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奈良帯解・円照寺 夏の日ざかりの庭で

 道のゆくてを遮る木蔭の一つ一つが、あらたかで神秘に思われた。雨になれば川底のようになるであろうその道の雑な起伏が、日の当るところはまるで鉱山の露頭のようにかがやいて、木蔭におおわれた部分は見るから涼しげにさざめいている。木蔭には原因がある。しかしその原因は果して樹そのものだろうかと本多は疑った。
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 沼があった。沼辺の大きな栗の強い緑のかげに休んだのであるが、風一つなくて、水すましの描く波紋ばかりの青黄いろの沼の一角に、枯れた松が横倒しになって、橋のように懸っているのを見た。その朽木のあたりだけ、かすかな漣がこまやかに光っている。その漣が、映った空の鈍い青を擾している。葉末まで悉く赤く枯れた横倒れの松は、枝が沼底に刺って支えているのか、幹は水に涵っていず、万目の緑のなかに、全身赤錆いろに変りながら、立っていたころの姿をそのままにとどめて横たわっている。疑いようもなく松でありつづけて。
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 道の勾配は急になったが、もう山門が近いという思いと、杉木立が深くなって涼風が立って来たのとで、本多の歩みはよほど楽になった。道の上のところどころに帯をなして見えるのは、前には木蔭だったのが、今度は日向であった。
 その杉木立の暗みの中を、白い蝶がよろめき飛んだ。点滴のように落ちた日ざしのために燦と光る羊歯の上を、奥の黒門のほうへ、低くよろぼい飛んだ。なぜかここの蝶は皆低く飛ぶと本多は思った。
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 黒門をすぎると、山門はすでに眼前にあった。ついに月修寺の山門へ辿り着いたかと思うと、自分は六十年間、ただここを再訪するためにのみ生きて来たのだという想いが募った。
 車寄せの陸舟松が奥に見透かされる山門に立ったとき、現実に自分の身がここにあることを本多は殆ど信じかねた。山門をくぐるのさえ惜しく、今はふしぎに疲れも癒えた心地で、小さな耳門を左右に侍らせ十六弁の菊の紋瓦を屋根に連ねた山門の柱に佇んだ。
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 山門をくぐると卵いろの五線の筋塀に沿うて、黄ばんだ小砂利に、四角い敷石が市松つなぎに内玄関まで敷かれてある。本多が杖でひとつひとつこれを数えて、九十に達したとき、ひたと閉め切った障子に、菊と雲の紋様の白い切紙細工の引手のある、内玄関の前にその身は在った。
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 これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。

三島由紀夫『天人五衰』

* * *

目的の場所を訪れることができ、今は心から満足しています。
2005年2月に始めたこのブログも、いつの間にか5年目に突入しました。ずいぶん長く続けたので、ここで遅めの夏休みをいただこうと思います。ただ、そのままさよなら、とするほどの意志の固さは自分にはないので、少ししたら再びお会いすることになるでしょう。
それではまた、その時まで!
2009年8月31日  

by Sonnenfleck | 2009-08-31 06:26 | 日記

サントリーサマーフェスティバル2009 ウンスク・チン Orchestral Works(8/28)

c0060659_915426.jpg【2009年8月28日(金) 19:00~ サントリーホール】
●リゲティ:《サンフランシスコ・ポリフォニー》
●ウェーベルン:オーケストラのための5つの小品 op.10
●ウンスク・チン:大オーケストラのための《ロカナ》
●スキ・カン:大オーケストラのための《カテナ》
●ウンスク・チン:中国笙とオーケストラのための協奏曲《シュウ》
→ウー・ウェイ(笙)
⇒秋山和慶/東京交響楽団


とにかくというかやっぱりというか、客席が豪華でした。見かけただけでも岡部先生(は当然か)、一柳氏、池辺氏、その他業界の偉い方たちばかりという感じで。彼らが座っていた正面席ではどう聴こえたんかいなあ。僕が座ったステージ脇上も聴こえ方が面白かったですけどね。あれで2000円は安い!

結論は、リゲティウェーベルンの凄さが改めてわかった、ということです。
《サンフランシスコ・ポリフォニー》は、クラスターのプールの中で色とりどりのゴム鞠がぶつかり合うような様子がとんでもなく美しかったし(晴朗な夏だ!)、5つの小品はウェーベルンの強烈なロマンティシズムがねっとりと凝縮しているのがやっぱり理解された。ウェーベルンは100年分、リゲティは30年分の時の淘汰に揉まれて生き残っている作品たちであり、古典たるに必要なパワーを強く感じた次第。藝術だ。

一方、リゲティの弟子であり、1961年生まれのウンスク・チンはどうであるか?
管弦楽のための合奏協奏曲とでも言える《ロカナ》は特にその傾向が強いように思われたのですが、その文脈では彼女の次の言葉が意味深く響きます。
文化的に異なる出身地を持つからでしょうか、私はシンフォニーオーケストラというものの音響について、ある種の反発を覚えています。19世紀的な美学の残滓が感じられる時には、特にそうです。(後略)
…「反発」どころか、僕には「憎悪」に思われました。絶え間なく(あるいは意味もなく)炸裂する打楽器に、厳しく切り込んでくる管楽器、量感を持たない代わりに鋭敏な弦楽器は、いずれも極めて峻厳に響きます。
大管弦楽は、巨視的に見れば自明である展開を許されず、微視的に見れば各パートそれぞれの「らしさ」を禁じられ、ただ手も足も捥がれて舞台の上に転がされているような、そんな感じ。師匠のスキ・カンの作品が持ち得ない、聴き手を引き込む強い力をウンスク・チンの作品は持っているけれど、そこに漲っている否定や嫌悪のような負のアトモスフィアを、聴衆としての自分は受け入れられませんでした。こういうヒステリックな絶叫の連続なら、もう少し短くまとまるのではないかしらという気もします。

笙協奏曲《シュウ》は(笙の音量を慮ってのことでしょうが)全体にテクスチュアが薄め。ただし今回のソロに使われた中国笙はオーボエやファゴットのようにキーが装着されていて、ちょっとサイボーグみたいな雰囲気であり、音量も少なくとも日本の笙より大きいようでした。音色の似たアコーディオン協奏曲として聴いてみてもよかったかもしれない。
こちらの作品は笙奏者の超絶技巧にすっかり目が眩んでしまったのと、《ロカナ》のようなヒステリックさがあんまりなかったために、比較的好印象ではあった。それでも、またこの音楽のために自分の数十分を付託しますか、という質問への答えは自明です。

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31日の《グルッペン》3点盛り、聴きたかったなあ。
by Sonnenfleck | 2009-08-30 09:12 | 演奏会聴き語り

楽園と禁欲

c0060659_8493953.jpg【ORFEO/C013821A】
<ラヴェル>
●Pf協奏曲ト長調
●左手のためのPf協奏曲ニ長調
→クン・ウー・パイク(Pf)
⇒ガリー・ベルティーニ/シュトゥットガルト放送交響楽団

このCDはベルティーニの数少ないスタジオ録音盤ということで入手していたものです。1981年のベルティーニはここで、チェリビダッケ政権が終わった後のシュトゥットガルト放送響を使い、夢のような人工楽園を造営しています。ベルティーニが伴奏をするラヴェルの協奏曲は(ト長調の方ね)、アルゲリッチをソロに迎えたライヴ録音が先年発売されていますが、あそこに記録されているものに比べるとこちらのスタジオ録音は当然ながら塵ひとつないくらい滅菌されて、構造が燦然と輝いています。

ところが、聴き始めて最も注意を惹くのは、実はクン・ウー・パイクの極端に禁欲的なソロなのでした。僕はこの人がNaxosに録れているプロコフィエフの協奏曲全集が結構好きでこれまでも聴いてきたのですが、記憶にあるそのパフォーマンスに比べても、このラヴェルはあんまりにも静かでたじろがず、騒がず、動かない。凄い。
両手協奏曲第1楽章第3楽章のパイクは、ベルティーニの人工楽園の中を浮遊するだけで良しとしているような雰囲気。Pfソロの録音レベルが極端に低いということ以上に、オケを押しのけて前に出ようなんておこがましいと、そんなふうな姿勢が感じられる。テクニックは抜群な人なので余計そんな感じなのですが、「ピアノ協奏曲」として作曲された音楽の録音で、ピアニストがこんなに脇役を楽しそうに演じている例を僕は他に知らない。

じゃあ真ん中はと言ったら、その第2楽章こそこの録音の肝なのだ。
人工楽園が夜を迎えて閉園した後、相対的にパイクの緩やかなそぞろ歩きがクローズアップされることになります。この楽章のメロディの美しさを、並みの演奏よりもずっとずっと雄弁に語ってくれるのが、ここでテンションが上がってしまうでもなく、ふんわりとしたアーティキュレーションのままでストイックに演奏してしまうパイクの演奏なのですね。
昼間ガチャガチャとうるさい人が、夜になってムード満点になることの嫌らしさを、この罪作りな協奏曲はしばしば教えてくれます。ここでは、そこがよくわかっているベルティーニとオーケストラの強いサポートもあって、パイクの静かな声が静かに響く。とてもいい演奏ですよ。

一方、作品としてより優れる左手協奏曲は、指揮者のほうでかなり熱くなっている感がありまして、透明感のある管弦楽がしなやかに伸び縮みする様子は、クラシック音楽を聴く醍醐味の一つ。ベルティーニが遺したスタジオ録音の中でも、この左手協奏曲の伴奏は忘れてはならないものだと思いますね。パイクもそれがわかってか、両手のときほどには控え目ではなく、華やかな見得を切ったりしている。
by Sonnenfleck | 2009-08-29 08:51 | パンケーキ(20)

ジェールジ、最後のメイ盤

c0060659_6302813.jpg【DECCA/POCL1208】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒サー・ゲオルグ・ショルティ/シカゴ交響楽団
(1990年10月/シカゴ・オーケストラホールでのライヴ録音)

「ショルティの芸術」みたいな国内廉価再発売シリーズにも、この録音だけは登場しません。このディスクだけは絶対的に入手困難であり、タコ10コンプリートのラスボスの一角なのでありましたが、ついに先般、某オークションにて落札に成功しました。えがったえがった。

とりあえず一周聴いてみて思うのは、オケがベラボーに巧いというその点であります。
この交響曲の録音史にはカラヤン/ベルリン・フィルの2種類のスタジオ録音や、ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの作曲家追悼ライヴみたいに圧倒的なアンサンブル天国(あるいは地獄)を見せ付けられるものがいくつかありますが、シカゴ響唯一の録音であるこのショルティ盤は、オケメンたちが自分たちの技巧をこれでもかと誇示するような不敵な明るさがあって、カラヤンやムラヴィンスキーとは違う地平に存在しているようです。

この交響曲は本当に変な音楽なので、いかにも雰囲気ありげな肌触りとのバランスに目を配りすぎるあまり、楽天の中に「悲劇的な」調子を混ぜ込むという細工を弄した結果として、これまで聴いた演奏の大部分は火の加減に失敗して生煮え状態になってしまっていたのが現実です。
果たしてショルティの指揮は何を生んでいるか?第1楽章第3楽章の意味深長なアトモスフィアは一顧だにされていませんが、反対に第2楽章、それから特に第4楽章はちょっと類を見ないくらい猛烈な躁状態で、全体を俯瞰すると竹を割ったように明快な構造をしています。1953年の作曲家が脳裏に描いていたのは、たとえばデプリーストやリットンのように真面目くさった生硬な曲づくりではなくて、きっとこのショルティのように突き抜けてしまう音楽だったのだと思う。
アレグロに突入した後の第4楽章は、興奮のあまり息を継ぐ暇もなくて、浅い呼吸による酸欠的な快感を漂わせています。僕がこの交響曲を聴き尽くそうと思ったきっかけは、このアレグロの破滅的な身振りから電波的な何かを受信してしまったためでありますが、ここにきて十全のカーニヴァル状態に浸ることができ、今まさに幸せを噛み締めているところなのです。
by Sonnenfleck | 2009-08-27 06:33 | パンケーキ(20)

on the air:大阪シンフォニカー響 第136回定期演奏会

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<ドイツ・ロマン派の秘密>
●S. ワーグナー:歌劇《異教徒の王》~間奏曲〈信仰〉
●同:交響詩《幸福》
●ブルッフ:交響曲第3番ホ長調 op.51
⇒児玉宏/大阪シンフォニカー交響楽団
(2009年8月23日/NHK-FM)

はあ。そうなのです。大阪シンフォニカー交響楽団もプログラミングが凄いのです。冴えまくっているのです。もうちょっと名古屋にいる期間が長かったら(あと、定期が平日じゃなかったら…)、きっといつかシンフォニカーの定期は聴きに行っていたはずなのです。この定期演奏会もマニアックな章立てで、ぶらあぼの裏表紙裏に載っているキレイな広告を見て、ムズムズと行きたくなっていたのでした。FMシンフォニーコンサート様様だ。

実にジークフリート・ワーグナーの音楽を聴くのは本当にこれが生まれて初めてでして、確かにオヤジさんに酷似してはいるものの、オヤジさんにはない肯定的な素直さがスコアに漲っているみたいで、これはこれでいいなあと思う。無条件でキレイだもんなあ。児玉氏の指揮を聴くのは初めてのような気がしますが、ここではシンフォニカーの音色は明るく色彩的で、何よりそこからノリの良さみたいなものを感じるんですよね。ノリのよさは演奏者側の強い理解と深い共感によってのみ生まれるものと思いますが、未知の作品を聴かせてくれるのにこれほど大事な要素はない。こないだのヴィラ=ロボスのときも強く感じたこと。

オペラの超絶ハッピーエンドの予感を漂わせる間奏曲〈信仰〉の美しさ。豊かな旋律美に基づく音楽が、素直に幸福を物語る交響詩《幸福》。確かに第一次大戦から戦間期にかけてこんなに素直なロマン派ぶりを示していたら、「勝者」たちが書いた音楽史の中では一章も与えられないだろうし、オペラでもし何時間もずっとこの調子だったら、脳ミソに花が咲きそうで辛い。それでもグラズノフやラフマニノフがオケのレパートリーとして定着しているのなら、このジークフリート・ワーグナーだって普通に聴かれていいよなあ。簡単に忘れられるには惜しい才能のように思いました。「勝者」たちが「ネタ」化した今だからこそ。

さてブルッフ。クラシック好きの(たぶんクラヲタではないと思う)友人の中に随分なブルッフ好きがいまして、一体ブルッフの何が彼を駆り立てるのか謎でしたが、この放送でその一端が窺えたような気がします。ああこれはカッコイイ。
結局さっきの話に戻ってしまうけど、ブラームスはシェーンベルクにジョイントされたために「勝者」の音楽史にも名前が残ったのに対し、ブルッフがウェーベルンに華々しく評価されたというエピソードがない以上、半ばは意図的に埋められていったというところなのでしょうか。音楽史がドラスティックに変わっていくのが許せない人たちだって、きっといたはずなのです。児玉氏からのメッセージにもあるとおり、自分はここにメンデルスゾーンを感じる。溌剌と躍動する親しみやすい旋律、全然深刻ぶらない第2楽章の優しさ、これも忘れられるのは惜しい。。
by Sonnenfleck | 2009-08-26 06:31 | on the air

先生と愉快なウィーンの面々

c0060659_6282074.jpg【CINCIN/CCCD1021】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調 op.43
⇒ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/
  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(1978年4月16日/ムジークフェラインザール)

ウィーン・フィルによるショスタコーヴィチの第4交響曲は、ゲルギエフの2006年ライヴがとーっても美しい演奏だったのが記憶に新しいところですが、このライヴよりも前にウィーン・フィルで取り上げられたのは、もしかしたらこのディスクに収められたロジェヴェン先生の1978年ライヴだけなのではないかなと思います。しかしこの交響曲とウィーン・フィルとの(イメージ上での)親和しなさ、聴いてみての(イメージを覆す)親和は、あるいはゲルギエフ以上に強く感じ取られるところ。

第1楽章は(いろいろと楽しいポイントはあるにせよ)、最後のコンマスソロが歴代最高位の放埓な美しさを湛えていることを第一に書いておきます(ヒンク?ヘッツェル?)。その後のファゴットとコーラングレも猛烈に美しい。この背景で、右チャンネルにカラカラカラとガラスが触れ合うような混線があるのですが、それでも、この部分のプレイを耳にするだけでも、この録音を捜し求める価値はあると思います。
すでに後年のロジェヴェンらしくしつこくてマニアックな造形なのに、その捕縛を逃れ出てくる響きは仄暗く、そういえばショスタコーヴィチをこのように演奏する人たちはいないなあと(白々しくも)気づかされます。とてもロシアン・アヴァンギャルドには聴こえず、マーラーというよりベルクの青白い美しさを髣髴とさせる感じ。若き日のロジェヴェンも、自分の振り下ろしたタクトからこのような響きが出るとは思いもよらなかったのではないだろうか。

第2楽章はレントラー風味が思ったより薄くてエッジも立っておらず、最後のチャカポコチャカポコまでぼんやりして、軽い羽毛のような手触りが心地よいです。むしろちょっと散漫な雰囲気になっているのが新鮮。。あーオケはきっとやる気ないんだろうなーいいなあー(笑)

もっそりと始まるも途中から急に集中力を取り戻す第3楽章
ロジェストヴェンスキーがあんまりおかしなことをせず、薄い筋肉質の響きにまとめているのも大きいように思いますが、ワルツやギャロップが鳴り響く遊園地風の箇所に差し掛かって、にわかにオケのテンションが上がるのがわかります。金管コラールはブルックナーみたいで気持ちがよさそうですが、反面ヤケクソのような雰囲気もある。1978年のVPOにロジェヴェン先生のタコ4では、小さな躯体のminiに重量のあるディーゼルエンジンを積んでいるような趣きもなくはない。
ともあれ燃焼の効率は極めて高く、ネタだと思って聴き始めると痛い目に遭います。全編擬似ステレオみたいで実に聴きづらい音質なのに、それを乗り越えてくるものがあるんだなあ。カラヤンがシュターツカペレ・ドレスデンを振った第10交響曲と並んで、異種格闘技の真摯さに心打たれる一枚。
by Sonnenfleck | 2009-08-25 06:29 | パンケーキ(20)

ヴィラ=ロボス没後50年記念 ブラジル風バッハ全曲演奏会

思想も信条もない人間が言ってもアレなだけですが、これから先の人間の履歴は「ネタ」と「マジレス」の闘争によって編み上げられていくのではないかと思っています。万事が「ネタ」化していく局面と、たとえどんなに泥臭くてもカッコ悪くても、とにかく「ネタ」化を乗り越えんとする「マジレス」の争いです。
「ネタ」が生育するためには疲弊しきった構造が必要だろうから、クラシック界はすでに万全の土壌ではないかと思うし、その兆候も各所に窺われる。作曲も演奏も聴取も、そこからは逃げられない。もし、今日なお「マジレス」しか知らないであろうレコ芸の先生方に向かって「若手指揮者ナンバー1の××は『ネタ』だ」と言ったらきっと彼らは怒るだろうが、万物「ネタ」化が避けられない以上、その怒りの時点でもはやとんだお門違い。
それでも、なのであります。

+ + +

c0060659_1005824.jpg【2009年8月22日(土) 14:00~ 東京オペラシティ】
<ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ>
●第6番 フルートとファゴットのための (1938)
●第9番 無伴奏合唱のための (1945)
●第4番 ピアノのための (1930[-41])
●第1番 8本のチェロのための (1930)
●第5番 ソプラノ独唱と8本のチェロのための (1938/45)
●第3番 ピアノとオーケストラのための (1938)
●第8番 オーケストラのための (1944)
●第2番 オーケストラのための (1930)
●第7番 オーケストラのための (1942)
→斉藤和志(Fl)+黒木綾子(Fg)[#6]
  新国立劇場合唱団[#9]
  白石光隆(Pf)[#4,3,2]
  中嶋彰子(S)[#5]
  加藤昌則(司会)
⇒ロベルト・ミンチュク/東京フィルハーモニー交響楽団


で、もやりと晴れた晩夏の一日。7月の新日フィル《七つの封印を有する書》以降、まったくコンサートに行けていなくて、鬱憤が溜まりに溜まった末の直前電話予約でありました。つまり、最初はヴィラ=ロボスへの愛情は薄かったのです。
でも、3回の休憩を挟んだこの5時間で、これまでの人生分のヴィラ=ロボス成分を摂取して(大量摂取により疾病が治癒したり、より健康が増進するものではありませんが)確実に感じたのは、夏枯れ時期のこの空腹感に突き動かされることがなければ、一生ヴィラ=ロボスの魅力に気がつかないままであっただろうということ。危うし危うし。

「南米のよくわからん作曲家のひとり」くらいであったヴィラ=ロボス観は、完全に覆されました。ほとんどのメロディは微笑ましいくらいキャッチーなのに、すぐに金管をブンブカ言わせてしまうのに、盛り上がった後には必ず句読点を置く律儀な癖があるのに、惹かれるのはなぜか?…それは彼が自分の「マジレス」に偉大な自信を持っていることがビリビリと伝わってくるからなのです。「ネタ」化しないほど最初から「マジレス」な音楽、溢れんばかりの燦燦パワーに圧倒される。最近、音楽に対する劣情を失っていたのですが、それを回復させてくれたのがほかならぬヴィラ=ロボスでした。

+ + +

《ブラジル風バッハ》は異なる編成の9作品からなる集成で(このことすら知らなかった)、だいたい10分から30分の中に納まります。今回のツィクルスは編成の小さなものから徐々に大きくしていく順番。指揮者のミンチュクによれば「一日で《ブラジル風バッハ》全曲を演奏するのは世界初ではないか」ということらしい。
基本的には「完全に開き直って南米に移住したラフマニノフ」みたいな感じに聴こえたのですが、特にPfソロのための第4番、ソプラノが入る有名な第5番、そして第8→2→7番のコンボにはビリビリと痺れましたね。エロだったりヴァイオレンスだったりする、つまりとーってもわかりやすくて気持ちいいマチエールでもって頂を構成し、おまけに頂上まで登り切ったのに最後にその上に脚立を立ててしまうような、そういう盛り上がり方が新鮮です。

第4番で優美なソロを聴かせてくれた白石氏、第5番で熱っぽいヴォカリーズを聴かせてくれた中嶋さん(オレンジグリーンの熱帯ドレスも素敵!)、ともにホットなパフォーマンスでぐうの音も出ませんでしたが、やはり終盤のミンチュク/東フィルの熱演に敬意を表したいところです。
大蛇がとぐろを巻くような第8番の野太い音響や、描写的かつちょっとフランス風に澄ました第2番への優しい対応がとても素晴らしかったし、終曲に(4番目の交響曲を作曲したブラームスと同じように)バッハへの強い思いを感じさす第7番での力一杯の咆哮は感動的。エキストラが多そうな布陣の東フィルでしたが、ミンチュクの煽りに乗せられて(キズもありつつ)輝くような熱い響きを聴かせてくれたのです。ほんと聴きに行ってよかった。

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開演前にロビーで配っていた冊子texts OF BRAZIL』。限定500部とのことでした。
ブラジル外務省文化部の制作で、150ページを超すその中身はガチのブラジル音楽論文集(付録CDアリ)です。「ブラジルの宮廷音楽:アポロとディオニシスの狭間で(1808年-1821年)」とか、「ブラジルの音楽におけるモダニズム」「エンリーキ・オズヴァウドとブラジル・ロマン主義の音楽家たち:失われた時を求めて」みたいな論文が並んで(ワクワクしませんか?)、ポルトガル植民地時代から1980年代までの音楽史がこの一冊で網羅されてるみたい。こんな貴重な資料をタダでもらっていいのか。すげーブラジルすげー。

交響曲や弦楽四重奏曲など、ヴィラ=ロボスをもっと聴き込んでいかなきゃと決意するのと同時に、自分は音楽に対する熱情まで「ネタ」化を許していたのではないかと反省する夏の宵でした。「ネタ」を承知の上での「マジレス」こそ、マジレスかこいい!に値するわけですもの。
by Sonnenfleck | 2009-08-23 10:03 | 演奏会聴き語り

ネアンデルタール人の生き残り

c0060659_748476.jpg【DHM/88697 281822-50】
●ゼレンカ:7声の協奏曲 イ長調 ZWV187 《ヒポコンドリア》
●ピゼンデル:協奏曲 ニ長調
●ゼレンカ:8声の協奏曲 ト長調 ZWV186
●ピゼンデル:ソナタ ハ短調
●ゼレンカ:8声の協奏曲 イ短調 ZWV189 《シンフォニア》
⇒ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ/
  フライブルク・バロック・オーケストラ

ラテン諸国の音楽にばかりうつつを抜かしドイツには向き合ってこなかったので、このあたりの作曲家をちゃんと聴けていないし、ここでも取り上げていません。フランスものもイタリアものもだいたいの作品はがっしりと逞しい様式感があるために、耳にすればなんとなく産地がわかりますが、ドイツものはそのような理解が難しい。ドイツ・バロックの「芯」のようなものはどこにあるのか。
ヨーロッパのあんな場所に立って文化の往来を眺めていたらあちこちから影響を受けないわけにはいかないだろうし、自分の世界に堅牢な城を建ててそこから外を(たまに)観察していたバッハを例外中の例外とすれば、たとえばこのゼレンカとピゼンデルなんかは、その移動に満ちた人生を考えてみても、汎ヨーロッパ的な秘密を彼らの音楽の中に抱き込んでいる気がします。でも、その秘密のエッセンスはテレマンのようなものではなく、古典派の時代につながっていくものであるような気もしている。

そんな秘密を、音楽の中でより感知しやすいのはピゼンデルのほう。
このディスクの2曲目、Vn協奏曲ニ長調の第1楽章に、閉塞した後期バロックからハイドンに抜けるひとつのルートが見出されたのはまったく驚きの一言です。晴れ渡った空のような伸びやかさが「トゥッティに許されている」のが、ネアンデルタール人のように滅んでしまったバロック音楽と違うところ。テレマンとハイドンがつながっているようなルートを僕はいまだ知らないけど、ピゼンデルは様式に上手に乗りすぎるテレマンとは異なるんじゃないでしょうか(もちろんテレマンはそこがいいんですが)。
4曲目のソナタはObに2声部が与えられた協奏曲のような外観をしていて、こちらも通奏低音の(というか「低音パート」の!)様子を注意して聴いてみると、展開を意図とする強い疾走感に現れているように、たとえばバッハとは比べ物にならないくらい古典派を志向しているんじゃないかという気がします(ただ、これはテレマンの一部の楽曲にも感じられる点)。

いっぽうゼレンカはなあ。もうちょっとちゃんと聴いてみないとわからないけど、彼の音楽はフランス・バロックに少し似た独特のマニエリスムのようなものに満ちていて、1曲目の《ヒポコンドリア》や5曲目の《シンフォニア》は展開よりも回転に興味があるみたいです。
ザクセン宮廷のコンマスとしてこの曲を弾いていたピゼンデルが、自分の作品では永劫回転から展開に抜け出しているのが興味深いッス。

このディスクはゴルツとFBOの最初期の録音なのだろうと思います。すでにして背筋がピンと伸びた正統的な古楽空間。いくら優等生的だと言われようが、僕には彼らの音楽が最もしっくりくるし、飽きが来ない。
by Sonnenfleck | 2009-08-22 07:56 | パンケーキ(18)

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c0060659_6273865.jpg【EMI/5672612】
<ショパン>
●Pf協奏曲第1番ホ短調 op.11
●Pf協奏曲第2番ヘ短調 op.21
→サンソン・フランソワ(Pf)
⇒ルイ・フレモー/モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団

『のだめカンタービレ』第22巻、ストーリーの大事な山場で延々と描写されるホ短調の協奏曲。諸君見たまえ!こんなタイミングでこんなエントリをUPするなんて、まるでのだめファンの鑑のようではないか!(棒読み)
いや、正直に言うと、マンガのコマからショパンの協奏曲を思い浮かべられなかったのが悔しいという、いかにもヲタ的な汚れた理由から出発している行動なのですが。

このCDを取り出して聴くのはそれこそ7-8年ぶりではないかと思われる。
4月に購入したフランソワのドビュッシーは、以来おサルのように何度も聴いていて、その徹底的なフォルム重視に強烈な匂いを嗅いでいます(「フォルム重視」というとクラヲタ語彙的にはバックハウスのベートーヴェンみたいなものが頭に浮びますが、ここでのフランソワの「フォルム重視」は、「縦方向よりも横方向に気を配る」というくらいの意味で使っています)。とにかく自分がドビュッシーの《前奏曲集》の軸にしていたモニク・アースの、質朴なキルト地のようにモクモクとした和音感とはあんまりにも違っているので、大変なショックです。

その、言ってみればy軸が必要性を失くすくらいx軸を極度に鋭敏化させることによって音楽を構築するようなフランソワが、ショパンを弾いている。
これまで僕はショパンを避けてきたから、この演奏がショパン勢力図の中でどんな位置にあるのか判断ができないんだけれども、どうやらそうしたフランソワ流はここでも生きていて、かなり大胆なアゴーギクでショパンのスコアを責め苛んでいるような気がします。気がします、くらいしか書けないが、第1協奏曲の第2楽章のタッチなどはショパンシロートが聴いても天才的に美しいなあと思わせるのです。それから、モンテカルロ・オペラのオケの奇妙に艶やかな音色も今や楽しいポイント。
by Sonnenfleck | 2009-08-21 06:31 | パンケーキ(19)

アストロン

c0060659_6313967.jpg【EMI/3422562】 <ヴォルフ>
アイヒェンドルフ歌曲集~音楽師、秘めた愛、セレナード、夜の魔法、船乗りの別れ
メーリケ歌曲集~苦悩から癒えて希望に寄せる、子供と蜜蜂、めぐりあい、飽くことを知らぬ恋、隠棲、春に、旅先にて、真夜中に、古い絵に寄せて、祈り、眠りに寄す、愛する人に、ペレグリーナⅠ、ペレグリーナⅡ、狩人、恋する者の歌、別れ
ゲーテ歌曲集~善人夫婦、ガニュメート
⇒イアン・ボストリッジ(T)+アントニオ・パッパーノ(Pf)

例年の真夏には最も似合わないディスクかもしれません。でも畸形の真夏には?

シュヴァルツコップもフィッシャー=ディースカウも聴いていない僕のヴォルフ経験値は依然として低いのですが、しかし魔王を倒しに行くハイレベルの勇者だけがヴォルフを語るものとも思えないのです。酒場で飲んだくれているダメな「勇者もどき」がヴォルフを愛することの何が悪いというのでしょう。心の中にわだかまって結局言えなかったことが、何度かの腐敗と熟成を繰り返すうちに妖しい結晶体になって、酒場の空気にばら撒かれています。ヴォルフの歌曲はそんなふうに聴こえる。
フィッシャー=ディースカウのバリトンがヴォルフの結晶を律儀に拾い集めて歌い上げるときに(きっとそのようなのだろう)、ボストリッジはいつものように甘い絶望感の混じったテノールで結晶のただ中に立っています。幾分多弁なパッパーノの伴奏とともに、もしかしたら鼻につくギリギリのラインの上を歩いているのかもしれません。ですが現状、僕にとっては、これ以外にはないなと思わせます。
たとえば、このディスクの《春に》(メーリケ歌曲集)という作品に打ち震えたのは、
Ach,sag' mir,all-einzige Liebe,
Wo du bleibst,daß ich bei dir bliebe!
に表現される世界の巨大な拡がり、そしてその少し後に来る、
Frühling,was bist du gewillt?
Wenn werd ich gestillt?
において、つんのめるようにして素早く発音される「w」の音に込められた、劣情といっても差し支えないような切望感。こういうところに尋常でないものを感じたからであると言える。

あるいは《少年と蜜蜂》の明るいエロス("O nein,du feiner Knabe,)、アイヒェンドルフ歌曲集であれば《夜の魔法》の昏いエロス(weiße Arme,roter Mund,)…。妖しい結晶の尽きせぬ氾濫であります。
by Sonnenfleck | 2009-08-20 06:45 | パンケーキ(19)