<   2009年 04月 ( 22 )   > この月の画像一覧

美しい4月に。

c0060659_6254252.jpg

今度の自室の前には大きな庭があって、大きな柿の木が植わっています。広くて穏やかな形をした葉が正午前の太陽の光を反射すると、殊のほか美しい。ヒヨドリも来る。
by Sonnenfleck | 2009-04-30 06:27 | 絵日記

ムジカ・マキーナ

c0060659_6432358.jpg【RCA/74321828662】
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
⇒ギュンター・ヴァント/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

クラシックを聴き始めたころ、「名曲」と謳われるこの曲を一応聴いてみることにして、「名盤」と言われるヨッフム/SKD盤を探したことがある。でも秋田の田舎は万事モノ不足、結局同じヨッフム指揮でもDGGに録音されたBPO?盤の方を購入して聴いたのでした(なぜマイナーなこっちが店頭にあったのか今でもよくわからない)。
そのヨッフム/BPO?盤では、風景がグルグルと回るようなスケルツォが面白くて繰り返し聴いたものの、当時の生活の「尺」にはこの曲を第4楽章まで聴き通すだけの余裕がなく、大蛇のような印象だけを残して短いブル8蜜月は終わる。ヨッフム/BPO?盤もいつのまにかどこかに失せてしまった。曲の方に愛想を尽かされたのかも。

それから時を経て、突如来たるブル8確変(クラを聴いていて楽しいのは、こういう謎のブレイクスルーが起こったときですよね)。自分にとっては難しいブルックナーの中でも特によくわからないこの曲ですが、一応手許にはヴァント/BPOの演奏が架蔵されていて、先週は通勤電車の中で貪るように聴いていました。
ドクトル・ヴァントの爽快なフレージングに親しんだ結果として、以降この曲を浪漫大蛇デロデロデロと考えるのはやめにする。有機物と捉えなくてはいけない根拠がどこにあるのか、というところに思い至っただけでも、先週のブレイクスルーには意味があると思います。

つまり、何かもっと機械的な特性を持った曲なのではないかということなのです。
不意に粘ついたり急な運動を試みたりすることのないヴァントの指導によって、楽句が油圧式の機械のように滑らかに繰り出されるのを聴いていると、そのように思わざるを得ません。しかもベルリン・フィルのハイパーな音響も手伝って、それは威圧的な第1楽章や第4楽章ではなくむしろ「神秘的」な第3楽章で強く感じられる。こういう「神秘的でなさ」が一周して、むしろ僕のような文系には「機械的神秘」に思われるくらい。この楽章の拍子の保持に用いられる厚い低弦がちっとも意志的じゃないくせにリズミカルで、その上にピツィカートが明滅していたりすると、まさしく巨大な機械のようです。シンバルを迎えたクライマックスも実にあっさりしていて好ましいなあ(後に残るハープもノイジーで面白い)。
by Sonnenfleck | 2009-04-28 06:46 | パンケーキ(19)

ゲージツの時間たち

東京に移ってから案外またテレビを見るようになった。不思議なもんだ。
4月の教育テレビでは二大芸術番組がリニューアル。

c0060659_6241559.jpg「日曜美術館」は頭に乗っかっていた「新」が取れて元の名前に。
そして司会がまさかの姜尚中+中條誠子アナに交代して、一気に格調高くなってしまった感アリ(テーマ音楽も何やら「薄まって」しまって慣れません)。「美の壺」のご主人が谷啓から草刈正雄になって一気に胡散臭く、さらに親しみやすくなったのとは対照的に、姜氏はいかにも堅く、アングルの裸婦を尻目に今にも日韓関係について語りだしそう。これからに期待。

c0060659_6243031.jpgいっぽうのN響アワー、いけべえセンセが卒業して西村センセが後を継ぎました。この流れからすると10年後のN響アワーは猿谷紀郎氏が担当していそうです。
西村氏はFMの「現代の音楽」で聴かれていたマシンガンな語りをそのままN響アワーに持ち込まんとしているような気が。まだちょっと抑えてる感じですけど、こちらは今にもヲタクっぽい分析をうわああああっと始めそうで楽しみです。ちょっと斜に構えてるのもいけべえセンセとは違ってて僕は楽しいけど、楽しくない視聴者のほうが多いかもしれない。。こちらも、これからにいっそう期待。

完全に主観だけど、どちらも「ネオ教養主義」みたいな香りが漂っていて興味深いッス。
by Sonnenfleck | 2009-04-27 06:26 | on the air

ドミポルド・ストコーヴィチ。

c0060659_7273553.jpg【Disco Archivia/267】
●バッハ/ストコフスキー:パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 op.93
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒レオポルド・ストコフスキー/シカゴ交響楽団
(1966年3月24日?)

謎の海賊盤レーベル・Disco Archiviaは、いま検索してみると00年代の初めくらいから徐々に注目されていたようでした。その厖大かつ貴重なラインナップと、細かいことにちっとも拘らないところが話題になっていましたが、この録音を紹介してくれたアリアCDによると現在は音信不通とのこと。
普通の海賊盤なら(海賊盤に普通も何もないのだが)ついているケースがない、曲目も演奏者も日付も表記がない、おまけにCD-Rの銘柄もテキトーと来て、見かけは王道。肝心の中身は驚くべきことにステレオながら、各所で音が飛び、またチャンネルが右オンリー左オンリーになって聴きにくいことこの上ない。でも、これはなかなか面白い演奏だ。。

ストコフスキをイロモノだと捉えるのは、ある意味では正しいだろうけど、また別の意味では正しくなく、このライヴでもその両側面が出ています。
たとえば第1楽章の長大なFgソロに猛烈なヴィブラートを要求していたり、嵐のようにテンポを揺さぶったりする(この楽章の展開部がまさかのPrestoと化してシカゴ響が総崩れ)。おまけにコーダの最後が変な和音に「改造」されていて、異様と言わざるを得ない。
第2楽章も妙に腰高で、グルジア出身の髭の生えたミッキーマウスが大暴れ、みたいなユーモアが漂います(このユーモアはショスタコーヴィチ好みかもしれない)。つまり、いわゆるショスタコーヴィチ文脈からは著しく外れる味つけを平気の平左でやってのけるので、この曲をマニアックに集め倒したい方はぜひ架蔵しなければならない珍品のひとつでありましょう。

ところがその一方で、寒々としたショスタコーヴィチらしい音色を捉え、ヤンキーなオケをしっかり従わせてそこにベクトルを向けているのはさすが。そういうところは本当に空気を読むのが巧いなあと思いますし、第3楽章はまさにそんな感じ(「エリミーラ」に猛烈ヴィブラートが掛かってたらどうしようかと)。
黒々とした第4楽章の冒頭の様子もソヴィエト音楽らしくて変な感興を催します。その後の「騒乱」も肩透かしなぐらい真面目で(ただしオケは間違えまくってもう滅茶苦茶)、最晩年のブラ4で(あるいは正規録音の第6交響曲で)聴かれるようなストコフスキの真摯な面はすでにこういうところで窺われる。

+ + +

カップリングの「バッコフスキ」とベト8は、フツーに華々しい演奏。予想通りの。
by Sonnenfleck | 2009-04-26 07:27 | パンケーキ(20)

アンタイ 怒りの密林遭難

c0060659_619785.jpg【Mirare/MIR9918】
●ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ集
⇒ピエール・アンタイ(Cem)

今年もLFJが目前に迫ってまいりましたね。
かつてない熱意とともに死に物狂いでチケット争奪戦に臨んだため、希望の公演はだいたい押さえることができたので満足しています。そのうちスケジュールもUPしようと思ってますが、、こんなに必死でLFJに参加することはもうないだろうな(「ショスタコーヴィチと仲間たち」がテーマにならないかぎり!)

楽しみにしているもののひとつに、ピエール・アンタイのアンサンブル公演があります。
この人の演奏に僕は強く親しんでいるわけではない(少なくともセンペほどには)。強く親しむことができないのは、特にこのディスクにおいて聴かれる異様な響きをたびたび日常に入れるのがためらわれるからであります。
同じドメニコ・スカルラッティのソナタ集でも、センペは南国のフルーツのような芳醇さと思い切りのいいカオスが特徴的。でもここでアンタイが作り出しているのは、同じ南国でも、一帯に危険な昆虫や両生類共が争う暗い密林を思わせる音響世界なんです。また大袈裟なこと言ってやがる、とお思いの方はどうかこのディスクを買ってみてほしい。買って、ご自身のコンディションのいいときにしっかり聴いてみてほしい。

イ短調 K175に散りばめられた強烈な和音は辺りをリゲティに変えてしまうほどの強い力を発散しているし、通常は典雅に柔らかく弾かれることの多いイ長調 K208に篭められた、怨讐のように重いアゴーギクはどのように考えたらいいのでしょうか?
硬い軍隊蟻の行進のようなニ長調 K299、同じ調性でも、毒々しい色をした蝶が鱗粉を飛ばしながらひらひらと飛ぶようなニ長調 K145。深夜に大小のカエルが鳴き交わして眠れないニ短調 K141。―それそのものに酩酊するような強いイメージを得たいときに。

アンタイは一体何に怒っているのだろう?
by Sonnenfleck | 2009-04-24 06:32 | パンケーキ(18)

北海道を落とすとどう跳ねるのか?

北海道を落とすとどう跳ねるのか?(てっく煮ブログ/4月15日)

まあこんなことはフツー考えないな。特に島嶼部が多いとマニアック。
by Sonnenfleck | 2009-04-23 06:44 | 広大な海

カンブルラン/読売日響 みなとみらいホリデー名曲コンサート・シリーズ:ラモーがなくちゃ始まらない!

c0060659_6422275.jpg【2009年4月19日(日) 14:00~ 横浜みなとみらいホール】
●ラモー:《ダルダニュス》組曲~
 〈アントレ〉〈タンブーラン〉〈荘重なエール〉〈活発なエール〉
 〈アントレ〉〈眠りのロンド〉〈優雅なガヴォット〉〈リゴードン〉
●ラヴェル:《クープランの墓》
●ベルリオーズ:《幻想交響曲》 op.14
 ○サティ/ドビュッシー:《ジムノペティ》第1番
⇒シルヴァン・カンブルラン/読売日本交響楽団


東京南部に住んでいたときの癖で、いまだにみなとみらいが近いつもりで出かけてしまう。やっぱ遠いよー。

さて、《幻想交響曲》の終了と同時に激しいブラヴォが飛び交いました。
中には感極まったのか「ゲボォォォーー!」という切ない叫びも聞こえてきて、興行としてなかなかの成功だったでしょう。しかしこの日のお客さんのマナー最悪だったなあ。咳のタイミングといい、楽章間拍手といい、慣れてない方がたーくさんいらっしゃったのではないかと思われた(いよっ!大新聞!俺っちも招待してくれっ!)

しかしカンブルランと読響の《幻想交響曲》は、かなり性質の異なる彼らの化学反応の現時点での到達点であったとともに、今後の課題が見え隠れするパフォーマンスでもあった。
先々週のベートーヴェン・プロで危惧されたアンサンブルの荒れはだいぶ収まったものの、この演奏における大編成ではカンブルランの期待しているであろう音響の軽さ、すなわち夾雑物のないクリアなサウンドや、フレーズの入りやおしまいへの配慮がまだ十分でないように感じられました。特に第4-5楽章に多い興奮の山場では、オケが冷静さを失い、ゴージャスだが濁りの多い音響に終始することもあったように思う。熱くなるのは読響の欠かすべからざる魅力だけども、カンブルランはもうちょっと先の地点にオケと聴衆を導こうとしているんじゃないかな。
ただ、「先の地点」の背中(たとえばトゥッティがひとつの生き物のようなデュナーミクを感じさせたり、パートごとの重なり合いが異様に細かなグラデーションを描いたり)は、この日は第2楽章第3楽章においていくつも観測されていましたので、今後の共同作業によってそれは見えてくるでしょう。特に第2楽章の微細にして分厚い弦楽合奏、まさに大勢のモブキャラクタによって主役=主題がどんどん隠れていってしまうような演出は見事でありました。

+ + +

前回の感想文からご覧の方は、書き手の態度がちょっと変わったことに気づかれたかもしれません。
それは、この日の前半に組まれていた《ダルダニュス》組曲《クープランの墓》が大変素晴らしかったからに他ならないのです。猛々しく荒っぽいことが第一義とされたらしい(あるいは練習の不足が原因だったのかもしれない)ベートーヴェンとは似ても似つかぬ、あのようにクリアなサウンドが聴かれるとは想像していなかった。ベルリオーズの演奏に対して浴びせられた喝采は、僕としては、ほとんど残らずラモーとラヴェルに供されるべきだったと思う。

《幻想交響曲》に比べて半分くらいのコンパクトな編成で扱われた《ダルダニュス》組曲は、そのぶんカンブルランの意図がアンサンブル全体に染み渡り、えもいわれぬ典雅な響きに。
ピリオド本流の指揮者でも、今回のように<当意即妙>だけでラモーのテクスチュアを織り上げることのできる人っていうのはそんなに多くはない印象です。おっかなびっくり扱ったために編み目が緩すぎたり、踏ん張りすぎて奇怪な模様ができてしまったりするのは、たまには楽しいけどいつもでは困る。しかしカンブルランは特に弦楽器に対して弓の扱い方の指示を多く飛ばしたようで、多くの音はしっとりと(でもしっかりと)したメッサ・ディ・ヴォーチェで表出するものですから、読響としてはかつてないほど軽い音になっていたのではないかと思います。もちろん、輝きはゴージャスなままで!
オケも指揮者もちゃんと小さなアンサンブル作品に向き合っているなあというのが伝わってきたし、何よりもカンブルランがこういう音楽で何を目指す人なのかが(何となくではあるけど)わかったのが嬉しい。拍手を聴いていると、たぶん読響に興味のある普通のお客さんはラモーなんか箸にも棒にもかけないんだろうけど、個人的にはとてもいい現場に立ち会ったという感じがする。これがカンブルランの所信表明だったのかもしれない。

《クープランの墓》について書くには文章が長くなりすぎました。だいたい、目指しているところはラモーの演奏とほとんど違わなかったのです。トゥッティがカンブルランの意志を捉えて有機的に動き出したら、読売日響は新しい段階に足を踏み入れるのかもしれません。

+ + +

今回から(今回だけ?)数年ぶりにサブタイトル制を復活。
by Sonnenfleck | 2009-04-21 06:44 | 演奏会聴き語り

2-1を中心として250

c0060659_4495991.jpg【TROUT RECORDS/H5508-9】
●ヘンデル:リコーダー・ソナタとトリオ・ソナタ集
⇒花岡和生(Rec)+竹嶋祐子(Vn)
 +西沢央子(Vc)+岡田龍之介(Cem)

基本的にこのブログは週末に書き溜めたものを週日に放出する方式を取っていて、余裕があると週日に新規エントリを書くこともできるのですが、ここひと月は本業繁忙期のためにそれも無理で、まさに帰って寝るだけのハードボイルド生活が続いております(帰宅できるだけマシなのか)
先週はうっかりしてヘンデルの没後250年目の日を通り過ぎてしまい、これではいけないなあと思ってこのCDをiPodに入れ、ずっと聴き続けたのでありました。結果として、この演奏のおかげで日々を乗り越えられたようなものです。

+ + +

リコーダー奏者・花岡和生氏のことについてはすでに何度か取り上げていますが、この2枚組CDはヘンデルのリコーダー・ソナタを聴くつもりで購入したので、CDの最後で、いわゆる「2-4」と「2-1」が流れてきたときにはちょっと狼狽してしまった。
「2-4」「2-1」というのは、つまり、ヘンデルが作品2として出版したトリオ・ソナタ集の4曲目と1曲目です。CDのブックレットにはHWVで表記されていたので、これら鍾愛の作品が収録されていることに全然気がついてなかったんです。

中でもop.2-1、ロ短調のトリオ・ソナタは、かつて及ばずながらも挑戦したことのある曲なものですから、第1楽章の歩むようなパッセージを聴いて、いろいろな気持ちを刺激される。リコーダーの担当する1stパートは非常に誇り高く、Vnの2ndパートは謙虚でありながら匂やか、通奏低音Vcにもテンポの維持だけではないフレージングのセンスが高度に要求される恐ろしい作品ですが、この演奏には名人の交歓といったふうの(事実名人ぞろいなのだが)余裕ある趣きがあり、緩やかに時間の流れを作っています。

どちらもあっさり上品な第2楽章第4楽章では、どの声部も絶対に衝突しないでするするとテクスチュアが編み上げられていくのが見事。最近流行りの凄腕アンサンブルではこうした急速楽章が才気煥発すぎることがあるのだけど、この落ち着いた仕立てのよさこそが日本古楽の佳さなんだわいなと思う(この佳さは、あるいはヘンデルの佳さの本質と少しずれるかもしれないけど、まあ別に構わないだろう)。

順番は前後するけど、雲を掴むような微妙な無念さの漂う第3楽章は、リコーダーの1stパートの独壇場です。花岡氏のリコーダーは力が抜けきって、そこへ盟友・岡田氏のチェンバロがリュートストップで応じ、何ともいえない香気がある。この楽章はふわふわとしていて一定の推進力を持たすのがとても難しいのだけど、この演奏では進んでいる気配すらないのに、いつの間にか終点に辿り着いてしまっているというマジックが味わえます。

+ + +

もちろんトリオ・ソナタ以外のリコーダー・ソナタも聴きもの。どれも余裕のあるオトナのヘンデルという感じなのです。余裕のあるオトナになりたい。
by Sonnenfleck | 2009-04-20 04:49 | パンケーキ(18)

R100

c0060659_9572897.jpg
若者よ、あと4倍生きなさい。

by Sonnenfleck | 2009-04-19 10:00 | 日記

on the air:イアン・ボストリッジ リサイタル@王子ホール

c0060659_0265021.jpg【2008年11月13日 王子ホール】
●ブリテン:歌曲集《この子らは誰?》 op.84~
 〈悪夢〉〈殺戮〉〈この子らは誰?〉〈子どもたち〉
●同:《冬の言葉》 op.52~
 〈十一月のたそがれ〉〈アップウェイの停車場にて〉
 〈生まれる前とそのあと〉
●カワード:《ひとりだけの旅》《パリの道化》
●ワイル:《ウォルト・ホイットマンの4つの歌曲》~
 〈叩け!叩け!太鼓を!〉〈おお船長!我が船長!〉〈畑からこっちに来てお父さん〉〈古参兵二人の哀歌〉
●ポーター:《夜も昼も》《いつもさよならを》
⇒イアン・ボストリッジ(T)+ジュリアス・ドレイク(Pf)
(2009年4月17日/NHK教育)

いつものようにタモリ倶楽部を見て寝ようと思い、テレビをつけたらボストリッジが映っていた。気楽な週末の入口としては、これは運の尽きであった(終末)。

まずブリテンを歌うボストリッジが悪鬼のようで本当に恐ろしいのです。落ち窪んだ眼窩が照明に照らされて、表情を歪めながら、しかもブリテンの救いのない歌曲を歌っているわけですから、、会場で聴いていたらどれほどの緊張を強いられたかわからない。しかしあまりうまく言えないのですが、ブリテンの湿った冷たさは他のどの作曲家とも違っているので、そこへアクセスできる歌手はかなり限られているのに、ボストリッジは易々と入ってしまうだけでなく、その場所の冷気や湿気を汲み取って何倍にも増幅させることができる天賦の才がある。改めてそのように感じた次第。
ボストリッジ+ラトルのブリテン歌曲集はいつか取り上げようと思っているのだけど、この日取り上げられていた《この子らは誰?》の晦渋さに比べれば、あそこに収録されている《イリュミナシオン》と《セレナード》は甘ちゃんでありましょう(《ノクターン》は伍すと思うけどさ)

《冬の言葉》は抜粋の放映で、おそらくクリスタルのような美しさであったはずの〈真夜中のグレートウェスタン鉄道〉がカットされてしまったのはとても残念。

一方このコンサートでは、ノエル・カワードやコール・ポーターの「芸術的なまでに反芸術的な<うた>」が、ブリテンと並列的に取り上げられていました。ブリテンの虚無とカワードの享楽って、こんなに似ているのだね。最後のポーターもとてもお洒落であって、ああ、生で聴いてみたかったなあ。
by Sonnenfleck | 2009-04-18 09:03 | on the air