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続|オハン・ドゥリアンは誰でしょう

c0060659_6195972.jpg【PHILIPS(TOWER)/PROC1152】
<ショスタコーヴィチ>
●交響曲第12番ニ短調 op.112《1917年》
⇒オハン・ドゥリアン/
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
●《ステパン・ラージンの処刑》op.119
⇒ヘルベルト・ケーゲル/
 ライプツィヒ放送交響楽団+合唱団

バイエルン放送響とのタコ10海賊盤が驚愕だったオハン・ドゥリアン。タコ12には正規盤があって、塔様が覆刻くだすった。

工藤先生のサイトを拝見するかぎり、1961年のムラヴィンスキー盤に続く「東側系」2例目の商業録音として、このドゥリアン盤にはまず大きな価値があるように思う(DECCAのロゴが無粋)。起用されたのがソヴィエトオケじゃなく、コンヴィチュニーからノイマン時代の旧いゲヴァントハウス管というのもなにか好い。

あの滅茶苦茶な第10交響曲からこの指揮者を知った人間からすると、ドゥリアンのここでの音楽づくりは、一聴すると拍子抜けするくらい格調高い。
オケの腰の重さを十分に理解したうえでの静かな第2楽章。この森閑とした趣きはコンヴィチュニーのショスタコーヴィチによく似ているし、第3楽章なんかムラヴィンスキーの忠実な副官みたいにして、冬宮に向け整然とした砲撃を喰らわせている。それでいて第4楽章は、勝利の金管がまるでブラームスみたいな渋~い音色を投げ掛けてきてたまらなく愛おしい。そして格好いい。

むろんドゥリアンはこの交響曲の本質をがっちり見抜いて、このように仕立てている。間違いなく。
第12交響曲は、ショスタコーヴィチの体制萌え系交響曲の総決算である。最近思うようになったのは、5番とか11番、12番みたいな作品を懐疑の目で解剖するのは「粋ではない」ということだ。男の子が巨大な建築物や重厚なメカに目を輝かせるような感覚は、簡単に消えるものではない。内面の比較的表層部分が感じていることを、作曲家が交響曲にしてはいけない決まりでもあるんだろうか。

並列的に何枚も舌を持ってるんじゃなく、レタスの葉っぱみたいに幾層も重なる別々の(≒同一の)個性が作曲家を運営していたのだ。今はそう思っている。

+ + +

《ステパン・ラージンの処刑》は実は初めて聴きました。なるほど。バービィ・ヤールの第6楽章に収まっててもおかしくないし、第14交響曲のプロトタイプとも言える。聴けてよかった。ケーゲル特有の寒々しい音色もバッチリ。
by Sonnenfleck | 2012-10-30 06:21 | パンケーキ(20)

フェドセーエフ/チャイコフスキー響のショスタコーヴィチ@サントリーホール(10/17)

c0060659_838184.jpg【2012年10月17日(水) 19:00~ サントリーホール】
●スヴィリードフ:交響組曲《吹雪》~プーシキンの物語への音楽の挿絵~より
●リムスキー=コルサコフ:《スペイン奇想曲》op.34
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
 ○チャイコフスキー:《白鳥の湖》から〈スペインの踊り〉
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 チャイコフスキー交響楽団


いよいよ本年の期待度MAX音楽会。
有給休暇も使って備えは万全。
ショスタコーヴィチの第10交響曲が好きでたまらず、これまでに正規非正規合わせて90種くらいの録音を聴きましたが、今でも録音のベストはフェドセーエフ新盤だったりするからです。前二日間の演奏からすると、フェドセーエフの好みは少し変わってきてるようです。はたしてそれがどう転ぶやら。

第10番は、現代の標準的な指揮者と標準的なフルオケが特に策を持たずに挑んでも、まあまあサマになってしまうようなところがあって、第5の次の人気作として最近は位置づけられてきている。そのせいなのかはわからないけれど、変な定石がだんだん形成されてきてて興味深くもあります。第1楽章は長いからテキトーにスパイスを掛けて、第2楽章はスリリングに、第3楽章は曖昧にそれっぽく、第4楽章の最後で派手に打楽器を爆発させりゃあ客は喜ぶぜ、みたいな。

そしてもっと厄介なのは、そういうヌルい定石だけではなく、あまり様式感に合わない珍奇な策を乗せる傾向も広がってきているという事実。
第2楽章でだけ爽快感が出るくらいスピードを上げたり(ムラヴィンスキーやミトロプーロス、ロジンスキーはちゃんとほかの楽章も快速運転です)、奇矯なフレージングに頼って第1楽章を破壊してみたり(パーヴォ何とか氏は第1とか第6をレパートリーにすべきでは…)、枚挙に暇がない。

何も懐古趣味に陥っているわけじゃない。2010年に出たヴァシリー・ペトレンコ盤(Naxos)なんか、新しい録音だけどたいへん佳いと思いますもの。
ただ、モーツァルトに様式感があるのと同様に、やっぱりショスタコーヴィチにも厳然たる様式感というものがあると僕は熱烈に思うのです。モーツァルトをカラヤンみたいに作り込む人、もう今日ではいないでしょう?

+ + +

当夜のフェドセーエフは、ただただシンプルに、ショスタコーヴィチの中期様式に対して忠実な作り込みをしていたとしか言いようがない。このスタンスは彼の二種類の録音からまったく変化していなかった。安心した。

じゃあショスタコの中期様式って何だろうか。
それが要求するものは、さほど特別なものではないと僕は考えていて、腹の底にズンと来る重い響きだったり、痛切な音色だったり、ダッサいリズムを恐れずに腹を括った乱痴気騒ぎだったりする。要するに、チャイコフスキーの様式が要求する技芸とあまり変わらないのだ。無論、初期様式や後期様式はちょっと違いますけれどもね。

2日前のチャイコフスキーと同じく、フェドセーエフが大音量を武器にしていた時代が終わったことをよく物語る第1楽章
どことなくはんなりとした色気さえ漂うゆったり感のうちに、展開部でも響きが割れずに豪壮な風格がある。変なアゴーギクが用いられないためフォルムには鉄壁の安定感があるが、その一方で弦楽合奏には人が泣き叫ぶような音色が割り当てられているため、聴き手の気持ちは不安定なままである。

第2楽章の雄渾なランドスケープには(十分予測されていたけれども)驚かされる。相変わらず縦線はざっくりしているが、拡がりを感じさせるくらい構えが大きい。この楽章はスターリンのカリカチュアだとよく言われますね。このフェドセーエフ製スターリンは冷静かつ巨大で、逃げられる気がしない。

この日の演奏は全曲にわたってテンポの揺動が聴かれなかったが、唯一、亞!と思ったのが第3楽章でした。
エリミーラ主題が初めてホルン隊の斉奏で登場した直後、ほとんど事故のようにしてガクッとテンポを落とすフェド。中間部のワルツでこそいつものフェド節が聴けるだろうと思っていた僕は、こんなところでぽっかりと口を開けた奈落にギョッとしたのであった。これ、録音でもやってたかなあ…?

第4楽章。全曲を通じて魅力的なソロを聴かせてきた木管隊が最後の祝祭をキリリと〆てくれる。ファゴットのモノローグがあれほど野太くトゥッティを突き破って聴こえた経験はないし、結尾を導くクラリネットがあれほどねっとり厭らしく聴こえたこともなかった。
フェドセーエフ自身はかなり響きの円やかさを好むようになったみたいだけど、味のあるベテランに血気盛んな若手が供給され続けているオケはそうそうすぐには変化せず、結果として複雑な味わいのブレンドになっていたのが面白かったな。ショスタコーヴィチの中期交響曲を聴くには、ベストの状態だったかもしれません。

+ + +

密かにハチャトゥリャーンのレズギンカを期待していたアンコールは、月曜と同じチャイコフスキーのスペインの踊り。残念です。ただ、前半のリムスキー=コルサコフ(これも大名演!)とスペインセットを形成したのは楽しい配慮と思われた。
(※2003年の東フィルタコ10のときってフェドセーエフはレズギンカをやったと記憶してるんだけど、どなたか覚えておられませんか?)

オケもアンコールではさすがに疲れを感じさせるが、目算4割の熱心な客席は二度の一般参賀でもってマエストロを讃えたのだった。ショスタコーヴィチにちゃんと様式があり、それが有効であることをライヴで再確認できて、心から満足しています。また、このブログでずっと以前からお世話になっているmamebitoさんにTwitterを通じてお会いできたのも、忘れられない思い出になりました。おしまい。
by Sonnenfleck | 2012-10-27 08:38 | 演奏会聴き語り

こめのことを、想う。

c0060659_6272356.jpgJTから謎の飲料が出ていたので、買ってみる。
「米づくり|お米の炭酸飲料」は、米粉・米こうじ糖化液という米でんぷんからなる糖を使い、乳酸菌系の香料を加えて炭酸で割った米ソーダなんである。

パッケージはどう見ても清酒にしか見えなくて(稲穂イラストと和風パターンがね…)、買ったはいいが泥酔して帰ってきたときなどは冷蔵庫にあるのを見つけるだけで気持ち悪くなるほどであったが、シラフ状態で開栓してみると、邪気のないカルピスソーダのようですっきりして飲みやすい。人工甘味料で弱った心の隙を突いてくる。

JTのプレスリリースを見ると、この「米づくり」シリーズはなんとこれで4代目ということだ。JTのB級飲料は総じて変なものが多いんだよね(今年はほかに「沖縄黒糖コーラ」というのも出ている)。半官半民の精神で真面目に誠実にマーケティングした結果、微妙な方向に走ってしまうのでしょう。お、おう…という可笑しみ。
by Sonnenfleck | 2012-10-24 06:27 | ジャンクなんて...

東京芸術劇場リニューアル記念公演|ロジェストヴェンスキー/読売日響の悲愴(10/8)

c0060659_841015.jpg【2012年10月8日(月) 15:00~ 東京芸術劇場】
●Vn協奏曲ニ長調 op.35
 ○シュニトケ:ポルカ
→サーシャ・ロジェストヴェンスキー(Vn)
●交響曲第6番ロ短調 op.74《悲愴》
⇒ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー/
 読売日本交響楽団


ロジェストヴェンスキーが振るライヴは、実のところ(流麗な指揮姿や凝った選曲ではなく)その内容において決定的印象を残すものに出会えていなかったというのが本音である。でもやっと、このマチネーで強い印象を得ることができた。

+ + +

前半のサーシャ氏は微妙。とても微妙。…

…話は変わって、この日の《悲愴》から得られたものをひとことで言えば、それはハーモニーの美しさなんである。ロジェヴェンの代名詞である軽快で怪しげなリズムやぬらぬらした音色ではなく、和声感。これが圧倒的に素晴らしかった。
(※いくつかのレヴューでは「第4と第5がよくて悲愴は落ちた」という分析があったが、あれで「落ちた」なら前2日はどれだけ凄かったのだろう…。)

第1楽章最初のコントラバス+ファゴットから「おお…」と思わせるカラフルな和音。何かとても核心的なバランス操作、または土台の音色から作り替える操作があったとおぼしき、アンナチュラルでケミカルな和音である。スヴェトラーノフやムラヴィンスキーが重機械工業部門なら、ロジェストヴェンスキーはちょっとソヴィエト化学部門の重鎮科学者みたいな感じがあるよね。

第2楽章の優美さは自発的な浪漫の発露とは思えないくらい「優美すぎ」る。相変わらず震えるくらい和音が綺麗なんだなあ。僕は和音を聴くのがあまり得意じゃないんだけど、それでもあんなに伝わってくるとすれば、ロジェヴェン化学による何らかの秘密の増強策があったとしか思われない。何だろう?フレージングも一般的だったし、アーティキュレーションもおかしくない。僕は人工甘味料をなぜ甘く感じるのか説明できないが、それと同じような現象が起こってる。

あるいはカンブルランにメチャメチャに鍛えられ尽くした、僕の知らないうちにスマートな楽団ににジョブチェンジした読響の底力が働いているのか?いつもの「読響らしさ」みたいなもの、あんまり今回は感じなかったなあ…。

第3楽章から第4楽章への移行は実に決然としたアタッカで行われる。そしていよいよ現れるリアリスト・ロジェストヴェンスキーの矜持。
この交響曲は浪漫に殉じて茫洋と閉じる作品ではなく、あくまでも19世紀のモニュメンタルな構造物なのである。それまで忠実すぎるくらい「悲愴」の世界を実現させてきた精妙な彩りや繊細な弱音は鳴りを潜め、急にぶっとい構造が露出したので驚いてしまった。こういう捉えどころのない脚本を書くのは以前と変わらないね。。それでも和音の美しさは最後まで続く。。

+ + +

終演後は一般参賀あり。歩みは昔に比べてゆっくりになったし、指揮棒の動きもだんだん華麗ではなくなってきたが、源名爺が実現させるべきと考える音楽像はすっかり明確になっているんではないかと思われた。
by Sonnenfleck | 2012-10-21 08:41 | 演奏会聴き語り

フェドセーエフ/チャイコフスキー響のチャイコフスキーナイト@サントリーホール(10/15)

c0060659_6193432.jpg【2012年10月15日(月) 19:00~ サントリーホール】
<チャイコフスキー>
●《エフゲニー・オネーギン》から3つの交響的断章
●弦楽セレナード ハ長調 op.48
●交響曲第6番ロ短調 op.74《悲愴》
 ○《眠りの森の美女》から〈パノラマ〉
 ○《白鳥の湖》から〈スペインの踊り〉
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 チャイコフスキー交響楽団



フェドセーエフウィークの第一夜。何度か聴くチャンスがあってこれまでに体験してきたフェドの、彼のオケとの共同作業を聴くのは実はこれが初めてなのであった。

この夜がはけて感じたのは、まず、自分はこれまでチャイコフスキーの何を聴いていたのか…ということ。それから次に、仮にこれがフェドを聴く最後の機会だったとしても後悔はないだろう…という思い。

+ + +

目算でせいぜい4割程度の寒い客席を前に、フェドセーエフとチャイコフスキー響の面々はまず、オネーギンのパラフレーズを聴かせる。
チャイコフスキー響は録音で聴く彼らの昔、モスクワ放送響とあんまり印象が変わらなかった。弦は上質な麻のようにざっくりしながらも豊かであり、音色は暗い。その上へ明るめの木管と沈着な金管、ノーブルな打楽器が加わりアンサンブルをしている。縦線にそれほど拘らないのはフェドを全力で信頼しているからだろうか?
とまれ、トゥッティの鳴りの深さは在京オケ定期公演と比べるまでもなく、力任せのぎらぎら、ぐいぐい、ではないゆえに断絶は深い。

ぐったりしているうちに始まった弦楽セレナードも実に美しかったが、なかんづく第3楽章は群を抜いていた。絶品の一言。功成り名遂げた威丈夫の、老いて穏やかな終末を追体験するような感覚。平穏にして雄渾。

以前の体験を基準にすれば、フェドセーエフはやや老いた感がある。鋭いアクセントによる強音方向へのダイナミクスいじりに対する興味がかなり薄れたかわりに、緩徐楽章や弱音部において志向するメレンゲのようなふあふあの総体が印象深い。激しくブラヴォが飛び交う。

言葉も出ず、ホワイエに出て熱い紅茶をすする。お客さんは少ないが、そのぶんこの音楽会のための意志が確りしているものと思われた。連れ立ってきている人びとも含めて皆どこか黙しがちで、眼差しが熱く光っている。

+ + +

悲愴は、悲愴というものがたりの頁岩に染み込んだオイルをよく燃焼させた演奏だった。悲愴以外の何ものでもなかったと断言できる。

第1楽章、クラリネット首席の天才的な弱音に導かれて訪れる展開部に、強引さは見当たらない。懊悩の深さは決してトロンボーン隊の攻撃力だけが理由なのではなく、まるで上代の読み物のように、高貴で様式的な絶望感を伴ったフレージングに因るところが大きい。
砂糖さらさらメレンゲふあふあの第2楽章から、くるみのワンシーンみたいに飛び跳ねる、威圧や自己陶酔からかなり遠い嬉遊的な第3楽章。

第4楽章に満ちていた大気は悲嘆や哀哭と表現できるものにたいへん近かったが、まったき御涙頂戴かと言えばそんなことはなく、本質はもう少し高次の、ギリシャ彫刻のような様式化された硬質な悲劇であった。最後にコントラバスのピツィカートを、葬送の空砲のようにボンッ…ボンッ…と強い輪郭で鳴らし切る独特の風味を残して。

+ + +

チャイコフスキー尽くしのアンコール、そして熱狂的な一般参賀のあとも思いのほかしっとりとした情感が残ったのは、自分でも意外だった。時間の経過とともに、自分のなかの杯が美酒で充たされたような感覚が生じていることに気がつく。これが藝術の力だ。
by Sonnenfleck | 2012-10-18 06:20 | 演奏会聴き語り

オール・アバウト・ハインツ・ホリガー第1夜@すみだ(10/6)

c0060659_6145013.jpg【2012年10月6日(土) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
●モーツァルト:Ob協奏曲ハ長調 K314*
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 op.61
●ホリガー:《音のかけら》
●ラヴェル:《ラ・ヴァルス》
⇒ハインツ・ホリガー(Ob*)/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


秋のホリガー無双。前々日には大井浩明氏のシリーズ・POCに現れたらしいね。日本の聴衆のアンテナの高さに気がついてくれただろうか。受信する準備は整ってます。

さて、シューマンへの偏愛を思わせる第2。ホリガーってシューマンが好きなんだよね。名フィルの中の人が呟いておられたけれども、2010年の名フィル客演時のプログラムも「ラヴェル→ルトスワフスキ→自作→シューマン第1」だった。

アンサンブルはシームレスが至高!とされる世の中の風潮を前に、ホリガーの造形は縫い目も継ぎ目もありありで、グラデーションの付いた同系色の大小キューブが整然と並んでいるような面白いシューマンだった。
演算処理の素早さ、そしてキューブから成り立つことと、継ぎ目のあることに価値を置いているみたいな…しかしそれはぎこちないという意味では全くなく、デジタル処理でドット演出が施されたシューマン。うまく説明できないんだけれど…。

このドット画シューマンを土中に埋葬して骸骨にすれば、なるほど「トーンシェルベン(音のかけら)」になるは必定。シューマンでは浪漫肉の下に埋もれていた素材が骨になって沈黙の暗闇に浮かぶ。旋律は妨げられるし、呼吸は管楽器を鳴らすことなく風の音になって消えるけれども、ウェーベルンとは違う種類の豊穣。。

そしてあのシューマンの骸骨にラヴェルが肉付けを施したら、たしかにヴァルスである。なので、この日いちばんドライな空気を感じて気持ちよかったのは、最後のラヴェル。あっけらかん!

+ + +

モーツァルトは、第2楽章から第3楽章のカデンツァ手前くらいまでが老剣客のようで凄みがあった。アーティキュレーションには加齢によるものと思われる事故が散見されたし、音色も出がらしの番茶のようで華々しさはなかったが、フォルム自体が崩れることはほとんどなかった。まあ、この曲はファンサービスだとしても、シューマン→自作→ラヴェルというプログラミングはいかにも楽しかったですよ。ホリガーがやりたいように組んだんだろうねえ。
by Sonnenfleck | 2012-10-15 06:16 | 演奏会聴き語り

館長 庵野秀明 特撮博物館|ミニチュアで見る昭和平成の技@東京都現代美術館(9/5)

c0060659_9285248.jpg毎夏恒例となった都現美の日テレ系展覧会ですが、今年のはちょっと雰囲気が違ってるので出かけてみた。相変わらずの残暑なれば、木場駅からの徒歩でなく、少しでも木陰のある清澄白河駅から。

いやー。会場に足を踏み入れてみて驚くのは、平日の正午過ぎというのになかなかの人出だということ。おっさんお一人様から若いカップル、ヲタ風青年グループまで客層も厚い。夏休み中はさぞ混雑していたことだろう。
(※しかし聞くところによれば、むしろ会期末のほうが、入場制限が行なわれるほどの大混雑だったとか。)

+ + +

いくつかの細かいコーナーに分かれてはいるものの、本展は前半のソフトウェア編と、後半のハードウェア編に大別されるように思われた。

ソフトウェア編は、自分の世代にとっては(って拡げて拙いんであれば、僕にとっては)正直言って退屈である。知らないメカの模型が所狭しと並んでいても、特に感慨はない。ただ、60年代から70年代に子ども時代を過ごした方たちにとっては汲めども尽きぬ懐古の泉なのだろうということは、十分理解する。周囲のおっさんたちの目の輝きはなかなかであった。
(※アイテムたちが発する独特の熱い進歩主義、そしてそのデザインは、共産趣味者の琴線に触れなくはないので、その視座から眺めればよかったかもしれない。モスクワ大学の尖塔すげーよ!という興奮とたぶんあんま変わらないもの。)

+ + +

ところがハードウェア編になるとすぐ、不思議な熱狂に誘われる。
熱狂の入り口にあるのが、本展のために制作された特撮短編映画「巨神兵東京に現わる」のハイクラスな幻想世界であることは言うまでもない。実は日本の特撮の技術はCGの隆盛によりもはや消滅寸前らしいのだが、この短編はCGを一切使用せず全編特撮でいこうという哲学の下で制作された、まさに特撮の「博物館」と(または「墓標」と…)呼ぶにふさわしい作品なんである。

ストーリーは、あってないようなもの。『風の谷のナウシカ』原作に登場する「腐ってやがらない」完全体の巨神兵が、東京を破壊し尽くす様子を描く。一人称の女性(CV:林原めぐみ)が、舞城王太郎のテキストを淡々と読み上げていく。巨神兵は東京を焼く。特撮らしいところもあり、CGにしか見えないところもあり。

そして、上映部屋のすぐ隣に配置された「メイキング」部屋が、このハードウェア編の胆である。あれはこのように動かした、爆発させた、崩壊させた、というものがたりがするするっと解体されていく様子は、まさしく上質なエンタメ。メイキング映像を見ながら観覧者がみんなで笑ったり頷いたりする一体感も新鮮だ。

最後のコーナーでは、観覧者は実際に組まれた特撮セットのなかに出入りしながら、自由にジオラマを撮影できる。これもまた上質なエンタメ。
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↑西荻窪駅のカットはわれながらなかなか上手くいった!

物販コーナーの充実ぶりにはただ驚愕。ソフトウェア編に登場した懐かし作品のソフトウェアがずらりと並んで、しかもそれが飛ぶように売れているのだな。今や財を成した子どもたち。
最後に巨神兵のミニフィギュアのガシャポンを楽しむことができるのも楽しく、僕も3種中2種をゲットして嬉。美術展というよりも体感型アトラクションに近い感興が得られるからこその、「博物館」なのである。
by Sonnenfleck | 2012-10-13 09:38 | 展覧会探検隊

on the air:ブロムシュテット/パリ管のブル8|ブルックナー・ダッシュターボ(9/27)

【2012年9月27日 パリ・サルプレイエル】
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
 ○同:交響曲第2番ハ短調~第3楽章
→ヘルベルト・ブロムシュテット/パリ管弦楽団
(2012年9月27日/France musiqueオンデマンド)


パリ管の副コンマス・千々岩英一氏が万感の思いを込めていろんなことをツイートしておられたコンサートです。

+ + +

やはり想定どおり、フレーズのひとつひとつは主や副に分かれておらず、野の草木や花と同じようにおのおの勝手気ままな非等速直線運動を行ないつつ、しかし全体としては緩やかにブルックナーを形成している。大蛇のように渾然一体となってのたくるブルックナーとは、あるいは一度分解され精密に組み上げられた上で機能を付加された義体化ブルックナーとは、まったく異なる。

ブロムシュテットのフレージング感とパリ管の魅力的な音色は、第2楽章を豊かな霧で包み、他のどのような演奏でも耳にしたことのない幻想的な総体としての山岳を生み出した。楽章が終わり霧を抜けると、狐に化かされたような感覚だけが残る。いいですか皆さん、第3楽章じゃなく、野人のスケルツォで、ですよ!

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霧を抜けた第3楽章は一転して、晴朗で快活でポジティヴな音楽が展開されている。アーティキュレーションの曖昧さは微塵もなく、フレージングは山中で出会う奇勝や高地の植物のように独特の自意識を湛えている。楽章の幕切れですら酸素が濃く、実体感を喪わない。第2・第3楽章のこのポジション逆転が澄明な心地よさを残すんだなあ。ああ。すげえ好いなあ。

聴き手の立場で表現するなら、ブル8のように登山道の姿形が有名な山であっても、目的地まで一気に駈けてしまわず、路傍の植物や鉱物の混沌にしばしば目を取られつつ、それでいて快速と快活を守る不思議な演奏であると言える。登山道に自分以外の人間は誰もいない。快活にして寂寞。

第4楽章のコーダは終わりではなく、続いていくものの途中である。

+ + +

アンコールのブル2スケルツォがまた開放的で、健康的で、すこぶる気持ちのいい演奏。あのブル8なら、登山が終わったあとにさっぱりしたデザートがあっても全然おかしくないよね!
by Sonnenfleck | 2012-10-10 06:18 | on the air

スタニスラフ、工場へ行く

2012年9月、スクロヴァ爺さんが東京に来て読響を振り去っていったが、結局コンサートには足を運ぶことができなかった。ブログやTwitterで観測したかぎりではかなり評判がよろしく、聴けなかったのは無念である。

無念なので少し昔のCDを引っ張り出してきた。

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c0060659_9372681.jpg【Altus/ALT031】
●ベートーヴェン:《大フーガ》変ロ長調 op.133*
●ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲*
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 op.67**
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/NHK交響楽団
(*:1999年1月27日/**:1999年2月5日)

僕がスクロヴァ爺さんを初めて生で聴いたのは、たぶん2004年4月に行なわれた3回のN響定期・オールベートーヴェンプロです。エロイカ(C定期)、第4+第7(A定期)、そして第5(B定期)で当方のハートを鷲づかみにした老人は、やがて読売日響のシェフに就任し、頻繁にその音楽を東京の聴衆に聴かせることになりましたが、あのときN響で味わった精密なベートーヴェンを上回る体験は(僕のところには)ついに訪れなかったのでした。

この1999年N響ライヴは、特にあのときのサントリーホールの様子をかなりはっきりと思い出させてくれる逸品ディスクで、とても大事。

ところどころ筋肉や血潮が見える読響のマッチョな弦よりも、重金属的で古インテリっぽいN響の弦のほうに、スクロヴァチェフスキらしさはより明確に宿ったのではないかと今でも考えていて、《大フーガ》の弦楽合奏を聴いてさらにその考えを深くする。細い金属線で織り上げられていくフーガの軽い手触りには、若い古楽系指揮者たちとは全然別ルートの軽快さがあるんだよね。

ルトスワフスキも素敵。打楽器が特別に峻烈かつ冷徹なリズムを指示されているのは間違いなくて、それがトゥッティを支配することで(むしろ!)前のめりの熱い音楽に仕上がっているのが楽しいです。この人のバルトークと同じで、たとえ縦線が精密に揃っていなかったりしても気にならない。熱いモダニズム!

そして第5。繰り返しになっちゃうけれども、スクロヴァ爺さんのベートーヴェンの軸にあるのは金属線の束感だと思う。しかもそれは、クリーンな工場でオートマティックに機械加工されるツルリとした束じゃなく、町工場の爺さんが技術を習得した時代に最先端だった加工技術によるものである。

何十年もその加工技術ひと筋でやってきた爺さんの製品は、声部の金属線同士が自在にほろほろと解け、解けては融合し、しかし明らかに文学作品ではなくて一個の工業製品として存在している。シンプルに駆動する第3楽章のフガートに、みな人は快感を覚えよ。
by Sonnenfleck | 2012-10-07 09:38 | パンケーキ(19)

平野政吉美術館で藤田嗣治の超大作《秋田の行事》を見る(9/22)

藤田嗣治と秋田県のゆかりについては、美術ファンのなかでもご存知でない方が多いのではないかと思う。乳白色のFoujitaと、《アッツ島玉砕》の藤田と、その間にある彼の変遷を知るのに、フジタの秋田滞在に関して知ることは不可欠なのです。

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秋田市に、大素封家にして美術コレクター・平野政吉というひとがいた。
彼がフジタと知り合った経緯は定かではないけれども、平野が夢見ていた秋田での私設美術館設立に、フジタは強く共鳴した。それは、帰国したフジタの野心や啓蒙心のためかもしれないし、フジタがパリから連れてきた愛人マドレーヌの葬儀費用を、平野が工面してあげたからかもしれませんね。

フジタは滞欧末期、北南米を訪問してその色彩溢れる文物に魅了され、そのムードに浸ったまま海路日本へ帰国する。帰国してから従軍画家になるまで、つまりフジタの1930年代には「色彩と活気の時代」のような時期があったのだが、平野はフジタが30年代に描きためていたそうした作品を次々と購入してゆく。僕たちが知らない土俗的なフジタ作品が秋田にたくさんある理由が、これです。

フジタはやがて、平野家の米蔵に滞在しながら平野の委嘱作に没頭する。平野が委嘱したのは、やがて完成する彼の美術館の存在意義とイコールになるような巨大な壁画―それがいま、平野政吉美術館=秋田県立美術館の壁に掛かる超大作《秋田の行事》なのだ。ずいぶん久しぶりの再会。

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僕が最後にこの巨大な作品を見たのはおそらく小学校低学年のころでないかと思うのですが、実はあまり記憶にない。しかしそれもそのはずで、20年後のいまでさえ、あの巨きさを認識するのに少し苦労するのだから、当時の視覚把握能力ではまったく絵画として認識できなかったのだろう。

《秋田の行事》は縦3m65cm横はなんと20m50cmという途方もない空間を恣にして描かれた作品である。僕はこんなに巨きな絵画を他に見たことがない。どれくらい大きいか、美術館のサイトは貧弱で情報が何もないので、写真が入った北海道新聞の記事をリンクしておきますからぜひご覧ください

《秋田の行事》(1937年)
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(C)ADAGP,Paris & SPDA,Tokyo,2011

画面の構成は大きく二つに分けられる。右3分の2が秋田市内の有名な三つの祭り(竿燈、太平山三吉神社の梵天奉納、日吉八幡神社の山王祭)の並列的描写、左3分の1が積雪した冬期の秋田の風俗である。
それらを分割するのが「香爐木橋(こうろぎばし)」という木製の橋で、画面奥の小高い部分に向かって伸びているが、伸びていく先はあえて描かれていない(「香爐木橋」は実在していて、僕の小学生時代はこの近辺くらいまでが自転車で遊びに行ける行動範囲だった。地元では「伽羅橋(きゃらばし)」と呼ぶひとも多い)

また、全面的な積雪のため、画面の時間設定は容易に冬とわかるけれども、三つの祭りのなかに夏祭りと秋祭りが含まれることを知る秋田県民だけが、画面の時間の捻くれに気づいてゾクとするのだ。竿燈の持ち手たちはご丁寧に、雪上に足袋の足あとまで付けてアリバイ工作を図っている…!

祭りの人々と冬の人々の平面的群像描写は、彼の戦争画や、2008年に札幌で見た《争闘》とよく似ている。身体性へのこだわりはハレの局面もケの局面も関係なく、ギラギラと光っていて、もはや虚飾のように白い秋田音頭の歌い手、もがき苦しむような竿燈の持ち手、ヒロイックな秋田犬など枚挙に暇がない。

その一方で、例大祭の屋台の紅白幕や梵天の緋、竿燈の持ち手の浅葱、冬外套の渋茶、そして地面の雪に対応する空の青鉛、という色彩の舞踏も特徴的。フジタのエキゾチズムの巨大な結晶であるかもしれない。

特に僕が強力に打ちのめされたのは、秋田の冬の夕暮れの青黒い空の色が完璧に再現されてキャンバスの上に広がっていたことである。ある種の嫉妬を覚えるくらい、フジタはあの色を完全に自分の麾下に収めていた。心の中で大切にしている色彩を奪われる敗北感のようなものをフジタから感ずるとは、思ってもみなかったんである(それが秋田に収蔵されているのはせめてもの救いだ)

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来年正式に開館する新秋田県立美術館に、《秋田の行事》を含むフジタ作品は移設されることが決まっている。1967年に開館した秋田県立美術館=平野政吉美術館はやがてその役目を終えるようだが、いま《秋田の行事》が展示されている巨大な空間については、老境のフジタ自身が採光や展示スタイルにアドバイスを与えていたみたいで、なんとなく惜しいことでもある。

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↑部分開館している新美術館の2階から、現美術館を望む。新美術館もこちらはこちらで安藤忠雄らしい、スマートな建築なのだ。手前の水盤から久保田城址のお堀へと、視線が後景に導かれる。


by Sonnenfleck | 2012-10-04 06:27 | 展覧会探検隊