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帰省中博物館/良いお年を

実家に帰ってきた。外は吹雪である。

実家の自室には、学生のころに読んでいた本をまとめて送りつけているので、その本箱を開けるとしばし、学生生活を思い起こす。森茉莉の重いフィクションとか、安部公房の厳しい短編とか、堀口大學訳詩集とか、今では手に取るとは思えない作品も多いけれど、それぞれの巻末に書き込んだ購入日と読了日の日付を眺めては、不思議な感慨にふける。

+ + +

今年は7月7日にTwitter界隈に飛び込んで、遅まきながらあの仕組みの便利さに気づかされた一年だった。Twitterを通じて、このブログを読んでいただいてきた方の何人かとお会いできたのは、思いもよらない幸せだったと言える。

またそれは、同時に、このブログを大事に思う気持ちの強い燃料ともなった。Twitterは(機動的で実行力のある策をたくさん打ち出せるにせよ)やっぱりこのブログの出先機関であって、長くてまとまりのない文章をいくら書き連ねても誰も怒らず、僕以外の誰も僕の文章を押し流さない、孤独な本丸が、僕には必要なんである。

出先機関にできることは向こうに分権したので、本丸の更新が少なくなったように見えるけれど、実はここの大切さがますます骨身にしみてきている。カフカが描いた陰気な小動物みたいに、終わりのない巣穴のメンテナンスを、来年も続けていきたいと思っている。

皆さま、今年一年、まことにありがとうございました。
来年も良い年になりますように!
by Sonnenfleck | 2012-12-31 16:30 | 日記

六面体楽所

15年間ほど使ってきたCDコンポシステムが夏ぐらいから調子を崩して、片方のチャンネルが出力されなかったりする。ので、自然とPCでYouTubeなんかを聴くことが増えてきた。(※このブログを始めた2005年当時「ブログバトン」っていうアンケートが流行ってて、「PCで音楽を聴きますか?」という質問に僕は「まったく聴きませんし、データも入ってません」と回答したのだ。夢のようである。)

PC用のスピーカーを備えていなかったので、筐体にくっついているプアな出力装置で聴いていたわけだが、意を決して小さなスピーカーを買ったんである。これ。

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小さいでしょう。でも優れている。

NuForce(ニューフォース)という会社の"Cube"というポータブルスピーカーで、価格は12,000円くらい。いろんなソースを試してみたけれども、並の2chスピーカーよりよっぽど生々しい鳴り。5cm四方の立方体なのにちゃんとUSB-DACもヘッドホンアンプも付いてて、高性能なのだ。はっきり言っていい買い物をしたと思う。

こいつの(まあもちろん、それほどは広くない)指向性に合う位置に耳を持ってくるか、あるいはこいつの向きを調整してやると、意外に豊かな音楽が聴こえてきて驚くことになる。潔癖で知的なサウンド。ソースがモノラルだとさらに威力を増して、戦前のワルター/VPOのモーツァルトなんか最強にうまくノる。

これを教えてくれたのは某百貨店に勤務する友だち。どうもありがとう。
by Sonnenfleck | 2012-12-29 18:46 | 精神と時のお買い物

ノリントン/N響 ベートーヴェン「第9」演奏会@NHKホール|または、具象の勝利(12/23)

c0060659_617688.jpg【2012年12月23日(日) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op.125《合唱付》
→クラウディア・バラインスキ(S)
 ウルリケ・ヘルツェル(A)
 成田勝美(T)
 ロバート・ボーク(Br)
→国立音楽大学合唱団
⇒ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団


ひと言で表すと「レトリックの塊」のような第9。
もともとベートーヴェンが意図的に(または無意識的に)第9のなかに詰め込んだ音楽修辞技法の数々を、サー・ロジャーは掘り起こし、土くれを払い、洗浄し、僕たちの前に鮮やかに並べてくれた。ただそれだけだ。それだけだが、まことに尊い機会。今この世界で、ここだけにしかない第9だった。

ネットで観測するかぎり、この公演は賛否両論である。あたりまえだ。

百万人の無辜の市民を歓喜の渦に巻き込むことなんか、ノリントンの頭にはない。彼の禿頭のなかに詰まっているのは、18世紀までの音楽の総決算としてのベートーヴェンを、いかにして鮮明に復元するか、その一点だけである。ノリントンの真価を、学究の最前線に吹き出すマグマを、僕はこの日ほど尊敬したことはない。

+ + +

この日唯一、ベートーヴェンが僕らの知ってるベートーヴェンだったのは、せいぜい第1楽章くらいだったかもしれない。
つまり、楽聖が得意にしていたフィグーラ、アナバシスとカタバシスの自在な組み合わせによる「運動」を、ノリントンはちゃんとこの楽章で展開した。冒頭の五度音程を1stVn-Va-Cbラインでヴィヴィッドに弾かせることから始まる、この楽章の緊張した運動。寄せては返す千万のアーティキュレーション。ノリントンの武器がノンヴィブラートだけだなんて、いったい誰が言ったんだい?

第2楽章第3楽章の美しいタイムスリップ!
ここでノリントンが向かうのは、ベートーヴェンに流れ込んでいるモーツァルト、あるいはモーツァルトに流れ込んでいるグルックやアレッサンドロ・スカルラッティ、ヘンデルの要素なんである!なんという!

第2楽章の奇妙に鈍重なテンポ。皆さんはどう聴かれたのでしょうか。
あのもったいぶったようなスケルツォ、僕には「フィガロ」の戯けたシーンへのオマージュとしか思えなかった。今にも第3幕のはちゃめちゃな6重唱が始まりそう。そこへベートーヴェン自身を体現するかのように自由なティンパニが躍り込んできて、さらに「異種対話劇」が始まってしまう。それでいて中間部の管楽隊の美しさには「魔笛」の3人の童子の重唱が透けて見えるのだ。
情報量の多さにくらくらする。こんな設計は、ノリントンの過去の録音ではやってないんだよね。でもこれを聴くと、これしかない、と思わずにいられない。

第3楽章の透明感は予想どおりだったけれども、あの教条主義的な静けさは19世紀の特産品ではなく、モーツァルトの道徳的なアリア、あるいは18世紀前半のオペラセリアが得意にしていた荘重なアリアから来ているような気がしてならない。それは何も思い込みによるのではなく、ヴィブラートを抑制し淡々と歩んでいくVcとCbの響きに通奏低音を感じたからにほかならない。サー・ロジャーは聴き手の耳をしなやかに過去へ向けさせていく。

+ + +

そしてさらにさらに驚きだったのが、第4楽章
ヲタの皆さん、昭和のヒョーロンカ先生の言うことを真に受けて第4楽章を小バカにしてませんか?いわく「第9が素晴らしいのは第3楽章まで!」みたいな。でもそれはもったいない。気づきの少ない演奏を聴いて浪費するには、人生は短すぎる。

ここに含まれていた音楽修辞技法は、僕たちの蒙昧を啓くのに十分。すなわち僕たちはここに、ベートーヴェンが企んだ(あるいは企んですらいないかもしれない)モンテヴェルディやジョヴァンニ・ガブリエリのゴーストを見るからである。

ベートーヴェンが用いたレトリックのうち、とある対象をはっきりと暗示するものがこの楽章で登場する。そのひとつはトルコ軍楽隊の行進であり、もうひとつは、神の楽器としてのトロンボーンである。

トルコの軍楽隊は、近づき遠ざかることで楽曲のなかに遠近法を導き、またモーツァルトの「後宮」などに代表される18世紀トルコ趣味を連想させて懐古をかき立てる。これは音場をデフォルメすればするほど効果的だと思うが、ノリントンの指示は極めて具体的で、あからさまである。

そしてトロンボーンは(もっと言ってしまえばサックバットは)ヴェネツィアのジョヴァンニ・ガブリエリ、そして彼に流れ込んでいる中世教会音楽を想起させるのに十分な濁った音色を、薄氷を踏むような慎重さで実現させていたのである。あっぱれ。本当にあっぱれだ。

それは具体的には、歓喜の主題がひとしきり爆発した直後、
Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuß der ganzen Welt!
Brüder, über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen.
の部分なのだが、なぜ各連を最初に歌うのが男声だけなのか、ということについて、ノリントンはちゃんと回答を出している。これは神の意向がサックバットによってもたらされる教会の音楽なんである。

またここで国立音大の学生さんたち、そしてN響トゥッティは、何を要求されていたか。そこも面白い。
合唱はあくまでもモンテヴェルディのマドリガーレのような非人間的マチエールを、またN響トゥッティは絶対にその合唱を塗り潰さないような微細な発音を、それぞれノリントンから指示され、ほぼ完全に達成していたんだよね。特に「俗な楽器」である弦楽器が人間の声の前に出てくるなんて、これが(18世紀の視点に立った)17世紀初頭の音楽へのオマージュだとしたら、そんなことはありえないんだ。

+ + +

「劇的」という日本語があるが、なぜかそこには「アクセント強め」とか「『悲』劇的」とか「ロマンティックな」とかいうイメージが小判鮫している。
でも本当の「劇」は、そんなイメージを片方に含みつつ、もっと豊饒な空間を示してはいないだろうか。よく動き、泣き、笑い、叫び、黙り、そして語らう。語らいのアンサンブルが蒼古たる音楽修辞学とがっちり結合したとき、そこに立ち上がるのは、抽象に対する具象の勝利なのである。

これから生で聴かれる方、そして年末年始にTVでご覧になる方。どうかお楽しみに。
by Sonnenfleck | 2012-12-25 06:20 | 演奏会聴き語り

さようならガリーナ

Russian opera singer Vishnevskaya dies aged 86(BBC News/12月11日)
Galina Vishnevskaya, Soprano and Dissident, Dies at 86(The New York Times/12月11日)

仕事に忙殺されている12月、ガリーナ・ヴィシネフスカヤが亡くなった。
一度だけ、彼女を見たことがある。

ロストロポーヴィチが2003年の12月に東京文化会館でハイドンとドヴォルザークの協奏曲を弾いたとき。どうしてもスラーヴァのサインがほしかった僕は、終演後のパーティが終わるまで楽屋口で寒さに震えながら行列していたのだが、パーティが終わって上機嫌のチェリストに寄り添って出てきた老婦人は、ガリーナ・ヴィシネフスカヤのはずだった。彼女も人生の壮大な夕映えのなかにあった。

+ + +

このCDについて何か書いたことがあるような気がするけど、もう一度書く。
ロストロポーヴィチのショスタコーヴィチは、ぎゅうぎゅうに盛られた大皿料理のようである。この録音はモスクワ・フィルのソロイスツ・アンサンブルを使っているのに、並のフルオケでは歯が立たないような強靱な音楽が立ち上がっている。きっとこの曲の正統的な本質はバルシャイのほうに伝わっているのだろうけれども、ロストロポーヴィチの曲づくりにも教えられることが多い。

ヴィシネフスカヤは爽やかで可憐な声質の持ち主だった。彼女は夫の手になる大皿料理のなかに、爽快な香草のようにして自然に融けこんでいる。

今はモスクワのノヴォデヴィチ修道院墓地の、スラーヴァの隣に眠るそうだ。アポリネールが〈自殺〉の詩に描いたのは3本のゆりだったが、4本目の美しいゆりが夫と彼女を永遠に結びつけていることを願う。

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RIP.

by Sonnenfleck | 2012-12-23 09:31 | 日記

ハーディング/新日フィル 第502回定期演奏会@すみだ(12/8)

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<ショスタコーヴィチ>
●Vn協奏曲第1番イ短調 op.77
 ○パガニーニ:《うつろな心》による変奏曲 op.38
→崔文洙(Vn)
●交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒ダニエル・ハーディング/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


この日のハーディングのショスタコーヴィチは、会場に大勢つめかけていたタコヲタ諸氏のカタルシス希求を(たぶん)完全に裏切った。のと同時に、ショスタコーヴィチの音楽をもう一段階上に引き上げようというロケットエンジンの火花を、強く強く意識させる快演でもあった。

+ + +

そもそもハーディングと新日フィルの共同作業は、指揮者がオケの美点を必要十分に評価するところからスタートしているように思っている。
新日フィルはたいへん器用なオケではあるが、僕はいまだに彼らの演奏からマッシヴな充実を感じたことはない。それは彼らの個性だ。ハーディングはこの個性を十分に活かすことを大前提に、このショスタコーヴィチを構成したんじゃないかな。

ショスタコーヴィチを、量感と、響きがみっちり詰まった重さで捉える向きからすれば、きっとハーディングの音楽づくりは耐えがたかろうと思う。あるいはショスタコ自身ですら「オレは(この時期には!)こんな音楽を生み落としたのではない」と憤るかもしれない。
以前フェドセーエフのときに書いた「ショスタコーヴィチの中期様式」をハーディングはあえて完全に無視している。その結果、あたかも大人が幼時の夢を見るかのように、ショスタコーヴィチのなかに結晶化して眠っているアヴァンギャルドの毒が、じわりと表層に浮かび上がってきている。

かように俊敏な演奏の第10交響曲は、ライヴでは未体験ゾーンである。ラトル/BPOの海賊盤がちょっと似たような雰囲気だったけれど、ハーディングの要求はそれと同じか、さらにもう少しドライに音符の運動性能の向上にこだわっているふうだった。

たとえば第3楽章のワルツが完璧なインテンポだったこととか(これにはたいへん新鮮な感動を与えられた)、第1楽章や第4楽章の木管隊がオルガンのような響きを構成しながら激しく運動していたこととか、ハイドンのように理路整然とした第2楽章とか、枚挙にいとまがない。義体化ショスタコーヴィチ。アヴァンギャルドのゴーストはちゃんと宿っている。

+ + +

崔コンマスのソロは、いち新日フィルファンとしては楽しかった。でもこの協奏曲に高い完成度を期待する聴衆のひとりとしては、音量も音程も発音もすべて、率直に言って物足りなさが残った。おそろしい作品である。
by Sonnenfleck | 2012-12-19 05:43 | 演奏会聴き語り

アンヌ・ケフェレック Pfリサイタル@東京文化会館(12/8)

c0060659_823649.jpg【2012年12月8日(土) 19:00~ 東京文化会館大ホール】
●ヘンデル:パッサカリア ト短調 HWV432
●バッハ/ブゾーニ:コラール前奏曲《いざ来たれ、異教徒の救い主よ》BWV659a
●A. マルチェッロ/バッハ:Ob協奏曲ニ短調~アダージョ
●ヘンデル/ケンプ:メヌエット ト短調 HWV434
●バッハ/ヘス:カンタータ《心と口と行いと命もて》BWV147~〈主よ、ひとの望みの喜びよ〉
●ヘンデル:シャコンヌ ト長調 HWV435
●ベートーヴェン:Pfソナタ第14番嬰ハ短調 op.27-2《月光》
●ラヴェル:古風なメヌエット
●同:亡き王女のためのパヴァーヌ
●ドビュッシー:映像第1集、第2集
 ○サティ:グノシェンヌ第1番
 ○ショパン:幻想即興曲 op.66
⇒アンヌ・ケフェレック(Pf)


この日は14時から新日フィルのマチネーがあって、欲張ってはしごを計画した結果がこれ。首都圏でコンサートに行かれている方はよくおわかりと思いますが、チラシ束のなかでひっそりと自己主張している小さなフライヤー、「都民劇場音楽サークル」の主催公演に初潜入。

「都民劇場」は年間10公演ほどの会員制音楽会を主催する公益財団法人です。きっと発足時に進歩的な若人だった人びとがどっと入会したからなんだろうけど、客席にいるのがある特定の世代だけ、というのは本当に壮観。噂に聞いていたとおり、客席高齢者率の極まりにドン引きである。4階サイドから見下ろされる白髪禿頭軍団の数は、N響定期とか全然めじゃないです。

+ + +

後半のラヴェル+ドビュッシーは予想の範疇に収まる、親愛の手頃感(亡き王女がレガート排除のぽこぽこした音楽だったのは驚いたけれど)
むしろ前半の「バロック音楽」が、僕にとってはエキサイティングだった。

ケフェレックはたしかに元々こういうピースをレパートリーにしているはずだけれども、はてつらつらと考えてみるに、今日の世界を飛び回るコンサートピアニストのなかで、ケンプ編やマイラ・ヘス編のバロック小品を今でも(アンコールじゃなくて)正プログラムに堂々と乗せる人物がどれくらいいるだろうか。

僕はこの日、彼女の控えめで清潔なピアノが「バロック音楽」を奏でているのを聴き、1960年代や70年代のとある晩に迷い込んでしまったような、とても不思議な感覚に襲われた。昭和の日本で遺されたライヴ録音でしかもはや聞けない、恐ろしくせっかちな拍手がいまだにこのサークルに受け継がれていること、文化会館の昭和モダン内装なども、その感覚を補強する。コンセプチュアル。

もちろん彼女のプログラミングが巧妙なのも重要。当夜はヘンデル2曲でバッハやマルチェッロをサンドし、ちゃんと「組曲感」を醸成するんだよね。おしまいのヘンデルはちゃんとシャコンヌだし。
演奏実践じゃなく、作法から構築した古楽。とても佳かった。

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さて本公演。咳、くしゃみ、いびき、鈴、飴ちゃん、私語、ナイロン上着のがさごそ、曲中の勘違いシッタカ拍手、フェルマータに被さるフラ拍手、携帯電話着信まであって、およそコンサートで考えうるすべての災厄が客席から巻き起こっていた(咳と鈴が幻想交響曲みたいな掛け合いを演じてたのには笑ってしまった)

なんとなく、このサークルの会員たちは、外のコンサートには出かけないんだろうなあと推察する。今日のフツーの音楽会マナーを純粋に知らないんだろうなあ。外からの一見さんも、こんなにマナーを知らない集団の会員になろうなんて思わないよ。少なくとも僕は、もう二度とここの主催公演には行かないことにしました。このままだと老益財団法人として20年くらいで自然消滅しちゃうんでないかしら。。

すみません。ぐちぐちと書きました。最後にこれでお口直しを。



↑ケフェレックおばさんが選んだ「組曲」のラストナンバー。

by Sonnenfleck | 2012-12-15 08:25 | 演奏会聴き語り

難聴往還途中記

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もうTwitterのほうでは何度か書いたのだが、先日、突発性難聴になった。

ある夜、仕事から帰宅して晩飯を食べ、いつもどおり風呂に入って出てくると、左耳に閉塞感が現れている。どうせ水が入っただけだろうと思ってそのまま寝る。
翌朝、起床すると閉塞感が増して、テレビのアナウンサーが発する言葉が聞き取れなくなっていた。左耳がむずむず。

職場で上司に訳を話して、午後から職場近くの耳鼻科に掛かると、すぐに電話ボックスみたいな設備に案内されて聴覚検査。右耳と左耳の聞こえを示すグラフを見せてもらうと、低音域で明らかに左耳の性能がダウンしているのだった。がーん。

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音楽を愛する者にこの仕打ち!
…と目の前が真っ暗になっていたら、ひげの耳鼻科医が二言三言。
「症状は比較的軽めだし、難治性の病気じゃないから、ちゃんと早めに対応すれば回復しますよ。」
「でも眩暈が増すとメニエール病のこともあるから注意ね。」
ふむふむ。じゃあ真面目に薬を飲みます。
(気が遠くなるくらい甘酸っぱくて苦い水薬そのほか)を飲み始めて数日、ばらつきはあるものの、右1に対して左0.6→0.9くらいの回復が感知されていました。

その後、昨日の診察では治って「きて」いると診断されて一安心。健康な右耳が左耳を庇って幻聴を聴かせているのではなかったようだ。眩暈もない。

苦ーい水薬を1日3回から2回に減らしてもらいながら、今日も治療を続行中です。早くステレオ世界に戻りたいね。皆さんも突発性難聴になったら、その日のうちに専門の耳鼻科へ。早めの治療こそあなたを救います。ほんとに。
by Sonnenfleck | 2012-12-12 06:23 | 日記

スティーヴン・イッサーリス ベートーヴェン全曲演奏会第1日@王子ホール(11/21)

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<ベートーヴェン>
●ヘンデル《ユダス・マカベウス》の主題による12の変奏曲 ト長調 WoO.45
●Hrソナタヘ長調 op.17(作曲家自身によるVc編曲版)
●Vcソナタ第1番ヘ長調 op.5-1
●モーツァルト《魔笛》の〈娘か女か〉の主題による12の変奏曲 ヘ長調 op.66
●Vcソナタ第3番イ長調 op.69
 ○アンダンテと変奏曲 ニ長調 WoO.44b(イッサーリスによるVc編曲版)
⇒スティーヴン・イッサーリス(Vc)+ロバート・レヴィン(Fp)


イッサーリスに対しては、これまではあまり特別な思いを抱いてこなかった。この公演のチケットを入手できたのも、某オクで破格の値段が提示されてたのを偶然発見したからに過ぎない。
ところが、音楽の神さまのお膳立てにより、至芸と表現してよいチェロを知ることになった。これまでに足を運んだどのチェロリサイタルよりも強く、感銘を受けた。

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1726年生まれのストラドにガット弦を張ったイッサーリスの音色、これは聴神経の担当領域だけでは上手く形容できない。
基本的には、マットな音。ブリリアントなチェリストが世界にはたくさんいるけれども、彼の音はけっして大きくないし、派手じゃない。しかしながらそのうえで(摩訶不思議なことに)実家の座布団のようにインティメイトなにおいが漂うこともあれば、博物館の漆器みたいに凄みのある底光りがのぞくこともある。耳以外の器官が音をキャッチし始める。
彼の演奏、たとえばブラームスのソナタなんかをCDで聴いていたときには、こんなに多彩な音が彼のガットとボウから発せられているとは気がついていなかった。まったく自分の薄ぼんやりに呆れてしまう。

そんなひとが、レヴィン教授のワルターレプリカと組んでベートーヴェンを演る。
冒頭の《ユダス・マカベウスの主題による変奏曲》から、あっという間に術中にはまる我々。イッサーリスはあの音質を土台に据えたうえで、縦横無尽のボウイングから繰り出す多彩なフレージングでもってベートーヴェンと共闘していく。

共闘である。
ねじ伏せたり、分析したり、ではない。

ベートーヴェンの音楽が根源的に備えている「面白がり」や「驚かせたがり」、「楽しませ」という要素を、イッサーリスのチェロが増幅していく。五月蠅いくらいヘンテコなアーティキュレーションを採用したかと思えば、また時には人間の深淵を覗くような真っ暗な音が出てきたりもする。いかにも愉快そうにボウを操る彼の姿と、愉快そうに筆を執る楽聖の姿とが重なる。

レヴィン教授の極めて豊饒な(それでいてもちろん「慎み深い」)演奏実践も、この共闘を側面支援する。モダンピアノのモダンな奏法では、イッサーリスのボウから紡ぎ出される音をみな塗り潰してしまうだろう。
前半の第1ソナタの第1楽章が終わったところでワルターレプリカの調律が狂ってしまい、梅岡楽器サービスの梅岡さんが舞台に飛び出して応急処置、という一幕も。梅岡さんによればこのコンビでベートーヴェンの録音をするという話があるみたいで、心の奥底から楽しみです。

最後の第3ソナタ。第1楽章展開部のお尻(再現部への推移局面)でぱっくりと口を開けたベートーヴェンの深淵が、一生忘れられない音楽の記憶として残りそうだ。なんだったのだろう。あの深い音は。

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僕は「チェロはもっともひとの声に近い楽器」という言説にずーーーーーっと違和感を持ってきたんだけど、イッサーリスの音は圧倒的なまでに声だった。一生ついていくことに決めて、サインもゲット。メンデルスゾーンのソナタ集。
by Sonnenfleck | 2012-12-09 10:58 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]JFJ2012|やみのランプ→そしてスクリャービン伝説へ…(5/3)

書きかけのまま放っておいた感想文を、ぬか床から引っぱりあげる試み。

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その1(アレンスキー→シュニトケ→ペルト)その2(ラフマニノフ→チャイコフスキー→ラフマニノフ)からいちおう続いている。

c0060659_6123915.jpg【156】5/3 1945-2030 ホールD7〈パステルナーク〉
<クレール・オプスキュール>
●チャイコフスキー:《ドゥムカ》op.59
●プロコフィエフ:Pfソナタ第2番ニ短調 op.14~第3、4楽章
⇒イーゴリ・チェチュコフ(Pf)

●ムソルグスキー:《展覧会の絵》~プロムナード
●スクリャービン:前奏曲ホ長調 op.11-9
●同:前奏曲嬰ハ短調 op.11-10
●同:練習曲嬰ハ短調 op.2-1
●同:前奏曲ロ長調 op.16-1
●ムソルグスキー:《展覧会の絵》~プロムナード
●チャイコフスキー:《四季》op.37bis~6月〈舟歌〉
⇒シャニ・ディリュカ(Pf)

●ラフマニノフ:エレジー 変ホ短調 op.3-1
●バラキレフ:《イスラメイ》
⇒広瀬悦子(Pf)


数年前から始まって人気を博している「クレール・オプスキュール」を初体験。
ピアニストが誰だかわからないのはいいとして、演奏されている曲名だけはわかるものだと勝手に思ってたら、曲目リストも存在しなかった。真っ暗闇のなかで小一時間の「ひとり・様式判断大会」になってしまって少なからず消耗(笑)

チャイコフスキーの《ドゥムカ》をクープランだと思ってしまったのはかなり恥ずかしい…。音楽学的には聴取による様式判断はもっとも信頼できない判断手法なので、インクや楽譜の紙質で判断しなきゃいけないんだもんね!ふん!

プロコフィエフとバラキレフは大熱演でした。かっこいい。

【137】5/3 2200-2300 ホールB5〈ツルゲーネフ〉
<スクリャービン最後のリサイタル>
●前奏曲変ニ長調 op.35-1
●前奏曲変ロ長調 op.35-2
●4つの前奏曲 op.37
●前奏曲ト長調 op.39-3
●マズルカ ホ長調 op.25-4
●練習曲変ロ短調 op.8-7
●ワルツ 変イ長調 op.38
●Pfソナタ第3番嬰ヘ短調 op.23
●ニュアンス op.56-3
●やつれの舞曲 op.51-4
●前奏曲 op.74-4
●前奏曲 op.74-2
●前奏曲 op.74-1
●2つの舞曲 op.73
●不思議 op.63-2
●Pfソナタ第4番嬰ヘ長調 op.30
⇒ジャン=クロード・ペヌティエ(Pf)


毎年のことながら22時台のコンサートは疲れてウトウトする確率が高まる。それでもチケットを買ってしまうのは、深い時間帯ならではの熱い聴衆がいるからである。

ペヌティエのスクリャービンは彼のフォーレと同じようにどこまでいっても端正で型崩れせず、しとやかで貴族的で、おじいさんと一緒に飲むホットミルクだった。折り返しとなる第3ソナタから先は僕自身の集中力が持たなかったので、後期スクリャービンですら貴族的世界に帰属することになっていたのかどうかは、残念ながらわからなかったけれども。ミルクは煮えていたか?

+ + +

今年のLFJは天候不順で、取り上げられた音楽も夏のネヴァ川のようにじめじめしたもの(想像)が多数を占め、地下2階の展示スペースにすらレールモントフ風のどんよりとした停滞感が溜まっていたが、これはこれでけっこう好みなのであった。

・映画《リア王》が観られなかったこと
・会場配布のプログラムの品質が急激に悪化したこと

の2点は残念だったこととして書いておく。
来年もこっそり参加することだろう。なにしろスペインだもの。
by Sonnenfleck | 2012-12-07 06:14 | 演奏会聴き語り

絶食系男子になりきれない草食系男子のための音楽

c0060659_7322418.jpg【Linn/CDK400】
<ベルリオーズ>
●幻想交響曲 op.14
●《ベアトリーチェとベネディクト》序曲
⇒ロビン・ティチアーティ/スコットランド室内管弦楽団



シューベルトの亜種みたいなベルリオーズ。
ちょっとこんな演奏、聴いたことがない。
ベルリオーズの標題どおりの「病的な感受性と激しい想像力に富んだ若い音楽家」に、初めて出会えたような気がする。この曲に登場する音楽家は脂ぎったおっさんではないのだ。

まず第1楽章があまりにも清楚で、純粋で、驚くしかない。ティチアーティの戦略の根底にあるのは音色の魔術だったり、慎重に慎重を重ねたフレージングだったりするけれども、聴き手の感覚によってはこの態度はあまりにも臆病に聴こえるかもしれない。それくらい青白くて純朴で腺病質な響きによって支配されてる。

コケティッシュの妖怪が跋扈しがちな第2楽章は、何かプーシキンの詩作みたいに非現実的で、素直なインテンポによる統一が快い。イデー・フィクスの登場も、まるで楽中にシューベルトのリートが迷い込んできたみたいに楚々とした佇まい。こんな世界にギラギラしたコルネットが存在しないのも道理だ。

スコットランド室内管の美点が余すところなく発揮される第3楽章。この楽章が安っぽいサイコスリラーみたいにならないのは前2つの楽章から容易に想像がつくけれども、それにしても風通しよくくっきりとしたオーケストラの響きを純粋に楽しむのにこれほど気の利いた楽章もない。…なんということをよりにもよってベルリオーズから感じ取るのが、僕にとっては意外中の意外。この楽章が少し長く感じられるのも、重ねて意外である。
…そして楽章の最後で、広大なランドスケープが目の前に拡がる。。

腺病質の青年が、いよいよ第4楽章では牙を剥くのだけれども、ティチアーティが響きのなかにどこか細い鎖骨や肋骨の存在を包んでいるのが面白い。ワーグナー風の破滅的人物にはなり切れない、というか。

第5楽章も、悪趣味をにおわせるもののどこか幻想童画的なワルプルギス。
もちろんアンサンブルの精妙さが土台にあって、ティンパニやバスドラムが愉快な発音を指示されているのを聴いていると、ぐっと時代が流れてルーセルやミヨーのような空気すら知覚しちゃう。ベルリオーズの忘我的混沌にうんざりしているあなたへ。または同質の原理。

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ティチアーティ、2014年2月にスコットランド室内管と来日するみたいです。やっとライヴで聴けそうだなあ。楽しみ。
by Sonnenfleck | 2012-12-02 07:34 | パンケーキ(19)