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23包の特効薬

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アリアCDから到着しているのです。鈴木秀美氏とオーケストラ・リベラ・クラシカの「アルテ・デラルコ」レーベルがなぜか1000円/枚に値下げされていたので、これまで高額で手が出なかった鬱憤も暴発し、衝動的にすべて購入してしまいました。
これをもってハイドン不感症をなんとかしたい。2月のブリュッヘン来日までには。。
by Sonnenfleck | 2008-11-30 09:09 | 精神と時のお買い物

on the air:ティチアーティ/バンベルク響のドヴォ7

c0060659_6551454.jpg【2008年5月25日 ヨゼフ・カイルベルト・ザール】
●バッハ/リンドベルイ:管弦楽のためのコラール《Es ist genug》
●ブラームス:Vn協奏曲ニ長調 op.77
→ルノー・カプソン(Vn)
●ドヴォルザーク:交響曲第7番ニ短調 op.70
⇒ロビン・ティチアーティ/バンベルク交響楽団
(2008年11月4日/Bayern 4)

シベリウスの第5番を聴いて追っかけることにした、1983年生まれの指揮者ロビン・ティチアーティ。今度はバンベルクに現れました。

まずマグヌス・リンドベルイのコラール編曲ですが、これはアルバン・ベルクが彼のVn協奏曲に引用した、バッハのカンタータ第60番《おお永遠、そは雷の言葉》に使われているあのコラールですね。リンドベルイらしく「難しいこと言ってないで僕の音楽聴いてよ」といった感じの人懐こい曲調で、最初にそのままのコラールを提示した後、音符を装飾品のようにジャラジャラとぶら下げた、色彩的で放恣な姿に変容した旋律が登場します。最後はキレイに解決しちゃいますが。。
コラールを奏でる金管を聴いていると、バンベルク響の基礎体力の高さを感じます。

次のブラームスの伴奏からして、呼吸するように旋律を流すティチアーティのセンスがすでに活きているように思う。フレーズの息が長ければ長いほど、なめらかな稜線を見事に造形してしまうんです。そのうえでナチュラルに明るく胸がすくような響きをずっと保っているのだから驚きますよ(ノット親方の薫陶によるのかもしれないけど、バンベルク響ってもっと重い音のするオケだと思っていた!)
カプソン兄のVnは案外イケイケで攻撃的なんですが、第2楽章はそれが抑制されてひたすら美しい世界が連なっています。こういう日常の等身大の幸せっていいよね。。芸術音楽が表現するものが透徹した美だけだったら、息が詰まってしまう。
最後の和音がめちゃくちゃきれいだ。はぁぁ。
第3楽章もコーダへの伸びやかなアプローチが気持ちいい。

メインのドヴォルザーク、交響曲第7番
やっぱこの曲って都会的だよなあ。ティチアーティは変なアゴーギクを仕込んだりするスタイルではないようだし、前述のように横軸方向への運びが非常に優美かつなめらかなので、余計それが際立つ格好。逆に停滞や引き攣りを積極的に要求する性格の作品(マーラーとかショスタコとかプロコフィエフね)を彼が指揮するとどうなるか、今はまだ想像がつかないんだけど、少なくともここでは軽く弾む鞠が坂を転げていくように順調です。
いやーバンベルクのホルン隊は巧いなー。

ティチアーティ、痺れて溺れるような快感じゃなくて、明るく健康的な快感をオーケストラから常に引き出すことができる指揮者のようなんです。眉間に皺を寄せた聴き手にどう評価されるか知らないけれども、僕は彼の優美な音運びが好きです。生で聴いてみたいなあ。
by Sonnenfleck | 2008-11-29 07:13 | on the air

イェルク・デームス Pfリサイタル@宗次ホール

c0060659_6213599.jpg【2008年11月20日(木)18:45~ 宗次ホール】
●シューベルト:4つの即興曲 D899
●ベートーヴェン:Pfソナタ第30番ホ長調 op.109
●ドビュッシー:《水に映る影》、《沈める寺》、《月の光がそそぐテラス》、《月の光》
●フランク:前奏曲、コラールとフーガ
 ○ショパン:ワルツ、《幻想即興曲》、《雨だれ》
⇒イェルク・デームス(Pf/ベーゼンドルファー?)


あの120分間は何だったんだろう。何か特別な体験だったかもしれない。

シューベルトは朴訥とした語りで、しかしあくまで容赦なく畳み掛けるリズムで、オーストリア人にとってのシューベルトっていうのはこういう音楽なのかも(日本語文化圏の外の音楽家が演奏する民謡や日本語歌曲のことを思うと、こういう印象がオカルトじみているとは断言できない)。
1曲目からグスグスと鼻をすする音があちこちから聞こえてきたんですが、自分は3曲目、変ト長調のアンダンテでぼろぼろ泣いてしまいました。ハンカチがじっとりとするくらい。

続くベートーヴェンのop.109は、柳がただ風に吹かれているような軽い流れが印象に残ります。流れの中に無数に浮遊するフレーズの塊は「こうでなくてはいけない」という力みではなくて、「こうだよ」というナチュラルな示しによって形作られていました。

後半のドビュッシーになって、デームスの凄味がさらに引き出される。
どちらかと言えば脂の抜け切ったお爺さま、という感じだった前半とは著しいギャップを形成しながら、ドビュッシーでは豊満としか書きようのない分厚い和音で聴衆の頬を撫でてゆきます。《沈める寺》から『暁の寺』のイメージを感じたのは、これは初めての体験だった。

フランク前奏曲、コラールとフーガに関して、デームスは次のように書いています。
この優れた作品には偶発的な音が全く無い。すべては多声音楽に、和声法に、楽式構成に、内面からのあふれる感情に、必要不可欠のものから出てきた音である。彼はこの曲を作る時オルガンの足鍵盤を念頭に置き、10本の両手の指の中に足2本分の音を配分して、この音楽的豊かさを得た。このようにしてフランクは全く新しい形のピアノ音楽を創造したのだ。
(公演パンフレットから)
テクニックの衰えを隠そうともせず訥々と弾いた最初のシューベルトや、楽譜の流れに乗ったベートーヴェンから、自然の摂理に反して悠然と聳えるこの大伽藍は想像できなかった。オルガンの模倣は解説を読むまでもなく明らかに伝わってきますが、トーンクラスターのような音(≠フレーズ)の塊、ミィィィィーンという「鳴り」のようにもっと実際的な要素は、僕が親しんでいたパスカル・ドゥヴァイヨンの録音からは一切聴き取ることができなかったものでした。
循環する主題が最後に高らかに鳴るカタルシスよりも、自分はこのデームスの老獪なテクニックのほうにひどく感銘を受けました。彼の80年は彼に厖大な量の深い抽斗を授けたようです。

+ + +

1835年製作のコンラート・グラーフによる《ディアベッリ変奏曲》のCDを買って、最後にサインをしてもらいました。目の鋭い爺さまです。
by Sonnenfleck | 2008-11-27 06:23 | 演奏会聴き語り

靴を買う→いい日旅立ち。

c0060659_6164869.jpg昨日の名古屋は秋1:冬9、くらいでしたが、ここ数日、自分のいちばん好きな季節がどんどん近づいてくる様子が感じられてとても嬉しく。そして冬に向けて靴を新調。

この12月から、再び東京で暮らすことになりました。

当ブログが存続してきた46ヶ月間のうち、32ヶ月間は名古屋発だったので、振り返るといろいろな思いが湧き上がります。
重大な変革期にある名フィルを聴くことができ、室内楽によく足を運ぶようになり、新しい民営ホールの誕生に立ち会い、関西圏のホールへの道筋が開き、クラブロガー/クラファンの皆さんに本当によくしてもらった、そうした自分は幸せでありました。

東京と東京以外と、藝術シーン的にこの違いがどれほどのものであるか。しばらくは溢れる情報に翻弄されて目を回していると思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。
by Sonnenfleck | 2008-11-25 06:29 | 日記

BA-GA-C-TTI-H

c0060659_70188.jpg【GLOSSA/GCD 921204】
<バッハ>
●Fl協奏曲ロ短調(フランチェスコ・ジメイによる再構成)
●三重協奏曲ニ長調 BWV1050a
●管弦楽組曲第2番ロ短調 BWV1067
⇒マルチェロ・ガッティ(Ft)
→エンリコ・ガッティ(Vn)/アンサンブル・アウローラ

イタリアのヴァイオリン音楽の化身みたいな人たちが、アルプスの北のバッハ道場を破りに、三重協奏曲(ブラ5、の初稿ですね)と管組2番という、およそこの作曲家の中でも一二を争う有名人気作品をぶつけてきました。そこへ、ソロFlつきの既存のカンタータ3曲から再構成された「新」Fl協奏曲@ガッティ弟のトラヴェルソ、と来るから期待は高まる。

ところがですねえ。このバッハがどことなくよそよそしいというか、もどかしい。
バッハのスコアってやっぱり最高度に込み入っているのだ。
蜂蜜系のほのかな甘みを含んだ美音、絹のように柔らかい歌い回し、コレッリやタルティーニで(あるいはヴィヴァルディでも)活きたガッティの特長は相変わらず太陽のように発散されている。けれどもそんな光線でさえバッハの楽譜を透過するのは難しく、まっすぐには届かない。ちょうど深い木立の中にいて稀にキラキラっと梢から陽光が差し込むけど、下生えは依然として暗いと。そういう感じなのです。

確かに、このディスクの主役はマルチェロ・ガッティのトラヴェルソだから、エンリコ兄貴の演奏に過剰なクローズアップを掛けるのはムリがあるんです。それはわかっているが、ところどころ聴かれるエンリコ兄の美音に電撃的な震えが来る以外は(自然なフレージングは評価するけれど)アンサンブル・アウローラは至ってフツーだし、マルチェロ・ガッティはフツーのトラヴェルソ吹きなのです。
アンサンブル造形のどの部分までエンリコ・ガッティの音楽が反映されているのか、よくはわかりませんが、管弦楽組曲の抑揚がややギザギザしているだけで、ロ短調の協奏曲もブラ5(初稿)も平明…しかしその平明さが必ずしもすべてプラスには働かないのが、たとえばコレッリとは異なるバッハの恐ろしいところなのだとも思う。ある種のピースフルな平明さがガッティをガッティたらしめているだけに、、ね。。

僕は(アンサンブルとして聴くと)ごくフツーだなあと思われたけれど、人によっては高度に統率されて「フツー」に聴こえる凄まじい演奏と捉えるかもしれないし、バッハの小節線の間隙からエンリコ兄貴の音に焦点を合わせられる人は、これまでのディスクと同じように味わうことができるかもしれない。僕がいちばん積極的に楽しめたのは三重協奏曲の第3楽章や管弦楽組曲の〈ロンド〉でした。
by Sonnenfleck | 2008-11-24 07:05 | パンケーキ(18)

笛の楽園、人生の楽園

c0060659_761248.jpg【TROUT RECORDS/H4702】
●ヤコブ・ファン・エイク:《笛の楽園》
⇒花岡和生(Rec)

最近、サントリーが妙にハイボールの宣伝に力を入れているような気がする。その宣伝に根負けして(?)、風呂から上がって寝るまでの間にハイボールを作ることが多くなりました。

たかがハイボールといっても炭酸と氷とウイスキーの微妙なせめぎ合いの上に成り立っているわけですから、その香りと味は時間とともに変化する。ですので、音楽を聴き込むのと同じように、縦の面を瞬間的に輪切りにして味わっていくような楽しみ方も可能であります。
でも、やはり音楽と同じように、変化する横の軸を味わうのだって素敵なことですよね。
あえて印象を上書きしてゆき、変化そのものを楽しむわけですから、時間の流れを念頭に置いて、過去のことは思い出さず、今に身を委ねるという算段。

…というときに、ボタンひとつでこうした音楽を聴くことができるのは、なんという幸せだろうか。ふえ一本による、縦の構造が存在しない音楽。素朴な旋律、素朴な横軸に陶然とするしかない音楽。花岡氏の気儘で感覚的な音運びに、視界も思考もますますぼやけてゆきます。
by Sonnenfleck | 2008-11-22 07:13 | パンケーキ(17)

パパ・ハイドンにキスを

吉田秀和の著作がちくま文庫から続々と刊行されています。
市井の(しかも僕のようにキャリアの浅い)音楽ファンにとっては、吉田秀和全集の出版は幸福であると同時に不幸だったと思う。図書館や大型書店で容易に吉田センセの文章にアクセスできるようになったけど、一方で各出版社から出ていた彼の著作は次々と絶版になってしまって、自分の手元に少しずつ著作を揃えていくささやかな楽しみが奪われてしまったんですもの。今どんな経緯でちくま文庫から「出直して」いるのか僕にはわからないけど、そんな意味でちょっぴりうれしい。
『私の好きな曲』を読んでいて、ハイドンに関するセンセの文章が出てきました。ハイドン不感症の自分にとっては、以下のセンテンスが一筋の光になるのかどうか。
すっきりしていて、むだがない。どこをとってみても生き生きしている。いうことのすべてに、澄明な知性のうらづけが感じられ、しかもちっとも冷たいところがない。うそがない。誇張がない。それでいて、ユーモアがある。ユーモアがあるのは、この音楽が知的で、感情におぼれる危険に陥らずにいるからだが、それと同じくらい、心情のこまやかさがあるからでもある。―

ハイドンをきいていると、音楽は別になんといって特定の対象を表現しているわけではないけれども、だからといって、この音楽をきいていて、私たちは、そこに一人の人間のいることを感じないわけにはいかないのである。こういう正直で敏感でクリアーな音楽を書いた人間の存在を、モーツァルトともベートーヴェンともちがう人間の現存を、感じないわけにいかない。―

(『私の好きな曲』, 222-224p)
センセの筆もリズミカルに跳ねる。一片の無駄もなくハイドンを表現しているんだと思う。

で、赤字の部分がミソ。本文では、戦わなければ「表現」と訣別できなかったストラヴィンスキーが引き合いに出されているんだけど…ここなんでしょうね。ハイドンは何かを表現するために作曲したのではない。「何も表現していない」という意味で特異なレベルにあるのだろうから、そのものの味を感じ取るのがとても難しいのです。あるいは味を感じ取るのをやめて形を視ればいいのか。。これからそれがわかっていくのかなあ。。

+ + +

c0060659_625433.jpg【Sony Classical/82876892072】
<ハイドン>
●弦楽四重奏曲第32番ハ長調 op.20-2 Hob.III.32
●弦楽四重奏曲第58番ハ長調 op.54-2 Hob.III.57
●弦楽四重奏曲第75番ト長調 op.76-1 Hob.III.75
⇒クス弦楽四重奏団

前置きが長くなりましたが、7月に聴いたクスQの会場で買ったハイドンの四重奏曲集。題名の付いた作品がひとつもないのが挑戦的です。題名があろうがなかろうが自分には近寄りがたいことには変わりないんですが(苦笑)
新しい発見としては、第32番ハ長調第1楽章が、クヴァンツのハ長調のトリオ・ソナタ第2楽章に異常にそっくりだったことが挙がりますかね(展開部への進入経路とか同じすぎて楽しい)。ほとんど触ったことがないからイメージできないけど、初期のハイドンって案外バロックに近いんだろうなあ。そっちから攻めていくのはアリだなあ。いや、クヴァンツがハイドンに近い、っていうのはひとまず措いとくにしても。

ラッソやウェーベルンに挟まれたハイドンの《ひばり》がすべて分解されてゆき、その隠し味まであからさまにされてしまったのがあのときのクスQライヴでしたが、こうやってCDでハイドンだけを連続して聴いていると特にそんな感じもしないので不思議。
結局、「澄明な知性のうらづけが感じられ、しかもちっとも冷たいところがない。うそがない。誇張がない。」っていうハイドンを表した吉田センセの言葉がそのまんまクスQの録音にも当てはまってしまう、という身も蓋もないオチ。です。

ハ長調の2曲が本当に清潔の極みです。いやト長調だってちょっと響きが豪華になっただけで清潔なのは間違いない。ハイドンは清潔。不潔なハイドンなんて存在し得るのか。
by Sonnenfleck | 2008-11-21 06:06 | パンケーキ(18)

【アニメ】のだめカンタービレ 巴里編 第6話

c0060659_6345223.jpg【2008年11月20日(木) 東海テレビ(予定)

パリ編第6話は、原作のLesson72(マルレ・オケ常任の知らせ)Lesson73(マルレ・オケ定期…)Lesson74(Rui強襲)そしてLesson75(トヨタ・ニッサン君、代振り決定)の途中まで。

自動ページ捲り機能つき
のだめ+黒木君+デュボワ(バソン吹き)のプーランク《ピアノ、オーボエ、バソンのための三重奏曲》は鮮やかに省略されつつも、原作準拠のままガンガン進んでゆきます。このハイスピードにももう慣れたわい。千秋が変装した「トヨタ・ニッサン君」は使われないかなあと思いきや、案外許してくれるんだねえ。

ジェームズ・デプリースト
が音楽監督に就任することになっているルー・マルレ・オーケストラ。
通称マルレ・オケ、指揮者コンクールに優勝した千秋が初めて指揮を任されることになったパリのオケです。原作をご存じない方のために説明しますと、彼の推薦で千秋はマルレ・オケの常任指揮者に就任することが決定した、ということになってるんですよ。
原作が書かれたのは04-05シーズンの東京なので、都響のシェフが内定していたデプリーストへの期待感が滲み出ていますね。あと数年遅ければインバルが出てきたかもしれない。。原作どおり「オレゴン響を育て上げるなど」というセリフが入るわりには、都響の名前は一片たりとも出てこないのはやっぱり不思議ですが(都響らしきオケの画は出てきました)。

今週のクラヲタポイント
・千秋によって「大雑把」と評された、マルレ・オケによるリムスキー=コルサコフの《スペイン奇想曲》は、確かに「ちゃんと」縦の線が揃ってなかった。ソロのほうは千秋が言うほど崩れてはいなかったのですが、実際に演奏したゴーストオーケストラの皆さんはけっこう苦労されたんではないだろうか。
by Sonnenfleck | 2008-11-20 06:39 | on the air

on the air:ブリュッヘンがバッハのカンタータを振った。

c0060659_627892.jpg【2008年11月15日 アムステルダム・コンセルトヘボウ】
<バッハ>
●ブリュッヘン編曲:クラリネット、バセットクラリネット、バスクラリネットのための3声のリチェルカーレ
●カンタータ第106番《神の時こそいと良き時》
●ヴィム・テン・ハーヴェ(?)編曲:6声のリチェルカーレ
●カンタータ第198番《侯妃よ、さらに一条の光を》
→イルス・エーレンス(S)、イエスティン・デイヴィス(C-T)
  アンドレアス・ヴェラー(T)、フィリップ・カットリップ(Br)
→カペラ・アムステルダム
⇒フランス・ブリュッヘン/オランダ放送室内フィルハーモニー
(2008年11月15日/Netherlands Radio 4 生中継)

2月の来日に向けて、孤独なブリュッヘン追っかけが続いております。
今日はブリュッヘンが久しぶりにバッハに戻ってきたよ!
彼がカンタータを指揮するのはたぶん珍しいよ!
注目すべき点は数々ありましたが、基本的に彼のバロックは聴いていて安心する。
アクロバット的なアーティキュレーションとは無縁ながら、一筆書きの太い輪郭線でもって、真っ赤な葡萄の汁をぎゅっと閉じ込めている。この濃厚な風格。この重たいボディ。

さてブリュッヘンが、どちらも追悼や葬送を目的にしたこの2曲のカンタータを選んだのはどうしてでしょうか。何か理由があってのこと?
どちらも編成にヴィオラ・ダ・ガンバを必要とする古雅な響き。第106番《神の時こそいと良き時》はさらに2本のリコーダーも伴うのでトゥッティの音量も控えめ、インティメイトな美しさを湛えた佳曲ですね。上述したような(これまで慣れ親しんできた)ブリュッヘン・バロックの特長が完全に活きるというわけではないけど、逆に、最近の彼が造形してしまう異様に静かな世界の香りがふぅっと漂ってくることになる。第2曲の最後のソプラノ合唱がゆらゆらと揺れながら陽炎のように消滅するところなんか、、ううむ。。

第198番《侯妃よ、さらに一条の光を》は、曲調の要請からかもう少しがっちりしている。
こちらは通奏低音にチェンバロとリュートが加わったためにそう感じるのかもしれないけど、これまでのブリュッヘン体験を大きくは外れません。ねっとりと合唱を絡ませて歩む様子に、往時のブリュッヘンによる濃ゆいバロックを、基本的な立脚点はおそらくロマンティックな表現意欲にあるあのバッハを確かに感じ取ることができます。久しぶりにブリュッヘンのロ短調ミサを取り出して聴いてみようと思うのでした。

+ + +

今回凄味を感じたのは、《音楽の捧げもの》の中の2つあるリチェルカーレ。
うち3声のリチェルカーレは、なんとブリュッヘン編曲というではないですか。
この新しい楽器、クラリネット属の3人のソリストによってあの主題が演奏されるのを聴いて、ブリュッヘンがどうしてこんなことを試みたのか、なんとなく納得させられてしまった。今の彼の好みはやっぱりこういう甘く空虚な響きにあるんだろうか。最後のふんわりとしたリタルダンドもクラリネットならでは、終末的に甘美で、背すじがぞっとする。

6声のリチェルカーレのほうはたぶんヴィム・テン・ハーヴェという人の編曲だと思われます(アナウンサはそのように言っていた)。同名の別人じゃなければ、彼はガッティも参加するラ・レアル・カマラのヴィオリストで、GLOSSAにボッケリーニの録音があるんだけど、どういう経緯でこの弦楽合奏編曲版が取り上げられてるのかは不明。

このエントリのタイトルに反し、これが大変恐ろしい演奏でした。
「旋律」として纏まろうとする意志がまったく見えないためにフーガの伽藍は空疎、でありながら、「旋律」線がたくさん交わるここぞというポイントでは温かい歌が用意されている。輪郭線は強く怜悧で。なんという凄いバランスで鳴らしているんだろう。溜め息しか出ないな。こんな音を生で聴いたらきっと腰が抜けて立てない―。
by Sonnenfleck | 2008-11-19 06:29 | on the air

パンダに罪はないが

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左のパンダ、テレビ愛知のブログまとめサイトのキャラクタなんです。
そうなんでしょうね。赤いし。でもこのあからさまに適当なノリにはちょっと面食らう。
うちはノンポリブログなんでレーニンに深い共感とか全然ないけどさ。

パロディってのは、対象のことを憎むなり愛するなり、何がしかの深い感情が土台になってこそだと思うのです。翻って…テレビ愛知の担当者とデザイナーは何か深い感情を持っていたのかな?ブログパンダ→プロパガンダ→社会主義→レーニン、ってテキトーに連想しただけじゃないかな?意志なきパロディは文化を騙る贋物ではないかな?

ちょっと腹が立ってハチャトゥリャーンの《レーニン追悼の頌歌》(1948)を聴きました。
ジダーノフ批判によって産み落とされたいくつかの作品のひとつ。この作曲家らしい仄暗いロマンティシズムがとても美しい。チェクナヴォリアン/アルメニア・フィルの録音で。
by Sonnenfleck | 2008-11-18 06:30 | 広大な海