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表現主義とミクラシックの甘い関係(続報)

ついに第1部が完成したみたいなので、ご紹介。

◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#05
→第5曲《ショパンのワルツ》


◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#06
→第6曲《聖女》


◆初音ミクにシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を歌わせてみた#07
→第7曲《病める月》



第6曲の完成度が高い。壮絶に美的。第7曲は(お約束ですが)楽しいです。

[関連リンク]
表現主義とミクラシックの甘い関係(第1~4曲)
by Sonnenfleck | 2011-02-26 11:04 | 広大な海

時に、西暦1889年。

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2/8のGoogle先生はジュール・ヴェルヌお誕生日仕様であった。浮上も潜航も自由自在。これまでのお遊びの中でもいっとう好きです。
(万能戦艦Ν-ノーチラス号を思い出したひと向けリンク→
by Sonnenfleck | 2011-02-23 22:53 | 広大な海

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第4回(2/19)

c0060659_1455252.jpg【2011年2月19日(土) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第8番ヘ長調 op.93
●交響曲第9番ニ短調 op.125 《合唱付き》
→リーサ・ラーション(S)
  ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ(A)
  ベンジャミン・ヒューレット(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


◆第8番、ノーコメント。
この交響曲だけはいまだに正体がわかりません。ハイドンパロディ、そしてセルフパロディも含んだベートーヴェンの《古典交響曲》なんだろうなーということは薄々感じているが、この日の演奏でも確信には至らなかった。

+ + +

◆シンフォニア付きオラトリオ ニ短調 op.125a 《歓喜に寄す》
よくね、通のひとって、「第九は第3楽章まででいいんざんす」って言うでしょう。
しかしこの日の演奏を聴いてなお、そう言い切れるだろうか。

第1楽章第2楽章。泰西古典大交響曲の、大楽章としての。
ツィクルスを通していくつかの曲から奪い取ってきた交響曲性を、今度は自分の手駒として投入するブリュッヘン。確かに、古楽「風」アーティキュレーションをツールに用いながら、彼のやりたいことはフルトヴェングラーなどとほぼ変わらないのではなかったか。ジェットコースターのように上っては下る響きの波に洗われる客席。静まり返る。
そして、第8までの編成から弦の各パートを倍増させているにもかかわらず、アンサンブルの状態は前半とはずいぶん違う。劇的なパッセージで表情の彫り込みがより豊かになっているのはよく理解するけども、静かな局面においても静けさがより濃密になっているのは、これは綿密な練習の結果であろうよ。ツィクルスを通じて、新日のアンサンブルの状態は不安定と言ってしまってよかったが、当たったときのここ一番の集中力はなかなか凄い。

第3楽章レチタティーヴォ楽章としての
この扱い。まずここで、たいへん驚く。
1stVnやOb、Flなど、旋律を奏でる高音楽器の言語的な取り扱い、その揺らぎは、完璧に語りであった。そこへVcとKb、Fgまで勝手気ままに振舞うと収拾がつかなくなってしまうんだけど、そこは通奏低音としての役回りがちゃんと計算されていて、揺らぐ高音にヒタリ…とつけてリズムの一定の秩序を守る(この日のVcトップが花崎氏だったのはちゃんと意味があった)。この楽章は滔々と甘美に歌われるアリアではなく、レチタティーヴォだったわけだ。

1992年の正規全集(PHILIPS)、2006年のシャンゼリゼ・ライヴ(KARNA MUSIK)、聴き返してみればいずれもその萌芽があるんだけれども、実体験としてはもっと鮮烈であった。悠然と伸び縮みし、自由に呼吸する音楽。クラヲタに蔓延する第九アダージョ至上主義は、アダージョがアリアとして扱われることによる思考停止状態ではないのか。

そして第4楽章。要するに、レチタティーヴォのあとには何がくるかということ。
第3楽章のレチタティーヴォの雰囲気は、力強く訓練されたVc+Kb軍団によってさらに引き継がれる。その中ではあたかもVcがテノールソロ、Kbが通奏低音であるかのような分担作業が行なわれ、歓喜の主題を経てバリトンソロの登場が待たれる。。
ところが、バリトンソロがステージの上にいない。バリトンだけでなく、残りの3人もいない。合唱団は第1楽章からずっとオケの後ろに座っているのだけれど、ソリストたちが入場していない。二度目の不協和音が鳴り終わっても、ソリストが入ってこない。どうすんの!?
そうして、バリトンのウィルソン=ジョンソンが「O Freunde, nicht diese Töne!」と歌いながら、合唱団員をかき分けるようにして入場してきたとき、そして合唱団が「Freude」の入りを半拍以上、下手をすれば一拍程度早めて演技的に発声したとき、これはヘンデルがたくさん書いたオペラ=オラトリオのパロディだな、という妄想的結論に至る。ああ!そして時はもうまもなく四旬節なのであった(かつてヘンデルは、四旬節の間はオペラの上演を控えて、オペラ歌手にオラトリオを歌わせていたのです)

もうね、背すじがぞくりとしたですよ。
レチタティーヴォ→アリア+合唱という、確固たる連続性の演出にも賛辞を贈りたいけれども(第九に第4楽章は必要だということ)、僕はそれ以上に、そのもうひとつ外側の箱であるところの、演技性の表出に驚嘆させられたのだった。

これは何十年もバッハやヘンデルに立脚して音楽をやってきたひとでないと発想できない事柄だろうし、第九から最後の最後で「第九性」みたいなものを剥ぎ取って、指揮者が考えている、或る文脈の中に再び位置づける行為だった。ちゃんと思想の用意された回答であることよ。
(2008年のスタヴァンゲル響とのベートーヴェン・ツィクルスは、8&9の回のみ録音できておらず、この試みが新日フィルで初めて行なわれたものなのかどうか、ノイズなどから検証することはできない。ブリュッヘン月間終了後にでも、事務局サイドからの種明かしがあると嬉しい。)

+ + +

最後のロ短、どうなる。
by Sonnenfleck | 2011-02-20 14:55 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第3回(2/16)

c0060659_1039673.jpg【2011年2月16日(木) 19:15~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第6番ヘ長調 op.68
●交響曲第7番イ長調 op.92
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団




◆田園は遠きにありて思ふもの。
あとほんの少し、しかし確実に、何かが足りなかった。やはりあの第2楽章、そしてひどく平明な第5楽章を中心として、伝説の演奏になる芽はいくつもあったように思えたけど、結局実現しなかったのだった。

緻密なノンヴィブによる旋律感の脱落は今回も確かにあって、メロディが消えてハーモニーとリズムでできた模様だけになってしまい、ミニマルミュージックの観念的美しさまであと数ミリにまで迫った第2楽章。最後のカッコウは、ベートーヴェンがイデアの世界を描写しようと試みたのであろうということがよくわかった。

あちこちが言葉にならないくらい素晴らしかったのは事実なのだけれども、最弱音でほとんど消えかかろうとするときにオケがヨタついたのはかなり無念だったし、全曲を通して微妙にオケがざわついていて、各パート間、さらに各パート内でのアーティキュレーションがきれいに整わなかったのはなぜだったか。。さらに、響きが薄く透き通った瞬間にあちこちから鼾が聞こえて鬱。最終楽章では非常に薄汚いフラブラも飛び出して、ますます鬱。
(※もしかしたら、日曜日のしらかわホール公演が凄まじいものになるかもしれない。あの小さくて親密な空間では、マチエールの凹凸をなめすことがほぼ最優先事項として求められるだろうから。名古屋の皆さんのご感想を聴きたいです。)

◆解体されたのは指揮者か。第7番
ああ。みんなベト7を聴きに来てたんだな。セット券でずうっと僕の隣に座ってる不機嫌なご老人も、ついにこの日、初めて拍手をした。会場の様子から判断するにレビューは絶賛の嵐だろうから(まだほとんど他の方の感想を見ていないのでわからない)、あらかじめお断りしときますが、僕はわりと失望したクチです。

僕は今回の演奏、面白いと思わなかった。
こういう普通のベト7なら、別にブリュッヘンじゃなくてもよくね?ってことです。

「泰西古典浪漫主義名曲ベト7」として、かなり細部までしっかりと造りこまれていたのは衆目の一致するところと思った。素晴らしい「普通の」造形だったらそりゃ間違いなく客席は沸くよね。だって普通のベト7、みんな好きだもん。でも、あれ、ブリュッヘンだからじゃなくて、ベト7だから盛り上がったんじゃなかった?

静けさを追求することにこだわった第2楽章も予想の範囲を外れないというか、なんか手の内が見えてて、エロイカの第2楽章とか、第1交響曲の焼き直しくらいにしか思われない。リズムの整い方は、逆説的に西江コンマス担当回だったおかげで、この日が一番よかったのかもしれないが(そしてそれはベト7を普通に造形するにあたり、とても大切な要素なのかもしれないが)、僕はこのツィクルスに、新しい知見のない演奏を聴きに来たつもりはなかった。これが本音。あるいは、新しい知見に至らなかった僕が悪い。

[関連リンク]
on the air:ブリュッヘン/スタヴァンゲル響のベートーヴェン 3(2008年。)

[関連リンクその2]
[演奏会] ブリュッヘンの楽器となった新日本フィル(「現代古楽の基礎知識」)
大先輩・澤谷さんのエントリをまたも無断でご紹介。「ジーグ、マーチ、スケルツォ、コントルダンス」かあ。そっかあ。そうだったかもしれないなあ。うーん。

+ + +

2月17日、「庭は夏の日ざかり」は開設6周年を迎えました。
これもひとえに、ご訪問いただける皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます。
by Sonnenfleck | 2011-02-19 10:41 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第2回(2/11)

c0060659_2246503.jpg【2011年2月11日(金) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第4番変ロ長調 op.60
●交響曲第5番ハ短調 op.67
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団




◆1 生煮えとしての第4番
オケのコンディションがすこぶる悪い。エロイカと第5の過渡期の、どっちつかずの存在として第4を捉え、それを演奏精度のフェーズにまで徹底させたのであったとしたら、それは評価しなくちゃならないとは思うけど、実際には単に造り込み時間が不足しているようにしか聴こえず、僕にはブリュッヘンの意図が掴めなかった。(ところがディテールに拘る箇所もちゃんとあったんだな。第1楽章の結尾をメゾピアノくらいまで急激にディミヌエンドしたのはなぜだったか。チェリビダッケがよくやるあの技。)
崔コンマスのときの新日はほとんど外れがないと思ってたんだけども、今の彼らだったら絶対にもっと良いものを実現できるだけに、あの粗雑なテクスチュアには率直に言ってがっかり。2月8日の第1回ではパート内から誰かひとりの音が浮かび上がってしまうということはなかったが、この日に前半は特にその凹凸感が気になった。Vcもフィナティ氏だけひとり悠然とヴィブラート掛けてたしな。。

◆2 管楽合奏のための協奏交響曲ハ短調 op.67a 《運命》
このため、後半の出来如何によっては、長々と書いた前回の感想文をいくらか訂正しなければならないかと思ったのだが、幸いにして杞憂に終わった。

いつも《運命》を聴いて、特に何も考えず、弦楽合奏の間に管楽合奏が挟まっているように感じていたのだが(弦楽器経験者のナチュラル傲慢)、この演奏はまったくの逆であって、初めからおしまいまで常に管楽器が最前面に位置づけられ、各所で快楽的な花がぽうぽうと咲いていた。

特に第4楽章の管楽隊の響きの「織り」はまことに見事。ラトルなどがいかにも取ってつけたように登場させるピッコロを、楽章の初めから惜しげもなく贅沢に投入しているにもかかわらず、第1楽章からずっと強靭な管楽合奏を展開してきたために、特徴的な音色の新楽器たちの登場を難なく受け止めることができている。色鮮やかな友禅に太い金糸を這わせたような、豪奢な印象を受けた。(3階奥の僕の席からはコントラファゴットの活躍を聴き取ることはできませんでしたが、ピッコロと同じように堂々とアンサンブルを盛り上げていたことでしょう。)

また、そのような管楽合奏を消してしまわないように、ことに第2楽章など弦楽合奏の音量バランスをかなり慎重にコントロールしていたのも印象的。こうしたときにはノンヴィブラートで弦の減衰を速めるやり方が正攻法だし、現に有効だよね。

そうした中で後半は、特にファゴットの取り扱いがよく練られていたように思う。
通奏低音楽器としてファゴットを捉える考え方はハイドン中期くらいで途絶えたという認識だけども、この日は、その古式ゆかしい方法がいくぶん復活していた気がする。ファゴットはもちろん、輝かしいソロも披露するけど、同時に管楽合奏の中のリズム隊として、快楽的花弁を支える茎の役割も熱烈に要求されていたようだ。首席の河村さん、ホントにお疲れさまでした。ブラヴァ。

協奏交響曲的テクスチュアを実現し、泰西古典浪漫主義名曲《運命》の視座をぐらぐらさせること、これを交響曲性の簒奪の一種として無理やり捉えることもできるだろう。このあと、我々はついに《田園》と出会うのだが、はてさて田園交響楽はそのままの姿をしているだろうか。《田園》と空気感のよく似ている第2交響曲の第2楽章を聴いた限りでは、今回もやっぱり、時間と展開を拒否した幸せミイラ的テクスチュアが用意されているような気がする。

[関連リンク]
SIDE-B/SIDE-I (4)(2006年。18世紀オケとのツィクルスについて。)
on the air:ブリュッヘン/スタヴァンゲル響のベートーヴェン 2(2008年。)
by Sonnenfleck | 2011-02-15 22:49 | 演奏会聴き語り

フェドセーエフ/東京フィル 第798回サントリー定期(2/11)

雪の降る街を歩いて、久しぶりに重量級のハシゴ。順番は前後するが、ハシゴの二軒目から先に感想文を書いておきます。

北東北育ちの男子的には(いつまでも僕を支配する男子中学生メンタル的には)、雪に対して傘をさすのはとってもとってもとーっても格好悪いことなので、この日も傘を持たずに外出したのだが、残念ながら東京の雪はすぐに融けてしまうので、頭からずぶ濡れになった。東京で雪なのに傘をさしていない男性は北東北以北の人だと勝手に変換して、勝手に親近感を抱いてしまう。

+ + +

c0060659_1050518.jpg【2011年2月11日(金) 19:00~ サントリーホール】
●ドヴォルザーク:Vc協奏曲ロ短調 op.104
 ○バッハ:無伴奏Vc組曲第1番~プレリュード
 ○同:同第3番~サラバンド
 ○同:同第3番~ジーグ
→アレクサンドル・クニャーゼフ(Vc)
●ストラヴィンスキー:《ペトルーシュカ》
  (1911年版コンサートver)
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
  東京フィルハーモニー交響楽団


フェド久しぶりだなあ。最後に聴いたのは2006年の1月に《森の歌》をやったときみたいでしたが、それよりも前、2003年にタコ10を振ったときにすっかり魅了されてしまって、いまだにそれを上回る思い出ができないこの関係。

ともかくもこの5年間でいろいろな音楽を聴いてきて、今回それでもなおかつ、フェドセーエフすげえなあ…と思った次第。
ソヴィエトの香りを音楽に籠めることができる指揮者はもうほとんど残っていないと思うが(ロジェヴェン老師はそういうのを超越しているし、テミルカーノフやキタエンコは、なんか違うのだ)、日本に住む僕らにはラザレフとフェドセーエフがいてくれる。前者がチャイコフスキー的高慢を体現するなら、後者はバラキレフ的お下劣を巧妙に構築する技に長けているといえよう。もちろんどちらも褒め言葉ですよ。



今回の《ペトルーシュカ》が、もう出会うことはないであろうまことに奇矯な演奏だったことを、まずは初めに書いておこう。
とにかくすべてのフレーズが泥のように粘ついていて、それぞれの短い局面においてはたいへん気持ちの悪い音楽なのだが(バレエ音楽のバレエ音楽性を、極端に突き詰めるとこうなるのだろう)、しかしその短い局面が連続して並んでいると構築は破綻しておらず、むしろ丁寧なつくりさえ感じさせて、アルチンボルドの野菜人間みたいな変な安定感が生まれている。

白眉は第1場第4場。謝肉祭の広場の塵芥と泥濘の中から次々とパッセージが立ち上がってこちらに押し寄せてくる様子には、酩酊感を覚えるほどでした。何が、どのパートが、というよりも、トゥッティが隅々まで調教されたときの威力に気おされた、というか。だいたいの時間において、東京のオケとは思えないような傲然とした響きが立ち昇っていたよな。この、謎の土俗性。もしくは肉々しさ。

何も知らない人に「この音楽はペトルーシュカという乙女が異教の祭典に生贄として捧げられる様子を描写しているのだ」と説明して、彼を納得させるのは容易いだろう。三大バレエの中でももっともモダンでドライなこの作品でそれが起きたということに驚いている。
こうした様式で《レクイエム・カンティクルス》などやった暁には、十二音時代のストラヴィンスキーが決然と見直されることになろうかと思うが、そんな日はついにやってこないだろうな。ソヴィエトの体制がもう30年くらい続いていたら、ソヴィエト型の怪しい指揮者に成長したゲルギエフなどがやってくれたかもしれないが。



前半のドヴォルザークも実に自由な演奏で。
2007年のLFJで同じ曲をクニャーゼフで(+ドミトリー・リス/ウラル・フィルで)聴いた自分は「ひたすら演歌の人」との感想を書き残していますが、指揮者まで演歌に徹するとこうなるんだろうなあ。全盛期のロストロポーヴィチのライヴはこんな感じだったんだろうか。世界で一人くらいは、こういう本能のままのチェリストが一線級にいるべきだと思う。チェリストがみんなケラスとかウィスペルウェイみたいじゃつまらないものね。(おっとこれはマイスキーの悪口じゃないぞ。)

アンコール。真ん中のサラバンドはグッと胸に来た。

+ + +

ホールを出ると、まだ雪がちらちらと舞っている。コンビニでビニール傘を買った。
by Sonnenfleck | 2011-02-13 10:52 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第1回(2/8)

c0060659_23505140.jpg【2011年2月8日(火) 19:15~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第1番ハ長調 op.21
●交響曲第2番ニ長調 op.36
●交響曲第3番変ホ長調 op.55 《英雄》
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団




いくつかの意味で、指揮者ブリュッヘンを非常に見直した。スタヴァンゲル交響楽団とのツィクルスを聴いて、老いや衰えによってあのような雰囲気が生まれたのかと思っていたのだが、実際に生で聴いてみるともっと野心的と言ったらいいのか、目的意識の強い音楽の存在をここに感じたのであった。
出会うたびに変化している。まだまだこの人は変わる。

◆1 交響曲ではないものとしての第1番・第2番
今回、最も驚愕したのは、第1交響曲が完全にただの管弦楽組曲と化していたことです。
感情の起伏を256色くらいに落とし、テンポの伸縮や音色のコントロールを一切行わず、交響曲としての展開を否定するといったいどうなるのか、ということの答えが、あの、バッハやテレマンよりずっと前の、フレスコバルディやローゼンミュラーのように平明なマチエールなのだろうな。極端にゆったりまったりとしたテンポを設定していたし、表現のレンジは「古典派の交響曲として聴けば」極端に狭いが、ちゃんと聴いていれば、拍子の点、あるいは細かなアーティキュレーションの点ではまったく弛緩していないことがわかる。

LvBが野心むき出しの第1番からあえてその交響曲性を簒奪、返す刀で思いっきり古い視点から作品を解体して再構築してみせたあの平べったい音楽を、僕はなかなか忘れられないぜ。

だから、いくつかのフェーズにおける伸縮を伴う「展開」を目的にしている「交響曲」を聴きに来たお客さんの中には、非常に憤慨した人もいただろうと思う。僕は当初、あまりにも展開しない異様な雰囲気にギョッとしてしまったが、途中から中期バロックを聴くときの回路に切り替えることで、却って楽しんだのであった。3年前のスタヴァンゲル響とは、何から何まで違う

◆2 分裂症としての第3番
前半の2曲とはアプローチの様式をぐっと変えて、エロイカ。
巨匠時代のパロディみたいな大げさな素振りがいーーーっぱい付属していたので(クナッパーツブッシュみたいな開始とかね)、お客さんはついそこに耳を奪われがちだったけれども、これは巧妙な遣り口だと思った。

エロイカがエロイカたる浪漫主義パートをそのようにオーバーに、ときには滑稽直前くらいに拡張するいっぽう、第2楽章ではアタックをかなりきつくするのと同時に(この楽章のKbは通奏低音だったんだ!)、運弓において上へ凸の曲線をはっきりと意識させ、ヨハネ受難曲のいちナンバーのごとき峻厳な絶望感を醸成する。

さらに第4楽章のフーガ変奏を大変くっきりと造形して、これまたLvBの中のバロック性をあぶり出す。この巨大な交響曲の土台にあるアンバランスさが、ベロリと露出しちゃったわけだな。
そして自身も、浪漫主義とバロック精神の間で常に揺れ動くブリュッヘン。曲調の勢いに乗って浪漫主義を謳歌する場面と、急ブレーキを踏んで交響曲性を薄める場面とが交叉するが、しかし、この日の演奏を第1番から聴いていれば、今のブリュッヘンの興味が後者の実現にあるらしいことがわかる。

◆3 18世紀オケではないものとしての新日フィル
オケの状態はすこぶる好い。もともと細身で上品なここの響きが、18世紀オケとは異なる側面からブリュッヘンを支えている。

特に第1番で強く思ったのは、これはこのコンビでないと生まれ得ない音楽だなということ。
古楽器での演奏行為自体を強い目的として持つ18世紀オケが(どこよりも個性的なあの響きを思い出してみてほしい)、今回の新日フィルのようにまったくニュートラルな演奏を実現するのは、はっきり言って不可能だと思われる。
ブリュッヘンの、初期LvBにおける交響曲性の簒奪という強烈な目的意識は、このようにして古楽オーケストラを遠く離れている。18世紀オケとの直近の来日ツィクルスで評判を落としたこの人は、ついに自分のやりたいこと、自分の最終目的地に辿り着いたんではないかと思う。

新日フィルは、過去数年の共演を通じて、ブリュッヘンの求める18世紀オケらしい古楽のテクニックを十分に身に付けている。その上で、彼のやりたい音楽には恐らくすでに不必要な、古楽家としての変な拘りみたいなものは持たない。
本物のアンティーク車と、ヨゴシやヨタリの調整が完璧なアンティーク風新車と、どっちが運転しやすいだろう。今のブリュッヘンのやりたいことのひとつを確実に実現するオケが日本にあることの偶然を、ファンとしては感謝せねばならない。

[関連リンク]
SIDE-B/SIDE-I (1)(2006年。18世紀オケとのツィクルスについて。)
on the air:ブリュッヘン/スタヴァンゲル響のベートーヴェン 1(2008年。)

[関連リンクその2]
[演奏会] ベートーヴェンを「初演」したブリュッヘン&新日本フィル(「現代古楽の基礎知識」)
大先輩・澤谷さんのブログ。僕がうまく書けなかったことが、シンプルなことばで美しくまとめられています。
by Sonnenfleck | 2011-02-11 00:44 | 演奏会聴き語り

チャイコにマジレス。

c0060659_0413183.jpg【BMG=Melodiya/BVCX-4001】
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60
●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 op.64
(1973年4月29日/レニングラード)
⇒エフゲニー・ムラヴィンスキー/
  レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団


珍しくチャイコフスキーの5番が聴きたくなって、何年かぶりにムラヴィンスキー盤を取り出してみたよ。例の、初来日直前のレニングラード・ライヴですね。

レニングラード・フィルの熱気。純粋なアンサンブル能力という意味では、今でもここが世界最高峰じゃと言い切るのはレコ芸のお爺さんたちぐらいのものだろう。音色だって(録音による損はあるにせよ)湿度が低すぎてけっして魅力的ではない。ところが、そのうえで、音に籠める気持ちは醒めてないよな…ということが、この記録からは実際にわかる。
第4楽章の響きの率直な明るさ。この先にあるコーダと、導いてくれる指揮者への絶対的な信頼。懐疑のあるチャイコフスキーなんて、僕は聴きたくない。世界のチャイ5がすべてこのようであったらいいのにとさえ思う。

精神論っぽいことってあんまり書きたくないんだけど、オケの側がメタな思考に陥ってしまうと、いくら指揮者が熱心に棒を振り回したところで、どこかうそ寒い音楽になるのだろうと思う。そしてメタな気持ちを排除するのはとても難しい。
メタな演奏は面白い。面白いけど、もしかしたら行き止まりなのかもしれない。

+ + +

なんかさ。こういうマジレスな演奏って、もう生で展開されることはないのかな、などと思っちゃわないこともない。
自分のマーケティング的「キャラ」をよーく把握したうえでの、括弧つき「マジレス」演奏は今でもたびたび見かけるんだ(それが悪いなんて、しばしばそれを楽しませてもらっている聴き手からは絶対言えませんが)
ところが、技術的にも、また指揮者の美学的にもそれ以外は選択し得なかったであろうところの、本物のマジレス演奏は今どこにあるか。東南アジアや南米だろうか。あるいは、もうこの世界のどこにも存在しないのだろうか。
by Sonnenfleck | 2011-02-08 00:51 | パンケーキ(19)

on the air:カルミニョーラ+VBO[アルビノーニ+ガルッピ+タルティーニ]@紀尾井

「芸術劇場」、4月の番組改編でなくなるらしいですわよ奥様。

+ + +

c0060659_102657.jpg【2010年12月1日 紀尾井ホール】
●アルビノーニ:弦楽と通奏低音のための4声の協奏曲
  ニ長調 Op.7-1
●ガルッピ:同ト短調
●タルティーニ:弦楽と通奏低音のための4声のソナタ
  第3番 ニ長調
●ヴィヴァルディ:Vn協奏曲変ロ長調
  op.8-10 RV362 《狩り》
●同:Vn協奏曲変ホ長調 op.8-5 RV253 《海の嵐》
●同:Vn協奏曲ハ長調 op.8-6 RV180 《喜び》
●同:Vn協奏曲ト短調 op.8-8 RV332
●同:Vn協奏曲ハ長調 op.8-11 RV210

⇒ジュリアーノ・カルミニョーラ(Vn)/ヴェニス・バロック・オーケストラ
(2011年2月4日/NHK教育)

さて、アルビノーニは本当におかしな作曲家です。何度かアルビノーニに関してエントリを書こうとしているが、まったくうまくゆきません。
かつて1曲だけ、アルビのOb協奏曲に参加したことがあるんだけど、通奏低音の線が実にぐねぐねしていてすっきりしなかった。各パート、たとえばヴィヴァルディに比べてあまりにも旋律線が長すぎるのが全体的な「変さ」の理由ではないかと踏んでいるが、自信はない。

ガルッピの第3楽章、絶妙にアルデンテ気味でコシのあるイネガルに萌える。そしてアンサンブルの勝手気儘なことといったらない。これはベルギーとかドイツのアンサンブルでは絶対にありえないよな。。

タルティーニの第2楽章の、シナをつくるように捩れたパッセージ。この、ギャラントと言うにはあまりにもぐんにゃりした雰囲気が僕をタルティーニから遠ざけているのだが、VBOはこの曲のこの楽章がいちばん生き生きしてたな。ほんまにおもろいアンサンブルやな(キャラづけ)。

+ + +

カルミニョーラがひらひらっと入ってきて、途端にオケのテンションが上がるのは三鷹と同じ。リュートのタコ系おっさん(大写しになると腕周りのアクセサリがきらきら光ってお洒落!)とチェロのタコ系おっさんの脂っぽさも同じ。カルミニョーラは三鷹よりもうちょっとマジメだった。

[関連リンク]カルミニョーラ+VBO[オール・ヴィヴァルディ]@三鷹(11/28)
by Sonnenfleck | 2011-02-05 10:39 | on the air

華氏140度:8

中学受験、最後の確認中の女の子と母親@山手線。女の子「この人陸軍だったのかなあ、それとも海軍?」母親「そんなのどうでもいいの!殺された人の名前しか出ないんだから!早く年号覚えなさい!」
…こういう母親は爆発しろと思う。自分の貧弱な歴史感覚を強要して、娘の中の大事な芽を摘んでいることに気づかないんだからな。女の子、ぜひとも受かって、中学で良い先生と出会ってね。
by Sonnenfleck | 2011-02-02 08:08 | 華氏140度