<   2012年 02月 ( 9 )   > この月の画像一覧

華氏140度:24

部屋のなかでGKB01(センター)を発見した。推しメンにはしない。
by Sonnenfleck | 2012-02-28 22:46 | 華氏140度

1950年の昏い森の中で。

ここ数回のエントリがなぜ(久しぶりに)ショスタコーヴィチづいているのかといえば、きたる2月26日(日)に、本邦ショスタキスト必聴の《24の前奏曲とフーガ》全曲演奏会が行なわれるからである。

ピアニストはアレクサンドル・メルニコフ。

+ + +

c0060659_11184054.jpg【Regis(Melodiya)/RRC3005】
●ショスタコーヴィチ:24の前奏曲とフーガ op.87
⇒タチアナ・ニコラーエワ(Pf)

そのまえに、ニコラーエワの1987年盤をiPodに入れて、朝な夕なの通勤時間で予習を続けてきた。今が冬であればこそ(またいつもより厳しい冬であればこそ)、街区で聴くショスタコーヴィチの味わいは何十倍にもなる。

この曲集は(率直に言って)以前の僕の理解の及ぶところではなかった。が、今このように改めて襟を正して対峙してみても、その巨きさと勁さに圧倒されてしまってやっぱり言葉にならない。

中期ショスタコーヴィチらしく烈しい局面も確かに多くて、そのときは第8交響曲などを聴くときの耳にチューニングすれば済みます。でもこの曲集ではそうした「滑稽と悲惨のステージ」をはるかに通り過ぎて、すでに後ろの番号の弦楽四重奏曲と同じような深淵、光の差さない暗い森が、ゆらっと覘いている。

ニコラーエワの演奏はただ悠然としている。彼女のタッチは急がないし、見得も張らないし、危険なアクロバットもやらない。彼女の演奏からはただ、静かな「音楽の皺」のようなものを感じる。
スコアに潜んでいる深い暗闇にあえて挑んで全部をぶつけるというのではなく、彼女自身に刻まれている「音楽の皺」の谷間の暗がりを、僕たちに聴かせている。老女の昔語りが、時としてものがたりよりも「ものがたり」であるように。

+ + +

1973年生まれのメルニコフの演奏は、どうだろうか。また、全曲を通しで聴いてしまったら、どんな気持ちがするものだろうか。

彼が2008年にとうとう録音してしまったこの曲集の評価や感想は、あえて避けてきた。プレーンな耳で判断したいのだけれど、僕の予想では、メルニコフはショスタコーヴィチの深淵に正面から切り込んでいって、しかもその征服に成功してるんじゃないかという気がしている。明日を待て。
by Sonnenfleck | 2012-02-25 12:12 | パンケーキ(20)

アフカム、アフカム!

ここ12年のショスタコ第10のディスクのなかから、まずは、もっとも若い指揮者が振っている録音を聴いてみたい(過去のライヴも含めてあと4枚くらいあるが―何せ当たり年―、このままシリーズ化できるかは不明)

ダーヴィド・アフカム David Afkham は、1983年フライブルク生まれの指揮者、独印ハーフとのことです。このライヴ録音の時点では26歳か27歳だろう。ロビン・ティチアーティと同い年なので、ドゥダメルとフルシャの2年、インキネンの3年後輩。ハーディング、ネルソンスやネゼ=セガン、ソヒエフ、V. ペトレンコ、K. ペトレンコ、V. ユロフスキといった1970年代組よりもさらに若い。

+ + +

c0060659_22204161.jpg【Orfeo D'or/C797111B】
●リゲティ:《アトモスフェール》
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒ダーヴィド・アフカム/
 グスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団
(2010年8月14日、ザルツブルク・フェルゼンライトシューレ)

タコ10が取り上げられることが増えてきた今、この曲の長くて重い第1楽章に、細かいアクセントやギミックを施していくのがトレンディなやり方だが、このトレンドに正しく乗って、アフカムもこの作品を軽く鋭く組み立てていく。
(※もう何度も書いているが、80年代から90年代の録音ではこの楽章を「とにかくもやっとさせよーぜ/^q^\」ってのがトレンドだったので、まさにタコ10暗黒時代としか言いようがなく、実際に何人かのイギリス人指揮者の録音は本当にひどい。意味もない「意味ありげ」の罪は重いよ。)

第2主題、フルートのアーティキュレーションの彫り込みが深くて嬉しい。ここがぼんやりしていると全曲を聴き通していく気が失せてしまうからね。
また、楽章終結部の茫洋とした風景を、あえてそれまで以上のヴィヴィッドな音色・輪郭のくっきりさを木管に要求して彩っているのもなかなか良いセンスと思う。GMJOの1stファゴット氏がたいへん「語りたがる」名手なのも、この曲であれば全体の完成度に寄与していますよね。

第2楽章は、GMJOが巧すぎて笑う。ユースオケで腕も立つと来たらこの楽章は燃えて燃えて仕方がないだろうし、アフカムもわりと非情なテンポを要求しているんだけど、実際はひょいひょいっと軽く捌いておしまいっ、てのが可笑しい。クラシカルな趣きさえある。第4楽章も同じ傾向。

+ + +

ところでこの録音でもっとも素晴らしいのは、実は第3楽章である。この楽章に頂点を持ってきている演奏は最近の記憶にはない。頂点となる内容を持つ楽章ながら、これまでほとんど誰もそれに気づかなかったということか。

「謎めいた雰囲気」という、この楽章に対する使い古された表現では片付けられない、呪術的な、何かどろっとしたものを、アフカムの曲づくりから僕は感じる。それは打楽器や、弦楽隊のpizzのリズムの取らせ方があまり西洋音楽的ではないからじゃないかという気がするんだよね。ごくごくわずかだけれどもそれらの音符だけが前に繰り上がって、西洋音楽の音価の秩序を多少なりとも侵している。

それでいて中間部では、急に慣れ親しんだソヴィエトの空気に先祖返り。中間部での烈しい揺れ動きと追い込みぶりは、こりゃまるでコンドラシンじゃないか。。
どっちがアフカムの本質だろう。どっちであっても最近の若手指揮者のメインストリームからはちょっと離れている。面白えー。

+ + +

GMJOのアシスタント・コンダクターに就任しているアフカム(GMJOの公式サイトでは音楽監督アバドの隣にちゃんと1コーナー持ってる)。これからどんな音楽をやっていくんだろう。
by Sonnenfleck | 2012-02-23 22:22 | パンケーキ(20)

В магазине

c0060659_16571262.jpg

いっぽう、俺はペリメニを買った。

by Sonnenfleck | 2012-02-19 17:02 | 絵日記

とあるショスタコーヴィチ指揮者への追悼文

2012年1月25日、シベリウスのオーソリティとして名高いフィンランド人指揮者、パーヴォ・ベルグルンドが亡くなった。82歳。ベルグルンドは左手にタクトを持つ数少ない指揮者のひとりとしても有名だった。

新聞記事風に書くと、以上。おしまい。

でもさあ。僕は実はベルグルンドのシベリウスを聴いたことがない(なにしろシベリウスが自分にとって大切な作曲家だと気がついたのがごく最近だ)。タワレコから再発売された3回目のシベリウス全集を慌てて買ったんだけど、僕にとってのベルグルンドはショスタコーヴィチを巧妙に振る20世紀の重要な指揮者、というイメージなので、せっかくならショスタコ指揮者としての切り口から追悼文を書こうと思う。

+ + +

c0060659_23195592.jpg【HMV CLASSICS(EMI)/HMV5738582】
<ショスタコーヴィチ>
●交響曲第9番変ホ長調 op.70
⇒マリス・ヤンソンス/
 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

●交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒パーヴォ・ベルグルンド/
 ボーンマス交響楽団

本当は、2001年5月にベルグルンドがベルリン・フィルに客演した際の第8交響曲が物凄いライヴなのだが、NHK-FMを録音したMDがいまは手元にないので、代わりにCDの第10交響曲について書きましょう。
(※ジャケ絵は小さくて見にくいですが、セルゲイ・プリセキンの "All power to the Soviets"(1988)という作品>ソヴィエトに勇気を!か。くすくす。ラファエロ《アテネの学堂》の完璧なパロディだが、プラトン+アリストテレスとは異なり、中央のレーニンとスターリンは全然対話してない。)

ベルグルンドが振るショスタコーヴィチは実に冷たく醒めきっていて、そのうえで、楽器バランスの取り方がどことなく変だ。
親しみ深いコンドラシンやロジェストヴェンスキーのようなソヴィエト流でも、ハイティンクやプレヴィンのようにシンフォニックなアプローチでもない、どうにも聴き慣れない清涼なバランスでトゥッティが鳴る。

この「変な」バランスは、大きく盛り上がる局面より、静謐な瞬間をこそ聴かせようというベルグルンドの考えに立脚しているような気がしている。

第1楽章の静かな場面なんか弦楽器のコントロールが本当に精緻だし、管楽器もオルガンみたいに鳴って、ショスタコーヴィチがまるでカンチェリのように聴こえるという逆流が発生してるんだよね。
しかもその後、響きが爆発してもコントロールが失われないのが巧妙です。客観的な緊張感が全体を覆うことになるので、この楽章終盤の静かで空虚なワルツもすっかり性格性を喪って、風がびょうびょうと吹きすさぶ夕方の荒野のような雰囲気。

第2楽章の清浄な緊張感はまったく不思議。第3楽章はモーツァルトみたい。

+ + +

この交響曲は、21世紀に入ってからますます若手指揮者の興味を強く喚起し続けているが、彼らの演奏からは、俺を刻印したい、という欲求が強く臭いすぎて辛いときもある。無為無策の「ふいんき」重視タコは最悪だが、一方で、ベルグルンドの遺した「静かな」録音から彼らが学ぶべきことはあまりにも多い。

R.I.P.
by Sonnenfleck | 2012-02-15 23:26 | パンケーキ(20)

ベルトラン・ド・ビリー/N響 第1721回定期@NHKホール(2/11)

僕はこのコンサートにイザベル・ファウストを聴きに行ったはずなのだが、気がついたらベルトラン・ド・ビリーのファンになっていた。おそろしい。

+ + +
c0060659_1042717.jpg

【2012年2月11日(土) 18:00~ NHKホール】
●ドビュッシー:《牧神の午後への前奏曲》
●プロコフィエフ:Vn協奏曲第1番ニ長調 op.19
 ○バッハ:無伴奏Vnソナタ第3番ハ長調 BWV1005~ラルゴ
→イザベル・ファウスト(Vn)
●シューベルト:交響曲第8番ハ長調 D944
⇒ベルトラン・ド・ビリー/NHK交響楽団


僕の心をぐっと掴んだのは、ド・ビリーのきわめて安定して高品質な音楽的センス(なかんずくテンポと木管バランスに関する感覚)と、それを生かしていろいろな様式を巧みに捌いてしまう彼の職人技なのである。この指揮者がヨーロッパのあちこちで引っ張りだこな理由がやっとわかったということだ。

昨日の多くの聴衆はもしかしたらド・ビリーを「特徴がない」とか「何でも屋」と捉えたかもしれないが、本当の指揮のプロはああいう音楽を作るということを忘れちゃいけない。鬼才に異才、奇演に凄演、そんな音楽ばかりでは、僕は厭なのだ。

まことに勝手な想定だが、僕がドイツとかベルギーに住んでいるつましい商売人とか小役人だったら、余裕があるわけではない家計からお金を捻り出してでも、ド・ビリーのような指揮者が監督をやっているオケの会員になるし、自分の子どもにはド・ビリーのような音楽を日常的に聴いて育ってほしいと思うだろう。
そういうことです。

+ + +

最初のドビュッシーから、木管のバランスの良好さに驚いた。N響ソロ管のなかで僕がもっとも信頼し尊敬しているのが神田さんのフルートなのだが、彼による導入から木管の緩やかなマーブル模様が拡がり、たいへん美しい。
それと同時に、風呂敷を広げすぎない「小体の美学」とも言うべきド・ビリーの手堅さに、感興がぶくぶくと湧くのであります。

プロコフィエフは、ホールが広すぎていかにもファウストの音が遠い。昨年の新日フィルとのブリテンほどには心に響かなかったのが無念。それでも第1楽章の澄み切ったフラジョレットや、甲虫のように光るスル・ポンティチェロ、第3楽章の夢幻的空間の出現など、いくつかのポイントはしっかりと感じ取れた。しかしもっと小さいホールで聴きたい。決定的に。
さてここでも、ド・ビリーの底堅いセンスがよくわかる。あくまで軽やかに。

後半のグレートは名演だったと言わざるを得ない。

フルトヴェングラーのグレートや、チェリビダッケのグレート、そういうどろどろしたシューベルトがお好みの方の琴線には全く触れないだろうが、明るい青空にクリスプなクラング塊がぷかぷかと浮いているような横方向のつくりは、20世紀浪漫でも、20世紀古楽でもない、独特の(あるいは1950年代のカラヤンにうり二つの!)センスに基づいている模様。
なるほどこれなら「小体なグレート」が実現される。第3楽章のトリオが極上な此岸的美しさを湛えているのも好いし、第4楽章のコーダで品の良いアッチェレランドをちゃんとかましてくれるのも花丸。ピリオドにあえなく呑み込まれてしまったと思われていたノイエザッハリヒカイトの正統的嫡流、なんて書いたら大げさだろうか? いやいや、ぜんぜん大げさじゃねーだろ。

このスタイルはノリントンの64倍くらい新鮮。そして256倍くらい上質。始めに話を戻すと、要は、僕はこのひとにN響の監督になってほしいっつーことです。
by Sonnenfleck | 2012-02-12 11:41 | 演奏会聴き語り

リリカルテクノマシン

プロコ第5交響曲の最終楽章の、テクノアレンジ(初音ミク入り)を発見した。しかもちゃんと全曲。予想をはるかに上回る「しっくり」感にぎょっとしています。

機械的残酷と抒情の分裂というプロコフィエフの本質、その一部をこのクリップは確実に捉えている(ミクが何を歌っているか聴き取れないのも、フトゥリズムって感じでいーぜ)。プロコフィエフが1891年のロシア帝国ではなく1991年の日本国に生まれていたら、初音ミクを自在に操るニコ動の人気Pになっていたかもしれない。


これを聴きながら高速をすっ飛ばしたいが、確実に事故りそう。
この作者さんはほかに、第6交響曲第1楽章のテクノアレンジや、スキタイ組曲のプログレアレンジなどもUPしているが、いずれも素敵です。
by Sonnenfleck | 2012-02-07 22:51 | 広大な海

さようならワイセンベルク

ワイセンベルクも亡くなっている。
僕は彼の熱心なファンではないどころか、僕と彼の間に在ったのはたった一枚のアルバムでしかない。しかしその一枚が僕のなかで絶対的な位置を保っているわけだから、ワイセンベルクについて何も書かないなんて許されないよ。

+ + +

c0060659_238502.jpg【DGG/POCG7097】<ドビュッシー>
●版画
●組み合わされたアルペジオ
●ベルガマスク組曲
●子供の領分
●亜麻色の髪の乙女
●喜びの島
●レントより遅く
⇒アレクシス・ワイセンベルク(Pf)

その一枚というのは、ワイセンベルクが1985年にDGへ録音したドビュッシー作品集です。
このアルバムは、僕のクラ歴のごく初期に、父親のライブラリからほとんど無理やり譲ってもらったものであると同時に、僕が初めて聴き込んだドビュッシーのピアノ作品集でもある。
刷り込みというのは恐ろしいもので、以来ミケランジェリもフランソワもクロスリーも、ワイセンベルクのように心に響くことがない。唯一モニク・アースが別のドアから優しく入り込んできたが、このことからしてもよくわかるのは、ワイセンベルクのドビュッシーがフォルムの強靭さ、しなやかさではなく硬度の点で、他のピアニストの追随を許さないのだろうということだ。

ケークウォークのクソ真面目なエッジ、きりりと冷えた金属線が交錯し林立する喜びの島。ここに萌える。これはドビュッシーの聴き方として間違ってるだろうか。間違ってるかもしれない。でもいいんだ。いつまでも、このアルバムで僕はワイセンベルクのことを覚えているだろう。
by Sonnenfleck | 2012-02-04 23:15 | パンケーキ(20)

猛毒レハールでノスタルジック退行

何度か書いているが、この数年、明るく美しくちょっと哀しい旋律に奇妙に惹かれる。ヨハン・シュトラウスやレハール、コルンゴルト、ワイルにコール・ポーターまで、昔は大して興味がなかった作曲家たちに心を揺すぶられてたまらない。

+ + +

c0060659_22441774.jpg【DGG/00289 479 0050】
<LIVE AUS DER SEMPEROPER - The Lehár Gala from Dresden>
●《ジュディッタ》~ワルツ
●《ジュディッタ》第1幕~〈Freunde, das Leben ist lebenswert〉
●《パガニーニ》第2幕~〈Liebe, du Himmel auf Erden〉
●《ルクセンブルク伯爵》~間奏曲
●《フリーデリケ》第1幕~〈Die Mädels sind nur zum Küssen da〉
●《微笑みの国》第2幕~〈Wer hat die Liebe uns ins Herz gesenkt〉
●《野ばら》
●《パガニーニ》第3幕~〈Wer will heut Nacht mein Liebster sein〉
●《パガニーニ》第2幕~〈Gern hab' ich die Frau'n geküsst〉
●《パガニーニ》第2幕~〈Niemand liebt Dich so wie ich〉
●《理想の夫》序曲
●《エヴァ》第1幕~〈Wär es auch nichts als ein Augenblick〉
●《ロシアの皇太子》第3幕~〈Warum hat jeder Frühling, ach nur einen Mai〉
●《ジプシーの恋》第2幕~〈Zigeuner-Marsch: Endlich, Jószi, bist du hier〉
●《ジプシーの祭り》~バレエのシーン
●《微笑みの国》第2幕~〈Dein ist mein ganzes Herz〉
●《この世は美しい》第3幕~〈Ich bin verliebt〉
●ヨハン・シュトラウス:《10人のポルカ》op.121
●オスカー・シュトラウス:《Eine Frau, die weiss was sie will》~
  〈Warum soll eine Frau kein Verhältnis haben?〉

→アンゲラ・デノケ(S)、アナ・マリア・ラビン(S)
 ピョートル・ベチャーラ(ベチャラ)(T)
→ドレスデン国立歌劇場合唱団
→クリスティアン・ティーレマン/ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

このCDはタワレコで視聴して、一発で購入を決めた一枚である。

それにしても、このブログにティーレマンが登場するとはね!!
ティーレマンはセルフブランディングが本当に巧い。最近彼がVPOを振って出したベートーヴェンなどは、店頭で掛かっているのを聴いて「オエーッ」って感じであるが(お好きな人、ごめんなさいね)、かつてのバレンボイム以上の上手な手腕で、ますます保守層を味方に付けていく。

ティーレマンの大時代的で粘度の高い音楽づくり、混濁を気にしない強烈な主旋律重視、メロディ原理主義は、レハールを当然のように燦然と輝かせる。シュターツカペレ・ドレスデンを豊満に、また傲然と鳴らして素敵だ。Ah, Heil Christian!!

…はっ。毒にやられてる。

でも、そのような叫びが身体から湧き上がってきてしまうのだ。
ティーレマンが振りまく毒エロの頂点は、トラック6《微笑みの国》からの二重唱、そして続く《野ばら》かなと思う。ベチャーラとデノケのデュオは金襴緞子の趣き。甘みのある液体がぽた、ぽた、と滴り落ちるような、何とも言い表せないエロい音楽をさんざん聴かされてはこらえきれません。このようにしてあたしもティーレマンを翼賛することができて光栄でございます。

ことほど左様にレハールも佳いんだけど、最後の、たぶんアンコールで取り上げられたオスカー・シュトラウスも物凄いです。とても2011年の今とは思えない。1930年代のウィーンはこのような猛毒に満ちていたのであろう。
by Sonnenfleck | 2012-02-01 22:46 | パンケーキ(20)