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オーケストラ・アンサンブル金沢 第25回名古屋定期

c0060659_1315047.jpg【2006年9月22日(金)19:00~ 愛知県芸術劇場】
<オール・モーツァルト・プロ>
●交響曲第25番ト短調 K.183
●Vn協奏曲第5番イ長調《トルコ風》 K.219
→バイバ・スクリッド(Vn)
●Pf協奏曲第21番ハ長調 K.467
→菊池洋子(Pf)
●交響曲第40番ト短調 K.550
  ○アンコール 不詳(ドイツ舞曲?コントルダンス?)
⇒井上道義/オーケストラ・アンサンブル金沢


もう一週間も経ってしまった。。

コンスタントに日本のオケを指揮する日本人のうち、そのコンサートに足を運べばまず間違いなく満足できると思う指揮者が二人います。一人は広上淳一であり、もう一人が今回の指揮者・井上道義。聴き逃せません。
この日のOEKは弦8-6-4-4-2で対向配置という「そそる」編成。指揮者が何をするか見たいので舞台すぐ左上のバルコニー席を選択しましたが…いきなりこの日の山が来てしまった。

まず驚きだったのは、ほぼ完全なノン・ヴィブラートを徹底していた点。
けっして膨らむことのない鋭い音が第1楽章第1主題の引きつるような音型を満たしますが、それは痩せた響きではない。むしろ対向配置によって全体に奥行が生まれ、ミッチーも積極的に2ndVnやVaの旋律を浮き立たせます(第2主題で心休まる旋律を担当する1stVnを限りなく引っ込ませて、低音の無機的な楽句を弾く2ndVnをかわりに物凄いテヌートで表に出すなど…楽しい処理が満載)。
そしてその嵐のようなテンポ。前につんのめるようにして次の旋律へ襲い掛かる攻撃的な拍感が表現主義的といえるようなうねりを生み出しており、、予想以上のカラフル&パワフルな25番にまずはKOです。

続く《トルコ風》は、ソロのスクリッドの完成度が高い。まあハーンは別格なのだとしても…音のきれいな若手がそう多くはない中で、彼女の音の(語弊を恐れずに言えば)「女性的な」滑らかさは貴重だと思われました。第3楽章で<トルコ風>に差し掛かる直前、および<トルコ風>後の「別のものが混ざったモーツァルト」の妖しげな風情が非常によかったですよ。音の独自性とその歌い口のセンスにおいて、エリザベートの覇者は伊達じゃないようです(音程は時折...)。
ここでのオケは先ほどまでのどす黒い表出性をはらりと脱ぎ捨てて、いかにも軽いロココな伴奏(ただし奥行感と風通しの良さは保持したままです)。

しかし後半最初のPf協奏曲第21番は、、逆にソリストによってすべてをスポイルされた格好でした。この菊池さんというピアニストは以前にもどこかの在京オケの定期でモーツァルトの協奏曲を聴いたことがあったんですが、その時と印象はまったく変わらない。この人は出す音のバリエーションが極端に少なくていかにも平板、異様にデジタルな印象を受けるんですよねえ。タカアンドトシなら「グールドか」と突っ込むでしょうが…狙ってやってるのかなあ。
今回は第2楽章など、伴奏が物凄い集中力でセンシティヴな音を奏でている最中にも一切お構いなく鍵盤を強打しまくり、ほぼ全編に渡ってスタカート+メゾフォルテというなかなか出会えない至芸を拝ませていただきました。有り難や南無南無。

さて最後の40番は、残念ながら前半のような風通しのよさが感じられない。
第1楽章からテンポが遅めで意外…冒頭のVaのリズムを浮き立たせていたのは面白かったけど、他のパートが各々勝手気ままに自己主張していて、厚塗り過ぎた(あるいは未整理な)ような気がします。井上氏の中でこの曲はやっぱり「疾走するなんちゃらには追いつけない」なのかなあ。個人的には残念。

んで尻すぼみな印象に終わるかなと思いきや、最後は「昔は名古屋は人も冷たいし、ホールもひどかったし、街もつまらなかった。でも今は日本に欠かせない。このオケもまた然り!」というクールなスピーチののち、アンコールへ突入。
帰るときに曲名の案内を見損ねたので正体は不明なのですが、モーツァルトの軍楽調のナンバー。最後は行進曲に乗って指揮者が退場→コンマス困惑、という仕立てで、、ミッチーのショーマンシップを見たです。それにしてもこの人の指揮姿はマジで格好いいのだよなあ。
by Sonnenfleck | 2006-09-30 01:34 | 演奏会聴き語り

酸素2.0

c0060659_235036.jpgウィルキンソン・ジンジャエールを買いに自販機のところまでBダッシュしたら、あの愛すべき飲み物の姿は忽然と消え、代わりに酸素水の小さなボトル缶がそのスペースに収まっていました。ウィルキンソンが大衆受けするはずがないことは理解しているし、僕個人の積極購買活動にも限界はあったのだろうけど、、あの強ジンジャ風味のファンとしてはこのショックはでかい。…いつかまたどこかで。

さて酸素のくせに生意気な酸素水、一口飲んでみる(←結局買った)。
、、うーん、、しかしこれはなんという無意味。
酸素を多く含有すると水が美味しくなるのでしょうか。身体によい効能を持つのでしょうか。
狙い澄ました薄っぺらさはジャンクの醍醐味で、僕もそれが楽しくてジャンクな飲み物を飲むのだけれど、なまじこれは「身体にいいザマス」的な偽善を堂々と提示してるので始末が悪い(そのくせ公式サイトにすら具体的な事実を示さないアサヒの態度は不誠実に感じます)。
それに、ミネラルウォーターとしても致命的なこの「味のなさ」を、いったいどのように解釈したらよいのだろう。いや、別にただの水だから。
by Sonnenfleck | 2006-09-28 23:36 | ジャンクなんて...

『トリスタンとイゾルデ』試写会(記憶の彼方ver.)

c0060659_2383373.jpgショスタコ漬けの一週間でしたが、いい加減お仕舞いにします。

さて10月下旬公開予定の映画『トリスタンとイゾルデ』ですが、そろそろ試写会も増えてブログ界隈でも盛り上がってくるころでしょうか。
言わずと知れたワーグナーのアレと同じ題名を持ってるだけで強力なクラヲタ誘引作用があるのに、加えてiioさんがCLASSICA - What's New!のトップにバナーを張っておられるので、クラファン的にはすでに宣伝効果200%超ですよね。

しかし日本版公式サイトは甘甘で滅菌消毒済みのデザイン(笑) 僕が試写会で受けた印象に近いのは、むしろ英語版公式サイトのほうなんですよ。
爽快な風が吹き抜けるような日本版公式サイトの画像とは裏腹に、その実態は制作総指揮のリドリー・スコットの趣味がよく滲み出ていて…つまりわりあいにダークで過酷でエロい。日本版公式サイトを見て「あら素敵だわっ」とか思って出かけたオバサマを沈黙させるには十分なくらいです。

以下、ほんの少しネタバレ。
by Sonnenfleck | 2006-09-27 00:02 | 日記

百年の孤独

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С днём рождения!!! Митя!!!

―あなたの時代がやってきました。お誕生日おめでとう!!

【2006年9月25日(月)21:30~ 自室】
<ひとりガラ・コンサート(予定)>
●歌劇《鼻》 op.15 第1幕~〈序曲〉〈間奏曲〉
→ロジェストヴェンスキー/モスクワ室内歌劇場管
●《タヒチ・トロット》 op.16
●ヨハン・シュトラウス2世/ショスタコーヴィチ編曲:ポルカ《観光列車》

→ロジェストヴェンスキー/ソロイスツ・アンサンブル
●バレエ組曲《ボルト》 op.27a ~〈官僚の踊り〉〈荷馬車屋の踊り〉
→ロジェストヴェンスキー/チェコ・フィル
●ピアノ協奏曲第1番ハ短調 op.35
→ショスタコーヴィチ(Pf)+サモスード/モスクワ・フィル
●交響曲第4番ハ短調 op.43 ~第3楽章
→ラトル/バーミンガム市交響楽団

~~~~~休 憩~~~~~

●《祝典序曲》 op.96
→ロジェストヴェンスキー/ラジオ&TV大交響楽団
●交響曲第10番ホ短調 op.93 ~第4楽章
→フェドセーエフ/モスクワ放送交響楽団(新盤)
●弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調 op.108 ~第1楽章
●弦楽四重奏曲第13番変ロ短調 op.138

→ボロディン四重奏団(旧盤)
●交響曲第15番イ長調 op.141
→ザンデルリンク/ベルリン放送交響楽団
●《自作全集への序文とその序文に関する考察》 op.123
→レイフェルクス(Br)+T.ザンデルリンク/ロシア・フィル

by Sonnenfleck | 2006-09-25 00:29 | 日記

0925カウントダウン企画◆第4交響曲・ドイツ初演ライヴ

c0060659_22374141.jpgカウントダウン企画・ひとまずの最終回は、コンドラシンの初出ライヴについて。
ショスタコーヴィチの交響曲第4番が作曲されたのは1935年~36年にかけてのことです。でも初演の際、「プラウダ批判」の渦中にあった作曲家は、そのタイミングでの新作発表がけっして上手くないということを悟って、結局作品そのものを撤回してしまうんですな。そののち交響曲第4番はショスタコの机の引き出しで眠り続けますが、25年後の1961年、ついに幻の若書きが日の目を見る時がやってくる。しかしてその若書きは、とんでもない問題作だったのです。

さてこのときの「初演」を取り仕切った指揮者キリル・コンドラシンは、その14ヵ月後にドレスデンで行なわれた東ドイツ初演も指揮しているんですけど、今年なんとその東ドイツ初演のライヴ音源がいきなり発掘されて正規にリリースされたんですよ。吃驚仰天。
もちろんオケは東独が誇るシュターツカペレ・ドレスデンでありますが、いやあ…それにしてもこれは大変な録音が出ましたです。

まず全体的なコンドラシンのアプローチですが、名盤として名高い1966年のモスクワ・フィル盤に比べてかなり「恰幅がよい」組み立て方なんですよね。
立ち止まって歌いたくなるような誘惑に駆られる楽句でもクールに流す、禁欲的で決然としたコンドラシンのショスタコ演奏は、時としてあまりにも切羽詰りすぎ・余裕ゼロの偏狭さを感じさせてしまうのですが(確かにそれもショスタコーヴィチの重要な本質のひとつだとは思うんだけど…)、このドレスデン・ライヴはのちの全集録音で聴かれるそうしたコンドラシンとはちょっと違う。なんというか、極端に挑戦的な態度ではないのです。第1楽章の冒頭ひとつ取っても、音符を大胆にデフォルメして鋭く尖らせたモスクワ・フィル盤とは違い、一粒一粒の音価を拾って丁寧に伸ばすので、非常にふくよかな印象を与える。破局をこれでもかと見せつけるのではなく、まとまりやフォルムへの気配りが強く滲み出していると言いますか、極めて意外なことにオーマンディ/フィラデルフィア盤に通じる世界です。

それに、、頻出するブラスの破壊的なパッセージに耳を奪われがちだけど、この曲って思った以上に弦が表に出てくる箇所が多いと思うんですよ。その意味では、(スウィトナーの《魔笛》で聴かれるような!)美しい弦が異様に凄みのある色気を漂わせているこのライヴの価値は、まったく計り知れない。第1楽章の展開部の後ろのほう(トゥッティの大クレッシェンドの手前)とか、第2楽章のレントラー風味がここまで妖しく鳴る演奏がかつてあっただろうかと思いますね。
加えてモノラルながら録音の状態がかなりよい
メロディアのステレオ録音(と呼ばれているもの)とは比べ物にならないくらい楽器の音が生々しくて、音の広がりも「NHKホールの三階席頂上」と同じ程度には感じ取れます。フォルティッシモで音が割れないのも吉。でかいスピーカで聴いたらさぞかし素敵でしょう。

荒れ狂う音の奔流で「ショスタコの第4」のイメージを長い間牽引してきたきたモスクワ・フィル盤と、突如登場したこのシュターツカペレ・ドレスデン盤。両者はっきり言ってまったく甲乙つけがたい(単に個人的な好みからすると、今回のライヴのほうが好きかもしれない)。しかし時期的には1961年の「初演」に最も近い、内容もそれに近いと考えても不自然ではない演奏が、こんなに柔らかくて緻密だったということには…驚かずにいられません。オススメ。
by Sonnenfleck | 2006-09-24 22:38 | パンケーキ(20)

0925カウントダウン企画◆コバケン/名フィルのショスタコ・ライヴ

c0060659_20381737.jpg【2006年9月23日(土)16:15~ 愛知県芸術劇場】
<コバケン・スペシャルvol.8~ショスタコーヴィチ>
●Vn協奏曲第1番イ短調 op.77
→後藤龍伸(Vn)
●交響曲第5番二短調 op.47
 ○アンコール 《ダニー・ボーイ》
⇒小林研一郎/名古屋フィル


いやー盛り上がってました。物凄いブラヴォの嵐と暖かい拍手―。
(しかし少数者だって、チラシの裏に意見を書き綴るくらいのことはできる。)

前半Vn協奏曲では、第2楽章の終結部と第4楽章全般にわたってアンサンブルの乱れが散見されましたが、それも一興。だって僕らのコンマスがソロを弾いてくれるのだもの!コバケンのタクトが胡散臭くてもわかりにくくても気にしない。
(後藤氏のソロには確かに音程の乱れや音のかすれがありましたが、彼の即興的なセンスは第3楽章の長大なカデンツァで見事に発揮されており、本公演の白眉であったのは疑いありません。ブラヴォ。)

さてとにかく《革命》は、歌詞のない演歌として空前の大成功を収めていました。人生は涙あり笑いあり、最後は明るくお別れ。コバケンに全幅の信頼を置いた名フィルの一体感、微に入り細を穿つリアリスティックな情景描写は実に素晴らしかった。明らかに今日の後半はオケも気分が乗っていましたよ。このままNHK歌謡コンサートに出演したっていい。目をつぶればほら、第3楽章の冒頭主題に合わせてネオンライトを振るオバサマ方の波が見えます。

あとはショスタコーヴィチがもっと単純な曲を作っていればどんなによかったことか。
暗譜で臨んでいたコバケンが、それぞれの瞬間で主旋律を奏でるパート以外には目もくれなかったことを考えると、彼の棒がメイクドラマに邪魔になる内声・対旋律を極力排そうとする健康的な解釈を志向していたのは明らか。悲劇的英雄的人間的な《革命》に、どうして無機質なVaの響きが必要なのだろう!ああ!

そして何より最後の《ダニー・ボーイ》!勝利が高らかに宣言されたあと、優しく奏でられる英雄の休息。これがなければ火照った体を鎮めるのにどうすればいいか困るところでした。
100歳アニヴァーサリーの素敵な思い出になりそう。ありがとうコバケン、ありがとう―。
(結論としては、俗な感性の指揮者にもちゃんと対応するショスタコの懐の広さに感服した...というくらいです。)
by Sonnenfleck | 2006-09-23 20:58 | 演奏会聴き語り

今タケミツが熱い(6週目)

c0060659_2321568.gif武満だと思われた方、今回は残念でした。

1ヶ月ほど前に『ビッグコミックスピリッツ』に連載を開始した『竹光侍』(松本大洋氏作画・永福一成氏原作)という作品があるんですけど、その異常な画風と演出の素晴らしさにここ6週間唸らされっぱなしなのです。
江戸。聖痴愚めいた謎の侍・瀬能宗一郎の奇行と、それをとりまく市井の人々のなんということはない日々を一話完結で描いている、、ようなんだけど、果たしてただそれだけのストーリーなのかどうか、いまだに判断がつきません。今週は瀬能が矢場(射的屋さん兼オトナの社交場ですな)に乗り込んで矢を打つうちに、矢場の女もろとも雪山に飛んで猪や鹿を狩ることになるというトンデモな展開で…ストーリーの行き先はまたもシュルレアリスム的に攪乱されてしまいました。

しかし(こうやってストーリーだけ書くと大して面白くなさそうなんだけど、、)僕が嵌り込んでいるのはこのマンガの演出なんですよ。
ギクシャクとした太い黒線で構成された人物と、真っ白で何も描かれない背景は完璧に非コミック的で、ほとんど浮世絵のパロディのように見える。
吹き出しをあまり用いずにコマの中に文字を直接浮かべる手法もまた人を食った説明書きのようであり、先日の若冲展で見た「この虎は中国画の模写です」という若冲の断り書きに似て何とも味わい深いのです。そして何が現実で何が幻覚か、境界を説明しない奇妙な描写。瀬能はあるいは人でないのかもしれない。

世に出てまだ6週間だとネット上にも絵は転がっていないし、この味わいを文字で伝え切れている気がまったくせず大変悔しいのですが…気になる方は近所のコンビニに走って、とりあえず表紙のグラビアには目をつぶって(笑) 立ち読みしてみてください。『スピリッツ』の中で明らかにこの作品の載ってるページだけ浮いてて可笑しいですよ。
by Sonnenfleck | 2006-09-22 00:02 | 日記

0925カウントダウン企画◆ネタ帳覗き見(その2)

承前。
マーラーやショスタコが用いた「ユダヤ的な旋律」の元ネタらしいクレズマー音楽なんですが、さらに後者に限ってもうちょっと細かく探すと、次のような作品が挙がってきますね。

●劇音楽《南京虫》組曲 Op.19 ~インテルメッツォ
●映画音楽《黄金の丘》組曲 Op.30a ~ワルツ
●《ジャズ組曲》の中のワルツ、フォックストロット
+ + + + + +
○ピアノ三重奏曲第2番 Op.67 ~第3・第4楽章
○歌曲集《ユダヤの民族詩より》 Op.79 ~第3曲〈子守歌〉・第15曲〈幸福〉など
○弦楽四重奏曲第8番 Op.110 ~第2楽章

二つに区切ったのは、明らかに趣向が異なるからです。
「クレズマーと似ている」という主観的な基準しか僕は持ち合わせないのですが、プラウダ批判前の●作品はすぐにそれとわかるくらい露悪的で俗悪な使用のされ方であるのに対し、交響曲第5番後に書かれた○作品ではより内向的で、クレズマー音楽の上澄みのような切なく懐かしく重苦しい旋律線だけが積極的に引用されているように感じられる。しかしそのうち、●作品がはっきりと聴き手の方を向いた機会音楽ばかりであることが面白いんですよねえ。

1930年代中盤の社会主義リアリズムの確立へ向かって収束する以前のソヴィエト・アヴァンギャルド音楽には、スクリャービンを祖と仰ぐ前衛作曲家と、あくまで労働者・大衆へ向かった作曲家の両方が混在していたんですが、この時期のショスタコーヴィチはまさに素晴らしいバランス感覚で両方の音楽を書き分けていました。
その片方、労働者・大衆へ向かった作曲家の作品は今日ほぼ残存しません。しかし社会主義リアリズムへの収束で失われた1920年代の娯楽音楽とクレズマー音楽との関係を想像する上で、残された「クレズマー風味の」ショスタコの機会音楽は重要なヒントになりそうな感じ。今考えられる以上にロシア市井の音楽にクレズマーは溶け込んでおり、ショスタコーヴィチはそれを巧みに掬い上げたのではないか…。脚注も何もないブログだから書ける全開の妄想ですけどね(笑)

一方、以下は工藤先生のサイト@祝・ショスタコ本出版!からの孫引きなのですが(ごめんなさい)、ショスタコ自身がユダヤ音楽について
「私はどうも、ユダヤ的旋律の際だった特質がどこにあるかが分かっているようです。陽気なメロディがここではもの悲しいイントネーションの上に築き上げられているのです……。民衆は人間のようです。なぜ、民衆はにぎやかな歌を歌いだすのか。なぜなら、心が悲しいからです。」
と語っているようなんですね。いくぶん皮相的な感じのする一文ですが、ここにショスタコのユダヤ旋律観が現れていると考えてみてもよさそうです。上に挙げた○作品は、心が悲しいときに作曲されたものばかりではないか?

* * *

CDのライナーノーツに素っ気なく「ショスタコーヴィチはユダヤ音楽を引用して…」とかいう記述があり、なんとなくそれを理解したような気になっているけど、僕らは近所にユダヤ人が住んでいるわけでもなし、実際にどんなものがどのように引用されたのか知る由もないのです。
それはライナーの書き手の多くも同じはずで、皆さん欧文の直訳でそう書いているだけなんじゃないかなあ。おそらく欧米の聴き手はユダヤの旋律がどんなものなのか体で何となくわかっている者が多いのだと思うのだけど、我々はそうでない。優劣とは関係なくそこは単純に峻別されるべきなんですが、こうして文化的に断絶された環境の中からでも、事実を理解するための糸口になりそうな音楽を探し出すことは可能なようです。興味のある方はぜひ。
by Sonnenfleck | 2006-09-21 00:33 | 日記

0925カウントダウン企画◆ネタ帳覗き見(その1)

c0060659_22385153.jpg先日東京に行ったついでに立ち寄った渋谷タワレコで、ようやく見つけたクレズマー音楽のCD。
クレズマー音楽というのは東欧ユダヤ人(アシュケナジム)民謡をルーツとする音楽のことで、伝統的にはClやVn、Tpやアコーディオンを中心とする小アンサンブルにより演奏されます。ポグロム(迫害)によって移住を余儀なくされたアシュケナジムによってアメリカに伝えられてからは、Tbやドラムスが加わってある程度モダンに変容されていちジャンルとして確立されたみたいですね。そんな流れにありながら「トラディショナルな」ものは民謡らしいある種のワンパターンを愛し、明るいながらも哀愁漂う旋律・追い立てられるような急激なリズムなんかが特徴的なスタイルを保っているようです。一般的に最もイメージしやすいのは映画『屋根の上のヴァイオリン弾き』の音楽でしょうか。

さてこのクレズマー音楽なんですけど、僕はドクター円海山さんの言及を拝見して初めてその存在を認知した次第で。しかしクラヲタ的に興奮せずにいられないのは、どうもクレズマー音楽というのが(僕たち日本人が明確にイメージできない)マーラーやショスタコーヴィチの作品中に登場する「ユダヤ的な旋律」の元ネタか、あるいはそれにきわめて近いものであるらしいということなんですよ。

■マーラー:交響曲第1番~第3楽章中間部の「楽隊」
■ショスタコ:交響曲第9番~第5楽章のギャロップ風パッセージ

一般的に「ユダヤ的な旋律」だと理解されている楽句が登場する作品のうち、すぐに思い浮かぶものだとこういうのが挙げられますね。ゆったり開始して徐々に加速、管楽器の陽気でちょっと仄暗い(あるいは「演歌のような」と言ってもあながち的外れではない)旋律と、激しく活躍する打楽器。もちろんすっかり洗練された形ではあるのだけど、こうした作品の核と非常に似たものが、上に挙げた音楽バンド・KLEZMORIMの初録音盤に記録されてるんです。
ちょっと衝撃ですよ。
この項続く。
by Sonnenfleck | 2006-09-19 22:59 | パンケーキ(20)

0925カウントダウン企画◆Google先生は如何に

いよいよショスタコーヴィチの100回目の誕生日まであと1週間となりました。
c0060659_16213894.jpg
僕はその日、Google先生があの部分を黒縁眼鏡に変えてくれるのではないかと心の底から期待していますが…どうでしょう。
by Sonnenfleck | 2006-09-18 16:49 | 広大な海