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精神と時のお買い物XIII

日曜日、オーチャードホールへ行く前に、ほぼ1年ぶりの渋谷塔でした。今回はオススメされたりブログで推薦文を拝見したものを中心にざーっと回収。

【TOWER RECORDS 渋谷店】
1 ラモー:コンセールによるクラヴサン曲集(Alpha) *クロッシュ氏の音楽隊
2 ヘンデル:水上&王宮の花火の音楽(GLOSSA) *ニケ/コンセール・スピリチュエル
3 バッハ:Cem協奏曲集(L'OISEAU-LYRE) *ダントーネ/アカデミア・ビザンティナ
4 ベートーヴェン:交響曲第1&3番(DHM) *シュレーダー/スミソニアン室内管
5 ヴォジーシェク:交響曲ニ長調他(DHM) *ヘンゲルブロック/DKB
6 ストラヴィンスキー:春の祭典(TUDOR) *ノット/バンベルク響
7 ショスタコーヴィチ:交響曲第10番(BC) *ヘルビッヒ/ザールブリュッケン放送響
8 メシアンへのオマージュ(DG) *エマール

予習用の2。kimataさん大推薦の3、marutaさん大推薦の5。
⇒これまでになく和音を聴かせるハルサイという6。
⇒涼しい顔をして並んでいますが、実はこの曲の数少ない「新録音」である7。
⇒試聴して電撃的に素晴らしかった8。

+ + +

脳はこの瞬間にも憧憬の動機や愛の死の動機を一斉に歌っているのですが、内面の音楽で肌を粟立たすことができる以上、外に音楽を求めるのはいつのことになるのでしょうか。
クルマの中でも、帰宅して就寝前にも、結局何も聴けず…。
by Sonnenfleck | 2008-07-31 06:27 | 精神と時のお買い物

パリ国立オペラ 《トリスタンとイゾルデ》 その1

c0060659_6303781.jpg【2008年7月27日(日)14:00~ オーチャードホール】
●ワーグナー:楽劇《トリスタンとイゾルデ》
⇒ピーター・セラーズ(演出)
⇒ビル・ヴィオラ(映像)
→クリフトン・フォービス(T/トリスタン)
  フランツ=ヨーゼフ・セリグ(Bs/マルケ王)
  ヴィオレッタ・ウルマーナ(S/イゾルデ)
  ボアズ・ダニエル(Br/クルヴェナール)
  エカテリーナ・グバノヴァ(S/ブランゲーネ)
  サムエル・ユン(Br/メロート)
  アレス・ブリシャイン(T/牧童・若い水夫・船乗り)
  ユリ・キッシン(Bs/舵手)
→アレッサンドロ・ディステファノ/パリ国立オペラ合唱団
→セミョン・ビシュコフ/パリ国立オペラ管弦楽団


何から書いていいのかわかんないや。。整理しきれないのでそのまま字にしてしまいます。
今回ばっかりは自分のための記録を書くので、乱文ゴメンナサイ。

ずぶずぶぐずぐずに泣かされたという意味では、今回を上回る体験はこれまでない。
第3幕の最後の10分間はハンカチで口を押さえて嗚咽が漏れないようにするのに必死だったです。それは今回が人生初の生トリスタンだったせいもあるし、壮絶に美しいビル・ヴィオラの映像に酔ったせいもあるし、オケが色気のある音を放出していたせいでもあるし、ヴィオレッタ・ウルマーナのマジなイゾルデに動転したせいもあるだろう。

+ + +

■演出(セラーズ+ヴィオラ)
まさしくビル・ヴィオラによるトリスタン解釈のために用意された演出でした。

「舞台」と書くのが妥当なのかわからないくらい簡素な仕えで、キングサイズのベッド程度の黒い台がひとつふたつ存在するだけです。衣裳も黒い地味な作り、イゾルデが黒いドレスを着ているくらいで、トリスタンはそこらのおっさんのような化繊のジッパー付きコート(第3幕では病院着のような白装束)、クルヴェナールに至っては灰色のTシャツ+ジャージ。
演技なんかもごくあっさりしたもので、心情吐露は基本的に棒立ちなんですよ。魔酒の杯を飲み干すときも愛を為すときも剣で敵を刺すときも、やれやれどっこいしょ…ってな感じで最小限の仕草しかしない。

そのかわり、、後景を占有する巨大なスクリーンが世界のすべてを映し出すのです。

◆第1幕
1.前奏曲が終わって幕が上がると、荒れ狂う海、灰色の波しぶき。
2.同じ大きさの2つの額縁(中にはいかにも制作された広大無辺な空間が広がっているが、地平線に明かりを受けた点がそれぞれ見える)。
3.徐々に点が大きくなってゆき、それがこちらへゆっくりと歩いてくる男女だとわかる。
彼らは接近しきって額縁から飛び出す。
4.男女は別々の部屋に入り、東洋風のゆったりした服を脱ぎ始める。
それぞれの部屋には老人と老婆がいて、それを手伝う。
5.一糸まとわぬ全裸になると、彼らは流れ落ちる二本の水を手で結び、あるいは盥に張った水に顔を浸し、老人と老婆によって甕の水を頭から掛けられたり―要するに浄められる。
6.イゾルデがブランゲーネに薬酒の企みを明かすあたりから映像が一旦消える。
しかし2人が媚薬を飲み干した箇所のトリスタン和音に合わせてスクリーンが光り、男女が一緒に水へ飛び込む映像が「水底から捉えられる」。
7.コーンウォールへの到着とともに再びホワイトアウト。1階客席の最後列に合唱が一直線で並び、マルケ王が1階中央扉から入場、舞台のトリスタンとイゾルデを一瞥。暗転。
⇒当然だけど、音楽は映像に合わせて展開するのじゃなく、誰かが音楽の展開を耳にしてその場で映像を切り替えているようでした。スコアも台本も完璧に読み込まないとこんな映像は作れないし操れないだろう。
愛の薬酒が体を巡って、トリスタン和音が鳴った瞬間に男女が水へ飛び込む。ぞっとさせられる。これ以降は暗い水中のお話なのだ!ただし秘教的な浄めの映像については少し疑問が残ります。「水中」を予感させる仕立てにしては具象的すぎて、音楽の領域を侵していたようにも思えました。
◆第2幕
1.黄昏の森。日はすぐに落ち、森は幾本ものサーチライトで探索される。
2.燃え盛る巨大な火柱。
3.暗い背景からゆっくりと近づく男。やがて火柱に辿り着き、薪を蹴飛ばしながら通過。
4.無数に並ぶ燭台のひとつひとつへ火を点す女。
5.見つめ合う男女。そこで赤外線カメラのような粗い映像へ切り替わり、ぼやけ、曖昧にされ、きっと音楽と同じものが映像でも展開される。
6.浜辺から入水する男女。
7.月明かりと夜の森
8.クルヴェナールの叫びとともに不気味な暁闇の森の遠景へ。メロートの告発とマルケ王の独白とともに夜は白々と明けてゆき、朝焼けに巨樹が黒く浮かび上がる。
9.明るすぎる陽光の下で刺されるトリスタン。暗転。
⇒当初、火に対する男と女の違い(3. 4.)。
トリスタンは「今」激しい衝動に駆られていたし、イゾルデは「これから」どうしていけばいいのかという点に関して心を整理しようと試みていたと思うのです。しかし音楽の昂ぶりとともに男女の考えは融合し、映像でも身体と空間が溶け合って「水中のように」判別がつかず、時間の反復や省略が起こる(5. 6.)。そして夜明けにより現実が侵入してくると、太陽の昇り方からして、この時間は収縮することなく流れる(8. 9.)。
◆第3幕
1.これまで横長だったスクリーンが縦長に。
2.灰色の海、冬枯れの木立、ぼやけて曖昧な城や領地。
3.前二幕ではなかった赤い水の映像が頻繁に流れる。藻、着衣のまま泳ぐ女の姿。
4.陽炎の立つ、明るく暑い大地の向こうから、だんだんと近づくヴェールの女。女はイゾルデの到着とともに高い火柱を背にして鮮明に立ちはだかり、そして倒れる。
5.トリスタンが事切れると、黒い台座に横たわる男の映像に切り替わる。メロートの死も、クルヴェナールの死も、映像はついぞ関知しない。
6.「愛の死」とともにもはや何もないはずの男の体から水泡が立ち昇り、それは徐々に流れとなって上昇を始める(ここは水中だったのだ!)。呆然とスクリーンを見上げるしかないマルケ王とブランゲーネ。イゾルデのクライマックスとともに激しい水流が男の体を持ち上げ、遥かに高いところまで持ち上げていく。水面を抜け、夜空まで。暗転。
「みなさんには見えないのですか」というイゾルデの言葉、これが楽劇《トリスタンとイゾルデ》を、最後の最後で額縁から解放するわけです。
(ここで初めて、それまでスクリーンの存在を完全に無視してきたマルケ王とブランゲーネが映像を凝視する。でも、ここで言う「みなさん」が彼ら登場人物だけを示しているのではないというのは、愛の死を歌うイゾルデをまっすぐ客席の方を向かせて直立不動にしたことからも十分に窺い知れる。)
ものがたりの額縁から音楽がするりと抜け出てくる瞬間を、ビル・ヴィオラはあえて見えるようにした。「野蛮な」視覚を経由してもなお美しい音楽。

+ + +

続く、かなあ。
by Sonnenfleck | 2008-07-29 07:06 | 演奏会聴き語り

夜が明ける昼が来る

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―Muß ich wachen?
―Nie erwachen!

昨日、ピーター・セラーズとビル・ヴィオラの《トリスタンとイゾルデ》を渋谷へ聴きにいきましたが、いまだ何も言葉にならず、映像と音楽が頭の中で渦巻いています。
感想文なんて書けるんだろうか?いつか?
by Sonnenfleck | 2008-07-28 07:06 | 日記

ヘテロフォニー蝉ら

あちぃ。蝉で目が覚める。
あちぃ。しかしそこで涼しい音楽ってのは逃げである。

c0060659_659224.jpg【DECCA/UCCD-1127】
●グルック:《オルフェオとエウリディーチェ》
  ~〈エウリディーチェを失って〉
●ヴェルディ:《王国の一日》
  ~〈かくも長き嘆きの日々があわれみを誘う〉
●ロッシーニ:《セミラーミデ》~〈運命はかくも甘く〉
●ドニゼッティ:《連隊の娘》
  ~〈ついに私はここに来た…歓待?尊敬?賞賛?名誉?〉
●アレヴィ:《ユダヤの女》~〈はるかなる友の声〉
●ロッシーニ:《アルジェのイタリア女》~〈一人の美女のせいで疲れ果てて〉
●ヴェルディ:《リゴレット》~〈風の中の羽のように〉
●チマローザ:《秘密の結婚》~〈いつか夜明けの空に〉
●ドニゼッティ:《ルクレツィア・ボルジア》~〈この穏やかさ…私が所有権を証明したとしても〉
●プッチーニ:《ジャンニ・スキッキ》~〈ひどい過ちだ!…フィレンツェは花盛り〉
⇒フアン・ディエゴ・フローレス(T)
→カルロ・リッツィ/ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団&合唱団

先だって行きつけのBOOKOFFで見つけ、この人名前知ってる!魚の骨が喉に刺さった人だ!と思って買いました。夕食のイワシだかアジだか知りませんが、彼の喉を通過し損ねた魚が僕と彼とを結びつけたのであります。(大抵の人はたぶん別ルート。)

暑さに弱った耳を彼の声に浸していてわかったのは、これまで明らかに敬遠してきたイタオペ、なかんずくベルカント・オペラが、実はバロックを聴いて楽しんでいるときとそんなに遠くない部分を経由して脳に届いているんじゃないかということ。
華麗な装飾をぶらさげながらもハイスピードな通奏低音を聴いてうひょぉーっとなっているときと、ロッシーニやドニゼッティが書いた渾身の山場たちが易々とクリアされていくのを聴いて惚れ惚れとするのとでは、そんなに変わらない。藝術というよりは芸事、受信する側もある種のあざとさが快感になっているわけで。

フローレスの声は脂っこくなくて、つまり俺様テノール様な押し付けがましさがなくて、しかし一方で派手に技巧をキメるのでちゃんとあざとくもある。降り注ぐ真夏の太陽にも負けず、わが庵を大音量で揺るがす蝉にもかき消されず、すぱーんっと立ち上がってまいります。
いつか読響でシューマンを振って、きわめて品のない演奏を聴かせてくれたカルロ・リッツィも、ここではいい意味で浅くノリよく手堅い響きでもってフローレスを伴奏。
by Sonnenfleck | 2008-07-27 06:59 | パンケーキ(19)

終業式

シンプルながら(シンプルだから?)あちこちで話題沸騰のブログ通信簿
直近10件のエントリの内容を解析してる(らしい)ので、無責任な「××メーカー」とは一味違う本格派らしいですよ。さっそくやってみた。

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55歳男性っすか。マジっすか。
文体のせい?「ぁたしゎ、ラモーが好きなんだとぉもぅヵら。」といった風に記述しましょうか?
そして今さら一次表現者になれという指摘も。こっちのがツッコミとしては厳しい。
by Sonnenfleck | 2008-07-25 06:40 | 広大な海

ジョージはみずいろ

c0060659_6432333.jpgどうなんすかこれ。
ポール・モーリア・グランド・オーケストラかと思って近寄ったらル・コンセール・スピリチュエルの名古屋公演のチラシで、しかも「フランス・バロック・オーケストラ」なる謎の呼称が大書されてる。

広告代理店にイージーリスニング系オーケストラのチラシデザインの雛型みたいなのがあって、そのまま当てはめちゃいました♪という感じがする。ちなみに大阪公演東京公演と比べてみると、名古屋公演のデザインがいかに飛び抜けてダサいのかがよくわかります。確か鈴木淳史氏がコンサートチラシに的を絞ったマニアックな本を出してましたが、これなんか各都市圏の主催者によるセンスの違いがはっきり現れた好例なんではないかと。いやはや。。

と文句は言いながら、名古屋を飛ばさないでくれたニケと、引き受けてくれた中京テレビには感謝してもし切れない。数年前に潰れた来日公演の敵討ちと思って、ぴあのプレリザーブを使って確と座席を押さえましたです。彼らのヘンデルは実は聴いたことがなくて、ニケはもっぱらシャルパンティエやリュリの人として捉えておりますが、管楽器大隊が投入された80名の大所帯で果たしていかなる響きとなりますやら…。
by Sonnenfleck | 2008-07-24 06:45 | 日記

セントラル愛知交響楽団 第93回定演

ちょっと遅くなりましたが、先週末に出かけたCASOの定期。

c0060659_623066.jpg【2008年7月18日(金)18:45~ 愛知県芸術劇場】
●ロッシーニ:《セミラーミデ》序曲
●ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 op.43
  ○アンコール 同:《楽興の詩》 op.16~第1番変ロ短調
→小菅優(Pf)
●同:交響曲第2番ホ短調 op.27
⇒小松長生/セントラル愛知交響楽団


出かけたのに感想文を書かなかった演奏会ってのが実はいくつかあってです。昨年初めて聴いたセントラル愛知響の定期(07年1月)もそうで、まあいろいろ思うところがあったんだけど、ここでは詳述しません。
気鋭の親方を迎えて華々しく独自路線を突っ走る名フィルに対し、その陰に隠れた格好のこのオケは、今やちょっと微妙な立場に置かれていると思っていました。少なくともプログラミングで見るとN響も真っ青な保守本格派なわけで、彼ら自身はそれをどう感じているのか、演奏から示してくれるのだろうかと思っていたところではあったのです。今回も、

「まなつびに なべやきうどん おいしいな」(お~いお茶新俳句大賞 小学生の部)

みたいなプログラムで、完全に当方の範疇外ながら、しかしこの定期は素晴らしかったと自信を持って言えます。特にメインの交響曲第2番に関しては、この作品に対する姿勢を改めなければならないなと思わせる出来でした。こっちの方を先に書きましょうか。

つまり、去年名フィルで聴いたときからの疑問がするすると解明されたのでした。確かに込み入ったテクスチュアで、この感想文でもどこがどのようによかったと書くのは難しいんだけど、ちゃんとした理念を持って序列付けすれば視界は開ける作品なんだということは十分に理解された。プログラムによるとラフマの2番は音楽監督・小松長生の勝負曲らしく、起伏の豊かさや彫りの深さはフライシャー+名フィルの比ではない。彼の内部で作品がよく咀嚼されたうえそれを実現しようとオケが積極的に立ち回り、結果として「オシゴト」だった名フィルの演奏とは異なって白熱した展開に。
セントラル愛知響がトゥッティとして纏まったときのテクニカルなレベルは、確かに名フィルから多少の溝を開けられているように思います。でも虚心坦懐に聴くと、この日は名フィルに引けをとらないどころか、たとえ東京に行っても満杯のサントリーホールを熱狂させるだけの威力を持ったパフォーマンスだったんじゃないかな。それに小松氏特有の濃~い味つけを積極的に汲み取ろうとする彼らの姿勢、よく伝わって来るんです。白けてないっていうか。

さて各方面で絶賛の声を目にするピアニスト、小菅優ですが、ううむ…凄い…。
ラフマニノフの、アンコールで弾かれた《楽興の詩》第1番がとにかく絶品でした。彼女は子音の力強さと威力とをよく心得ていて、抒情に苦々しい縁取りを施す。彼女の演奏なら《楽興の詩》の全曲を聴いてみたい。
しかしパガニーニの主題による狂詩曲、こちらはオケとの齟齬が目立って残念な結果になりました。どちらが悪いというのではなく、たまたま両者の音楽性が相容れないものであったためでしょう。ピアニストは曲線を描いて目的地までひとっ飛び、かたや指揮者とオケは直線で一画一画を疎かにしない。どちらもそれはそれでアリですから、あー平行線を辿ったなという感じ。両者は拍手を浴びてがっちり握手を交わしていましたが…。

で、小松氏の一画一画を疎かにしない、剛直なスタイルがよく窺われたのが、最初の《セミラーミデ》序曲だったわけです。相撲取りが遠くからどすどすと行進してくるようなロッシーニ・クレッシェンド、こういうスタイルは初めて聴きましたねえ。
ああそういえば今は名古屋場所期間中であったことだ。
by Sonnenfleck | 2008-07-23 06:05 | 演奏会聴き語り

SIDE-B/SIDE-I (2)

9回シリーズ(不定期)で聴く、ピリオド・ベートーヴェン最新事情。2回目です。

c0060659_6143279.jpg<SIDE-B> ブリュッヘン/18世紀オーケストラ
【Karna Musik/KA-378M 1】
●交響曲第2番ニ長調 op.36 ※()内は正規全集
  第1楽章 '12"56 ('11"50)
  第2楽章 '10"36 ('10"12)
  第3楽章 '3"46 ('3"25)
  第4楽章 '6"20 ('6"34)
(2006年12月1日 パリ・シャンゼリゼ劇場ライヴ)

うわわわ。第2番は1988年録音の正規全集盤演奏からかなり遠い。。

この18年の間に第1楽章序奏の質量が飛躍的に増大して、象のような重みとして聴き手にのしかかるのであります。冒頭に集約された大質量はどろりと澱んでいて、一筆一筆がしつこく、清涼感などまったく感じさせない。なんだこれは。フルトヴェングラーか。
その大質量序奏が無理のあるアッチェレランドに乗ってアレグロ・コン・ブリオの主部に運搬され、あとは自重によりコーダの方向へゴロゴロゴロと転がっていく…。そういう曲だったっけこれは?この変容はショックと言わざるを得ません。
長大な第2楽章も冒頭の爽快感に騙されてはいけない。一瞬のそよ風(クラリネットにちょっと面白い表情がついてる)に和んでいると、追い立てられるような中間部の葛藤に激しいギャップを感じなくてはいけませんもの。
呼吸が浅く、拍も乱れ、アクセントだけは重いのでギクシャクとした第3楽章。うーん…。
第4楽章はさらにアンサンブルが乱雑になって、部品をぼろぼろと落としながら動くロボットのようで痛ましい。しかし途中で(前の3つの楽章ではあまり出会えなかった)木管の美しい折り重なりが聴こえたりするので、破綻の中に花が咲いているようでとても美しい。―


c0060659_6145413.jpg<SIDE-I> インマゼール/アニマ・エテルナ
【ZIG ZAG TERRITOIRES/ZZT080402.6】
●交響曲第2番ニ長調 op.36
  第1楽章 '12"25
  第2楽章 '10"49
  第3楽章 '3"41
  第4楽章 '6"12
(2006年5月1-4日/ブリュージュ・コンセルトヘボウ)

したがって、ブリュッヘンとインマゼールを聴き比べるのはあまりにも酷であると言えます。
完璧に透き通った第1楽章序奏から主部に至る道筋は、葉末を渡る5月の風のようになよやかであり、過不足なく心地よいスフォルツァンドやナチュラルな楽器バランスとともに、やはりこりゃ理想的だわなあと思う。そして、この方向でこれ以上を目指すのはもう無理なんじゃないかしらとも思う。
ただ、彼らであれば物凄いレベルを達成してくるだろうと思われた第2楽章は、意外にも粉っぽくヒステリック。残念です。ピリオド楽器の抑制の効いた瑞々しい音という意味ではブリュッヘンたちのほうがずっと上へ行っているように思います。
気を取り直して第3楽章。プリッとした歯ごたえの蒸し海老にツンと強い山葵が効いている。小気味よい「形」を鼓膜へ中ててくるところで職人的な正確さを見せるインマゼール+アニマ・エテルナ、このようにリズミカルな楽句が連続する箇所は彼らの独壇場ですね。メカニカルな面でのスペックは18世紀オケと比べてはいけない。
第4楽章を耳にして、ああこれは一筋縄ではいかないスコアなのねと「ここで」気がついたのは内緒。リズムとバランスの冴えだけで片づけると意外なくらい面白みがないのでした。よたよたして聴こえたブリュッヘンに音色への強いこだわりがあったんだ。

+ + +

あまりにもアンバランスというか傷だらけというか、、ブリュッヘンと彼のオーケストラの名誉のためにこのライヴは正規盤で発売されるべきではないと思う。
でも、インマゼールがフォルム整備のために切り落としたような要素に関して、ブリュッヘンたちがこだわっているのは確かなんですよ。そういう要素に魅力を感じる方にとって、インマゼールの新録は意外につまらなく聴こえるかも。
by Sonnenfleck | 2008-07-22 06:16 | パンケーキ(19)

勇者ではなかった人のために。

DS版のドラクエⅤ、発売されちゃいましたね。

パパスから息子&娘まで総出演のCMが盛んに流れていますが、あのパパスのセリフによって購入を決意したオトナがきっとたくさんいることでしょう。しかし公式サイト(音が出ます)に行ってみると、僕が見た日本語版の他に字幕版ってのがあってです。再生してみたらなんかパパスもビアンカもみんなオランダ語?喋ってるんですよ。なぜ(笑)

しかしそれを尻目に、現在SFC版のⅢをプレイしておるのです。
久しぶりだから楽しくて楽しくて。一日一時間でようやくシャンパーニの塔へ到達。
金の冠も取り戻して、一瞬だけロマリアの王様になって。
丁寧に作り込まれたストーリーとシステムと、ほんのちょっと振りかけられた遊び心に、改めて驚嘆しています。子どもの頃は気がつかなかったけれど、特に遊び心に関しては、今プレイしてみると純粋に愉快な気持ちにさせられる点が本当に多い。これを超えるゲームが果たしてどれくらいあるのだろうかと思う←贔屓?

もしかすると、自分は今カンダタこぶんAのような人生を送っているのかもしれない。どうやら勇者ではなかったようだ。しかしそんな人生でも、ほんのひとときだけ華やかに演出してくれるドラクエに、時おり心を許すことがあってもいいよなと思うのです。
by Sonnenfleck | 2008-07-21 08:10 | 日記

びわ湖の夏・オペラ・ビエンナーレ 《フィガロの結婚》

恥ずかしながら生まれて初めて琵琶湖を見た。でかい。
湖畔に突き出したびわ湖ホールですが、ロケーションは最高でありました。オペラが日常からの脱出だとしたらこれほど素敵な環境はないでしょう(ホワイエから見渡すかぎり盛夏の太陽に輝く湖面!)。拙宅の玄関から歩き出して、およそ120分でここの座席に辿り着ける。

c0060659_19352187.jpg【2008年7月19日(土)14:00~ びわ湖ホール 中ホール】
●モーツァルト:《フィガロの結婚》 K492
→津國直樹(Br/伯爵)
  老田裕子(S/伯爵夫人)
  端山梨奈(S/スザンナ)
  柴山昌宣(Bs/フィガロ)
  白根亜紀(MS/ケルビーノ)
  小林久美子(MS/マルチェリーナ)
  北村敏則(T/バジリオ)
  古瀬まきを(S/バルバリーナ)
  清原邦仁(T/クルツィオ)
  中野嘉章(Bs/バルトロ)
  石原祐介(Bs/アントニオ) 他
→オペラ ビエンナーレ合唱団、ザ・カレッジ・オペラハウス合唱団
→岩田達宗(演出)
⇒キンボー・イシイ=エトウ/大阪センチュリー交響楽団


さて今回の《フィガロ》は、びわ湖ホールのビエンナーレの演目として自主制作されたプロダクション。ソロは全国からオーディションで募ったらしく知らない方ばかりで、不安がまったくなかったと言えば嘘になるんですけど、実際は…よく練られ充実し切っておりました。
感動の本質は金に立脚してるわけじゃないと思いつつも、パリ国立の10分の1の値段でこれが聴けたのは幸運でした。行ってよかったっ。

■演技と演出
この公演、演技の質がずいぶん高水準だったと思うのです。
今回1階席の前から2列目に座ることができたので、歌手たちの動き一挙手一投足が窺われたのですが、よくありがちな「面白く見せなきゃ、頑張らなきゃ、、」という悲愴な(しかも半端な)雰囲気がないんですね。おそらく「自然」に見えるよう考えられ、また非常に努力された結果として、表情、腕の組み方、視線の方向から振り返るタイミングに至るまでいかにも血が通っている。どの役者さんも。
「行列ができる演出家」こと岩田達宗氏の咀嚼も、シンプルの極み。
細部はマニアックな小物に溢れて箱庭的な完成度を誇るくせに、大筋は青白い優等生のようでつまらない、っていうのが「若手」の日本人演出家に対する僕の印象ですが、岩田氏は違った。
前景に傾斜のある四角いお皿、後景にその幕を象徴する事物を紐で雁字搦めにして吊るす、簡単な構造。珍奇な読み替えも興醒めな暗示も使わず、人物には18世紀90%/今日10%くらいの保守的な衣装を着せ(配色も基本的にモノトーン)、それでも活き活きとした<演劇>になっていたのはなぜか?
聴衆に感じさせ考えさせる余白の部分が絶妙なバランスで残されてたのが、そのひとつの要因ではないかと思うんです。ところどころでバジリオを黙役の(舌足らずな!)狂言回しに使ったのも余白に罫線を引くくらいの意味だろうし、《フィガロ》に限らず、音楽もストーリーも構成要素が多い作品だと、こうやって「何から何まで説明し切らない、紐付けしすぎない、踏み止まる」センスがとても重要になってくるんでしょう。
(※ビエンナーレの公式ブログ。舞台写真も多く掲載されてるのでご覧ください。)

■ソリスト
第一にスザンナ役の端山梨奈さんにブラヴァを飛ばしたいッス。
声量がそんなに豊富ではない点を除けば、芯のはっきりとしたディクション、コケティッシュかつ堂々とした態度、冒頭の新居から最後の庭園まで、完全に魅了されました(この感情は萌えだな)。これでこの日がスザンナ初舞台なんだからたまらないですわ。第2幕でケルビーノに伴奏をつけてやったり、衣裳部屋に隠れて立ち回るとこなんかホントによかったなあ。繊細さと機知を声と演技の両方に兼ね備えた美貌のソプラノというわけで、、もし中央に進出したら(って書かざるを得ないのはムカつくが)、たとえば森麻季の牙城を崩しつつガンガン有名になってく人かもしれない。舞台を明るくするオーラがあるもん。
スター誕生の瞬間に立ち合ったようだ。

次にケルビーノ役の白根亜紀さん。清浄かつキレのいい声質の持ち主で、ズボン役もピタリ。おまけに大変きれいな方で演技も巧いものですから、そういう方がわざと不良ぶったりガサツぶったり、あげく「女装」したりすると、恋せるアンドロギュヌス・ケルビーノの妖しさが全開。スザンナや伯爵夫人と並んでいると何かドキドキさせられる。
熱っぽい戸惑いを絡める〈恋とはどんなものかしら〉がよかったのは当然のことながら、第1幕の最後でフィガロに追い立てられてるところ、そして第4幕で伯爵夫人からキスされるところ…演技だけでクラッと来た、ってのは小さい声で書いときます。

伯爵役の津國直樹氏も堂々たる貫禄(北村一輝似)。
始めのうちはエンジンがなかなか掛からず声も埋もれていたのだけども、第3幕になって伯爵の一人称が語られるようになると一気に畳み掛けてきます。豪快な〈私がため息をついている間に〉のあと拍手が特に大きかったのも納得。第4幕のフィナーレで「許してくれ」と絞り出された声の真実味に思わずホロリ。。

いっぽう伯爵夫人の老田裕子さんは安定していたけどもあまりにも落ち着きすぎているように思われたし(哀切を追求した結果かも)、逆にフィガロの柴山昌宣氏はあまりよくない意味で現実感があって、地声が想像できるような上ずりがしょっちゅう聴こえてくるので、ちょいと苦手でした。早口のディクションとか貫禄があったけどね。
クルツィオの清原邦仁氏とバルトロの中野嘉章氏はドリフのような強烈なメイクも手伝って、怪演としか言いようがない。

■オケ
最近よく名前を目にするキンボー・イシイ=エトウですが、懐疑を差し挟む余地がないくらいスピーディな横方向重視、しかも盛り上げどころを効率よく突いてくる音楽づくりで、なるほどこういうのを叩き上げカペルマイスター型っていうのかもしれない(しばらく横顔を観察してみたんですが、やっぱり歌詞を全部歌いながら指揮していた)。
ベルリン・コーミッシェオーパー仕込みの起伏の大きな指揮に、大阪センチュリー響は可能な限り応えていた。ホルンソロがずっこけたりするのを責めるべきではないだろうし、逆に、第2幕フィナーレの豪放な盛り上がりや、第4幕フィナーレの抑制された美しい響きは、ただ一定の水準を満たすだけではないのだというのを主張していたと思うのです。

+ + +

本公演はすべてにおいて手堅く、総括すると「いい時間を過ごさせてもらった」と言うしかありません。フィガロってそういうオペラだよな。たぶん。
今日明日の公演に行ける方はぜひとも、と書こうと思ったら…チケット完売。
by Sonnenfleck | 2008-07-20 08:28 | 演奏会聴き語り