本業のピークが始まろうとしている。そして今年のピークはいつもより長い。やべーうひょーぉっという綱渡りがじりじり続くということである。厭だねえ。
こんなときは書きためておいたエントリを放出。ちょっと前のことですが。 + + + 個人的に江戸琳派に強い親近感を感じること、また、はろるどさんや藝術に造詣の深い友人が絶賛していたので、是非もなく出掛けた。千葉市美術館は初体験。東京都心からは一定の距離、千葉駅からも一定の距離、さらに雨の日曜の夕方なれば、ミーハーなおばはん連や知的デートを演出したいカポーなどもごく少なく、視たい人同士が作り出す良好な環境が保たれて善き哉。(最近の展覧会ってなんであんなに混んでるの?) かねがね自分の中では、酒井抱一と彼の弟子筋にメンデルスゾーン的天才が重なっていた(光琳萌えもバッハ萌えと重なることだし)。あの強く自己完結した清潔感と瀟洒、意志のある精緻さ、空間支配の洗練された方法は、フェリックスぼっちゃまの音楽に相通じる。 しかし、フェリックスぼっちゃまにあって抱一ぼっちゃまにないものがひとつだけある、それが、作り手と藝術のデーモンとの交歓、みたいなものじゃないかと思ってたんです。メンデルスゾーンの複数の曲にはやっぱり確実にそういうところがある一方で、酒井抱一の作品ではそういうものがいまだに見つけられていなかった。 でも今回の大回顧展で、抱一の屏風の中に、背筋にゾッとくるものを容易に、そしていくつも発見することができた。さすが「全貌」である。 + + + ◆《四季花鳥図屏風》(六曲一双・文化十三年(1816)・陽明文庫蔵) ![]() また、右隻「春」の区画には、クリムトの《人生は戦いなり(黄金の騎士)》の下生えが、より洗練されたかたちで存在している。すなわち強靱な金地、モスグリーンのフラットな台、ワラビにツクシ、タンポポ、くっきりと色づく朱鷺色の花弁…。 ◆《波図屏風》(二曲一双・文政後期・MIHO MUSEUM蔵) →抱一にはもうひとつ、有名な《波図屏風》があるらしいが、そっちではない。こちらは高さ45センチ、幅は一双で155センチと親密な大きさだが、その内容が物凄い。ここに描いてある青黒い波の不敵な力強さはいったい何だろう。中期のベートーヴェンのような、力ある者の正当な傲慢さを感じさせる。 ◆《月に秋草図屏風》(二曲一双・文政八年(1825)・個人蔵) ![]() + + + 同時に、ほんのりとした幸福感を与える小品が多いのもメンデルスゾーンと同じ。僕が抱一に惹かれるのは、この小さな幸福感に吸い寄せられるからでもある。 ◆《河豚蘿蔔図》(一幅・個人蔵) →画像がご用意できないのが実に悔しい。 ひっくり返って腹を出したフグと、その脇にぼて…と寝そべった大根。描画も彩色もほんとうに最小限にとどめた結果、円っこさだけが要素として残った。この円っこい幸福感は絶大である。心から所有欲をかき立てられたもののひとつ。 ◆《州浜に松・鶴亀図》(三幅・寛政後期・個人蔵) →中央が松、左に亀、右に鶴。いやーめでたいね。汀に根っこを、空に枝を伸ばす、松の舞踊的な表現。キュートな亀にスマートな鶴。 ◆《麦穂菜花図》(双幅・静嘉堂文庫美術館蔵・重要美術品) →麦の穂が前面と背面の二層で描かれている。春霞にぼやける背面層と、空のヒバリ、そしてちょっと無生物的なほど規則正しい、青い麦の穂。春らしい雑駁なにおいが漂ってきそうな強力な空間支配ですね。 + + + 見逃した方は、春になったら京都の細見美術館へ。巡回してます。 「センチュリーミュージアム」ってご存じですか?美術畑のブロガーさんならよくご存じなのかな?音楽畑の僕は、この日の朝まで存在をまったく知らなかったすよ。 旺文社・文化放送・テレビ朝日を興した赤尾好夫氏のコレクションを管理するセンチュリー文化財団が、2010年10月に早稲田鶴巻町に開館した真新しい美術館。最初、熱海のMOAみたいなそっち系かなあと思ったんだけど(ネーミングがね)、きわめて優れた個人コレクションを展示する公共性の高いミュージアムでした。 東西線の早稲田駅から目白通りのほうに向かって坂を下り、5分ほど歩くと、低層ビルの隙間にすっとした新しい建物が。入り口のドアが開けられずに受付のおねえさんに笑われてしまったが、感じの佳いエントランスである。 500円を払って、たいへん素晴らしい解説目録を貰い、展示スペースのある4階5階までエレベータで上がる。祝日金曜の朝11時なれば、ほかの観覧者がいるはずもなし。最初から最後までたったひとりでコレクションを独占する幸福。 + + + ◆4階 このフロアは絵画コレクション(エレベータを降りるといきなり新羅の仏頭(直径1メートル弱)に対面するので仰天しちゃうけど)。 ここで強く印象に残ったものをいくつか。 ●雪舟等楊《山水図》(室町時代・15世紀) ![]() 幸田露伴『観画談』の主人公は、画の中の船頭さんに「今行くよーッ」と返事をして危うく中に入り込むところを、俄に吹き込んだ隙間風によって難を逃れたのだが、空調完備のセンチュリーミュージアムでは隙間風が吹くべくもない。危難であった。 ●《三十六歌仙図屏風(近衛信尹・賛)》(桃山時代・16~17世紀) 縦1.5×横3.5メートルの屏風が一双。三十六歌仙のポートレートに、近衛信尹(豊臣秀次のひとつ前の左大臣)がそれぞれの代表的な和歌を添え書きしたもの。 巨大な画面のなかで縦横無尽に乱舞する近衛信尹の筆跡に、アール・ヌーヴォーのような装飾的な気分が横溢している。画讃や墨蹟は、うつわと同じようにかたちで楽しめばそれでいいのかもしれないなあ。 ●《豊臣秀吉像》(桃山時代・16世紀) 縦65×横35センチ。これまでに見たどの秀吉像にも増して下卑た顔つきをしていて、驚く。頬はげっそりとこけ、落ちくぼんだ眼窩に小さな黒目が猜疑心たっぷりに光り、口元にうっすらと哄笑が浮かんでいる。 ◆5階 に出ると一面のガラス張りで、椿山荘と目白の台地が目に入る。明るい。 このフロアは平安時代の仏像コレクション。長い年月にさらされて女神転生の敵キャラみたいな(ごめんなさい)フォルムになった菩薩立像など滋味深い。東博に出掛けて大勢の頭越しに見るのとはわけが違う。 相変わらず誰もいないので、窓際のソファ(たぶんル・コルビジェ)に座って目白の緑を眺める。静かであるが、十数体の仏像が何やら語りたげであった。 + + + 圧倒的孤独感。ものも素敵。混雑した展覧会が大嫌いなあなたにお勧め。
普段はあまり極端な言葉遣いをなさらない「はろるど・わーど」のはろるどさんが「猛烈におすすめします」と激賞されていたのを見、これは何かあるなと思って、会期が始まってすぐに出かけることにした。
+ + + 芝の増上寺に、狩野一信(1816-1863)の描いた100幅の《五百羅漢図》が眠っている。この作品たち、幕末から明治の初めころはわりと知られた連作だったらしいが、今ではすっかり忘れ去られ、増上寺でも思い出すようにして数幅が取り出されるような状態だったようなのですね。それが140年ぶりに寺外に出され、このたび大規模展として一堂に会し、それはもう目も眩むような色彩と構図の乱れ雪月花、という感じなわけです。羅漢というのは仏教の聖者たちのことで、しかし一信の描き方では、キリスト教の聖人たちのように清潔でもなければ非人間的でもなく、どこまでいっても泥臭くて、人間的であった。目を血走らせて怒っているものもあれば、風呂に入ってふやけた顔もあり、竜宮城に招かれて楽しそうにしているものも、施しに集まる餓鬼どもに呆れて引いているものもある(ついでながら餓鬼のがっかり感も必見)。 羅漢の肉体の肉々しさは江戸最後期のマニエリスム的な様子をよく伝え、また羅漢の衣や地獄の鬼や異教徒の描写の鮮やかさは、きついアクセントで演奏されるロカテッリやジェミニアーニを聴くような、才気走った鮮烈な印象を残すのです。 ![]() ![]() ![]() 全部で100幅、加えて下書きやら、東博所蔵の写しやらが数幅、一信が描いた成田山新勝寺の巨大壁画まで、この世の中のほとんどすべての事柄がこの中にあるんではないかと思われるくらい、宇宙的な規模の展開です。作品はそれほど小さくないけど、細部まで偏執狂的に描かれているので、ぜひ混雑しないうちにどうぞ。 ![]() かように自然は、人間の手を離れて混沌としている。 人間がどのように苦しんで何をしようとしても、初めから人工の混沌を造り出そうと思わない限りは、天然の混沌は依然として混沌のままであるといえる。仕方なしに人間は、自分なりの額縁を用いて混沌を囲い込もうとする。しかしながら、額縁の中身に出現している「秩序」は「額縁の製作者が観測した混沌」なのだということを忘れてはならない。 + + + ◆生誕250年 酒井抱一 -琳派の華-@畠山記念館 一週間遅れてしまったホワイトデーのお返しを入手するため、街へ出る。最寄の路線は節電のためとして車内の照明が消され、非日常の一端を今日も垣間見る。その後、せっかく出てきたのだしと思い、無事に開館している美術館を調べて、畠山記念館を訪ねてみることにする。ちょっと足を伸ばして、白金台へ。 入り組んだ住宅地の中に忽然と現れる庭園。もと島津家別邸のあった庭に建つ、懐かしい雰囲気のコンクリート建築が畠山記念館である。庭園のすぐ隣でマンションめいたものを建てる工事をしていて興を殺ぐが、本質的な風雅に変わりはない。こんな場所があったんだねえ。 展示室は茶室のような設え、というか、現に室内に茶室(「省庵」)を内包しながら、その内的雰囲気を外(=展示室内)に向かって敷衍するやり方。畳敷きのスペースに上がって作品を自由に観覧できるのは、小さな美術館にだけ許される最高の贅沢と思う。 「省庵」の露地に新鮮な水が打ってあるのに気づき、心が震えた。展示室は茶室であった。 + 後期展示ということで、抱一の《十二ヶ月花鳥図》は七月から十二月まで。 これは見られて本当に幸せだった。抱一が設定した「額縁」は(語弊を恐れずに書いてしまえば)極めて恣意的なのに、恣意性のかけらも感じさせない。上手な人斬りに斬られても痛みを感じない、みたいな。ちょっと違うか。 たとえば、〈八月 芙蓉に鶉〉における観者の視点を導く構図の巧さには、ぐるぐるりと舌を巻かざるを得ない。ぽってりとした鶉が見上げる視線の先に空中の草叢、込み入った(しかし完璧に計算されたカオスであるところの)枝振りから、これまたぽってりとした質感の白い芙蓉への導き。何これ。ピタゴラスイッチすぎるだろ。 その他にも、抱一が洒脱に捉え直した《風神雷神図》、かまきり萌えの《月波草花図》など見所がたくさんあったが、中でも其一の《向日葵図》の異様な存在感には度肝を抜かれた。ポオならこの画をもとにしてほんのりと恐ろしい短編をひとつ、書き上げることができるだろう。 今度は夏に来ましょう。 ![]() ◆包む―日本の伝統パッケージ展@目黒区美術館 まだ元気があったので、桜田通りの相生坂を五反田駅まで下る。山手線に乗って目黒駅へ。目黒駅から権之助坂を下って目黒川沿いへ。休日のテニスコートの平和を横に見て、目黒区美術館に至る。 主として自然食品を包む、伝統的包装術を、圧倒的物量で紹介する本展。自然の食品という混沌に対して生活者が立ち向かった方法を見ることができる。また、酒井抱一という大芸術家の額縁と、大勢の無名の職人たちの額縁と、比べてみることもできるというわけです。 こちらはあまり難しいことを考えず、日本各地の楽しい包装文化を愛でていけばよい、という感じだったが、いくつかの幾何学的なパッケージは(たとえば)バウハウス展に出品されててもまったく違和感のない性質のもので、驚く。「木」「藁」「紙」など素材別にコレクションが展示されている中で、秋田の曲げわっぱ《おもてなし弁当》、茨城の《一人娘 いなほ》、山形の《卵つと》、京都の《献上野菜つと》など、素材が素朴であればあるほど、僕は惹かれるものが多かった。われわれが立ち向かう卵も野菜も、なんという混沌であることよ。 (※ちょうど、渡辺京二『逝きし世の面影』を読んでいるところで、江戸期工芸が先天的に備えていたアーツ・アンド・クラフツ性、という視座を新たに持つことになったため、恐らくその後裔にあたるパッケージたちについても面白く眺めることができたのだった。) + + + 今夜は雪が降っている。 シャガール展かと思ったら、ミニ・ロシアアヴァンギャルド+魔笛展だった。展覧会としての構成は若干弱いのだけども、出品作における名作率?が高くて、かなり満足がいきます。14時半の灼熱上野公園を縦断して藝大まで辿り着く。何もかも色彩がくっきりしている。この会場はだいたいいつもそうなのだけども、この日も土曜日の午後のわりには会場が空いていて、眺めやすい。真夏の日なかは狙い目なのだね。 ◆ゴンチャローワ+ラリオーノフ レイヨニスム ![]() 右 ミハイル・ラリオーノフ 《タトリンの肖像》(1913年) 美しいね。夫妻の作品が、他に埋もれずにしっかり見られたのは、この規模の展覧会ならではかもしれません。 特にゴンチャローワの《葡萄を搾る足》と《孔雀》の2点は、厳密にはレイヨニスムではないかもしれないけども、ヴィヴィッドな色彩と直球勝負な構図が爽快で、この素敵な時代の勢いを感じます。のちのストラヴィンスキーとの協同は(《結婚》とかね)、この時期の作品からしても十分に予想される。要するに、好きだ。もっと知られてほしい。 夫のラリオーノフのほうは、様式で様式を描いている感がなくはない。それでも《タトリンの肖像》は、マチエールが異常なまでに透き通っていて(jpgだとこんな見え方ですが)、タトリンのトンガリぶりを見事に表現していると思われた。 + + + ◆MET 1967 THE MAGIC FLUTE 1967年、メトロポリタン歌劇場の依頼で《魔笛》の舞台美術を担当したシャガール。その一連のシリーズ約50点が、まとまった形では今回が本邦初公開なのですな。ちなみに、以下がこのときの豪華キャスト(METのアーカイヴより抜粋)。 Pamina..................Pilar Lorengar ![]() 最上部左 同《パパゲーノ》(1966-67年) それにしても、見蕩れてしまった。どれもこれも本当に美しい。舞台のデザインなのだが、画家シャガールがあの色彩をそのままデザインにぶつけているので、衣装も、背景も、煌めくような仕上がりなんですな。それだけでなく、どの人物にもシャガールの温かい愛情が注がれているのが、僕にとっては感動であった。かわいそうなモノスタトスにも、ザラストロの車を牽く獅子にも。 フィナーレの音楽を頭で再生しながら、フィナーレの背景幕を眺めていると、久々に、絵を見て涙が出た。この強い幸福感。 + + + そうそう、シャガールの他の作品は…。今回もポンピドゥーの所蔵品から選ばれているために、2002年の都美での大規模展に来ていた作品ばかりで、新たな発見はなかったけれども、それでもこの人のエッセンスが濃縮されてたなあ。《ロシアとロバとその他のものに》、そして《イカロスの墜落》との再会。 そのほかにも、カンディンスキーの闘争的風景画や、マレーヴィチのデザインに基づく夢想的建築模型など、見所が多い。なんと10月11日までという長期開催なので、もう一度行ってみようかと思っています。 3月12日エントリの続き。フランク・ブラングィン展をひととおり見終えた後、閉館までの1時間弱を平常展に充てようと思って順路を辿っていたら、途中の小部屋でこの「所蔵水彩・素描展」が。ところがこのミニ企画展が、残り時間でちゃちゃっと見るにはあまりにも惜しい優品・佳品揃いだったんだよねえ。。 水彩や素描といった紙の作品は光や湿度、温度の変化に弱いので、所蔵作品とはいえ普段の展示機会はほとんどない。 アングルとドラクロワから始まって、モネ、セザンヌ、モロー、シャヴァンヌ、セガンティーニ、シニャック、ルオー、ピカソ、藤田、マティスまで、筆や鉛筆の運びが想像できるくらいの小さな画面を独り占めできる贅沢!ミーハーなお客さんはそもそも西美の平常展まで足を踏み入れないので、まず鑑賞の環境自体がしっかり守られていると言える。これは東京では大きい。 ◆1. セザンヌ 《舟にて》(1900-06年)[鉛筆の下描、水彩、紙] ![]() セザンヌ最晩年の作品に属する水彩です。同時期のいくつかの「サント=ヴィクトワール山」シリーズと同じように対象が揺らいで形を留めなくなっているけれども、水彩のマチエールがその揺らぎを自然に受け止めているよね。 キャプションに「音楽的」という言葉があった。 セザンヌはリズムをぶつけ合ってあたかもハーモニーみたいに見せるのが得意だと思うんですが、この作品はその手法に拠っておらず、むしろハーモニーそのものに回帰してきているような気がする。 ◆2. モロー 《聖なる象(ペリ)》(1882年)[水彩、グアッシュ、紙] ![]() + + + 全部で40点に満たない出品数なので、特に、なるべく人のいない時間帯を選んでお運びください(日曜日の夕方とかね)。5月末まで。 + + + このエントリを書きながらミュンシュ/パリ管の幻想交響曲ライヴ(Altus)を流していたんだけど、驚くほど合わない。 うそ寒い雨の日曜日でした。初春の守護聖人・サン=カンシオンもお手上げだな。夕方にすっぽりと時間ができたので、せっかく東の方に出てきていることもあるし、ArtScapeをむりやり携帯のブラウザで見て(ぶらあぼもArtScapeも早く携帯ページを作ってくれえええ)、西美にあたりをつけて上野に向かいました。日曜夕方の美術館は総じて空いていて素晴らしい。 画家、壁面装飾家、工芸デザイナー、建築・空間デザイナー、版画家、コレクター。多彩な顔を持つ、ベルギー生まれ・英国を代表する作家フランク・ブラングィン。国立西洋美術館の礎となった松方コレクションは、この男の存在なくして語れない。ということらしいね。この展覧会は大当たり!面白かった! 画家で工芸デザイナーで建築デザイナーで、、とマルチな美術家だったフランク・ブラングィン(1867-1956)。教科書に名前が記されるような超一流の芸術家ではなかったのかもしれないけど、そこから一段下、マイナーリーグの超一流のような気がする。この展覧会を見て強く感じた。 ◇画家として ◆1. 《海賊バカニーア》(1892年) 部屋を照らし出すほどに眩しい海の絵。カッ、と光る。こんな小さなjpgデータでは何の手がかりにもならないけども、緑がかった深い紺藍色の海、暴力的な赤、テキトーにかすむ白壁の家が醸し出す空気感は恐るべきものがある。 海賊のおじさんたちもダルかっこいい。 一方、同じ部屋の中に掛かっていた《海の葬送》という作品は(主題から離れた部分だけども)、海の生臭さや有機的な脂っぽさを描いて現実的な海を示している。ブラングィンは船員として働いていた時期もあったそうで、観念としての海と非情に観察された海と、両方を内面に持っていたんだろう。 ◆2. 《白鳥》(1920-21年) タペストリー的と言ったらいいのか、ブラングィンの絵画は込み入っていればいるほど奥行きが減少し、形と色の併置状態になるのが興味深い。この作品も遠くからメガネを外して眺めると、空色と白と橙色の抽象画のように見える(ほとんどカンディンスキーすれすれ)。同様の傾向が《ラージャの誕生日の祝祭》や《市場の露店》などいくつもの作品に認められる。 ◇工芸デザイナーとして ◆3. ビングの店アール・ヌーヴォーの外壁のステンシル・デザイン(1895年頃) ◆4. ダイニング・チェア(1902年頃) ![]() + + + 松方幸次郎の協力者としてのブラングィンも、この展覧会で語られる部分。 松方がコレクションを公開するために構想していた「共楽美術館」の設計と内装デザインが、ブラングィンに任される。後半部分に「共楽美術館」再現CG放映および空間再現が行なわれているのも、この展覧会の面白いところで、ブラングィンのデザインしたベンチ(復元)に座って作品が眺められたりする。 レンブラントのような版画群、お皿にカーペットにキャビネット、第一次大戦の戦意高揚ポスターまで、ありとあらゆるものをデザインせずにはいられなかったようです(絵画も版画も、広くデザインの一環だったんだろうね)。細かい作品も多いので、ぜひ混み合わぬうちにどうぞ。 ヴァン・アレン帯デー前日の横浜はとんでもない氷雨で、雪の多いこの冬を代表するように暗い午後。同行者と落ち合ってからも、まずは寒さをほぐすためにみなとみらいシラー下のカフェで休息することになる。↓ 審議中... ↓ 横浜美術館に行きましょう。 何年か前からその名前を聞くようになったアーティスト・束芋。感度の高いその筋の知り合いが口々に評価するので、気になる存在ではあった。その束芋の個展が開かれています。この雨でしかもゲンダイビジツなので、みなとみらい駅の「美術館口」からして僅かな人間しか視界に入らない。実は横浜美術館、これが初訪問なのス。 + + + 本展示の8割は映像インスタレーションで、残り2割はドローイングに偽装したインスタレーションで構成されている。固形・映像を問わず、インスタレーションの感想文ってすんげえ難しいんだよね。。並んでいると無差別級の格闘技のようで、しかもそれが「在る」こと自体に価値が紐づけられているから、少なくとも「無い」のでなければそれだけで「何か」であるわけで。。 だから、 鑑賞することによって現実では認識できないような感覚を味わうことができるものに、優れた価値を見出したい。そうすることにしている。あれっ、これおかしいな、と感じさせられるものであれば。 日常生活をなぞったインスタレーションは、そこから飛び立つときの距離計測を誤って、案外表面的なものに落ち着いているケースが多いと思う。いろいろと調べてみると、束芋という30代中盤の女性がこれまでのキャリアで大事にしているのは日常生活とそこからの剥離のようなので、どうだろうか。 全部がいいとは思わなかった。(以下、公式の「作品紹介」を参照のこと。) 長い長い絵巻物のように構成されたインスタレーション《惡人》、それからその変奏である映像《油断髪》は、作者の内面が抉り出されて陳列されるようで、おかしいなとは思わされるまえに、その生臭さにギブアップであります。狂ったように繰り返される髪と指とクルマのモチーフに、生理的なおぞましさを感じないと言えばウソになる。 その一方、団地の乱雑なポリフォニーをモチーフにした《団地層》と《団断》には、生煮えではなくちゃんと調理された束芋の想念が潜んでいるように思われた。特に後者は、人の狂気そのものではなく狂気の残り香のようなものが漂っていて好ましかったです。密室で他人が何をしているかなんて、、わからないじゃない。 生活(団地)ポリフォニーを生体活動(人体)ポリフォニーに置き換えた《BLOW》なんかは、最後のスペースに展示されているあたり、束芋の新境地なのかもしれないと思った。《惡人》《油断髪》のような抉り出しを、生ではなく、型崩れすることなく芯まで火を通して煮込んだような。 + + + 常設展示もいいのがたくさんあったけど(豊田市美のシュルレアリスム展で見た覚えのあるダリのトリプティークがあった!)、時間切れであんまり見られず。今度は時間をたっぷり用意して行ってみよう。 ![]() 1月初めの3連休。南関東は実に天気が良かった。 冬の南関東はどうしてこんなに天気が良いのだろうか。ネイティヴ南関東住民たちはこれが祝福された晴れであることを忘れないでほしい。そんな、僕の中でぐずぐず発酵する裏日本メンタリティを引き連れて熱海に向かうことにした。お一人サマ熱海は罰ゲームみたいね。でも気にしないね。 つまり、MOA美術館にはずいぶん昔から一度行ってみたくて、手元に招待券が舞い込んだからにはこの予定のない冬の晴れを活かさないわけにはいかなかったのです。 タクシーを降りて(新春贅沢)、噂どおりのメガロマニアックな建築に苦笑いしつつ入館する。熱海らしく喧しい家族連れも居はするものの、喧しい集団というのはスタスタ歩いていってしまうケースが多いから、ほとんどの瞬間において、そこは見物人と展示物がほぼ同数という閑かな空間に保たれていました。美術館はこれくらいがちょうどいいスよ。 ◆1. 尾形光琳 《紅白梅図屏風》(18世紀) [国宝] どんなに大規模な琳派の展覧会でも、この国宝が熱海から呼ばれて展示されることはないらしい。年間に浴びせてよい光量が決まっているらしいとか、そんな噂もある。 幸いお客さんもそんなに多くなかったから、これの前に置かれたソファに座って20分くらいじっと視ていた。じっと視ていると、左隻にはもちろん中央のV字の枝、右隻にも幹と河岸によるV字の構図が見えてきて、一見すると変な画面なのになぜかこの作品から湧き出てくる安定感のゆえんを感じた次第。vv。 クリムトがインスパイアされたらしい波紋は、上の画像でははっきりと見えてしまっていますが、実物の展示状態ではよほど近寄らなければ窺えない。川の色彩も想像していた濃紺ではなく、濁った黒に見える。この状態では金黒ギャップの鮮やかさが増しているのだから面白い。形のある藝術にあっては「展示」が、音楽における「演奏」に匹敵するわけですな。 ◆2. 酒井抱一 《雪月花図》(19世紀) [重要美術品] で、光琳のパワーを浴びた後の順路には、巧い具合に抱一の三幅が掛かっています。何も知らない鑑賞者に襲いかかる光琳の梅モンスター…それとは一線を画す優美なミクロコスモスこそ、抱一の醍醐味なのだろうと思った。 しかし、優美の裏地に淫靡が隠れていそうだぞというのは衆目の一致するところで、、か細い桜の枝ぶりや、月の円みや、松の枝からコンデンスミルク状にたらりと落ちかかる雪に、何も思ってはいけないということもないだろう。 ◆3. 伝 銭選 《花籠図》(13世紀) 一見すると奥行きもないし画面も小さいし、地味な作品なのだが、よぅく視ると、満杯に盛られた花に籠が食い込んでいる様子がかなり細密に、マニアックに描写されている。13世紀ボンデージ。今日のエントリにはエロ系のスパムTBがいっぱい飛んできそうですね。(※ちなみに英雄交響曲について書くと、エロイカの「エロ」に反応して飛んでくる。彼らは敏感だ。) ◆4. 唐物箆目肩衝茶入 大名物(13~14世紀) こんなにでっかい茶入があるんだ!!高9.8cm、口径4.9cm、胴径8.9cm、底径5.0cmであるから、350mlのアルミ缶を横方向に思い切りぶくりと太らせたような存在感。あるいはその紫褐色の照りから、加茂茄子も連想しやすい。 そのユーモラスさの中に、右上から左下に走るヘラの痕がナチュラルなアクセントになって可愛らしさが増幅している(もしヘラ目がなかったらただの鈍重になってしまうところだろう)。 + + + 展示室を出ると、冬の午後に光る相模灘が眼前にあった。 昔からゴーギャンが苦手で苦手で。その苦手の種がわかったのが、今回最大の収穫でした。若い頃はスーラになってみたりルノアールになってみたりするゴーギャンでしたが、《純潔の喪失》(1890-91)までは比較的温和な作風を維持し続けたようです。この作品は、海の群青と大地の紫と女の白がマッシヴに並んで、いよいよ取り返しのつかない呪術性へゴーギャンが傾いていく境目になっているように見えました。温和な風景画の中に「人物」が入ることによって燦然たる人臭が漂い始めるという意味でも。 タヒチに行ってからのゴーギャンの作品からは強い不安感や恐怖感を感じるのですが、それは、楽園を夢見ていた画家が地元の人々から受けてしまった視線が描き込まれているからだ、というのが今回はっきりとわかったような気がする。画家は絵筆によって視線を形にして封じ込めたけど、画家が土に還った後でもその視線だけは画布の中からこちらを視ていて、、ってオカルトじみてしまいますが、そんな感じなのだから仕方がない。 ![]() 予想していたよりも小さいな、というのが最初の感想でした。どうして巨大な画面だと勝手に予想していたのか、それが面白い。 この作品の前に立つと、絵画によって内面を鑑賞されているような気持ちにさせられる。芸術作品を「鑑賞」して「判断」するのが何よりも好きな、格別に傲慢な人間である自分にとっては、作品に組み伏せられて何もできないこの感覚が辛いのだと思う。ゴーギャン、それからゴッホの作品を苦手にしているのは、たぶんこの感覚のせい。見るな見るな見るな。 で、最後のセクションに配された最晩年の作品からは、突如この感覚が消える。組み伏せられるのではなくて、相手にされていない、無視されるような感覚に変容するのです。 ![]() 同じ作家が、続けてこんな作品を描くものなのか。この寂莫とした印象は何だろうか。。 + + + 土曜夕方でもそんなに混雑してませんでした。9月23日まで。 < 前のページ次のページ >
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