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今年はこんなの聴きましたランキング'09<コンサート編>

10位 ◆新国立劇場オペラ研修所公演 《カルメル会修道女の対話》(3月)
9位 ◆ブリュッヘン/新日フィル ハイドン・プロジェクト 《天地創造》(2月)
8位 ◆[カルミナ・ウィークエンド]第4日:The Challengers(9月)
7位 ◆ラザレフ/日フィル 第614回東京定期演奏会(11月)
6位 ◆ハーディング/新日フィル 第442回定期演奏会@すみだ(3月)
5位 ◆ボストリッジ+ビケット/東響 名曲全集第51回(11月)
4位 ◆トゥルノフスキー/群響@地方都市オーケストラ・フェスティヴァル(3月)
3位 ◆東京二期会―R. シュトラウス《カプリッチョ》(11月)
2位 ◆ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊(ラモー&モーツァルト)(11月)
1位 ◆【LFJ】スキップ・センペ(ルイ・クープランほか)(5月)

以下選外ながら心に残ったもの。
ハイティンク/シカゴ交響楽団@横浜みなとみらいホール
カンブルラン/読売日響 みなとみらいホリデー名曲コンサート
ゲルネ+エマール[ベルク→シューマン]@東京オペラシティ
新国立劇場《ヴォツェック》
小林道夫《ゴルトベルク変奏曲》@東京文化会館


追記しました(1/4)。
by Sonnenfleck | 2009-12-29 14:36 | 演奏会聴き語り

ラザレフ/日フィル 第614回東京定期演奏会(10/24)

c0060659_7174430.jpg【2009年10月24日(土) 14:00~ サントリーホール】
<プロコフィエフ交響曲全曲演奏プロジェクト vol.3>
●チャイコフスキー:幻想的序曲《ハムレット》
●モーツァルト:Pf協奏曲第27番変ロ長調 K595
→田村響(Pf)
●プロコフィエフ:交響曲第3番 op.44
 ○同:バレエ《シンデレラ》~ワルツ
⇒アレクサンドル・ラザレフ
  /日本フィルハーモニー交響楽団


いま彼らを聴かぬは損!

土曜朝の11時頃まで部屋で悩んだあげく、ブログ界隈でのラザレフ+日フィルの評判がここ一年くらいでどんどんうなぎ上りになっているのを鑑み、プレヴィン/N響のタコ5を切って溜池山王に行ったのでした。しかしこれは…ラザレフを選んだのはまったく正しかった。コンサートの全編に亘って痺れた。

この人の指揮を初めて聴いたのは2003年に日フィルとやったショスタコーヴィチ11番で、相当壮絶だったに違いない第2楽章よりも、今となっては意外に第3楽章の豊かな抒情が強く印象に残っている。2回目はこのブログを始めてからの2005年12月、サントリーホールでのオール・プロコフィエフ。このときの第5交響曲について、当時の自分は「偉大な鈍重」「大蛇ずるずる」と書いていますが、まさに今思い返してみてもそんな感じで、いずれも強烈な印象を残しているのです。

+ + +

プロコの第3交響曲は、ほぼ理想的な演奏だったとしか。

ギャングスターのような悪ぶりに冷えたオカルトを混ぜて、その土台に少年のようなリリシズムがもったりと添加されたこの曲、僕はプロコフィエフ作品の中でも特に好きなのだけど、ライヴではまず滅多に取り上げられることがありません。演奏技術的にオーケストラに掛かる負担と、上記のような相反する要素たちに気を配らなくてはならない指揮者の負担が、ともに大きすぎるからだと思う。
今回ラザレフと日フィルは、その負担どもに対して、真正面からがっぷり四つに組む。
少なくともラザレフの態度は「共同作業」という感じではなく、各パートへの異常にねちっこい指示の飛ばし方を見ていると(よほど緻密にスコアを読み込んだ結果だろう)、「歯を食いしばって俺についてくれば負担も全部引き受けてやる」というような信頼の親方ブランドが燦然と光って見えるのです。きっと練習は苛烈を極めたと思うけど、オケが指揮者を強く信頼して音楽を付託している様子が客席に伝わってくると、それはお客だって強く引き込まれちゃうよね。

第1楽章第4楽章の阿鼻叫喚は、ベクトルの長さが想定外。ただ表面をショッキングにするだけでなく、Vnにすら分厚い低音を求め、低音金管楽器と打楽器によって肉厚の(しかも引き締まった)響きを形作っていたのには舌を巻きます。説得力のないアッチェレランドが皆無なのもすげー。この曲の録音でたとえれば、ロジェストヴェンスキーとラインスドルフのいいとこどり、みたいな。第2楽章も美しい。。
13声部ディヴィジの第3楽章のみ、フラットめの設計に違和感がありましたが、これはラザレフの読みとこちらの好みが合わなかったか、あるいはオケの皆さんさすがに疲れたか、というぐらいのことだろう。あのように、平面の中に模様を閉じ込めるのもありかもしれない。

+ + +

で、このプロコフィエフはあくまでも(程度は高級だったけれど)こちらの予想を裏切らなかった。まったく予想外によかったのが、前半のチャイコフスキーとモーツァルト。。

今回の序曲《ハムレット》は、自分の中のチャイコフスキー像を見直さざるを得ないくらい完璧な仕上がりでした。オフィーリアを表すというObのメロディで「おめえらここを聴け」とばかりに客席に向かって指揮をし始めるマエストロが可笑しかったその直後に(これは《1905年》の第3楽章でもやってた)、木管たちが重なり合って天国のような響きが聴かれた。これがまず忘れがたい。

それから最後の葬送行進曲、このときの弦楽は(はっきり書いてしまおう)いったいコバケンが指揮したときにあのような音を出すのと同じオーケストラだろうか、というくらい緻密で静かで、そのうえ溶けたバターのようなぬらめきが備わっていて、とにかくこれも極上でありました。こんなのを聴かされたらブラヴォを飛ばさざるを得なかったです。

それからモーツァルト。うちは佐藤卓史勝手に応援ブログであるから、若手男子ピアニストにはどうしても点が辛くなりがちなのだが、いや確かに田村君のピアノはいいと思った。ハンマー投げ選手のような風貌(ごめんなさい!)に似合わない甘い音の持ち主で、はまったときには本当に素晴らしい効果を発揮すると思う。

ラザレフはやっぱりというか当然、オケメンたちが楽器を構えるタイミングまで指示していたし、さらにピアニストに向かっても指揮をしていて、協奏曲を指揮する指揮者って本来こういう感じなのだろうなあと妙に感じ入る。ラザレフのモーツァルトは今や誰もやらないような、ミッドセンチュリー的なつくりなのだけど、果たしてその精妙さにぐうの音も出ず。
第2楽章でピアノのつぶやきを最初に受けるホルンと、続く管楽器たちのあの美しいバランスを聴いて、それでもラザレフが爆演専門指揮者だと言うのなら、僕は受けて立ちますよ。それぐらいよかった。

+ + +

ちょっと興奮した。
by Sonnenfleck | 2009-12-28 07:24 | 演奏会聴き語り

ピーター・ウィスペルウェイ 無伴奏チェロリサイタル@トッパンホール(10/23)

c0060659_16483251.jpg【2009年10月23日(金) 19:00~ トッパンホール】
●ヒンデミット:無伴奏チェロ・ソナタ op.25-3
●アンリ・プスール:《あなたのファウスト》のエコー第1
●リゲティ:無伴奏チェロ・ソナタ
●クラム:無伴奏チェロ・ソナタ
●コダーイ:無伴奏チェロ・ソナタ op.8
 ○バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番~サラバンド
⇒ピーター・ウィスペルウェイ(Vc)


トッパンホールは何年ぶりだろう。六七年は来ていないはずだから、内装なんかほとんど見覚えがないし、行き方も忘れてしまったので、飯田橋駅からの新ルートを新規開拓する。
ウィスペルウェイのパフォーマンスは、ショスタコーヴィチの協奏曲やバッハの無伴奏のディスクで耳にタコができるくらい親しんできたものの、何度かあったライヴのチャンスをことごとく逃してきたために、この日が初めての出会いとなったわけです。今年のLFJもこの人のチケットの争奪戦には加わらなかったんだよなあ。

正直に書くと、恐らく多くの人にとってのメインであり、僕もそのように考えていたコダーイからは、あまりいい印象を受けなかった。
今回の演奏は本人の10年前の録音に比べてボウイングに硬直が感じられる瞬間が多く、それによって確かに表現主義みたいな力強さは生まれるけど、逆に曲想の落ち着いたところが変に空虚な雰囲気に支配されてしまっていたように思う(特に第2楽章の後半なんか)。非常に残念でした。本人的にはこれはこれで深化なのかもしれないけど、一番の持ち味であるはずのしなやかさを失くしたウィスペルウェイは、あまり積極的に聴きたい対象ではない。。

むしろこの日の白眉は、前半のプログラムじゃなかったかな。
二曲目のアンリ・プスール《あなたのファウスト》エコー第1は、微細な(しかもたとえばウェーベルンとは違ってコミカルな)パッセージが不規則に並んでいて、小体ながらも上品な抽象表現主義の一枚絵を思わす作品。ウィスペルウェイの脱力の仕方がナチュラルで可笑しく、さらにその前のヒンデミットを突き詰めるとああ確かにこんなふうになるなあという連関の妙味もあり、素敵でした。

続くリゲティソナタは、何度も登場する静かな上行グリッサンドが特徴的な第1楽章に、狂騒的な第2楽章のカップリング、、これが素晴らしかった!ウィスペルウェイらしい緩急の付いた見事なボウイングはここでは完全に健在で、まったく感心することしきり。
若書きの作品(1948/53)だけあって妙にロマンティックだなあと思って聴いていて、あとで解説を読んだら、第1楽章はジェルジ青年がチェロ科の女子学生に恋をして贈ったものだとか。あのグリッサンドは問いかけだったわけだ。女子学生もそれを受け入れていたら物凄い人生になるところだったねえ。

+ + +

生のウィスペルウェイを目の前にしてわかったのは、この人が吐息系・足バタバタ系ノイズの宝庫だということ。コダーイの第3楽章なんか顔が緩んで何度か舌が出てたし、最後の音符を弾き終えて弓を振り上げるのと同時に椅子からビョンっと飛び上がって見事な着地でした、という10.0。
by Sonnenfleck | 2009-12-26 16:50 | 演奏会聴き語り

「青い文学」第5&6話―坂口安吾『桜の森の満開の下』

メリクリ!(←テンション5割増し)
善男善女の多いクラブログ界隈ではまだ誰もやっとらんだろうと思ってのんびりしてたら、ヽ['A`]ノキモメンさんに先を越されてしまってぐぬぬぬ。

ガーター亭さんに倣ってオネゲルを聴こうかとも思ったけれど、連日の残業では元気も出ず。この時期は仕方がないのだ。そうしてまた今年も、一年に一度しか聴かないレオンタイン・プライス+カラヤンのクリスマスアルバムを聴いている。

+ + +

さて。こういうトンデモ作品が何の前触れもなくポッと出たりするから、まだまだテレビも捨てたもんじゃないよね。
土曜日深夜に日本テレビで放送中の「青い文学」は、堺雅人が冒頭数分のナビゲータ兼主演声優として登場し、『人間失格』→『桜の森の満開の下』→『こころ』→『走れメロス』→『蜘蛛の糸』→『地獄変』の順番に有名作品がアニメ化されていくシリーズ。なのだが、『桜の森の...』の知名度はこのラインナップの中では明らかに他より劣っているような気がするし、どうしてこの作品が選ばれているのか、不思議ではあった。

最初の『人間失格』は、堺雅人が演ずる葉蔵クンがゾッとするくらいはまり役だったくらいで、まあこんなもんかな…という感じでしたが、この『桜の森の満開の下』は違っている。
妙なるエロと血の臭いのするグロが静かに渦巻いたこの作品に、まさかのスラップスティックコメディと、わざと安っぽく崩したためにかえって記号的になった萌え要素を混ぜて、しかもそれをミュージカル仕立てにしようなんて、誰が考えるだろう。普通は誰も考えない。異常な演出だ。作り手がシリーズ中のどこかでこうした異常な演出を施したいがために、この作品が選ばれたような気がしてならない。従ってもともと異様なストーリーがさらに奇怪な姿になってしまった。

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キャプチャ画面からはコメディや萌えの部分をあえて外しましたが、シリアスなエログロシーンもなかなか美しい。

時節柄もしかすると微妙かもしれないネタはカッチリと原作準拠で、切り取られた首同士を接吻させて女が遊ぶ様子や、絞め殺された女の表情をリアルに描写してしまう。深夜帯とはいえよくこんな描写が許されて電波に乗っているなあと感心するのと同時に、コメディや萌えを混ぜてもギリギリのところで「文学」に踏み止まるバランス感覚にも驚いた。(ただし、盗人の姿が桜の花びらと化すラストシーン、ここを原作の文章のカットを多用して閉めるのは少しずるい。)

このお話、たとえばCG混ざりの実写でやったって面白くもなんともないでしょう?こういう野心的なアニメーション作品を見ると、表現手段としてのアニメはイメージ面でつくづく損をしているなあと思う。
いよいよ今週末、『蜘蛛の糸』と『地獄変』の二本立て!
by Sonnenfleck | 2009-12-24 23:06 | on the air

ゲルネ+エマール[ベルク→シューマン]@東京オペラシティ(10/11)

c0060659_7451549.jpg【2009年10月11日(日) 16:00~ 東京オペラシティ】
●ベルク:4つの歌曲 op.2
●シューマン:歌曲集《女の愛と生涯》 op.42
●同:リーダークライス op.39
 ○同:歌曲集《ミルテの花》 op.25
  ~第24曲〈君は花のごとく〉、第1曲〈献呈〉
⇒マティアス・ゲルネ(Br)
  ピエール=ロラン・エマール(Pf)



心から素晴らしいと思った。
ゲルネもエマールもライヴ初体験だったけれども、この二人の世界に、まったくもって完全に心酔してしまった。これが現代リートの最先端か。

オペラシティの豊かな音響は必ずしもリート向けじゃなかったかもしれません。
でもこの日の演目の前半部分、すなわちベルクの作品2とシューマンの《女の愛と生涯》は、テクストとその細部のディクション処理よりももっと感覚的な部分が大切な作品のように感じるので、ゲルネの発音が音響上聴き取りにくいのはそんなに問題ではなかった。テクストを落とし込んで展開を内包した彼の声質の微妙な変化と、こちらは聴き取りやすいエマールのクリアなタッチ、これらがお腹いっぱい味わえただけで、まずはとっても幸せ。

+ + +

ベルクに歌われる死への親しみ、冒頭の死によって深美に染められた世界―箱庭の中にこのあとの「女」を配置してしまおうという意図の鮮やかさには、目の眩むような思いがしました。ベルクからシューマンへのつるりとした推移に、観客が拍手を挿し挟むことができなかったのは当然のことだ。

《女の愛と生涯》は、自分には正直言ってシューベルトのデガラシみたいに感じられて、もしかしたらこの曲集はシューマンのベストではないかもしれないけれど、つまりその「物足りない分」がベルクの濃密な残り香によって補完されていたというわけです。
ゲルネはことさら女声に配慮したりすることなく、むしろ男声の深沈とした客観をグラデーションにして攻めるし、エマールはエマールで「シューベルトのデガラシ」内にシューマンらしい強力な和音を探し出して強調するし(終局の後奏はまったきシューマンのエッセンスであった!)、すっかり打ちのめされてしまった。

後半のリーダークライスは…。
こちらは作品の性格上、統一されたベルクの世界に入れ込むことができないのだろうし、前述のように雰囲気よりもテクスト解釈の方が優先されそうなので、ワンワンと鳴ってしまうオペラシティ3階では聴取に限界がある。それ以上に、休憩時間によって死の箱庭が裁断されてしまったのが無念だった。あの20分間が憎らしい。。あるいは1階席を取らなかった自分の行いを悔やむか。

+ + +

ロビーに溢れる業界の人々とは対照的に(ホントにどっちを見ても見覚えのあるセンセたちばっかり!)、普通の愛好家は決して多くはなかったような気がしました。もったいないなあ。。ともかく、終演後は抱き合って肩を組んで手をつないでとラブラブぶりを見せつけてくれた歌い手とピアニスト、今後の共演にも期待大と言わざるを得ません。
by Sonnenfleck | 2009-12-23 07:52 | 演奏会聴き語り

暮色蒼然(10/18)

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アラウのシューマンを聴く17時。

by Sonnenfleck | 2009-12-21 22:57 | 絵日記

東京二期会―プッチーニ《蝶々夫人》(10/10)

c0060659_2021195.jpg【2009年10月10日(土) 14:00~ 東京文化会館】
●プッチーニ:《蝶々夫人》
→文屋小百合(S/蝶々夫人)
  小林由佳(MS/スズキ)
  小原啓楼(T/ピンカートン)
  久保和範(Br/シャープレス) 他
→二期会合唱団
→栗山昌良(演出)
⇒ジャック・デラコート/読売日本交響楽団



【【以下、生まれて初めて蝶々夫人を観た人間の感想文】】

1. 背景
間が何段も抜けた梯子を登るのはよくないと思ったため。

2. 興味深いところ
(1)台本と演出
ヤンデレ蝶々さんに、意志なきスズキ人形、軽薄が勲章をぶら下げたようなピンカートン、成り行き任せの偽善者シャープレス。
異様に丁寧な和空間が「コメディーお江戸でござる」を想起さすこの栗山昌良の演出は(きっと)ト書きに忠実なのだろうと思ったけど、2009年の日本国の都でこんなオペラがフツーに上演されていいのかしらんと思うわけですよ。

この作品って読み替えはされるんだろうか。
されるんだろうな。されないと目も当てられないもの。
たとえば、自分を蝶々さんだと思い込んでいる狂女に、専任看護婦スズキ、院長シャープレス、「誠実な」若い研修医ピンカートンで、当然子ども役はクマのぬいぐるみとかにして、病院ぐるみで狂女に台本どおりの治療を施していると。狂女が「自害」シーンに納得すると、台本は冒頭の結婚式シーンに戻る。エンドレスバタフライ。
クプファーのオランダ人の二番煎じみたいだけどこんな演出がいいなあと思って、客席で妄想するくらいが当日の楽しみでありました。
底抜け美メロは気の滅入る演出と相俟ってこそでは。

(2)音楽と管弦楽
美メロ。プッチーニをほぼまったく聴いていないと、「デラックスガトーショコラ・ホイップクリーム添え」みたいな先入観を持ってしまうのだけど、案外和音が大胆だったりするのは新鮮な発見でした。結構キツめの不協和音も入るんだねえ。
でもいかんせん舞台セットが「お江戸でござる」風なので、何とも言えない居心地の悪さを感じる。。
面白かったのは、デラコートという指揮者が、もしかしたらスコア以上に和音の表出をキツめに設定していたんではないかという点。いや、もともとスコアがそのように書かれているのかもしれないけどさ、、ほんのところどころではあったけど《神々の黄昏》みたいに鳴る局面があって、ハッとさせられた。僕でも知ってる有名な〈ある晴れた日に〉が信じられないくらいあっさり終了したのも、この指揮者への興味をそそられたポイント。

(3)その他
・あらすじを読んで、ボンゾのことを「凡蔵」だと思っていたら、意外にも「坊主」であった。
・畳に土足はやめてくれ。
・猿田彦の神。
by Sonnenfleck | 2009-12-19 20:28 | 演奏会聴き語り

なつかしいいちにち(10/12)

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初秋の大倉山記念館。
古巣の団体のOBOGがアンサンブルをやるというので聴きに出かけたら、思いもよらない盛況ぶりでびっくり。お客さんのつもりで行ったけど座る場所がないし、身内だしなと思って受付や撮影係など勝手に手伝ってきました。

団体の性質上取り上げられることのなかったボッケリーニ、復古精神の鑑として記念イヤーのメンデルスゾーン第2カルテット、懐かしのジェミニアーニop.3-3とバッハ1056、アンコールにパーセルのシャコンヌが二曲。
by Sonnenfleck | 2009-12-18 06:24 | 絵日記

晴読雨読:ゲーテ/池内紀訳『ファウスト』

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ゲーテ/池内紀訳『ファウスト』、1999年、集英社(2004年、集英社文庫)

文系型中二病に端を発する『ファウスト』への思いは、故郷の中学の冬の朝の図書室からずっと、この身にくすぶり続けています。そしてくすぶったまま挫折を繰り返し、年月は過ぎる。凡そ文系であればこのへんの屈折した感情は同意いただけるものと思うのです。
9月、意を決して池内訳を買い揃えてから、12月12日にようやく読破。長患いの中二病に一つの決着がついた達成感とともに、この作品の複雑な(しかし意外に直截な)美を俯瞰することができた喜びは強い。

なぜ読み通すことができたかというと、池内訳は散文なのです。
ちょっと長いけど、彼自身の解説を引用しましょう。
『ファウスト』には、実にさまざまな詩形が使われている。二十代から八十代までにまたがっているのであれば当然である。その場に応じてもっともふさわしい詩形が、もっとも効果的に使われた。この点だけでもゲーテはまさしく天才だった。
(中略)しかしながら翻訳すると、ゲーテがドイツ語で苦心した一切が消えてしまう。韻律が乏しく、まるきりべつの構造を持った日本語にあって、詩句を踏襲しても、はたしてどのような再現ができるだろう。
 詩句をなぞるかわりに、ゲーテが詩体を通して伝えようとしたことを、より柔軟な散文でとらえることはできないか。いまの私たちの日本語で受けとめてみてはどうだろう
 そんな考えで、この訳をつくった。いまひとたびの出発のためである。名のみ高くて読まれることの少ない古典を雲の上に祭りあげるかわりに、われらの同時代に引き込もうとした。
池内先生には(先生と呼ぼう)、一生頭が上がりませんな。ドイツ語を自在に操りながら原文を味わう能力がない以上、日本語話者のままで「いまひとたびの出発」に立ち会える贅沢な喜びは、言葉では言い尽くせない。仮令この「出発」がリライトと小馬鹿にされようとも、ガチガチの韻文訳の表面を舐めてわかったようなふりをするよりはずっといい。

+ + +

第一部のストーリーは有名だから、韻文でも気合いを入れればなんとかなりそうだったんですよね(何度かの挫折からわかったこと)。でも、老ファウストの強い絶望感と若ファウストの欲望、誘惑されるグレートヒェンの心の機微、憎めない皮肉屋メフィストフェレスの実際など、散文にしかないであろう生々しさに胸が躍ります。思ってたよりもずっと愉快で猥雑な人間ドラマなのだなあ。

問題なのは第二部。なるほど池内先生が解説に書いているとおり、こちらはマクロコスモスなのだ。第一部がせいぜいテレ朝21時の二時間推理ドラマだとしたら、第二部は、何十チャンネルかを分割画面で同時に見ていくような感じ。視点も時間も複数が同時に進行しているから論理なんかズタズタだし、登場人物が普通の意味で「登場」しているかどうかだって怪しいものだ。

つまり第一部とは全然位相が異なるわけで、さすがの池内訳散文でも意味を捉えるのに心の強度が必要な部分が多いのです。でもそんなときは無理に意味を取ろうとせず、無心になって、池内先生が日曜喫茶室で聞かせる話し方そのままの柔らかい日本語と、圧倒的なイメージの氾濫に淫するのが一番だということがわかった。
瓶詰め生命のホムンクルスが海に向かう第二部第二幕は、今回の体験の中でもひときわ圧倒された局面でした。海神ネレウスの娘ネレイデスとセイレーンがエメラルドグリーンのエーゲ海で歌い交わすシーンの巨きな美に、座って本を読んでいた電車のシートがぱあっと浮かび上がって上空に飛ばされるような、物凄い感覚に襲われたこと、これは書いておかなければならない。
なんという氾濫だったろう!あれは!

※この副産物として、『崖の上のポニョ』が、『人魚姫』よりも《ワルキューレ》よりも、何よりもずっと『ファウスト』第二部第二幕に近いということがわかった。あの、深読みを誘う(しかし深読みしようとすると破綻する)物語に思考が囚われていては、宮崎駿の中の海と官能のイメージに入り込むことはできないような気がする。イメージに論理も何もあったものではないから。。

+ + +

そして、音楽ファンとしての最大の喜びは、マーラーの第8交響曲にさらに深く接近するための道筋がわかったことです。
よくもまあ…あの第五幕の最終場を音楽化しようとしたなあという尊敬の念がまず浮んでくる。ファウストが息を引き取った後のことだから、もはや人称らしい人称はなくなって、「山峡、森、岩」の隠者たちと天使たち、マリア崇拝の博士、かつてグレートヒェンと呼ばれた女、そして栄光の聖母らが、めいめいばらばらにファウストの救済と肯定を歌い上げている、ポリフォニックなテキスト。

しかし、ここにファウストの転生フラグが立っていることに、恥ずかしながら今回テキストを読んでみるまで気づいていなかったのです。《大地の歌》のテキストだって、最後は永遠の救済のようなものを望んでいるわけだから、もしマーラーが自分をファウストに重ねていたとしても、それは自然なことだと思う(アルマはメフィストフェレスほど甲斐々々しくはなかったかもしれないが)。

a音とu音とo音が多い池内訳の結尾には、神々しいほどの単純さがある。
これでマーラーは救われるだろうか。
うつろうものは
なべてかりもの
ないことがここに
おこり
ふしぎがここに
なされ
くおんのおんなが
われらをみちびく

by Sonnenfleck | 2009-12-14 23:04 | 晴読雨読

ボストリッジ+ビケット/東響 名曲全集第51回(11/29)

c0060659_22481055.jpg【2009年11月29日(日)14:00~ ミューザ川崎】
●モーツァルト:交響曲第38番ニ長調 K504 《プラハ》
●ヘンデル:《メサイア》~
 シンフォニー、〈慰めよ、私の民を慰めよ〉、
 〈もろもろの谷は高くせられ〉
●同:《アリオダンテ》~
 序曲、〈不実な女よ戯れるがよい〉、
 第2幕のバレエ音楽
●同:《エイシスとガラテア》~
 〈愛の神が進軍の鐘を鳴らすと〉
 ○同:《セルセ》~〈懐かしい木陰よ〉
 ○同:《エイシスとガラテア》~〈愛の神が彼女の目に座って戯れ〉
→イアン・ボストリッジ(T)
⇒ハリー・ビケット/東京交響楽団


学生時代の名残で、みなとみらいホールは近いと錯覚しがちであるのだが、実際は神奈川のホールの中ではミューザが最寄りだったりする。それでも片道一時間は優に要するのでほとんど足は向かないのだけど、この日ばかりは出掛けざるを得ないのです。何しろボストリッジが生でヘンデルを歌うんだから!
一昨年出た彼のヘンデル・アルバムにはすっかり魅了されていて、この公演は発売早々に2階センターを押さえてしまった。さらに指揮者が、当該アルバムで伴奏を付けていたその人、ハリー・ビケットに交代するという(かなり)嬉しい誤算もあり、テンションは高ぶるばかり。

なので、前半の《プラハ》が極めて微妙な出来だったのにはがっくりと落胆してしまった。
アーティキュレーションにこだわって変なアクセントを付けることしかしない第1楽章に、ただただ平滑なだけの第2楽章、無理のある速さの第3楽章を聴かされて、安っぽいノリントン風味というか、、ビケットには不信感を持たざるを得ませんでした。東響も薄めのヴィブラートではピッチの甘さを隠しきれず、ぐーむ…と唸るしかなし。録音で聴くビケットの伴奏はあんなによかったのに、こらどうしたことかね。。

+ + +

ところが後半のヘンデルになるやいなや、ビケットは別人のように。
通奏低音を強く先導し、上の声部たちには上品で華やかな装飾をつけていく様子、指揮する姿もモーツァルトのときとは全然違ってナチュラルハイだし、可笑しくなってしまった。この人は本当にバロックにしか興味がなさそうだなあ。

東響のほうも、格段に繊細なアンサンブルに化ける。
僕はここにはっきりと発言するけれど、このヘンデルのときの東響は、これまでに聴いた日本のどのモダンオケよりもナチュラルに、古楽オケに化けていました。もちろん、最初にブリュッヘンが手を振り下ろした瞬間の新日フィルも忘れられないが、今回の東響のように啓蒙時代管やAAMのようなアングロサクソン系の優美な古楽オケの音がしたのは大変な驚きでした。スダーン効果なのか。

さてボストリッジは。ライヴ体験は2004年《水車小屋の娘》以来の2度目。
結論から申せば、快感だったとしか言いようがない。
大勢はヘンデルアルバムの様子と変らないけど、録音で感じた彼らしい苦みはライヴではずいぶん後退していて、より甘く、より自由な装飾を入れて歌う。

《メサイア》から〈慰めよ、私の民を慰めよ〉。
Comfort ye, Comfort ye my people...
最初の「o」の透き通った姿と、二回目の「o」の胸苦しい想念にぞくり。

《アリオダンテ》から〈不実な女よ戯れるがよい〉。
Scherza infida in grembo al drudo.
Io tradito a morte in braccio,
「e」音の諦観、「morte」の暗闇と「braccio」の怒髪。

ミューザの柔らかな音響と、前述のように完璧なビケット/東響の伴奏が付いて、至福のひと時。僕のヘンデルイヤーはこれで完全に報われたので思い残すこともありません。アンコールも含めて、ヘンデルアルバムのコアを抽出したような素敵な選曲だった。
終演後に「Noël Coward Songbook」をようやく買い求め、サインを貰う。
by Sonnenfleck | 2009-12-11 22:49 | 演奏会聴き語り