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カルミニョーラ+VBO[オール・ヴィヴァルディ]@三鷹(11/28)

ルプーのチケットを払い戻しに武蔵野市民文化会館に立ち寄ってから、中央線の下をくぐって三鷹の街路を南下する。足もとに欅の落ち葉ががさがさしている。

個人的に、良いヴィヴァルディは良いバッハや良いヘンデルよりなお出会うのが難しいと考えているのです。数年に一度の良びば体験を楽しみに。

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c0060659_22512575.jpg【2010年11月28日(日) 17:00~ 三鷹市芸術文化センター・風のホール】
<ヴィヴァルディ>
●弦楽とBCのためのシンフォニアイ長調 RV158
●弦楽とBCのための協奏曲ホ短調 RV133
●弦楽とBCのためのシンフォニア変ロ長調 RV167
●Vn、弦楽とBCのための協奏曲変ロ長調
 op.8-10、RV362 《狩り》
●同変ホ長調 op.8-5、RV253 《海の嵐》
●同ハ長調 op.8-6、RV180 《喜び》
●同ト短調 op.8-8、RV332
●同ニ長調 op.8-11、RV210
 ○タルティーニ:Vn協奏曲(作品番号等未詳)
 ○ヴィヴァルディ:Vn、弦楽とBCのための協奏曲ト短調
   op.8-2、RV315 《夏》~第3楽章
 ○同:同ヘ長調 op.8-3、RV293 《秋》全曲
⇒ジュリアーノ・カルミニョーラ(Vn)/ヴェニス・バロック・オーケストラ


おお、カルミニョーラを生で聴くのはこれが初めてであったよ。
バッハのチェンバロ付きVnソナタは、誰がどんなことを言おうともカルミニョーラ+マルコンのディスクが至高の究極の決定的名演だと思っていて、それがために(それがために?)、ラテン度の高まった近年のカルミニョーラとは少し疎遠にしておった。あ、モーツァルトは聴いてますよ。
もちろんバックは、2005年に《アンドロメダ・リベラータ》を聴いて以来のVBO。今回はマルコンが来てないので、カルミニョーラ天下の一週間なのであろう。

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ライヴのカルミニョーラをひとことで表すと、あきれたというのが最も近い。
あんなに音程やフォルムを犠牲にして、集中と弛緩の振幅を大きく設定して。彼が前述のバッハで聴かせている理性と情熱の黄金比は完全に吹っ飛んでしまい、いくつかの楽章は本当にぐでんぐでんであったことだよ。ホントだよ。

これで終わったらてやんでい金返せというものだが、しかしながら、ところどころに極めて真摯な情熱が隠れている。《狩り》第3楽章《海の嵐》第2楽章や、ニ長調8-11第1楽章など、ゾクゾクするようなおじさんの渋味が充満していて、マダムも娘さんも美少年もころりといってしまうことだろう。これは狡猾。
良いヴィヴァルディだったと言い切る自信はないが、少なくとも、とことんワルくてエロいヴィヴァルディだったとは言える。

VBOのほうは、面白い反応を示していたので特に記しておく。
この日、3曲目まではカルミニョーラが登場しない。マルコンがいれば当然マルコンが仕切るのだろうが、彼が不在の状態で、いちおうコンマス氏を核にしてアンサンブルが組まれる。ところがこの段階でのアンサンブルがずいぶんちぐはぐなんだなあ。
おっとり草食系のVnに、ノリの悪いVa、そこへ圧倒的に精力絶倫なBC隊(Vc+Cb+Lt)、なぜか我かんせずの内向きCem。うわべは上品だけど中はすかすか、しかもBC隊だけはナンパと口説きに夢中、みたいな。

そこへカルミニョーラがひらりっと入ってくると、BC隊との(主に音楽のエロ度数的な)バランスが非常にキレイに整って、忠実従順な背景と化したVnとVaが気持ちよさげに勤労に励む。この形態はいったい。。
僕が聴いた5年前のVBOはもっとまともな古楽アンサンブルだったのだが、マルコン不在のせいか、はたまたカルミニョーラと一緒にやりすぎて変な伴奏グセがついているのか、最近の一流の古楽アンサンブルなら標準装備の「湧き上がってくるような自発性」が同梱されてないのにはびっくりしたですぜ。少なくとも今回であれば、BC隊があの情熱を内部統制に傾けるだけでだいぶ違うと思ったが。

(なお、BC隊の弁護を許していただけるなら、タコのようなリュートのおっさんと、同じくタコのようなチェロのおっさん、あの二人は相当な名手だと思うんだ。あれほど千々に乱れるソロにひたり...と付けて、知らぬ間に拍を整えて、その隙間に自分でもこれ見よがしに華やかな装飾をひけらかす。。並の高音楽器奏者では到底太刀打ちできんのだろう。)

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ちょうど舞台真横のサイドバルコニーに、大感激の女性と、反応のいい学生グループがずらっと並んでいるのを目にしてグッと来たのか、特盛のアンコールで応えるカルミニョーラ。
カラメの《夏》第3楽章はまあ想像が付いたが、まさかの《秋》全部マシに笑う。

追伸1 会場で談笑するiioさんとLINDENさんを見かけました。

追伸2 ちょっと疲れて帰りに乗ったタクシーが、カーステで大音量ドヴォ8を掛けるまさかのボヘミアンタクシー。笑えすぎる。運転手さんに謝ってドヴォ8を切ってもらうも、ヴェネツィアの侵蝕がとまらない。
by Sonnenfleck | 2010-11-29 22:54 | 演奏会聴き語り

晴読雨読:中川右介『昭和45年11月25日』

c0060659_22203255.jpg中川右介『昭和45年11月25日―三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』、2010年、幻冬舎新書

事が起こったのは、僕が生まれる10年以上前のことである。

「好きな作家はたれか」という問いに「三島由紀夫です」と応じると、周りの「大人」たちが少し変な顔をする理由を、僕はこれまでずっと知りたがってい、逆にそれと同じくらい知りたがっていなかった。
僕が好きな、唯、虚構と美文に淫することに天才を発揮した作家・三島由紀夫と、市ヶ谷で割腹自殺した(らしい)丸刈りの人物とが、どうしても結びつかない。結びつかなければ結びつけなくともよい、と思って、彼の小説と戯曲に積極的に浸ってきたのとは異なり、彼が書いた思想的エッセーや、事件に関連した文献には、なんとなく触れ得ずにここまできてしまった。

そんなふうだから、なのかもしれないけれど、割腹自殺の件について「大人」たちが何かを語るのを、20代後半の僕は見たことがない。
アンタッチャブルとして処理される理由は、もう公言されていない。なんとなく、昭和の終わりころまではアンタッチャブルの理由が暗黙の共通認識になっていたのではないかと予想するのだが、きっと「思想」が特殊なひとの玩具として専門店で売られるようになったために、それも崩れている。

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この一冊は、当然のことながら中川右介氏の著作であり、氏の解釈と意向に沿って練り上げられているものとは思う。

だけど、昭和に生きていた120名の「昭和45年11月25日」への発言がコンパクトに取りまとめられたデータ集としての、わりあいに中立的な二次資料としての側面も間違いなく持っていて、これが新書みたいに手軽な形式で読めるようになったのは画期的ではないかしらと感じる。声が大きいひとの、思い入れたっぷりの一人称ではない、そこがこの一冊の優れたところなんだろう。こういう資料を読んでみたかったんだよね。
通常は時間の流れによって自然に形成される歴史の淵を、無理にコンクリートで固めて造った感は確かに否めないのだけれども、誰も何も語らない事件については、これくらいの公共工事が必要なのかも。

時系列を追うシンプルな4章立てで、なるほど作者があとがきで触れているように、『サド侯爵夫人』のごとく複数の視線によって本人がホログラムのように浮かび上がる格好。サド侯爵本人が登場しないのと同じように、三島由紀夫の肉声は語られない。中川氏はこんな状況を「情報が多すぎて、何が真実なのかわからない」とし、結論を曖昧にしている。これも賢明な投げ出し方だと思う。

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感想を語る120人は政治家、作家仲間から演歌歌手まで、本当に幅広いんだけど、事件の理由を三島由紀夫のウヨク思想に持ってきてる人が(それも、当時の若者が)思っていたよりかなり多くて、ただの美文ファン、ただの虚構ファンとしては、定めしそんなもんだべなあ…と思いつつもなにか腑に落ちない。

僕は2010年から振り返ってみて完全に「美学的自殺」だと思っているのだが、これは、三島由紀夫の作品しか残っていない今日だから持ちうる視点なのかな。死んだ行動家が芸術家として認識されているなんてのは、あるひとたちにとっては許しがたいのかもしれない。(逆説的な作劇が大大大好きだった本人はあるいは、多磨霊園の地下で大喜びしているかもしれない。)

晩年の三島由紀夫のああいった思想や行動は、僕には全部ポーズだったとしか思えないのだよな。本書に収録された「檄文」の、うっとりするような美しい修辞を目にして、あらためてそう感じる(念には念を入れて書き添えるが、あの内容は、僕には心底どうでもいい。強烈な自己愛の結末。ただ、あのようにして死んだら美しい、のための事務的準備。それでよくね?別に?

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「大人」の皆さん。あなたはあの日、何をしていましたか。何を思いましたか。
by Sonnenfleck | 2010-11-25 22:53 | 晴読雨読

華氏140度:3

もうそろそろ、チャロをショーターに会わせてやってください。
by Sonnenfleck | 2010-11-22 23:22 | 華氏140度

適度に祝福された土曜日の正午のために

ギターを秘かに愛好している。iPodにはペペ・ロメロのヴィラ=ロボス作品集が、鈴木大介さんの武満「12のうた」が、タネンバウムのヘンツェ《王宮の冬の音楽》が入っている。
これも、入れようか。

c0060659_1234274.jpg【EMI/724355657824】
<ラテンの歌と踊り>
●ペルー舞曲/ブローウェル:高原の踊り
●バリオス:クエカ(チリ舞曲)
●同:パラグアイ舞曲
●同:神の愛のほどこし
●ポンセ:エストレリータ(小さな星)
●同:メキシコのスケルツィーノ
●バリオス:《大聖堂》~前奏曲
●同:《大聖堂》~宗教的アンダンテ
●同:《大聖堂》~荘重なアレグロ
●ヴィラ=ロボス:《ブラジル風バッハ》第5番*~アリア
●ニャタリ:ブラジル舞曲
●グレネ/ブローウェル:キューバの子守歌
●ラウロ:ヴェネズエラ風ワルツ
●ピアソラ/ブローウェル:天使の死
●ピアソラ:《タンゴの歴史》#~1900年代の娼窟
●同:《タンゴの歴史》~1930年代のカフェ
●同:《タンゴの歴史》~1960年代のナイトクラブ
●同:《タンゴの歴史》~現代のコンサート
→バーバラ・ヘンドリックス(S*)
→エマニュエル・パユ(Fl#)
⇒マヌエル・バルエコ(Gt)

奏者の名前も知らずに、曲のセレクションと構成が素敵だなあと思って買い求めたCDなんだけれども、濃いコーヒーを淹れてだまって聴いていると、たいへんな名手のように思われる。この人の音のつぶつぶは冬の空気のように明晰で、すっきりとした薫りを残し、潔く消える。
どれも甘いメロディや陽気なリズムに彩られた作品たちなので、気立てのいい、でもだらしないフィールドを展開することも可能なはずなのに(僕の知っているジョン・ウィリアムズはそんな感じだ)、バルエコはアーティキュレーションにピリオドのような雰囲気があるんだよね。

という調子で民謡・舞曲を演奏するものだから、これはまるでリュートのようである。サヴァールやピエルロのアンサンブルにいても全然おかしくない。

「クラシック」では、バリオスの《大聖堂》をついにこのディスクで初めて聴く。ほかのギタリストが弾いてどうなるか興味はあるが、バルエコの手にかかって気の利いたクラヴサン組曲みたいに聴こえるのは、新鮮な心持ちがする。何よりも、さっくりとした粒立ちのよさ。
最後に、ゲストを迎えている《ブラジル風バッハ》《タンゴの歴史》で、アーティキュレーションを極めて控えめに、ソロに比べてよりマットな仕上げにしているのが面白い。キャンバスがしっかりしないと図が発色しないのは自明の理だよな。
by Sonnenfleck | 2010-11-20 12:36 | パンケーキ(20)

ぼく わるいスライムじゃないよ


たまに泣くことが許されるか

by Sonnenfleck | 2010-11-19 22:44 | 日記

華氏140度:2

サントリーホールの鍵を、僕はどこに返したらいい。
by Sonnenfleck | 2010-11-17 22:17 | 華氏140度

アーノンクール/CMW 《ポストホルン》+《ハフナー》@オペラシティ(11/3)

c0060659_9344957.jpg【2010年11月3日(水) 18:00~ 東京オペラシティ】
<モーツァルト>
●行進曲ニ長調 K335-1(K320a-1)
●セレナード第9番ニ長調 K320 《ポストホルン》
●交響曲第35番ニ長調 K385 《ハフナー》
 ○ドイツ舞曲第6番ニ長調 K571-6
⇒ニコラウス・アーノンクール/
  コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン


CMW来日最終公演は、オペラシティのP席を買い求めました。
主にアーノンクールの指揮を正面から視ることを目的にして、あそこの一列に初めて座ったんだけど、視覚の効果以上に音が極めて生々しく、いつもはアコースティックが上品すぎて物足りない思いのするタケメモでは例外的な場所なのだね(特に木管群のライヴ感がたまらない)。正面に座ってどう聴こえたかはわからないので、それを踏まえて。

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今回の3プログラムのうち、アンサンブルの練り上げではハイドン回が圧倒的、緊張感ではバッハ回の勝利、ではモーツァルトは…これはアーティキュレーションの千変化による触感マジックの回だったのね。テキストを伴わない音楽は、こうも指揮者の表現欲を強くかき立てられるものかと思った。最後の最後でついに、僕らが慣れ親しんだアーノンクール節が炸裂する。

昨年のミンコフスキでも思ったけど、本当に優れた演奏は、《ポストホルン》の名曲ぶりというか、大交響曲に何ら引けを取らない規模と内容を備えていることを感じさす。
でもこの日の演奏がミンコフスキ/ルーヴルと決定的に違ったのは、アーノンクールの独自の音楽観・美意識に基づいて、19世紀的な「藝術音楽」から一歩も外れなかったことだろう(アーノンクールがモーツァルト以降の音楽をやるときは、彼らのバロック音楽(少なくとも、ハイドンまで)とは全然違う回路への分岐を常々感じていたんだけど、これもライヴ体験で裏づけられるものがあった)。これはどっちが良い悪いじゃなく、ミンコフスキはバロックの方向からモーツァルトを眺めて「芸能」をやっただけだし、アーノンクールは19世紀から振り返ったということ。

最初の行進曲は巧まざるごちゃつきだったかもしれないが、第1楽章の最初の音が出た瞬間、彼らがやってきたバッハともハイドンともまったく違う、雑駁で華美な二長調の展開にニコニコしてしまう。CMWのバルブを閉めずに全開にすることで、このような雰囲気をあえて醸成しているのは間違いのないところだろうよ。
第2楽章のトリオはおどけるようにギクシャクとしたリズム取りで、あそこは明らかにアーノンクールがニヤニヤしていました。僕ぁ見ました。

第3楽章第4楽章の協奏的瞬間は、自分の席の真下にいるヴェスターマンやヴォルフ、トゥルコヴィチの直接音がガンガンに飛び込んできて胸苦しい。みなアーティキュレーションに鋭いキレがあり(ヴェスターマンは音が多少ひっくり返ったり掠れたりで、ここでも他のメンバーに比べて枯れと若干の衰微を感じさせてしまったが)、音楽の贅沢とはこういうものなのだと思われた。
それにしても、あのアーノンクールの飾り気のない直感的指揮から、どうしてあれほど豊かな発音の幅が生まれるのだろう?左右のL字・逆L字運動、人差し指の矢印、灰青ギョロ目、大きな口、時々がに股。リハーサルに秘密があったのだろうか。あったのだろうな。見てみたかったな。

もちろん、第5楽章のCMWの(特に1stVnの!)音色は期待どおりの凄惨な処理を施されていて、周りを取り囲む煌びやかな二長調たちに対して盛大な「音色だまだま」を形成するのだった。
みんな大好き第6楽章では、2ndObのマリー・ヴォルフが、第1トリオでさも当然のようにフラウティーノをさっと取り出して、ピッコロとはまるで異なる素直な高音を響かす。危なげないポストホルンはTpで大活躍してきたアンドレアス・ラックナー(かなあ。おさげの兄さん>カーテンコールのときにちょうど目が合って、こちらがニヤッとしたら向こうもニヤッとしていた)。

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当初の順序が入れ替わって、後半に《ハフナー》
前後半ともに二長調に統一された華やぎ感は、実際に聴いてみると驚くべき効果が上がっている。チケットを買ったときは《ハフナー・セレナード》をやるんだと思い込んでて、なんて質実なプログラムだと思ったのだが、さすがにシンフォニーのほうだったね。
第1楽章にはわかりやすい「リズムだまだま」があちこちに仕掛けられていて痛快。ちょっとバタバタしすぎていたかもしれないが、愉しかったからいい。
さて第2楽章の展開部だけは、この晩を通じて唯一、アーノンクールが右チョップを唇に当てて、陶酔しているように見えた瞬間。音楽はすこぶる官能的であった。彼がハフナー交響曲を取り上げた理由がなんとなくわかる。

+ + +

すでに休憩中、舞台上にタンバリンとミニシンバルを見てしまって、アンコールは後宮の序曲でもやるんかいなと思っていたが、やっぱりD-durの渋い逸品。
でもこの作品、全然二長調っぽくない。それどころかむしろ、ヘーバルトの酔っ払いソロとともにゴーゴリの小品のラストみたいな絶望感が襲うんだなあ。最後の最後でまさかのハシゴ外し。こういう作品をわざわざアンコールに選ぶ皮肉が、この爺さんの魅力にこそあらめ。長生きしてね。

このように、モーツァルト回は贅沢なデザート皿のようにして味わった。
感動で打ち震えるというのじゃなかったけど、シヤワセだ。

アーノンクール/CMW 《ロ短調ミサ》@NHKホール(10/24)
アーノンクール/CMW 《天地創造》@サントリーホール(10/30)
by Sonnenfleck | 2010-11-13 13:15 | 演奏会聴き語り

華氏140度

山手線の中で寝入ってしまって、高田馬場のあたりでちょうどiPodの
オンササが「6声のリチェルカーレ」に差し掛かっていた。眠りの合間
に、黒いレース地にきらきらと装飾が施されているような、しかし堅い
構造物のような、そういう幻覚を見る。初めてシギスヴァルトに愛を
感ずる。


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みたいなことって依然としてしばしば書きたいんだけど、どうしたらいいのかな。これまでならここからエントリを一本書き上げていたのだが、そんな意欲も時間も、自分からはぐんぐん失われている。「家族」のいるところにいくか。陥落して。
by Sonnenfleck | 2010-11-10 22:52 | 華氏140度

さようならバルシャイ

Умер альтист и дирижёр Рудольф Баршай(Газета.Ru/11月3日)
ルドルフ・バルシャイ氏死去 ロシア出身の指揮者(共同通信/11月5日)

バルシャイの指揮に接したのはたった一度きり、2004年12月のN響定期で、キャンセルしたデュトワのピンチヒッターとしてなぜか彼が登場し、《ハフナー》→《ダンバートン・オークス》→ベートーヴェンのVn協奏曲という不思議なプログラムを聴かせてくれたときのことであった。
印象に残らない曲づくりだったのが印象に残っていて、これがショスタコーヴィチから愛された、あの鬼のモスクワ室内の人なのかなあと思って。それでも終演後に楽屋口のサインの列に並ぶと、真っ白にふやけたような顔でぼんやりと座っているバルシャイが見えて、これが演奏の記憶以上に鮮明に焼きついている。

+ + +

いま、ショスタコーヴィチの第14交響曲のモスクワ初演ライヴ録音を聴いて、あのときのバルシャイと、ここでのバルシャイの差をどうやって埋めたらいいのか、悩む。
1969年のこのライヴは、いかにもソヴィエト演奏らしい、前につんのめる焦燥感と凄惨な響きに彩られた、言いようのない雰囲気に満ちています(《ローレライ》から《自殺》にかけて、どうやったらこんな恐怖を作り出せるのか…)。ショスタコーヴィチの同時代人がまたひとり、鬼籍に入ってしまった。過去が生成されてゆく。

c0060659_15194762.jpg
RIP.

by Sonnenfleck | 2010-11-07 15:28 | 日記

アーノンクール/CMW 《天地創造》@サントリーホール(10/30)

この10月30日は、奇しくも小生の誕生日でございました。台風なんどに降り込められるのは真っ平ご免、ハイドンとアーノンクールにわが創造を祝ってもらおうという傲慢も、まあ今日ぐらいは許されると思って、嵐の港区に降り立ったのであったことだよ。
風雨に曝されて芯から冷え切りながらボックスオフィスの前に並ぶこと40分、当日券とは思えないほどの良席をゲットしたのち、速やかに溜池山王方面に走ってドトールへ飛び込む。ホットココアとクロックムッシュでぬぐだまりー。

+ + +

c0060659_1232272.jpg【2010年10月30日(土) 18:00~ サントリーホール】
●ハイドン:オラトリオ《天地創造》Hob.XXI-2
→ドロテア・レッシュマン(S)
  ミヒャエル・シャーデ(T)
  フローリアン・ベッシュ(Br)
→エルヴィン・オルトナー/
  アルノルト・シェーンベルク合唱団
⇒ニコラウス・アーノンクール/
  コンツェントゥス・ムジクス・ウィーン


で、どうだったか?
音楽の神秘を、僕はなんとなく征服したつもりになっていたが、つまるところ、僕はおしゃか様の掌に寝っころがってキーボードをポチポチやっているだけで、稀におしゃか様が正体を見せると、もうダメなのよ。キーボードは木っ端微塵、四方に弾け飛んだキーを慌てて拾う手もいつしか痺れて、快感に飲み込まれてしまう。

多くは書けないが、アーノンクールは、ロ短のときのような「だまだま」まで捨て去って、とにかく静かで、ほんのりと明るい音楽を形作っていた(これが「悲観主義者の音楽」なのだとしたら、音楽は絶望のフラスコの中をゆらゆら漂うエーテルくらいの意味しか持たないな)
CMWの弦楽のコンディションが10/24の《ロ短調ミサ》に比べても格段に良く、硬質な音色の中にもどこか温かい濁りが混じって、すこぶる美しい。ロ短のとき以上に見せ場が多い管楽隊は、いとも贅沢なハルモニームジークとして華やぐ。

3人のソリストは《天地創造》のためにコンディションを整えたような、そんな趣きさえ感じられる。ドロテア・レッシュマンの第3日のアリア〈いまや野は爽やかな緑を〉など、輝かしさと寛ぎが合一して、途轍もない幸福感を放射していたなあ。
ここでまず、緑がざくざくと芽吹く様子を描写するCMWの音色にやられる。

それで、第4日に太陽・月・星が生まれる情景が描写されるのだけれども、あそこで奏でられた音楽の至高の神秘を、いったいどのように言葉にしたらよいのか、今の僕にはわからない。
甘美な多幸感によって身体が内側から張り裂けるような、苦しいような切ないような、なんだかよくわからないけれど猛烈な体験だった。こんな感覚がハイドンによって届けられたのは、僕にとってはとても意外な出来事なのだけれども、こんなことはきっと、一生に何度もない。

+ + +

台風のために気の乗らないお客が来なかったためか、マジな音楽好きで満たされたホール内は、6割の入場という実績以上の熱気であった。この日の聴衆とあの音楽を共有できたこと、これも幸せ。長蛇の列になったサイン会も、みんな幸せな顔。なお、間近で見るアーノンクールの目は本当に深かった。

しかしな。この《天地創造》で、ついにハイドンの偉大さに叩きのめされたわな。
ここにはヘンデルを通じて流れ込んできたアレッサンドロ・スカルラッティやコレッリの音楽があり、逆にここからベートーヴェンを通ってシューマンくらいまでは優に到達しうる、音楽史的な幅が観測される。アーノンクールもプログラムで語っているけれども、これがハイドンのアルファであり、オメガなのだろな。この公演に足を運ばなければ、ついに気がつかずに生涯を終えていたかも知れん。

これから、最終公演@オペラシティに出かけてきます。
by Sonnenfleck | 2010-11-03 12:49 | 演奏会聴き語り