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どうしてもか。そう、どうしても、だ。

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STAXのイヤースピーカーがほしい。熱烈欲望。
吉祥寺のディスクユニオンに行ったら(何年ぶりだ)1階がオーディオユニオンであることに気がついてです。昔はソフトにしか関心がなかったから素通りしてたのね。ちゃんとSTAXのシステムが配備してあったんだけど、おっかなくて試聴はできませんでした。
オーディオ屋さんの人たちって、どうしてあんなに近寄りがたいのか。

STAXを導入するとしたら、オーディオラックからアンプからCDプレイヤーから何もかも取り替えなくてはならないので、ボーナスの減少も確定的な現今においては明確に二の足を踏んでいる。でも、エンジニアが捉えた音情報にもうちっと近づくべきではないかという悪魔の声も、日に日に大きさを増している。カタログを見てますます溜息をつくばかり。

皆さんの中でSTAXをお使いの方はいらっしゃいますか。実際どうなんでしょう。
by Sonnenfleck | 2009-05-31 08:00 | 精神と時のお買い物

精神と時のお買い物XVIII(週末プチ)

【Books書原 六本木店】
1 村上春樹:『1Q84』 BOOK1(新潮社)

【TOWER RECORDS 渋谷店】
2 ラモー:《アナクレオン》+《忠実な羊飼い》(Brilliant) *ミンコフスキ/ルーヴル宮
3 ヤナーチェク:《ラシュスコ舞曲集》他(DECCA) *ユイブレシュト/ロンドン・フィル
4 ショスタコーヴィチ:《鼻》(MARIINSKY) *ゲルギエフ/マリインスキー歌劇場

1には驚いたなあ。
まだ1ページ目までしか読んでいないんだけど、冒頭にヤナーチェクの文字を発見し、文字通り仰天しました(村上春樹の場合、表記は「ヤナーチェック」だったけど)。当該キーワードでGoogle検索に掛けると、この前のヤナーチェクに関するエントリがかなり上位にヒットしてしまいますが、あのエントリを書いたのはまったくの偶然なのです。やれやれ。

Brilliantが本気でオペラの再発売に取り掛かると、2のような作品も日の目を見ます。ミンコフスキはバッハでもヘンデルでもなくて、やっぱりラモーの人だと思うんだわさ。
で、極めて貴重な《鼻》の新録音でありますから、4は捨て置けません。ゲルギエフのCDを買ったのはずいぶん久しぶりですが、この作品の場合は、ゲルギエフの味がかなりいい方向に働いているんじゃないかと予想しています。予想というかある種の確信がある。

異界に踏み入るための3。あえてヤナーチェクに近づいてみよう計画、遂行中です。

+ + +

店内に流れる《新世界より》の第4楽章コーダ(そんなにべっとりしていない演奏だ)に向かって、初老の男が「もういい!!」と絶叫していた。週末瞬間異界塔。
by Sonnenfleck | 2009-05-30 09:25 | 精神と時のお買い物

on the air:下野竜也/読売日響 第481回定演 [芥川&藤倉]

c0060659_6312744.jpg【2009年4月7日(火) サントリーホール】
●芥川也寸志:《エローラ交響曲》
●藤倉大:《アトム》(読売日響委嘱作品/世界初演)
●黛敏郎:《涅槃交響曲》
→東京混声合唱団

⇒下野竜也/読売日本交響楽団
(2009年5月24日/NHK-FM)

聴きに行ってみたかった読響定期が、まさかのNHK-FM登場!「現代の音楽」枠を使って2週分割オンエアと相成りました。嬉しいなあ。NHKに受信料を払う意味はこういうところにあります。

まず芥川の《エローラ交響曲》ですね。
サントリーホールのよく響くホールトーンの中で、細部は決して明瞭ではないけど、むしろこの作品の場合はそれが活きるよなあ。こういうゴツい曲をやるのにマエストロ・シモーノと「今の」読響の組み合わせは現代日本最高と思われます(名フィルもきっといい味出しますが)。
いやあオスティナートが、、かっこいいッス。滾るようなパワー。それだけだ。
会場の拍手が極めて鈍いんですが、ゲンオンヲタが集まれなかったのだろうか。

続いて藤倉大の《アトム》。世界初演です。これはもう一度聴きたいと思った。
弦楽器のぷつぷつとした気泡がいっぱい集合してテクスチュアが出来上がっていく様子はファンタみたいにカラフルでかわいらしいし、その後に立体感のあるサクサクとした生地と併せて悪戯っぽい。後半は打楽器を中心に据えたところから始まって、比較的静謐な時間が続くんですが、こちらもどことなくユーモラスなんだよなあ。下野/読響も腰が据わっていて、案外ありがちな「いいのかな~これこうでいいのかな~」みたいな自信のなさが、しっかりと排除されているのが気持ちいい。
藤倉作品って(語れるほど聴いてないけど、僕がこれまでに聴いた曲は)根底に「楽しませよう」っていう気持ちがあるように思うんです。それってゲンオンにとっても大事、、ですよね。

来週の「現代の音楽」はー、《涅槃交響曲》の一本です。また聴いてくださいね!
by Sonnenfleck | 2009-05-29 06:33 | on the air

私はおばちゃんの魅力に抗うことができません。

c0060659_63384.jpg【ARCHIV/00289 477 7467】
<バッハ>
●カンタータ第54番《さあ罪に抗うがいい》
 ~〈さあ罪に抗うがいい〉
●同第197番《神はわれらの確信》~〈あらゆる煩いの苦悩を〉
●同第99番《神のみわざはすべて善し》
 ~〈もしも十字架に苦さが〉*
●《マタイ受難曲》 BWV244~〈憐れみたまえ〉
●同第30番《喜べ、贖われし群れよ》~〈来たれ、試練にさらされた罪人たちよ〉
●同第35番《心も魂も乱れ惑わん》~シンフォニア
●同第74番《われを愛する者は、わが言葉を守らん》~〈何も私を救うことはできません〉
●同第12番《泣き、嘆き、憂い、怯え》~シンフォニア
●ミサ曲 ロ短調 BWV232~〈アニュス・デイ〉
●マニフィカト BWV243~〈そしてその憐れみは〉**
●同第60番《おお永遠、そは雷の言葉》~〈おお永遠、そは雷の言葉〉***
●同第117番《讃美と栄光はいと高き宝にあれ》~〈讃美と栄光はいと高き宝にあれ〉****

→カーリン・ローマン(S *,****)、アンデルス・J・ダーリン(T **,***)
  トマス・メディチ(T ****)、ヤコブ・ブロッホ・イェスペルセン(BsBr ****)
⇒アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(MS)
  ラルス・ウルリク・モーテンセン/コンチェルト・コペンハーゲン

タイトルどおりです。おしまい。

…というわけにもいかないだろうから、書きます。
この新譜は、池袋のHMVで店頭試聴した際に電撃的に「来る」ものがあったので衝動買いした一枚なんですよ。ところが改めて自宅で聴き込んでみると、収録曲をオッター自らが選曲しただけのことはあって、どれもねっとりとした表現欲の塊のようであり、あまりにも濃いその表出性に疲れを感じるほどでありました。ここでの強い表現欲に比べると、そこらの「バッハ:アリア集」はほとんど小娘のお喋りのように霞んでしまいましょう。

まず冒頭、カンタータ第54番の〈さあ罪に抗うがいい〉ですな。
ブラ6に似た歩み音型を持つこのナンバー、以前からけっこう好きでして、それゆえにオッターの激しいディクションには度肝を抜かれた次第。たとえばSündeGiftあるいはSatanに込められた嫌悪の表情や、wiedersteheにおいてste~↑he↓の音程を強調する方法なんか、一聴しただけで強烈なスパイスだと気がつくのに、それら同士をブレンドして、つまり露骨を取り入れて自然に聴かせてしまう状態は、おばちゃんの老獪さの証明であると思う。この表現意欲には完全に脱帽せざるを得ません。クサいけど。

それからカンタータ第99番のデュエット〈神のみわざはすべて善し〉
他の歌手との二重唱を聴くと、オッターおばさんの「普通でなさ」はさらに強調されます。ローマンというソプラノだって巧者なのは間違いないんだけど(それどころか歌手としてのメカニックは彼女の方が上のような気もするんだけど)、オッターがテクストに施す微細な増強に対して、ローマンのほうは立派な教科書の朗読みたいになってしまっていて気の毒なくらいだ。
この現象は第60番の〈おお永遠、そは雷の言葉〉のデュエットでも起こっており、"O Ewigkeit, du Donnerswort"の一文を神話体系のように巨大に構築するオッターを目の前にして、テノールのダーリン君は気合いが空回りしちゃってるみたいに聴こえます。

そして、緩急自在のピッチングに翻弄された我々の目の前に、マタイの〈憐れみたまえ〉
完全に脱力した技巧、とでも言ったらいいのかしら?
歌舞伎や落語に詳しければ、こういう技巧をうまく言葉にすることができそうな気がする。力を抜ききっているように聴こえるんですけど、それが空疎を呼ぶなんていうことでは全然なくて、むしろ連続的にテクストが流れる上を順調に滑っていくような快感を覚えます。この曲に欠かせないじとじととした「感動」の、一段上のところを巡航しているんだよなあ。

+ + +

それからコンチェルト・コペンハーゲン。なんか異様に巧くなってる。。不覚であった。。
朴訥な音色のアンサンブルだとばかり思っていましたが、予想外の急速な近代化が起こっているようです。シンプルな塩味クラッカーみたいな味わいはそのままに、クラッカーの姿かたちが鋭角的に進化して、オッターのように個性的な味を上に乗っけても砕けない強い土台になっていました。カンタータ第35番のシンフォニアで聴かれるオルガン・ソロに顕著なモーテンセンの好みが、10年ですっかり浸透したと考えるべきか?
by Sonnenfleck | 2009-05-27 06:35 | パンケーキ(18)

on the air:P. ヤルヴィ/フランクフルト放送響@サントリーホール

c0060659_6213143.jpg【2008年6月3日(火) サントリーホール】
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第5番変ホ長調 op.73 《皇帝》
 ○同:Pfソナタ第30番ホ長調 op.109~第1楽章
→エレーヌ・グリモー(Pf)
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
 ○ステンハンマル:カンタータ《歌》~間奏曲
⇒パーヴォ・ヤルヴィ/フランクフルト放送交響楽団
(2009年5月24日/NHK-FM)

雨の日曜FM鑑賞会。なんとお金の掛からない趣味だろう。

パーヴォ・ヤルヴィの騒がれ方に、正直言ってついていけてません。
一度でもガツンと来る体験をすれば違うんだろうなあとは思うんだけど、何年か前にN響で聴いた《ライン》はシューマンの趣味を細かく焙り出すやり方が功を奏してなかなかだったものの、逆にショスタコーヴィチの第5は呼吸が浅く寸詰まり、かつむやみに露悪的で、耳を覆いたくなるようなひどい演奏でした。自分の中ではいまだに評価の定まらないお方です。

で、昨年の来日公演ライヴを聴きましたが。
前半の《皇帝》は、グリモーと喧嘩でもしたんではないかという「噛み合わなさ」が非常に気になります。特に第1楽章にそれが顕著で、グリモーがさあっ!と挑もうとするパッセージにパーヴォが全然興味を示さず、梯子を下から外して立ち去ってしまう局面が多く感じられました。これはパーヴォからしたら「何をつまらない景色に見とれてるのか」といった感じだろうし、グリモーからしたら面子を潰されたような感じでしょう。この指揮者とこのピアニスト、互いに好みややりたいことに堅い芯がありそうだし、どっちも悪者にはならないけど、互いにストレスフルな共演だったんじゃないかと思う。聴衆はドキドキだぜ。

ねっとりとした第2楽章と、あっけないほど快速の第3楽章は、指揮者とオケのやや強引なテンポ設定にグリモーが大人の対応を見せたような雰囲気。特に協奏曲の場合、アインザッツからそのパッセージにどれくらいの思いがあるのか何となく判断がつきますけど、思い入れありそーぅに始めた楽句をもったいなさそうに放棄していくグリモーを聴いているのはあまりいい気持ちではありませんでした。
アンコールの第30番のソナタは水を得た魚のようで。。ブラヴァ。

後半のブル7。かなり恣意的に風呂敷を広げまくった演奏だったように思います。
僕はブルックナーへの思い入れが薄いから許せるのかもしれない。ブルックナーを挟んでワーグナーとマーラーが立ち、何も気づかないブルックナーの後ろで二人が握手をしているような、そういう光景が目に浮かびました(でも、ショスタコーヴィチの後ろでグラズノフとデニーソフがニヤニヤ笑いで握手してるのが、まさにN響とやった第5ではなかったか)。
あの激しい起伏は面白くなかったのかと尋ねられたら、面白いと答えざるを得ない。ただ、波を割り船体を空に飛ばす機雷をあちこちに沈めて、パーヴォさん何がしたいの?と。そういうことです。「恣意的な演奏」ごっこだろうか?そうじゃないといいなあと思う。

いつかこの指揮者のグッとくる演奏に出会いたいです。
by Sonnenfleck | 2009-05-26 06:37 | on the air

ひげとしましま

ツィマーマン来日中です。僕は来月20日の最終公演を所沢まで聴きにいく予定でありまして、新型インフルエンザのために中止にならぬことを切に願うばかり。
バッハ:パルティータ第2番ハ短調 BWV826
ベートーヴェン:Pfソナタ第32番ハ短調 op.111
ブラームス:4つの小品 op.119
シマノフスキ:ポーランド民謡の主題による変奏曲 op.10
これが当日のプログラムですが、今回はシマノフスキがとっても楽しみなのです。
シマノフスキの東方ロマンティシズムをツィマーマンの美音で聴くのは一体どんなものなのかと思っていてですね。ネタバレ覚悟でこの録音を買い求めてきて、予習してみました。

c0060659_6434631.jpg【DGG/00289 477 5903】
●フランク:Vnソナタ イ長調
●シマノフスキ:《神話》 op.30
 〈アルトゥサの泉〉〈ナルシス〉〈ドリアデスとパン〉
●同:歌劇《ロジェ王》 op.46 ~〈ロクサーナの歌〉
●同:《クルピエ地方の歌》 op.58
⇒カヤ・ダンチョフスカ(Vn)+クリスティアン・ツィマーマン(Pf)

まだ若くて髭のないツィマーマン。しかしこの時点で「完璧」。
《神話》の3曲はどれも美音のさざ波に浸されています。そもそも、ドビュッシーの流儀とスクリャービンの魂がねっとりと絡み合うような美しい仕立ての作品なのですが、それをマニエリスティックな美音で再生していく若き日のツィマーマンの腕前には溜息しか出ません。
〈アルトゥサの泉〉でずっと聴かれる清々しい水音。その水面に映る〈ナルシス〉では、前半の偏執的な反復音型と後半の自己完結したような情熱が鋭く描き分けられているのがポイントでありましょう。その傍らで〈ドリアデスとパン〉の身軽な追いかけっこ。

〈ロクサーナの歌〉よりも《クルピエ地方の歌》に惹かれますなあ。シマノフスキの中の旋律と民謡の旋律を比べるのはよくないかもしれないけど。実にハスキーなダンチョフスカの音色も、ほんの少しショウピースっぽい前者より、苦みの強い後者のほうが似合う。

遡って、フランクのソナタは第3楽章が圧倒的です。予想を遥かに上回る敏感繊細な時空がスピーカーから立ち昇ってきて、居たたまれなくなるくらい。これでダンチョフスカもクリスタル系の音色の持ち主だったら本当に張り詰めてしまいますが、ハスキーさが逆に功を奏して何とか日常に踏み止まった感あり。日常から出て行くのには勇気がいります。
by Sonnenfleck | 2009-05-25 06:44 | パンケーキ(20)

未遂張子

c0060659_8544392.jpg【POINT CLASSICS/267164】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒ミラン・ホルヴァート/オーストリア放送交響楽団

「キオスクのフルトヴェングラー」との呼び名もあるミラン・ホルヴァートのタコ10、、けっこう探していました。見つかるときにはすっぱり見つかってしまうんだよね。でも、案外突拍子もない演奏。地味めかもという予想は大外れだ。

まず録音の加減が怪しい。データが記載されていなかったためググってみると、70年代の録音らしいのですが、それにしてもいかにも左右の幅が狭く、広いホールの後方で舞台を眺めているような音場です。そのせいもあるとは思うけどオケの音色が予想よりもずっとヒョロリとしており、ところどころ極めて元気がない。両端楽章は特にその傾向が強くて、ひ弱な印象が拭えません。
しかしそれに反して、真ん中の2つの楽章はまるで虚勢を張るように特徴的なのです。
第2楽章のハリボテのような巨大さはどうしたことでしょうか。普通は4分から4分半で終わることの多いこのスケルツォに、4分52秒もかけているんです。で、音符の列を機械的に圧延しただけでは効果的ではないよ、という見本が一丁上がり(途中の込み入ったテクスチュアが、テンポの遅さゆえに若干明瞭に聴こえるのは面白い)。
それに続く第3楽章は、当たり障りのない主部とは対照的に、中間部において突如、猛烈なアッチェレランドを駆使して仰天させます。宇野功芳なら「鬼面人を驚かす」と書くだろう。

この前取り上げたストコフスキのパフォーマンスは、全編確信に満ちて徹底的に張子を構築しているのが素敵でしたが、翻ってこの録音はそれほど魅力を感じない。気高く真面目そうなウィーンの放送オケ気質が、はじけるのを良しとしないのかも。ホルヴァートは名匠として語られることもある指揮者だけに、このディスクが手に入りにくい状態にあるのは、それはそれで良しとしたほうがいいのかもしれません。
by Sonnenfleck | 2009-05-23 09:02 | パンケーキ(20)

ハルサイ・プラス

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<ストラヴィンスキー>
●バレエ音楽《春の祭典》
●3楽章の交響曲
⇒ジョナサン・ノット/バンベルク交響楽団

自作自演箱を使ってストラヴィンスキー・マラソンをやったのがずいぶん前のような気がしますが、久しぶりにここに戻ってくるにあたり、このディスクに向き合おうと思いました。何しろご紹介せずにはおれないからです。

音響快楽主義的傾向の好みを(はしたなくも)持ち合わせているために不満に思うのは、ストラヴィンスキーなら、特にハルサイなら、非楽音的な方向にむしろ積極的に寄せてドンチャン騒ぎにしちゃっていいよね、みたいな演奏がけっこう多いということです。けれども、いやいや、そんなに簡単な作品でもないだろうと。
シンプルな機能美や運動美を追求することによってプラスマイナス0に持ち込む演奏は確かにいくつか存在しているし(ブーレーズの旧録音なんかまさにそれだと思う)、それでいいと思っていたこともありましたが、それじゃあ物足りなくなってしまった。あえてプラスの方向へこだわりのモデリングをしている演奏はないもんだろうか、と思っていたんです。

カラヤン?―いえいえ。今やジョナサン・ノットの造形を耳にすべきです。
ここにある音はことごとく楽音的なんですよ。この作品だから凶暴に野蛮に、荒れた音響で汚らしく描く、なんていうのは、この演奏を聴いた自分には愚の骨頂だと思われます。ノットとバンベルク交響楽団は「不協和音」の協和的美、みたいなものをとことんまで追求した結果、第一級のメンデルスゾーンのように理路整然としながらそれ自体が美しい音響体に、ハルサイを仕立て上げてしまった。
当然ながら第1部〈序奏〉のファゴット(及びその後景にいるクラリネット属)に始まり、〈生贄の踊り〉の最後で閃くフルートのパッセージに至るまで、ソロ楽器の音は徹底的に殺菌され、同時に藝術的に表現することが求められています。意味のない、あるいは雑音めいた絶叫はひとつとして見つからないのです。
そして〈春のきざし〉の弦楽器の刻みが、これが「弦楽器の刻み以外の音には聴こえない」。これって凄いことだと思いません?ストラヴィンスキーの意図していたことに、我々は100年近く囚われていただけなんじゃないだろうか?

第2部の前半は官能的な和音の洪水です。ここの部分、凡百の演奏では2色刷りくらいまでカラーリングを落としてしまって実に拙いことになるんだけど、ノットはそんなことはしません。だって楽音だもの。いいスピーカーで大きく鳴らしたらどんなに素敵だろう。
〈選ばれた生贄への賛美〉から〈生贄の踊り〉にかけて、たとえば統率力の弱い指揮者がカオスに乗じて逃げ切ろうとする局面にあっても、真正面からアンサンブルを整理整頓し、ひときわ冷静な(むしろ静謐な)美しい音響を連続的に生産しているのを聴くと、萌えとしか言いようがないわけです。いやーノット+バンベルクの秋の来日が楽しみで仕方ない。
by Sonnenfleck | 2009-05-22 07:01 | パンケーキ(20)

punt on a stream

c0060659_636939.jpg【ONYX/4020】
<バッハ>
●Vn+Cemソナタ全曲 BWV1014-1019
●Vnと通奏低音のためのソナタ ト長調 BWV1021 *
●トリオ・ソナタ ハ長調 BWV529 *
⇒ヴィクトリア・ムローヴァ(Vn)
  オッターヴィオ・ダントーネ(Cem/Org*)
  ヴィットーリオ・ギエルミ(Gam*)、ルカ・ピアンカ(Lt*)

そうは言ってもバッハから逃れるのは難しい。

協奏曲集がとてもよかったダントーネの、今度はムローヴァと組んだVnソナタ集です。この曲集が異様に好きな自分としては、大いに気になっていました。で、今のところの自分の横綱はカルミニョーラ+マルコンなんですけど、しかしこちらの組も初土俵から一気に大関まで駆け上がってきてしまった。かなり素敵な演奏だ。

そもそも、協奏曲のときにダントーネに対して感じたピリオドの新古典主義というのはやっぱりこの曲集でも活きていて、ダントーネはほとんど現実感を感じさせないほどに清潔なアーティキュレーションを展開しているのです(これに比べたらポッジャー+ピノックだって作為を感じさせてしまう)。僕の愛する第2番イ長調 BWV1015の急速楽章が、晴れ上がった真夏の朝にペリエを一気飲みするような、そういったタイプの快感を提供するところまで行っています。装飾も揺らぎもちゃんとあるのに、、なんでこんなに真っ直ぐで爽快なのさ?え?
それでいて少しも量感が不足していない点には驚きで、たとえば第1番ロ短調 BWV1014の第4楽章冒頭の、空気を弾き飛ばすような爆発的なタッチに萌え。

ヴァイオリニストにも触れなくちゃならない。しかしムローヴァとダントーネの音楽的志向がこんなにぴったり合っているとはなあ。。チャイコフスキーなんかを弾いてたころのムローヴァしか知らずにいるのはもったいないですよ。
浪漫的にやればいくらでも崩れる第4番ハ短調 BWV1017の第1楽章では、瑞々しくも一本芯の通ったなだらかな植物のように旋律線を仕立て上げ、それに随行するダントーネのデジタル気味な清潔タッチとともに、非常に完成度の高い一個の箱庭を作り上げています。一体ここにどんなスケールの大きさが必要だろうか?ここに閉じ篭もれば?

この、気品に溢れた植物のような音響体に、僕はフランチェスカッティ+カサドシュの演奏を思い出す。時間の流れを気にも留めない演奏が共通して持っている何かが、やっぱりここにもあるように思います。
by Sonnenfleck | 2009-05-20 06:37 | パンケーキ(18)

境界

LFJが終わってから、たぶん一度にあまりにも多くの音楽を身体に入れすぎたせいで、フツーの音楽を聴く気がまったく起こらなくなってしまい、非常に変な状態が続いています(《マクベス夫人》の感想文もやっとの思いで書き上げた)。この気分は黴のように繁殖して、音楽への集中を著しく削いでしまいましてですね。最終日のチケットを半分くらい友人に譲ったのはここからくるものが大きい。
自分の片輪である古楽がかくも肥大してしまった以上、もう片方のモダンを強化せぬかぎりは一箇所を周回せざるを得ないのだから、しばらく強制的にモダンに浸ろうと思っています。

+ + +

c0060659_974997.jpg【SUPRAPHON/COCQ83825】
<ヤナーチェク>
●弦楽四重奏曲第1番《クロイツェル・ソナタ》
●同第2番《内緒の手紙》
⇒ヤナーチェク四重奏団
   イルジー・トラーヴニーチェク(1stVn)
   アドルフ・シーコラ(2ndVn)
   イルジー・クラトクヴィール(Va)、カレル・クラフカ(Vc)

村上春樹の新作長編『1Q84』の発売が間近に迫るこの5月、『海辺のカフカ』→『ねじまき鳥クロニクル』→『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と順に読み返している最中であります。
ちょうどねじまき鳥の第3部まで来ていますが、あれらはやはり通勤時間帯に、満員電車で読むべきものではない。少なくとも出勤時に読むべきではない。「東京性と異界の割れ目」と言ったらいいのか、ともかく村上春樹にとって極めて重大なあの要素に飲み込まれてしまって、これから真面目な顔をして仕事をするなんていう気分にはならないもの。

その間中ずっと、iPodに入れたこのヤナーチェク四重奏団の録音を聴いています。
回帰の第一弾にヤナーチェクを選んだのは、「自分にとってフツーではない」音楽じゃないと起爆剤の用を成さないだろうと思われたからです。それほどまでに普段の僕とヤナーチェクの距離は遠くて、彼の、他のどの音楽とも異なる独特の抑揚や独特の和声に異様な感じを受けていたために、ずいぶん長い間接近しないようにしていました。実は。

5月の日光が電車の中に充満しても、ヤナーチェクは簡単に異界にアクセスする(ちょうど手にしている村上春樹が、簡単に異界へ足を踏み入れるのと同じように)。理論がわかり耳の鋭い人は、ヤナーチェクのどの部分がドヴォルザークでどの部分がブラームスか言い当てることができるのかもしれないけど、自分にはそれがうまくできなくて、であればヤナーチェクが使っている不思議な言葉を辛抱強く掴み取るしかない。幸いなことに通訳の4人が素晴らしくセンスに溢れている。
何度も繰り返し聴いていると、初めのうちは比較的馴染みやすかった《クロイツェル・ソナタ》よりも、不思議と《内緒の手紙》のほうにだんだん心惹かれるようになってきました。この不思議な言葉を「東欧風」などとごまかして還元するのはやめて、ディアローグそのものを感覚的に受容するのがいちばんいいのだと思う。つまり、ヤナーチェクの音楽が何かの暗喩であると考えるのをやめることで。。こちらに慣れてしまうと今度は、真面目な顔をしてドヴォルザークやブラームスが聴けなくなってしまうかもしれないけどね。

結局何が書きたいのかよくわからなくなっているけど、とにかく第一歩。
by Sonnenfleck | 2009-05-19 06:21 | パンケーキ(20)