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西国立の三角

c0060659_2083716.jpg【VALOIS/V4642】
<ファリャ>
●バレエ音楽《三角帽子》G.53
●クラヴサン協奏曲 G.71
→トニー・ミラン(Cem)
⇒エドモン・コロマー/スペイン国立ユース管弦楽団


素晴らしい。たいへん素晴らしい演奏。

自分が《三角帽子》に期待しているもののすべてがここに入っている。すなわち、微妙に緩いアンサンブル、妙に艶っぽい楽音、そして、いざという小節での脊髄反射的な跳躍感など。これまでに聴いていた巨匠指揮者+ガチなプロオケによるどのような録音にも増して、このディスクからはそうした要素がビンビンと伝わってくる。

+ + +

〈粉屋の女房の踊り〉では、左右から音の波しぶきをかぶるような豊かな揺らぎを感じるし、〈ぶどう〉で聴かれる管楽器たちのコケティッシュな素振り、一転してセギディーリャでは空気がしっとりとして、夜の香りが漂ってくる。
〈粉屋の踊り〉でパーカッションが激しい打ち込みをやらかせば、負けじとストリングスが鮮やかなアッチェレランドをかます。内部に競奏感覚があるヴィルティオーゾなユースオケって最強の存在ではないか?
〈代官の踊り〉での強烈なスパーク、そして、ホタでの弾けるような身体性。《ラ・ヴァルス》の最後みたいにして混沌と熱狂のうちに幕が下りる。いいねえ。

クラヴサン協奏曲も素敵だ。この曲はプーランクの亜流のように鳴ってしまいがちだが、ユース管の首席、及びゆかりの人物たちが組んだこのアンサンブルでは、楽音の生っぽさがより強調されて、土の香りと苦みと甘みを兼ね備えた最高の野菜サラダをシャクと囓るような幸福が感じられるのであった。
楽員たちの腕の良さももちろんだけど、エドモン・コロマーという指揮者の豊饒な色彩感覚も得難いものだと僕には思われる。これだけ烈しい色をぶつけ合って、混ぜずにちゃんと並立させてるのだ。ブラヴォだよほんとに。

何がこの録音をここまで高めているんだろう。同じくコロマーとスペイン国立ユース管でVALOISに録音してるらしい《恋は魔術師》や《スペインの庭の夜》も、いつか聴いてみたいものだわいな。
by Sonnenfleck | 2011-09-29 20:09 | パンケーキ(20)

POC♯6「クセナキス歿後10周年・全鍵盤作品演奏会」@白寿ホール(9/23)

「現代のピアニストはおかしいと思うんですよ。ベートーヴェンやショパンの集中連続リサイタルはあるじゃないですか。名曲や重要作品をまとめて弾いてピアニストが真価を問うのはあたりまえでしょう。でもこの当然のことが現代音楽に対してはほとんどやられていない。現代曲だけのリサイタルというと新作初演を並べるとか、そういうのが多い。現代音楽の古典をいっぺんにというのはあんまりないでしょう。少なくとも日本ではほとんどない。これはものすごくおかしいことじゃないですか。現代音楽の古典をまとめて弾くのが現代音楽に献身するピアニストの当然の仕事ではないのですか(タワーレコード『intoxicate』第93号より/interview & text : 片山杜秀氏)

ヨーロッパ戦後前衛の衝撃は限定的で、オイルショック程度の外的要因で簡単に薄れ、主導した作曲家たちの多くはその姿勢を自ら捨てた。これらは、ヨーロッパ戦後前衛は演奏実践を伴わない中途半端な運動だったことの何よりの証拠ではないか?(野々村禎彦氏POC推薦文より)

c0060659_539974.jpg【2011年9月23日(金)18:00~ 白寿ホール】
<クセナキス歿後10周年・全鍵盤作品演奏会>
●《6つのギリシア民謡》(1950/51)
●《ヘルマ Herma - 記号的音楽》(1961)
●《エヴリアリ Evryali 》(1973)
《ホアイ Khoaï 》(1976)
●《ミスツ Mists 》(1980)
《コンボイ Komboï 》(1981) *
《ナアマ Naama 》(1984/日本初演)
●《ラヴェル頌》(1987)
《オーファー Oophaa 》(1989) *
→神田佳子(Perc *)
⇒大井浩明(Pf、モダンチェンバロ)


大井氏の姿勢にたいへん共感したので、面白いもの欲求が6割、そして(恐れながら)プチパトロネージュ4割のつもりで出掛けた。
この日は白寿ホールそばの代々木八幡宮の例大祭と重なって、あのあたりは恐ろしい人出であった。祭り囃子がスピーカーからガンガン流れ、御神輿の担ぎ手たちが酔っ払って喧嘩している脇をそっと通り抜けて、世にも珍しい音楽の時間に向かう。

+ + +

◆《6つのギリシア民謡》
エキゾチックな擬ドビュッシー。こんなのリサイタルのプログラムに入れるととってもおしゃれカワイイですよ!ピアニストの皆さん!

◆《ヘルマ》から《ミスツ》まで
たぶん、この1960年から1980年までの20年間が、クセナキスのコアなんだと思う。どの作品も硬い詩情を湛えている(以下、聴感上の印象批評にしかならないのは戦後前衛の作曲理論にあまり興味が湧かないためだし、古楽でもロマン派でも僕は同様のことしかできないので許してほしい)
僕には感じ取れなかったが、たぶんこれらの作品にはメロディが存在している。でもリズムの存在は疑わしい。泰西古典音楽のほとんどは、その存在の足腰をリズムに委ねていると思ってて、たとえば《音価と強度のモード》ぐらいまでは(メシアンが意図したかどうかは知らないが)ぼんやりとリズムが聴こえるんだが、クセナキスのリズムはよくわからなかった。偶発的な凹凸が発生した土壁を何日もかけて検分していくような気分。ハーモニーが聴ければまた別の感想になるんだろうけれども、リズムのない音楽を聴くのは、少なくとも僕にはとても難しい。

→大井さんがtwitterで「古楽(特に通奏低音)をやると、たいていの音楽は「外骨格の音楽」と捉える癖がつきますけれども・・」と書いていらして、なるほど素人ながら自分のコンティヌオ経験がリズムで音楽を聴く癖を作ったのかと納得するも、クセナキスの外骨格はどうやらリズムで成り立ってるわけじゃないっぽいので再びガックリ。僕の力では骨格が捉えられなかった。

◆《コンボイ》と《ナアマ》
リズムを生成するという意味ではピアノより「打楽器的」な打楽器が入り込むアンサンブル作品である《コンボイ》。ここでクセナキスの作風が急激に変容して、シンプルなリズムの積み重ねが唐突に現れたのは驚いた。
打楽器がいなくなった《ナアマ》でも、前半の同じソロ曲《ホアイ》に比べると、リズムを生成する因子の割合が突然増えているので戸惑ってしまう。《コンボイ》をソロチェンバロに落とし込むと確かにこのようになるだろう。

これら、音楽ノンポリとして聴いてて愉快なのは間違いないんだけど、まるでネオ・ストラヴィンスキー主義とでも言ったらいいのか、じゃあそれ以前の20年間の禁欲は何だったの?と問い詰めたくなる。硬派なゲンオンヲタだとこの変節は許せないんじゃないのかなあ。リアルタイムだとどう感じられたんだろ。

◆《ラヴェル頌》と《オーファー》
夭折とか事故死でないかぎり、晩年の音楽がシンプルで謎めくのはどんな作曲家も同じ。前者からはたしかにラヴェルのメロディ(この場合は「旋法」と言ったほうがより近いか?)が聴こえたし、後者は音の消える局面に軸足を置いているのがこれまでと全然違うところだった。チェンバロの音がペダリングによってフェルマータしていくのを見届けるのはまことに変な気分(モダン!)

◆幻のアンコール《カッサンドラ》
貼っときます。「能楽鑑賞」(NHK-FM日曜朝7時20分)にしか聴こえないよう。


◆演奏実践について
大熱演だったのは間違いないのだが、自分の耳のほうが全然及ばず、演奏実践の評価ができないのが無念。大井氏は譜めくりさんがいてもよかったと思った。

◆お客さんについて
客席の気分がマジで濃いよねえ。もう瘴気漂っちゃうっていうか。
新しもの好きの若人も多かったが、「本当に面白いわねえ」と言ってニコニコしている白髪の老婦人を発見したときはさすがに20世紀インテリの奥深さを想った。

+ + +

2時間半のクセナキス漬け。白寿ホールの階段をとことこと1階まで降りて外に出ると、独特の感慨が湧く。もう秋の風だな。リゲティとブーレーズも行こう。
by Sonnenfleck | 2011-09-26 05:40 | 演奏会聴き語り

Georg Philipp Telemann Ⅴ:新大久保バロックアンサンブル(9/9)

自分の心の底でこれだけは無条件で行きたいなあと思っているのは、大規模なオーケストラでも絢爛なオペラでも晦渋なゲンダイオンガクでもなく、実は、中後期バロックの小アンサンブルの演奏会なのだ。
中後期バロック音楽の聴取には、腹の奥から湧き上がるような身体感覚が伴っているから、年中、バロックアンサンブルのコンサートだけ聴いててもいいくらい。

+ + +

c0060659_7565229.jpg【2011年9月9日(金) 19:00~ 日本福音ルーテル東京教会】
●テレマン:四重奏曲(4声のコンチェルト)ト長調 TWV43:G6
●同:トリオ・ソナタ イ短調 TWV42:a6
●ファッシュ:ソナタ(四重奏曲)変ロ長調
●C.Ph.E.バッハ:ObとB.C.のためのソナタ ト短調
●テレマン:トリオ・ソナタ(《音楽の練習帳》より)ホ長調 TWV42:E4 *
●同:四重奏曲(4声のコンチェルト)イ短調 TWV43:a3
 ○ファッシュ:ソナタ(四重奏曲)変ロ長調~第2楽章
 ○テレマン:四重奏曲(4声のコンチェルト)イ短調~第4楽章

⇒トーマス・メラナー(Ob)、宇治川朝政(Rec, VFl*)、木村理恵(Vn)
 懸田貴嗣(Vc)、福間彩(Cem)


東京に戻ってきたとき「これで新大久保の教会の古楽コンサートに行きまくれる」とほくそ笑んだものだが、現実はそう甘くもなくて、平日の夜に職場から遠い新大久保に向かうのは果たして至難の業であった。当夜は新大久保駅から、物情騒然とした街区をかき分けて歩いてゆく。たいへん久しぶりの訪問である。

2009年のブルージュ古楽コンクールでアンサンブル部門第2位を勝ち取った「アンサンブル・ディアマンテ」のメンバーをコアに、仕事人・懸田貴嗣氏、そしてベルナルディーニ(ゼフィロ)とアーフケン(FBO)という当代最強の2人に師事した若いオーボイスト、トーマス・メラナーを迎えた本公演。テレマン尽くしにファッシュとエマヌエル・バッハを加えたプログラムも最高です。

全体を通してハイレベルなコンサートの中で、ファッシュの変ロ長調ソナタの奇抜さ、そしてテレマンのホ長調トリオで聴かせた「古楽の良心」みたいなもの、これらがとっても素晴らしかった。満足しました。
ファッシュは前々からその華々しい外面性に心惹かれていたが、この作品も「ソナタ(四重奏曲)」という苦しいネーミングの通り、様式が最後期バロックを逸脱して、気持ちが前の方向へ飛んじゃってる。ヴィヴァルディ・プログレッシヴな第3楽章、そしてアンコールでも取り上げられた第2楽章は、一面のテレマン畑のなかに謎の外来種が奇抜な花を咲かせてるみたいだった。面白。

いっぽう、テレマンの安心感。イタリア風味かつギャラントなイ短調コンチェルトも素敵だったが、質朴な響きをちゃんと維持しているホ長調トリオが、この日いちばんの聴きどころだったよ。
宇治川氏は「箸休めみたいな作品です」ってスピーチしてたけど、いやいや易しい型ほど恐ろしいよね。この日のアンサンブルは、福間氏の安定した推進力と、懸田氏の強固で豊饒な発声に支えられて、音符を上品に深く抉る木村氏と、ヴォイスフルートに持ち替えた宇治川氏の翳のある音色が絡まり合って美しかった。
(懸田さんはBCJとかOLCのトゥッティでお見かけすることが多かったので、裸の通奏低音を聴いたのはたぶんこれが初めてなのだが、こんなに素晴らしい音楽をやられる方だと気づいてなかった自分が情けない。)

+ + +

さて、メラナー氏は心優しいギークのような見かけに反して、なかなか我の強い音楽を志向するひとで、小さい作品では自分を閉じ込めておくのに苦労しているような印象を持った。
だからテレマンのイ短調トリオはいかにもアンサンブルがずれて、それを取り戻そうとする必死さが窮屈を生んだし(確かにオーボエとリコーダーが組むトリオ・ソナタは構造的にそうならざるをえないのだが…)、逆にソロを取ったエマヌエル・バッハのソナタは、作品の烈しい様式感と彼の志向がぴたりと一致したために、佳い感じの演奏になってたと思うの。中規模以上の古楽アンサンブルでソロを吹いたら、彼きっと面白いんじゃないかなあ。
by Sonnenfleck | 2011-09-24 08:00 | 演奏会聴き語り

on the air:ブロムシュテット/N響 第1708回定期@サントリーホール(9/21)

らじる★で聴くのはやっぱりやめ。フツーにチューナーで聴いた。

山田美也子さん「今日は大変な一日になりました。どうぞお気をつけてお過ごしください。ゲストで音楽評論家の安田和信氏は、交通機関が乱れているため、まだご到着ではありません。今日は客席に空席が目立っています」とのこと。

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【2011年9月21日(木) 19:00~ サントリーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)
→ペーター・ミリング(ゲストコンマス)
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団
(2011年9月21日/NHK-FM生中継)

まず前半の《未完成》である。
先だって聴いたゲヴァントハウス管との同曲ライヴに比べて、ずっとずっとオケの音が柔らかいんだな。これは(失礼承知ですが)たいへん意外な結果。響きの骨格がギシギシと軋み、険呑な雰囲気さえ漂っていたゲヴァントハウスのオケに対して、輪郭はお洒落にくっきりしながらもあくまで柔軟な音で応えるN響の皆さま。状態が良いときのウィーン響かワルシャワ・フィルみたいな音がしてる。
うーむ。薫り高い。佳い演奏だと思う。

拍手の音量が、、小さい、、こりゃあお客が全然いないね…
休憩に入っても安田氏は到着せず。ブ氏のCD(K136)で時間が稼がれる。

さて後半。休憩の間に何人のお客さんが溜池山王に辿り着いたろうか。
今日のノヴァーク版はブ氏の判断で「シンバルとトライアングル除き」だそうな。
前回のN響定期でブロムシュテットの《新世界から》を聴き、そのあまりのブルックナーぶりに驚愕したのだが、それじゃあブルックナーは何になる?
ブルックナー・ダッシュターボ?
…ダッシュターボである。
現役の例を挙げれば、スクロヴァチェフスキのちょうど正反対に位置するというか、ブルックナーのスコアを全力で信頼してそこに身を委ねるような、そういう演奏。
風の噂ではこの前のアルミンク/新日フィル「仲直り第7」もずいぶん佳かったみたいだが、ブロムシュテットの第7も佳いな。ブ氏はこの交響曲にとってもシンプルな美を見ているんだろうな。こういうナチュラルシンプル気持ちいい系の演奏を聴くと、もう、懐疑の沼地に足を取られて転ぶのは嫌になっちゃうよね。

わあ。第2楽章きれいだなあ。すごくワーグナーから遠くて。
by Sonnenfleck | 2011-09-22 06:22 | on the air

華氏140度:20

会社でずいぶん早く帰宅指示が出たために、颱風被害に遭わずすんなり帰宅。首都圏最強と噂される最寄り路線も止まってしまったようだ。せっかくだから、らじる★らじるでN響定期の中継でも聴いたろと思っているんだが、挙行されるのか?
by Sonnenfleck | 2011-09-21 18:38 | 華氏140度

さようならザンデルリング

ドイツの指揮者クルト・ザンデルリンク氏が死去(YOMIURI ONLINE/9月18日)

日比谷で『アマデウス』を観て帰ってきたら、ザンデルリングの訃報を目にすることになってさらに放心。明日9月19日が彼の99歳の誕生日だったのだ。
8年間、封を破らないで取っておいたハルモニアムンディの引退コンサート箱を、いよいよ今夜は開けねばならない。いつもならばショスタコーヴィチを聴くところですが、真っ先にK491を聴くことにします。

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RIP.

by Sonnenfleck | 2011-09-19 00:30 | 日記

プイリエフ×ドストエフスキー『白夜』:非リア非モテの花道

c0060659_8531835.jpg【2011年9月10日(土) 15:00~ 浜離宮朝日小ホール】
<ロシア文化フェスティバル2011>
●『白夜』(1959年、カラー、97分)
→フョードル・ドストエフスキー(原作)
 イワン・プィリエフ(監督・脚本)

僕が映画にとことん疎いのを不憫に思った友人が、チケットを譲ってくれたもの。50年代のソヴィエト・リアリズム映画ってことで、先日の『グラス・ハーモニカ』の対極にあろうかと思う。視点が増えていくのが嬉しい。

ドストエフスキーの『白夜』って読んだことあります?『白痴』じゃないすよ。
自室に隠って妄想に耽るのが好きなヒキ青年「私」。これまでリアル女性と話したこともない。そんな彼がネヴァ川のほとりで出会った女性・ナースチェンカに一目惚れし、ナースチェンカの恋バナを友人として誠実に受け入れ、決定的に親しくなるも、その幸せの絶頂でナースチェンカは戻ってきた元カレに走り、「私」は心をざっくりと斬られて討ち死に。ああこれが俺の青春だったんだウォッカぐびぐび。幕。
Hélas!森見登美彦にリライトしてほしいよねえ。ネヴァ川を鴨川に変えてね。

僕は原作を読んだことがなかったから、どこまでがドストエフスキーでどこからがプィリエフという監督の脚色か判断できんのだけど、「私」とナースチェンカの話が最初から最後まで全然噛み合わないのがまことに痛々しかった。

全編、ネヴァ川のほとりのベンチで2人が話してるんだけど、「私」が「普段こんなの空想してるんです」と自慢げに披露する妄想シーンでの子どもっぽい活気と(森の奥の古城でチャンバラしたりしてる)、ナースチェンカのあくまで実体験に即した恋バナと、こんなのが噛み合うわけがない。

いちおうお互いに「私も空想家よ」とか「わかりますよナースチェンカ!」とか言い合うわけだが、当然痛さがこみ上げる。むろん「私」路線寄りの自分としては、その気持ちをわかってて保険扱いしながら弄ぶナースチェンカ爆発しろと思いましたがね。元カレに手紙を渡すのを手伝わせたりしてるしな。あー腹立ってきた(笑)

セットを組んで撮影されたと思われる華麗なペテルブルクの街並み。ナースチェンカの自宅の細やかなディテール。プィリエフという人は人民芸術家で、スターリン賞を6回も受賞して連邦議員にまでなってるので、この雰囲気が映画における社会主義リアリズムへの解なのかなと思う(ただしこの人は経歴がショスタコーヴィチにそっくりなので、この画面を鵜呑みにしていいか若干悩むところでもある>反体制の意志がこっそり隠れてたりするのかしら)
それから俳優たちの謎の熱い演技。突然歌い始めたりするのも可笑しい。特に主人公「私」を演じるオレグ・ストゥリジェノフの煌々と輝く病的な瞳にぞっとする。

+ + +

客層の高さはクラシックの比ではなく、往年の左翼インテリ、みたいな背筋のスッとした爺さんが多かった(会場では最年少だった自信がある)。まあなあ。ソヴィエト映画なんて今日び流行らないよなあ。あまりにも救われない結末に心底冷え冷えとし、観終わってから代々木のラーメン屋に行ってしまった。
by Sonnenfleck | 2011-09-18 09:00 | 日記

ブロムシュテット/N響 第1706回定期@NHKホール(9/10)

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【2011年9月10日(土) 18:00~ NHKホール】
●シベリウス:Vn協奏曲ニ短調 op.47
→竹澤恭子(Vn)
●ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調 op.95《新世界より》
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団


ドヴォルザークについて書きますと。
僕は、この曲がこんなにブルックナーのように聴こえたことはありません。
よく聴き慣れたこの交響曲で、新しい経験でした。

第1楽章は直線的な音楽で、またブロムシュテットもそれをことさら直線的に造形していたので「ブルックナー的」は表出しなかったが(むしろ「シューベルト的」だったかもしれない)第2楽章の途中から、あれ、なんかおかしいなあ変だなあという雲行き。音塊の束ね方、浮き上がる奥のリズム。

第3楽章になるとその空気はいっそう明確になる。
スケルツォのダイナミックレンジはきわめて幅広く取られるいっぽう、細密なグラデーションをあえて止め、音量のごつごつした移動を志向している。また、緊張の強いスケルツォに対置してふつう茶目っ気や長閑さを狙って造形されるトリオなど、逆にくそ真面目に音価を引き摺って頑迷な雰囲気を醸す。そうした手法により、経過句を経て第2トリオに至る道は完全にブルックナー状態である。

さて第4楽章は、ほとんど非人間的と言ってもいいリズム管理にぞくぞくさせられる。著名なメロディたちが颱風の雲のようにひゅうと流れていくその下で、ひたすら整った打点を取り続けるブロムシュテット。ブルックナーの理想はこういうリズム管理ではないか?
再現部、第2主題とともにホルンが高く歌った直後に置いてある「たぁらんた|たぁらんた|たぁらんた」というフレーズに予想外の強い粘りを込めてアッチェレランドさせる様子。それからコーダ、金管を中心としたトゥッティのコラール風の歩みを、全要素を全開にするんではなくきちんと束ねてリズムをくっきりさせるやり方。

ドヴォルザークはもっと野放図に歌えたほうが好いという声も(演奏者と聴衆の両方から)あがりそうだけど、理性によって管理されたアントニンがアントン化する様子をしかと見届けました。たいへん面白かった。
by Sonnenfleck | 2011-09-16 06:22 | 演奏会聴き語り

Hatsune Mick Counterpoint



中秋の名月である。

by Sonnenfleck | 2011-09-12 21:46 | 広大な海

トゥルコヴィチ/都響 「作曲家の肖像」シリーズvol. 83《モーツァルト》 @オペラシティ(9/4)

c0060659_1072444.jpg【2011年9月4日(日) 14:00~ 東京オペラシティ】
<モーツァルト>
●交響曲第38番ニ長調 K504《プラハ》
●Fg協奏曲変ロ長調 K191 (186e)
→岡本正之(Fg)
●交響曲第39番変ホ長調 K543
⇒ミラン・トゥルコヴィチ/東京都交響楽団


たいへん丁寧に造形されたモーツァルトだった。
音楽のうま味を心の底から堪能した。

個人的にはコンツェントゥス・ムジクス・ウィーンの重鎮としての印象が強いトゥルコヴィチだが、前回の都響登場時の評判がずいぶんよかったので、今回のチケットを買ってみた次第。
指揮者がアーノンクールの盟友であるということを配布されたプログラムで知ったお客さん、また、ピリオドアプローチ=ヴィブラートと思っている向きには、この日の演奏は少々意外に、もしくは少々期待はずれに聴こえたのかもしれない。
なぜならトゥルコヴィチの造形は「一般的なピリオド風味」(小編成・Vn対向配置・ノンヴィブラート等)からすべて離れてて、多少判りやすいのは編成にバロックティンパニを導入していることくらいだったわけ。
じゃあ、サー・ネヴィル・マリナーのモーツァルトみたいな感じなのかと問われれば、いややっぱりそれとは違う。やっぱりこの人はCMWの藝術家なんだ。

たとえば、変ホ長調の第1楽章提示部で聴かせた、アーノンクールそっくりのおどけた調子(ソォっっファっっっミぃ♭~という強いスタッカート>これを再現部では再現しなかったのはこの人の好みだろうか)
それから第3楽章の田舎踊り。これもニコラウス親方によく似てら。東京人が東北訛りを茶化すみたいに、ウィーンの都会人が観測した田舎踊りはめっぽう愉快に表現される。第4楽章はちょっと勢いがつきすぎてたけど…。

無論、アーノンクール似の造形だけでは面白くないわけで、今回は《プラハ》の第2楽章が、これがトゥルコヴィチの本領が最強に発揮された時間だった。

あまりにもちゃんとバルカローレのリズムが維持されていたため、素っ気なく聴こえた人もいたかもしれないんだけど、各声部は(特に管楽器隊は完璧に)統率されて動き、しかも今度はそれら同士が明解に独立して働く、あんなモーツァルトの緩徐楽章をライヴで聴けるなんて想像していなかった。
つまりトゥルコヴィチは数本の楽器でセレナードでもやるみたいにして、《プラハ》の巨大なアンダンテを組み上げてしまってた。3階席から見下ろすとお客さんの3人に1人は安らかに眠っていたが、それは本当にもったいないことよ。。

ピリオドアプローチの真の意味は、アンサンブルのアーティキュレーションを精査し、各局面に応じてそれを最適化することで、親密な室内楽をモダンオケで実現させることにあると僕は考えている。それはともかく、《プラハ》のアンダンテで実現されてた。トゥルコヴィチのコンティヌオ者としての感覚も、おそらく造形の役に立っていることだろう。都響のコンディションがすこぶる良いのも嬉しかった。

+ + +

ところでFg協奏曲も、2曲のメインの間でたいへん魅力的な一皿として提供された。都響首席の岡本さん、ブラヴォでした。
トゥルコヴィチはきっと、この協奏曲のソロを世界中で飽きるほど吹いてきたんだろう。この曲だけは当然のように暗譜で指揮棒を振っていたのは可笑しかったが、完璧なタイミングでトゥッティを操り、アンサンブルは快適としか言いようがなかった。この曲についてはたぶん世界でいちばん巧いサポート。
by Sonnenfleck | 2011-09-11 10:12 | 演奏会聴き語り