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アーノンクール/CMW 《ロ短調ミサ》@NHKホール(10/24)

ちょいとお久しぶりでございます。
一週間、頭がぼうっと霞んでしまっていた。
今夜はさらに《天地創造》で追い討ちを掛けられ、おまけに終演後のサイン会で至近距離のアーノンクール☆目ヂカラ!にやられてしまったのだが、霞む頭に鞭打って、まずこの分だけは感想文を書いてしまおうそうしよう。

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【2010年10月24日(日)18:00~ NHKホール】
●バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232
→ドロテア・レッシュマン(S)
  エリーザベト・フォン・マグヌス(MS)
  ベルナルダ・フィンク(MS)
  ミヒャエル・シャーデ(T)
  フローリアン・ベッシュ(Br)
→エルヴィン・オルトナー/アルノルト・シェーンベルク合唱団
⇒ニコラウス・アーノンクール/コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン


前回の来日時に京都で聴いた《メサイア》を思い出させるあの「だまだま感」は、ロ短でも顕著であった。すなわちアーノンクールらしさの源である、拍節とハーモニーの中の計画された滞り―それがロ短に適用されて、今やナチュラルに胸に届く不思議。
アーノンクールと彼の仲間たちが年齢を重ね、表層を覆っていたとげとげ感が抜け落ち、元から彼らの奥のほうにあっただまだま感が表に現れて、結果的に音楽が著しくアップグレードしたことは、評価してよいのだろうか(だまだま感はしかし、クノールカップスープの溶け残りとは違う。繰り返しになるけれども、硬質なCMWの響きがいつの間にか角を摩滅した結果として、もともとのアーノンクールにおける通奏低音観が表出しているのだということは、ちゃんと意識する必要がある)

僕自身は、この変化形が、世界に二つとない不思議な音楽であることを鑑みて、今回のロ短に対して静かに強く支持を表明したい。レコ芸史観的にはアーノンクールはスタンダードなのかもしれないが、全然そうではないということが、今回も明らかになったと考えている(彼の録音したブランデンブルク協奏曲なんか、僕はとんでもなく変な演奏だと思うんですが、どうでしょう)。

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〈Kyrie〉の鋭く透き通った歌い出しは想定以上の威力で僕たちを串刺しにする。一瞬であの広漠とした空間が凍りついて、お客さんが息を飲んでいる。
でも、その鋭さは、今のアーノンクールたちにとっては主役にはなりえない。その直後から始まるフーガのハーモニーに、蕩けるように甘美な濁りが隠し味として用いられていたことを、僕は忘れられないんだよね。
そして、嬰ヘ短調の四部合唱の、深淵を覗くような静けさ。。この不気味な静まりは、当然のように、後半〈Crucifixus〉でもこちらの心を揺さぶる。

〈Gloria〉に入って、だまだまだま...と拡張された3拍子に可笑みがこみ上げる。これがこの人の通奏低音なのだよな。面白いな。
〈Laudamus te〉のエーリヒ・ヘーバルトのオブリガートVnの音色は、当然のごとくキシキシと鉱物質で、こういったところは録音で偲ぶ過去と変化ない。しかし横方向に対して健やかに伸縮する様子は、これは今回の新たな発見だったと思う。話は前後するけれども、〈Benedictus〉でのロベルト・ヴォルフのオブリガートFlも信じられないくらい自由なアゴーギクが伴われていて驚愕する(もっともこれは、「あえて」空気を読まなかったミヒャエル・シャーデの呼吸のためだったかもしれない)
器楽ソリストというと、さすがに艶がなくなって枯れた味わいが出てきたヴェスターマン御大のObダモーレも印象深い。二番(たぶん)を吹いていたので僕の席ではあまり聴き取れなかったものの、ミラン・トゥルコヴィチのFgを楽しんだ方もいらしたことでしょう。

魅力的なアリアにも事欠かない作品ながら、強く心に残るのは(これはもう鉄板だけども)ベルナルダ・フィンクが歌う〈Agnus Dei〉。普段、ショルが歌っているヘレヴェッヘの録音に親しんでいるからなのかもしれないが、女声らしい円やかな情感に溢れているのを聴いて、シンプルに感じ入る。
そして終曲〈Dona nobis pacem〉。どのような演奏でもこの曲の抒情にみんな深く感動してしまうし、堂宇が立ち上がっていくような響きには胸を熱くする(ちなみにここでも、リズムはだまだまと引き伸ばされている)。そうしてアーノンクールは、最後の数小節を、終わりを惜しむようにふんわりと静かに収めたのだった。

盛大な一般参賀、外は氷雨。
by Sonnenfleck | 2010-10-31 01:53 | 演奏会聴き語り

バタが香るアヴァンギャルド。

c0060659_064634.jpg【RUSSIAN DISC/RDCD11190】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ短調 op.43
⇒ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/
  ボリショイ劇場管弦楽団

久しぶりにショスタコをマジ聴きしたくなった。第4。
文化省オケと、ギラつきヌラつきの点では最強の演奏を残しているロジェヴェン先生でありますけれども、実はもう一枚、ソヴィエト末期に名演を残している。ボリショイ劇場オケとの1981年盤がそれ。この前、ようやく新宿のディスクユニオンで掴まえた。

このライヴ、聴けば聴くほどに呆れるほどオケの音色が美しくって、非常に驚いている。
まず、土台になる強い馬力があるのはソヴィエトオケだから当然のこととして、弦の合奏が予想外にミルキーなのがポイント。第1楽章なんか特にそうで、輪郭がかっちりと精緻に合いながら、同時に甘い香りが漂うような響きを維持している(高速フーガ、そしてその後の再現部はひどく高級な様相)。この響きでルビンシテインやグラズノフをやったら絶品だろう、という響きのままこの交響曲をやれる、ある種のナイーヴさみたいなものが、このライヴでの不思議な品の良さにつながっているみたいです。

第2楽章の前半でフルートが雲雀のように浮き上がる箇所、ありますよね。あそこのロマンティックな清涼感は独特だし、その前後も決して不気味な雰囲気ではない。レントラーのリズムも、それを決める低弦の音質も紳士的で、バターのような照りを加えている。とても深みのある響き。僕らはいつも、ロジェヴェンの鮮やかすぎる色彩のパレットに騙されているだけじゃないのか?

オケ優勢で美し「すぎる」ところもある前二楽章に比べると、第3楽章はいつものロジェヴェン節とオケ間の化学反応の勝利、という感じがする。随所に鋭く突っ込んで彫りを深くしようと努める指揮者に対して、オケは今度はチャイコフスキーのように(もっと言えば《モーツァルティアーナ》のように)軽く甘いマチエールを提供する。かくして、ちょっと他の演奏では聴いたこともないような、古典的均整の取れた演奏に仕上がるというわけ。コーダの金管コラールも不思議と雄大で、しかもスターリンゴシックのよう「ではない」。これは魅力的。とっても。

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帝政の不思議な残響が残るショスタコーヴィチ。ゴスオケやレニングラード・フィル、モスクワ放送響とは異質の響き、、これは劇場のオーケストラが演奏しているから?これじゃステレオタイプすぎるかな?
by Sonnenfleck | 2010-10-23 00:08 | パンケーキ(20)

スクロヴァチェフスキ/読売日響 第497回定期演奏会(10/16)

c0060659_2201762.jpg【2010年10月16日(土)18:00~ サントリーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


一年前に芸劇で聴いたブル9の、究極★不自然な曲づくりを目の当たりにして、この指揮者から教えてもらったことやそれにまつわる思い出を守るため、もうライヴで聴くのは止めにしよう、と思った。加齢がいい方向に作用していないとまで考えた。

このチケットを取ったのは、それでもやっぱり、何度目かの不思議体験を期待してしまったからだし、何よりも、同じブル7を取り上げた第437回定期(2005年4月)の再現を望んだからなのだった。そんなわけで今一度、スクロヴァチェフスキ讃。

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ブル9演奏との違いで最も驚きかつ安心したのは、ブルックナーらしい響きの質量をナチュラルに活かして、無理に曲げたり撓めたりはしていなかったこと。無論、2005年の定期を思い出してもそんなことはしてなかったし、CD化された1999年のN響ライヴも同様なのよね。えがったえがった。

ただし、ナチュラル極右派たるギュンター・ヴァントとスクロヴァチェフスキが異なるのは、この人がロマンのお砂糖をちゃんと知っていて、しかもそれを適度に用いる術を心得ているという点に尽きる。
人工甘味料とお砂糖とが似て非なるものであるように、例えば現代の某指揮者Tなどが恣意的に復刻を試みる音楽のロマンティックと、モダニストとして生きてきたスクロヴァ爺さんが「自分の物ではなく、むしろ自分はアンチなのだが、まさにそのためによく知っている」音楽のロマンティックと、どう違うかと言うと、それはもうまるで違うんだ。爺さまが今回のブル7で控えめに、しかし確かにまぶしてきたお砂糖は、『1984年』のサッカリンではなかったのだった。

第1・第2楽章の峰と、第3・第4楽章の丘、平原、という構成は五年前と変化ない。でも、あのときに比べてなお素晴らしい印象を残したのは、第2楽章のオトコっぽい甘美さであった。
第1楽章をいつものように骨っぽく、しかし僕がよく知っているレベルの自然さで造形した後、この楽章は内部から響きがじんわりと膨張し、いくぶんもっさりとしたアーティキュレーションの中で、控えめにロマンティックな歌心が奏でられる(ここでの読響Va隊の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい)。辛口の指揮者がふと取り出す(と見せかけてたぶんこの人は全部計算しているのだが…)ホンモノのお砂糖は絶大な効果を与える。また、こういう演奏を聴くと、ブルックナーが中二男子のような感覚をずっと志向していたような気がしてくるし、また、ブルックナー好きに女性が少ないと言われるのもなんとなく納得がいく。
クライマックスの後、ワーグナーテューバも太く円やか。

その直後の第3楽章の勢いに任せたような雑なアンサンブルもをかし。これもスクロヴァ+読響の味わいと思う。
第4楽章は予想以上に音運びのバランスがよく、音色も開放的で楽天的、ブルックナーのフィナーレを聴く愉しみを存分に味わう。第1楽章主題回帰の直前でホルン隊とワーグナーテューバ隊が左右で鳴き交わす箇所(たぶん)の処理がスクロヴァチェフスキはとても巧くて、峰から降りてきて街の鐘楼で鐘が鳴っているのを耳にするような立体的感が、やはりこの演奏でも聴き取れる。
五年前の感想文を見ると、最後の瞬間に向けた大きなリタルダンドが気に入らなかったようだが、今聴けば、これも大質量をソフトランディングさせるための自然な操作と思われた。自然な静寂と大きな拍手。一般参賀アリ。

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コアなスクロヴァファンには、むしろ前半の《未完成》が究極のご馳走だったかもしれない。あちこちのアクセントは硬い一撃、五線譜がキシキシと音を立てているようなインテンポ、、あれほど干からびて甘みのないシューベルトを僕は生で聴いたことがないですよ。。やっぱり変な爺さん。長生きしてね。
by Sonnenfleck | 2010-10-17 22:00 | 演奏会聴き語り

ピーター・サーキン Pfリサイタル@武蔵野市民文化会館(10/11)

c0060659_9504432.jpg【2010年10月11日(日)15:00~ 武蔵野市民文化会館】
●ジョン・ブル:《ドレミファソラ》
●同:ジグ
●ドビュッシー:《古代のエピグラフ》
●ウォリネン:スケルツォ(2007年)
●バッハ:パルティータ ハ短調 BWV997
●ショパン:即興曲第1番変イ長調 op.29
●同:夜想曲第18番ホ長調 op.62-2
●同:ボレロ イ短調 op.19
 ○ブラームス:間奏曲ハ長調 op119-3
 ○バッハ:シンフォニア第5番変ホ長調 BWV791
⇒ピーター・サーキン(ピーター・ゼルキン)(Pf)


海辺の街に行楽に出かけたその足で三鷹へ。前夜の疲れがあって集中しきれない時間が多く、サーキン氏には申し訳なし。そのうえでの感想文。

昔(2003年?)、N響でブラームスの協奏曲を聴いたことがあるような気がする。でもサーキンのことがあんまり印象に残ってないのは、演奏の特徴までわかるほど聴き知った作品でもなかったからだろうね。だから、ここで小ホールの至近距離で彼のピアノを聴くことができて、かなり特徴のはっきりした音楽をやる人だとわかったのは、僕にとっては大きな収穫だった。

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まずバッハのフーガ楽章でのひどい煮崩れと、ノリノリになってしまった箇所での子どもみたいな幼稚なリズム遊びは、ちょっと許容しがたい。
前者は単純なライヴ性のミスかもしれないけど(全然フーガに聴こえなかったんだけど、大丈夫かな)、バッハのジグ楽章を、あるいはショパンのボレロを、一気に浅はかでチャラい世界に持っていってしまったのは、意外を通り越して幻滅であった。これが好きじゃなかったところ。老いたヒッピー。

これだけで終わってしまったら救いがないわけだけど、一部の作品の異様な素晴らしさは何だったか。
冒頭の、ブル《ドレミファソラ》。耽美な旋律に淫するようなサーキンのねっとりレガートは、ヴァージナルのための作品によさを感じていなかった自分には不意の腹パンチであった。面白いことに、ねっとりしつつ色彩感が薄いので、ミルク色の肌の厚い陶器を思い起こさせる。こうやって演奏するといいんだなあ。

同じようなねっとりタッチは《古代のエピグラフ》やバッハのパルティータ(の、プレリュードとサラバンド)にも効果的に用いられて、極度の耽美家としてのサーキンを印象づける。アンコール、やはりバッハのシンフォニア第5番がたいそう爛熟していて、クープランかと聴き間違える軽い装飾音にふぅと溜め息。

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思ったよりずっと「不器用」なピアノだった。割り切れないものをたんまり抱え込んでここまで来ました、という雰囲気が彼の音楽の根底を形づくっている。この場合、不器用は悪ではないよね。
by Sonnenfleck | 2010-10-16 10:12 | 演奏会聴き語り

あさひな隆のエイティーン・ブギウギ

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1995年、18世紀オーケストラ倉敷公演。朝比奈隆87歳。
偉大なる鈍重にして、鮮烈な和音が轟くベト8。―

CD屋さんのプチミスは珍しくないが、これは冗句にキレがあったので思わずキャプチャした。
たとえばアカデミア・ビザンティナ、などよりも実現可能性が高そうなのはなぜなのか。18世紀オーケストラの運動神経はときどき抜群ではなくなるが、ごく最近のハイパーなバロックアンサンブルとは異なる、このオケの微妙な20世紀っぽさが、朝比奈とのカップリングを無理なく想像さす。とかなんとか。
by Sonnenfleck | 2010-10-14 22:37 | 日記

沖の秋

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by Sonnenfleck | 2010-10-11 13:19 | 絵日記

猫としてのもうひとりのテレマン

c0060659_216632.jpg【ARIA VOX/AVSA9877】
●コレッリ:合奏協奏曲ニ短調 op.6-4
●テレマン:組曲二長調 TWV55:D6
●同:RecとGambのための協奏曲イ短調 TWV52:a1
●同:組曲ホ短調 TWV55:e1(ターフェルムジーク第1集より)
●ラモー:組曲《優雅なインドの国々》

→エンリコ・オノフリ(Vnコンチェルティーノ)
  リッカルド・ミナシ(Vnコンチェルティーノ)
  ピエール・アモン(Rec)
  マルク・アンタイ、シャルル・ゼブリー、イフェン・チェン(Ft)
  バラズ・マーテ(Vcコンチェルティーノ)、ルカ・グリエルミ(Cemb)
⇒ジョルディ・サヴァール/コンセール・デ・ナシオン

「ルイ15世時代のコンセール・スピリテュエル」とのこと。この企画はニケと彼のオケがCDを出すべきなんじゃないかしらんと思っていたが、サヴァールの新譜が出たので買ってきた。
数多い古楽才人たちの中で、サヴァールはどうも山師的存在というか、古楽のゲルギエフというか、刺激的かと想像させておいて完全な肩透かしとか、やる気がなさそうで突然濃密な音楽になったりとか、捉えどころのない人だと思ってます。
この人の熱心なファンにはなれそうもないわけですが、今回のディスクは何しろプログラムがもう、モダンでいったら「コリオラン序曲→メンコン→ブラ1」みたいな超名曲路線みたいなわけで。メンツも豪華だしなあ。

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コレッリの6-1でも6-8でも6-12でもなく、二長調 6-4を選んでくるところにサヴァールの鋭い山師的勘が見える(笑) 名曲ゆえに様々なアプローチがありうるこの曲で、サヴァールはそのイメージを激しく裏切り、清純派黒髪乙女のようなコレッリに仕立て上げている。しかしそこはそれ、何世代かにわたる古楽のヲタク化を経た後の黒髪乙女であるから、ピノックのコレッリのような素朴な黒髪乙女を想像してはいかにもまずい。
流れも響きも薄く涼やかなので騙されそうだが、第1楽章冒頭や第2楽章で聴かれるゴテ盛りの装飾、チョコチョコと賢しい第3楽章、ヘミオラの異様に軽い第4楽章前半―そして急激に響きを重くしてエグい後半。もはや、乙女でいるには病んでなければならないこの世界の悲劇。オノフリはいつもよりライトめ。

そしてテレマン。
サヴァールのテレマンって初めて聴いたあ。
いや、なんというか、シャム猫のようなテレマンだな。
ドイツやイギリスのアンサンブルの演奏とはだいぶ様子が違う。響きはからりと晴れ渡って、セクシーで熱っぽいくせに、フレーズの収めは13時の砂漠のように冷淡。世界中のテレマンが全部これだったら困ってしまうが、たとえばブルックナーにベイヌムとティーレマンがあるように、選択肢としては当然用意されていなければならない種類の演奏だよね。これまでの例が思い浮かばないな。全国のテレマンマニアの皆さん、こんな演奏ありましたっけ?
鬱勃としたエネルギーには定評のあるターフェルムジークの組曲ホ短調も、いやに紳士づらしてやがら。そのうえで動物みたいな艶っぽさが滲み出ているので愉快愉快。テレマン新境地。

このラモーは、まあ、ライヴならありかな。《アフリカの奴隷たちのエール》は、パーカッションが並外れてアフリカンである。ただし北アフリカ。

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サヴァールの体系的なテレマン録音を望むものなり。
by Sonnenfleck | 2010-10-09 21:19 | パンケーキ(18)

on the air:ファジル・サイ Pfリサイタル@紀尾井(9/23)

c0060659_22552826.jpg【2010年7月2日 紀尾井ホール】
●ヤナーチェク:Pfソナタ変ホ長調 《1905年10月1日》
●ベートーヴェン:Pfソナタ第17番ニ短調
 op.31-2 《テンペスト》
●プロコフィエフ:Pfソナタ第7番変ロ長調
 op.83 《戦争ソナタ》
●ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》
⇒ファジル・サイ(Pf)
(2010年9月23日/NHK-FM)


雨降りの一日だった。雨の休日は落ち着く。なおFMの電波は荒れる。

ふつうのクラヲタなので、ファジル・サイ=ハルサイ多重録音、くらいの認識しかなかった。なんとなく好きそうじゃないな、とも思っていた。でも、あれはああいう打楽器系単色コンセプトに則っているだけだったんだな。
つまり。
とても感覚的に音楽を捉える人だと思った。こだわりの強い箇所は歯切れよくクリスプな印象、あるいはメープルシロップとろとろの芳醇な音楽になって聴き手を引き込む。そういった部分はいずれも中間色がふんだんに用いられて実に重層的なんだよね。一方、当人がそうする必要なしと判断した箇所は、ポリプロピレンみたいに乾いて素っ気ない(これが重症化するとポゴレリチになってしまうのか…)
だから、このチラシデザインはサイの一側面に偏りすぎていると思う。

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ヤナーチェクはまだ詳しくないので自信がないが、《1905年10月1日》は全編にわたってサイのお気に召しているようで、隅々まで名演だったような気がする。和音のバランスに独特の華やかさがあって、それも紺鼠とか鴇浅葱とか、微妙にくすんだ色の乱舞でありましたことよ。

《戦争ソナタ》は予想外に輪郭が甘く、歌謡的な演奏だった。ガチガチの軍隊調に演奏されがちのこの曲にも、プロコフィエフのセルフツンデレは隠れているんだよね。そっちのほうを意図的に引っ張り出すピアニストは多くないのだけども、サイはそういうことを試みていた。
第1楽章の第2主題、および第2楽章の奇妙な美しさに絡め取られてしまう。おまけに第3楽章がパワーとテクニックの誇示でなく、プロコフィエフ好みのダンスナンバーみたいにストイックだったのも、僕には嬉しかった。

カサカサのスポンジのように始まったプロムナードが、急に潤う一瞬。《展覧会の絵》も、油断のならない、先の読めない、猫のような立ち居振る舞いが魅力的だったです。あっという間に終わってしまったけど、各曲がどんないでたちだったか、あまり覚えていない不思議。
次はライヴで。
by Sonnenfleck | 2010-10-06 23:06 | on the air

ことしもなつかしいいちにちとモンドンヴィル(10/2-3)

昨年に引き続いて、古巣の団体のOBOG有志によるアンサンブルのお手伝いに行く。そして自分が楽器で参加しなかったことをしばし悔いる(結局)。家族連れが芝生でバドミントンに興じていたりするこの季節の大倉山は、東急沿線的幸福の顕れなのよな。
《夏》のソロが考え抜かれて最高にクールだったり、バッハの1043が断弦の危機を乗り越えたり、テレマンのマニアックなトリオ・ソナタがリコーダーのユニゾンを要求したり。それからこの日、日本広しといえども、ローゼンミュラーのシンフォニアが鳴り渡ったのは大倉山だけだったろう。打ち上げもまた楽しからずや。

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c0060659_2283937.jpg【ARCHIV/457 600】
●モンドンヴィル:6つのソナタ op.3
⇒マルク・ミンコフスキ/ルーヴル宮音楽隊

何度聴いてもモンドンヴィルには才能の閃きを感じない。ラモーの劣化コピー、と言ったらあんまりかもしれないけど、デカダンするでもなく、大店のぼんぼんが趣味でへろへろりと作曲しました、みたいなあの白っぽい雰囲気がかえって魅力なのかも。
そんなモンドンヴィルには、ミンコフスキも攻めあぐねて手を焼く。曲調の変遷があまりにも唐突であるのは、フランスの様式とイタリアの様式がねるねるねるねのようにテキトーに混ぜられているからなのか(その点、テレマンは大天才だった)
しかし、たのしい思い出と軽い脱力感をもって日曜の朝に聴くのはけっして悪くないということがわかったので、だいぶよしとする。お猿さんもいい顔である。
by Sonnenfleck | 2010-10-04 22:17 | パンケーキ(18)

ぶりびば!

c0060659_631351.jpg【Brilliant/93804】 <ヴィヴァルディ>
●協奏曲ハ長調 RV444*
●協奏曲ト短調 op.10-2 RV439 《夜》
●協奏曲ヘ長調 RV98 《海の嵐》
●協奏曲ト短調 RV105
●協奏曲ヘ長調 RV442
●協奏曲ハ短調 RV441
●協奏曲ハ長調 RV443*
⇒エリック・ボスグラーフ(AltRec、SopRec*)/コルデヴェント

先日、某アンサンブルの定期演奏会で、ヴィヴァルディの2本Vn+2本Vc協奏曲ニ長調 RV564を聴いた。どこの誰が演奏していたかは故あって特に秘するのだけども、若々しくて傲慢で挑戦的で、たいへん、たいへん良い演奏だった。
4人のソロが協奏しつつ互いに牽制し合って、それでいて深刻にならないのは、同じような年齢で同じようにバロックが好きな連中の集まりだからなのだわな。
(※ほかのプログラムでは、BWV29の器楽合奏抜粋が特にクールだった。)

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良いヴィヴァルディが聴きたくなった。もりもりと。
1年ぶりくらいに渋谷タワレコに出かけていって、「渋谷店ロングセラー」のポップを信じてこのBrilliantを買うてみたのだよ。1980年生まれの知らない奏者に、偽Virginみたいなジャケ写真だったけれども。
ああそしたら。良い演奏だった。世が世ならVirginからリリースされていた。

僕はリコーダーのことがそんなによくわからないけど、このボスグラーフという人が途轍もなく巧みに吹いているのははっきり伝わってくる。
音が不随意に揺らめくのがリコーダーの味わいだとしたら、この人には味わいがない。「味わい」はないかもしれないが、「味」そのものがある。そこにはろうそくと白熱電球くらいの安定感の差がある。急速楽章ならいざしらず、緩徐楽章でもアーティキュレーションのひとつひとつが艶やかに粒立っているのが僕には驚きでして、これってこの楽器にとっては凄いことだと思いませんか。
個人的にとても懐かしいハ長調 RV443(ふつうはピッコロ協奏曲ですな)でのソプラニーノの超絶技巧に、とてもいい心持ち。敏捷なタンギング!

それから、コンチェルト選集としては大切なバックのアンサンブル。これもいいんだ。
昨今の状況からしたら大人しくて物足りないようにも聴こえてしまうかもしれないが、このエントリを書くに当たって3回4回繰り返し聴いても飽きないのは、後ろの演奏が優れているからじゃないかと思うんだよなあ。オブリガートVcの品の佳さ(これとても大切)、《夜》の第1楽章や《海の嵐》の第3楽章をあくまでふんわりとまとめてしまう度量の大きさ。通奏低音が騒ぎすぎない、余裕のあるアンサンブルというのはとても素敵だ。彼らはコルデヴェントという。覚えておくよ。

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実はBrilliantの自主録音古楽はハイレベルなものが多いのですが、ここへ来てさらにもう一段階突き抜けたような気がする。なんでこれが800円しないんだ。おかしかないか。
by Sonnenfleck | 2010-10-02 06:33 | パンケーキ(18)