<   2012年 11月 ( 9 )   > この月の画像一覧

〈ル・プロジェ エマール 2012〉ドビュッシー+アイヴズ@トッパンホール(11/23)

c0060659_6112862.jpg

【2012年11月23日(金) 17:00~ トッパンホール】
●ドビュッシー:前奏曲集第2巻
●アイヴズ:Pfソナタ第2番《マサチューセッツ州コンコード1840-60年》
⇒ピエール=ロラン・エマール(Pf)


昨年の〈ル・プロジェ エマール|コラージュ―モンタージュ〉に続いて。
実は本公演、チケットを取るのを忘れてましてね。慌てて某オクを探すも当然ながら出てこず、悲嘆に暮れていたところへ急遽出品があり、たまたま酔っ払って帰宅した際のことなれば、他のひとと競ったあげく強引に落札したという顛末。

アルコールを入れた週末の夜に某オクとHMVのサイトを覗いてはいけない。

+ + +

とまれ、この日はドビュッシーを冷製オードヴルくらいの扱いに、メインの《コンコードソナタ》へと気持ちはまっしぐら。アイヴズの変竹林な作品群のなかで、僕が唯一接近できているのがこの、《コンコードソナタ》ことソナタ第2番《マサチューセッツ州コンコード1840-60年》なんである。

全4楽章からなるこの巨大なソナタは、脱湿装置に掛けて機械的に乾燥させた無調時代のシェーンベルク音楽をベースに、ベートーヴェンの運命動機と民謡と讃美歌とディキシーランドジャズとがメチャメチャにコラージュされた、非常に混沌とした音楽である。演奏時間は50分に達する。
いちおう、各楽章には描写する人物が設定されていて、それにちなんだ音楽になっているらしい(フランスバロックにおける内輪ネタ名付けを想起させる)。この陽気な混沌の前ではショスタコーヴィチなんか小僧みたいなものです。

+ + +

第1楽章〈エマーソン〉。WERGOレーベルのヘルベルト・ヘンクによる録音を聴いてきた自分は、エマールのことのほかエモーショナルなフレージングに、まずは吃驚する。と同時に、今夜の興奮を十分に予感する。
エマールはベルクのソナタで動物の脂が燃えるような濃密な録音を残しているけれども、あれとよく似た脂っぽい煙を感じる。タッチはクリアな水彩風、でも重ねられて出てくる響きは油彩。ピアニストのベートーヴェン的果断の前では、幽鬼のようなヴィオラは掻き消されてしまうだろう。

第2楽章〈ホーソーン〉。全曲中もっとも派手な見かけをしている。
ジャズや行進曲の主題が執拗にコラージュされていくいっぽうで、この楽章には「14と3/4インチ」の長さのトーンクラスターが登場します。
この日、エマールは黒く塗った細い角材を右手で巧みに操ってクラスターを鳴らしてたけれども、勢い余って角材を床に落としてしまい客席はヒヤリ!でも左手で和音を鳴らしながら右手で拾い上げ、また少し優しくクラスターを鳴らしてから、譜めくりストに左手で手渡しという軽業をやってのける肝っ玉。

そして、エマールがほとんど腰を浮かせるくらい猛然と最後の和音を叩きつけた直後、間髪入れずに客席に鳴り響く「ピポパピポパピポパ♪」というザンクトフローリアン携帯。教会の鐘じゃなく、エマールには電子音。
でも幸いにして旋律じゃなかったものだから、かえって綺麗なコラージュになったようにも感じたのよね。作曲家の意図からはトータルでそんなに遠くないっつーか。楽しがらせのアイヴズがこの夜、文京区に降臨してたかもしれん。

第3楽章〈オルコッツ〉。『若草物語』の作者ルイーザ・メイ・オルコットにちなむこの楽章は、全曲中の優雅な箸休め。エマールのタッチも急に優しい。

そして第4楽章〈ソロー〉。この楽章は本当に難しくて、自分にはまだ理解ができていない。エコでロハスな音楽かと思いきや、もう少し晦渋で近寄りがたい雰囲気もあって、森のなかで霧に包まれたような気持ちにさせられる。
エマールはどこかのメロディや何かの断片に足場を組んでいただろうか?いや、いかなる足場もなかった。構造は相対化され、ピアニストは浮遊し、茫洋とした時間だけが観測される。100年くらい先を行っていた音楽なのかもしれない。

+ + +

前半のドビュッシーは、実はそんなに胸に響いてこなかった。
前奏曲集第2巻って、ドビュッシー晩年の象徴主義好みや怪奇趣味がモロに出ている音楽だと思うんです。クリアな和音とかスタイリッシュな発音とか、そうしたものがあまり似合わない。エマールはとても美しく演奏していたけれども、僕は汚濁や呪術をこの曲集に求めたい。贅沢を言っているのはよくわかってますけれども。。

+ + +

ホールの行き来には、CLASSICAのiioさんが書かれていた「神楽坂ルート」を初めて辿ってみる。なんという静寂。脳みそに蓄積されたアイヴズの断片をひとつも落とさずに帰宅できたのは、帰りの神楽坂ルートの凛とした静けさゆえだろう。
by Sonnenfleck | 2012-11-26 06:12 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その一 能「賀茂」@国立能楽堂(11/10)

ひと月ほど前のとある金曜日、帰宅してTVをつけると、Eテレの「芸能百花繚乱」で能「船弁慶」が掛かっていた。波間に現れた平知盛の怨霊がバーバリックなリズムで踊り狂い、義経と弁慶に襲いかかる―。これが強烈に格好いいんである。



↑「船弁慶」から知盛登場シーン。

ちょうど大河ドラマ「平清盛」を(かなり熱心に)見ていることもあり、平家物語には少なからぬ親近感。能の演目に源平ものが多いのが運の尽きであった。新中納言知盛、僕を古典芸能の海底に引きずり込む。

+ + +

c0060659_11174829.jpg【2012年11月10日(土) 13:00~ 国立能楽堂】
●解説「白い矢と朱の矢―賀茂社の縁起と能」
→田中貴子(甲南大学教授)
●狂言「佐渡狐」(和泉流)
→松田髙義(シテ/佐渡の百姓)
 野村又三郎(アド/越後の百姓)
 佐藤友彦(アド/奏者)
●能「賀茂」(観世流)
→武田宗和(前シテ/里女|後シテ/別雷神)
 坂口貴信(前ツレ/里女)
 武田宗典(後ツレ/天女)
 宝生欣哉(ワキ/室明神の神職)ほか


国立能楽堂は千駄ヶ谷駅から徒歩5分。サッカーに縁がない僕には千駄ヶ谷は「津田ホールの街」だったが、これで「津田ホールと国立能楽堂の街」になった。門前の警備員氏がひとりひとりに挨拶をしているのが新鮮スね。

c0060659_1118840.jpg

建物に入ると空間にかなりのゆとりがあり、独特の重厚感が漂う。新国立劇場には残念ながらこの風格はない。でもホールの菱形構造は上野の東京文化会館小ホールとうり二つ、座席数も600席あまりとよく似ているので、クラ系のひとはあそこを想像してみてください。

1 おはなし
この公演は国立能楽堂が月に一度主催している「普及公演」なので、前座に30分の演目解説が。先生もジョークや森見登美彦(糺の森の古本市に増殖する黒髪の乙女等)を引っ張ってきたりして余念のないお話ぶり。ありがたい。

この能は、上賀茂神社(正式には「賀茂別雷神社」)の祭神・賀茂別雷大神が登場する目出度い演目。それでいて、川で水を汲んでいた女が、上流から流れてきた白羽の矢を持ち帰ったところ女はたちまち妊娠、別雷神が生まれる、という神さびたエロティックストーリーでもあります。ふむふむ。何しろ矢印だもんねえ。

2 音楽
クラシック者としての物差しを総動員。

(1)囃子方(はやしかた、オーケストラ)
笛・小鼓・大鼓・太鼓がひとりずつ舞台の奥に並んで座る。前奏曲や間奏曲に相当する器楽合奏ナンバーと、それから登場人物たちのアリアや重唱の伴奏を担当する。

面白いのは、笛以外の3名の「掛け声」も独立した器楽パートとして各ナンバーに包含されているという点。したがって七重奏くらいの豊かな響きも可能で、盛り上がる場面ではちゃんと響きが厚くなるというわけ。
むろん、指揮者がいたりはしないので、縦線が揃う揃わぬという点については一向に気にされていない。そのため七重奏のクライマックスでは、かなりドロドロした呪術的音響が出現する。

(2)謡(うたい、アリア・重唱・レチタティーヴォ)
能が「アリア→レチタティーヴォ→アリア」というふうに運ばれていくことがわかったのが今回の最大の収穫かもしれない。
黙役もいるみたいだけれど、基本的に登場した人物はみな謡うらしい。登場人物たちは彼らの思いをアリアに込めるいっぽうで、ものがたりを進める説明口調のセリフもちゃんと発している。面白いことにこのときオーケストラは伴奏をやめるんだよね。レチタティーヴォ・超・セッコと言ってよかろう。

(3)地謡(じうたい、コロス)
能の劇的世界のうち、非常に不思議というか、クラ者として慣れないのが「地謡」と言われる8人の合唱団の存在。

注意して聴いていると、どうやら演者のアリアや重唱の歌詞のうち特に作者が重要と感じた部分をリフレイン、または情景描写を補強するのが役目みたいだ。オペラのように「群衆」として存在しているわけじゃない。面白いよね。声なのに人じゃなくてむしろ楽器、いや、楽器どころか装置。

(4)舞(まい、バレエ)
謡いが入らない器楽合奏ナンバーは、前奏曲や間奏曲以外にも適宜挿入されている。ほんとうにオペラ・バレと一緒ですね。

今回の番組でもっとも心を奪われたのは、ラスト15分ほどで繰り広げられた天女と別雷神の舞。オーケストラの狂乱、地謡の高揚はこの日の最高潮に達し、天女の涼やかな官能と、足を踏み鳴らして威を誇示する別雷神の神々しい傲慢が感興を醸す。これは完全にラモーのオペラ・バレと同じ感覚。

3 クラ者の雑感
・初めてのホールでも苦労することなく自分の座席に辿り着けるくらいのクラヲタなら、能楽堂への入場は簡単にクリアできる。

・クラのコンサート会場でいちばん多いアラフォーおじさんたちはむしろ少数派。老若問わず女性の比率が高く、若いカポーも少なからず見かける。バレエの客層をうんと渋くしたような感じかな。
・客層の玄人感はクラシックの比じゃないが、彼らは思いのほかフリーダム。謡の楽譜みたいなものをベラベラ捲りながら鑑賞している婆さんなどがあちこちにいる。しかしコンサートホールにいるような怒りんぼうがいないので、ちょっとのんびりしてます。
・前の座席の背もたれに字幕システムが完備。これはクラ側からするとホントにうらやましい。日本語字幕より英語字幕のほうがわかりやすいのは内緒だ。
・椅子ふかふか~。

・拍手の作法がきわめて独特である。クラ者的にはこれがいちばんの違和感だな。
第九で例えれば、指揮者が手を下ろして…無音、ソリストとオケが全員退出して…無音、合唱団員の最後の一人が袖に入る後ろ姿に向けて、やっと儀礼的な拍手がパラパラッと起こる。これでおしまい。
・感激を拍手に込めてはいけない。
・ブラヴォもダメ。
・行き場のない高揚感をグッと飲み込み、膨満ゴーホーム。

・国立能楽堂のホワイエにはドリンクカウンターも自販機もありません。ひさびさに水飲み機をフル活用。
・でもそのかわり、物凄ーく入りにくい「食事処・向日葵」がある(新国立劇場の「マエストロ」みたいな感じね)。いつか能ヲタになったら幕間に堂々と入店してあんみつなど注文したい。
by Sonnenfleck | 2012-11-23 11:21 | 演奏会聴き語り

ヱヴァンゲリヲン:Q 感想文

c0060659_2213593.jpgネタバレするので、ご注意ください。

続き
by Sonnenfleck | 2012-11-18 00:26 | 日記

[感想文の古漬け]本朝なる涼、、|コレクション展 応挙の藤花図と近世の屏風@根津美術館(8/19)

もう涼っていう季節じゃあないわけですが。。

Bunkamuraのレーピン展で心根を冷やされたあとは、今日の今日まで訪問の機会がなかった根津美術館を目指し、銀座線で表参道駅に降りたつ。冷は与えらるるもの、涼は求むるものなればなり。

+ + +

果たして、美術館のガラスの前に立って見る応挙の《藤花図屏風》は、予想だにしない涼感をこちらに与えた。季節が違うことなんか百も承知だけど、応挙の藤花のライヴ感は、涼風に(ありもしない)かすかな薫りまで乗せているかのようである。求めよ、さらば与えられん。
c0060659_6201296.jpg

これ、近寄って藤花の房をよく観察してみると、恐ろしく精緻に描かれてることがわかる。枝ぶりの「完璧に計算し尽くされた拙さ」と呼応して、世界の全てがこの一双に凝縮しているかのようなオールマイティを画面から感じさせる。

実はこのセカイ系藤花、美術館全体にその根を張り巡らしてました。
展示室6で展開されていた同時開催のテーマ展示「涼一味の茶」。涼を演出するいくつもの茶道具が並べられていくなかで、その最後の壁にひっそりと掛けられた竹の花入れ、小堀遠州作の一重切花生 銘 藤浪は、このセカイ系藤花による涼空間からの出口として最良のもの。ちはやふるかもの社の藤浪の―。

ここで空間が閉じられなければ永遠にあの藤花図に閉じ込められていたかもしれないと思うと、ぞっとするのでありました。美術館の庭園に出て、蝉しぐれを浴びて、やっと俗に戻る準備ができたのである。

c0060659_6204216.jpg

c0060659_6205397.jpg

by Sonnenfleck | 2012-11-15 06:22 | 展覧会探検隊

新世紀プーランク慕情

c0060659_6211287.jpg【Zig Zag Territories/ZZT110403】
<プーランク>
●2台Pfと管弦楽のための協奏曲ニ短調
●《フランス組曲》
●《田園のコンセール》
→クレール・シュヴァリエ(Pf)
 カテジナ・フロボコヴァー(Cem)
⇒ジョス・ファン・インマゼール(Pf)/アニマ・エテルナ

インマゼールのモダンシリーズのなかで、最強のスマッシュヒットと思う。
革命的なプーランク。

まず2台ピアノのコンチェルトを耳にして、ぶったまげてしまった。
それは、プーランクの「愉快」や「諧謔」だけでなく、そうしたアトモスフィアを生じさせようと意気込んだ作曲家の設計図面までつまびらかにされるような、ほとんど残酷と言ってもいい細かな作り込みがインマゼールによって展開されているからだ。そのせいで音楽は極端に重層的になるし、プーランクの―たぶん彼の本質であるところの―宗教的厳格までもが炙り出されている。

ストラヴィンスキー趣味の第1楽章・第3楽章では、これまでこの曲には存在しないと思っていた陰翳が、ふあさふあさと五線譜の隙間に降り積もっている。それはインマゼールが非情に微細なフレージングをこれでもかと積み重ねた結果であるが、それがために、プーランクらしいフラットな感興が損なわれていると感じる人がいてもおかしくはない。それぐらい凡百のプーランクとは異なる。

特に第1楽章の終結部では(しかしおそらく、これは1896年製と1905年製エラールのおかげでもあるが)、仄暗いなかから非情に奇妙な「何ものでもない音楽」が立ちのぼってきて戦慄する。直後、第2楽章の擬モザールに救われました。

《田園のコンセール》も、ずいぶん厳しくて清潔な風貌の音楽に姿を変えている。第1楽章の序奏なんか、まるでカベソンでも聴いているかのようだ。

+ + +

インマゼールもここまで来たのなら、いっそショスタコーヴィチまで駆け抜けてほしいもんです。第1、第6、第9交響曲、あるいはぐるっと一周して死者の歌や第15交響曲。それからもちろん弾き振りでピアノ協奏曲第1番。鼻に黄金時代にボルト(このへんは組曲があるんだからちょうどいい)。インマゼールのスタンスが通じるこれらの作品たちはきっと著しく成功するだろう。
by Sonnenfleck | 2012-11-12 06:22 | パンケーキ(20)

柿の晝

c0060659_10215199.jpg

樹高十数メートルになんなんとする、隣家の庭の見事な柿の木。
庭そのものは荒廃して無残だが、この季節になると鳥や猫、穴熊のたぐいが果実目当てに集合して賑やかである(枝ぶりがいいので小動物も軽やかに登る)。人間は、柿色と空色のコントラストが美しいのを眺めて楽しむ。

西へ行く日とは柿山にて別る(山口誓子)

という柿の一句、力があって好きです。秋らしい寂寥感は漂っているけれど、それだけで終わらない「その後」の人間の道行きが示されているような感じ。
by Sonnenfleck | 2012-11-10 10:26 | 日記

フェドセーエフ/チャイコフスキー響の千夜一夜@サントリーホール(10/16)

c0060659_614477.jpg【2012年10月16日(火) 19:00~ サントリーホール】
●ラフマニノフ:《ヴォカリーズ》
●同:Pf協奏曲第3番ニ短調 op.30
 ○スクリャービン:左手のための夜想曲 op.9-2
→小山実稚恵(Pf)
●リムスキー=コルサコフ:交響組曲《シェヘラザード》
 ○チャイコフスキー:《くるみ割り人形》から〈アラビアの踊り〉
 ○同:《白鳥の湖》から〈4羽の白鳥の踊り〉
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 チャイコフスキー交響楽団


フェドセーエフウィークの第二夜。
この夜はもともと行くつもりがなかったし、行けるとも思ってなかったのです。ラフマの3番はあまり得意じゃないし。でもこの日、仕事がトントンと片づいた僕は、ふと気がつくとサントリーの当日券売り場に向かって駈けていました。1曲目を犠牲にしてぎりぎりセーフ。シェヘラザード、聴きたかったんだもの!

入場してびっくり。席が9割方埋まっている。前日の4割と大違い。。

ラフマニノフの協奏曲は(おなかも空いていたので)リーマン大好き肉豆腐のことを考えながら聴いた。この曲の素材は、まず巨大な木綿豆腐としての独奏ピアノがでん!と存在感を示さなければいけない。それからほろほろに煮崩れて形状を失った各種モツ、たっぷりの青ネギと、たっぷりの七味。

むろん「最近ラフマニノフがなんとなくわかってきた」ような段階では、この煮込み風協奏曲の演奏の出来なんか云々できっこないのだが、前日のチャイコフスキーを知っている身からすれば、フェドセーエフ側に若干以上の遠慮があったような気がしてならなかった。モツが少なめ、ネギはあまり香りがせず、七味は切れている。お豆腐の存在感が弥増すばかりなり。

+ + +

酒肴のことなんか考えていたのが悪かったのか休憩時間には腹ぺこに。

「ビールは飲むパンである!」と修道士のような決意を固めてプレモルを頼んでしまったのが運の尽き、後半のシェヘラザードはひたすら気持ちいい音響に身を任せることになってしまったのだが、やはり、巨大で破壊的な音響が来るとの予想はきれいに裏切られ、より叙情的な円っこい音響が支配的であった(のは覚えている)

アルコールを入れて臨む音楽会は、聴いている最中は聴神経が研ぎ澄まされているように感じるのだが、結局そんなに内容を覚えていなかったりする。毎度のことながら反省しきり。船は黄金の泡の海で難破。終局。
by Sonnenfleck | 2012-11-08 06:24 | 演奏会聴き語り

新国立劇場《ピーター・グライムズ》千秋楽(10/14)

c0060659_5562256.jpg【2012年10月14日(日) 14:00~ 新国立劇場】
●ブリテン:《ピーター・グライムズ》op.33
→スチュアート・スケルトン(ピーター・グライムズ)
 スーザン・グリットン(エレン・オーフォード)
 ジョナサン・サマーズ(バルストロード船長)
 キャサリン・ウィン=ロジャース(アーンティ)
 鵜木絵里(姪1)
 平井香織(姪2)
 糸賀修平(ボブ・ボウルズ)
 久保和範(スワロー)
 加納悦子(セドリー夫人)
 望月哲也(ホレース・アダムス)
 吉川健一(ネッド・キーン)
 大澤 建(ホブソン)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
⇒ウィリー・デッカー(演出)
⇒リチャード・アームストロング/東京フィルハーモニー交響楽団


翌日の15日からまとも生きてゆくためのエネルギーが、劇場の座席にいながらにして根こそぎ奪われた(…のだったが、幸いフェドセーエフ/チャイ響で充電)。海も人間も邪悪だったし、あるいはもう少し抽象的な、何かとてもたちの悪い意思が、自分にサッと触れて通り過ぎて行ったような気もした。初台から家路を急ぎながら、美味しい夕食と温かいお風呂が恋しくなったのは言うまでもない。

デッカーの演出は2008年のB. A. ツィンマーマン《軍人たち》以来だったが、このオペラの最悪の主役である「世間」の動かし方が巧みだったのが何よりも印象に残る。「世間」を使ってピーターの救われない心地を必要十分に表現し、なお有り余る邪悪さでもって聴衆の心胆も凍えさせる。

教会や、海や、司法を自身のなかに包含しているとき「世間」はピーターを断罪し、そうでないときは草食動物の群れのようにしてピーターを避け、やがて最後は、ピーターなんていう奴は初めから知らないよ、というふうに顔を隠す。

バルストロードという男は「世間」の花弁から突き出た雄蘂のようで、ピーターとの橋渡しを買って出ているだけになお邪悪だし、エレンも最後は群衆のなかに飲み込まれて消化される。こうしてキーボードをぽちぽちやっているだけで、気分の悪さがぶり返してくるよね。。

+ + +

この国が「世間」という看守が監視するパノプティコンであることを僕たちは知っている。「世間」の狡猾さと凶悪さを身をもって理解している。看守は看守側についた囚人に優しいが、看守になつかない囚人を冷酷に叩き潰すのが好きなのだ。

「世間」という看守は金の子牛の形をしているかもしれないが、いっぽうで看守自体が存在しない可能性もある。囚人はそのことにうすうす感づきつつも、誰も身動きが取れない。黙して語らない「海」こそ、真の裁定者なのかもね。。

+ + +

歌手はピーター役のスケルトンが圧倒的な存在感。誰かがTwitterで言っていたけれども、ぶっきらぼうな声質や豊かな声量だけでなく、不器用そうに巨体を揺すって舞台を歩く姿も、ピーターという人物の造形に一役買っているようでした。

三澤/新国合唱団と、アームストロング/東フィルは、本当に大健闘と言わざるを得ない。千秋楽までの上演によってしっかり練り上げられていたからかもしれないけれど、アンサンブルのすみずみまで呼吸と歌と語りが充満していて、まさにそれゆえに酷薄な、冷たく湿ったブリテンの音楽がゆらゆらと立ち上っていた。

これまで、新国ではほとんど惨劇系オペラしか観てないのだが(軍人たち、ヴォツェック、マクベス夫人、、)ピーター・グライムズは抜群にトラウマ。ブリテン、魅力的すぎる。
by Sonnenfleck | 2012-11-05 06:12 | 演奏会聴き語り

ルガーノの黄色い車に乗って。

c0060659_72131.jpg【aura/AUR120-2】
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 op.61*
●ドビュッシー:管弦楽のための3つの交響的素描《海》**
●ベルリオーズ:《ラコッツィ行進曲》*
⇒ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団
(*1957.5.31、**1968.1.19)

自分のキャリアのかなり初期に手に入れた、至高の名盤のひとつ。動くキ印;セルルガーノライヴと、動かないキ印;クレンペラー/NPOとを原料に、僕のシュマ2観は醸成されたと言ってよい。酵母としてねばねばしたバーンスタイン/VPOも入ってるかも。

ホリガー/新日フィルの公演を予習するために、久しぶりにこのディスクを取り出して聴いていたのですが、やはり凄い演奏なんである。当時世界最強のオーケストラを恣にして特段の自分語りや茶目っ気にも走らず、スコアの要求をクソ真面目に実現させようとしたただの結果であるっぽいところが善い。
(いや、もしかしたらセルのことだからスコアの改変をたくさんやっているのかもしれないが、新機能ゴテゴテではなくナチュラル強化改造ならべつに構わないなあとも思う。)

50年後の昨今ありがちな「オレ、シューマンの病巣を抉りだしてやるもんね!」という「カッコイイ音楽づくり」ではなくて、クソ真面目すぎて狂気、という現象が理想的なかたちで引き起こされているのがクールだ。もし他人の狂気を完璧に再現するなら、再現者は自分のアイディアが可笑しくて吹き出していたり、まして狂っていたりしてはならない。これは自分の鑑賞哲学。

+ + +

この曲の第1楽章序奏はフランス風序曲へのパロディの可能性があるが、前述のような態度から生まれるのはあくまで荘重さである。入れ子状のパロディ。そして主部に入ってから第2楽章までずっと続く、落ち着きのない軽さと堅牢な強迫観念。セルがオーケストラに求めている筋肉は短距離ランナーや槍投げのそれである。シューマンの交響曲は第2番が群を抜いて圧倒的な傑作だと思っているんだけれど、こういう強烈な演奏で聴くたびにその思いを新たにするよねえ。

急転直下、第3楽章のべっとべと浪漫も面白いところだし、危なめ旋律を自信満々に朗々と歌い上げる第4楽章も素敵です。
by Sonnenfleck | 2012-11-03 07:28 | パンケーキ(19)