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アルミンク/新日フィル 第495回定期演奏会@サントリー(5/25)

c0060659_20562324.jpg【2012年5月25日(金) 19:15~ サントリーホール】
●エスケシュ:Vn協奏曲(2009)※日本初演
 ○同:《nun komm》
→ダヴィド・グリマル(Vn)
●ブラームス:交響曲第4番ホ短調 op.98
⇒クリスティアン・アルミンク/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


今をときめく、とされているコンポーザー・オルガニスト、ティエリー・エスケシュのVn協奏曲を初演コンビで、ということなら期待はいやが上にも高まらん。
さあれども勝敗は…。
東前頭筆頭バルトーク、西前頭三枚目シュニトケ、呼び出しはマルティヌー、行司はブリテン、正面審判長はショスタコーヴィチ、東のバルトークが諸差しでシュニトケを寄り切り、千秋楽に勝ち越しを決めました、といったふう。

60年くらい前の音楽と紹介されても、それほどの違和感はない。極めて保守的かつ適 度 に 良くできた音楽で、バルトークやショスタコのVn協奏曲第3番を求めていた向きにはめっけもんかもしれませんね。
勝手に熱狂的革新的かっこいいコンチェルトを期待していた僕は、細切れに過ぎて痙攣的なリズムや、既聴感が拭えない楽想にがっかり。バルトークによく似た1.5級品ならバルトークを聴きます。

アンコールのnun kommという無伴奏曲のほうが、20世紀音楽のイミテーションとしてはずっと高級だった。より凝縮してる。ソロVnのグリマルはカントロフを図太くしたような音で、かなり好みでありましたが。

+ + +

さて音楽監督アルミンクはプレトークのなかで「エスケシュのVn協奏曲は安心感が反対要素によって打ち消される場面ばかりだが、最後はパッサカリアのテーマが安心感をもたらす」みたいなことを言っていたが、この晩のブラ4がもたらしたものは何だったか。

少し辛めに書く。
つまるところアルミンクは安心しきって棒を振っていた(何しろエスケシュを振るのは指揮者にとっては「悪夢」だそうだから)。オケも安心して自分たちが知っているブラ4を自分たちが知っているやり方で演奏していた。

別に僕は、珍演奇演至上主義者ではない。でも、新奇でないならもっとディテールの詰めを緊くしなければ、今ブラームスを演奏する意味ってあるのかな。それが指揮者と演奏者の「安心」や「満足」に繋がってるってんなら僕は何も言わずに立ち去るけど、それならアマオケと変わらない。パッサカリア縛りで意欲的なプログラムだぜ!って叫ぶ前に、やるべきことがたくさんあったような気がするのだ。

アルミンクは、第1楽章を同質なメゾフォルテの果てしない連続体として示した。あの第2楽章を少年の幼い妄想みたいな音楽に導いたし、第4楽章をぎゃんぎゃん鳴り響く何か別のものに変えた(オケもけっこう責任が重い)。第3楽章だけはリズムの角がよくきまり、サイダーのようにこざっぱりして好かったけれども、よく練られたうえでの回答なのかどうかはわからなかった。この演奏会に関するレヴューは比較的好意的なものが多いようだが、僕はそうは感じなかった。

ああアルミンク。僕はあなたをこれまで珍曲でしか聴いてこなかったが、それでも負うた恩は多い。現時点での、ブラームスにおける、そうした予防線を「限界」というワードに張りたい。そういう気持ち。
by Sonnenfleck | 2012-05-30 21:00 | 演奏会聴き語り

さようなら吉田秀和

【訃報】吉田秀和水戸芸術館館長 逝去のお知らせ(水戸芸術館/2012年5月27日)
音楽評論家の吉田秀和さん死去(NHK/2012年5月27日)
文化勲章受章の音楽評論家、吉田秀和さん死去(読売新聞/2012年5月27日)
吉田秀和氏死去=音楽評論家、文化勲章(時事通信/2012年5月27日)
音楽評論家の吉田秀和さん死去 98歳(朝日新聞/2012年5月27日)
吉田秀和氏が死去 音楽評論家(47NEWS/2012年5月27日)
訃報:吉田秀和さん98歳=音楽評論家、文化勲章受章者(毎日新聞/2012年5月27日)
小澤征爾氏 吉田秀和さんの死を悼む「今の自分はなかった 恩人中の恩人」(スポニチアネックス/2012年5月27日)
吉田秀和氏が死去 音楽評論家(日本経済新聞/2012年5月27日)

+ + +

Wir sind durch Not und Freude
gegangen Hand in Hand;
Vom Wandern ruhen wir
nun überm stillen Land.

Rings sich die Täler neigen,
Es dunkelt schon die Luft,
zwei Lerchen nur noch steigen
nachträumend in den Duft.

Tritt her, und laß sie schwirren,
bald ist es Schlafenszeit,
daß wir uns nicht verirren
In dieser Einsamkeit.

O weiter, stiller Friede!
So tief im Abendrot.
Wie sind wir wandermüde
Ist dies etwa der Tod?


–Josef von Eichendorff, “Im Abendrot” (1841)

 では、改めて、こう問いただしてみよう。なぜ死への憧れを歌う音楽がかくも美しくありうるのか? 美しくなければならないのか?
 なぜならば、これが音楽だからである。死を目前にしても、音楽を創る人たちとは、死に至るまで、物狂わしいまでに美に憑かれた存在なのである。そうして、美は目標ではなく、副産物にほかならないのである。彼らは生き、働き、そうして死んだ。そのあとに「美」が残った。


–吉田秀和『永遠の故郷―夜』「四つの最後の歌」(2006) より

+ + +

この、音楽を語る人も、物狂わしいまでに美に憑かれた存在であったものと思う。そして僕たちは、ここにも一つの「美」が残ったことを知っている。
R.I.P.
by Sonnenfleck | 2012-05-27 10:51 | 日記

on the air:ブリュッヘン、5分間だけドビュッシーを振る@ユトレヒト(3/16)

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【2012年3月16日(金) 20:15~ ユトレヒト・フレーデンブルフ音楽センター】
●ドビュッシー/ラヴェル:《ピアノのために》~サラバンド
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→アンドレアス・シュタイアー(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60
⇒フランス・ブリュッヘン/オランダ放送室内フィルハーモニー
(2012年3月27日/Nederland Radio 4 オンデマンド)


150年に一度の快挙である。ブリュッヘンの振るドビュッシー(というかラヴェルというか)がどーーーうしても聴きたくて、つまりこのたかだか5分程度の音楽を楽しみにして、オランダ国営放送のサイトにアクセスしたのだった。

+ + +

今回取り上げられたのはドビュッシーのサラバンド、つまり4月1日の東京春祭ドビュッシーマラソンでも聴いた、あの曲である。あのとき藤井一興氏が言っていたけど、《忘れられた映像》のサラバンドと《ピアノのために》のサラバンドは、ほぼ同じ曲でありながら微妙に#や♭の有無が異なってるそうだ。もちろんラヴェルが知り得たのは《ピアノのために》のほうだから、編曲したのはそちらだろう。

で、たしかにフォルムは古い舞曲なれども、旋律は明確にドビュッシー、管弦楽法は明白にラヴェルである。フレージングはどことなくぎくしゃくしながら、マチエールは聴き間違えようのない濃厚なブリュッヘン節であった。彫りは深く、打点は重く、陰翳も濃い、昔ながらの彼の剛胆な音楽づくりが、ドビュッシーについてこのような方向に働くとはね。

歌い出しから古色蒼然とした音色がオーケストラに(特に木管隊には厳しく)要求されているようだ。古楽のひとがモダンオケを振って19世紀末の懐古趣味音楽をやってるんだから、状況は相当に捩れまくっているわけだが、何かストンと落ちてしまって違和感ゼロだな。最後に銅鑼がくぉーん…と鳴るまで魔法のような5分間。

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こっから先はおまけのようなものですが、モーツァルトはシュタイアーが借り猫のように大人しくてちょっと拍子抜け。というかブリュッヘンとシュタイアーの方向性があんまり違わないのかもしれない。少なくとも反発し合うという感じではない。第2楽章の終結部でも合体技・黒々とした不穏が垣間見えた。

ベト4はなんというか、かなり自由な造形になってきてます77歳。
by Sonnenfleck | 2012-05-24 22:04 | on the air

日有蝕之

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by Sonnenfleck | 2012-05-21 22:38 | 絵日記

さようならフィッシャー=ディースカウ

"Jahrhundertsänger" Dietrich Fischer-Dieskau ist tot(SPIEGEL ONLINE/2012年5月18日)

この大音楽家は、このブログを覗きに来ていただける皆さんにとってきっとそうであったのと同じように、僕にとっても大切な存在だった。

僕が初めて聴いたクラシック音楽はフィッシャー=ディースカウが歌うシューベルトのリートだったし、墓場まで持っていく予定の人生の愛聴盤の中で、フィッシャー=ディースカウは朗々とパパゲーノを歌っている。今夜も銀色の円盤をトレイに乗せれば、歌っている。

R.I.P.
by Sonnenfleck | 2012-05-18 21:46 | 日記

イーヴォ・ポゴレリチ リサイタル@サントリーホール(5/9)

みな人は、今のポゴレリチをオカルト→宗教→信者乙と捉えるが、本当にそうか?現状を真摯に聴いてなおそのように思うなら、もう何も言えないが、誰かの批評を読んで聴いたつもりになるのはもったいない。それこそオカルトではないか。

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c0060659_626124.jpg【2012年5月9日(水) 19:00~ サントリーホール】
●ショパン:Pfソナタ第2番変ロ短調 op.35《葬送》
●リスト:《メフィスト・ワルツ》第1番
●ショパン:ノクターン ハ短調 op.48-1
●リスト:Pfソナタ ロ短調

⇒イーヴォ・ポゴレリチ(Pf)


2010年のリサイタルがどうも忘れがたい印象を残しているので、また聴きに行った。今度はP席1列目という栄誉に浴したが、ステージは暗い。

僕にはやはり、この人のやっていることが真っ当な藝術行為に思えてならない。

ピアノ弾き系クラヲタからすると、おそらく彼の演奏実践は禁忌と違反だらけで、とてもじゃないが藝術とは認めがたいのだろうと思う。それはなんとなくわかる。でも非ピアノ系クラヲタである僕の耳には、彼の音楽はピアノであることを放棄する代わり、オーケストラや合唱のような「交響」を強く志向しているように感じられたんだよね(今回は特に)
僕たちは、瞬間々々に鳴る音の質そのものや、彼自身の審美に基づいてコントロールされた音価そのものを、シンプルに聴き味わうべきなんじゃないかな。自分の知っている、あるいは弾いたことのある曲が、自分の知らないやり方で実践されていたから厭だ変だ嫌いだ、と反応するのはもったいない。みんなももったいないおばけが出んようにしとるかの。

そのように考えることができるのも、2010年来日時に比べるとある程度は、彼の音楽における「交響の公共性」みたいなものが安定していたからなんだけど、何よりも彼自身が、彼の内面との整合性を取ることに配慮が届くようになったのが大きいように思う。前回の究極の自閉的独り言から、今回は客席にカボチャが並んでいることを認識するくらいまでは、発展があったようだ。開場も開演も遅れなかったしね。

ショパンの《葬送》は予想よりずっとフツー。
覚悟していた第3楽章は、軽々とした主題の歩みにトリオが多少しっとり絡みつく程度である。むしろ今回のポゴレリチにおいては、第1楽章のほうに重心が掛かっているのがありありとわかり、興味深い。この世への憎しみを打鍵によって表現するような大仰なタッチは、別に、この作品のフォルムを壊したりしないみたいだった。案外ショパンという男の本質を抉っているのかもしれない。

リスト《メフィスト・ワルツ》第1番。これは前回も聴いた曲。
中間部(un poco meno mosso)に差し掛かってからの、アスファルトに滲んだのような美しさは今回も味わえた。ガソリンで拙ければ、永遠に終わらないトリスタンとイゾルデの愛の夜とでも言い換えようか。どちらも(相似通っていると僕は思うが)そこに美を観測するかどうかは聴き手次第だろう。トリスタンとイゾルデだけが藝術だと思い込むのは(繰り返すが)もったいない。

+ + +

ただし、上記が、前半だけを聴いて帰った聴衆の感想文だということに触れないのはフェアじゃないので、書いときます。
GW明けから風邪を引き、前日に熱を出していたのを抗生物質で無理やり鎮めて出勤、一日フラフラしながら仕事をした後だったので、メフィスト・ワルツを聴いている途中から頭痛が酷くなり、休憩時間に離脱したのだった。

各所のレヴューを読むと、プログラム最後のリストのロ短調ソナタが「とんでもなくひどく」「悪趣味」だったということだけど、前半の2曲のような「交響の公共性」は保たれていたのだろうか。こればかりは想像すべくもない。

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開演間際に、ホール入り口の主催者窓口に向かって「俺あさって六ヶ所村行きますよ(るん♪)」とおしゃべりされてる許先生を見た。とても趣深い光景である。彼の著作活動の一次資料というか、幻の歌枕というか…。
by Sonnenfleck | 2012-05-16 06:26 | 演奏会聴き語り

Hvor ligger Københavns Hovedbanegård?


↑Flash mob in the Copenhagen Metro. Copenhagen Phil playing Peer Gynt.

とてもすてき。みんなの表情が良くって、何度も見返しちゃう。
もう1パターンあるので(そっちも好きだ)オケの公式サイトへどうぞ。

by Sonnenfleck | 2012-05-13 18:37 | 広大な海

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ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上のハハッ!星の輝きと我が心の内なる道徳律!ハハッ!

by Sonnenfleck | 2012-05-10 23:21 | 絵日記

熱狂の復習―5月3日(木)その2|ラフマニノフ→チャイコフスキー→ラフマニノフ

c0060659_19584816.jpgその1から続く。

【125】5/3 1800-1900 ホールB7〈チェーホフ〉
●ラフマニノフ:《楽興の時》op.16
●チャイコフスキー:Pf組曲《くるみ割り人形》
●ラフマニノフ:Pfソナタ第2番変ロ短調 op.36
⇒アレクセイ・ヴォロディン(Pf)


今回の大収穫。この人は、すぐにラフォルジュルネでは聴けなくなるようなクラスのピアニストじゃないかと思う。
最近のラフマニノフ運の強さは異常なほどである。昨秋に聴いたテミルカーノフの第2交響曲も最強だったが、ヴォロディン氏の楽興の時+第2ソナタも最強だった。

実は最近、クラヲタ歴10数年目にしてついに、ショパンとリストとラフマニノフの偉大さに気づきつつある。

つまるところ彼らは、どこまで行っても哀れで、汗臭く、夢見がちな男の浪漫を音楽にして残しただけなんだろうな(リストは少し違うかもしれんが…)。こんな簡単なことに思い至るのに、10年以上も掛かってしまった。
語弊を恐れずに書くが、男臭い浪漫に惹かれる女性ファンが多いのは非常に理解できるところだし、それに昭和のヒョーロンカとヒョーロンカに引き摺られている僕たちヲタ層が、コンプレックスと十分に融け合って切り離せないアンチ浪漫主義に基づいて、ショパンやラフマニノフを(たとえばバッハやベートーヴェンに比べて)なんとなく一段下に見てきたのも自明という気がする。

+ + +

1977年生まれのヴォロディンは、タチアナ・ゼリクマンとエリソ・ヴィルサラーゼに師事したロシアン・スクールの正統的逸材として名高い(ようである)。

でもそんな能書きは、ラフマニノフを聴けばすぐにぶっ飛ぶ。彼のラフマニノフは、上に書いたような男臭い甘みと、自己陶酔的苦みが渾然と融合したアダルトなスイーツのよう仕立てて、僕たち聴衆を一気に虜にした。口に入れるとすぐに溶けるが、甘みと苦みがずっと舌の奥に残る。隣席の女性はあまりの感激に苦しそうにして耳を傾けていたし、となりのおっさんも感極まってブラヴォを飛ばしていた。

チャイコフスキーは箸休め程度に考えていた僕に、ヴォロディンはさらにいろいろなことを示す。
この人は指がたいへんよく回るので、まずタッチの粒立ちの美しさが比類ないレベルである。でもそれだけじゃなくて、ピアノからピアノ以外の響きを錬成する技術にも長けているんだなあ。
序曲の金管、金平糖のチェレスタ、パ・ド・ドゥ(アンダンテ・マエストーソ)のハープとチェロ、そうした楽器の響きをちゃんと想起させながら、なおかつピアノの音それ自体としても美しいという一回転が起こっていたのだった。ピアノ弾き系クラヲタにとってはどうでもいいことかもしれないけど、非ピアノ弾き系クラヲタにはかなり大切な事象なんである。

そして最後のラフマ第2ソナタ!
この巨大なソナタの胸苦しい第2楽章を聴きながら確信する。ああ、自分にとってはラフマニノフがなくてはならない存在になりかかっているんだと。少し前なら考えられなかったようなことが自分の中で起きている。
ヴォロディンはときに傲然と、ときに傷つきやすく、つまりはきわめて男臭くこのソナタを捌いていく。しかし野暮ったさや鈍重さとはいっさい無縁で、楽興の時やくるみとは少し違う種類のダンディズムが漂う。アタッカで第3楽章に侵入する第1撃の輝かしさに、フィナーレの怒濤のフォルティシモに、これまた帝政ロシアの復活を思わずにはおれない。

最後の和音が鳴り終わらぬうちに、どうしてもとどめきれない拍手が雪崩れ込む。僭越ながら、僕もブラヴォを飛ばさせていただいた。彼、1月にオペラシティでリサイタルやってたんだなあ。行きたかったなあ。
この後、展示ホール「ディヤギレフ」でヴォロディンのショパン集を買う。

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その3へ続く。
by Sonnenfleck | 2012-05-06 20:49 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月3日(木)その1|アレンスキー→シュニトケ→ペルト

c0060659_106449.jpg【133】5/3 1500-1545 ホールB5〈ツルゲーネフ〉
●アレンスキー:Pf五重奏曲ニ長調 op.51
●シュニトケ:Pf五重奏曲 op.108
⇒ボリス・ベレゾフスキー(Pf)
 スヴャトスラフ・モロズ(Vn)
 ミシェル・グートマン(Vn)
 エリーナ・パク(Va)
 アンリ・ドマルケット(Vc)


水も漏らさぬ、というアンサンブルではなかった。アレンスキーもシュニトケも、音程の定まらないところやユニゾンが破綻している箇所はいくつもあった。水はダダ漏れである。でも、湛えている水の性質が佳い。それが大事だ。

アレンスキーは第2楽章が印象深い。この楽章は変奏曲形式なんだけど、変奏していく主題の独特の高貴さは、音程やアンサンブルのメカが整っていることを必ずしも必要としてない。LFJ大好き熊さん・ベレゾフスキーをついにライヴで聴いたけど、この人も精緻さではなくムードの追求に余念がない。すなわちこの作品によく合う。

シュニトケはもう少し難物だけど、ショスタコムードの忠実な実践であるから、ソヴィエト臭い荒々しさで乗りきることもできる。特に第3楽章アンダンテから第5楽章パストラーレにかけて、たいへん荒涼として素晴らしい演奏が続いた。

【134】5/3 1645-1730 ホールB5〈ツルゲーネフ〉
●キリルス・クレーク Cyrillus Kreek:晩祷、首誦聖詠(詩篇104)
●作曲者不明:讃歌《沈黙の光》(ズナメヌィ聖歌)
●ペルト:《カノン・ポカヤネン》
~オードI, III, IV、コンタキオン、イコス、カノンの後の祈り
 ○アンコール メロディアスな何か
⇒ヤーン=エイク・トゥルヴェ/ヴォックス・クラマンティス


ECMからディスクをリリースしているオサレ系合唱団のみなさん。考えてみれば、メジャーレーベルから録音が出てるような合唱団を、合唱団だけのライヴで聴くのはこれが初めての体験かもしれない。
最初のクレークは1889年に生まれて1962年まで生きたエストニアの作曲家。いみじくメロディアス。次の単旋律聖歌(ズナメヌィ聖歌)との対比をなす。

しかし背筋が粟立ったのは、やはりペルトの《カノン・ポカヤネン(痛悔のカノン)》である。いちおうは4声合唱のために書かれているようなんだけど、声部内でも微妙にディヴィジが起こってるように僕には聴こえた。10数名のヴォックス・クラマンティスのメンバーがそれぞれ細かく分かれた声部を担当することで、物凄い不協和音の音波が押し寄せてくる。ドラッグを用いるとこういう感覚に陥るのかなあ。


↑参考:《カノン・ポカヤネン》からオードIV。

ま、ホールB5はまったく残響のない直方体なので、ちゃんと豊かな残響のあるホールで聴いてみたかったというのも本音。あれだけ乾いた空間でちゃんと合唱を聴かせる彼らこそ讃えらるべき。5/5勅使河原三郎の舞踏付きというのも面白げ。

この回のお客さんは、これまでの自分LFJ史上もっとも静かな人びとであった。みんな固唾を呑んで聴いていた。小さく携帯が鳴っても集中力が途切れない。

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雨がだらしなく降り続いている。寒くはないが陰鬱な心地。これも露西亜。その2へ続く。
by Sonnenfleck | 2012-05-04 14:09 | 演奏会聴き語り