<   2013年 03月 ( 8 )   > この月の画像一覧

ラグジュアリーへようこそ!

学生時代、バロック音楽を演奏して楽しんでいたころは、テレマンやヘンデルからの距離の遠さが面白くて長兄フリーデマンBや次兄エマヌエルBを好んで聴いていた時期があったのだけれど、そうしたとき、末弟クリスティアンBは僕の視界に入ってこなかった。たぶんクリスティアンBを感知するにはレーダーを違う方角へ向けなければならなかったのだ。

+ + +

c0060659_749429.jpg【Glossa/GCD920607】<クリスティアン・バッハ>
●シンフォニア第3番 変ホ長調
●シンフォニア第4番 変ロ長調
●シンフォニア第5番 変ホ長調
●シンフォニア第6番 変ロ長調
●シンフォニア第1番 変ホ長調
●シンフォニア第2番 変ロ長調
⇒エリック・ヘープリチ/ナハトムジーク

過去、このブログでは何枚かのディスクを通じて「クリスティアンはプログレッシヴ・バロックだ!」とか「クリスティアンはラブコメ(ハート)」などと勝手気儘に断じてきました。
今回、エリック・ヘープリチ氏(またの名をホープリッチ、ホープリチ、ヘープリヒ)と彼のアンサンブル・ナハトムジークで聴くウィンド・シンフォニーは、また新しいクリスティアンBの魅力を伝えてくれている。それは、彼の作品の恐ろしいまでのラグジュアリーさである。

このディスクを最初に再生し始めた瞬間から、最後のトラックの時間が尽きるまで、一部の楽章を除いて人為的な音楽的展開はほとんど見込めない。時間をこのように美しく飾り、不毛に過ごすことの贅沢さよ!まったくつるんとして非の打ちどころがないヘープリチたちのアンサンブルもそれに拍車を掛ける。

ギャラントの作曲家たちが住んでいる音楽ラグジュアリーの世界では深刻さはむろんのこと、恐らく稚気や官能すらふんだんには必要ではないと僕は考えていて、だからこそ苗床になっているバロック音楽の袋小路的正統なんじゃないかと思う。
でも、バロックの宮廷からクリスティアンBたちが引き継いだ音楽ラグジュアリーの広大な荘園は、力のある分家筋であるハイドンやモーツァルトに簒奪されてしまった(メンデルスゾーンがJSBに惹かれていたのはすごく納得がいく)

クリスティアンBのギャラント様式による作品は、しかし第4番のラルゴのようにモーツァルトも真っ青な強烈な美しさを湛えている楽章を突然産み落としていたりするので気が抜けない。《グラン・パルティータ》のお手本のようでもある。
分家筋的な稚気と淫靡の音楽に足を踏み入れることができるのに、普段は必要がないかぎり均整のなかに留まり、あえて抜け出ないのもクリスティアンBの魅力。




↑第4番変ロ長調の第2楽章ラルゴ、ロンドン・ウィンド・ソロイスツで。

by Sonnenfleck | 2013-03-30 09:45 | パンケーキ(18)

梅香幻譚

c0060659_2351846.jpg琴線に触れるものが半年に一度くらいしか出てこないのが残念ですが、このカテゴリはまだ続けてます。

アサヒ飲料から出た「三ツ矢梅」。三ツ矢サイダーブランドの梅風味。…情緒的じゃない説明はこれ以上は難しくて、直球勝負のネーミングにもそれが現れているよね(笑)

で、何が好いかというと、後味がたいへん美しいんだな。
後味が「美味しい」じゃなく「美しい」と書くのはなぜかというと、飲み口を顔に持ってきて最初に梅香がしたあと、口に含んで喉に落とし、最後にふわりと漂ってくるのが翳のあるというか隠微なというか、ともかく昏い後味だからなのである。この後味は、昔、祖母が青梅をホワイトリカーに漬けて保管していた実家の仏間を想起させるほど昏い。北側のひんやりとした部屋だった。
by Sonnenfleck | 2013-03-27 23:06 | ジャンクなんて...

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その四 能「草子洗小町」@国立能楽堂(3/20)

c0060659_23113881.jpg【2013年3月20日(水) 13:00~ 国立能楽堂】
<国立能楽堂3月特別公演>
●仕舞「蝉丸」(宝生流)
→三川泉(シテ)
●狂言「花盗人」(和泉流)
→野村萬斎(シテ/男)
 野村万作(アド/何某)
●能「草子洗小町」(観世流)
→観世清和(シテ/小野小町)
 藤波重光(子方/帝)
 坂口貴信(ツレ/壬生忠岑)
 坂井音晴(ツレ/官女)
 角幸二郎(ツレ/凡河内躬恒)
 武田宗典(ツレ/官女)
 観世芳伸(ツレ/紀貫之)
 福王茂十郎(ワキ/大伴黒主)
 石田幸雄(アイ/黒主の下人)
→藤田六郎兵衛(笛)
 観世新九郎(小鼓)
 安福光雄(大鼓)ほか


1 スーパー爺タイム~蝉丸
「仕舞」っていうのは、能の一部分を抜粋して面や装束を着けずに演じる略式形態です。序破急の美学は損なわれるけれど、シテの技の骨格をより濃密に楽しむにはよいものかもしれない(2台Pf編曲版の交響曲みたいなものか)。特に能を学習している人たちにとっては。

で。この日の最初の演目は91歳の人間国宝による狂女なのでした。
これがまた足取りもおぼつかないのに打ち震えるほど凄艶で、ほんの10分ほどの舞と地謡に、能の真髄のひとつの姿を見たように思う。専門用語を使って感想文を書くことはいまの僕にはできないけれど、
我ながら浅ましや、髪はおどろを戴き、
黛も乱れ黒みて、げに逆髪の影映る、
水を鏡といふ波のうつつなの我が姿や。
というコロスの淀んだ響きに乗り、扇を頭上に揚げて一瞬、正気に戻るかのような羞恥心を老翁が見せたのは驚愕であった。よぼよぼ乙女。

2 万作×萬斎の繚乱ユニバース~花盗人
この作品では可笑しみは隠し味にすぎないわけです。淫らなくらい爛漫に咲く桜花の幻影を感じさせるので、仮に「この台本はもともとは能なんだよ」なんて説明されたとしてもまったく違和感を持たない。

(1)おはなし
庭に咲く満開の桜の枝を折られて怒った何某は、今宵も花盗人が現れると踏んで張り込む。折しも花盗人が現れ、折り取る枝を吟味しているところを、何某は桜の幹に縛り付ける。
花のために斬られる身の不幸を悲しみ、花盗人が古歌を引きながら独りごちているのを耳にした何某は、花盗人が教養のある人物と知り、この桜を歌に詠めば許そうと提案。花盗人は見事に即興で歌をつくり、何某は大いに喜んで彼を解放する。
興が乗った何某、満開の花の下で花盗人に酒を勧め、花盗人は朗々と歌い上げて返礼する。何某は自ら桜の枝を折り取って、花盗人に呉れてやる―。

(2)アリアとレチタティーヴォとダンス
「花盗人」は野村万作・萬斎父子の共演だったわけです。正三角形と表現すべき万作氏のどっしりとした演技に比べ、萬斎氏は逆三角形的なエキセントリックな演技も多く用いているのがたいへん興味深かった(しかもそれがきれいにハマっている!)。これは彼の不変の個性なのか、やがてこれを捨てて万作氏(81歳人間国宝)のように重厚な存在に変わっていくのか。

今回、幸運なことに野村萬斎氏から3mくらいの席で彼に接したのですが、これまで見たどの媒体に比べても彼の全身に力がみなぎっていて、ああこれがこのひとの真実の姿なのだと感じ入ってしまった(狂言師の狂言が凄いのは当たり前なんだけど)

後半、桜の主と花見の宴になって、萬斎氏が長大なアリアを堂内に響き渡らせたのは本当に見事のひと言。これだけ巨大なアリアのある狂言は未体験だったこともあるし、萬斎氏の美声には頭がくらくら。ふと見渡すと会場の老若女性陣がうっとりとしているのが、やっぱり最後に可笑しいのであった。

3 二十六世観世宗家~草子洗小町
これまで3回、能を見た。そのいずれも、神様か怨霊が登場する超現実ストーリーの演目だったのですが、4回目の今回は「鬘物」と呼ばれる、女性を主人公に持つ(比較的)現実的な分類の作品。ライバルの奸計で窮地に陥った小野小町が、機転を利かせて真実を暴くという2時間サスペンス仕立てのストーリーです(プログラムでは「法廷劇」と表現されてた)

(1)おはなし
帝の御前での歌合戦。小町と当たる大伴黒主は勝ち目がないと考え、前夜、小町の邸宅に忍び込む。黒主は小町が詠む予定の歌を盗み聞きしたうえそれを万葉集のページに書き込んで、古歌を引用したと断罪する計略を立てる。

場面転じて歌合戦。予定どおりの歌を詠んだ小町に黒主は異議を唱え、帝に万葉集(書き込み済み)を見せて小町を陥れる。小町は筆跡や行の乱れを怪しみ反論するが、ふてぶてしく応じる黒主に圧され、大ピンチ。

そこへ、同席していた紀貫之が助け舟を出し、小町は万葉集(書き込み済み)を水で洗ってみせる。するとたちどころに黒主の書き込みが消え、企みは露見、黒主は恥辱に感じ自害しようとする。しかし小町と帝は「歌道に励む気持ちから出たもの」と彼を許し、最後は小町が天下泰平を寿ぐ舞いを披露して幕。

(2)オーケストラ
神様登場や闘いシーンで使われる太鼓を欠くほかは、笛+小鼓+大鼓のいつもの編成。僕は当初、笛奏者の音が苛烈すぎ、また大鼓奏者があまりにも巨大な破裂音を出し続けていたため、なんだかアンサンブルが破綻しているなあという感想を持ったんだよね。
でも百戦錬磨の彼らがそんな失態を犯すはずはなく、場面の転換とともにこの理由が明らかになる。

この作品、後半の歌合戦の場で、8人もの人物が同時に舞台に上がるんです。彼らがユニゾンで謡うこともあるし、その他にコロスである地謡がいつもどおり8人座ってるので、舞台上はまるで《アルプス交響曲》のような巨大編成になる。オーケストラに聴かれた強いアクセントは、まずこの巨大編成に十分に対抗するためのものだったんだろうなあ。
笛氏はObとTp、大鼓氏はVnからTb、Percまでの外声的なパートを体現し、小鼓氏はVa、Vc、Fg、Hrあたりを内声的にカバー。小町が装束を替えている間の間奏曲で、大鼓氏はシテの動きを横目で睨みつつ、どうやら他の2名に伸縮の指示を送っていた。囃子方アンサンブルの神髄というものかもしれない。

(3)ダンス
そしてさらに(これが本当に重要なのだけど)小町を演じる観世清和氏の圧倒的なダンスに、オーケストラはわずか3名でのバランス取りを要求されてたんである。オーケストラが強くなくてなんとする。

観世宗家の舞いを言葉でうまく表現するのは難しい。ぽうっと見蕩れてしまったから。の烏帽子を被り、短冊と色紙が装飾的に描かれた紫紺の装束を着けて舞う、結末の流麗な美しさは何だったか?円やかな袖の捌きかた、扇を操る指先の確かな自信、あれは才長けた艶美な女性である真実の小野小町だったぜ。

慣れ親しんだ分野の知識や経験を援用するならば、観世清和氏のシテはベルリン・フィルが演奏するベートーヴェンやブラームスのように、誰にも何も言わせない全能の空気を静かにまとっていたのだった。あれが「事も無げにできることではない」ということがわかるような視点を早く身につけたい。。もうそれだけだ。

上述のように、小町は窮地から歓喜を経由して寛恕に至る感情の流れをシテに要求するわけです。もちろん表情を変化させるギミックを能面が持っているはずもなく、すべてはシテの首の角度や指先の処理に委ねられている。

そして(大阪で見た「砧」もそうだったけれど)この日も面は雄弁に表情を変えた。恐ろしい。扇で草子に水をかけ、黒主の書き込みが洗い落とされた瞬間、確かに小町は安堵の微笑を浮かべていた。能はできるかぎり前の席で見るのがいい。「能面のように無表情」という表現が決定的に間違っていることは、能を至近でご覧になればすぐにわかるはず。。
c0060659_23115853.jpg
上村松園《草紙洗小町》(1937)

(4)アリア
最後に、小町が扇を使って水をさらさらと掛け流すシーンの美しい詞章(歌詞)を転記しておく。水と時間・水と空間の変遷を流麗に表現した一節。ヴォルフの静謐な歌曲みたいな美しさを感じたのだった。
地謡 旧苔の鬚を洗ひしは、
シテ 川原に解くる薄氷、
地謡 春の歌を洗ひては霞の袖を解かうよ、
シテ 冬の歌を洗へば、冬の歌を洗へば、
地謡 袂も寒き水鳥の、上毛の霜に洗はん、恋の文字なれば忍び草の墨消え、
シテ 涙は袖に降りくれて、忍ぶ草も乱るる、忘れ草も乱るる、
地謡 釈教の歌の数々は、
シテ 蓮の糸ぞ乱るる、
地謡 神祇の歌は榊葉の、
シテ 庭燎に袖ぞ乾ける、
地謡 時雨に濡れて洗ひしは、
シテ 紅葉の錦なり、―

4 クラ者の雑感
・うーん観世流ベルリン・フィル。日本で見る能はクラヲタ大好き本場ものだし、すぐそばで世界最高級のパフォーマンスが見られることをもっと多くのひとに知ってほしい。クラヲタが日本のクラシックを体験しないでどうする!!由緒正しい宮廷劇だよ!!
・「草子洗小町」のシュトラウス感がすごい。虚構と浪漫のバランス。
by Sonnenfleck | 2013-03-24 23:13 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]Ensemble Diamante ~織り込まれた宝石~@近江楽堂(9/23)

ぬか床の底に沈んでいるのを無理やり引っ張り上げてきました。これ、昨年の9月じゃありませんのよ。「古漬け」シリーズ屈指の古漬け。

+ + +

c0060659_22504992.jpg【2011年9月23日(金祝) 13:00~ 近江楽堂】
●テレマン:トリオ・ソナタ イ短調 TWV42:a1
●バッハ:Vgambソナタ ニ長調 BWV1028
●ヘンデル:トリオ・ソナタ ハ短調 HWV386a
●バッハ:トリオ・ソナタ ハ長調 BWV530
●テレマン:トリオ・ソナタ ニ短調 TWV42:d10
●ヴィヴァルディ:Rec協奏曲ヘ長調 RV100
 ○テレマン:トリオ・ソナタ イ短調 TWV42:a1~グラーヴェ
       トリオ・ソナタ ニ短調 TWV42:d10~プレスト
⇒アンサンブル・ディアマンテ
 宇治川朝政(Rec)、木村理恵(Vn)
 ロバート・スミス(Vc, Vgamb)、福間彩(Cem)


同じ月に行なわれた新大久保に続き、初秋のバロックアンサンブル第二弾。アンサンブル・ディアマンテの日本デビューコンサートへ。
前にも触れたとおり、彼らはブリュージュ国際古楽コンクールで第二位を勝ち取った団体。その自信のほどが、王道直球ど真ん中のプログラミングに表れてるよね。

古楽運動のなかの「吃驚させてやろう精神」はすでにまったく廃れている。
にも関わらず、名前のある音楽評論家や、ふだんバッハ以降を中心に聴く一般の音楽愛好家たちの間で、今でも「古楽=吃驚させてやろう精神」という図式が幅を効かせているのは、実に嘆かわしい。
今時の若くて優秀なアンサンブルはみなそれをよく承知しているので、ノリントンやオノフリのようにそれが彼らの個人様式にまで完璧に高められているならいざ知らず、無駄に派手な装飾や自己満足のためのフレージングなどはもう出てこない。もうそこで勝負する時代じゃないんだもの。

であるならば、アンサンブル・ディアマンテの勝負どころはどこか?
彼らの演奏は、真新しくて気の利いた建築物みたいな印象だ。様式への忠実なフィット感と、理知的合理的な振る舞い、上品で誰にでも好かれる心地よい雰囲気。こうしたものがない交ぜになって、アンチ吃驚とでも表現すべき力強い安定した推進力が醸成されている。安定感が一番の売りであるアンサンブルが古楽に登場して、いったい何の問題があるだろう?

例えば後半の3曲。バッハのオルガントリオ→テレマンの古典派漸近→ヴィヴァルディの典型的お祭り騒ぎと、様式の違いがまことに甚だしいわけだが、このズレを連続して描き分けるのは簡単じゃないです(バッハのオルガン鍵盤とヴィヴァルディのヴァイオリンが同じはずはないもん)
でもディアマンテの4人は、巧妙にフレージングとアーティキュレーションを変化させてちゃんと別の音楽にしていたような気がする。素晴らしい手腕と思う。

(ここで2013年に戻る)

最近は活動がストップしている(僕が知らないだけかしらん)のが残念なアンサンブル・ディアマンテ。あとはリクレアツィオン・ダルカディアが休日の公演をもっともっともーーーっと増やしてくれることを切に望むサラリーマンです。
日本発の古楽アンサンブルがBCJとかアントネッロだけだと思っている皆さん、それはまだまだ甘いですよ。聴くべき団体が多すぎる。
by Sonnenfleck | 2013-03-21 22:59 | 演奏会聴き語り

ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー|二人の写真家@夜の横浜美術館(3/9)

c0060659_19472216.jpg2月、たまたまNHKスペシャル「運命の一枚~"戦場"写真 最大の謎に挑む~」を見た。僕は不勉強で知らなかったのだけれど、「もっとも偉大な戦場カメラマン」と呼ばれた男、ロバート・キャパが撮影した一枚の古い写真に関するドキュメンタリーだった。

番組では、キャパが1936年にスペイン内戦で撮影した《セロ・ムリアーノ付近、コルドバ戦線(崩れ落ちる兵士)》Wikipedia)という有名な一枚が、実はキャパではなく、キャパに同行していたゲルダ・タローの撮影した写真ではなかったか、という説を作家の沢木耕太郎氏が紹介していた。
タローは世界初の女性戦場カメラマンで、キャパの3歳年上で、師匠で、ライバルで、恋人で、そして27歳でスペイン内戦を取材中に戦車に轢かれて命を落とした。《崩れ落ちる兵士》は、恋人を成功へ導こうとしたタローがキャパの名前で発表した「完璧すぎる」戦場写真だった。

タローの死後、キャパは命を省みないほど戦場の最前線を転々とし、圧倒的な写真を何枚も撮影し、最後はインドシナで地雷を踏んで爆死した。番組を見るかぎり、キャパはタローのあとを追って死ぬために生きていたかもしれなかった。

+ + +

そのキャパとタローの大規模な回顧展が横浜美術館で開催中なのです。
僕はたまたま美術館のサイトで発見した「夜の美術館でアートクルーズ」というイベントに申し込むことにして、なんとか限定30名の枠に滑り込むことに成功した。4,000円支払うかわりに、担当キュレーターの解説を聞きながら閉館後の美術館を楽しめる好企画(私立の美術館はもっとこういうのやってほしい)

当日の参加者は基本的にオヒトリサマが多くて快適。上は70歳くらいのじいさまから、下は僕と同世代くらいの数名。女性の比率がかなり高めだったのは興味深かったし、お互いに全然干渉しないのも好かった。
基本的に担当キュレーター氏の解説をレシーバで聞きながらついて回るんだけど、別に離れて別の写真を見ていても構わない。あまり離れすぎると別の職員さんがやんわりと流れに戻るように促す。

1 タローの個展
本展が面白いのは、タローの写真とキャパの写真が完全にそれぞれ別の部屋で構成されていること。キュレーター氏によると、本展の企画段階では厖大なキャパの写真に混ぜてタローの写真を展示する案もあったらしいんだけど、タローの写真を管理する団体(?)から「タローをキャパの飾りにはしないでほしい」という要請があり、議論のうえでこうした構成にしたのだとか(メモを取らなかったので間違ってるかもしれません)

タローの作品はもちろん、彼女が27歳までしか生きられなかったことを考えなければならない。成熟していくキャパの写真と同列に扱うことはできない。
それでも。それでも、そのことをタローの個性と見なしてよいのであれば。タローの写真は対象の像を画面の中心に納める安定的な構図が多いようだった。

c0060659_19474757.jpg
《海岸で訓練中の共和国軍女性兵士、バルセロナ郊外》(1936年8月)

c0060659_1948120.jpg
《戦艦ハイメ1世で楽器を弾く海兵たち、アルメリア》(1937年2月)

そしてその戒律は下の作品のように緊迫した状況でさえ守られた。
c0060659_19481888.jpg
《共和国軍兵士たち、ラ・グランフエラ、コルドバ戦線》(1937年6月)

タローがもし、スペイン内戦を生き抜いてカメラマンとして成長したら、どんな写真を撮ることになったのだろうか。それは誰にもわからない。

2 キャパの個展
実はタローと同じころにスペイン内戦を撮影したキャパの写真は、「戦場のドキュメントとしては」あまり目立たないんである。これが今回わかったタローとキャパのいちばんの違い。タローの写真からは土煙や血の臭いが漂ってきそうなのに。

それでもキャパの部屋を見て歩きながら、少なからぬ枚数の「知っている」写真が展示されていたのには驚いた。タローの死後、キャパは変わったのかもしれない。彼は戦場で戦闘を撮影するんではなく、人間を撮影することに決めたようだった。

c0060659_1948372.jpg
《難民の少女、バルセロナ》(1939年1月)

c0060659_19485259.jpg
《20人の少年パルチザンの葬儀、ナポリ》(1943年10月)

c0060659_1949748.jpg
《Dデイ、オマハ・ビーチ、ノルマンディー海岸》(1944年6月)

c0060659_19492025.jpg
《ドイツ兵との間にもうけた赤ん坊を抱いて家に帰る若い女性、シャルトル、フランス》(1944年8月)

キャパの写真は、キャパという人物の成長に伴ってどんどん決定的なものになっていった。技術的にも、対象の「重大性」という面でも。タローという人物が1937年のスペインに永遠に留まっているのとは対照的です。
でもそれゆえに、タローから離れていく自分が疎ましかったのかもしれない。キャパがあれほど真実に肉薄する写真を撮り続けられたのは、彼が命を惜しいと思わなかったから、という説もあるそうだ。

藝術として写真を見る方法を僕は知らないけれど、参考として展示されていたカルティエ=ブレッソンの美しい写真と、キャパの写真(および、タローの写真)とは、根本から何かが違うようなのだった。その違いを静かに観測した。

+ + +

この後、みなとみらい駅から東急東横線の急行に乗って、終点・渋谷駅のホームと大改札の姿を目に焼き付けたことを記しておく。さようなら僕の青春の渋谷駅。
by Sonnenfleck | 2013-03-17 19:52 | 展覧会探検隊

L'étoile de la danse

c0060659_23165292.jpg【EXTON/OVCL-00472】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ長調 op.43
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団

レコードアカデミー賞大賞!の惹句が、わりとマジで気になって購入してみたのです。日本のオケ録音に大賞が出たことについて、陰謀論者は疑い深い視線を投げかけるのかもしれないけれど、僕は純粋に興味がある。

録音で聴いてきたインバル/ウィーン響のショスタコは、僕にとっては何か、言いたいことを言い切っていないような、噛みしめても繊維質がボソボソと口に当たるような生煮えの雰囲気を感じていた。
ところがインバル/都響のショスタコは、その半端な印象をしなやかに投げ飛ばし、もってインバル流レシピの決定版たるを得てます。ほんとです。

+ + +

ここに録音されたタコ4は、他のどんな演奏にも似ていない。

この演奏は、ザミャーチンの宇宙船インテグラル号のようなディストピア的全能でもなければ、社会主義リアリズムの泥をぼとぼと飛ばすようなどん底でもない。この演奏が表現しているのは、絶望的に乾ききった新古典主義バレエ。個人的にはものすごいショックである。
インバルはこういうショスタコーヴィチがやりたかったんだなあ。それはニュートラルかつ上手で品の佳い音のするオーケストラを絶対的に必要とする。たぶんオーケストラは「機能的」みたいな服すら脱ぐことが求められて、いわんやアクの強いウィーン響では十分にインバルの意志を実現することができなかったのだろうと思う。都響は理想的な道具なんだろうなあ。納得納得。

第1楽章で聴こえてくるのはストラヴィンスキーの遠い残響。アヴァンギャルドが支配する直前、帝政最末期のストラヴィンスキーが生み出していたバレエのように、露西亜の呪術的民話を内包しつつも肌を切り裂きそうな乾いた風が吹き抜ける音楽。この交響曲をマーラーからもアヴァンギャルドからも遠ざけた演奏で聴くのはこれが初めてかもしれない。
バレエを想起させられるのは、インバルが都響に対して命じている、恣意性を排除した音色とリズム感が完璧にハマっているからだろう。
もっとも強烈だったのは、あのプレストのフーガが「優雅」だったことである。いちばんしっくり来る形容詞がよりによって「優雅」だよ?

じっとりしつこいマーラーをやらせると今では世界で一二を争うインバルだけど、マーラー成分が混入しまくってる第2楽章は意外にふわとろ系。バレエのロマンスシーンかというくらい、拍節感を維持しつつふんわりした音響で支配する。

第3楽章もやはり第1楽章と同じ傾向。苛烈な音響や粗雑なアゴーギクは退けられ、キリッと引き締まったリズムと、冷たく乾いた優雅なマチエールで音楽が展開していく。途中の木管隊による斉奏の、どこのものでもない中庸な美しさには呆然としちゃいますよ。これが無個性無個性と貶められ続けてきた日本のオーケストラの「個性」なのかもしれないな。だとしたらこんなに嬉しいことはない。

この楽章、いつもペトルーシュカの最終場・謝肉祭を彷彿とさせるんですが、インバル/都響のこの演奏に振り付けてバレエを上演したら、さぞかしクールだろうな。作りものじみててさ。
by Sonnenfleck | 2013-03-13 23:18 | パンケーキ(20)

ハイティンク/ロンドン響|ブリテン、モーツァルト、ベートーヴェン@サントリーホール(3/9)

いろいろな切り口の「ベスト体験」があっていいと思うけれども、「音楽それ自体」に限りなく接近したという意味で、僕はこの日、これまでで最高の経験をしたと断言できる。今日まで音楽を聴きつづけてきて本当によかったと思う。

+ + +

c0060659_23342183.jpg【2013年3月9日(土) 14:00~ サントリーホール】
●ブリテン:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→マリア・ジョアン・ピリス(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 op.92
 ○メンデルスゾーン:《真夏の夜の夢》~スケルツォ
⇒ベルナルド・ハイティンク/ロンドン交響楽団


後半のベートーヴェン、第1楽章ですでに、僕は座席の上で硬直していた。

これまでに聴いてきたベト7は、この午後にハイティンクによって実際に開帳された「音楽」の劣化した影か、過度に装飾された写しでしかなかった可能性がある。「演奏」ではなく「音楽」と書いたのは、演奏者や指揮者の刻印がそこから完璧に消えていたから。
「演奏」を研ぎ澄ましていった先の最終形態が「音楽」だとすれば、あの瞬間に(恐ろしいことに)ベートーヴェンの姿さえ透過していたのが観測されたことも何らおかしくない。あそこにあったのは旋律と和音と拍節のただひたすら心地よいつながり、言ってしまえば「音楽のイデア」みたいなものだった。

僕は普段(「僕たちは普段」でもいいのかはわからないけど)、ある「曲」のことを知っていて、いつでも頭のなかで再生できる「曲」を基準に、あるときどこかで聴いた演奏について「こいつは愉しいフレージングだ!」とか「ここは演奏実践の失敗だ…」とか考えている。

でもハイティンク/ロンドン響のベートーヴェンは、普段は実在しないはずの概念としての「曲」が、信じがたいことにそのまま目前で展開されるという、イデアの降臨としか言いようのない体験だった。快感に恍惚。そして第4楽章のコーダでは、イデア界への扉が音を立てて閉まるような圧倒的な絶望感が快感のなかに混信してきて、もう何が何だかわからない。
いや、正確には、すべてわかったと書いたらいいのか。あれは自分の頭のなかでまた鳴らすことができるような気もするんだよね。実際。

+ + +

2003年の「スーパーワールドオーケストラ」、2009年のシカゴ響に続き、ハイティンクを生で聴くのはこれが三度目だったのだけど、過去の二度はここまでの感覚を得たことはなかった。
いま極端にレパートリーを絞り込んできている彼は、イデアの在り処や呼び出し方をよく知っている作品だけを選んで振るようになっているのかもしれない。つまり磨き上げられて僕たちに供されるのは、最上の普通。この最上の普通に辿り着くために、どれほど多くの指揮者が時間と労力を欲しているのだろうか!

かたやロンドン響は、この週の他公演でアンサンブル荒れ気味という感想がTwitter上で散見されていたのでちょっと不安だったんだよね。
でもピーター・グライムズ、じゃなく「4つの海の間奏曲」が始まってすぐ、オケの機能に不満を持つ必要がないことがわかってほっとする。

冷たく湿った良好なブリテンだっただけじゃなく、ハイティンクの要請に応えて各パートが無数のギアチェンジを行うことで、整然と柱廊が組み上がっていくような巨大な音響も確保される。
よく鳴っているだけでなく、フォルムもくっきりとしていて実に気持ちよいわけだけど、そしてブリテン音楽の場合はそれが「ブリテンらしい居心地の悪さ」へとつながってゆくのだった。このまま第1幕が始まったらいいのに、と思ったひとも客席には多かったことだろう。

モーツァルトの協奏曲はあまりにも心地よくて(またベト7とは違い、自分の頭のなかに再生可能な「曲」がなくて)うとうとしてしまったので、感想を書く資格がない。ただ、ピリスの打鍵が瑞々しく、力が抜けているのに力強い、不思議な雰囲気を示していたことは記しておきたい。ハイティンクのサポートも実に温かな音色だった。ような気がする。

+ + +

こんな感想文はオカルトのカテゴリに分類されたって文句は言えない。でも、賛意を示してもらうどころか共有されたいという気持ちもあまり強くはないのです。「音楽」を聴いて心の底から驚嘆したので、そのことについて書いた。
by Sonnenfleck | 2013-03-10 00:43 | 演奏会聴き語り

貴公子ジノの平穏

c0060659_21522668.jpg【Hänssler/CD94.219】
<ブラームス>
●Vn協奏曲ニ長調 op.77
→ジノ・フランチェスカッティ(Vn)
(1974年4月27日、ハンス・ロスバウト・スタジオ)
●セレナーデ第2番イ長調 op.16
(1978年5月16日、ハンス・ロスバウト・スタジオ)
⇒エルネスト・ブール/SWR交響楽団

―あなたはどのヴァイオリニストがいちばん好きですか?

という質問をもらったら、たぶん、僕はレオニダス・カヴァコスかクリスティアン・テツラフかエンリコ・ガッティかで迷ったあげく、結局ジノ・フランチェスカッティと答えると思う。
もともとロベール・カサドシュの相棒として彼のことを知ってから今日まで、そんなにたくさんの彼の録音を聴いたわけじゃないけれど、悲劇ぶらずアダルトな彼の唄い口や、細くてもきらきらした美しい音色に魅せられてきた。

ブラームスの協奏曲が得意だったフランチェスカッティは、5つか6つくらいの録音を残している。今回、SWRのアーカイヴから掘り出された当録音はヴァイオリニスト72歳、キャリア最後期の演奏にあたり、フランチェスカッティの晩年を伝えるものとして貴重な存在(もっとも彼は1991年まで長生きしたんだけど)

晴れた日曜日の午後にじっくりと聴いて、まずはその技巧がほとんど衰えていないことに吃驚してしまった。老境のフランチェスカッティが「ブラームス」として提出してきたのは、うだうだと悩み苦しみ抜いたあげく枯れていくヨハネスではなく、かつてカサノヴァだったことを隠そうともしない自信たっぷりのヨハネス。上のほうで書いた涼しげな行書体が70歳を過ぎてなお維持されていて、若いころの録音と同じように貴公子のようなブラームスが繰り広げられている。

年老いたヴァイオリニストはボウイングの自制がきかずに悪魔のようなフレージングになっちゃうことも多いように思いますが、フランチェスカッティは地上に留まっているようです。燦々と太陽が照るような第3楽章のボウイングに惚れ惚れ。

余白に納められているのは第2セレナーデ。

ディスク全体を通してもブール/SWR響らしさ、みたいなものはほとんど感じないが、協奏曲の美しい第2楽章の冒頭を飾るObがものすごくペェペェした音で、いつでもリームとか始められますぜマエストロ、という空気が微笑ましい。
by Sonnenfleck | 2013-03-04 22:04 | パンケーキ(19)