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宿命的に巡り会うボーカロイドとシュニトケ

ボーカロイドを駆使したニコニコ動画のクラシック音楽シーンは面白いのが平気で転がってるので、まったく油断も隙もない。


何重にも美的に面白くて悶絶しちゃうよ。
・シュニトケのヴァイオリン・ソナタ第1番(1963)を
・ボーカロイド(「巡音ルカ」(2009))に歌わせて
・1分30秒過ぎにたいへん印象深くBACH主題(1740s)が出てきて
・かつ8bit風デチューン(1980s)を華麗に施して
・背景映像は奇しくもロトチェンコ風(1920s)
この作者さんは、アダムズの《中国の門》をアンビエント風に仕立て直したり、プーランクの《フランス組曲》リゲティの木管五重奏バガテルを8bitデチューンしたり、僕の好みの真ん中にぶち当たるので困っちゃいます。
by Sonnenfleck | 2012-06-28 22:29 | 広大な海

DJトリスターノのスカルラッティアーナ@ヤマハホール(6/22)

c0060659_21341637.jpg【2012年6月22日(金)19:00~ ヤマハホール】
●ベリオ:《セクエンツァIV》
●フレスコバルディ:トッカータ第4番、第9番、第8番(第2集より)、トッカータ第8番、第1番、第11番、第12番(第1集より)
●フランチェスコーニ:マンボ(1987)
●トリスターノ:マンボ(2010)*
●同:トリスターノ:Nach Wasser noch Erde(2008)*
●メッシーナ:Radio hat music (2012世界初演)*
●武満徹:《フォー・アウェイ》
●フレスコバルディ/メッシーナ(リミックス):トッカータ第8番(第2集より)*
●スカルラッティ:ソナタト短調 K450、同ト長調 K13、同ニ短調 K141、同ニ短調 K32
●トリスターノ:Franciscana(2012世界初演)*
 ○トリスターノ:Eastern Market *
*ピアノ&エレクトロニクスが使用された作品
⇒フランチェスコ・トリスターノ(Pf)


予想外に仕事が早く片づきwebぶらあぼを覗いていると、当夜の東京がイタリア音楽の特異日だということに気づく。

サントリーではゼッダ/東フィルのケルビーニ→ベリオ→メンデルスゾーン《イタリア》。紀尾井ではブルネロ/KSTのイタリアプロ(レスピーギ、マリピエロ、、)。そしてヤマハホールでは、フランチェスコ・トリスターノのベリオ→フレスコバルディ→自作そのほかという布陣。サントリーと紀尾井はレヴューが多そうだし、もっとも成り行きが読めない第三の道を選択するのはヲタの性である。

局所的に激しく話題を博すコンポーザー・ピアニスト、1981年ルクセンブルク生まれのフランチェスコ・トリスターノを体験してみたいという気持ちも働く。何なのだ彼は。グールドなのかグルダなのか。

+ + +

まず「真っ当な」レパートリーから。
彼がおこなったベリオ《セクエンツァIV》とフレスコバルディのトッカータの連続は、非凡な巧妙さで僕らを化かした。
持続する和音の上に音型が盛り付けてあるという意味では、ベリオとフレスコバルディ(のいくつかの作品)にはほとんど差がない。それを示すためにトリスターノは、YAMAHA製モダンピアノの性能を十分に発揮して、フレスコバルディの和音をきわめて芳醇に引き伸ばす。そうすると、演奏がベリオからフレスコバルディに進んでも、持続する味噌汁の具材が豆腐からなめこに変化したくらいの様相しか呈さないんである。面白いね。

フレスコバルディの譜面に書き添えてある「反復、省略、装飾、即興することは自由」という但し書きを拡大解釈したのが、ジャスティン・メッシーナ Justin Messina(1981- )のリミックスver.トッカータ。
ガタイのいいにーちゃんが電車の中で聞いてるようなHIPHOP風の低音打撃の上に、かそけきフレスコバルディが分解されて浮遊する。後述するトリスターノの自作に比べるとまだ十分にセンスがあって、僕ぁコンポーザーとピアニストが分離した現状を祝うしかない。

スカルラッティ。彼のスカルラッティ撰集が出たら買ってもいいなあと思わす、才気と軽妙が渾然とした演奏でした。ときどきベートーヴェンが挨拶しに来るのも愉快で、ホロヴィッツ流スカルラッティの10年代ナンバリング新作、といったふう。

武満も悪くない。梅雨のごときじっとりとしたタッチ。

+ + +

んで問題は、DJトリスターノの自作なんだよねえ。
後半になってピアノ左手側にキーボードが、譜面代の上にはミキサーとノートPCが登場し、エレクトロニック・パフォーマンスが加わる。見栄えはちょっと格好良さげ。

ところが最初に並んでた2曲、これが本当に噴飯ものの偽フィリップ・グラスみたいなしょーもない音楽で、ショボい効果音の特盛には相当がっくり。メロディも陳腐、ミキシングも陳腐、陶酔する姿も陳腐ときたら目も当てられない。
しかしスカルラッティからシームレスに突入した自作は、スカルラッティのエッセンスをしっかり取り込んだ舞曲風の佳品。これはなかなか素敵だった。

そんな好印象を最後に思いっきり踏みにじってくれたのが、アンコールで取り上げられた1曲。今度は安っぽいメロディに彩られた偽YMO。手拍子SEを自分で流し始めたときにはもののあはれを感じざるを得ず。ベリオやフレスコバルディや武満から、何を彼が感じ取ってあのような演奏をしているのかが問われるほどに。

僕はフリードリヒ・グルダのライヴを知らない世代なんだけど、たとえば彼の一晩のコンサートを聴きに行ったとしたら、こんな気持ちになることもあったのだろうか。。ほらもっとスカルラッティを、もっとベリオを。。
by Sonnenfleck | 2012-06-25 21:36 | 演奏会聴き語り

on the air:小澤/水戸室内管 第83回定期演奏会@水戸芸術館(1/19)

c0060659_2130192.jpg【2012年1月19日(木) コンサートホールATM】
●モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調 K136
●ハイドン:Vc協奏曲第1番ハ長調
→宮田大(Vc)
●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 K385《ハフナー》
⇒小澤征爾/水戸室内管弦楽団
(2012年6月17日/NHK-Eテレ)


らららクラシックの枠で放送。N響アワーではできなかったことが実現されていて、これはたいへんありがたい。

《ハフナー》は、進みたくない、留まりたい、という音楽。
進めないのではなく、進まない。
小澤はそれを淡泊な白身魚のような響きでやる。カラヤン/BPOのモーツァルトは、それを肉汁のしたたる響きでやった(そのようにミキシングしただけなのかもしれない)。あるのはその違いでしかない。そんなわけで第2楽章の美しさは比類がない。なんと書いていいのか。
第3楽章と第4楽章は巨大なモティーフを選んだ静物画のように感じられる。円環が完全に閉じている。進まないことに価値を見いだして、しかもそれを完璧に成功している演奏の真価を、僕は初めて知ったような気持ちだ。クレンペラーのモーツァルトをキングスウェイホールの最前列で聴いたらこんなふうに聴こえたのかもしれない。いや、わからないな。どうだろう。

ハイドンも、緩徐楽章の「留まりたいエネルギー」が厖大すぎて、思わず呻いてしまう。この辺り一面に照射されているものの正体は何だ。バーンスタインのスタンドが発動しているのか。
2012年ごろの小澤がこういう音楽をやっていたことを、僕はこの先も忘れられないと思う。あるいは、今そのことに気がついただけなのだとしても、今気がついた、ということを覚えていたい。何が小澤にそうさせる?20世紀が?

+ + +

ところで宮田君は、はち切れそうなパワーを小澤の閉じた円環のなかに押し込めている。彼のチェロはついに縁がなくてこの夜の放送まで聴いたことがなかったけれど、ううん。巧いんだなあ。留まらない音楽ではどんなふうに演奏するんだろうか。
彼のチェロは齋藤秀雄の使っていた楽器だそうである。

ところでこの公演、7月にソフト化されて発売されるっぽいです。芸術館や室内管のサイト、twitter等では情報が発見できませんでしたが、Amazonに情報が登録されてました。今回の放送を見逃した方はぜひ。
by Sonnenfleck | 2012-06-21 21:34 | on the air

セザンヌ―パリとプロヴァンス@新国立美術館|あるいはシェーンベルクとしてのセザンヌ(6/3)

c0060659_13351146.jpg「あたくしゴッホが好きですの」「あたくしはルノワール」という応酬に負けじと「セザンヌ萌え!」などと叫べば、その場は一気に「お、おう…」という空気になること甚だしく、よってミーハーなるおばちゃんたちからは敬して遠ざけられる、セザンヌ。

一義的にこの状況はシェーンベルクも同じである。「モーツァルトやショパン…」というテクストのなかでは、シェーンベルクの名前は禍々しい呪文のように響く。
もう少し拡げて言えば、セザンヌもシェーンベルクも、後代に与えた影響の大きさは計り知れないが、彼らそのものの作品が一般に広く知られているとは到底言い難いということでもある。

ところで、シェーンベルクに《ピアノ組曲》op.25という作品があります。
シェーンベルクが初めて全面的に十二音技法を用いて作曲したこの作品が、
I プレリュード
II ガヴォット
III ミュゼット
IV インテルメッツォ
V メヌエット
VI ジーグ
という極めて古典的なフォルムをしていること、皆さんはご存じでしょうか。

完全に新しい作曲技法を自信たっぷりに披露する際に、シェーンベルクがなぜ古典舞曲の集まりを用いたか。いくつかの理由があるのだろうけど、音楽史のなかでよく知られた「かたち」と、そこに盛りつけられた新料理との間で起こる著しい異化を、シェーンベルクが計算していないわけはない。



↑op.25をポール・ジェイコブスの演奏で(背景はフランツ・マルク)

+ + +

この展覧会の会場で、次の作品から電撃的にシェーンベルクの作品25が想起させられたのは、岩場の風景という伝統的なお皿の上に載っかっている強烈な新料理が発見されたからである。これが、ファン層よりもマニア層のほうが厚いという点よりも重要な、シェーンベルクとセザンヌの本義的な共通性ではないだろうか。

◆《フォンテーヌブローの岩》(1893年、メトロポリタン美術館)
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岩場、という何の変哲もないお皿にセザンヌが載せたのは、視野のなかに宿命的に紛れ込んでいるフォルムの焙り焼きとでも言えるようなものである。5分くらいじっと視ていると、岩と木々が(本質的には岩と木々そのもののまま)同じ本質を持つ別の実体に見えてくるんだよなあ。あーでもうまく説明できねえなあ。

僕たちの絵画鑑賞においては、しばしばお皿の貴賤や軽重によって第一次の判断が行なわれ、たいていはそれがそのまま最終次の判断になってしまう。セザンヌの用意しているお皿の地味さは、それが本来的にセザンヌの最強の戦略であることを意味している。シェーンベルクの文脈で言えば、僕たちはヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲などを思い出してもいいかもしれない。

◆《ビベミュスの岩と枝》(1900-1904年、パリ・プティ・パレ美術館)
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もう一歩進むとこうなる。フォルムの黒焼き。弦楽三重奏曲。

+ + +

つづくかも。
by Sonnenfleck | 2012-06-17 13:41 | 展覧会探検隊

晴読雨読:藤谷治『船に乗れ!』|R-28の青春音楽(悔恨)小説

藤谷治『船に乗れ!』、2008年、ジャイブ(2011年、ポプラ文庫ピュアフル)
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そもそもこの作品を知ったのは、僕がいつも更新を楽しみにしているふたりの書き手さん(「木曽のあばら屋」さんと「Blue lagoon」さん)がこの作品に賛辞を寄せていたからである。
音楽一家に生まれた僕・津島サトルは、チェロを学び芸高を受験したものの、あえなく失敗。不本意ながらも新生学園大学附属高校音楽科に進むが、そこで、フルート専攻の伊藤慧と友情を育み、ヴァイオリン専攻の南枝里子に恋をする。夏休みのオーケストラ合宿、市民オケのエキストラとしての初舞台、南とピアノの北島先生とのトリオ結成、文化祭、オーケストラ発表会と、一年は慌しく過ぎていく。書き下ろし、純度100パーセント超の青春音楽小説。(「BOOK」データベースより)
事務的なあらすじはこんなもんだが、主題として紹介すべきなのは、
・人間はどこまでも利己的で醜悪であるということ
・努力は報われないことのほうが多いこと
・取り返しはつかないことのほうが多いこと
・相容れない存在や苦しい事実を是認しながら生きていくしかないこと
・それでも、音楽と一体になれば痺れるような法悦が得られること
というようなところ。
本書は出版されたレーベルがヤングアダルト向けのようで、書店に出かけていっても「上等なラノベ」くらいの扱いしか受けてないのだが、自分はこれを中高生が喜んで読むとは到底思えない。むしろ未来に希望を持つ若人にとっては害毒ではないかとさえ思う。「何ものにもなれなかった」後悔の濃霧が全体を覆い尽くしている。

+ + +

おそらく―おそらくと書いておこう、人生はフィクションのように綺麗に伏線が回収されたりしないし、理由のない出来事も多かろうと思う。
その真理をあえてフィクションに入れ込んでしまうなんてことをすれば、表裏が裏返って「エンタメ作品としては」破綻しそうなものだが、作者は微妙なバランスでもって破綻を最小限に食い止めようと試み、でも結局は絶妙に破綻して、ジュブナイルでも恋愛小説でも青春追憶小説でもない、何ものでもない痛痒い余韻を残しながら物語は終わる。
ともかく、読後の後味の悪さは近来のエンタメ小説とは確実に一線を画す。僕は今のところ、この作品を再読しようという気が全然しない。

このままでは、僕はこの場で紹介文を書こうとは思わなかったと思う。
しかし、この本筋に対して宿命的に、分かちがたく絡みつく悪い蔦のような音楽の描写(より正確には奏楽の描写)が、異常なほど優れている。クラを愛する者であれば一発でハートを持っていかれる。それを心の底から請け合いたいと思うから、この小説をご紹介する。
技術的な恐怖、我のぶつかり合い、合奏の法悦。上のほうで「何ものでもない」と書いたが、もしかしたら、これは頗る変わった姿をした音楽小説かもしれない。

ブラ5、貼っときましょうか。時代的にはリヒターがいいですね。


by Sonnenfleck | 2012-06-12 22:38 | 晴読雨読

ノリントン/N響の "ティペ1" 第1725回定期@NHKホール(4/21)

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【2012年4月21日(土) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:序曲《レオノーレ》第2番ハ長調 op.72a
●同:交響曲第4番変ロ長調 op.60
●ティペット:交響曲第1番
⇒サー・ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団


この日はなんだか体の調子が悪くて、たいへん眠かった。後半なんか(これを目的に聴きにいったのだし、多少は予習までしたにもかかわらず)ほとんど寝落ちだったのですが、出かけた記録だけは残しておく。

・コントラバスを横一直線に並べるスタイル。
・その後ろに衝立型の反響板。これがあるとNHKホールでも音が映える。
・レオノーレ第2番はたぶん初めて生で聴く。ノリントンは休符の扱いが独特で、序曲のくせに恐ろしく巨大な絵巻物を見せられたような感覚に陥った。
・フルトヴェングラーの1954年録音と手法が少し似ていた。
・ベト4は終始きんきんと響いて正直しんどい。
・そしてティペットの様子は覚えてない。
・こんな日もあるよね☆(ゝω・)vキャピ
by Sonnenfleck | 2012-06-10 12:30 | 演奏会聴き語り

諏訪内晶子 Vnリサイタル@秋田アトリオン音楽ホール(4/28)

c0060659_21581086.jpg【2012年4月28日(土) 14:00~ 秋田アトリオン音楽ホール】
●シューマン:Vnソナタ第1番イ短調 op.105
●ベートーヴェン:Vnソナタ第5番ヘ長調 op.24《春》
●バルトーク:《ルーマニア民俗舞曲》Sz.56
●エネスコ:Vnソナタ第3番イ短調 op.25
⇒諏訪内晶子(Vn)+イタマール・ゴラン(Pf)


今年のGWは用事があって実家に帰ったのだが、たいへん珍しいことにまともな公演と帰省日程が重なったため、是非なく聴くことにしました。

秋田駅前から徒歩5分ほどの距離に位置するアトリオン音楽ホールは、座席数700ほどの中ホール。バルコニー席のない1フロアのみの方形をしており、関東の方は東京文化会館の小ホール、東海の方は岐阜のサラマンカホールをイメージしてもらえれば比較的わかりやすいだろうか。ホール内部はこんなふう↓

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高校生だった2001年にブレンデルのディアベッリを聴きに行って以来、10年ぶりに足を踏み入れることになったわけだ。
ここの柿落としは1989年だけど、内装のセンスは(地元民の思い入れを排しても)首都圏のホールと遜色ないので、今でも別段古めかしさは感じない。安心した。

+ + +

さて、諏訪内姐さんの音楽をちゃんと聴いたのは昨年の東響定期@テアトロ・ジーリオ・ショウワでのシマノフスキが初めてと言っていいんだけど、今回のソロリサイタルも昨年同様の感興をもたらした。

その興の中心にあるのは、主にバルトークとエネスコで端的に表出していた、妖艶な歌い口である。特に、エネスコのソナタを聴くのはこれが初めてだったのだけれど、ルーマニアン・ラプソディのようなキッチュな愉しさはこのソナタでは影を潜め、より曖昧な調性と自由な拍感が支配する神秘的な音楽なんすね。

諏訪内姐さんのここでの歌い口は―意外にも―ごく真面目で、省略や上滑りとは無縁の真摯なボウイングに終始する。しかし音楽ってのは面白くて、ある作品ではそうした生真面目さが単純な無味乾燥を呼ばず、むしろ黒ぶち眼鏡の秘書のようなある種の妖艶さを醸し出すこともあるんだわな。それが計算されてるような気がする。

ウルバンスキのサポートを得たシマノフスキも巧みだったが、似た組成をした音楽の演奏実践としては(イタマール・ゴランの伴奏の完璧さもあって!)今回のエネスコに軍配が挙がりそう。しかしこれらの艶麗な音楽を、安定して妖艶に演奏してくれる日本人が身近にいてくれるのは、嬉しいことだ。

+ + +

残念ながら前半のシューマンとベートーヴェンはあまり楽しめなかった。

これもまた音楽の面白い(また怖い)ところですが、シューマンは男臭い浪漫を作為的に演出しようとしてガチガチに硬い演奏に、ベートーヴェンは「楽に呼吸してまっせ」というのを表現せんとするあまり拍節感の混乱が発生してしまったようだった。ピリオド由来じゃない自由なフレージングは、古典派音楽においては今やとっても危険な代物になっている。

しかしそれでも、バルトークやエネスコにおける達成は霞まない。ハイフェッツの愛器・ドルフィンも上機嫌だったのでは。
by Sonnenfleck | 2012-06-06 22:11 | 演奏会聴き語り

華氏140度:27

高田馬場のそば屋でシューマンの第2交響曲が掛かっている。第1楽章の上下する第2主題に世界の平衡が失われて、事象はかき揚げの渦巻きに吸い込まれてゆく。そばはのびる。
by Sonnenfleck | 2012-06-03 12:16 | 日記

華氏140度:26

第2楽章、ラァールゴ。ハ長調。しぶんのし。
by Sonnenfleck | 2012-06-02 22:06 | 華氏140度