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ふえふきのひとがやりたかったこと

c0060659_6452154.jpg【DiscLosure/DS 0049-2】
●シューマン:《マンフレッド》序曲
●同:交響曲第4番ニ短調 op.120(初稿)
●ブラームス:Vn協奏曲ニ長調 op.77
→トーマス・ツェートマイヤー(Vn)
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ
(2003年9月/ブレーメン)

07年1月の新日フィル客演を聴いて、よくわからなくなったブリュッヘンのシューマン観。05年客演時の交響曲第2番は分裂しながら力強いという危険な演奏だったけど、去年の第4番は妙に空疎な雰囲気を漂わせてしまって…謎でした。

気心知れた18世紀オケとのライヴ。
この交響曲第4番を聴くと、まずは「初稿=空疎」説を捨てないといけないのがわかる。
その上で、このCD-Rにおいて展開される音楽は異常に力強く、音が重たく湿っていて、要するにいつものブリュッヘン節なのです。ブリュッヘンの中での4年の加齢、来日のための旅、言葉の問題、新日フィルのコンディション等、残念だけれどもいろいろな負の要素が絡まりあって、あのときの微妙な演奏につながってしまったのかなあ。。

第1楽章。コーダへの進入で、フルトヴェングラーも真っ青のとんでもないブレーキを踏んでリタルダンド、おまけに木管を強調しまくった華やかな響きを残して幕を閉じます。
第2楽章は(いい意味での)空虚さと、終結部のブウゥゥゥン......という呻き声が印象的。
乾いたフルートが木管群を引っ張るブリュッヘンらしいバランスがよく聴かれる第3楽章。この人がやるフレーズ毎の自在なルバートは、もっと知られていい。。そして第4楽章への橋渡しで聴こえてくるぶっとい音の柱。。
とにかく性急な第4楽章。表向き性急なくせに、奥底では得体の知れないものがグニョグニョと蠢いているようです。含んだようなクラリネットの音が突然立ち上がってきたり、強烈なゲシュトプフをいきなり聴かせるホルンがいたり、本当に、ブリュッヘンという人間にしかできない音楽を、やっぱり展開していたのです。ここでも。

そしてブラームス!ついに浪漫派♂の自意識が凝ったブラームスをブリュッヘンで聴く。

…なんじゃこりゃー!

細かくは書きませんが、シューマンとは打って変わって不気味に静まり返ったトゥッティ、そこへ自傷行為のような凄まじいアクセントと硬い音色でツェートマイヤーが切り込む。
いやーこれは凄いです。こんなに不気味で「無様な」ブラームスがありうるのか。
第3楽章の「苛まれっぷり」は一聴の価値ありです。
正規で発売されるようなことがあれば、肯定否定相分かれての大論争が起こるでしょう。
by Sonnenfleck | 2008-01-30 06:47 | パンケーキ(19)

アナベル・リイとパーセルの午后

c0060659_793478.jpg【HMF/HMT 7907035】
<パーセル 歌曲集>
→ドリュー・ミンター(C-T)
  ミッツィ・メイヤーソン(Cem, Org)
  マリー・スプリングフェルス(Vl)
  ポール・オデット(Lt)

大江健三郎の『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』をお正月に買って読んでいるんですけど、進み行きは芳しくない。ひとつひとつの文章構造を考えながらでないと内容が理解しにくいのです。省略された主語を予想し、目的語を補い、時間と空間を自在に乗り越えるOeのイメージについていかなければ。…

さて大学生のころ、英語の選択授業で「英詩と音楽を扱う」と謳われたものがあって、一も二もなく履修したのでありました。
「アナベル・リイ」というポーの遺作を知ったのはこの講義が最初であって、昼食後の気だるい雰囲気と、教壇に立つ長身の教授のヒゲとメガネと、何よりもその、日が高いうちに語ることが憚られるような異常な内容のことをよく覚えています。

今になってググってみると「アナベル・リイ」をテキストにした歌曲作品っていくつかあるみたいなんですが(アイアランド?)、それをこの講義で聴いたのか、記憶が定かでない。
他にはJSB《ヨハネ受難曲》の英語版を聴いたか。。

あのときに聴いたものとして深く刻み付けられているのは、パーセルの《おお孤独よ》 Z.406 という絶望的な歌曲であります。憂鬱なオスティナート・バスが静かに延々と流れる上で、孤独を愛する人間の暗鬱な心持ちを述べる声の持ち主。ドリュー・ミンターというカウンターテナーのことは寡聞にして知らないですが、マット処理されたというか、ずいぶん抑制的な声質の持ち主で(はっきり言えば地味)、けっして輝かしいということのないパーセルの音楽によく合っているように思います。
そこへ、夜毎にアナベル・リイの墓の傍へ身を横たえる「ぼく」のイメージが混線してしまって、とにかく自分の中ではパーセルのこの歌曲と「アナベル・リイ」とは切り離せない一個の塊になっている。パーセルのもの悲しい旋律から、「アナベル・リイ」へつながる。

そして、僕に悪くない評定を付けてくれた英米文学の教授は、その年の春に病気で亡くなったのです。飄々として不思議な人だった。
by Sonnenfleck | 2008-01-29 07:10 | パンケーキ(17)

コーホー支援

c0060659_74334.jpgエフエム大阪でオンエア中の宇野功芳トーク番組がリニューアル
エフエム大阪で放送中の音楽評論家・指揮者、宇野功芳のトーク番組「コーホーのイブニングアプローズ」がタイトルを「宇野功芳の音楽夜話」に変えてリニューアル。(中略)
まさに宇野ファン垂涎の番組といえよう。

『ぶらあぼ』2月号、141ページ。楽屋オチといえよう。
by Sonnenfleck | 2008-01-28 07:08 | 日記

ブロムシュテット/N響の《グレート》@名古屋

c0060659_22170.jpg【2008年1月26日(土)18:45~ 愛知県芸術劇場】
●マーラー:《さすらう若者の歌》
→クリスティアン・ゲルハーヘル(Br)
●シューベルト:交響曲第8番ハ長調 D.944
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団


あれが80歳を迎えた指揮者の音楽でしょうか。
まったく若者のようでした。

2週間前、FMで《プラハ》と《ロマンティック》を聴いて、僕はブロムシュテットの音楽を「ふわふわの卵焼き」であり、縦方向へのこだわりほどには横方向を顧みないと、そういった内容のことを書きました。
こちらのアホな思い違いだったようです。
訂正します。
昨日のシューベルトは、ふわふわと柔らかい音響ながらも爆発的に横方向へ推進していました。もしこの演奏が48kbpsくらいの粗いウェブラジオで流れて、すなわち美しい弱音や縦方向のバランスが聴き取れなくて、「只今の演奏はグスターヴォ・ドゥダメル指揮、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラです」って言われたら、信じてしまうかもしれない。

第1楽章の冒頭で、ホルンのパッセージがかなり速い。速いです。。
この日の大ハ長調は本当に爽快だったのです。
呆気に取られていると、美音と輪郭を同時に保ちつつ、弦のユニゾンで第1主題。
あーこの音はN響本気だなあ。本気になったN響をNHKホール以外の場所で聴くと、なかなかに素晴らしいことになる。過去の経験からそんなことが察せられます。

いつものようにステージ真横の2階席に座ったのですが、それでも十分に聴き取れる明解な対向配置。1本のメロディを1stと2ndで受け継ぎ、引き渡し、また取り戻す、そこへVaとVcが遊びに来て、遠くからKbが近づいてくる。弦についてはこうした3次元遊戯を、柔軟なバランス感覚でもってよく実現させていたと思います。
管になるとN響のメンバーは個性的な音の人が多いので(よく耳にするから覚えているっていうのもあるし)一筋縄ではなかったけども、音色の差異による多重化がここでは行なわれていたのかなと。こういうところはオケの個性を引き出して、おまけにそれを凹凸でなくしてしまうブロムシュテットのパワーによるのかもしれない。ふわとろ卵焼きワールド。

あ、コーダ。序奏の楽句で再びのクリティカルヒット。すぱーんっ...と終わってしまった。余韻の質で、聴衆が緊張しているのがわかります。ブ氏はニコニコしてるぞ。。

第2楽章は冒頭のObソロが一瞬だけ崩れてヒヤリとしましたが、美点はなんと言っても、前半のクライマックス(「破綻」ですかね)が美しいままで鳴り響いていたというところに尽きます。その後恐る恐る戻ってきたVcの厚く柔らかい歌わせ方は、いくらこの日の演奏が若干のピリオド風味に聴こえたとしても、ブロムシュテットの底にあるのは質朴で控えめな浪漫なのだ…ということの証拠として提出されるでしょう。

後半二楽章はザクザクした肌触りが痛快で、一気呵成に持ってかれてしまった。
特に第3楽章のメカニックには素直に感心。。サントリーホールほどには響かない愛知県芸で、しかもステージに近接した位置で聴いてもしっかり揃っていたです。N響って決して下手ではないよなあ。トリオのレントラー風味はあくまでも健康的で、木管は控えめながらふわふわの音響。もし広すぎるホールであったら拡散してしまうような類の。
第4楽章は各要素が悪戯っぽく自己主張しながら、それでもふわっと1本にまとまって流線型に推進しているのが面白いです。いやーすごいなー。ゼロ・リタルダンドで突っ込むコーダの野太い音に感激。こんな音が出てくるのかN響。。

+ + +

ゲルハーヘルも大変よかったんです。よかったんですが後半が凄すぎて印象が薄まってしまった。抜けのいいヒロイックな声質のバリトンで、きっとこれから日本でも人気を獲得するんだろうなあ。でも2月5日の《白鳥の歌》@しらかわホールには行けそうにないッス。

+ + +

本日岡山で聴かれる方、ぜひ呆気に取られてください。80歳にして永遠の青年ブ氏。
by Sonnenfleck | 2008-01-27 02:07 | 演奏会聴き語り

D先生の自然勾配主義

c0060659_7104888.jpg【DECCA/466 345-2】
<THE CLEVELAND SOUND>
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
●同:交響曲第6番イ短調 《悲劇的》
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/
  クリーヴランド管弦楽団

ドホナーニ先生の廃盤CDは実に高い。みんな探している。
特にこの<THE CLEVELAND SOUND>という2枚組みのシリーズは高額で、amazonの中古ではブルックナーの第5と第7を組み合わせたものに12,000円の値がついています。このCDも9,000円超えのとんでもない高値ですが、、先日、今池ピーカン・ファッヂに行ったらその10分の1の値段で売ってました(-_-;;)

まずはshuさん激賞の6番から。
最初にお断りしておきましょう。
マーラーはすべからく脂ギッシュで、人生の苦悩でもって常時ネトネトしていなくてはいけない、という考えの方、この演奏は絶対に聴いてはいけないと思います。探しても絶対にそんな局面は見つかりません。
僕自身はそういうマーラー観とまったく反対の考えを持っておって、おまけに「悲劇的なくらい騒々しく」演奏されることが多い交響曲第6番が大の苦手で、ベルティーニ/ケルン放送響のやり方が唯一の解決策なのかなあと思っていたのですよ。

、、でもこの演奏が、理想の《悲劇的》でした。
これを耳にしてしまって、他の演奏が聴けるか??

第1楽章の厳しい第1主題は、ドホナーニ流のやり方だとモーツァルトのように涼やかに自然に流れ出ます。逆に、冒頭のノーブルな響きにちょっとでも失望感を感じたら、聴くのをやめたほうがいいかもしれない。ずっとこんな感じですもの。
第2主題が訪れると、よく晴れた冬の夜空のように、キラキラしたものが眼前にぱぁっと広がります。発音はあくまで自然に引き上げるだけ、そしてその音が消えていく美しさを見届けて、今度は次の音符に見合った立ち上げを用意する。これだけです。これを守るだけで、音楽は何と官能的な勾配を持つのだろうかということ。「立ち上げる+消す」ではなく、「立ち上がる+消える」を尊重するやり方なのです。第2主題の息が消えていくところ、物凄いですよ。こんな弱音、アリなのか。
さらに、ステージから離れた席に座っているときに聴こえるような、少し遠くて1箇所に凝縮した録音コンディションが、発音から減衰までを完璧に計算に入れたドホナーニの造形美をよく伝えているように思う。ホールを楽器にしてこその指揮者ではないですか。
…そうして、音場は1箇所に凝縮しつつも、信じられないくらい分離がよい、という矛盾を書く羽目になる。各パートが描く勾配が縦横に交わる様子が、展開部の中でよく聴かれます。勾配の頂上に置かれたチェレスタとカウベルの惻惻とした混淆には目が眩む。

再現部第1主題の(経過句部分の、とすべきかな?CDでは17分30秒過ぎの)一瞬の悪夢のような煌きは何でしょうか。粘ついたり我を忘れたり、そういった状況を伴っていないのが、実に恐ろしい。コーダも形が崩れない。。

第2楽章スケルツォは第1楽章に比べて縮尺が大きい気がします。
トゥッティの様子は変わらずすっきりと爽快ですが、その中で今度はソロを自由に遊ばせてる感が強い。各プレイヤーの素晴らしい腕についていちいち書いてたらきりがありませんが、、こんなオケが常時そばにあったクリーヴランド住人が羨ましい。

第3楽章は、この楽章の演奏は、この曲が6番目の交響曲であることを忘れさせるに十分。
Vnの序奏が終わって主題が木管に引き継がれると、途轍もない世界が開けます。羽毛に包み込まれるようなこの感触は、痛ましい現実からの逃避のように感じられる。
ドホナーニ先生はここで初めて、禁断の歌い込みにちょっとだけ手を出します。
先生は勘違いされすぎている。つまり、「理性的で冷たくて歌えない」なんじゃなくて「必要がないから歌わない」だけなんですよ。現実逃避を支える甘い歌が必要になったら、こうして力でもって主旋律を「立ち上げる」ことにためらいはない。

あれよあれよという間に序奏が終わってしまう第4楽章。
主部に突入すると、各パートが描く勾配がぐるぐると螺旋状に絡み合いながら展開していく、神業のような響きが聴こえます。展開部においてはカウベルからの高揚がまことに自然な稜線で表現されていて、、第1のハンマーへ。小さくて硬質なハンマー音がいかにもこの演奏にふさわしい。
第2のハンマーは打撃音が重々しくて(打ち下ろした場所が異なるのか?)、悲劇的な調子を守り立てています。その後荒れ狂うトゥッティだけど、流線型の成り行きはまったく崩れる様子がない。騒々しく騒いだ挙句、勝手に内側から崩壊させる方法は、《悲劇的》には似合わないと思うんです。こんなに厳しく凝縮している交響曲には

3回目の序奏主題が、弾け飛ぶように瑞々しく演奏されます。俺はかわいそうに死んでいくんだという自己耽溺は、ここにはありません。死に絶えるように最後のアンサンブルが進行し、結末の軽快なモットー絶叫が理想的。重たい「意味」なんてまっぴらごめんというもの!

長くなりました。第5番はまた今度。
by Sonnenfleck | 2008-01-25 07:12 | パンケーキ(20)

5時からダラバコ。

c0060659_718828.jpg【Stradivarius/STR 33740】
<エヴァリスト・ダッラーバコ>
●Vnと通奏低音のためのソナタ op.1から
●2本のVnと通奏低音のためのソナタ op.3から
⇒ジョルジョ・サッソ/インシエメ・ストルメンターレ・ディ・ローマ

ダッラーバコです。
エヴァリスト・ダッラーバコ Evaristo Dall'Abaco です。
俺はトリオソナタ・マニアだぜ、とか、イタリア半島の17~18世紀ならあたしの右に出る者はいない、とか、そういう趣味の方以外にはまず知られていない名前じゃないでしょうか。僕自身、かつて手軽なトリオソナタの楽譜を探す過程で彼のおかしな名前に引っかかったにすぎないわけですから。
トレッリの弟子としてヴェローナに学び、長じてバイエルン選帝侯の宮廷楽長に上り詰めたという、典型的な18世紀のイタリア人音楽家。このCDに収録された作品1と作品3でよくわかるように、作風はモロにコレッリライク…のように一旦は聴こえます。

しかし、どうも落ち着かない。
これは、ソナタ・ダ・キエザとソナタ・ダ・カメラが融合した、統一感のない楽章構成に端を発しているのか?作品1-5 ト短調なんか第3楽章まではきれいな教会ソナタなのに(きれいと言っても記号上の話だけど)、第4楽章にいきなりジーガが置いてあるというオチです。聴いてて非常にびっくりした。
この破綻の予兆のようなものは当然、曲調にも表れていて、作品3-12 イ長調のように軽薄なノリがあちこちに出現している。第2楽章アレマンダ・アレグロのテキトーなノリ!どうなんでしょうこれは!コレッリ風の重々しい多幸感から逃れようとして、ダッラーバコは高田純次みたいな快楽主義へと遷移していったようです(ときどきフッ...とシリアスに戻るのもそれらしい)。きっとこれは弾いていて楽しいだろうなあと思われる。

ただしここで取り上げたCDの演奏は…よく言えばクール、悪く言えば釣り目、かな。
もっと享楽的なアンサンブルで聴いたら面白みは倍増するかもしれません。
by Sonnenfleck | 2008-01-24 07:24 | パンケーキ(18)

遅れてきたもう一方のミクラシック

初音ミクでミニマル ”Hatsune Phase” for 2 Vocaloids(ニコニコ動画)

作者のコメントにすべてが現れています。
つまり、これまでに制作されてきた「初音ミク」のクラシックは、「声にかなり似たもの」を使っていかに「声」を再現するかという点に皆の興味が集まっていたのではないかと。いっぽうで、「声にかなり似たもの」を使って「声」ではできないことを表現するという道は、まったく未開拓だったと言ってもいいでしょう。
そこに登場した、《Hatsune Phase》。ライヒの《Piano Phase》を、「声にかなり似たもの」で置き換えてしまった。こういった方向の作品を、もっと聴いてみたいのです。もちろん、「声」の1パッセージを録音して細工してやればこんなことは簡単にできるんだろうけど、いったい誰 が 「 歌 う 」 のかという絶望的な一点が厳然として存在する中で、一筋の光明ではないでしょうか。
それは、カーテンを閉め切った暗い部屋の安楽椅子作曲家が、「声にかなり似たもの」を手に入れたという意味で。彼女は彼のためだけに歌う。

元ネタも載っけておきます。

スティーヴ・ライヒ 「Piano Phase」(ニコニコ動画)
by Sonnenfleck | 2008-01-23 07:02 | 広大な海

今日は朝からストラヴィンスキー(22)

c0060659_6504990.jpg【DISC22…ROBERT CRAFT CONDUCTS UNDER THE SUPERVISION OF IGOR STRAVINSKY】
●交響詩《夜うぐいすの歌》(1917) ※
●《ダンス・コンチェルタント》(1942) +
●《フュルステンベルクのマックス王子の墓碑銘》(1959)
→アーサー・グレグホーン(Fl)
  カルマン・ブロッホ(Cl)
  ドロシー・レムセン(Hp)
●《ラウール・デュフィ追悼の二重カノン》(1959)
→イスラエル・ベイカー(Vn)、オティス・イーグルマン(Vn)
  サンフォード・ショーンバッハ(Va)、ジョージ・ナイクルグ(Vc)
●宗教的バラード《アブラハムとイサク》(1963) ※
→リチャード・フリッシュ(Br)

●管弦楽のための変奏曲(1964) ※
●《レクイエム・カンティクルス》(1966) ※
→リンダ・アンダーソン(S)、エレーヌ・ボナッツィ(A)
  チャールズ・ブレスラー(T)、ドナルド・グラム(Bs)
  グレッグ・スミス/イサカ大学コンサート合唱団
⇒ロバート・クラフト/
  コロンビア交響楽団(※)、コロンビア室内管弦楽団(+)

というわけで、先週から引き続きラストのDISC22。

最後の《管弦楽のための変奏曲》《レクイエム・カンティクルス》とは、どちらも、透徹したフォルム舞台性の脂っぽさの両方を兼ね備えた奇跡的な傑作であると、感想文の最後に記しておきたいと思います。
先々週聴いたように、《カンティクム・サクルム》はどうやらストラヴィンスキー内の「フォルムの系譜」が辿り着いた最高傑作である、という思いでいます。それはこのラスト2曲を聴いた今でも変わらない。ではもう一方の、「舞台性の脂っぽさの系譜」は作曲家の中でどうなったのか。このDISC22で言ったら《夜うぐいす...》《ダンス・コンチェルタント》の系譜は。。
40年代から50年代にかけて、たぶん《放蕩者の遍歴》くらいを最後に、こちらの系譜は一旦地下に潜伏したんじゃないかと思うんです。しばらく養分を貯えて、そしてなぜかはよくわからないけれど、作曲家の最晩年にいきなり発芽して「フォルムの系譜」の支柱に絡み付き、見事に巨大な花を咲かせたのではないかな。そういう気がしています。

もうちょっと別の言い方もしてみましょう。
すでに何度か、「フォルムの系譜」のほうを「皿」に例えてますよね。その路線で行くと《カンティクム・サクルム》はそれ自体、非の打ち所がない完璧かつ巨大な皿で、皿自体が偉大な価値を持つようです。博物館の皿に料理が盛られていないから皿としての価値が低い、と言う人がいないのと同じ。このたとえを用いれば、《変奏曲》《レクイエム・カンティクルス》も、間違いなく一級の皿であると思われるんですよ。ただしこれが《カンティクム・サクルム》と異なるのは、そこに、貪欲な聴き手の味覚を刺激するような「料理」が盛ってあるというただ一点ではないかなと思う。

《管弦楽のための変奏曲》の皿には、久しぶりにインパクトのある分厚い音塊へ、華やかなソロを付け合わせて。冒頭のTp数本のしゃがれ声からJAZZYなおふざけを感じ取ったっていいでしょう。ほんの5分間の作品の中にさまざまな階層のさまざまな要素がぎゅっと凝縮されていて、飽きることのない旨味を放っています。最後にたぶんバスクラリネットで「。」と律儀な句点が打たれてるのが面白くて。生で聴いてみたいなあ。

そして《レクイエム・カンティクルス》の皿には、
・バルトーク風の親しみやすい音型
・堅く引き締まって器楽っぽい合唱(〈リベラ・メ〉での粒感が面白い)
・逆に器楽っぽさが巧く取り除かれた合唱(まるで《ミサ曲》のように!)
・口ずさめるような不吉なメロディ
・口ずさめない愉快なメロディ
こんな雑多な材料を渾然一体に煮込んだスープがよそわれている。プレリュード→インターリュード→ポストリュードのアーチ構造は、きっと音列にも関係していたりするんでしょう。楽譜が目の前になくてもこんなに楽しめる十二音作品は…そんなにないんじゃないか。

+ + +

というわけでした。ストラヴィンスキーすげえ。おしまい。
by Sonnenfleck | 2008-01-21 06:56 | パンケーキ(20)

名古屋フィル 第343回定演

【2008年1月19日(土)16:00~ 第343回定期/愛知県芸術劇場】
<フレンチ・オルガン・コネクション>
●尾高惇忠:オーケストラのための《肖像》
●プーランク:オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲ト短調(※)
●デュリュフレ:レクイエム op.9(+)
鈴木雅明(Org/※および+)
  寺谷千枝子(MS/+)、三原剛(T/+)
→近藤惠子/岡崎混声合唱団、愛知県立岡崎高等学校コーラス部
⇒尾高忠明/名古屋フィルハーモニー交響楽団


畢生の名演奏だったではないですか。

尾高(兄)氏の大規模管弦楽曲、《肖像》(1993年)。
<フレンチ・オルガン・コネクション>と題された今回の定期になぜこの曲が参加しているのか?プログラムには「尾高惇忠はパリ留学時代にデュリュフレにオルガンを師事」し、「フランス的和声感と豊かな知性を彷彿とさせ」るからなのだとしか書いてないんですよ。
ただ、巨大な幅で上下するダイナミクスと、ストップ操作をイメージさせる木管の美しい重ね合わせ(まるでメシアンのように美しい)を聴くに、作品自体がオルガンを志向しているように思えてなりませんでした。藝大のサイトを見ると…ははーんこの人オルガン好きなんだな。。プログラミングは尾高(弟)氏によるのでしょうか?だとしたら天晴!
冒頭のTpアンサンブルは、12月の定期の汚名返上とばかりに不安げなテクスチュアを再現していましたよ(不安げと不安定は違う)。トゥッティの弱音はいつもよりずっと弾力があり、木管の歌いこみは豊か。繰り返しますが、非常に美しい作品でした。1階に作曲者がいたみたいだけどこちらからは見えず。

続いてプーランクの協奏曲。そういえば愛知県芸のオルガンって初めて聴くなあ。ここの「オルガン初め」は絶対にコバケンの《オルガン付き》だと思ってたけど(笑)
当然、雅明氏の演奏する20世紀音楽を聴くのも初めてなんですが、冒頭の付点音符をかなり長めに取ったり、大胆にテンポを揺らしたり、意外なほどにワイルド。。柔らかくて紳士的な音楽づくりをしている尾高氏とはいきおい齟齬が生じるわけで、なかなかにスリリングな競奏曲です。
でもですよ。この《オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲》の生の音響バランスって、圧倒的に「オルガン>>>>>>>>>ティンパニ≧弦楽」なんですね。オルガンが本気を出してしまえば、ティンパニも弦楽も簡単に塗り潰されてしまう(この作品の録音ってずいぶん恣意的に音量のバランスをいじってあるんだなー)。したがって小さな齟齬も「楽器の王」の残響の後方にうまく隠れたように思います。ただし名フィルの弦にはもうひとふんばり揃ってほしかったというのが小さな本音。

最後にデュリュフレの《レクイエム》
普段、ブログ用に言葉へ変換する作業を行ないながら音楽を聴く癖がついてしまっているんですが(我ながらこれはとても悪い癖だと思う)、この演奏はそれを許さなかった。名フィル畢生の柔らかい音と本気の合唱によって感覚をダイレクトに刺激された挙句、最初から最後まで思考停止。涙と鼻水でドロドロ。
最後の和音が減衰して、やがて消えても、拍手が始まらない。
聴衆がいっせいに息を漏らす音が聴こえる。
尾高氏がゆっくりと腕を下ろす。

響きに溺れて、ぼんやりしたまま帰ってきました。
いまPCの前に座って思い返してみても、あの雰囲気を感覚的には覚えているんですが、言葉にならない。このデュリュフレは言葉にしたくないな。。
by Sonnenfleck | 2008-01-20 08:49 | 演奏会聴き語り

金襴緞子

c0060659_981099.jpg【TROUT RECORDS/H4904】
<オトテール プレリュードと組曲>
●6つのプレリュード
●組曲 ホ短調
●組曲 ト長調
●組曲 ト長調
→花岡和生(Rec)
  福沢宏(Gam)、野入志津子(Lt)、小島芳子(Cem)

これまでブログではほとんど触れてこなかったんですが、オトテールって本当に天才だと思います。バロクーからしたら「何を今さら」っていうところだろうし、逆にバロックを聴かない方からすると「誰?」という可能性もある。
ヴェルサイユの笛吹きジャック=マルタン・オトテール(1674-1763)が何者かについてはググってもらうこととして、その音楽を知ることになったきっかけはご多分に漏れずブリュッヘンの演奏なのでありました。しかし、あの力強い憂鬱のポーズをも緩やかに受け流して、今や花岡和生盤に並ぶオトテール録音なしと言ってしまいたい。

このCD、新品が高い…のは国内盤の宿命ですが、中古で見かけても高かった。それが、たまたまケースに小さなヒビが入っているだけで値引きされていた美品を首尾よくゲットし、トレイに乗せてPLAYボタンを押すやいなや、鼻の奥のほうから爆発的な輝きが聴こえてきたので吃驚しているところです。あ、聴取スタイルはヘッドホンですよ。いいスピーカーで聴いたら目の前がパッと明るく弾けるんだろうなあ。

冒頭に置かれたプレリュード ニ長調。この荘重ないでたちに感激せずにいられましょうか。
もう少し正確に書くと、リコーダーと、彼を支える3者の渾然一体となった響きの美しさに感動せずにいられましょうか。特に…今は亡き小島さんのチェンバロとその装飾の豪奢なさまを、一度でいいから生で聴いてみたかった。4分に満たない短い曲の中に、フランスバロックが硬く小さく結晶化していて、この演奏を聴くためだけに音盤を求める価値があると思う。

もちろんそれだけではないのです。
組曲 ホ短調の終曲〈ル・ボーリゥー〉で聴かれる緩やかなイネガルにはただ頭が下がりますし、実に素晴らしいのが、続くミュゼットの模倣の中で自然に踊る花岡氏のふえ(ひらがなはほんとうにべんりだ)。「リコーダー」を「聴く」んじゃなくて、もっと本能的な部分、音が認知される神経に直に触られるような心持ちです。
組曲 ト長調〈アタランタ〉の悪戯っぽい跳ねっ返り。プレリュード ホ短調は寂寥感のポーズさえ取らなくなったみたいで実体がない。そこへ野入さんのリュートが現実味のある苦い音をいくつか放り込んでいるようです。アンサンブル面白いッス。

一度だけ洗足学園で花岡氏の演奏を聴いたことがあります。また聴きたい。
by Sonnenfleck | 2008-01-19 09:09 | パンケーキ(18)