<   2012年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

なつやすみのとも2012

【旅程】
◆02日(日) 羽田空港→釧路空港→釧路湿原カヌー→塘路湖畔
◆03日(月) 塘路湖畔→アトサヌプリ~摩周湖~神の子池→養老牛温泉
◆04日(火) 養老牛温泉→(標津サーモン科学館)→中標津空港→羽田空港

明日から遅い夏休みなのだ。
2005年 釧路湿原チャリンコの旅+東端北端制覇
2008年 「寝台特急まりも」お別れの旅+川湯温泉
2009年 野付半島最果ての旅+養老牛温泉(旅館 藤や)
2010年 伊勢神宮+熊野詣
2011年 知床+摩周岳登山+養老牛温泉(ホテル養老牛)
2012年 釧路湿原カヌーの旅+養老牛温泉(湯宿だいいち)
北海道を周遊した2005年を皮切りに、特にこの5年間では4回道東に行ってるのだが、今年の旅はその総決算にしたいと思ってます。

【大きな楽しみ】
・2005年に泊まった湿原の宿を再訪し、カヌーに乗せてもらう。
・旅館が3軒しかない養老牛温泉の、3軒目を制覇する。

【旅のお供】
・相方さん
・串田孫一『山のパンセ』(岩波文庫)
・RICOH CX2

行ってきます!
by Sonnenfleck | 2012-08-31 22:39 | 日記

ロシヤの冷、、|レーピン展@Bunkamura ザ・ミュージアム(8/19)

夏の良心のような日曜日。
空は果てしなく蒼く、入道雲は明らか、日射しは厳しいが木陰はあくまで凉しい。避暑地での音楽会もいいけれど、こんな日は外を歩きたくなる。

+ + +

c0060659_22112456.jpgまずは、招待券が手許にあったレーピン展に赴く。クラ畑の皆さんにはレーピンと言ったらヴァディムだろうけれど、美術畑ではイリヤなんだろうか?僕はなぜこの人を知らずにきたのか?この展覧会を見たかぎり、ロシア藝術好きならば必ず知っておかなければならなかったはずだ。

イリヤ・レーピン(Илья Ефимович Репин、Ilya Yefimovich Repin 1844 – 1930)は、19世紀末ロシア画壇のアカデミズム系のボスだった。1930年まで生きるが、晩年はフィンランドに隠棲したのでアヴァンギャルドの隆盛からは距離があったみたい。でも(このへんの事情は全然触れられていなかったが)社会主義リアリズムの最盛期にはこの人はずいぶん持ち上げられたんじゃないかなとも予想する。

+ + +

c0060659_22114559.jpgクラシック音楽ファンで《作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像》(1881年)を見たことのない人は少数派だろう。実は僕たちは、彼の作品をよく目にしていた。

このムソルグスキーの肖像は作曲家が世を去る数週間前に病室で描かれたものらしく、キャプションには「髪はぼさぼさ、目は虚ろ」みたいなことが書き連ねてある。
でも、レーピンがこの作品で淡い灰緑色の瞳に塗り込めたのはムソルグスキーの死相なんかではなく、画家の作風を特徴づけてもいる淡々としたハイパーリアリズムの結果としての「作曲家の清澄な精神」だったんじゃないかと、僕などは思うた。

c0060659_2212717.jpgそしてこの作品である。
《トルコのスルタンに手紙を書くザポロージャのコサック(習作)》(1880年)。

おや?ショスタコーヴィチを愛する者ならば、あの交響曲のあの楽章が大音量で再生され始めますね?

コンスタンティノープルのスルタンを悪し様に侮辱する手紙を書くザポロージュのコサックたち。男たちの下卑た笑い声や、汗の温気と馬糞の臭いが立ちのぼってくるような生々しい画面だけど、これで習作だからね。やべーね。ショスタコーヴィチはトレチャコフ美術館で、この作品の完成バーションを目にしていたのだろうか。

ほかにも、ポスターに使用されている妻ヴェーラの官能的な肖像や、セザール・キュイやレフ・トルストイのアカデミックな肖像画が来ていたが(キュイの軍服がアディダスのばったもんジャージみたいなカラーリングで笑う)、最後のコーナーに禍々しい闇を投じていたこの作品に肝を潰す。
c0060659_22122526.jpg

《ゴーゴリの自殺》(1909年)である。ご存じのようにゴーゴリは『死せる魂』を執筆中に発狂して原稿を暖炉に投じたと一般的には言われているが、これはその場面を、まさにゴーゴリ流のグロテスクさでもって描いた作品。

本展覧会の前半に、同じゴーゴリの『狂人日記』の主人公・ポプリーシチンの発狂デッサンが出ていたのをここで思い出すが、自分をスペイン王と信じて疑わない統失者ポプリーシチンと同じ眼を与えられて、ゴーゴリは中空を見つめている。

+ + +

誠実で真面目な、とても善い展覧会。Bunkamuraの展覧会はいつもいつもオサレ感と物足りなさを残してきたが、今回は足を運んで大正解だった。心胆にマヒャドを食らって、東急百貨店の循環バスにしょんぼり乗り込む。
by Sonnenfleck | 2012-08-27 22:18 | 展覧会探検隊

on the air:エレクトロニカの世界2012~渋谷慶一郎の電子音楽マトリックス~@NHK-FM

c0060659_8535582.jpg【2012年(収録日不明)】
●渋谷慶一郎:finger light
●同:one
●同:バラッド*
→渋谷慶一郎(Pf)
 ジム・オルーク(シンセサイザー)
●ケージ:ONE(1+5+7+8)
→渋谷慶一郎(Pf)
 ジム・オルーク(シンセサイザー)
 多井智紀(Vc)
(2012年8月18日/NHK-FM)


独奏楽器のために作曲されたケージの「ONE」を多重演奏する試み。

「互いに呼応していない」ことを強調する渋谷氏であったが、聴取者としての自分が捉えるのは、互いに呼応していない「ように偽装した」呼応した世界なんだわなあ。20分間の長いスパンで聴いたときに、この翌朝の「能楽鑑賞」のようなアトモスフェールを感じ取るのは、演奏者が能の幽玄を知っているからなのか、聴取者が能の寂寞を恋しく思うからなのか、あるいはその両方なのか。

だから、おおッこりゃあすげぇぜ、という感興は起きないんである。むしろ、ああ、これよく知ってる、という気持ち。気持ち。気持ち気持ちいい。でも多重演奏による問題提起みたいなものは感じ取れない。
後半、ゴルフボールを転がすようなノイズが闖入したのはクール。これは演奏者たちの動きを視覚で捉えることができれば、より刺激的なのかな?洗濯ばさみによるプリペアドチェロや扇風機によるパフォーマンスもあったみたい。

「聴くほうが調和を求めてしまう、耳の集中力が(まとまらない音楽たちを)統一させてしまう」というゲストのねーちゃんの最後のコメントにどきりとする。

+ + +

ところでアナログシンセ発のノイズはかわいらしい。あれ、そろそろ伝統楽器の仲間入りさせたげてよ。オンドマルトノみたいに。
by Sonnenfleck | 2012-08-25 09:00 | on the air

世界の中心でЯ настоящий русский!と叫んだけもの

c0060659_22403568.jpg【EMI(TOWER RECORD)/QIAG50084】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第13番変ロ短調 op.113《バービィ・ヤール》
→ディミテール・ペトコフ(Bs)
→リチャード・ヒコックス/ロンドン交響楽団合唱団
⇒アンドレ・プレヴィン/ロンドン交響楽団


武田泰淳の最後のエッセー集『目まいのする散歩』(中公文庫)を読んだ。最晩年のベートーヴェンのいくつかの作品のような、透徹したフモールが行間からこんこんと湧いていることに、僕たちは気づかされる。そしてやはりあの老楽聖と同じような、自分自身を含めたありとあらゆる事象を他人事として、「―でないものとして」眺める冷徹な視線(あるいは可笑し味)がこのエッセーの主成分なんである。

+ + +

プレヴィンは第1楽章をかぎりなく「モダン」に、メタリックに響かせる。このようなマチエールはたとえばハイティンクの録音とは微妙に異なるし、あるいはここ何年かウェブラジオで耳にする何例かのすっきりとしたライヴとも違っていて、コンドラシン(世界の中心で Я туточки!と叫んだけもの)のカウンターパートとしての西側録音の金字塔と言っていいのだろう。

この詩をものしたエフトゥシェンコは「ユダヤ人でない/ユダヤ人ではないがゆえにユダヤ人として反ユダヤ主義者に憎悪される」という視点からこの詩をものし得たのだから、ロシア人でない指揮者とオーケストラと合唱団によって紡ぎ出されるショスタコーヴィチはまさに、そのことによって強靱な価値を持っている。

第2楽章に漂うヒンデミットみたいな冷笑はとても不思議な感触だ。旅芸人のフルートに導かれてくるショスタコーヴィチらしいユニゾンも、なんだかセルフパロディみたいに薄膜が掛かって距離感がある。しかし、だからといって物足りないわけではないのだ。全力でスケルツォをやるソヴィエト流の演奏とは、ただ、全然違う。

そして第3楽章のあちこちで聴こえる花が咲いたような幸福な音響は、第4楽章で語られる【恐怖】を先取りしているようにしか思えない。このお花畑ふんわり感は【言いがたい恐怖】を表していないか?この第4楽章の背景処理の、ブリテンのように冷たく湿った様子は。
第5楽章でむしろ明るくなりすぎないのは予測通りで、希望のクスリで明るい未来を望みたいソヴィエトの指揮者たちはみなこの楽章を大切な孫娘のように優しく扱ったが、プレヴィンはちゃんと冷ややかな視線を忘れない。コーダに至る道筋に配された楽器たちはどこかよそよそしい。

全編にわたり、ソロのペトコフも男声合唱も、生真面目な歌唱を義務づけられている。それが全然おかしくない。

+ + +

武田泰淳の言い回しを借りれば、近年N響に来てモーツァルトなんかを震えながら振って帰っていく「半恍惚」状態のプレヴィンがプレヴィンの本質として人びとの記憶に残っていくのは、僕には無念だ。あの老人はかつて、こんなに強いエネルギーを放射して、冷徹にリズムを運び、そして「ソヴィエト製でないショスタコーヴィチ」をこんなに完璧に実現させていた指揮者だったのだ。
by Sonnenfleck | 2012-08-21 06:30 | パンケーキ(20)

〈エスポワール シリーズ 8〉日下紗矢子(Vn)Vol.3【シュールホフ!】@トッパンホール(7/1)

c0060659_21212657.jpg【2012年7月1日(日) 15:00~ トッパンホール】
●シュールホフ:弦楽六重奏曲
●ベートーヴェン:弦楽三重奏曲ハ短調 op.9-3
●シェーンベルク:《浄められた夜》op.4
 ○J. シュトラウス2世:《トリッチ・トラッチ・ポルカ》
→日下紗矢子(Vn)、甲斐摩耶(Vn)、
 アンドレアス・ヴィルヴォール(Va)、鈴木康浩(Va)、
 ステファン・ギグルベルガー(Vc)、
 ダミエン・フォンテュラ(Vc)


少し前のコンサートなので軽めに書く。
この日は午前からお昼に掛けて永青文庫で肝を冷やしたあと、講談社野間記念館を覗いてから椿山荘に抜け、目白坂を下って飯田橋まで歩き、当日券でこれを聴いたのだった。ベルリン・コンツェルトハウス管(旧ベルリン交響楽団)の第1コンサートマスター・日下さんの帰国公演には、昨年もお邪魔している

+ + +

この午後は、何と言っても、シュールホフのゼクステットがきわめて素晴らしい聴きものでした。
1924年に初演されたこの作品は、響きのうつろいと陰翳、バルトーク風のバーバリズムにシェーンベルク風の官能が塗り込められた、いかにも美しい戦間期の音楽。この日の演奏は第1楽章の野趣以上に、第2楽章と第4楽章の闇夜のムードに心を持っていかれてしまった。シュールホフのアダージョはだいたい全部そうだが、つま先から冷気がじっとりと這い上がってくるような冷たい音色の遊戯。
ブラヴォを飛ばす。

浄夜は、、オケ版のほうが圧倒的に好きなのでコメントいたしません。

昨年のシューベルトのように日下さんのヴァイオリンの鋭利で硬質な線がそのまま表に出るわけじゃないんだけれど、アンサンブルの方向づけは明らかにその延長線上にあって興味深い。
今年はベルリンやボンの優秀な音楽仲間を募ってこうしたハイレベルな音楽を聴かせてくれる、日下さんのカリスマを体験した気分(長木センセのプログラム解説にもあったとおり、プログラミングの視座を明確にしたうえで、自らの音楽性に合う作品を選ぶところはお見事だ)

日下さん、7月末の梅田/読響@フェスタサマーミューザでゲストコンミスを務められてたとか。今度はそろそろ、オケのなかでのソロを聴いてみたいものです。
by Sonnenfleck | 2012-08-17 21:22 | 演奏会聴き語り

納涼帝国樂

c0060659_20323475.jpg【Linn Records/CKD 385S】
<kuniko plays reich>
Electric Counterpoint version for percussions (1987/2009)
Arr. for steel pans, vibraphone & marimba and pre-recorded tape (arr. KUNIKO)
Six Marimbas Counterpoint (1986/2010)
Arr. for solo marimba and pre-recorded tape (arr. kuniko)
Vermont Counterpoint version for vibraphone (1982/2010)
Arr. for vibraphone and pre-recorded tape (arr. kuniko)
⇒加藤訓子(Perc)

実は昨夏からずうっとiPodに収まってて、昨夏今夏のヘビロテどころか、10年代前半の個人的テーマアルバムとなりぬべらなり。

パーカッショニスト・加藤訓子さんを生で聴いた、たった一度のコンサート「武満徹を聴く、武満徹をうたう」コンサート@愛知県芸(2007年1月)は、強烈な蝕みを僕の精神に遺している。むなりばいむなり。

+ + +

このアルバムを初めて聴いた瞬間のイメージの強度も、おさおさ劣らない。
スティールパンの眠そうな打撃音が漸増するにつれて、夏の大気が満ちた駅のホームがぐらりと揺れて、傾きに沿って線路に転落しそうになる。目の前をびゅいいと通り過ぎる急行電車は、カナルを突き破って届く蝉の声は、僕を押しとどめる―

Electric Counterpointが進展し、やがてMovement III: Fastに辿り着くと、マリンバの破裂音がスタジオの壁にぶつかって砕ける音とともに、総体としての音楽は前向きなニュアンスを得、薄まって消える。

Six Marimbas Counterpointは、印象をガラリと変えてくる。
きつく閉じた蕾が、押しとどめられない内的な欲求によって開くようにして、音場は閉じた隘路から開けた広場へと拡がっていく。そして聴き手は、それを外側から視ることを許されている。それが「空に知し召す」前曲との圧倒的な相違である。

モノトーンの前2曲と対照的に、色とりどりの音符がさらさらと転がっていくようなVermont Counterpointを、僕たちはデザートのように楽しむことを許されるだろうか。加藤さんの巫女ライクな禁欲性を思えばこっそりと。

+ + +

巧拙などは取り上げらるべき話題にもならない。晝の暑いさなかにこうした音をしんみり聴いていると、夏がやがて去っていくことがふと思い起こされる。
by Sonnenfleck | 2012-08-13 22:01 | パンケーキ(20)

オランゴーナ|ソヴィエトの反人民的炭酸がやってきた。(その2)

承前

c0060659_22231163.jpg【DGG/4790249】
<ショスタコーヴィチ>
●未完のオペラ《オランゴ》からプロローグ(ジェラルド・マクバーニー Gerard McBurney によるオーケストレーション版世界初録音)
●交響曲第4番ハ短調 op.43
⇒エサ・ペッカ・サロネン/
 ロサンジェルス・フィルハーモニック

2004年、ショスタコーヴィチ学者のオルガ・ディゴンスカヤは、モスクワのグリンカ音楽博物館のアーカイヴからとあるピアノスコアを発見した。これが1932年、26歳のショスタコーヴィチによって書き進められていたオペラ《オランゴ》のプロローグである。
ディゴンスカヤはこの未完の作品を、ボリショイ劇場が1932年の十月革命15周年を祝うために用意しようと試みたものではないかとしている。ところがボリショイは何らかの理由でこの計画を断念し、ショスタコーヴィチの手稿のなかにプロローグのピアノスコアだけが残ったというわけ。

70年後、ショスタコーヴィチ未亡人のイリーナ・アントノーヴナは、オーケストレーションをジェラルド・マクバーニーに依頼し(マクバーニーは《南京虫》や《条件付きの死者》などショスタコ作品の再構成で有名な作曲家/音楽学者)、2011年12月、ついに《オランゴ》はわれわれの前に姿を現す。

+ + +

アレクセイ・トルストイとアレクサンドル・スタルチャコフによる台本は、何かを予感させるのに十分だ。
現代(註:1930年頃)のモスクワ。労働者たちが奴隷的身分からの解放を祝して集会を開いている。集会の目玉はなんといっても「サル人間」オランゴの見世物だ。オランゴはナイフで食事もするし、鼻もかむし、あまつさえ資本主義国の人間のように「へへへ!」と笑うこともできる。
囃し立てられたオランゴは悲しそうに嗤ってみせるが、突然、彼は唸りを上げて観客の女性に襲いかかる。どうやら理由がありそうだが…。

そこへ新しい人物たちが現れる。雌ザルにオランゴを産ませた父親である発生学者、発生学者の娘でオランゴの異母妹、そしてジャーナリストという3人の外国人である。彼らは語り始め、いつしか労働者たちは、オランゴの秘密にじっと耳を傾けている―
ケモノ系ダークSF(ブルガーコフ!)が始まろうとしている。これから資本主義国へのネガティヴキャンペーンが来るんだろうな。

さて肝心の音楽。
第1曲の序曲から、実は《ボルト》序曲の転用だったりするのが萌え。マクバーニーによれば、作曲家は失敗に終わったこのバレエを救済しようとしたみたいだけど、そのあとに控えている音楽はボルトほどドライではなく、むしろ彼の映画音楽によく似た甘美なスラップスティックをよく示している(マクバーニーのオーケストレーションがそれを志向しているからなのかもしれんけど)。ために、われわれは後年の《チェリョームシキ》を思い出さずにはおれない。

でも、中期タコ風の分厚い響きをまといつつ、各ナンバーのコクとキレは典型的な20年代テイストで、これはマクバーニーの復元も上手なんだけど、ダスビ定期のアンコールなんかで取り上げたらかなり盛り上がるんじゃないでしょうか。

サロネン/LAPhのパフォーマンスはここでもデジタルでハイパーでスマートである。まったく期待を裏切らないどころか、すべての局面において余裕がありすぎて、何度か繰り返し聴かないと何が凄いかすらわからない。音色や響きに際立った特色があることもなく、ただ整然と楽譜が処理されてゆくのみである。なべて世は事も無し。それはロシアン・アヴァンギャルドの見果てぬ夢だったかもしれない。

レーニンがあと30年くらい長生きした超ディストピア時空のパラレルワールドを空想して、1950年のレニングラードで精製されるこんな演奏のことを思う。

+ + +

「Обезьяна-человек!!」から「Он мужественный человек!!」という男声絶叫の遠い萌芽を夢見るのは、勝手だ。あの「ユーモア」はユーモア自身もユーモアで扱っていたけれど、オランゴはどうだったろう。今となっては誰も知らない。
by Sonnenfleck | 2012-08-08 22:24 | パンケーキ(20)

【幕間】向ひあふ真夜の西瓜のあかあかと

c0060659_10255235.png同じウリ科ということで、伝説の2007年夏アイスキューカンバーの再来を期待しているとちょっと方向が違うので、感覚が裏切られますよん。

たしかに香りの土台はあのキュウリ味をほのかに想起させてウリ科。きっと同じ配合の香料が用いられておるのだろう。

ところが、真にわれわれが驚くべきはこの後味の薄さ、すっと消えて無くなる風味の妙味じゃないかと思う。小生が幼いころよりスイカをあまり好まないのは(かなり大げさに言えば)この敢え無き味があまりにも去りゆく夏の風情と合致してしまうからなんであるが、ああ、この飲料はスイカの本質をよく写し取っている…。ジャンクのくせに思索的。

ヴェルレーヌみたいな雰囲気を漂わせる揚句は、丹羽真一さんという方の作品(俳句同人誌「琉」(2008年8月・14号)所載)。「西瓜」は秋の季語すなあ。
by Sonnenfleck | 2012-08-04 11:12 | ジャンクなんて...