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on the air:ドホナーニ/ボストン響の生中継を聴く。

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【2011年1月29日 20:00~ ボストン・シンフォニーホール】
●リゲティ:FlとObのための二重協奏曲(1972)
→エリザベス・ローヴェ(Fl)+ジョン・フェリロ(Ob)
●モーツァルト:Vn協奏曲第4番二長調 K218
→アラベラ・シュタインバッハー(Vn)
●ドヴォルザーク:交響曲第7番ニ短調 op.70
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/ボストン交響楽団
(2011年1月30日/WGBH All Classical生中継)

おかかさんのウェブラジオ番組表をありがたく眺めていたら、ドホナーニのライヴが中継されることに気がつき、慌ててWGBHにアクセス。この両者、CD脳からすると見慣れぬ組み合わせですが、定期やタングルウッドではちょくちょく共演しているみたい。僕はこのカップリングは初めて聴きます。

+ + +

まずリゲティの、Fl+Obダブルコンチェルト
ここ1年ほどでバルトークへの個人的親和が急激に高まってからというもの、リゲティの中の「バルトーク性」にも同じような強い共感を覚えるようになっている。
この作品も第1楽章、まずはクラスター風のゆったり模糊とした弱音の漂いに惹かれる。確かに都市的な緊張感もあるが、それとは矛盾して土や草の強い香りもする。緩やかにグラデーションが移り変わる。とても微細で素敵なグラデーション。そして、どこまでも丁寧な音色の捌きかた。ドホナーニらしい。

二人のソリストも、このように視覚効果がなければ、オーケストラの薄さも相まってソロには聴こえない。第2楽章は微細グラデからもう少し動きが出てくるけど、ハルモニームジークみたいな趣き。かわいらしいナンバーでした。

続いてモーツァルト第4Vn協奏曲
実は、生まれて初めて生で聴いたヴァイオリン協奏曲がこの曲でしてね。以来これまで偏愛。したがってドホナーニの指揮でこれが聴けるのは望外の喜びだねえ。
第1楽章のマーチ風主題を聴くだけでもう、その仮借なくエレガントなリズムの踏み出し方に心を鷲づかみにされてしまう。ドホナーニ先生のモーツァルトの美点のひとつが、リズムが絶対に後ろに倒れないのに、別段急いでいるようには聴こえない、その魔法のような時間感覚なのだが、今回もそれがよく聴き取れる。先生も最近、でかいシンフォニーばっかり振ってたけど、モーツァルトを振ると今でもこうしてくっきりとした時間造形になるんだな。すげえな。

第2楽章の、野の花のような透明感、、いや、これなんですよ。ドホナーニを聴いていて幸せなのはこういう瞬間。冒頭の清楚な響きもよかったし、ソリストのカデンツァを受け止めて柔らかい花弁が開くような絶妙なルバートにも身もだえする。
ピリオド以前のモーツァルトのいいところだけが、高圧下に結晶化してきらきら光ってるような感じがするよね。もう20年くらいしたらこういう演奏が大絶賛されるようになって、こっちの方向に揺り戻しがくるんじゃないかと密かに思っている。

ソロのシュタインバッハー嬢は右手の線が華奢で、それがために、主張の強いピリオドアプローチに触らずにこの曲のようなピースフルなパッセージを弾いているといかにもお稽古的で、物足りなさが残るなあ。



休憩後、ドヴォ7。ドホナーニ先生の十八番ですな。
うーん。
なんだか実体感が薄い。思念の音楽みたいになっているぞ。。
WGBHのビットレートは中程度なので、前半みたいに編成が薄い作品だとあんまり気にならなかったけど、こういう厚いロマン派交響曲には向かないのかもしれん。だといいな。第2・第3楽章の寂寞としたさま、特に後者、中間部から主部に帰ってくる局面でのすべすべした移行には、生きる活力のようなものが完全に失われている。いやはや。

…これ、ビットレートのせいじゃないな。第4楽章もどことなくおかしい。
フレーズが浮き上がるジャンプ力みたいなものが、音が沈み込んで消える作用に負けてしまっている。前述のようにリズムが絶対に後ろに倒れないし、響きも往時と同じようにきゅっと引き締まっているので、音のない空隙の存在感がよけいに増しているんだな。
こんなに静かな音楽になってしまったら、このあとはもう行き止まりじゃないか。。モーツァルトは特に変化を感じなかったけど、ドヴォルザークがこういう状態では、ブラームスやマーラーなどいったいどうなってしまってるんだ。。
2011年のドホナーニ、追わねば。
by Sonnenfleck | 2011-01-30 18:32 | on the air

2010年の最後の日曜日のこと(12/26)

1月末に漂う現実的な雰囲気、嫌いじゃない。
そして間抜けなタイミングで日記を書いたっていいのだわ。

+ + +

0830 起床。十勝つぶあんパン(Pasco)+生姜入り紅茶。

0930 『ぶらあぼ』を眺めて、今年のライヴ納めをどうしようか悩む。
0931 N響第九(大崩壊との噂)までも売り切れていることを知り、愕然とする。
0932 新日フィル第九@オーチャードと、櫻井茂Gambリサイタル@上野学園のどちらにすべきか。渋谷も上野も遠い。そして餅代としての第九は高い。

1115 出発。
1130 「掟の門」だけ読んでほうっておいた『カフカ短編集』(池内紀訳)の続きに取り掛かり、しこたまイヤ~な気持ちになる。

1200 小田急百貨店地下。毎年恒例の、お年賀酒セレクト開始。
1215 目当ての酒なし。京王百貨店地下に移動。
1230 目当ての酒なし。高島屋地下に移動。
1235 「ここが3軒目なのです。目当ての銘柄が見つからないのです」と訴えたら、高島屋のとても素晴らしい店員さんが、新宿の百貨店酒売り場のすべてを知る営業の偉いひと(?)に連絡してくれる。目指すは伊勢丹地下だということがわかる。ありがとう高島屋だいすき高島屋。

1240 新南口から東口にはどう抜けたらいいのか。
1245 ライヴ納めをする気持ちがこのへんでなくなる。

1255 「モンスナック」でポークカレー。味わいが全然ないようでいて、実は奥のほうに味わいが寝っころがってテレビを見ているようなあのサラサラ汁。紀伊国屋のクセのありそうなお客さんたち。コロッケ無料券。

1320 伊勢丹地下に移動。伊勢丹のお客さんって独特だよな。店員もな。

1330 あったー!

1335 速やかに帰途。髪を切る予約を入れる。
1410 この電車は準急ではなかった。
1415 髪切りタイム。寝る。
1530 駅前の本屋で『GIANT KILLING#2』と『のだめ#25』を買って帰る。読む。どうやらジャイキリは全巻買ってしまいそうだ。

1730 野暮用で外出。野暮を静かに叫んで帰る。

終はり。
by Sonnenfleck | 2011-01-27 22:35 | 日記

オサレ駅のオサレ本屋に対する反対的意見表明。

c0060659_2117494.jpg【TELARC/80702】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
●トルミス:序曲第2番
⇒パーヴォ・ヤルヴィ/シンシナティ交響楽団




この人がかつてN響とやったタコ5のあまりの浅はかさに、0と100を並べただけのような無責任なつくりに、当時カンカンになって書き殴った文章が過去ログのどこかに残っているのだが、残念なことに、この第10番も似たような扱いを受けているのであった。Alas!やはり僕はこの人が信用できない!

+ + +

部分的にはたしかに、響きを美しく整える非凡な能力が垣間見えるところが多い。第1楽章で第1主題から第2主題に推移する局面の円やかさなどは、非常に美しい傾向が徹底されていてすごい。さらに、醜いものを醜く演奏するのも上手だ。第2楽章第4楽章の主部以降で、忠実なベリヤのように立ち回る木管集団のアーティキュレーションの下品なことといったら、これほど一糸乱れぬものはなかなか聴けない。
この鮮やかな描き分けでベートーヴェンやシューマンをやったら、とてもよく聴こえるはずと思う。CDで確かめてみなければとさえ感じる。

しかし、それだけにまずい。
ロマン派半ばくらいまでの音楽なら(ある程度は)、「きれい/汚い」「強い/弱い」「カッコいい/カッコ悪い」の二項をぶつけ合わせ、火花が出るくらい対立させることで音楽を組み上げることができる。そしてそれが、バロックから連綿と続く、最も効果的なやり口のひとつなのは確か。
ところがショスタコーヴィチはベートーヴェンやシューマンではない。きれいか汚いか、軽いか重いか、そういったもののどちらにも含まれない領域、どっちつかずの灰色楽想こそが、この作曲家の音楽を規定している要素だと思うのよ。



息子ヤルヴィさんのタコ10を一周、二周、と聴いて、どうしてこんなに変なんだろう、と思い悩み、至った結論。この人のショスタコは「エキュート品川の丸善」なんだ。コンパクトで小ぎれいな店内に積まれている、真面目な顔の自己啓発本と、付録つきでますます煌びやかな雑誌の束。これらの領域に属さない書物、売れ筋でないものは、この売り場には初めから存在しない。…とろとろの徒労感。

第3楽章の恐ろしいほどのつまらなさ。中間部はまだいいんだ。「派手/地味」の領域に落としこんでタンバリンをパンパンやっててもいいからね。ところが、両端の静まり返った音楽を、パーヴォ・ヤルヴィはどのように扱っていいのかわからないんじゃないだろうか。ホントに。
いちおう彼はこれを「静か/うるさい」の二項に変換しているようではあるけれども、拡張子が違うものをムリヤリ再生してるみたいで、変換の過程で大事な要素が失われているように感じられる。どっちつかずの灰色楽想と、のっぺりと何の意味もない音響とでは、全然違うだろうに。

第4楽章の序奏も同じように、どう処理すればいいのか困っているようにしか聴こえない。「静か/うるさい」にも変換できず、のっぺりと平坦で、まったく死んだように抑揚がない。この平坦さを面白がれとでも言うのだろうか?これはわざとなのか?だとしたら心の底から感服するね。これからエキュート品川に出掛けてって、もしドラと超訳ニーチェを10冊ずつ大人買いしたっていい。

アレグロの馬鹿騒ぎを過ぎて、最後のトランペットの階段状装飾にはゲンナリ。こんなくだらない小細工を仕掛ける元気があるんなら、スコアの灰色グラデを見つめ直したらどうだろう。とんだ付録つきだ。

+ + +

もう一度繰り返すけれども、パーヴォのベートーヴェンとシューマン、あるいはこれから録音されるかもしれないプロコフィエフなど、大変聴き応えがありそうな気がする(そういえば昔、FMで聴いたプロコの第6交響曲は、とても良い演奏だったなあ)。
でもショスタコーヴィチはどうだろう。あるいはスクリャービンやシェーンベルクは。巨大な構造をした灰色の音楽を捌けるほど、この人の指揮は器用なんだろうか。現代のスーパー指揮者にだって、得手不得手があったっていいと思うのだす。
by Sonnenfleck | 2011-01-24 21:32 | パンケーキ(20)

新交響楽団 第212回演奏会@東京芸術劇場(1/16)

危機脱す。割れんがごとき頭痛もついには終わる。
しかし、残念なことに、いまだにインフルエンザウイルスを排出し続ける身なれば、今夜の読響500回定期には行かれませんでした。次にファウスト交響曲を生で聴くのは、いったいいつだろう。。

+ + +

c0060659_2151279.jpg【2011年1月16日(日)14:00~ 東京芸術劇場】
●髙田三郎:狂詩曲第1番~「木曾節」の主題による
●同:同第2番~「追分」の主題による
●エネスコ:《ルーマニア狂詩曲》第2番ニ長調
●同:同第1番イ長調
●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》(1947年版)
 ○チャイコフスキー:《くるみ割り人形》~パ・ド・ドゥ
⇒曽我大介/新交響楽団



さて、これが休館前の最後になるかなあ。
現・芸劇、、色づかいは寒色系で寒々しいし、トイレは暗いし狭いし、椅子は安くてギシギシいうし、音は遠くてスカスカだし、いい演奏でも7掛けされちゃうようなひどい空間でしたね(ショスタコーヴィチとかシベリウスを聴くにはよかった)。いくつかのいい思い出もありますが、個人的にはここに行くと頭痛がしたり寒気がしたりで、あんまり積極的には近寄りたくない場所だったな。大改装を望むものです。

しかしな。うん!今回はなんか元気になるコンサートだったな!

髙田狂詩曲は、初演以来なんと60年ぶりの蘇演とのこと(第1番が1945年、第2番が1947年)。素材の煮詰めがたいへん懇ろな作品で、たとえば外山《管弦楽のためのラプソディ》などとはまるで異なる。主題に沿って直線的に盛り上がるかと思えばすぐに脇道に外れ、その反動で尾根にワープ、そのあとずっと葦原、みたいな曲調。主題は親しみやすいのに勢いを形成しづらいというのは、演奏者にとってはいかにも大変そうでしたね。
しかし、浅漬け外山ラプソディに対して、古漬け髙田ラプソディ、これも日本の時間のかたちだよね。Naxosの「選輯」、髙田は合唱作品集なのかもだけど、これら初期作品は入るべきと思いました。お客さん盛り上がってなかったけどね。。

かたやエネスコ狂詩曲は、実は生まれて初めて聴いたのですが、愛すべきバカ曲というか、きっと昔はプロオケの定期でもたくさん演奏されたんだろうなあ。しかしこれはマーラーの交響曲の前に意図的に置いてあっても、ある文脈ではまったく正しい曲よな。
オケは、直前の髙田作品のふんにゃり時空に引きずられたか、お客さんの気のなさに引きずられたか、あるいはプロオケのように照れたかして、やや湿っぽく固い演奏に終始してしまったような気がする。奏者のひとりひとりが、ぱあっと派手にやったる!という気持ちをもっとストレートに右手やブレスに籠めれば(学生のようにね)、この作品においてはよりよい結果が得られたのではと思う。極度に巧いアマオケならではの壁なんだろうか。



とかなんとか思っていたら、《ペトルーシュカ》でぶっ飛び。
この音の圧力の強さ、ブリリアントな響き、これこそが高級アマオケで味わうことのできる嬉しさ愉しさでありましょうね。エネスコは練習が十分に行き届かなかったのかな。難しそうなパッセージばっかりだったしな。

とにかく〈謝肉祭の市場〉冒頭から、木管楽器たちが「ずごおぉーっずごぉーっ」という、見事に肥えた響きで飛ばしてくる。最初に思いもよらぬ巨大な質量があって、ついに終局までその大質量の移動でもって音楽を形作ったような趣き。ムーア人も踊り子も警官も轢かれてしまったよ。
〈ペトルーシュカの部屋〉は、だからとても変な感じであった。ジャンプ漫画の主人公のようなペトルーシュカに、閉じこもるべき部屋はいらないよね。あ、精神と時の部屋かね。
なんだかこれじゃ、、誉めてるんだか貶してるんだかよくわからないですが、ともかくも全体はとっても面白かった。ブーレーズ的ストラヴィンスキーへの明確な反動の意志を、新響を巧みに煽動して?実現した曽我氏の手腕に驚いたのでした。全然タイプは違うのに、モントゥーの古い録音のことをふと思い出す。

後先考えないハイカロリーな音響を保持し続けた各パートの皆さんに、まずはお疲れさまを。それから特に、首席Tp氏は本当に本当にお疲れさまでございました(物凄いプレッシャーだったろうなあ)。確かにヒヤヒヤはしたけど、プロ以上に鋭くコースを抜けた箇所がいくつもありましたよ。ブラヴォ!



曽我氏は面白い人かもしれない。この日は西武線沿いのつけ麺屋のおやじみたいなコスチュームだったけど、アンコールのくるみの〈パ・ド・ドゥ〉の煽り方は土俗的と言ってよかった。
by Sonnenfleck | 2011-01-22 21:54 | 演奏会聴き語り

華氏140度:7

その後、絶賛インフルエンザ中。ようやく熱も下がりぎみ。今日のゆうがたクインテットはベートーヴェンの悲愴で、それも思いがけず第2楽章が流れてきて、深く感じ入る。やるねアキラさん。
by Sonnenfleck | 2011-01-20 21:19 | 華氏140度

華氏140度:6

と、、隣にクラオタが座っている@山手線。しかも若くてカッコいい兄貴系リーマン!iPodの画面が見えちゃったんだけど、プッチーニのエドガールとか聴いてる!
こっちはグレの歌なう。この車両だけ何この特濃。
by Sonnenfleck | 2011-01-17 20:41 | 華氏140度

on the air:ケラス兄+ベルリン古楽アカデミーのヴィヴァルディ

c0060659_8483381.gif【2010年10月27日 ハンブルク・ライスハレ】
●ヴィヴァルディ:シンフォニア ハ長調 RV709
  (《ジュスティーノ》序曲)
●ヴィヴァルディ:Vc、弦楽と通奏低音のための協奏曲ト短調 RV416
●カルダーラ:シンフォニア第6番 《San Elena al Calvario》
●ヴィヴァルディ:Vc、弦楽と通奏低音のための協奏曲ハ長調 RV114
●ヴィヴァルディ:Vc、Fg、弦楽と通奏低音のための協奏曲ホ短調 RV409
●ヴィヴァルディ:2Vn、弦楽と通奏低音のための協奏曲ホ長調 RV265
  (《調和の霊感》op.3-12)
●ヴィヴァルディ:シンフォニア ハ長調 RV709
  (《テンペーのドリッラ》序曲)
●ヴィヴァルディ:Vc、弦楽と通奏低音のための協奏曲ヘ長調 RV412
●カルダーラ:オラトリオ《イエス・キリストの受難》より
●ヴィヴァルディ:Vc、弦楽と通奏低音のための協奏曲イ短調 RV419
→ジャン=ギアン・ケラス(Vc)+ベルリン古楽アカデミー
(2010年12月19日/NDR Kultur)

かっこいいなあ。
AAMBはいつものとおりの硬い響き。この響きでヴィヴァルディをやると、イタリアの団体とはまったく違うダンディズムがもあもあと発生して、たいへんなクールビューティ状態である。最後までデレない常時ツンというかさ。

そこへケラス兄さん。古楽専業の凄腕チェリストがうじゃうじゃいるので、モダンのチェリストがヴィヴァルディのコンチェルトをやることはもうなかろうと思っていたのだが、ケラス兄さんがやった。現代のクレバーなチェリスト層の中でも、特にケラス兄は音に艶やかな華があって好きでして、そのためにこのひとはすこぶるヴィヴァルディが似合う。

ヘ長調 RV412は特に佳かったのじゃないかな。氷のように冷ややかなAAMBのリピエーノの上を、さも気持ち良さげに滑走するソロ。注目の右手は、もちろん雁字搦めのピリオドスタイルではないので、音には豊かな太さと滑らかさが与えられる。第2楽章の高級感。
2009年に所沢で聴いた彼のバッハも、ボウイングに独特の艶と、どうやら今どきピリオド由来ではないようである軽やかさ(←たぶんこれ凄いことだと思うよ)を感じて素晴らしかったが、そのときのことを思い起こさせる。当該のエントリはこちらのミスで消失してしまいましたが。。

+ + +

もちろんケラスが登場しないナンバーも佳いのよ。
3-12などほんとうにゴツゴツトゲトゲ、疾風怒濤していて、2010年の今でもちゃんと彼らは彼ららしいヴィヴァルディを維持しているのだ、ということがわかって嬉しい。あの有名な旋律が転用されている《テンペーのドリッラ》序曲からも、いかにも生真面目なAAMBの《春》が窺われる。古楽のネオザッハリヒカイト。
by Sonnenfleck | 2011-01-16 08:54 | on the air

華氏140度:5

来月読めるとされる、漫☆画太郎の『罪と罰』が気になる。婆さんがマジ婆さんなのはいいとして、ソーニャも外道な造形なんだろうか。ああ(何)
by Sonnenfleck | 2011-01-15 11:07 | 華氏140度

鈴木大介 Gtリサイタル@所沢ミューズ(1/8)

2007年のライヴ初めであった、「武満徹を聴く、武満徹をうたう」コンサート@愛知県芸(加藤訓子、鈴木大介、木ノ脇道元、coba、ノース・エコー、谷川俊太郎)は今でも僕の心の深いところに組み込まれて、強い印象を残しているのですが、この2011年のライヴ初めも、同じように、鮮やかに記憶されそうです。

+ + +

c0060659_1427040.jpg【2011年1月8日(土) 15:00~ 所沢ミューズ・キューブホール】
●バッハ/鈴木大介:組曲ト短調 BWV1011
●西村朗:《玉響》(2010)
●バリオス:《大聖堂》
●フランセ:パッサカリア
●猿谷紀郎:《二つの記憶と一つの未来の記憶》
 (所沢市文化振興事業団委嘱/世界初演)
●ピアソラ:ギターのための5つの小品
 ○アンコール 映画音楽メドレー?(詳細不明)
⇒鈴木大介(Gt)


鈴木大介氏の口調が好き(ここでは話し方のことです)。
極めて慎重な、こだわりの言葉選び、それにともなう独特の「間」、自分の感情に素直な抑揚、もちろん声質も。NHK-FMの「クラシックリクエスト」ではずいぶんニコニコさせられました。毎週楽しみだったもの。

さて大介さんの「どソロ」を、300席のキューブホールのような親密空間で聴けるのは幸せである。2006年に聴いた“QUOTATION OF DREAM―Love and Soul of Toru Takemitsu”も素敵な時間だったが、この日も、ただただ気持ちよくってね。人の息づかいをうそ偽りなく表すギターが、大介さんのあの喋りかたをありのままに音楽に変換してく。
ギターは真に属人的な楽器だなと思う。属人的でない楽器というのは今のところ見当たらないが、初音ミクなどはそろそろ人の目を盗んで、庇護から抜け出ようとしているかもしれん。



最初のバッハは(無伴奏Vc組曲第5番の編曲ですね)、いかにも調子が悪そう。音が苦しげで、リズムがほどけてばらばら。残念だけどもいい演奏ではなかった。1月の乾燥と照明の熱が、最大限に悪い影響を及ぼしてしまったようだなあ。

ところがこれ以降、急激に調子を取り戻す大介さん。
西村朗氏の《玉響》。黄金色に透き通った開放弦の色みと、それを囲うように配された紋様状のトレモロが織り上げる、ある種の蒔絵箱のようであった。いくぶん気取った雰囲気の曲だけど、何しろとっっっっっても美しいの。最後の小さなトレモロが幽玄の彼方に薄れて消えて、しばし法悦。

バリオス《大聖堂》。十八番ですね。
CDで聴いて感じていた以上に、大介さんの《大聖堂》は、大聖堂という言葉がふさわしくなかった。石組みのサイズを初めからビシッと測って、水も洩らさぬ緊密な構成になりうる作品であるけれども、ここでは上述のとおり、大介さんの最強の持ち味であるふんわりとした「間」の美学が活きて、何者かによって緩やかに肯定されるような、気持ちのいい時間が過ぎる。

後半に入ってフランセパッサカリア
べたべたのべた褒めで恐縮ですが、この日はこの演奏が個人的白眉。
よく晴れ渡った冬の午後に、広々として人のいない所沢の街路、大介さんのギターを聴くことをまさに目的として集まってきた百数十人の聴き手の濃密な沈黙。フランセの音楽自体はけっして険しい顔もしていないし、お高くとまった超絶技巧もない。メロディは優しくて、リズムはぴちぴちと新鮮。ただインティメイトで柔らかな時間。ああ。いいよね。
何の感想にもなってないように見えるかもしれませんが、この時間から得たものはそのようであるので、自分のために書いておくとしたらこういうかたちになる。



猿谷紀郎氏のミューズ委嘱新作、《二つの記憶と一つの未来の記憶》では、大介さんの集中のギアが二段階くらい上がったように見える。世界初演だし、作曲者も臨席しているしね。
で、これは名作の名演奏だったと思う。
特に第1曲の独特の思わしげな空気が忘れがたい。メロディのようで、あと一歩の運や実力や努力が足りなくてメロディになりきれない、メロディのトルソのようなものが無数に浮遊する空間。トルソのひとつひとつにフォーカスするのは人間技では不可能だろうし(やわらかナンカロウ、ぐらいをイメージしてみてください)、抑揚の支点や力点をどこに持ってくるのか、構築するのがとても難しそうな音楽であったが、聴き終えてみるとコンパクトに空気がまとまっているんだな。なぜだ。不思議だ。
第2曲・第3曲は、思い切った旋律美が清々しい。フィナーレはボレロのリズムで壮大な決着。

第1曲について、大介さんがご自身のブログに「ものすごい複雑すぎて毎回眼が初見状態になる」と書いていたので、サイン会のときに「今回はどうでしたか?」と尋ねてみたところ、「ありえないことに、作曲者が(ゲネプロに)来てからさらに音が変わったよ(笑)」とのこと。いつか譜面を整えてもらって、録音もしてみたいそうです。これ、多くの人に聴いてほしいなあ。個性的でいい曲だったもの。

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航空公園駅までの道のり。コンサートのあとは、それほど人の多くないところを歩いて、得たものを咀嚼し、日常に戻るための時間がほしい。このホールは、首都圏にしては珍しくそれが可能なんだよなあ。
今年もたくさん、いいライヴに出会えますように。
by Sonnenfleck | 2011-01-09 14:27 | 演奏会聴き語り

on the air:ジンマン/RCO―諸君、脱帽したまえ!

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【2010年6月9日 アムステルダム、コンセルトヘボウ】
●ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 op.21
●ベルリオーズ:歌曲集《夏の夜》 op.7
→マリア・リッカルダ・ウェッセリング(MS)
●レスピーギ:《ローマの松》
⇒デイヴィッド・ジンマン/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
(2011年1月4日/NHK-FM)

まずベト1。ああ。すんんんげえ佳い演奏だなあ。

極度に精緻な機械が―しかしそれでいて親しみやすいハコに入った機械が、パチ、カチ、パチ、と自動運転モード。それを安心しきって見守るような気分だよね。第2楽章提示部や第3楽章中間部の「理性的快感」とでも名づけるべき熱は、ちゃんと初期ベートーヴェンのダイナミクスに収まりながら、涼しい顔で内側から枠をバリリンと突き破りそうな威力である。
そして、高速演算中でありながらちっともパフォーマンスが落ちない第4楽章。大モダン主義と大ピリオド主義のどちらもがHDDであるとすると、この涼しさ静けさはSSD。そのくらい決定的に音楽の捉え方が異なる。

12年前にチューリヒ・トーンハレに響き渡っていた彼のベト1。どう違っているか気になりますよねえ。もちろん。
で、聴き直してみたのだけれども、この演奏に比べるとまるで別物であった。フレーズの収め方が非常に粗雑だし、弦楽の(特に1stVnとKbの)アタックが刺々しく、金管は不自然、雷のようなティンパニで無理矢理にハリボテの枠を組み上げてるみたいなんだよな。枠はもう、ベートーヴェンが用意してたのにね。

この違い、ジンマンがハリボテを組まなくなったのも大きいだろうし、また同じくらい、コンセルトヘボウのオケのクレバーなアンサンブルが、指揮者の意向を十全に咀嚼した結果だとも言えそう。「ジンマンのベートーヴェン」が、トーンハレとの録音を通じて後世に残っていくのはちょっと残念だ。それくらい、このパフォーマンスは圧倒的に優れている。裏青で見かけたら、買いですぜ旦那方。

ベト1がこのように必要十分な姿をして登場するのを、僕は長いこと待っていたような気がする。また、この人の指揮するハイドンを、今や死ぬほど聴いてみたくなったのだな(逆にモーツァルトはとってもつまらないかもしれない)。「ハイドン」なんてなんでもないハイドン。そういう、空気のようなハイドン3.0を。

+ + +

それから《ローマの松》。これも圧倒的名演。
〈ボルゲーゼ荘の松〉が天国のように煌めくのは、彼の一連のマーラー録音からよく予想されたが、〈カタコンブ付近の松〉がチェリビダッケ似の、クリスタルのように明晰な響きをしているのを、あらためて驚きとともに傾聴。生で聴いてたら確実に失神モノだな。。
《大地の歌》の第7楽章として演奏されてもなんら不思議ではない〈ジャニコロの松〉。彼岸にも松が生えているのか。
そして〈アッピア街道の松〉。FF5の火力船のBGMみたいに勇壮で可笑しい。コーダの最後の最後までちゃーんと響きが澄んでいて、まことに美しいのだが、そこでしっかりと盛り上げて此岸に連れて帰ってきてくれるのがジンマンの優しいところだと思うのであった。ブラヴォ!

ジンマンに旬が訪れているみたい。今後聴き逃すべからず。
by Sonnenfleck | 2011-01-07 22:16 | on the air