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華氏140度:10

花粉症の疑いに疑いあり。
by Sonnenfleck | 2011-03-30 11:46 | 華氏140度

PCを新しくするの巻:アバドのブランデンブルクとともに

このブログの1400件以上あるエントリのほぼすべてを一台で担ってきた愛機LaVie君であったが、近年は冷却ファンの音も凄まじく、「ホントにインテル入ってる?」という速度となっていたのであった。2004年生まれのHDDはいつ壊れてもおかしくないわけで、現役のうちに次の世代へとバトンタッチさせるべく、ついに跡継ぎの購入を決意。これが3月のはじめ。

思い切ってMacに戻ってしまうとか、いろいろと迷うものの、能力のわりに型落ち寸前で格安なこと、スペックそのままでTV機能を付けずに済むこと、デザインがよいことなど勘案して、VAIO F(オーナーメイドモデル)氏をLaVie君の後継に決める。カスタマイズが自由にできるのをいいことに、ちょっと贅沢なCPUを積む。
無事に配送も済み、時間のある週末にゆっくりセットアップするべいと思ってとりあえず電源だけつないで机の上で待機させていたところ、3月11日の大地震。ひとまずLaVie君をメインにしたまま、2週間が過ぎた。

ようやく身辺が落ち着いたこの週末、VAIO F氏のチューニングを行なう。
Firefoxの4.0を入れたり、iTunesを入れたり、ノートン先生を買ってきたり、いろいろとやってみて改めて氏の潜在能力の高さに驚いている。LaVie君なら息切れしてCPUがゼイゼイいう局面でも、何の苦もなくひょいと乗り越える力強さ。すげえなあ。君付けでは呼べぬこの威圧感。7年分の進化!
しかしVAIO F氏、マウスのドライバが不良で、サポートセンターに何度かお世話になる。指示を受けてとりあえずドライバをインストールし直して事なきを得たが、本当の原因はわからないとのこと。君付け降格も時間の問題か。

+ + +

ともあれ、アバド/オーケストラ・モーツァルトのブラ全で、この跡継ぎを出迎えましょう。(LaVie君はなぜかこのディスクを読み込んでくれなかったのです。)

c0060659_1241434.jpg【medici arts/2056738】
●バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番~第6番
→ジュリアーノ・カルミニョーラ(Vn)
  オッターヴィオ・ダントーネ(Cem)
  マリオ・ブルネロ(Vc)、アロイス・ポッシュ(Vl)
  ラインホルド・フリードリヒ(Tp)
  ジャック・ズーン(Fl)、ミカラ・ペトリ(Rec) ほか
⇒クラウディオ・アバド/オーケストラ・モーツァルト


ソリスト陣を列挙していくと、ピリオドもモダンも入り乱れたその豪華さに仰天せざるを得ず。アバドのカリスマに疑いを持つのが見識、みたいな風潮がヲタ界隈にあるけど、この尖ったメンツを集めて破綻させず、ひとつの軽やかな音楽に仕立て上げる能力が、どれほどの指揮者に備わっているだろう。

映像で見てみると、アバド自身はあまり強い指示を出したりすることはなくて、指揮棒を持たない両手で必要最小限のリズムを柔らか~く取っているだけなんですな。
バロックのアンサンブルは指揮者とチェンバロの乖離が起こるとかなり救われない結末が待っているのですが、ここは、あまり画面に映らず、映ってもぶすっと無愛想なオッターヴィオ・ダントーネ氏の職人芸に感服するところだろう。ちゃんとアバドのリズムに乗りながら、微細で動きの多いパッセージなどは隙間を完璧に補完してアンサンブルの箍をがっちり締めているのがよくわかる(編成が薄いブラ3とかブラ6はそれが特にわかる)

ダントーネがすっごくつまんなそうにしてソロを弾いているブラ5では、長いカデンツァにさしかかった途端、ほんのりとエロティックなアゴーギクが加わるのがギャップ萌え。ま、彼が自分のアンサンブルと出したバッハの協奏曲集は、控えめながらたしかに官能的であったからね。

さて、カルミニョーラはずいぶん大人しい。というより、アバドの音楽の中で肩肘張らずに伸び伸びと弾いている(ブラ3の第3楽章の優しいことといったらない)。いつも突っぱっている不良が、実は尊敬する先生に全幅の信頼を置いているぜ、みたいな安心感に溢れていて、ちょっとほろりとくる。いつもながら情緒的な聴き方ですんませんけど。
by Sonnenfleck | 2011-03-27 12:08 | 日記

カオスを切り取る額縁としての。畠山記念館[抱一・250]&目黒区美術館[日本の伝統パッケージ](3/20)

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かように自然は、人間の手を離れて混沌としている。
人間がどのように苦しんで何をしようとしても、初めから人工の混沌を造り出そうと思わない限りは、天然の混沌は依然として混沌のままであるといえる。仕方なしに人間は、自分なりの額縁を用いて混沌を囲い込もうとする。しかしながら、額縁の中身に出現している「秩序」は「額縁の製作者が観測した混沌」なのだということを忘れてはならない。

+ + +

生誕250年 酒井抱一 -琳派の華-@畠山記念館
一週間遅れてしまったホワイトデーのお返しを入手するため、街へ出る。最寄の路線は節電のためとして車内の照明が消され、非日常の一端を今日も垣間見る。その後、せっかく出てきたのだしと思い、無事に開館している美術館を調べて、畠山記念館を訪ねてみることにする。ちょっと足を伸ばして、白金台へ。
入り組んだ住宅地の中に忽然と現れる庭園。もと島津家別邸のあった庭に建つ、懐かしい雰囲気のコンクリート建築が畠山記念館である。庭園のすぐ隣でマンションめいたものを建てる工事をしていて興を殺ぐが、本質的な風雅に変わりはない。こんな場所があったんだねえ。

展示室は茶室のような設え、というか、現に室内に茶室(「省庵」)を内包しながら、その内的雰囲気を外(=展示室内)に向かって敷衍するやり方。畳敷きのスペースに上がって作品を自由に観覧できるのは、小さな美術館にだけ許される最高の贅沢と思う。
「省庵」の露地に新鮮な水が打ってあるのに気づき、心が震えた。展示室は茶室であった。



後期展示ということで、抱一の《十二ヶ月花鳥図》は七月から十二月まで。
これは見られて本当に幸せだった。抱一が設定した「額縁」は(語弊を恐れずに書いてしまえば)極めて恣意的なのに、恣意性のかけらも感じさせない。上手な人斬りに斬られても痛みを感じない、みたいな。ちょっと違うか。
たとえば、〈八月 芙蓉に鶉〉における観者の視点を導く構図の巧さには、ぐるぐるりと舌を巻かざるを得ない。ぽってりとした鶉が見上げる視線の先に空中の草叢、込み入った(しかし完璧に計算されたカオスであるところの)枝振りから、これまたぽってりとした質感の白い芙蓉への導き。何これ。ピタゴラスイッチすぎるだろ。

その他にも、抱一が洒脱に捉え直した《風神雷神図》、かまきり萌えの《月波草花図》など見所がたくさんあったが、中でも其一の《向日葵図》の異様な存在感には度肝を抜かれた。ポオならこの画をもとにしてほんのりと恐ろしい短編をひとつ、書き上げることができるだろう。

今度は夏に来ましょう。
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包む―日本の伝統パッケージ展@目黒区美術館
まだ元気があったので、桜田通りの相生坂を五反田駅まで下る。山手線に乗って目黒駅へ。目黒駅から権之助坂を下って目黒川沿いへ。休日のテニスコートの平和を横に見て、目黒区美術館に至る。
主として自然食品を包む、伝統的包装術を、圧倒的物量で紹介する本展。自然の食品という混沌に対して生活者が立ち向かった方法を見ることができる。また、酒井抱一という大芸術家の額縁と、大勢の無名の職人たちの額縁と、比べてみることもできるというわけです。

こちらはあまり難しいことを考えず、日本各地の楽しい包装文化を愛でていけばよい、という感じだったが、いくつかの幾何学的なパッケージは(たとえば)バウハウス展に出品されててもまったく違和感のない性質のもので、驚く。「木」「藁」「紙」など素材別にコレクションが展示されている中で、秋田の曲げわっぱ《おもてなし弁当》、茨城の《一人娘 いなほ》、山形の《卵つと》、京都の《献上野菜つと》など、素材が素朴であればあるほど、僕は惹かれるものが多かった。われわれが立ち向かう卵も野菜も、なんという混沌であることよ。

(※ちょうど、渡辺京二『逝きし世の面影』を読んでいるところで、江戸期工芸が先天的に備えていたアーツ・アンド・クラフツ性、という視座を新たに持つことになったため、恐らくその後裔にあたるパッケージたちについても面白く眺めることができたのだった。)

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今夜は雪が降っている。
by Sonnenfleck | 2011-03-23 22:06 | 展覧会探検隊

on the air:ペライア/ASMFのK491+BWV1058@プラハ

【2010年5月21日 ルドルフィヌム】
<「プラハの春」音楽祭2010>
●ストラヴィンスキー:《ダンバートン・オークス》
●モーツァルト:Pf協奏曲第24番ハ短調 K491
●バッハ:協奏曲ト短調 BWV1058
●ハイドン:交響曲第99番変ホ長調 Hob.I:99
 ○アンコール ハイドン:交響曲第92番ト長調 Hob.I:92~第4楽章
⇒マレイ・ペライア(Pf)/アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
(2011年3月19日/Catalunya Musica)

夕食後、どうにも気持ちが塞いでしまって、こういうときは同質の原理だと思ってプレヴィン/ロンドン響の《シンフォニア・ダ・レクイエム》を聴いていたら、またぞろグラグラ。
もうやだ。しにたくない。
何かのスイッチがパタパタパタ、と入って、気がつけばカタルーニャのチャンネルにアクセスしている。いきいきとしてしかもむずかしくないおんがくがききたい。

+ + +

なんちゅうシンプルなプログラムでしょう。
《ダンバートン・オークス》が若干もっさりしているのはご愛嬌だけども、真ん中のモーツァルトとバッハの、無原罪的とでも表現すべき音楽には胸を打たれる。奇矯なものは何ひとつ見当たらなくて、クリーニングしたてでバリっと糊の効いたワイシャツに袖を通すような肌触りが心地よい。いい演奏だな、というより、いい音楽だな、一緒に演奏したいな、と思う。

それでも、1058の第2楽章の凛とした佇まいには、涙が出て仕方がない。
ペライアのタッチは格別に繊細でも特別に優しくもないのだが、一貫して、一定の速度で螺旋を描きながら上昇するような内在的なエネルギーを感じる。トゥッティにもよくそれが波及して、遠慮はないがガサツではないという親密な雰囲気。遠慮されないことの心地よさ、みたいなものが音楽全体から滲み出ている。
遠慮するのも遠慮しないのも、この音楽の間は考えなくてよいということだ。

ハイドンは「究極の平常運転」という感じ。ブリリアント変ホ長調。指揮者ペライアのあり方は彼のピアノとよく似ているようだ。計画通りに運動しているものの近くに身を寄せることができるのは、自分の巡航速度を見失っている者にとっての癒しだろうとさえ思う。

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ブログのスキンを昔に戻した。僕はオレンジ色が好きだったんだ。忘れてたよ。
by Sonnenfleck | 2011-03-19 21:39 | on the air

停電の夜に

3月16日、早めに帰宅して駅からバスに乗り込むと、ある線を境にして街路から光が消えている。ついに計画停電が僕の街(第3Gr)にも訪れた。

この晩は月がきれいであった。
月明かり以外に何もない暗いところを歩くのは、実家のあるあたりを思い起こさせる行ないなのだ。なんだか感傷的になってしまって、しかし、この非日常に(不謹慎ながら)わくわくしたりもして、心の振幅が激しい。

家に着いても、あと数時間は暗闇なのだと思うて着替えもせず。
カーテンを開けて、月明かりを入れて、椅子に座って、マフラーを巻いて、コートを膝にかけて、しばらく携帯ラジオを聴いたりする。暗闇の中で感覚が鋭敏になっているのがわかる。
少ししてから、iPodで、モーツァルトのK314、それからシベリウスの第6交響曲を聴く。シベリウスの複雑で荒々しいテクスチュアを全身で感じて、思わず総毛立つ。それと同時に、ひとの営みの優しい柔弱さを思う。

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ブログはそうでもないが、twitterを見ていると、元気出そうぜ未来があるぜみんなひとつだぜ、という文字がたくさん飛び交っているのが見えて、この不思議な明るさに途轍もない違和感を感じる。批判する気はないけど、理解できない。
僕はまだ恐怖が強くて、そういう想念にはほど遠い。
by Sonnenfleck | 2011-03-17 20:03 | 日記

いったい何ができる?

金曜の午後、お客さんとの話が終わって彼をエレベータホールに案内し、乗せようとした瞬間、ゆらっときた。どうせすぐにおさまるだろうと思って「大きいね」なんて話していたら、揺れはいっそう激しさを増し、まもなくエレベータは停止。エレベータのカゴが壁面にガツガツとぶつかる音が響く中、僕らはつかまり合って立っているのがやっとであった。

揺れが収まるのを待って、ひとまずお客さんを階段で地上まで案内し(あとで考えればこれは気の毒なことをしてしまったのだが)、自分の机に戻ると、散乱した書類を床から拾い上げながら、同僚たちが引き攣った顔でテレビを眺めている。仙台で震度7という。
実家のある秋田市も震度5強に見舞われているのがわかり、急いで携帯電話で連絡を試みるも繋がらず、メールでこちらは無事と連絡を入れる。みんな無事でいてくれ。やがてメールも繋がらなくなってしまう。

18時頃、父親から家族全員無事とのメールが届き、安心する。
仕事の役割的にも、また移動手段がないことからも、この日の19時頃には会社に泊まることを決意する。暗い中で20キロ以上も歩くリスクは大きい。官房長官の言うとおり、無理に帰宅するのはやめよう。

+ + +

大きな余震に生きた心地がせず、緊急地震速報のたびにヘルメットをかぶり直す、長い夜。やがて事態が明らかになるにつれ、東北が甚大な被害に見舞われたことがわかってくる。仙台放送局の東北ニュースで子どものころから親しんできた太平洋側の街が、壊滅的な打撃を受けている。津波にのまれて亡くなった大勢の方のことを思うと、目の前が暗くなる。恐怖だ。

0時半頃、応接室のソファに横になる。身体は休息を求めているが、心がそれを許さない。おかしな内容の夢を何度か見て、4時頃の緊急地震速報の音で目が覚める。今度は長野か。日本はもうだめなのか。

周囲の高層ビルに映る不気味な夜明け。それでも陽光は気持ちを高揚させるのかもしれない。6時頃、対策本部で今後の対応を協議し、ひとまずは残っている者で倒れたキャビネットの復旧をして帰ろうということになり、簡単な食事を摂ってから、10時頃まで必死の片付け。その後、復旧したJRを乗り継いで帰宅。武蔵野の街は何もなかったかのように静かなのだ。

自室はCDが散乱しているのと、TVが落ちて床がへこんでしまったのを除けば、さしたる被害もなく、東北の惨状とのギャップに胸が苦しくなる。
僕にはいったい何ができる?僕の東北のために?
by Sonnenfleck | 2011-03-13 19:30 | 日記

Seid ihr nicht der Schwanendreher ?

どうもな。去年の夏くらいから、透過率80%くらいの音楽ばかり聴いてきた。

透き通った音楽は、沼地の精霊のように親密に近づいてきて、こちらにそっと寄り添い、それでこちらのエネルギーをこっそり奪い取っていく。透き通らない音楽を聴くにはエネルギーが要るが、その代わりそれと同量か、それ以上の力を与えてくれるんだな。そろそろこちらの充電も終わったようなので、強い色、烈しい輝きを持った音楽にもまっすぐ向き合おうと思うよ。もう春の濁りはすぐそこ。

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c0060659_22442494.jpg【PANCLASSICS/PC10215】
●バルトーク:Va協奏曲(デッラマジョーレ+P. バルトークによる新校訂版)
●シェーンベルク:《浄夜》
●ヒンデミット:《白鳥を焼く男》
→今井信子(Va)
⇒ガーボル・タカーチ=ナジ/
  ジュネーヴ音楽院管弦楽団

ここまでバルトークとヒンデミットを録音してこなかった今井信子さんが、ついに封印を解いてディスクをリリース。この2曲との初めての出会いがこのディスクであった僕は、幸運だろうか。幸運だろうね。

バルトークで用いられた楽譜は、なんでも通常の「シェルイ補筆版」じゃなくて、手稿のファクシミリ版に基づいた「デッラマジョーレ新校訂版」というやつらしい。
補筆版の内容を知らないので、したがって新校訂版がどれくらいスッキリしたのかもわからないのだが、もともとのバルトークのペン先からして響きに混じりけがないような気がするし、晩年の「ヤンキー歓ばせテイスト」もそんなにないので、ひと息に音楽そのものを気に入ってしまった。

バルトークのざらざらに湿った悪意を薬味として受け入れられるようになった今、この曲にも厳然と現れている、ハンガリー時代のような闇っぽさに好感。
僕が育った田舎では、夜に犬の散歩をしていると、闇を切り裂くように鋭い声で鳴くトラツグミにしばしば出遭うことがあり、この作品での独奏Vaはちょうどそのように聴こえる瞬間が多い。

さてヒンデミットはどうかな。《白鳥を焼く男》を、陰気なユーモアに満ちた暗い音楽だろうと勝手に思い込んでいた自分を、からりっと明るい今井さんの音色が優しく平手打ち。
プレトリウスの古謡とヒンデミット様式の組み合わせなんて、ヒンデミット以外の誰が思い浮かぶだろう。音楽のほんのりとした明るさ、罪のない単純さ、そしてここでは、独奏Vaの丁寧な語り口が胸に迫る。苔生す第2楽章から、悪戯っぽい第3楽章へのVaの変わり身の鮮やかさは、今井さんの硬質なアーティキュレーションが活きるね。硬質といっても、取りつくしまもない硬さじゃなくて、曖昧なところのない爽快感をそのように呼べば、ということ。

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でね。バルトークとヒンデミットに挟まれた《浄夜》が、物凄い美演なのである。
by Sonnenfleck | 2011-03-10 22:50 | パンケーキ(20)

華氏140度:9

昨日、花粉症デビュー。
by Sonnenfleck | 2011-03-08 08:16 | 華氏140度

[エピローグ]弥生・オトテール尽くし御膳

c0060659_8353111.jpg【SEON(SONY)/SB2K 62942】
<オトテール>
●Flのための作品集 op.2~
  Recと通奏低音のための組曲 変ロ長調
●トリオ・ソナタ集 op.3~
  2つのRecと通奏低音のためのトリオ・ソナタ ニ短調
ほか、オトテール尽くし

→フランス・ブリュッヘン(Rec)、ヴァルター・ファン・ハウヴェ(Rec)
  ヴィーラント・クイケン(Gamb)、バルトルド・クイケン(Ft)
  グスタフ・レオンハルト(Cemb)ほか

LvBを継続的に集中して聴くのって、ほんとにほんとにほーんとに疲れる。
特に、何か新しいものを常に探しながら聴くのは。
今日はブリュッヘンのオトテールを聴くのだ。

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ジャック・オトテール(1674–1763)の音楽を、フランスバロックにおいてはラモーの次に愛好する私なれば、この古典的名盤は擦り切れるほどに聴いていなければならぬが、手に入れたのはわりと最近です。

ここでふえを吹いているおっさんと、この間まで錦糸町にいたヨボヨボの爺さまと、イメージはつながるだろうか。僕はいまだにつながらない。指揮者のほうをよくよく調べたら、フランヌ・ブリュッヘンとかいう別人だったんじゃないか。

このアルバムでブリュッヘンはリコーダーとフラウト・トラヴェルソを吹いてます。
イメージは攪乱されているけれども、しかし、指揮における変な彫りの深さ、あるいは空虚感好きにつながる音楽性は、ここでもどことなく共通していて、あえて一生懸命探すまでもないんだな。
変ロ長調の組曲のサラバンド、ロンドなどゆったり系舞曲に耳を傾けると、彼の好みは今でも大して変わってないような気がしてくる。すうっと空気の薄まるこういう瞬間、田園にもあったぜ。

ニ短調のトリオ・ソナタ、めっちゃくちゃカッコイイです。
ブリュッヘンとハウヴェは気ままに縺れ合ってひらひらと飛んでいるし、ヴィーラントの抉るようなアーティキュレーションには惚れ惚れとするし、第3楽章などいつものようにさりげないレオンハルトの推進力も素敵。第1楽章のアインザッツの断乎たる趣きは、キリッとして苦みもある柑橘系のシャーベットを口にするようだ。オトテールって大体においてはカスタードクリームっぽいのだが、これもアリ。

ただし、ブリュッヘンの通奏低音のセンスがこうしたレオンハルト的なものとずいぶん異なる、というのは、このまえのロ短を思い出してみても明らかなのね。上の例を持ち出すなら、ブリュッヘンはどう考えてもカスタードクリーム派なのである。

いっぽう、ホ短調の組曲は調性も手伝って、特に切れ味鋭くて呻る。
ハードボイルド・ジーグ。

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ヒュッと強く吹けば強靭な音になるし、ロングトーンだと息の濃度は下がる。結局今でも、息に紐づいたシンプルな音楽をやってるだけなのかも。
by Sonnenfleck | 2011-03-05 09:04 | パンケーキ(18)

ブリュッヘン/新日フィル 《ロ短調ミサ》@すみだ(2/27)

c0060659_2246244.jpg【2011年2月27日(日)15:00~ すみだトリフォニーホール】
●バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232
→リーサ・ラーション(S)
  ヨハネッテ・ゾマー(S)
  パトリック・ヴァン・グーテム(A)
  ヤン・コボウ(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


LvBにおいては、特に新しい知見を僕はブリュッヘンに期待して、ほぼすべての交響曲でそれは与えられた。
一方JSBにあって、何か極端に新しい発見はあっただろうか。いや、極端なものはなかった。2009年のワルシャワでのロ短ライヴをポーランド放送で聴いていたから、これは想像の通りであった。

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ベートーヴェンではその精神に忠実であろうとして、時には物議を醸すような仕掛けを乗せたわけだけど、ブリュッヘンのバッハはパッと聴きでは拍子抜けするくらいオーソドックスなことが多い。古楽器アンサンブルがさらに機敏に、フットワークを軽くしていく流れの中に彼のバッハはなくって、最近の流行のような分かりやすい表現を搭載することもほとんどない(もちろん全部がそうとは言えないけど>たとえば管組!)

ブリュッヘンのバッハの「響きの肉厚ジューシー路線」みたいなものは、単にコントラバスを太く弾かせているとか、その程度の細工で実現されてるんじゃないというのが今回のでよーーーくわかった。生で聴いてみないとわからないことってたくさんあるのだ。
管楽器たちを(古楽の方法から逸脱しない範囲で)最大限に厚く盛り合わせ、通奏低音のテクスチュアを(楽器の組み合わせを入念に考慮することで)細かく変化させる。特に通奏低音部隊への要求はまことに特徴的で、このアリアではVc2+Kb1、ここではVc3+Kb2、Vcはお休みでKbソロ、とか、なるほどと思わせる局面が多かったなあ。
楽譜のリズムを牽引するのが普通のコンティヌオなら、その瞬間の主役を邪魔しないように絶えずその質をチューニングしつつ、楽譜の輪郭をくっきり及びもっちりさせるのが「響きのコンティヌオ」。みたいな。

新日フィル。もうちょっとだけ精度を上げてくれ!というところも確かにチラホラあったが、どちらかと言えばそれは個々のプレイヤーの技量や疲労の問題であって、アンサンブルとして荒れているとか志向性が違うとかではないため、あげつらう意味はないだろう(これが一部のLvB曲との違いだった)。一ヶ月間の共同作業の結実として、トゥッティには極めて好い瞬間がたくさんあった。Vc小隊4名の完璧なメッサ・ディ・ヴォーチェを僕は忘れない。

ブリュッヘンのバッハの入口に、日曜日の新日フィルは確かに立っていた。(普段は定期で弾いたりしない古楽風バッハへの緊張感も大いにプラスに働いたんだろうとは思うが)18世紀オケの在東京代理店としてではなく、彼らそのものとして立っていた。これはたいへんな収穫だよねきっと。

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栗友会。第九のときはオヤッと思わせる綺麗な不自然ぶりを実現してたが、逆に今回はオヤッと思わせる「自然な」合唱に仕立て上げられていた。がなるところは強くがなり、神経質にならず、開放的な発声で、嬉しいときは嬉しそうに、辛いときは辛そうに。
アーノンクールの意を汲んだシェーンベルク合唱団と比べてどうこう言うのは容易いけど、ブリュッヘンはバッハにそういう硬い緊張・凝縮感を求めてないのね。それは別の人がやればいい。〈Dona nobis pacem〉の現世ご利益的な暖かみにくるまれて、そう思うのだった。

ソロ。見事にでこぼこしてて、気まま。それゆえにこちらも、奇妙に地上的現世的なのだったよ(就中あの不気味な声質のアルト歌手は、ロビン・ブレイズ以上の、今どき珍しいくらいのオカマっぽさで僕らの度肝を抜いた)

お客さんの反応も誇張がなくて素直であった。涙涙の大ブラヴォ合戦ではなかったし、一般参賀も起こらなかったが、みんななんとなく満ち足りていたようであった。だんだんブリュッヘンのコンセプトに乗せられちまったような気もしてくるのだぜ。ちょいガサガサでオーガニックなロ短。これもアリだろう。
by Sonnenfleck | 2011-03-01 23:15 | 演奏会聴き語り