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東京二期会―R. シュトラウス《カプリッチョ》(11/22)

c0060659_21525726.jpg【2009年11月22日(日) 14:00~ 日生劇場】
●R. シュトラウス:音楽のための会話劇《カプリッチョ》
→佐々木典子(マドレーヌ)、初鹿野剛(伯爵)、
  望月哲也(フラマン)、石崎秀和(オリヴィエ)、
  米谷毅彦(ラ・ロシュ)、加納悦子(クレロン)、
  大川信之(ムッシュ・トープ)、
  羽山弘子(イタリア人ソプラノ歌手)、
  渡邉公威(イタリア人テノール歌手)、
  佐野正一(執事長)、菅野敦・西岡慎介・
  宮本英一郎・園山正孝・井上雅人・倉本晋児・
  塩入功司・千葉裕一(8人の従僕たち)
→ジョエル・ローウェルス(演出)
⇒沼尻竜典/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団


美しくて切なくて、このまま時間が止まればいいのになあ…と幾度も思った。
シュトラウスの本質的な音楽の力もさることながら、演出家の術中に嵌り、ハンカチをびしょびしょにしてしまいました。オペラ玄人の人たちがどのように難癖をつけようとも、自分はこの公演を賛美して已まない。

■1944年、パリ
この作品の舞台は18世紀末ごろのパリ、というのがクレメンス・クラウスとシュトラウスのト書き。でも今演出のローウェルスは、シュトラウスがこの音楽を書き上げたのと同時代の、ヴィシー政権下のパリを舞台にすることで、思ってもみなかった効果を上げます。
◆幕が上がると荒らされた室内が青い月に照らされている。字幕に映し出されるのは「1944年、占領下のパリ」の文字。こっそり忍び込んできた作曲家と詩人は、マドレーヌのものと思われる肖像画が床に転がっているのを見つけて悲嘆に暮れる。
◆2人が去るのと入れ替わりに憲兵たちが室内に入って来、相変わらず鳴り続けるフラマンの六重奏をBGMに、荒らされた室内をきれいに復旧していく。これは回想のお話なんだな。

◆六重奏が劇中音楽に遷移したところから、在りし日の伯爵邸。以降、第10場(?)でクレロンが出立しようとする場面まで、ほぼト書き通りの進行と思われる。
(※ただしト書きを逸脱しない程度の面白おかしいギミックが多数あり、恐ろしく細部まで作り込まれた演技はそれだけでフーガのような存在感。掃除の途中で寝てしまう黙役の老執事、詩人との間接キスを避けようとするラ・ロシュ、エトワール及びバレエ少女軍団、エトワールのレオタードに視線を送る「従僕」たち、ガトーショコラを貪るイタリア人テノール歌手。相当な完成度でしたな。)

◆クレロンを見送ろうとした一行の前に、鉤十字腕章を付けたフロックコート姿の「執事長」と「従僕」たちが静かに現れる。後ろ手に縛り上げられた老執事(本当の執事は彼だけだった!)
◆軽く美しい音楽のまま、事態は最悪の展開を迎える。ユダヤ人の印である黄色の「ダヴィデの星」を付けられた作曲家と詩人、他のゲストも次々と引っ立てられていくのを見て、呆然と立ち尽くすしかないマドレーヌと伯爵。
◆機転を利かせたラ・ロシュが「連行役」を買って出、隙を見て作曲家と詩人を逃がす。

◆本来、主人たちの騒動に苦笑する召使いたちの合唱だったはずのシーンは、冷たく室内を荒らすナチ憲兵たちの合唱シーンとなり、「これが終われば食事」「お客のいない夜ほど良いものはない」という台詞の鋭い攻撃性にひんやり。
◆シュトラウスを模したとしか思えないプロンプター氏(ムッシュ・トープ)の登場が、物語の完結につながっていく。執事長=ナチ憲兵隊長が言うところの「現実の世界」に現れたシュトラウス。

〈月光の音楽〉
荒らされた室内に差し込む青い月光の中で、逃げ遅れたバレエ少女の一人が、見張りに残って銃を構えた憲兵の一人に見つかってしまう。
憲兵が上着を脱ぎ出したので最悪のレイプ演出も脳裏をよぎったけれども、バレエ少女と憲兵は手を取り合って踊る。見張りの憲兵の正体は余興に参加していた男性バレエダンサー、身はナチに売れども心は、、という健康な設定と見ました。しかし絶望的なバレエシーン。。

◆そして、歩み出てくるのは白髪の老婆となったマドレーヌ。
◆2009年には廃墟と化している過去。瓦礫の室内から詩人の詩集と作曲家のスコアを掘り出したマドレーヌは、台本通りの台詞で「11時に図書館で…」と歌い、深く絶望するのだった。
◆鶴翼の形に開いていたセットが、結末に向かってガラス張りの小部屋に閉じていく。過去がすでに手の届かない過去になったことを示しているのかなあ(在りし日に作曲家が弾いていたチェンバロが小部屋に飲み込まれていく)。
◆絶望のマドレーヌにあんまりにも救いがないなあと思って見てたら、劇のセットではない舞台袖からプロンプター氏=シュトラウスが静かに歩み出て来、マドレーヌが手にしていた詩集とスコアは彼の手に収まる。マドレーヌは救済されただろうか。暗転。
+ + +

僕はこの演出、素直に巧いなあと思った。
「藝術風刺オペラ」の枠組みをそのままに、その行間に隠れている人間のドラマをあたかも劇中劇のようにして掬い取り、そうして最後にはプロンプターという登場人物の姿を借りて、「藝術風刺オペラ」も作曲家シュトラウスの人生における劇中劇であったということを気づかせる、、ということではなかったろうか。自分はそのような入れ子構造を感じた。大勢押しかけていたオバハンたちがどう理解したかは知らない(少なくとも両脇のオバハンはぐうぐう寝てたぞ)。

+ + +

■うたと音楽
《カプリッチョ》との最初の出会いはプレヴィン/ウィーン・フィルがシュトラウス作品集の中で奏でる〈月光の音楽〉でしたが、こちらはいかんせん管弦楽曲の抜粋。ここに至るまでの長い長い“会話劇”を十二分に聴いた上で耳にしたときに、その無言の美しさが何倍にも膨れ上がっていたのは大きな驚きでした。何の言葉もないあの場面に強烈に美しい音楽を付与したのは、シュトラウスの「作曲家としての」クレドなのだと思う。

それに従うマエストロ沼尻の想いは、あの大胆にして胸苦しいアーティキュレーションにすべて現れていると感じられた。
どの楽員もソリストになる必要のあるスコアを見事に捌いただけでなく、たとえばフラマンの告白を受けたマドレーヌが気にしないフリをするシーンや、〈月光の音楽〉後のラストシーンなど、気持ちが言葉を裏切っているような場面では特にニュアンスが豊かで、マドレーヌでなくてもうねるような音楽の力に魅了されてしまうところです。彼が作り出す後期ロマン派音楽にはいつも感心してるけども、今回はいっそう冴え冴えとしていたなあ。シティ・フィルには正直いい印象を持っていなかったけれど、今回は熱に浮かされたような官能的な音を発していました。。

歌手に関しては、二期会の底力を思い知ったとしか。
まず、あちこちのブログで評価の高い佐々木さんは、非常に高潔な高音とお茶目な中音がマドレーヌのキャラクタによく合致していて、本当に安心して聴いていられました。特に最後の十分間、白髪の老婆になってからの絶望的に切ない歌唱は忘れがたい。。

それから2人の恋敵同士、フラマン役・望月氏とオリヴィエ役・石崎氏の安定感も、今公演のフォルムを堅牢なものにしていた。あれならマドレーヌが迷うのも無理ないよね。。広田大介氏の解説通り、望月氏に音楽的見せ場が多いのは不公平な気もする(笑)
劇場支配人ラ・ロシュ役も忘れてはならない第4の極。米田氏は嫌味ったらしくも憎めないラ・ロシュのキャラクタをどっしりと演じ切り、前述のように2人のユダヤ人青年を救う役も買って出て美味しい。作劇論に関する長大なモノローグも、最後でほんの少し疲れがあったものの総じて重厚で、凄みがある。

さらに(まだ続くよ)女優クレロン役の加納さんはいつも通りの深沈としたメゾを聴かせるし、イタリア人歌手役の2人もわざとらしくて愉しい。執事長と8人の従僕たち(実はナチの憲兵たち)は本当に生気なく冷徹な歌唱で、あの細やかな演技は素晴らしかった。

+ + +

DVD化されて発売されてもおかしくないプロダクションでした。何度か見直して、見落としているはずの細部を観察したい、そういう思いにとらわれている。
by Sonnenfleck | 2009-11-30 22:19 | 演奏会聴き語り

スクロヴァチェフスキ/読売日響 第114回東京芸術劇場マチネーシリーズ(9/23)

c0060659_9334398.jpg【2009年9月23日(水) 14:00~ 東京芸術劇場】
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第4番ト長調 op.58
→アンドレ・ワッツ(Pf)
●ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


このブログ初期のころはスクロヴァ爺さんにハマっていたこともあって、熱狂的なことを書いたこともある。
名古屋で聴いたザールブリュッケンとのベートーヴェンがそんなによくなかったこと、また同様に、彼のブルックナー全集が好みではなかったこともあって、今や気持ちはかなり離れましたが、それでも常任最終シーズンの冒頭を飾るブル9となると、聴き逃すことはできない。

で、どうだったか?スクロヴァの年齢から考えて、彼が指揮を執るブル9をまた生で聴くことはもうないような気がすることを踏まえると、自分にとってはほろ苦い結末だったと言えます。
全体の造形はザールブリュッケンとの全集録音とほとんど変わりない。かなり速めのインテンポを下地に、ブルヲタが浸りたがるような壮麗な箇所ほどむしろテンポを速め、ハーモニーもどぎつく彩る、その方向は同じ。第3楽章になって急激に浪漫化するのも同じ。もともと好みではなかったこの設計を実際に生で体験してみると、かなり白ける場面が多かったな。。

もともとヴォリュームのある曲想なので、響きにも慣性みたいなものが生まれ、空間に自然なカーヴがいくつも出現するのがこの作品のノーマルなスタイルじゃないかと思います。そのカーヴを90度に交わる直角に変えてしまうやり方は、聴いていて確かにスリリングではあるけれども、スクロヴァがたとえばベートーヴェンでやるほどには、効果を素直に発揮していないように感じる。ここんところは好みの問題だから突っ込まれてもうまく反論できないけどさ。

23日はアンサンブルもガタガタで、技術的瞬間的なミスはある程度仕方がないけど、ところどころでアインザッツすら合っていないのにはガッカリ。そういう要素は仮令指揮者の指示がなくても、最低限の土台として揃えておくのがプロだと思う。スクロヴァから「アンサンブルはわざと乱せ」という指示が出ていたか、あるいは翌24日のサントリー公演のための有料ゲネプロだったのかもしれない。

+ + +

前半の伴奏は、この人としては珍しいことに非常に美しい音色を伴っていて、意外な側面を垣間見た気がする。ソリストはあまりにも粗野で驚きでしたが。
by Sonnenfleck | 2009-11-28 09:46 | 演奏会聴き語り

CA-3S(9/21)

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長らく使っていた象印のメーカーが壊れてからコーヒーそのものへの熱も冷めてしまって、しばらく個包装のドリップパックを買ってしのいできたのですが、やはり自分の部屋でくらい美味いコーヒーが飲みたいなあと思って。調べていくうちに、このデザインに行き当たった。

デバイスタイル(deviceSTYLE)という日本のメーカーが生産している「CA-3S」。他のコーヒーメーカーではほぼ間違いなく犠牲にされているデザインの喜びがここではしっかりと実現されていて、こちらの心を掴んでしまいます。
マグタイプ(一度に3杯分抽出可能)にしたことで、でっぷりした保温ポットが全体のイメージを左右することがなくなった。それに合わせて、抽出機構の輪郭もマグの線から引くことができるようになり、2本の円錐を組み合わせたようなデザインが完成。

抽出にかかるリードタイムもせいぜいマグ1杯分ですから、素早い。加熱装置を小型化したせいなのか、熱が筐体にこもってしまうらしく一度自然に放熱してからでないと連続抽出ができないので、たとえば3世帯10人家族には向かないかもしれないけど、まあ1人~2人の暮らしなら全然余裕ですね。
マグのふたに口をつけて飲むスタイルが嫌いなので、ふたは取ってしまうのだけど、普通のマグカップに比べれば仮令ふたがなくても冷めにくいです。味も良い。amazonのカスタマーレビューにもあるとおり、やや水が注ぎにくいことを除けば、ほとんど理想的な製品のように思われます。末長く使っていきたいところ。
by Sonnenfleck | 2009-11-26 22:19 | 精神と時のお買い物

クララ・シューマン 愛の協奏曲(9/21)

c0060659_10435858.jpg【2009年9月21日(月) 13:45~ Bunkamura ル・シネマ】
<2008年 独仏洪合作(原題"Geliebte Clara")>
→マルティナ・ケデック(クララ・シューマン)
  パスカル・グレゴリー(ロベルト・シューマン)
  マリック・ジディ(ヨハネス・ブラームス)
⇒ヘルマ・サンダース=ブラームス(監督)

Bunkamuraの客層ってちょっと不思議な感じよね。
さて。
こういう主題だから、クラヲタとしては「××は悪かったけど総じて良作だった」という感想に持っていきたいところなんだけど、今回は「○○はよかったけど総じて残念な出来だった」というところに落ち着いてしまうかなあ。せっかくの題材を全然活かし切れずに終わってしまった感アリアリ。

1850年、ロベルト・シューマンがデュッセルドルフの音楽監督に招かれたところから物語が始まる。交響曲第3番の作曲と初演、ロベルトのグロテスクな精神疾患、夫の病と音楽と生活に挟まれて身動きの取れないクララの心労、そこへ自信に満ちた若きブラームスの姿が加わります。やがてロベルトのラインへの投身、精神病院への入院、発狂と死へつながっていきますが、クララとブラームスの危うい関係はついに深い描写を経ず、ブラームスの第1Pf協奏曲をクララが弾いて、幕。なんだこりゃあ。
以下、鑑賞後に同行者と話し合った内容及び個人的補足。

■プロットが弱々しく、結局何が主題だったのかよくわからない。常に3人の視点が混じり合って曖昧模糊としたせいで、せっかくの(多分この作品のクライマックスであった)クララとブラームスのラヴシーンも説得力がなく、かなり唐突な感じになってしまった。
■尺の伸縮管理がいいかげんで、間延びしすぎたり急展開すぎたり。ラインに飛び込んで10分後に入院支度を済ませて自宅を出るロベルト早業。
■ロベルトが《ライン》の第1楽章を指揮しながら第2楽章に侵蝕されていく演出はよかった。同様に、第2楽章のエピソードが狂ったようにリピートする演出もよかった。シューマン家の飯炊き婆さんが階上から聴こえてきた第2楽章に感涙するシーンもよかった。
■ロベルト役の狂気の演技は粗野な方に傾きすぎ、知的な印象に欠ける。
■クララ役が肝っ玉母さんすぎる。
■ブラームス役の演技は野心的すぎ、繊細さに欠ける。
■結局ブラームスの叔父の子孫のジコマンでは。
■あれ?「Ich weiß...」じゃねえのか。
■イソジン。

+ + +

お正月の「シャネル&ストラヴィンスキー」はかなりよさげ。
by Sonnenfleck | 2009-11-22 10:50 | 演奏会聴き語り

ホグウッド/N響 第1653回定期公演Aプロ(9/20)

c0060659_2341454.gif【2009年9月20日(日) 15:00~ NHKホール】
<メンデルスゾーン>
●序曲《フィンガルの洞窟》 op.26(ローマ版)
●Vn協奏曲ホ短調 op.64(初稿)
 ○ラヴィ・シャンカール:ラプソディ(?)
→ダニエル・ホープ(Vn)
●交響曲第3番イ短調 op.56 《スコットランド》
⇒クリストファー・ホグウッド/NHK交響楽団


寝てしまうかもなあという危惧の下、晴天の渋谷へ。だいたい、晴天でしかも休日の渋谷なんかできれば行きたくないのだ。そのように思って原宿から歩いたけど、あっちはあっちで眩しすぎて辛い。NHKホールを新しくするときは所沢とか青梅に移転させてほしい。

そんな暗い妄想に取り憑かれていたけれど、いや、演奏は頗るよかったですよ。この機会を逃さなくて正解だった。
このAプロ、会場はやんやの喝采だったですが、ネットで検索してみるとけっこう批判的なレヴューが目に付くんですよ。いやあこれは本当にいいことだと思う。FMで中継されTV収録されることによって日本中に名を轟かせているオーケストラが、ホグウッドの指導下で至極真っ当なピリオド・アプローチをやってのけて、それが知られ感じ取られることの重大さ!いくらミンコフスキ+ルーヴル隊がオペラシティで最先端のモーツァルトをやっても、それは認知される度合いとしては絶対にN響には敵わないんだもの。。
今回のホグウッドを耳にされて、「やっぱりなんにもないメンデルスゾーンが好きだなあ」と思われた方は、ぜひこの機会にドホナーニなりセルなりのディスクをガッツリと聴き返して、自分が「なんにもないメンデルスゾーン」のどういうところが好きなのか考えてみてもいいかもしれませんよね(僕は彼らの録音も大好きです)。

僕が見事だなと思ったのは、Vn協奏曲の第2楽章と《スコットランド》の第3楽章。

どちらも仄かな香水のように浪漫が漂う幸福な緩徐楽章ですが、決して刈り込まれてはいない大きな編成の弦楽を従えつつ、木管のアンサンブルを理想的なバランスで聴かせるホグウッドの感覚にまず驚いた。この人の録音してきたバッハやヴィヴァルディは、このメンデルスゾーン(や、来たるべきシューマンとか)のための下書きでしかなかったのではないか?あの弦楽合奏の青白さは、管楽器を迎え入れるための下地だったのではないか?

これら薄絹のような緩徐楽章のあればこそ、大袈裟なメンコンの第3楽章、速すぎるとの不評を買っているスコッチの第4楽章が活きているのは明らかでありましょう。バロックでは絶対に破綻を避けていたホグウッドが(少なくとも僕は例を知らない)、恐らく強い確信を持ってロマン派の様式でメンデルスゾーンを造形している姿はまったく頼もしく、「学究肌」というのはこういう人のことを評する誉め言葉なのだと思われました。

協奏曲のソリスト、ダニエル・ホープは、僕たちの生きているのがハイフェッツやオイストラフの時代ではないことを朗らかに教えてくれます。甚だしい抑揚の山谷もわざとらしい加減速も、伴奏と「合っていない」ことさえも、それも彼のスタイルの一部ではないかしら。
by Sonnenfleck | 2009-11-20 23:44 | 演奏会聴き語り

ナイチンゲールに脅かされる二人の子供(9/12)

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朝から雨の土曜日。どうしても音楽を聴く気が起こらないのでYouTubeをぶらついて過ごし、夕方から街に出る。雨が強くなってきたので駅前の本屋に入ってやり過ごし、コーヒーの本など立ち読む。帰宅して、夜の「美の巨人たち」がマックス・エルンスト《ナイチンゲールに脅かされる二人の子供》だったので、しっかり見ることにする。
エルンストのことが本格的に気になり始めたのはそんなに昔のことではなくて、例によって豊田市美術館のコレクションにある《子供、馬そして蛇》、それからこのとき見に出かけて結局感想文を書いていない「シュルレアリスムと美術」展で見た《女、老人と花》の双方から、強いセンスを感じてからです。

マグリットがあのようなポピュラリティを獲得しているのは、マグリットの絵がちっとも狂気を感じさせないから、プラスチックのように仕組まれて些かの害もないから、だと思っている(でも、だから価値がない、ということじゃないので。藝術音楽の分野からはサティを、もしかするとプーランクの一部の作品も、この系統に加えるべきだと感じている)。それに対するエルンストの作品は、もっと生肉のような、湿気を帯びた狂気をムンムンと発している。何かが篭もっている。

木戸と建物のコラージュ、午後の空、高い空を舞うナイチンゲール、刃物を振り回してそれを追う女、子どもを抱きかかえて逃げる男、地面に横たわる不定形の何か。小林薫は「ナイチンゲール=エルンスト」という解釈を与えていたけれども、あんまりしっくりこないな。。
by Sonnenfleck | 2009-11-15 08:59 | 日記

ロイヤル・オペラ・ハウス《兵士の物語》@新国立劇場(9/11)

【2009年9月11日(金) 19:30~ 新国立劇場中劇場】
●ストラヴィンスキー:《兵士の物語》
→アダム・クーパー(兵士)、ウィル・ケンプ(ストーリーテラー)
  ゼナイダ・ヤノスキー(王女)、マシュー・ハート(悪魔)
→ウィル・タケット(振付)
⇒ティム・マーレー/ソルジャーズ・アンサンブル・オーケストラ


うーん。《兵士の物語》は「音楽」劇じゃなくて音楽「劇」なんだなあ。この形で体験できてよかったなあ。ストラヴィンスキーの音楽だけ取り出して聴くのはもったいないのかもしれない。今回はバレエ形式の上演だったけど、ダンサーがちゃんと台詞まで担当したから「劇」のイメージは崩れないのです。

舞台上には劇中劇のように野外舞台のセットが組まれて、その周りを囲むテーブルには蝋燭が灯り、観客役の俳優たちが着席している。紫や緋、橙の多い色遣いはいかにも猥雑で、こってりと装飾されたセットがいやらしい光を反射している。オケピットもそのように装飾されて、楽員氏らも舞台の一部。

たった4人の登場人物である、進行役兼狂言回しのウィル・ケンプ、兵士役のアダム・クーパー、悪魔役のマシュー・ハート、そして王女様役のゼナイダ・ヤノスキー。彼らは(バレエヲタではない僕も認識せざるを得ない)強靭な筋肉でもって、ストラヴィンスキーの音を可視化していく。作曲家がたぶん死ぬような思いで五線譜に捕まえた空気が、何の苦もないかのように平然と可視化される様子は、音楽と音楽に関わる芸術家への痛罵であり、決定的な嫌味でもある。…にも関わらず、その可視化はとっても美しいかたちをしている!バレエはいつも音楽の上位にいたがる!

オリジナルの7楽器アンサンブルはあまり精度が高いとは言えなかったけれども、そのぶん、パイプをくわえた王女様のダンスは変ないかがわしさに彩られていたし、終劇の兵士地獄落ちは徹底的に乱雑でむしろ効果的であったと言えます。千秋楽に向けて練り上がったら却って面白くなくなるかもしれないな。
最後に、いかにもそれらしく火焔燃え盛る奈落からせりあがってきた悪魔のやりたい放題が、シンプルに可笑しかった。狂言回しを追っかけ回し、兵士を奈落に突き落とし、王女様を犯すポーズで笑いを起こし、、しかしこの幕切れって、悪魔側からしたらただの契約履行なんだよねえ。違反しようとしたのは兵士の方だし。

お客さんはバレエヲタっぽいおばさんが多かったけれども(バレエは本当にいつも肩身が狭い)、この「機能的な」幕切れに彼女たちはどんな思いを致すのだろうか。終演後にお仲間と、「見た!?マシュー・ハートの逆さゴキブリ戦法!健在ねえ!」とか言ってた人もいたが、一方クラヲタだって「1stVn汚かったなあ!」とか言い合ってるんだから、五十歩百歩なのか。
by Sonnenfleck | 2009-11-14 01:56 | 演奏会聴き語り

岬のところ(11/7)

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出張でオホーツク海沿岸部に行くことになり、前日入りして「能取岬」に向かう。

能取岬(のとろみさき)は網走市の北約10キロにある突端部で、オホーツク海に突き出していることから流氷の季節には賑わうらしいが、晩秋にあっては人影もまばら。しかし僕の到着した15時にはすでに太陽が沈まんとしていて、辺り一面が金色に染まり、死んだように美しい光景が広がっていたのだった。
ボボボ...という漁船のエンジン音以外には何も聴こえない。風の音もない。

これで本当に無音だったならば何やら世をはかなんでしまう局面だけど、幸いにしてカーステレオから札響のライヴが聴こえてきたために助けられる。この10月にゲルハルト・ボッセが客演した定期演奏会がオンエアされていて、特に《時計》の引き締まったフォルムにはすっかり驚かされたな(ベト7は残念だけどオケにとってオーバースペック気味だった)。
もちろん、次に何が飛び出してくるかわからないスリリングさも今や極めて重要だけれども、一方で古典派をフォルムのみで聴かすのはかなり難しいと見えて、こちらはライヴではなかなかお目にかかることはない。
北海道内だけの放送ということだけど、もったいないね。

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間もなく雪に閉ざされるだろう。
by Sonnenfleck | 2009-11-09 18:43 | 絵日記

ホグウッド/N響 第1652回定期公演Bプロ(9/9)

ミンコフスキのラモー&モーツァルトが良すぎて何も言えね、状態ですが。

+ + +

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<ベートーヴェン>
●序曲《コリオラン》 op.62
●Pf協奏曲第4番ト長調 op.58
→クリスティアン・ベザイディンオート(Pf)
●交響曲第7番イ長調 op.92
⇒クリストファー・ホグウッド/NHK交響楽団


急遽、友人からチケットを譲り受け、定時ダッシュでサントリーへ。N響のB定期を聴くのって本当に久しぶりだけど、前以上に会員の高齢化が目につきました。新しい客層が全然入らないっていうのも、、なんだかなー。
Pブロックに座って眺めるホグウッドは、タクトを持たない指揮ぶりからして円い感じ。モダンに進出したあとの彼の曲づくりは全然聴いてなくて、むしろあの青ざめたヴィヴァルディの印象がずっと強いものだから、今回の客演はなかなかの興味をそそるものです。

最初の《コリオラン》序曲は、実はあまりいい印象ではない。確かにアンサンブルは整然としているし、ノンヴィブを実施してはいるものの、ホグウッドが今のピリオド指揮者たちのように目的意識の強いアクセントを付けないので、楽器はモダンで編成も巨大なのに、30年前のヴィヴァルディと同じようにツンと取り澄ました平明さを漂わせるのです。それにしてもこの曲で!(いや、だからこそ?)

さて、蓋を取ったスタインウェイのモダンが対向配置された弦の真ん中に縦に置かれ、当夜のソリスト、ベザイディンオートは指揮者をまっすぐ見据える形で座る。そのような格好で奏されたPf協奏曲第4番は、今度は面白いことになっていました。
まずベザイディンオートは、彼のようなスタイルはモダンピアノとは(ついでに言えば鳥井さんホールの音響とも)相容れないだろうなあ。比較的ステージに近いP席で聴いたのに、彼の持ち味であるらしいコロコロしたスタッカートが全部数珠つなぎになって飛んでくるのは大変残念だったし、そのうえトゥッティに合わせすぎるような嫌いもあり(通奏低音じゃないんだから…)。響きの硬い小さな空間で、音が鋭く減衰するいいフォルテピアノでソロを聴いてみなければ、ベザイディンオートの真価はわからないかもしれないが、あるいはベートーヴェン以降の「キャラ立ちした」協奏曲は向かない人なのかもしれない。
あ、でも第1楽章冒頭の弾き始めに装飾入れちゃってました。これはキャラ?

一方の伴奏は、示唆的と言ってもいいだろうと思った。
第2楽章について、プログラムでは「前代未聞の驚くべき構成」という解説が付されているのだけれども、叙情的なソロと峻厳なトゥッティの短い交替の連続というのは、イタリア様式のバロック協奏曲、それこそ(何度も引き合いに出すが)ヴィヴァルディの緩徐楽章ならよく耳にするような気がする。これまでこの楽章からバロックを嗅いだことがなかったのは、トゥッティの「合いの手」の表情が思わせぶりすぎたためだったのかも。ホグウッドの「合いの手」は予断なく仮借なく突き刺さる。
第3楽章ではPfソロに付き従うVcソロの動きに強く集中させられました。大体の演奏はこのソロVcは目立たないようにコソコソしているような気がするんだけど、こういうオブリガートもバロックでは普通のことだし、、この楽章も案外古い形式に接近しつつ作曲されているのかしらん。中ほどのVaに現れた鮮やかな瞬間は、ノンヴィブでしか出せない味わいでしたね。

で、ベト7。これは真ん中2つの楽章がベラボーによかったです。
もう簡単に書いちゃうけど、第2楽章は再現部分のフガートがこれ以上ないというくらい鮮やかな切り分け(インテル入ってた!)、第3楽章はこのスケルツォが実はジーグであったことを気づかせる軽いタッチ。なんだかんだ言ってもポテンシャルのあるN響のアンサンブル能力も含めて、非常に満足度の高いパフォーマンスだったと言えます。大抵は非協力的で仏頂面がとりえの紺マス氏が、カーテンコールで珍しく笑顔を見せ、指揮者だけを立たす素振りをしていたのが印象的でした。でした。
by Sonnenfleck | 2009-11-07 09:05 | 演奏会聴き語り

アントネッロ:バルトロメオ・デ・セルマ作品集@近江楽堂(9/5)

c0060659_2214291.jpg【2009年9月5日(土) 14:00~ 近江楽堂】
<バルトロメオ・デ・セルマ(1580-1640)>
●カンツォン第11番~バレット
●カンツォン第3番~コレンテ
●チャコーナ**
●パッセジャータ《スザンナ》(ラッソ原曲)
●パッセジャート《草原と丘》(パレストリーナ原曲)~リチェルカータ
●カンツォン第4番
●カンツォン第35番*
●カンツォン第14番*
●パッサカッレ**
●ガリアルダ&2つのコレンテ*
●カンツォン第20番*
●チャコーナ*
●カンツォン第34番*
 ○アンコール チャコーナ?(詳細不明)
⇒古橋潤一(Rec*)
  アントネッロ:濱田芳通(Rec, Cor)、石川かおり(Gam)、
  西山まりえ(Cem**)


実は近江楽堂初体験なのです。狭いんだねえ。夜公演は雰囲気もよかろう。

アントネッロを聴くのはちょうど一年ぶり。その宗次ホール公演で知ってしまったのが、思わずさん付けしてしまいたくなる濱田さんの親しみやすいお人柄でして、彼の堂々たる不良クールな音楽とは何かが違うギャップ萌え。アントネッロのコンサートはこれで通算3度目だったけれど、そのいずれも音楽的にはクール、雰囲気的にはほっこりと心温まるものであったために大満足。今やグイと心を掴まれています。
今回取り上げられたのは、バルトロメオ・デ・セルマ Bartolomeo de Selma というスペイン人が書いた音楽。マドリードで音楽を勉強したあと、インスブルックから遥かブレスラウまで行ってしまった面白い人で、濱田さんのプログラム解説には「17世紀のテレマン」とのキーワードもあり。

デ・セルマの〈カンツォン〉はバス声部つきのソロ・ソナタ、あるいはトリオ・ソナタの形を取っているみたいで、この日は前半に濱田さんのリコーダーに石川・西山コンビを合わせたソロ・ソナタ、後半にゲストの古橋さんがリコーダーで入ってトリオ・ソナタが演奏されました。ただ17世紀前半に弱い自分としては、ここで聴けた華々しい演奏が、ポーランド音楽からエッセンスを汲んだデ・セルマの楽譜のためなのか、それともアントネッロのプレイのためなのか、イマイチ判断できずでした。両方だろうか。
スペイン古楽(の、しかも初期)らしく荒々しい展開を、さらに増幅するアントネッロの3人+1人は、よく田町駅のデッキで見かけた南米系のパフォーマーたちなんか敵ではないくらい「辻音楽師」だった。あれはもしかすると藝大古楽科のセンセたちをカンカンに怒らせるプレイなのかもしれないが、やっぱり愉しいのだ。

さてこの日一番の衝撃は、西山さんがソロで聴かせてくれた〈パッサカッレ〉でありました。
栄のHMVでこの人の《イタリア協奏曲》を試聴して、異様な濃厚さに引いた経験もあり。しかし彼女が鍵盤に長い髪を垂らしてデ・セルマの音符に耽溺する様子、そしてそこから立ち昇る音楽には、何か胸を締め付けるような美しさがあった。ここではさらにパッサカリア萌え属性も刺激されたゆえ、溜息も出ず。

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幕間にファゴットの祖先・ドゥルツィアンが登場(デ・セルマはファゴット奏者でもあった)。あの至近距離で受けるドゥルツィアンの音波はほとんどトロンボーンのように強烈。古橋さんも濱田さんも、二人とも吹けるんならもっと聴きたかったなあ。夜公演では吹いたのかな?
by Sonnenfleck | 2009-11-04 22:17 | 演奏会聴き語り