋藤秀雄の使っていた楽器だそうである。

ところでこの公演、7月にソフト化されて発売されるっぽいです。芸術館や室内管のサイト、twitter等では情報が発見できませんでしたが、Amazonに情報が登録されてました。今回の放送を見逃した方はぜひ。
by Sonnenfleck | 2012-06-21 21:34 | on the air

on the air:ブリュッヘン、5分間だけドビュッシーを振る@ユトレヒト(3/16)

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【2012年3月16日(金) 20:15~ ユトレヒト・フレーデンブルフ音楽センター】
●ドビュッシー/ラヴェル:《ピアノのために》~サラバンド
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→アンドレアス・シュタイアー(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60
⇒フランス・ブリュッヘン/オランダ放送室内フィルハーモニー
(2012年3月27日/Nederland Radio 4 オンデマンド)


150年に一度の快挙である。ブリュッヘンの振るドビュッシー(というかラヴェルというか)がどーーーうしても聴きたくて、つまりこのたかだか5分程度の音楽を楽しみにして、オランダ国営放送のサイトにアクセスしたのだった。

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今回取り上げられたのはドビュッシーのサラバンド、つまり4月1日の東京春祭ドビュッシーマラソンでも聴いた、あの曲である。あのとき藤井一興氏が言っていたけど、《忘れられた映像》のサラバンドと《ピアノのために》のサラバンドは、ほぼ同じ曲でありながら微妙に#や♭の有無が異なってるそうだ。もちろんラヴェルが知り得たのは《ピアノのために》のほうだから、編曲したのはそちらだろう。

で、たしかにフォルムは古い舞曲なれども、旋律は明確にドビュッシー、管弦楽法は明白にラヴェルである。フレージングはどことなくぎくしゃくしながら、マチエールは聴き間違えようのない濃厚なブリュッヘン節であった。彫りは深く、打点は重く、陰翳も濃い、昔ながらの彼の剛胆な音楽づくりが、ドビュッシーについてこのような方向に働くとはね。

歌い出しから古色蒼然とした音色がオーケストラに(特に木管隊には厳しく)要求されているようだ。古楽のひとがモダンオケを振って19世紀末の懐古趣味音楽をやってるんだから、状況は相当に捩れまくっているわけだが、何かストンと落ちてしまって違和感ゼロだな。最後に銅鑼がくぉーん…と鳴るまで魔法のような5分間。

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こっから先はおまけのようなものですが、モーツァルトはシュタイアーが借り猫のように大人しくてちょっと拍子抜け。というかブリュッヘンとシュタイアーの方向性があんまり違わないのかもしれない。少なくとも反発し合うという感じではない。第2楽章の終結部でも合体技・黒々とした不穏が垣間見えた。

ベト4はなんというか、かなり自由な造形になってきてます77歳。
by Sonnenfleck | 2012-05-24 22:04 | on the air

on the air:日曜の朝のニクソン・イン・チャイナ(4/22)

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【2012年4月18日(水) パリ・シャトレ座】
●アダムズ:《ニクソン・イン・チャイナ》
→リチャード・ニクソン:フランコ・ポンポーニ(Br)
 パット・ニクソン:ジューン・アンダーソン(S)
 ヘンリー・キッシンジャー:ピーター・シドム(Bs)
 毛沢東:アルフレッド・キム(T)
 江青:スミ・ジョー(S)
 周恩来:Kyung Chun Kim(キム・キュンチュン?)(Br) ほか
⇒Chen Shi-Zheng (陳士争)(演出)
⇒アレクサンダー・ブライガー/パリ室内管弦楽団、シャトレ座合唱団
(ARTE Live Web/2012年4月22日)


METライブビューイングで見逃してからも、一度は映像で見てみたかった作品。シャトレ座での4日前の公演がARTE Live Webで配信されてるのを聞きつけて、朝7時半から3時間にわたって鑑賞しました。

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初演を演出したピーター・セラーズに立ち向かった演出家は、陳士争という中国系アメリカ人の映画監督とのこと。
ニューヨークタイムズなどで見るセラーズの演出は、実際の事象を固定的に想起させる方向に(つまり映画の一場面のように)われわれを導くが、映画監督を本業としているはずの陳士争の演出がより抽象的で、かえって生々しいのが面白い。事象は必要最小限の小物によって固定されているだけである。

群衆の動かし方にはどことなく「慣れてねえ」感が残るんだけど、そのいっぽう、ほんの数種類に還元された色彩のつかい方がたいへん巧みで、無機質のなかに妙な湿度を感じさせる。こんな色彩設計のなかでニクソン夫妻とキッシンジャーは居心地が悪いだろうが、主席と江青は上機嫌ですね(周恩来は食えない男)

ある一面から見れば、アダムズの音楽はポピュリズムに染まっているのかもしれないが、ニクソン訪中という1972年の出来事を五線譜に落とし込むにあたってはそれ以外考えられないくらいしっくり来る。
アダムズの音楽はひたすら叙情的に美しく流れてゆき、ジャズのイディオムやリヒャルト・シュトラウスの引用めいた箇所を経由しながら静かで茫洋とした終幕につながっていく。イデオロギーの対立などそもそも存在しなくて、あるのは救いがたく情緒的で感覚的な人間(たち)同士の関係と相互運動だけである。

だから、終幕の演出はとても素敵だ。登場人物たちの衣装から初めて色彩が消えて、立場を放棄している(でもいちおうは、最後に思い出したようにポーズをキメる)。この期に及んでそんな文脈に何らかの意義を与えようとしている周恩来こそ、このオペラの真面目なアルルカンなんだろう。舞台中央にずっと置かれた主席の銅像をひたすら磨き続ける黙役と、周恩来が重なって見える。

歌手たちは全員が完璧な歌唱だったと言いたい。特にふたりのソプラノ、ジューン・アンダーソン(パット・ニクソン)とスミ・ジョー(江青)には惜しみないエア拍手。前者の暗めの声質と、後者の羽のような軽い声質が絡み合う第2幕後半から第3幕は絶品だった。スミ・ジョーはしばしば柴田理恵に見えたけれど。
by Sonnenfleck | 2012-04-22 12:43 | on the air

on the air:ルネ・パーペ Bsリサイタル@トッパンホール

【2011年2月19日 トッパンホール】
●シューベルト:音楽に D547
●同:笑いと涙 D777
●同:夕映えに D799
●同:野ばら D257
●ミューズの子 D764
●シューマン:《詩人の恋》op.48
●ヴォルフ:《ミケランジェロの詩による3つの歌曲》
●ムソルグスキー:《死の歌と踊り》
 ○R. シュトラウス:《献呈》
 ○シューマン:《子どものための歌のアルバム》op.79~〈子どもを見守るもの〉
⇒ルネ・パーペ(Bs)+カミロ・ラディケ(Pf)
(NHK-FM/2012年4月3日)


いっときルネ・パーペとルネ・コロとの区別がついていなかったどうも僕です。

最初のシューベルト5曲は、特に《夕映えに》が素敵だったな。深い飴色を思わせる高貴な声質に、このリートの拡がりゆく巨きな静けさがよく合う。人の良い王様が戯けて歌っているような《ミューズの子》も可笑しい。

《詩人の恋》には歌い出しから圧倒された。この曲集をあまり工夫のないテノールで聴くと、性根の捩じ曲がったルサンチマンしか感じられないわけですが、パーペの声で朗々と歌われるとまるで別の音楽のように神々しく堂々として、自信に満ちあふれて聴こえるから不思議だ。Im wunderschönen Monat Mai... この歌唱のように安定した暖かな春と風がそろそろ恋しい。

〈恨みはしない〉がもっとも変な雰囲気。まことに全然、恨まんよ構わんよという裏表のない音楽に仕上がっている。これでいいのかと問い詰められたら僕は回答に窮してしまうけれども。
〈あの歌を聴くと〉は逆に裏表がなさ過ぎて、嫉妬を通り過ぎて情欲の迸りみたいな感じである。伴奏のカミロ・ラディケもここぞとばかり真っ黒な打鍵で応じる。
〈僕は夢の中で泣いた〉は曲の持つ禍々しさが、ヴォルフのような前衛性がよく現れていると言える。ここまで自信たっぷりの男臭い男が、急に不安に襲われてへたり込んでしまった。パーペのアーティキュレーションはちょっと不安定で、乾いて掠れたような夢の風景を表す。
終曲〈古い忌わしい歌〉が、まるでピカレスク・ロマンのよう。

+ + +

それで後半は《ミケランジェロの詩による3つの歌曲》《死の歌と踊り》である。濃厚な死の香り!
はあぁ。ヴォルフはそれにしてもなんという音楽を書いているんだろう。第2曲〈生あるものはすべて滅ぶ〉の有機的な腐臭は。。
Menschen waren wir ja auch,
Froh und traurig,so wie ihr,
パーペが下線部に与えた苦痛の叫びは筆舌に尽くしがたい。総毛立つような思いで聴いた。この半年後にヴォルフは梅毒のために発狂する。

トリを飾るムソルグスキー。ロシア語の発音が巧みで仰天する。
古来より死神や悪魔の誘惑は甘美と決まっているが、ムソルグスキーも第2曲〈セレナード〉の最後に極めて恐ろしい音楽を与えている。
Нежен твой стан, упоителен трепет...
О, задушу я тебя
В крепких объятьях: любовный мой лепет
Слушай!... молчи!... Ты моя!
下線部は、お聞きなさい!…静かに!……そなたは私のものだ!という死神の勝利宣言なんだけど、絹のように柔らかく歌ったあとの残忍な叫びに戦慄。威風堂々たる白バスもいいが、聴き手に無条件の恐怖を植え付ける黒バスも好きです。

アンコールの《献呈》でこの世に再び呼び戻された。ああよかった。
by Sonnenfleck | 2012-04-20 06:29 | on the air