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「謎のカウントダウンサイトが登場!」(SQUARE ENIX/6月26日)

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1995年の「ロマンシング サ・ガ3」以来、14年ぶりに「ロマンシング サ・ガ4」が出るという噂あり。これは注目しなくてはならない。今、カウントダウンサイトでは物凄いピアニシモでBGMが鳴っていまして、きっと段々クレッシェンドしていくんでしょう。
いま見に行ったら、余白にでっかい竜が書き足されていた。
by Sonnenfleck | 2009-06-30 06:20 | 広大な海

音楽と音響の間

c0060659_6203046.jpg【BIS/1286-1288】
●シベリウス:交響曲第5番ホ短調 op.82
(1915年初稿&1919年最終稿)
⇒オスモ・ヴァンスカ/ラハティ交響楽団

「おかか1968」ダイアリーでも取り上げていただいた「シベニコ動画」に強く影響されて、シベリウスに少なからぬ興味が出てまいりました。おやおや、どういう風の吹き回しか。

前にもどっかで書いたかもしれないけど、シベリウスや彼につながる北欧の作曲家たちを軒並み苦手とします。自分の中身は強烈に北方志向なのに、帝政~ソヴィエト=ロシアの音楽も文学も美術もあんなに好きなのに、スカンディナヴィアに入っちゃうとなぜか受け付けなくなるんです。どうしてだろね。
「シベニコ動画」ではコリン・デイヴィスに惹かれたですが、まずはとりあえず、唯一単体で架蔵しているシベリウスの交響曲全集であるヴァンスカ/ラハティ響の第5交響曲をiPodに落として、通勤に一週間聴き続けるのです。移動に伴うかたちで音楽を聴くことは、実にその音楽の中の新しい要素を僕に届けてくれる。さても、これまでにプロコフィエフや武満やグラスでそのような体験をしてきた流れに、シベリウスだってちゃーんと乗っかったのであります。

今回、特にシベリウスの場合は、音楽が時間を刻むやり方のようなものがずいぶん他の作曲家と違うんだということを意識することになりました。もしかすると僕がシベリウスを苦手にしているのは、音楽の構造を追っていく普通の方法がこの作曲家では通用しないからなのかもしれないと、そこまで思わされた。これはシベリウスの本意ではないかもしれないし、第5交響曲はシベリウスの核が鎧われた外側でしかないかもしれないけど、目の前をすっ飛んでいく車窓の景色を眺めて、それでシベ5をiPodで聴いていると、この音楽の反復性の薄さ、結合の緩さ、曖昧にぼやかされた核心に思いを致さないわけにはいかない。
このCDで聴かれる「初稿」の裸っぽさ、防御力ゼロの生シベリウス。逆に完全武装に鎧きった「最終稿」との間にできているギャップに、自然とシベリウスの本質が見えている。のか。

さらに、ヴァンスカ/ラハティ響がスコアから作り上げている音が、特に構築物としての音楽から自由なんじゃないかと思います。室内で録音媒体によるシベリウスを聴けるほどの集中力を自分が持っていなかったことがよくよくわかった。こっちが感覚の精度を上げて、いつかは4番や7番にも親しんでみたい。苦手は克服されるべし。
by Sonnenfleck | 2009-06-28 06:25 | パンケーキ(20)

MOTで見る夢/MOT.Field of Dreams@東京都現代美術館

c0060659_8164378.jpg人が大勢いる美術館はうんざり!豊田市美術館に行きたいよ!
―それも叶わなければ、MOTへ。正直言って、わざわざあそこへ出かける人はとっても少ない。天気も案外よくて、あそこの明るい広さが好きな自分には嬉しい環境の中、常設展の作品と一対一で向き合うのこと。
「MOTで見る夢」と題された常設展、本当はもっと早く出かけるつもりでしたが、会期末間際になってしまいました。会期末間際でもちっとも人がいないのは本当にありがたい。東京都ありがとう東京都。

まず、1階の長ーいエントランスロビーが改装されて、ごちゃついていたNADIFFが部屋を与えられて脇に引っ込んだため、すっきりとした眺望になっていたのに驚き。

高木正勝 《Bloomy Girls》(2005年)

c0060659_8165887.jpg1階の始めのほうはあんまりピンとくるものがなかったのだけど、国吉康雄や奥村土牛といった近代絵画が展示されている部屋に入り、さらに奥のコーナーで展開されていた高木正勝のビデオ・インスタレーション、《Bloomy Girls》に強く心惹かれてしまった。
左の静止画像のような、ほとんど意味を為さない色彩がぬるぬると乱舞する中から、女性の顔(のように識別できる何か)が浮かび上がったり、また消滅したり。美しい時間彫刻なのであります。一緒の時間帯に見て回っていたかりそめの同行者たちと一緒に、暗い部屋のスツールに腰掛けてハナノオトメタチを眺めるひと時。
そこから出てきて、まず目に飛び込むように壁に掛けられたのが、黒田清輝《引汐》《上汐》《入江》という小さな油彩3作。小さな画面に息を飲むような静けさ。

長い階段を3階まで上り、サム・フランシスの(相変わらずな)《無題》に夕方の梅の樹のような翳りを見出してから、大竹伸朗《ゴミ男》ヤノベケンジ《ロッキング・マンモス》といった手段を選ばない存在感に唖然としつつ、奥の方を見遣る。

名和晃平 《PixCell-Deer#17》(2008-2009年)

遠目で、あるいは上にアップしたような調整済みの画像で見ると、霧の中で水滴の付いたメガネから鹿を眺めるような、夢幻的なものを感じるのです。無理矢理に視覚を調節されるような面白みを。
でも近寄ると、今度はそのグロテスクさに鳥肌が立つ。一分の隙もなくびっしりと貼り付けられた無色ビー玉に鹿の体毛が映り込み、生物の生々しさを増幅することに見事成功しているんですな。この剥製の鹿は、ビー玉世界に永遠に閉じ込められることを知っていただろうか。

+ + +

2階の<Càfê Hai>で練乳のブランマンジェとベトナムコーヒーを頼んで、しばし休憩。
by Sonnenfleck | 2009-06-27 08:19 | 展覧会探検隊

シベニコ、マラニコ、

ニコニコ動画の「クラシック」タグには、案外クラヲタゴコロを上手に撫でるクリップがUPされていて、このへんはYouTubeには見られない独特の進化だわいなあと思って見ています(いや、もしかしたらYouTubeにだって探せば埋まってるかもしんないけどさ)。

シベリウス - 交響曲第5番 和音終止聴き比べ(ニコニコ動画)

これなんかまさに作者さんの労作ですよ。シベ5の第3楽章の終結部分を21種類の録音で聴き比べてしまえ、というクラヲタらしい楽しみを、なんとありがたいことに我々へも分け与えてくれるのですから。特にシベリウス音痴をなんとか克服したい僕は、このクリップでしっくりくる演奏を探し当てることができ、非常に感謝しています。

・カヤヌス/ロンドン響(1932)  ・クーセヴィツキー/ボストン響(1936)
・カラヤン/フィルハーモニア管(1951~52)  ・カラヤン/フィルハーモニア管(1960)
・カラヤン/ベルリン・フィル(1965)  ・カラヤン/ベルリン・フィル(1976)
・ハンニカイネン/シンフォニア・オブ・ロンドン(1959)
・バルビローリ/ハレ管(1966)  ・マゼール/ウィーン・フィル(1966)
・ザンデルリンク/ベルリン響(1971)  ・ロジェヴェン先生/モスクワ放送響(1973)
・コリン・デイヴィス/ボストン響(1975)  ・コンドラシン/コンセルトヘボウ管(1976)
・アシュケナージ/フィルハーモニア管(1980)
・ラトル/フィルハーモニア管(1981)  ・ラトル/バーミンガム市響(1987)
・ベルグルンド/ヘルシンキ・フィル(1986)  ・ベルグルンド/ヨーロッパ室内管(1996)
・バーンスタイン/ウィーン・フィル(1987)
・ブロムシュテット/サンフランシスコ響(1989)  ・ヴァンスカ/ラハティ響(1997)

そうかーコリン・デイヴィスかー

+ + +

ちなみに、姉妹編「マーラー - 交響曲第6番「悲劇的」 ハンマー聴き比べ」も楽しいス。
by Sonnenfleck | 2009-06-26 06:10 | 広大な海

ピョートル・アンデルシェフスキ リサイタル@サントリーホール

c0060659_624271.jpg【2009年6月6日(土)19:00~ サントリーホール】
●シューマン:《暁の歌》op.133
●バッハ:パルティータ第6番ホ短調 BWV830
●ヤナーチェク:《霧の中で》
●ベートーヴェン:Pfソナタ第31番変イ長調 op.110
 ○バルトーク:《チーク地方の3つのハンガリー民謡》~第1曲
 ○バッハ:パルティータ第2番ハ短調 BWV826~サラバンド
⇒ピョートル・アンデルシェフスキ(Pf)


以下、感想文に満たない覚え書き。

《暁の歌》は特に第1曲と第5曲において、真綿で首を締められているような、苦しみの繊細地獄でありました。あれがずっと続いたら椅子の上でのびてしまったでしょう。
逆に、異常な装飾文様の刻まれたそのアーチの下の中間3曲は奔放、もしくは感覚的すぎて(あるいはあのホールの音響特性上仕方ないのかもしれないが)ちょっと取りとめがないように聴こえてしまったのでした。

いっぽう、彼のバッハは、モダンのピアノで現代古楽と同じ方向を目指したところで、あまり素敵な効果は生まないらしいということをわからせてくれた(かつてグールドがバッハで、ホロヴィッツがスカルラッティで取ったようなスタイルは、当時のモダン演奏家の視点から見た「当時の古楽様式感」ではないだろうか?)。アンデルシェフスキがいかに現代古楽のアーティキュレーションを研究しているか、よくわかったのだけど、それと好き嫌いは別の次元でありまして、あの増幅された饒舌さは自分の範疇からは外れてしまいます。

当夜の一番の収穫は、ヤナーチェクの《霧の中で》だったかなと思う。
アンデルシェフスキはここでも巧妙な手練手管を用いて、ヤナーチェクが(もしかしたら)フリーズドライにして小節線の中に埋め込んでいたものを鮮やかに解凍し、聴衆にぶつけてきます。ヤナーチェクの味わい方に慣れていない僕のような人間にとっては、この鮮やかすぎる造形はむしろありがたいくらいで、新鮮な気持ちでこの曲集に接することができました。自分が聴いていたシフの奥ゆかしさとはあんまりにも違うやり口に面食らいつつも、ずいぶん素直に楽しめたなあという印象が残っています。

ベートーヴェンに関してはコメントなし。難しい。
by Sonnenfleck | 2009-06-25 06:24 | 演奏会聴き語り

マルクを待ちながら

c0060659_6321994.jpg【Brilliant(ARCHIV)/93930】
●ラモー:オペラ《アナクレオン》
●同:カンタータ《忠実な羊飼い》*
→ティエリー・フェリックス(T/アナクレオン)
  ヴェロニク・ジャンス(S*/バッカスの巫女)
  ロドリーゴ・デル・ポゾ(T/アガトクレス)
  アニク・マシス(S/クピド)
⇒マルク・ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊&合唱団

日本にいてヘンデルを観聴きする機会はなんとなく増えているような気がしますが、翻ってほんまもんのラモーに触れるチャンスというのはまったくもって少ないままであります。だからこの秋のミンコフスキ/ルーヴルのラモー・プロには激しい期待を寄せているわけ。

その予習でもないけれど、最近BrilliantがDGGからライセンスを得て再発売した《アナクレオン》に耳を傾けています。全1幕で40分程度の短いオペラでして、解説を読んでみると、どうやら「愛と酒は両立するか」という問いを中心に据えた他愛のない作品のようです。ただ、初演されたのが1657年とラモーの晩年期にあたりますから、解説にも書いてあるとおり音楽がかなり如実にイタリア様式の影響を受けていて、じっとりと聴いているとなかなか面白い。

第3場冒頭で老詩人アナクレオンが打ちひしがれて眠り込んでしまう部分の猛烈な半音階や細かくて強いパッセージ、あるいは第5場でのクピドのアリアなんか、ヘンデルとヴィヴァルディを経由してハイドンからベートーヴェンに接続されても全然おかしい感じはしないですね。最盛期のけばけばしいタンブーランとかはもう作中に登場しないですから、打楽器シャンシャンの賑やかラモーを期待しているとちょっと肩透かし。でも晩期ラモーの趣味が汎ヨーロッパ的に展開していくのが記録された興味深いスコアですから、ミンコフスキがあえてこの作品を録音した理由がなんとなくわかりますし、ルーヴル宮音楽隊がフランス・バロックを飛び出ても活躍しうるかということを、こういう音楽で実験していたのかもしれないな。

歌手については、作中ではアナクレオンとクピドの対話が多いので、クピド役のアニク・マシスのショタ趣味っぽい美声に聴き惚れるのがよいかと思いますね。
ヴェロニク・ジャンスを期待する向きには、むしろカップリングの短いカンタータ《忠実な羊飼い》がオススメ。1728年くらいの作曲ですから、古式ゆかしいフランス・バロックのスタイルを普通に味わうことができます。ミンコフスキはどちらの様式もドンと来いといったふう。

これがBrilliant価格の700円で売ってるんだからなあ。たまらんわなあ。
by Sonnenfleck | 2009-06-23 06:33 | パンケーキ(18)

表現辞典

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だいなしにされた

by Sonnenfleck | 2009-06-22 06:44 | 日記

ロスバウトに固有速度と猫を発見する

c0060659_8361018.jpg【VOX/CDX2 5518】
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
⇒ハンス・ロスバウト/南西ドイツ放送交響楽団

歩くのが速いほうです。ぜんたいクラヲタって歩くのが速い人が多いような気がしますが(笑)
拙宅から最寄の駅まではだいたい徒歩10分くらいでありまして、通勤時などは多くのおっさんを追い越しながら歩いていくのが気持ちよかったりもします。おっさんたちを観察するとそれぞれ独自の歩行速度を堅持しているのがよくわかりますが、さらにそれが完璧なインテンポ、微妙なルバートつき、駅に向かって強烈なアッチェレランド、などと色々な解釈を備えているのも面白い。

で、ハンス・ロスバウトが50年も前に録音した快速ブルックナーが、何度聴いても僕の歩行する拍とぴったり合ってしまうのでしたよ。驚き。
これまで注意してロスバウトを聴いてきたわけじゃなくて、このCDも(たぶん)名古屋のピーカンファッヂに転がっていたのを手に入れただけなんだと思うんだけど、運命的なものを感じる。個体によって時間の流れの感じ方は微妙に違うだろうから、この演奏を皆さんに等しくオススメすることはしません。第1楽章なんかちょっとコソコソしすぎだろうと思われる部分もあるし(ただしそのぶん第3・第4楽章とのバランスはピカイチ)。

自分が来てほしいところにちゃんと来てくれる第2楽章について、言葉を使って改めて説明するのは大変に難しい。僕はベイヌムのブルックナーも好きなので、そのへんに共感いただける方にはオススメかも、というくらいのことしか書けません。
ただ、指揮をしているのがロスバウトだからという変な色眼鏡でこのディスクを見ないでほしいという、その一点はわかっていただきたいのです。ロスバウト=ゲンダイオンガクぶりぶりというレッテルに従って、ブルヲタ守旧派からは白い目で見られ、片や色物探索班からは痛くもない腹を探られ、猫のようにしなやかなこの演奏の価値は不当に貶められてきたんじゃないかという気がしている。もっと単純に聴かれていい演奏のように思うんですがね。

録音は一応ステレオ。ときどき左右に揺れる。
by Sonnenfleck | 2009-06-21 08:37 | パンケーキ(19)

東京国立博物館本館 平常展(5月):いつもついででゴメンナサイ

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この前の日フィルの帰りに阿修羅展に行こうと思って。土曜日だけど天候不順だし17時半過ぎてるし、そんなに混んでねぇべとたかをくくって東博入場門に辿り着いたら、係員が「70分待ちデース」って叫んでるんです。ここで引き返して帰るのは情けないので、普段は特別展の「ついで」になってしまう本館の常設展を見ることにし、600円を払って中へ。阿修羅は興福寺まで見に行ったらいいんだよ。
いつもは特別展を回った後に余裕があったら立ち寄る程度の本館ですが、まず、夕方の陰影を帯びた外観が美しいなあ。1938年製の玄関ホールから大階段にかけてのクラシックな暗がりも萌えといえよう。人いねー。

印象に残ったものをいくつか。

国宝 太刀 名物 三日月宗近 (平安時代・10~11世紀)
刀剣の見方ってよくわからないじゃないですか。いつもはスルーしてしまう刀剣展示室ですが、今回こそはと思ってとりあえず形状にのみ注目して見て回りました。反りの強いもの、優美なもの、幅広のもの、細身のもの、太刀に短刀、いろいろありましたけれども、ミーハーな視点でもいいとすれば、やはり国宝の太刀「三日月宗近」にずいぶんな時間を割くことになってしまう。
平安時代の作で、秀吉の正室・高台院から徳川秀忠に譲られて以降、徳川家所蔵になったらしい。刀身は非常にライトな曲線を描き、名の元となった細かな三日月形の紋が刃に浮んでいます。鍛えられてから1000年経過しているとは到底思えない光り方をしていまして、きっと何百何千と人の血を吸ってきたのだろうと思うと、なかなかゾッとさせられるのである。

竹尺八花入 伝金森宗和作 (江戸時代・17世紀)
まだまだ鑑賞歴が短いとはいえ、花入で本当にいいなあと思ったのは三井記念にある「業平」に次いでこれが二つめ。向こうもぐったりとした優男なプロポーションですが、こちらも、身をくねらせた竹の胴を切り分けた逸品。あまりにも見事な「くねり」なので、直線の竹に視覚エフェクトを掛けたように見えます。どうしてこんな形が「発見」されるのだ!

魚屋茶碗 銘さわらび (朝鮮時代・16世紀)
―さわらびのもえいずる春に成りぬれば のべのかすみもたなびきにけり
茶碗も最近積極的に見るようにしている対象。魚屋茶碗のざらっとした肌に、この作品では茶と緑の微妙な交雑が見られ、野の香りがしそうな趣きがあります。いかにも蓮葉な感じの肉の薄さがかわいらしい。手に取りたい。

修羅道絵巻 下村観山筆 (明治33年)
3次元阿修羅は見れねども、2次元阿修羅の最高峰を(ほぼ)独り占め!
どす黒い暗雲に覆われた画面に現れて、辺りをぎょろりと睥睨する真紅の阿修羅さん。凶悪な色彩感です。しかしその一方で、異形の登場人物たちがそれほどのデフォルメを受けずに立ち並んでいる様子、、彼らも満員電車に揺られて通勤したり、腕を捲り上げて残業したりしているのでしょうか。くれぐれも重要書類は焼き尽くさぬよう。修羅道はここだろうか。

c0060659_7554772.jpg焔 上村松園筆 (大正7年)
六条御息所の生霊。です。
瞼から眉間にかけての偏執的な凝り、顔に垂れかかる髪を噛む歯、恐らく何も見えていない曇った瞳。背中から立ち昇る妖気、黒髪。着物の模様は、長すぎる藤花に蜘蛛の巣。それでいてどの巣にも蜘蛛はいなくて、その代わり、ほんの少し覗いている左手の白い指先が蜘蛛のように動く。コリャオソロシイネ。
いつもの上村松園の美人画と、仕立ては確かに違うけれど、全体は案外似ているなあとも思う。

やっぱり平常展もちゃんと時間を取って見なきゃだめですね。
by Sonnenfleck | 2009-06-20 07:58 | 展覧会探検隊

幻想の中のフツー

僕の家系はクラシック音楽を聴きません。あるいは娯楽として扱うことをしない(彼らにとってクラシック音楽は教養以外のものではなかった)。
母方の祖父が唯一の例外だったのだけども、彼はクラヲタではなく善良なクラファンであることをよしとし、雨の休日には大切にレコードを取り出し、毎週N響アワーを楽しみにするような人物でした。でも、特段深い話をすることなく、彼は病魔に侵されてしまった。
彼の晩年期と僕の駆け出しクラ小僧期は、短い間ではあったけど重なっている。たまに家に遊びに行くと、彼にとっては新しいメディアであるCDを僕に呉れたりするのだった。

c0060659_7524852.jpg【東芝EMI/CC28-3818】
●モーツァルト:交響曲第35、40、41番
⇒ヘルベルト・フォン・カラヤン
  /ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

そんな一枚。音楽以外のノスタルジー成分が強くて、今このディスクを取り出すことはほぼないと言ってしまっていいのですが、久しぶりに耳を傾けてみることにしました。

1970年、イエス・キリスト教会。カラヤンの最盛期と言われる頃合だろうか?
極めて柔弱なレガートと華やかなピッチ。一流の薄さが折り重なって重厚に近しいマチエールを形作るわけです。今こんな曲づくりをする指揮者はいないでしょう。いるかもしれないが、僕は知らない。何よりも、こういうスタイルが普遍性を持っていた時期があったということに衝撃を受けます。―ただ、最初の絶望的な違和感を乗り越えれば、音響設計の異常な精密さに心を奪われないわけにはいきません。

例によって第40番第1楽章ドホナーニのときにも書いたとおり、この曲の演出しやすさに気を取られない演奏というのは、モダンもピリオドも問わず、非常に少ないように思うわけです。ドホナーニは完全に音響体としてこの楽章を扱うことで目覚しい効果を上げていましたが、62歳のカラヤンの音楽はと言えば、人々が期待するような「物語らしさ」をハイスペックオーケストラで実現する一方、本人はそんなものを微塵も信じていないような、そんなドライな雰囲気を感じさせます。
決然とした拍の取り方、仮借ないアインザッツ、いささかの揺れもないリピート。豪華な木管隊はただの装飾文様にまで還元され、あちこちにきれいに散りばめられています。この楽章の展開部がまるでバッハのように聴こえるのはどうしてか?そういえばバッハのフーガは物語を必要としないのではなかったか?

「カラヤンのモーツァルトぉ?」みたいな感じ方は(感じ方は個人の自由ですが)、モーツァルトに「らしさ」を求めすぎた末のものでしかないと、改めて思いました。そもそも普遍性を期待するからいけない。これは全然普遍的な演奏ではなくて、特殊造形士カラヤンの特殊なモーツァルト。そろそろそういう方向から再評価されたっていいんじゃないかしら?
by Sonnenfleck | 2009-06-19 07:53 | パンケーキ(18)