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on the air:インバル/都響 《千人の交響曲》

c0060659_6335271.jpg【2008年4月30日 サントリーホール】
●マーラー:交響曲第8番変ホ長調~第1部、第2部(後半)
→澤畑恵美、大倉由紀枝、半田美和子(S)
  竹本節子、手嶋眞佐子(MS)
  福井敬(T)、河野克典(Br)、成田眞(Bs)
→晋友会合唱団、NHK東京児童合唱団
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団
(2008年6月29日/NHK教育テレビ)

東京時代に最も好きだった、最も足しげく通ったオーケストラが都響だったことを、久しぶりに思い出させてくれる好演でした。

デプリーストがシェフに就任したのと同時に名古屋へ来たため、ここ数年はまったく聴く機会がなかった都響、、このコンサートはぜひ聴きに行ってみたかったんですよ。残念ながら日程も合わずチケットも早々に売り切れたためライヴは叶いませんでしたが、こうして放送してくれたNHKには感謝(稚拙なカメラワークと醜悪な番組構成にも目をつぶろう!)。

+ + +

インバルのマーラーに対しては、小骨が多くて嚥下に苦労するような印象を持っていました。細かな仕掛けの多い演奏、基本的には好きなんですが、ことマーラーに関してはそれ自体の複雑さをストレートに表現するだけで十分じゃね?というスタンスなんですよ。そのため(あえてそういう書き方をすれば)CDで聴いたインバルのマーラーが「賢しさ」を放出するのが厭で、敬して遠ざけていたと。そんな感じです。
しかし番組中でも語っていたように、インバルにとって第8番は特別の作品らしい。
確かに、盛んに口にしていたfestiveという形容詞がそのまま音になっていたんです。

まるっと放送された第1部は、まずその雄渾な流れに驚かされました。
非常に柔和な開始に「あーまたインバル節かよ」と感じたのも束の間、きりりと引き締まったテンポに乗って、太い音の筋がびゅうびゅう流れ始める。ベルティーニのやっていた音楽を思い出して思わず目頭が熱くなりましたよ。ホントに。
いっぽうテクスチュアが薄くなる箇所ではインバルらしいバランスへのこだわりが見え、同時にテンポも緩やかに情熱的になって美しい「澱み」が表出します。この澱みの中に小骨が見えてしまうのが僕の知っているインバルのマーラーだったけれども、この演奏ではあくまでとろりとした蜜状の響きで厭らしくない。なーるほどねー。

第2部は「マリア崇拝の博士」のあたりから。
福井さん始め男声陣は熱演でしたね。女声は澤畑さんと竹本さんが流石の貫禄。
さてもこの後のスケルツォ的シーンについて、インバルの手管と都響の管楽アンサンブルには大きな声で賛辞を贈りたいです。ライヴで、しかもあの快速テンポで、まっすぐ《大地の歌》に流れ込むような煌めきがしっかり表現されるとは。。凄いなあ。。
テノールの「Blicket auf...」から先、音楽がとびきり柔和な表情をしていたのが印象的です。もはや神経質に設計される心配に胸を痛める必要もなく、インバルもオケもステージにいるメンバーがみな音楽に陶酔しているのがよく伝わってまいりました。最後のとびきり下劣なフライングブラボーもこの雰囲気を壊すことはできなかった。

都響の「ニュアンスを汲み取って積極的に表現する雰囲気」は、果たしてしっかりと維持保存されていたように思いました。2004年にみなとみらいで聴いたベルティーニの《千人》と、この日のインバルの造形はやはり様々な面で異なっていたけれど、オケから湧き上がってくる真摯な響きはまったく同じ。安心した。やっぱりこのオケが好き。
by Sonnenfleck | 2008-06-30 06:37 | on the air

狂気のない狂気

幻想交響曲がメインに据えられた、ティエリー・フィッシャー登板の次回名フィル定期。
行けないことが正式に決定いたしました。ががーん。
悔しいからドホナーニ聴いたる。

c0060659_865376.jpg【DECCA/POCL5166】
●ベルリオーズ:《幻想交響曲》 op.14
●ウェーバー/ベルリオーズ:《舞踏への勧誘》
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団

ドホナーニならなんでも誉めるんかよ?な感じを皆さんに与えているかもしれませんが、それはいいなと思ったものしかここには書いてないからです。この前聴いたバルトークのオケコン+弦チェレはキレイすぎてちっとも面白くなかった。バルトークにはある種の凄惨な色使いが必要だと思うんですけど、それから巧妙に逃げてましたもん。スマートだけどずるいよな。

さて幻想交響曲ではそのキレイさが思いっきりプラスに働いてます。
第1、第2楽章は本当にキレイで嘘くさい。よくあるじゃないですか、猟奇殺人の真犯人がスマートで人当たりのいいナイスガイだった、ってやつ。あれです。しかも犯人と誤解されるべき狂気に燃える芸術家青年がここにはいません。いないのが気持ち悪いのです。
第1楽章では冒頭の主題で弦を抑制させるかわりに木管の爽やかなアンサンブルが前面に出して、イデーフィクスの扱いなんか手馴れたもの、そのまま白い歯を見せて苦悩することなく連れて行ってしまいそうです。第2楽章では弛緩しない誠実なテンポを設定し、上手なコルネットが舞踏会の美女を惹きつけて、最後の固定楽想は蕩けるようで、、、嫌だ、、完璧すぎる。比較的似ていると思われるデュトワですら、ここまで嫌味なく善人を演じることはない。。

この演奏で最も面白いのは第3楽章。ここでキレイさが古典的な佇まいと結びつく。
最初の<羊飼いの対話>は誰がやってもあんな感じですが、中間部の古風な折り目正しさからシューベルトを連想しました。中間部の頂点である金管とティンパニの咆哮もあっさりした「ポーズ」として軽く流されちゃうし、この後ベルリオーズが標題性の方向へ進まなかったら、こんなアダージョが据えられた交響曲第2番を書いていたのかもしれません。この曲を聴いてこんな思いに至ったのはこれが初めてだなあ。遠雷の2丁ティンパニもとことん明晰に鳴っていて、何かを描写しているとは到底思えない。

さて虫も殺さぬような顔をした好青年が(そのままの顔で)いよいよ破局に向かって走り出します。第4楽章の行進曲ではクリーヴランド管の圧倒的なアンサンブル能力が全開になって、スマートなイケメンマスクに狂気がじわりと染み出してくる(いくらなんでも揃いすぎ)。第5楽章では「サバトで変容した」イデーフィクスがまさかのノンリタルダンド!変な表情がついたりということもなく、全然グロテスクじゃないのが逆に物凄くグロテスク。あえて期待のハシゴを外すのって、ドホナーニがけっこうよくやる企みですね。
でも「怒りの日」の鐘以降、にわかにトゥッティが粘ついてくる様子が鮮やかです。
それでも小節線が溶けたりはしないので、好青年ついに正体を現して最後の大悪事、という感じ。華麗な最期を迎えるも―アンサンブルは腹立たしいくらい秩序立ったまま。。
by Sonnenfleck | 2008-06-29 08:12 | パンケーキ(19)

on the air:ミンコフスキ/シンフォニア・ヴァルソヴィア(その2)

前回から続きます。

c0060659_7141416.gif【2008年6月20日 ポーランド国立歌劇場】
●モニューシコ:歌劇《ハルカ》から2曲
●オリヴィエ・グレフ:交響曲第1番(BsとOrchのための) op.327
→Wojtek Gierlach(Bs)

●ブラームス:交響曲第4番ホ短調 op.98
  ○アンコール ラヴェル:《亡き王女のためのパヴァーヌ》
マルク・ミンコフスキ/シンフォニア・ヴァルソヴィア
(2008年6月21日/Polskie Radio Dwójka生中継)

休憩中はミンコフスキ:フランス語、吹き替え:ポーランド語、という独特の言語世界にまったくついていけませんでしたが、グレフの名前と一緒にライヒやアダムスの名前が聞こえたんですよね。もしかしたら「これから取り上げるッスよ」っていう話だったのかな?

さていよいよブラ4
ブラームスに欠かせない「脂身」が、痺れるような浪漫が、すっかり除去されてます。
しかし虚心になって耳を傾けると、白身の淡白な魚でも肴にして辛口の酒を味わうようなしっとりとした酩酊感がある。基本的に音価は短く、歌い込みは淡く、アタックも鋭く薄いんですが、フレーズの流れを殺していないので全体は快調のひとこと。
第1楽章も第1主題は探り合うような感じなんですが、経過句から第2主題にかけては爽快な拍節感が浮き彫りになって気持ちがいい。そんな中でミンコフスキは重要なパッセージをわりと大きなダマにして目立たせる方法を用いるために、音のくせに触覚へ訴えかけてくる力が強いんですね。ワルシャワの聴衆もついここで拍手。
ひたすら静謐で透き通った第2楽章。HMVのレヴューでも見られる「ミンコフスキといったら熱狂」みたいな図式はまったく通用しないのがよくわかります。本質的にはこういう音楽をやる人なんだろうな。。オケがちょっとついていけてないけど。
一方で第3楽章はそうした熱狂的なイメージを裏切らないかっとびブラームス。またラモーやヘンデルのところに戻った。どっちが本当のミンコフスキ?

ところが第4楽章は一筋縄ではいかない。
冒頭のシャコンヌ主題が上行ではなく下行にスポットライトが当てられた形で極めて悲劇的に提示されます(トロンボーンやファゴットに強烈な指示が飛んだものと思われる)。ここの終止の古めかしさが後々響いてきて、あのフルートのソロが聴こえるころにはテクスチュアに浮遊感と諦念が満ち始める。
ただテクスチュア自体は透明になっていくのに対し、旋律の表現はどんどん脂ぎってきて、浪漫的に悲観した響きになってくんです。第1楽章の淡白な表現はどこかに飛んでってしまい、最後は「死にたくねえー」って絶叫して事切れるんですな。。あの第2楽章で執着を絶つことができず、享楽的な第3楽章で現世の快楽を楽しんでしまった末路かな。。最後は聴くのが辛いブラームスでした。

しかしてワルシャワの聴衆大喜び。拍手が手拍子になっちゃったので苦笑してたら、思いがけずアンコールで《亡き王女のためのパヴァーヌ》が演奏されてクールダウン。。
このコンビは注目せざるを得ないなあ。来年のLFJではこれまで微妙に軽んじられてきたシンフォニア・ヴァルソヴィアが物凄いピリオド・アンサンブルとして帰ってくるかもしれない。
by Sonnenfleck | 2008-06-27 07:15 | on the air

on the air:ミンコフスキ/シンフォニア・ヴァルソヴィア(その1)

エアチェックってやっぱいいよなあ。昔の感覚を取り戻してきたよ。

c0060659_6351220.gif【2008年6月20日 ポーランド国立歌劇場】
●モニューシコ:歌劇《ハルカ》から2曲
●オリヴィエ・グレフ:交響曲第1番(BsとOrchのための) op.327
→Wojtek Gierlach(Bs)
●ブラームス:交響曲第4番ホ短調 op.98
  ○アンコール ラヴェル:《亡き王女のためのパヴァーヌ》

マルク・ミンコフスキ/シンフォニア・ヴァルソヴィア
(2008年6月21日/Polskie Radio Dwójka生中継)

LFJでおなじみのシンフォニア・ヴァルソヴィアの新しい音楽監督に、なんとミンコフスキ。
ちょうどGW明けくらいにこの情報が出回ってけっこう吃驚したんですが、早くもそのコンビのライヴを聴くことができました。いつものように坂本くんさんの番組表で見つけて、さっそくポーランド放送にアクセス。「.pl」に踏み込むのは初めてだなー。

まずモニューシコ。ポーランド国民楽派の祖。
その代表作であるオペラ《ハルカ》の、おそらく序曲とどこかの前奏曲か間奏曲が続けて演奏されます。スメタナとやや湿り気を帯びたロッシーニが握手をしてるような、力強くもどこか切ない旋律を押し出してきます。モニューシコ。
ポーランド放送はあんまり音質がよくないので細部まで判断を加えるのは難しいんだけど、特に2曲目は後半からラモーのように陽気で単純な舞踏が乱入してくるナンバーでして、湿気を一気に吸収してあっけらかんと大団円に持ち込む「乾燥ぶり」はいかにも(特にバロックをやるときの)ミンコフスキ。強く乾いたアタックの裏で木管をひゅーひゅー鳴らすのも◎。先日聴いたカルメン+アルルの女よりはずっとバロックに近いところで演奏してる感じがします。
オケは、コルボのシューベルトで聴いた時点と比べると段違いに軽量化が図られた模様。

続いてグレフ Olivier Greif (1950-2000)の交響曲第1番
ポーランド系ユダヤ人の両親のもとパリに生まれたグレフは、パリ音楽院とジュリアード音楽院で学び、主にピアノ曲と声楽曲で知られているらしい。僕は寡聞にして存じ上げない。
この交響曲は彼の最晩年である1997年に作曲されています。
バス歌手が歌うのは、パウル・ツェランのドイツ語詩。
曲調は、、、、これは《バービィ・ヤール》の正当な末裔でありました。テキストの内容はあまり聴き取れないんですが、ツェランの詩ということはきっと救いのない内容であるだろうし、グレフをして作曲せしめた何かがあると思われる。何より、晩年のショスタコーヴィチにまったく酷似した暗い調性感に基づく語法で、しかしショスタコにあった冷笑と幽かな希望をすっかり消し去って、どんよりと濁った視線をこちらに投げかけてくるんですな。
これは演奏がどうこうという作品じゃない。ひたすら重い。

+ + +

長くなりそうなのでこの辺でいったんお開き。その2へ続きます。
by Sonnenfleck | 2008-06-26 06:40 | on the air

デ・ゼッサントも大絶賛

c0060659_638093.jpgペプシの反社会的ジャンクドリンク。

昨年は「ペプシアイスキューカンバー」草叢の味キュウリ味を追求してくれましたが、今年は色彩工業魔術を用いて「ペプシブルーハワイ」をどどどんと発売。コンビニの棚が眩しいよ。

縁日の「かき氷ブルーハワイ」って、その一晩のその氷が溶ける間までの僅かな時間のみ存在することを許されてるんであって、あれが永続的な液体としてペットボトルに閉じ込められている姿は悲惨としか言いようがない。でも、それと平行して悪意を伴った喜びの感情が湧き上がってくるのはなぜでしょうね。この新しいジャンク横綱がマックのメガシリーズと同じ路線にあるのは間違いなく、こうした路線のものを購入することでエコとロハスとヘルスケアへ反逆したつもりになるからじゃないかなーと思ったりする。
夜の闇の中ではなく明るい蛍光灯の下で手に取ってまじまじと眺めると、本当に笑ってしまうくらい青いんですよ。真っ青な人工楽園。

サイダー味に軽くパインの風味。そして一生分の青色1号を摂取した。
by Sonnenfleck | 2008-06-25 06:46 | ジャンクなんて...

「BCJのブランデンブルク」全曲演奏会@名古屋

【2008年6月22日(日)16:00~ しらかわホール】
●バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1~6番 BWV1046-51
→島田俊雄(Tp)、トーマス・ミュラー、オリヴィエ・ダルベレイ(Cor)
  山岡重治、向江昭雄(Rec)、菅きよみ(Ft)
  三宮正満、前橋ゆかり、尾崎温子(Ob)、功刀貴子(Fg)、
  寺神戸亮(Vo-pic、Vn、Spl)、
  フランソワ・フェルナンデス(Va、Spl)、ディミトリー・バディアロフ(Vn、Spl)、
  若松夏美(Vn、Va)、高田あずみ、パウル・エレラ(Vn)、
  森田芳子、成田寛(Va)、秋葉美佳(Vn、Va)、
  福沢宏、武澤秀平(Gam)、山本徹(Vc)、西澤誠治(Vo)
⇒鈴木雅明(Cem)/バッハ・コレギウム・ジャパン


豪華メンバー。と同時にいろいろ考えさせられるコンサートでした。

今回の企みとして、開演前に雅明氏から簡単なレクチャー。
■ バッハが「ヴィオロンチェロ」と指定してパート譜を書いたのは、今日知られるVcのためではなく、肩に乗せる小さなVcのためであったと思われる。その頃の文献にも「Vcは最近膝で挟んで弾かれ始めた」という記述がある。従って今回は第2、3、4、6番をヴィオロンチェロ・ダ・スパラで弾くこととする。
■ 第3番は「3」にこだわって作曲されている。2つの和音しか書かれていない第2楽章をどうするかで演奏解釈が分かれているが、今回は実験として《3台のCemのための協奏曲》BWV1064の第2楽章を転調してここに当てはめる。

+ + +

…今回出かけてよかったなあと思った理由のひとつに、スパラがそんなに好きじゃないのがよくわかったということが挙げられます。この楽器に過度の期待をしなくてもいいというのが自分の中で了解されたように思う。スパラファンの皆さまにはとても申し訳ないんですが、当ブログは今日からアンチスパラ派です。。
Vcが弾いていたパートをスパラに置き換えると何が起こるか?

★メリット:何より足回りが軽くなる。技巧的なパッセージがスムーズに飛び出す。
       音量が慎ましく、リコーダーやチェンバロを踏み潰さない。
★デメリット:音の立ち上がりから減衰まで終始モヤモヤしてキレが悪い。
        Vcに比べると表現可能な音が少なめ(のように聴こえてしまう)。

たとえば第3番第3楽章の3人スパラ。確かに皆さん腕が立つし、華麗な速弾きを目指してはいた。いたけれども、おそらく楽器の性質のために音の立ち上がりが素直じゃなく、結果的に他のパートから微妙に遅れて聴こえるという悲劇に見舞われてたんですよね。
音量の「バランス」で言ったら確かに優れている。第2番第4番でリコーダーを塗り潰してしまわない淑やかさは新鮮であったと言えます。でもほとんどの場合はそれが裏目に出てしまって、まったく物足りない第3番は上の声部を支えきれず梯子を下から外されたような気まずさが漂うし、せっかく第3楽章に華やかなVcソロが用意された第6番も、あの渋い音域の中ではいるのかいないのかよくわからないような状態。うーむむ。

Vcの表現力でスパラにできることは大概できてしまう、と考えるのは誤りでしょうかねえ。面白い楽器であるのは間違いないけど、はたして大管弦楽の中で生きる楽器だろうか、と思う。
たとえば音量バランス的にFlソナタ、あるいは(バッハから離れるけど)ヴィヴァルディのVcソナタのように、ソロVcの他に通奏低音Vcがいて謎な音響になっちゃう作品とかに適用したらすげーよさそうなんですけどね。

+ + +

というのを踏まえますと、今回は西澤さんのヴィオローネに殊のほか酔いしれた2時間半であったことです。
ヴィオローネは普段なかなか注意が行き届かない楽器で、今回のようにほぼ一人でアンサンブルの重低音を担っている様子は新鮮。雅明氏の設定するテンポは意外とどっしりしていましたが、それを支えて丈夫な杭を打ち込んでいくのが今回の西澤さんの役割でした。しかも耳を澄ますとヴィオール属らしいエロティックな音で色んなことをしているのでドキドキしましたね(コントラバスではもうヴァイオリン属に近すぎる)。第6番では6人の弦楽器の中央にでんと構えてノリノリ。

+ + +

長くなりますが、全曲演奏に触れる機会はそんなにないので短く感想文を。

■第1番 豊潤ではもう足りなくて、豊満の領域に達している。
最大編成だったというのもあるけれど、僕は冒頭のこの曲がこの日の白眉だったと思います(ミサ曲や受難曲を演奏するBCJと同列にするのはおかしいので、ここで「すわBCJシフトチェンジ」とか語るのはたぶん無理)。三宮さん率いるOb3人衆とコルノ・ダ・カッチャ2人組、そこへFgが加わり、とろけるような絡み合いにTKO。

■第2番 山岡さんがソリストになってることに吃驚。BCJ的には「超有力外様大名」なんじゃないんですかね。彼の音は力強くて優しくて、凝り固まったところがまったくないではないBCJの響きを解きほぐしてました。やっぱり山岡先生すごい。

■第3番 上に書いたように、アンサンブルの中ではスパラの3人がちょっと冴えない。雅明氏は煽るけど…。素直に森田さんのVaに萌えておくことにしましょう。

■第4番 これも山岡さんが凄いのでしたが(リコーダーってアンサンブルの中であってもあんなにブリリアントな音が出る楽器なのね…)、さらにその上へ若松さんのVnソロの超絶技巧が炸裂して大変エキサイティングなことに。

■第5番 ここまで弾き振りスタイルで縦置きだったチェンバロが90度回転して横置きとなり、雅明氏はソリストに、弾き振りはVnソロの寺神戸さんの役目に。やっぱ寺神戸さんはVnが似合うよ(ただ第3楽章で謎のエアポケットがあったように感じたんですが、、真相はいかに)。トラヴェルソの菅さんはちょっと弱いかなと感じなくはなかったけど、第2楽章のかそけき風情が大変よかった。
そして肝心の雅明氏はと言うと…いやいやいや…。これはひねくれ者と呼んでくれさんの「中年暴奏族」という表現がピッタリはまりすぎてるので勝手に拝借いたしますです。すいません(←ちゃんと走り屋じゃなく奏で屋になってるのが可笑しい)。激しくかっ飛ばしつつエッジの効いた装飾を混ぜ込むので、ちょっとランペを思い出しました。

■第6番 ずっとスパラを弾いてたフェルナンデスがついに1stVaを手にしまして、ちゃきちゃきした気持ちのいいソロを聴かせてくれる。寺神戸さんのスパラがあんまり聴こえなかったのは残念。スパラの駆動性の良さを踏まえて、第1楽章や第3楽章でもっとアグレッシヴに攻めてくるかなと思いきや、比較的趣味のいいところに留まってましたねえ。

+ + +

2週間にわたる演奏旅行もこの日が千秋楽、ステージにずらっと並んでカーテンコール。
お疲れさまでしたー。いろいろあったけど楽しいひと時でしたよー。
by Sonnenfleck | 2008-06-23 06:52 | 演奏会聴き語り

そうだった

c0060659_1325119.gif今夜19時20分からNHK-FM「オーケストラの夕べ」で、5月25日の「ボッセ教授の大バッハⅣ」ライヴが放送されるんでした。かつてのFMシンフォニーコンサートと同様に東フィルアワーと化している同番組、名フィルはようやく初登場じゃないですかね。冴えない部分もあった演奏会ですが…まずは皆さまお聴きください。感想文はこちら

これからBCJのブランデンブルク全曲演奏会に行ってまいります。古楽器にはまったくうってつけの湿度ですね!
by Sonnenfleck | 2008-06-22 13:30 | 日記

アリシアおばさんのビスケット

来月の名フィル定期、新しい親方のティエリー・フィッシャーが(ようやく!)登場。
でもそのプログラムが、ちょっと不気味なんですよ。
●ホリガー:《トーンシェルベン》(日本初演)
●ラフマニノフ:Pf協奏曲第3番ニ短調 op.30
●ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14
これまでの3回の定期、すべて意味があってあのブッ飛んだ選曲になっていたというのがわかってきたんです。ならばこの組み合わせは?ホリガーとラフマニノフを並べる理由は?ラフマニノフからベルリオーズにつながる理由は?
…考えても今回は全然わからないので、とりあえずラフマニノフの予習しとこうか。

c0060659_814257.jpg【DECCA】 <ラフマニノフ>
●Pf協奏曲第3番ニ短調 op.30
→アリシア・デ・ラローチャ(Pf)
⇒アンドレ・プレヴィン/ロンドン交響楽団
●同第1番嬰ヘ短調 op.1
→ピーター・カティン(Pf)
⇒サー・エイドリアン・ボールト/
  ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団

ラローチャには、2003年5月のフェアウェル・コンサートで(文字どおり)ぐずぐずに泣かされた思い出があります。あのときは確か紀尾井シンフォニエッタの定期に彼女が登場する形で、もともと前半に置かれていたモーツァルトの第23協奏曲が急遽後半に回されたように記憶している。紀尾井ホール全体が異様な雰囲気に包まれていて、隣の兄ちゃんも向こうのおばさんもみんな泣いていた。そんな記憶がラローチャに特別の思いを抱かせます。

この録音を誉めている文章は一度も見かけたことがないんですが、たぶんそれは、ラフマニノフの第3協奏曲に対してフツーの愛好家が期待する快刀乱麻の第3楽章が、まったく柔和な表情をしているからだと思う。僕が持っているこの協奏曲のCDはただこれ一枚きりなので比べようもないんだけども、アルゲリッチとかギレリスとか、バリバリ弾いてしまうであろう名人の演奏にはそんなに興味が湧かない。
ラローチャの演奏の、どこがどういいのか―。この長い録音を通して聴くと、第2楽章のほのかな甘みに惹きつけられるんです。バリバリ派の人々は物凄い量のホイップクリームでデコレーションしていそうな楽章ですけど、ラローチャはあくまで家庭的な微糖。サクサクしたビスケットの歯ざわりが感じられるような気持ちのよいタッチです。

第3楽章のコーダについても風呂敷が広がらない。抑制の効いたプレヴィンのセンスにラローチャの清廉な音が重なって、見栄っ張りにならずに気持ちよく終わってくれる。ロンドン響の音はあんまり魅力的ではないが、却って現実的だな。
by Sonnenfleck | 2008-06-21 08:16 | パンケーキ(20)

on the air:ティチアーティ/メルボルン響のシベ5

c0060659_763423.jpg【2008年6月16日 メルボルン・ハマーホール】
●ブリッジ:《海》
●ショパン:Pf協奏曲第2番ヘ短調 op.21
→エマニュエル・アックス(Pf)

●シベリウス:交響曲第5番変ホ長調 op.82
⇒ロビン・ティチアーティ/メルボルン交響楽団
(2008年6月16日/ABC Classic FM 生中継)

聴衆がラジオの向こうで「ぅぶぉわああぁぁ」と叫んでいる。
拍手が止まらない。アナウンサーも声が上ずる。
あー…今日からティチアーティ追っかけよう。

+ + +

要するに、ムード満点の絵葉書みたいなシベリウスはごめんです。
でも棘が刺さってくるような神経質なシベリウスも嫌。どうだろう?ティチアーティは。
ティチアーティは、呼吸するようにしなやかなシベリウスを作っていました。

まずテンポ。よく動くんだけど、加速と減速に余計なエネルギーを消費しないんですよ。
普通の演奏であれば加速時にブウウンと唸ったり、ムリヤリ減速した際にキキーッと叫んだりするような、そういう箇所が信じられないくらい滑らか。具体的には第1楽章のコーダ、右から左から大波が来るところにするっと乗っかって、最後の音符までひとすべりでした。なんだろうこのテクニックは。魔法のようだ。横方向に対する強靭なセンス。

次に音の重層構造で遊んでしまう余裕。
シベリウス、平べったい原っぱにカラフルな建物が分散している、というのであればわかります。というか僕が知っていたのはそんなシベリウスだった。新奇な建物を建てたり、重厚な物件を保存したり、ペンキで外壁を塗ったり。。でもティチアーティは一気に縦方向へ響きを引っ張り上げて色の重なりを聴かせる。見上げるような高さ。
たとえば第3楽章冒頭のホルン隊を大胆に拡大して土台にし、その上で脇役だった木管のざわめきを主役に立ててしまうんですな。空気は一瞬、抽象表現主義みたいに華やかなガチャつきを見せますが、それが当然であるかのような滑らかなアゴーギクにすぐ包まれて、フォルムはカオスになりません。マイッタマイッタ降参ダ。

そして何より聴いていて楽しい。心が晴れ晴れとするような明るい響き。
上述したように細部はとことん造り込まれているにも関わらず、全体は爽快な音楽になっているのです。無邪気な懐古趣味でも、疑り深い分析主義でもなく、こんなに素敵な演奏を聴かせてくれる指揮者が世界にどれくらいいるでしょうか。そんな指揮者がまだ25歳で、これからどんどん活躍の場を広げていこうとしているんです。
こればかりは文章で表すのは至難でありますから、このライヴがABCや他の放送局で(あるいはNHK-FMで!)再放送されることを願うばかり。番組表でこの生中継を教えてくださった坂本くんさんには、いくら感謝してもし切れません。
by Sonnenfleck | 2008-06-20 07:16 | on the air

晴読雨読:千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』

c0060659_7152928.jpg千田稔『伊勢神宮―東アジアのアマテラス』、2005年、中央公論社

五章立ての論点がどうもはっきりしない。
一章と二章では天照大神(アマテラス)の成立について延々と不親切な話を進める一方、三章では江戸末期までの神国思想を語り、四章では明治から終戦までの伊勢神宮史、五章では戦中の植民地における神社建設と神道崇拝について、、といかにも散漫な印象。

特に前半三章は(こちらの不勉強もあるけど)、「当然これぐらい知ってるでしょ?」というスタンスなのか定説と持論の区別をはっきりと書かない。そのために文章がゆらゆらと揺れ、まったくわかりにくいんですね。道教と土着の信仰の融合ってせっかく面白そうなテーマなのに…何のために新書の形態をとっているのか、作者氏はもうちょっと意識した方がよかったんじゃないでしょうか。一二三章だけで一冊にしちゃえばよかったのに。

でも、四章と五章は素直に面白いんです。
明治2年の天皇伊勢行幸に始まる、国家神道への変容過程。これは基本的な事実を平易に著述してくれているのでわかり易い。特に第5章で語られる「植民地での国家神道浸透政策」はこれまでまったく知る機会がなかったもので、台湾神宮・朝鮮神宮・満州建国神廟の建設エピソードは興味深いの一言だなあ。
朝鮮神宮の建設時、在野の神道家から次のような意見書が提出されたらしい。すなわち「朝鮮の神宮に日本の始祖である天照大神と明治天皇を奉り、朝鮮の神を無視するのは変だから、朝鮮の始祖たる壇君と朝鮮王家の先祖を奉るべきだよ」云々。―なるほどねえ。神社に奉られるのはその土地と関係が深い神、というのはある意味では当然の考え方だから、植民地の神社にもその考えを適用すべきということでしょう。こういう冷静な視点も混ざっていたんだなあ。
でも結局、奉られたのは天照大神と明治天皇だったわけです。ううむ。

伊勢神宮のことをコンパクトに知りたい人にはまったくオススメしませんが(僕も別の本を探してみます)、植民地における神道に関しては参照すべき文献になっていると思います。
by Sonnenfleck | 2008-06-19 07:25 | 晴読雨読