<   2011年 04月 ( 10 )   > この月の画像一覧

精神と時のお買い物XXV(ラフォルジュらない)

ゴールデンウィークが始まった。僕は暦通りに出勤するので、却って気負いもなく過ごしている。こんなに平穏なGWは久しぶりだ。

ラ・フォル・ジュルネそのもの、というより、キャンセルや払い戻し騒動を見ていて、「ラ・フォル・ジュルネを取り囲んで縛り上げている首都のクラヲタ的なもの(もちろん自分も含む)」から距離を置きたくなったので、今年は「本体」には一切参加しないことにした(今やB5の廊下で一歩ごとにHP-1の気分)
鳥栖とか金沢に出かければ、どくけしそうが手に入るんだろか。

+ + +

【disk UNION 吉祥寺店】
1 バッハ:鍵盤楽曲集(DENON) *フッソング
2 ドヴォルザーク:Pfトリオ全集(PHILIPS) *ボザール・トリオ
3 マーラー:Sym#1(EXTON) *ホーネック/ピッツバーグ響
4 ヒンデミット:室内音楽全集(EMI) *アバド/BPO

【HMV】
5 バッハ:ヨハネ受難曲(ZIG ZAG) *アレ/ラ・シャペル・レーナン
6 CPE. バッハ:Cem協奏曲集(HMF) *シュタイアー+ミュレヤンス/FBO
7 JC. バッハ:ソナタ集(Passacaille) *フィゲイレド
8 LvB:交響曲全集(naive) *クリヴィヌ/ラ・シャンブル・フィラルモニク
9 J. シュトラウス:こうもり(DGG) *C. クライバー/バイエルン国立O
10 タンスマン:鍵盤楽曲集(NAXOS) *レイエ
11 ショスタコ:Sym#3&10(MARIINSKY) *ゲルギエフ/マリインスキーO

【高田馬場 タイム】
12 コレッリ:トリオ・ソナタ集 op.3(Smithsonian Institution) *スミソニアン・チェンバー・プレイヤーズ

+ + +

⇒1。アコーディオンのバッハはなぜ好いか。
 このまえ聴いたショスタコで俄然注目するホーネックのマーラー、3。
 4。専らヒンデミットに、仕事帰りの荒れた心を慰められるようになっている。

⇒5はもう感想文書きました。息子さんたち6&7。
⇒8はね。けっこう期待してるんすよ。古楽器のLvB全集ってインマゼール/アニマ・エテルナで完成しちゃったと思うんだけど(極論かな)、クリヴィヌはそうじゃないものを追求してるんじゃないかという気がしてて。

⇒それから9。なんであんなにみんなクライバーってひとのことが好きなのか、あんまり実感が沸かないので、本腰入れて聴いてみることにした(単純に、活躍してるのを直接見聞きしたかどうかの違いのような気はするけど)

⇒11。これまで慎重に第10交響曲を避けてきたゲルギエフだが、ようやくの録音となった。果たして熟成が吉と出るか凶と出るか。

⇒ちょっと嬉しい12の発見。ユングヘーネルのテオルボがセクシー。
by Sonnenfleck | 2011-04-29 12:48 | 精神と時のお買い物

聖土曜日の嵐、復活祭の朝

南風が吹き込む嵐の土曜日。一転、今朝はことごとく晴れている。こういう天気、これくらいの気温の午前は、ワラビやササダケが木洩れ日を受けて土から顔を出す。アザミやサシはすでに食べごろを過ぎ、ミズの旬まではもう少し待たねばならない。

+ + +

c0060659_10444856.jpg【ZIG ZAG TERRITOIRES/ZZT100301.2】
●バッハ:《ヨハネ受難曲》BWV245
→ジュリアン・プレガルディエン(T、エヴァンゲリスト)
 ブノワ・アルノー(Br、イエス)
 ドミニク・ヴェルナー(Br、ペテロ/ピラト)
 タニア・アスペルマイアー(S)
 サロメ・アレ(S)
 ジュリアン・フライムス(C-T)
 パスカル・ベルタン(C-T)、他
⇒ブノワ・アレ/ラ・シャペル・レーナン

最近更新を再開された古楽ブログ「Le Concert de la Loge Olympique」さんで少し前に激賞されていたアルバム。冒頭合唱のサンプルクリップを聴いて、居ても立ってもいられず購入してしまった。

ヘレヴェッヘやヘンゲルブロック、ユングヘーネルの指揮で歌っていたテノール、ブノワ・アレが2001年に結成したアンサンブルが、ラ・シャペル・レーナン(レナーヌ?)です。1stVn3人、2ndVn2人、Va1人、Vc1人にCb1人の極薄編成、合唱はソリストが交代で務め、響きは獰猛、足回りはすばしこい。非常に苛烈な通奏低音に引っ張られて(コントラバスのおねえさんが物凄い音を表出なさる)、演奏は全面的に、肉の痛みや血や残忍さを感じさせる。

こう書くと、いかにも兇暴な演奏のようでしょう。
ところが、この演奏が好いのは、岩石砂漠のように荒涼とした風景の要所要所で、甘美な不安さが靄のようにゆら…と立ちのぼっているところなんだよね。



声のもたらすものの、なんと甘美であることか。

第11曲のコラールで、ロマンティックと言ってもいいくらい和音が強調されているのを聴いて涙してしまう。彼らは、電撃的なアタックと同じくらい、惑いや落ち込みを含んだもやもやを上手に表現する人たちでもある(たとえば第2幕冒頭の「ユダヤ人たち」の造形の穢らわしさと、コラールの甘みが高度に並立している点など、素晴らしい)
ときにヘンデルのような劇性を託されがちなヨハネ受難曲の「狂熱」の中に、ちゃんと弱くて柔らかい心根があることを知り、それを丁寧に増幅して伝えてくれるこのアンサンブルの演奏に、心を動かされないはずがあるだろうか。

この録音でもっとも注目されるであろう、プレガルディエン家の息子さん・ジュリアン君は、実年齢(1984年生まれ)からくる声の張りと柔軟さが武器になることを十分に知って、戦略的にエヴァンゲリストを歌う。もちろん過度に絶望したり、逆に奇妙な自信が鼻についたりすることはなくて、近所のにいさんと安い飲み屋に入って話し込むような等身大の振幅であるのが、快い。

熟達の歌手のみが到達する荘重なエヴァンゲリストもあれば、若い歌手だけが知っているエヴァンゲリストのツボも当然あると思うのだ。ペテロの否認のクライマックスで2度繰り返して歌われる "weinete bitterlich" に、どうしようもなく心の中に拡散していく不安がべっとりと(でも他者を傷つけないように控えめに)練り込まれているのを聴いて、僕などはわけもなくシンパシーを感じてしまう。全編を編み上げる福音史家の飾らない若々しさに、惹かれているのかもしれない。



ピラトの審問のシーンは、ヴェルナーのピラトがヤな奴ぶりを発揮し(このシーンになるといつも「Мастер」のことを思いだし、ピラトには同情的になっちゃうのだが)、アルノーのイエスが「どうでもええわ」といった涼しい風を吹かせ、ジュリアン君のエヴァンゲリストが鞭打ちメリスマを完璧に決めて、物凄い緊張感。相変わらず通奏低音は、薄くてよく切れる刃物のようにぎらりと光っている。

バスのアリア《急げ、悩める魂よ》の圧倒的な疾走感(ベートーヴェンみたい)、「服もらうのくじ引きで決めよーぜ」で表現主義的にクローズアップされたチェロの音型、「成し遂げられた」のあとのアルトのアリアがとことん感傷的に造形されているところ、現実味を感じる地震の描写などなど、ディテールの細やかさは比類がない。
しかし逆に言えば、いくつものディテールの強力な推進力で全体を回しているような様子もあり、そこに袋小路を聴きとる方もおられるかもしれない。

散漫な感想文になっちゃったけど、ともあれ、最終合唱とコラールの真摯さはこの演奏でももちろん特筆すべきで、ここに至って不安から浪漫性に昇華した歌が美しい。オーケストラも戦闘的な衣を脱いで、硬派なランドスケープを描いている。
なお、最後のトラックは、余韻を楽しみましょう。
by Sonnenfleck | 2011-04-24 10:51 | パンケーキ(18)

コレッリなんてしらない。

このまえ、ダントーネ/アカデミア・ビザンティナの演奏で、コレッリのop.6-2と6-4を聴いたんです。NHK-FMで。2010年、ドイツのハレでのライヴでした。

気持ちが悪かった。
趣味の悪い夜の蛾のような音楽。
あれほど無残に、品のない装飾をたくさんぶら下げて。白木でできた拍の枠はぼろぼろに蹴破られ、引き攣ったコンチェルティーノのご機嫌を伺うリピエーノ。かつてビオンディもかなり自由に振舞っていたけれども、少なくとも、彼らは音楽の自然な流れを堰き止めることはしていない。コレッリの成立要件が、たとえばヴィヴァルディとはずいぶん違うということがよくわかる結果だった。

僕は、コレッリのop.6に新しい像を示すのはたぶんダントーネだと思っていた。op.6の12曲を心のふるさととする人間として、それなり以上の期待をしていた。
ともかくも新しいコレッリだった。それをコレッリと認識することができれば。

+ + +

c0060659_22123420.jpg【PHILIPS/UCCP3050-1】
●コレッリ:合奏協奏曲集 op.6
⇒イ・ムジチ合奏団
  フェデリコ・アゴスティーニ(Vn)
  クラウディオ・ブッカレッラ(Vn)
  フランチェスコ・ストラーノ(Vc)
  マリア・テレサ・ガラッティ(Cem)
  ペーター・ソロモン(Og)

イ・ムジチの録音をずいぶん久々に聴いてみて、もしかしたら、自分の理想像が限りなくこれに近いのではないか、という(ある種の)恐怖に襲われている。

コンチェルティーノの装飾はほぼまったく存在しない(なんということでしょう!)。通奏低音のリアライゼーションは後ろのほうのダ・カメラになるとほんの少し浮き上がるけど、そんなもんです。もちろん弦楽器はバリバリのモダン奏法で、当たり前だけどピッチは高いし、合奏人数が多くて響きも肉厚。ところが、たっぷりと汁気を含んだがんもどきにかぶりつくようなこの幸福感はなんだろう。

彼らの足回りは決して鈍くない。1991年に、モダン楽器であえて全曲録音している意味は確かにあるっていうことだよな。
ここでは秘密も何もなくて、拍をそのまま丁寧になぞっているだけだと思うんだけど、この作品集はもうそれでよく、特に味つけは必要ないといえよう、とか言っちゃいたくなる完成度の高さ。

+ + +

僕はだいたい、新しいもの、面白いものが好きで、派手にお化粧するスタイルに拒否を感じたことはこれまでになかったのですが、このたびのダントーネ一派のコレッリは、ちょっとそれ違うだろ、と思うのです。声楽に由来するタイプの伸縮、それにともなうスリルの追及は、コレッリには全然合わないんだよ。コレッリがオペラを遺していないというのは、僕らが思っている以上に重い事実なんじゃないかな。

さて、今日もアンサンブル415を聴くしかないんだろか。
by Sonnenfleck | 2011-04-21 22:16 | パンケーキ(18)

メータ/N響 東北関東大震災チャリティーコンサート@東京文化会館(4/10)

c0060659_17501469.jpg【2011年4月10日(日) 16:00~ 東京文化会館】
<東北関東大震災 被災者支援チャリティーコンサート>
●バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068~エール
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op.125《合唱付き》
→並河寿美(S)、藤村実穂子(MS)
 福井敬(T)、アッティラ・ユン(Br)
→東京オペラシンガーズ
→ズービン・メータ/NHK交響楽団


感想文を書くのを止そうかどうか、かなり迷った。
けど、ここは僕のブログで、僕が思ったことをメモしておく場所なのだから、踏ん切りを付けて書くことにした。今夜、N響アワーで取り上げられて、公演の様子をご覧になった方も多いと思う。見た人聴いた人の数だけ、感想があっていいだろう。

1. メータが来てくれたこと
無条件に手放しで嬉しい。彼の心遣いと行動に、僕は心から感謝したいと思う。どなたかがtwitterで「メータはアジア人だった」とつぶいていたのが印象的。

2. まるごとハウマッチ
今日までネット上のレヴューを読んできて、メータ来日と演奏内容を分けて考えるべきではないという考え方が(自覚的にせよ無自覚的にせよ)圧倒的多数であること、そしてこの公演のレヴューがほぼ絶賛一色であることがわかっている。なんとなれば、メータが来日してくれたことを批判する人などいようはずもないから。

今月初めの尾高/読響のマーラーを、僕は演奏行為と演奏内容を分割せずに受け取った。受け取ってぼろぼろ泣いた。したがって、事象をまるごと受容する聴き方を批判することなんてできるはずがないし、だいたい批判しようと思わない。

だから、今回たまたま、行為の意味と演奏の内容を分割して受け止めてしまった者の感想メモの存在を、どうか赦してほしい。
聴かれた方の感動を否定するなんてことは絶対にしたくないし、この感想文によって、感動された方の気持ちを損ねてしまうのが僕の本意ではないということは、厚かましいかもしれないけど、ご理解いただきたい。以下、圧倒的少数派の意見。

3. 遙かなる高みより
傲然として烈しく、揺るがず強靱で楽天的な「第九」。僕の心はここについていくことができなかった。
「いつもの第九」としては文句の付けようがない、日本にいて生で聴くことができうるものとしては最強の完成度であったと思うけれども、N響のパフォーマンスは常の比ではなかったけれども、ただ、そこについていけなかった。ぐじゅぐじゅと卑怯な前置きを書いたが、言いたいことはそれだけなんだ。

弱さ、しなやかさ、懊悩、繊細さ、柔軟さといった属性は、音楽そのものに初めからインストールされていることもあるし、パフォーマンスによって追加的に生まれることも多い。「第九」は、一般的に思われているよりは、指揮者の操縦次第でいろいろな属性を発揮することができると思うのだけど、メータの指揮は一点の揺るぎもない前世紀スタイルで、高いところから高らかに人類愛を叫ぶことを第一に考えていたみたいだった。陰も不安もない第1楽章と第4楽章に、時刻表のように楽天的なリズムを刻む第2楽章と、希望を謳う明るい大演説のような第3楽章と。

地震のあと、弱さや柔らかさのない音楽や演奏が苦痛に感じられる瞬間が、僕の脳みそに何度も訪れている。1ヶ月が経過して、もう元に戻ったかなと思っていたけど、今回の「第九」で気がついたのは、こうした感覚の変化が僕の心根に致命的に刻みつけられているということだった。
「ひとりじゃない」「ひとつになろう」の連呼が僕を変な気持ちにさせるのと同じように、高みから呼びかける演奏は、奥底まで届かずに消えるようだった。永遠にこの感覚を持ちながら生きていくんだろうか。今の僕にはわからない。

+ + +

物凄いオヴェーション。こんなときに日本に来てくれたメータと、それを実現したN響と東京オペラシンガーズの、行為の意味に対して僕は心から拍手した。石造りの巨大なモニュメントの建立式を、遠くのほうから、眺めた。
by Sonnenfleck | 2011-04-17 23:10 | 演奏会聴き語り

on the air:ハーン+ホーネック/ピッツバーグ響からの贈り物

c0060659_9523369.jpg

【2010年5月7or8or9日 ピッツバーグ ハインツ・ホール】
●シベリウス:Vn協奏曲ニ短調 op.47
 ○バッハ:パルティータ第1番ロ短調 BWV1002~サラバンド
 ○バッハ:パルティータ第2番ニ短調 BWV1004~サラバンド
 ○バッハ:パルティータ第3番ホ長調 BWV1006~ルール
→ヒラリー・ハーン(Vn)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
 ○ハチャトゥリャーン:《仮面舞踏会》~ギャロップ
⇒マンフレート・ホーネック/ピッツバーグ交響楽団
(2011年3月21日/WQED)

シベリウスの協奏曲は、これまで僕が聴き得た同曲の演奏の中でも、特に群を抜いて圧倒的であった。
いつもちょっと空気薄めなこの協奏曲の第2楽章において、ワーグナーのように深沈としたエロティシズムを感じることになるとは思わなかったし、ヒラリー・ハーンがこんなに艶やかに歌うヴァイオリニストだということも知らなかったし、また、マンフレート・ホーネックが、これほど巨大にして引き締まり、なおかつ色彩豊かな音楽を作る指揮者なのだということも理解していなかった。第3楽章の弾む筋肉運動に心が萌える。
僕はこれらを聴いてガリー・ベルティーニの音楽を思い出す。なんか、似てる。

そしてまた、アンコールに供されたバッハに心を助けられる。3拍子のゆったりした舞曲に。なんかこの前から生臭くてヤでしょう?でも本当にそうなんだ。

+ + +

ショスタコーヴィチ。ピッツバーグの南西の都市の某シェフがやる音楽とは根本的に違う。
ホーネックはちゃんと、ショスタコーヴィチの「灰色」に微細なグラデーションがついていることをちゃんと知っていて、墨の濃淡だけで巨大な構築物を描き分けている(第1楽章の豊饒なこと!そしてショスタコはハチャトゥリャーンでもエシパイでもない)。そこに必要十分な原色を垂らし込んで、音楽のエロスを失わない。第1楽章のコーダはまるでマーラーである。

第2楽章は冷笑的ではあるが、どこかでコケティッシュな感覚と結びついていて、断面が複雑。遊園地のメリーゴーランドを眺めているようだ、って書くのが妥当かどうか、わからない。

そして第3楽章で否応なく突きつけられる、嫋々とした「うた」の存在。旋律線が本当によく歌っている。そのうえオケは常時、豪奢に分厚く盛られて(各局面で音は小さくなるが、薄弱にはならない)、それによってツェムリンスキーかシェーンベルクみたいな浮遊感が生まれ、一瞬、どこの楽団で何を聴いているかわからなくなる。
こういうのはソヴィエトの指揮者たちからも、また当代の、何でもこなす器用な指揮者たちからも聴き得ない不思議な感覚。すんごく面白い。ベルティーニのショスタコーヴィチってこんな感じじゃなかったかなあ。やっぱり似てる。

第4楽章はストレートなつくりであるが、管楽器のブレンドが本当に巧みで、はっとする瞬間が何度も訪れる。何度も聴いた曲じゃなかったか。こんなに魅力的な音楽だったか。珍妙なアクセントや奇矯なアッチェレランドがショスタコーヴィチに必要かどうか、考えなくちゃいけない。こういう演奏を耳にすると、指揮者の仕事がなんなのかというのがよくわかる。

アンコールにハチャトゥリャーン。いいね。真面目ぶってなくてね。途中、クラリネットソロが先ほどの第2楽章のパッセージを回想してお客をわらかす。
ああ。ピッツバーグに住みたい。こんなシェフとオケが「おらが街」にいるなんて。
by Sonnenfleck | 2011-04-16 09:53 | on the air

この悩みの至福。

先日、本業関係で公的な昼食会に臨む機会があった。
僕のお仕事は会場の予約から料理の設定、人々の誘導までで終わっていたので、気楽な立場でもぐもぐしてればいい。天気も良く、眺めも良く、小さくても確かで幸せなひととき(村上春樹がよく言う「小確幸」ですな)を久しぶりに噛みしめる。

食後にあっさりした果物のコンポートと、コーヒーが出てくる。
そのコーヒーカップとソーサーが好い。

これまで、美術館に並ぶような工芸品を別にすれば、洋食器のたぐいにはあんまり興味を持たなかったんだけども、そのカップ&ソーサーの高雅で感傷的なデザインに、手のひらにしっくりと馴染む作りに、単純に物欲が刺激される。
偉い人の話の合間にカップの裏をひっくり返して確かめると「BERNARDAUD」と書いてある。好きな人の名札を確認する中学生みたいにして、こっそり覚える。

+ + +

帰宅してから調べてみると、「BERNARDAUD ベルナルド」は磁器産業の都市リモージュを代表する窯。なかなか高級なブランドのようです。僕が気に入ったカップとソーサーは「ITHAQUE イタック」というシリーズで、全般的にこってりしたこのブランドの中ではほとんど異端的な、モダンなデザイン。

手が出ない値段ではないが、自分の価値観からすると贅沢なのである。
悩んでいる。が、この時間こそ幸福。

c0060659_239376.jpg

by Sonnenfleck | 2011-04-13 23:25 | 日記

告知した。/シフォーチの出会い

チャリティー企画「バッハの素顔にズームイン!」@みつを美術館、盛況のうちに終了いたしました。当日会場にお越しくださった皆さま、まことにありがとうございました。主催者でないのに恐縮ですが、お手伝いとして、お礼申し上げます。



バッハのBWV209は、個人的に思い出深い曲です。今聴いてやっぱり前向きで明るくて、ちょっと寂しげで美しい。イタリア語テクストのせいかもしれないけど、ややヘンデル、あるいはナポリな香味もある。通奏低音のお二人が静静としかし力強く、音楽と我々の心を前に進めておられた。

終演後、図々しくも事務方と演奏者の皆さんの打ち上げに混ぜていただく。新しい出会いがたくさんあった。一瞬一瞬が大切なのだということだ。

+ + +

会場で購入した、武久源造氏の小品集を朝から聴いている。武久氏の演奏はこれまでなんとなく触れずにきてしまったが、実に呼吸するように自由なルバートが散りばめられていて、心に優しい。また、思いがけず《アブデラザール》のロンドが入っていて、しばし昔のことを思い出す。
今日はこれからメータ/N響の第九を聴きに上野に向かいます。
by Sonnenfleck | 2011-04-10 12:18 | 日記

告知。

チャリティー企画「バッハの素顔にズームイン!」--トーク&バロックライブ
日時:4月9日(土) 18:10開場/18:30開演
場所:相田みつを美術館第2ホール(東京国際フォーラム) 
料金:1500円(実費を除き全額寄付)
主催:三田樂所(みたがくそ)
共催:相田みつを美術館
協力:久保田チェンバロ工房


J. S. バッハ 《エール ニ長調》(《管弦楽組曲第3番》BWV1068より)
J. S. バッハ 《ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調》BWV1021
G. Ph. テレマン 《四重奏曲 ト長調》TWV43: G2 (《食卓の音楽 第1集》より)
J. S. バッハ 叙唱《君の学識は》 と アリア《悲しみも恐れも去れ》(《悲しみを知らぬもの》BWV209より)

木島千夏(きじま ちなつ/ソプラノ) 
大山有里子(おおやま ありこ/バロックオーボエ)
曽禰寛純(そね ひろずみ/フラウト・トラヴェルソ) 
原田純子(はらだ じゅんこ/バロック・ヴァイオリン)
角田幹夫(つのだ みきお/バロック・ヴァイオリン)
山口隆之(やまぐち たかゆき/バロック・ヴィオラ)
西谷尚己(にしたに なおき/ヴィオラ・ダ・ガンバ)
野口詩歩梨(のぐち しほり/チェンバロ)

急遽、OB連絡網 奇しきご縁にて、公演の裏方としてお手伝いすることになりました。主催・出演の澤谷さん(ブログ「現代古楽の基礎知識」)に無断ではありますが、宣伝させていただきます。

僕は、音楽の力を、先週末の読響チャリティコンサートでじわわわと感じました。
満足に音楽を奏でる能力を持たない僕が次にできることは、音楽と皆さまの仲立ちをすることです。このブログをご覧の皆さま、どうか皆さまのように藝術音楽を愛する方々にこそ、お越しいただきたいのです。音楽に、力はあるのです。
なお当日は「みつを」のどこかで働く管理人が(たぶん)見られます。

お待ちしております。
by Sonnenfleck | 2011-04-06 23:25 | 日記

尾高忠明/読売日響 東北関東大震災チャリティーコンサート@東京文化会館(4/2)

c0060659_12325729.jpg【2011年4月2日(土)18:00~ 東京文化会館】
<東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート>
●バーバー:弦楽のためのアダージョ op.11
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
 ○エルガー:《エニグマ変奏曲》op.36~〈ニムロッド〉
⇒尾高忠明/読売日本交響楽団






この日の演奏を僕は忘れないと思う。音楽と演奏によって整理されたもの、解毒されたもの、受け取ったものがたくさんあったから。
生の音はこれほど情報が多かったか。大オーケストラはこんなに大きな音がしていたか。思い出せない。1ヶ月以上ライヴを聴いていなかったからなのか、自分の神経が過敏になっているせいなのか、とても刺激が強かったことを冒頭に記しておく。

+ + +

バーバー。終了後の拍手はご遠慮下さい、とのアナウンスがあり、照明をぐっと絞ったステージに弦楽隊と尾高氏が歩み出る。静かに音楽が始まり、静かに終わる。

10分間の休憩。お客さんの入りは4割くらい。

マーラーは振幅の大きい演奏であった。獣のように威嚇するアクセントと、佳い匂いのする果物のようなレガートがあえて隣り合わせに並べられて、マーラーの内面の不確実性、あるいはマーラーが観測した外側世界の不確実性がはっきりと照らし出されていた。
速報性の高い複数のメディアでは好意的なレヴューが少なくて意外だったが、ここで顕れた「不確実性」は演奏の不確実性ではなく、ある程度までちゃんと整理され演出された不確実性だったということを力説したい(ミスを拾う聴き方はしたくないし、だいいちTpやTb、Vaは堅固に安定していたよ)。尾高さんがこんなに彫りの深い音楽を作るとは、正直、思っていなかったです。
(第4楽章でさらに彫りを深めてメロメロ演歌調にしちゃわないのは尾高さんの見識だろう。繊維質、まではいかないくらい適度になめらかで、テンポも速くはないが、その中でもいちフレーズごとにちゃんと芯があって、響きはすっきりしている。)

僕はいま地震の後の世界に生きて、それまでの自分が(なんとなく)思っていた「生きることの確実性」みたいなものがただの錯覚でしかなかったことを知った。怒りと慈しみがごた混ぜになった第2楽章を聴いて、マーラーもきっと生きているのが怖かっただろうな、などと思う。真ん中にあるVc隊の静かなモノローグ。
でも。でもである。
絶望的な葬送行進曲から始まって、ようよう第2楽章の途中から一条、光が差し込んでくるようなこの交響曲の、その第5楽章まで来て、和らいだ響きにざぶんと浸ること暫し。生きている内面に不確実性を抱えたままでも(外側世界の不確実性に絶望していても)、そして完璧な生でなくても、ただ生きているからには、ただ生きていかなければならないと、僕はここで強く感じたのであった。

+ + +

以下、尾高さんのスピーチを思い出して。

「昨日、薔薇の騎士の上演が決まった。マノン・レスコーも、東フィル100周年のグレの歌も皆なくなってしまっててんやわんやだったが、ここまで漕ぎ着けた。」
「今すぐにでも被災地に駆けつけて瓦礫の撤去を手伝いたいが、それも叶わないなら、音楽家はとにかく、演奏しなければいけない。暗くなっていてはだめだ。なんとか音楽で明るくしていきたい。」
「バーバーのアダージョは本当に辛かったが、演奏した。天国にいる方たちに届けばと思う。」
「本来、マーラーの5番の後にアンコールをやるなどありえないが、今は特別な状況でもあるし、(コンマスの)ノーランさんの提案を受けてエルガーのエニグマ変奏曲からニムロッドを演奏する。エルガーが本当に大切な友人を描いた音楽だ。」


ニムロッド。大ホールが音楽に満たされている間、あちこちからすすり泣きが聞こえてきて、僕自身、息を吐き出すときに嗚咽が漏れてしまわないよう、自分を抑えるのがやっとでした。あの音の優しさ、気高さはまたとない体験であったと思う。
by Sonnenfleck | 2011-04-03 12:34 | 演奏会聴き語り

まことの春に

c0060659_9333122.jpg【DECCA/UCCD3629】
<ブリテン>
●《春の交響曲》 op.44 *
→ジェニファー・ヴィヴィアン(S)、ノーマ・プロクター(A)
  ピーター・ピアーズ(T)
  ワンズワース・エマニュエル・スクール合唱団
  コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団

●カンタータ・ミゼリコルディウム **
→ピーター・ピアーズ(T)、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Br)
  ロンドン交響合唱団

⇒ベンジャミン・ブリテン/
  コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団 *、ロンドン交響楽団 **

今年は4月1日の嘘エントリがなんとなく書けなくて、当ブログの恒例行事も途絶えた。

これはただ、ぼんやり駘蕩とした春の音楽だろうか。そうではなかろうよ。
春は烈しさと暴力的な喜びを帯び、そして何より、確実性を我々に与える。少なくともこの音楽の中ではそうだ。第3部までのおずおずとした不確実性から(わが五月はいつくるのか?)、第4部フィナーレの、どこか破れかぶれで憎めない寿ぎワルツまで、春の諸相はことごとくこの音楽の中に封じ込められている。味の薄い豆腐のようなピアーズの声も、春の中立的語り部としては好ましいように思う。

地震の後、僕の住む世界は不確実の霧に覆われている(覆われていた、と書くことができないのは辛い)。しかしながら、それでも桜は咲くし、木蓮も咲いている。確実な季節の遷移に、今はささやかでもいいから、希望を見出したい。
by Sonnenfleck | 2011-04-02 10:37 | パンケーキ(20)