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ラファエロ展@国立西洋美術館|感想文殺しのサンツィオ

c0060659_8393877.jpg要素が凝縮しきったベーコン展からのハシゴは、肉体的にも精神的にも僕を苛んだ。ラファエロの完璧エロは、ベーコンのストイックさとはかけ離れすぎていた。

これまでラファエロの肉筆に接したことはあっただろうか?もしかしたら、どこかの美術館の引越し展で目にしたことはあったかもしれないが、これほどの数の真筆をまとめて目の当たりにすると、多くの美術館がラファエロを極東になんか貸したがらない理由がよく納得できます。ぐうの音も出ないくらい完璧に美しいんですもの。ほとんど「列聖」ものだわね。

《天使》や《大公の聖母》の繊細な肌理を、
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《天使》(1501年)
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《大公の聖母》(1505-06年)

《ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像》が身につけている絢爛豪華な衣の装飾を、その細やかな衣紋の処理を、
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《ベルナルド・ドヴィーツィ枢機卿の肖像》(1516-17年)

そして《エゼキエルの幻視》のどっしりとした天の威光を、
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《エゼキエルの幻視》(1510年ころ)

われわれは目にする。解釈は許されない。ひたすら美しい。

最高の絵画によってねじ伏せられる心地はもちろん悪くない。僕は豊田で聴いたヤンソンス/バイエルン放送響のブルックナーを思い出しました。金の楽観と銀の無関心で織り上げられた、あの豪奢にして退屈なブルックナーを。
by Sonnenfleck | 2013-04-28 08:42 | 展覧会探検隊

ブリュッヘン・プロジェクト第4夜|新日フィルのシューベルト三態@すみだ(4/15)

c0060659_238152.jpg【2013年4月15日(月) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第4夜:シューベルト>
●交響曲第5番変ロ長調 D485
●交響曲第8番ハ長調 D944《グレイト》
 ○劇付随音楽《ロザムンデ》D797~間奏曲第3番
⇒フランス・ブリュッヘン/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


飛び去ったとんぼの影を追いかけて、追いかけちゃならないようにも思ったけれど、来てしまった。すみだ。
当日券で1階7列目中央ブロックに座る。そこが当日残っているくらい、お客さんの数は少ない。18世紀オケの3公演の後では仕方がないのかもしれないが、新日と公演の順番が逆だったら果たしてどうだっただろう。

オール・シューベルト。
前半の第5番は僕にとってはプラスの方向に評価するのが難しい演奏だった。遠くに飛び去ったとんぼの、そのまた影を眺めるようなもどかしさ。
極薄に刈り込まれたアンサンブルがなんだかヒリヒリして、あの優しい第5番が立ち上がるのに必要なふあっとした実体がなく、荒涼としたランドスケープが広がっている。弦楽隊のみんながボウイングの伸びやかさを抑えこまれ、ガチガチに凝り固まったフレーズの断片が風に揺れるばかり。このコンビが18世紀オケと同じ響きになるわけがないのだけど、でもハイドンやベートーヴェンツィクルスのとき以上に、枯れた花のような音楽になってしまっていた。

求めていたのはこれじゃないのだ…!と強く感じつつ、いっぽうで、これは00年代ブリュッヘン好みの北極点だったのではないか?という思いもある。18世紀オケの《未完成》はオケのメンツが此岸で踏ん張っていたんだなあ(ちなみにGlossaの新ベートーヴェン全集も、ああなるぎりぎり一歩手前みたいな演奏です)。リコーダー仙人がひとりで踏み込んでしまうと、こうなるのかもしれない。

+ + +

後半もこんな演奏だったらどうしよう…と思った僕を、ブリュッヘンはその音楽で温かく平手打ちにした。

僕はこれまで、ブリュッヘンと新日フィルのコンビネーションに対して、どこかで18世紀オケの影を重ねようとしてきた。ないものをねだるようにして。でもついに新日フィルは、新日フィルの特徴的な響きのままブリュッヘンの文法講座を修了し(あるいは習得に限りなく近づき)、その卒業演奏を僕たちに聴かせてくれたのだ。「守破離」で言ったらこの夜が間違いなく「離」だった。

硬く凝縮した第5番から一転し、単純に舞台上の人数が増えたことだけでは説明できないような響きの広がりが、第1楽章の序奏から徐々に生まれてくるのを観測していく。しかもその文法は弦楽器の側からアーティキュレーションに細心の注意を払わせた公平なバランス、つまり18世紀オーケストラと同様ながら、響き自体はたしかに少し腰高で細身の、あの新日フィルの音によって担われている。
これがどれほど単純で複雑なパフォーマンスであることか。2005年からの、8年越しの音楽文法講座の集大成である。

全編にわたって恐ろしく燃焼した演奏だったけれど、特に真ん中の2つの楽章はブリュッヘンのコントロールがよく効いていたように思われた。

まず第2楽章。僕はたしかにここでマーラーの子葉を聴いたのだけど、それはシューベルトのなかの古いウィーン性みたいなものが胚乳として利用されていたからに相違なく、その(ビーバーやフックスから流れてきているはずの)古いウィーン性は、ブリュッヘンが指示する管楽器の特徴的な厚みや強いアクセントによって増幅されている。それを養分に子葉が別の進化を歩むと、あのアンコールで示されたヨゼフ・シュトラウスになるのだろう。
最後の和音はとても整ったメッサ・ディ・ヴォーチェ。ブリュッヘンが新日フィルを「吹いて」いるようで、胸が熱くなる。

そして第3楽章。あの美しいトリオで自分は涙腺が壊れたようにだぼだぼ泣いたのだ。大編成の弦楽隊はパートとパートの間で静かな対話を繰り返しつつ、そこに対峙する木管隊はメリーゴーランドのように多幸感をきらきらと放射する。それらはどこまでも公正なバランスに乗って届いた。

第1楽章第4楽章は新日フィルの想いが昂ぶって、たいへん熱い演奏だった。ブリュッヘンも「しぃーっ」ていうやつをやっていなかったから、想いに応えていたのかもしれないです。豊嶋コンマスの渾身のリード、すごかったな。僕はプロのコンマスがあれほど気持ちを全身に乗せて弾いている姿を見たことがなかったし、演奏後にあれほど魂が抜けてしまっているプロのコンマスを見たこともなかった。

+ + +

アンコールには18世紀オケとの初日(僕は聴けなかった)でも演奏されたという《ロザムンデ》の前奏曲。
典雅な和音が穏やかに並んで生成されていくなかで、老人が指揮台から「クンッ」と軽い指示をコントラバスに飛ばすと、急に音楽の底が抜けて、漆黒の闇が口を開くんである。たいへん恐ろしい瞬間であって、これもずっと忘れないだろう。

その後、ロザムンデの後にもみんな譜面を急いで捲っていたので、どうもアンコールがもう一曲あったんじゃないかという気がしている。しかしブリュッヘンが車いすに座ったまま自分を指さしながら「俺はもう疲れた」みたいに豊嶋コンマスに話しかけて、そのまま解散となったのだった。
でも、これでよかったように思う。最後のアンコール曲は、もしかしたらあの最初のラモーの再演だったかもしれないし、あるいはまたバッハやシュトラウスだったかもしれないけれど、寂しく輝く美しいロザムンデが、最後に強い「。」ではなく余韻のある「―」を置いて、そうして中空に消えていった。
by Sonnenfleck | 2013-04-23 23:17 | 演奏会聴き語り

バッハ・コレギウム・ジャパン《ヨハネ受難曲》@彩の国さいたま芸術劇場(3/30)

3月末から4月初旬に受難曲を聴く習慣は、もちろんクラヲタになってから身についた後付け設定なのだけど、なんだかすっかりしっくりくるように脳みそがチューニングされている。
BCJによるバッハの受難曲を聴くのは何度目だろう。聴くたびに新しい発見があり、何かを得て家路につく。

今年は3/29が聖金曜日。オペラシティでBCJを聴くのをなるべく避けたい者として、翌日にさいたま芸術劇場の公演が設定されているのは幸運でした。
さいたま芸劇は、いまの居所からならそれほど遠くはない(すみトリとあまり変わらず、MMよりは間違いなく近い)にもかかわらず、これまで足が向かないホールだった。最寄りの埼京線・与野本町駅からのアプローチは、三鷹の風のホールに似ているけど、さらに最大公約数的郊外。ホール内部は典型的な中ホールで、内装もアコースティックも上質。これはもっと足を運ぶべきだなあ。

+ + +

c0060659_2245227.png【2013年3月30日(土) 16:00~ 彩の国さいたま芸術劇場】
●バッハ:ヨハネ受難曲 BWV245
→ジョアン・ラン(S)
 青木洋也(A)
 ゲルト・テュルク(T)
 ドミニク・ヴェルナー(Bs)
⇒鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン


何年か前、名古屋のしらかわホールでBCJを聴いたあたりからだろうか、僕はBCJの音楽に強いアクセントや濃厚な明暗を感じるようになってきています。初めて聴いたころのBCJはもっと平明で、レオンハルトが指揮するカンタータみたいにルネサンスのモードを感じさせる演奏が多かったような気がするのだけれど。

この日の演奏は、その明確なコントラストをさらに一歩進めた、マイBCJ史上もっとも激しく揺すぶられる音楽でした。

まず冒頭合唱の第1音に、ホールの空気がビリビリと震える。ほとんど絶叫に近いが、このナンバーは元来、それを許すくらい浪漫的でもある。さっそく秀美氏+優人氏を中心とした通奏低音隊に耳の焦点を移せば、これまでに彼らの演奏では聴いたことがないくらい激しいアタックを繰り返しているのだ。。

ユダヤ群衆を描写しながら同時にコラールを歌う合唱は、この午後、人間の醜さと美しさを交互にわれわれに聴かせて、真実の藝術を発露していたと思います。

群衆の合唱は、これもマイBCJ史上最強の立体感を表し、x軸y軸z軸、いずれの方向からも僕を苛みました。
「ユダヤの王様wwww万歳wwwwwww」のあたりなどは本当に下衆の極致で、耳を塞ぎたくなるくらい醜悪。なのに(なのに!)直後のコラールではどっしりとしたオフホワイトの光を聴衆の内面に向けて照射するのです。この激しい美醜のコントラストに滂沱の涙。いったいどうしたらいいんだ。。精神を掻き乱されるような事態に身体は硬くなるだけ。。

+ + +

エヴァンゲリスト、ゲルト・テュルクももう何度めかわからないが、やっぱりこのひとのプレーンな朗唱スタイルが好きだ。バラバ!のときに1箇所だけ入りをミスってしまったような気がするが(気のせいだったかもしれない)、その直後のテノールのアリアを弱々しげに歌う姿には思わず少し萌え。

通奏低音耳からすれば、特にエヴァンゲリストのレチタティーヴォは秀美氏のVc鑑賞大会になるわけですが、ペテロが兵卒の耳を斬り落とすときの剣の一閃、そして終わりのほうで槍がイエスの脇腹に突き刺さる一撃、いずれも強烈なボウイングによって壮絶な音がVcから発せられていました。

ソロではソプラノのジョアン・ラン、アルトの青木氏の、特にそれぞれ2回目のアリアが絶品だったなあ。特にランは非常に強い感情が入ってしまっていて(それでいて藝術としてもぎりぎり破綻していないのがすごいのだが)、歌い終えてから合唱の中に戻っても何度かまなじりを拭っていたのだった。

青木氏のアルトは何よりもあのなよやかなフレージングが魅力。受難曲のなかでバッハがアルトに与えるアリアにはだいたい艶と怨が込められているように思うんだけど、青木氏の歌唱が安定感を帯びたとき、雅明氏の思い描く受難曲の姿が固定される。

バスのドミニク・ヴェルナーは発音の不明瞭さや腰の重さがあまり好みではなく(前はそんなこと感じなかったような気がするんだけど)、今回はアンサンブルからひとり浮び上がっているように思えた。どうだったかしら。

+ + +

オーケストラも、ソロを含む合唱と同様の傾向を示しているように感じる。とりわけ管楽隊のくっきりとしたアタックや、コンチェルトの様相を厭わない歌い上げには、雅明氏の現在の好みがよく現れているんじゃないでしょうか。昔のBCJからずっとライヴを聴き続けている方に感想を伺ってみたい。

で、このはっきりした明暗嗜好が保たれたまま、6月の管弦楽組曲全曲@調布音楽祭に突入することを願うばかりなのだった。イタリアンとまではゆかずとも、光と翳がくっきりしたすこやかフレンチになる予感がする。
by Sonnenfleck | 2013-04-19 22:09 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン・プロジェクト第3夜|18世紀オーケストラのシューベルト、メンデルスゾーン@すみだ(4/6)

c0060659_7382884.jpg【2013年4月6日(土) 18:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第3夜>
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調 op.56《スコットランド》
 ○バッハ:カンタータ第107番《汝何を悲しまんとするや》BWV107~コラール
 ○ヨゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ《とんぼ》op.204
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ


嵐の夕べ、すみだで18世紀オーケストラは19世紀オーケストラに変貌していた。
ブリュッヘンが18世紀老人から19世紀老人に変容して新日フィルを指導していたのは何度か聴いているが、CDで何度も鑑賞してきた彼「ら」のロマン派作品をこの耳で最後に体験できたのは、本当に、本当に幸せだった。

+ + +

まずシューベルトは。これは僕の当初の予想にもっとも近い、典型的な00年代ブリュッヘン像をしっかりと示していた。とにかく静かで、不穏で、冷たい風がひゅうひゅう吹いているようなグロテスクな音楽。生で聴くとああいう感じなんであるなあ。
2007年のブリュージュライヴをFMで聴いて書いた感想文とほとんど変わらないので、それをほぼそのまま転載しておく。
まず1曲目の《未完成》を聴いて、冗談ではなく心臓が止まるかと思った。暗くて、激しい、どん底の演奏でありました。一筋の光明もない。

第1楽章。胸を抉るような低弦の響き、Flが断末魔の声のように引き伸ばされて第1主題を締めくくり、したがって第2主題はなかなか訪れない。訪れたら訪れたで、気を病んでしまったような暗鬱な音をしている。音楽家は、お客を集めて、お金を取って、こんなに破滅的な音楽をやっていいんでしょうか。。

展開部が来ても、再現部が来ても、この暗さがまだ続くのかという印象が強い。夜のあとに夜が明けない、残酷な音楽です。咆哮がこの世のものとは思えないのです。大袈裟に書いているのではありません。全部本当にあったことです。

第2楽章。今度は予想外に軽くてそっけない。最初の下行音型主題の提示が終わって、付点の付いた主題が登場すると、いよいよ音の量感がすーっと消えます。青く美しく透き通った沼地、それは毒が流れ込んで生き物が住めないから。
2007年7月6日
+ + +

そして後半の《スコットランド》で、僕たちは19世紀のリアルを聴いた。
19世紀のリアルとは何か?19世紀のリアルとは、つまりそれは数十年前までバロックだったということ。簡単な事実です。

相対的に数を増やしていった弦楽隊に埋もれてしまっている木管隊の旋律を復権させ(第3楽章)、低音擦弦楽器とファゴットに通奏低音のフォルムを要請し(特に第1楽章のおしまい)、トランペットとティンパニには彼らが誕生した原初の「ランドスケープ」を思い出させる(第4楽章)こと。

30年間ずっと一緒にやってきた彼「ら」が簡単そうにこれをやってのけるのを目の当たりにしながら、僕はメンデルスゾーンを愉しむ。ただ演奏実践がすべてであった時代の音楽を。これが彼「ら」の着陸地点なのだろうなあといま思うのです。第3楽章の美しすぎるメロディと、それを自在に歌い上げるオーケストラの幸せな横顔とブリュッヘンの大きくて小さな背中を見ていて、涙が出て仕方がなかった。

+ + +

正規のプログラムを聴きながら、アンコールには何をやってくれるのかを断片的に考えていた。《真夏の夜の夢》のスケルツォなら寂しくて据わりがいいな。

ところが、車いすから降りて再び指揮台に上がったブリュッヘンが長い腕を振り下ろすと、明らかにバロックのダンスナンバーがオケから流れ出したので驚く。
付点のある3拍子系、寂しいメロディ、フレーズの残り香は少なからずフランス風、なので、心のなかで密かにラモーを期待していた僕はラモーと判断したのだが、耳からの様式判断がよろしくないのはかつて大学で学んだことなのであった。



↑この16:17~。バッハのカンタータ第107番から最終コラール。
コラールなので厳密に言えば世俗のダンスじゃないわけだけど、これはたとえばバッハが管組第1番で使ってるフォルラーヌのリズムの準用なのだ。19世紀オーケストラはまた18世紀オーケストラに戻った。
今どきのハイパーな古楽アンサンブルのバロックとは少し違う、どっしりした粒あんの大福みたいなバロック。明晰より野趣。しかし付点のリズムはきつくなく、角は柔らかい。最後に彼「ら」は僕たちにバロックを聴かせてくれたのだ。何を悲しもうとしているのか。僕たちは。

客席に、徐々にスタンディングオベーションが広がっていく。東京の音楽シーンで自然なスタオベが起こることはほとんどない。そうなんだよね。みんなブリュッヘンと18世紀オーケストラを聴きに来たひとたちなんだ。僕も立ち上がる。

そして最後に舞台から流れてきた音楽も、僕たちの度肝を抜いた。
ヨゼフ・シュトラウスの《とんぼ》!
やはりメンデルスゾーンと同じ公平な管弦バランス。透き通った羽の、優しくて、華やかな、寂しいとんぼ。いまこうして思い出していても、胸にこみ上げるものがある。満場のスタオベに応えて、指揮者の一般参賀が二度。そして最後に、ブリュッヘンを真ん中にしてオーケストラみんなが横一列に並んでみんな参賀。とんぼの羽に腰掛けて、リコーダー仙人は遠くに行ってしまった。ありがとうブリュッヘン。ありがとう18世紀オーケストラ。
by Sonnenfleck | 2013-04-14 08:32 | 演奏会聴き語り

フランシス・ベーコン展@東京国立近代美術館|彼我の境界、凍れる身体

c0060659_6305614.jpg竹橋の近美で開催中のベーコン展は、アジア初の大規模回顧展として注目を集めているが、額装に関して独特のこだわりが展開されているのがまず興味深い。

ベーコン自身が好んだとされる、鑑賞者や室内が容赦なく映り込むフツーのガラスのプレートと、金のプレーンな額縁がそのまま利用されている今回の展示。わざわざキャプションにも書かれていたんですが、ベーコンはガラスによる隔絶感が好かったらしい。
彼の作品は(時期にもよるけれど)比較的暗い色調のものが多いので、われわれ鑑賞者はある程度以上の見づらさとともに作品を覗き込むことになるというわけです。

初めのほうに展示されていた《屈む裸体のための習作》(1952年、↓)を視ている時間、そうした状況の面白みが最高潮に高まる。
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暗い画面にはベーコンらしい檻と、身を屈めた裸体の男、檻の外から裸体の男を見つめているひとりの人物、そして、それを眺めている僕の姿が映っているのである。彼我の境界は完全に崩壊して、認識がぐらぐらする。僕の姿はどれ?画面に描かれた檻の外の人物?それとも比較的既視感の強いリアルな影?

以前、武満を外で聴いているとその無音部に街の騒音が入り込んで楽しい、という趣旨のことを書いた(→タケミツのジャンクな楽しみ方。)。ベーコン展はそれをもう少し進めた恐怖をこちらに植えつけてくれたというわけです。ベーコンがやりたかったのは、ガラスの隔絶感を触媒にして彼我の境界を破壊することではなかったのかしら。彼だけの世界も、我だけの領域も、どちらも存在しないんであるよ。

+ + +

それから、ベーコンの身体感覚ががっちり理解されたのも大収穫だったと思う。叫ぶ教皇とスフィンクスだけがベーコンじゃない!

本展の後半、ベーコンの後半生に差し掛かるにつれて、彼は身体への偏執的なこだわりを画面に展開していくようになる。
1960年代以降は、教皇やスフィンクスのように「身じろぎしない」対象ではなく、身体を伸ばし、縮め、くねらせ、何かを搾り出すような人物たちがたくさん描かれる。それは熱く連続してゆく身体を瞬間冷凍したような、凍れる身体性とでも言うべき作品たちなのだった。とにかく連続を一瞬に写し取っているんだよ。ベーコンは。その証拠に、画面の檻はこのころすでに撤去されてるのだった。

われわれはキュレーターに巧みに誘導されながら、ベーコンから誘発された土方巽の舞踏映像《疱瘡譚》(1972年)を鑑賞することになります。そこで壁面に投影される土方の肉体は、すぐ隣の壁に掛かる《座像》(1961年)や《椅子から立ち上がる男》(1968年、↓)と寸分違わない。
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そして最晩年のベーコンは、もはやガラスに頼ることなく、彼我の境界を破壊しにかかるんだよね。《三幅対》(1991年、↓)でパーツに分解された男性は、その脚で額縁を跨いでこちらにやってくる。境界問題と身体性の合体魔法である。
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その激烈な身体性に立ち向かうのが、最後の部屋のインスタレーション《retranslation│final unfinished portrait(francis bacon)│figure inscribing figure│[take 2]》(2005年)です。
これは作家のペーター・ヴェルツとダンサーのウィリアム・フォーサイスが、ベーコンの絶筆となった未完の肖像画をダンスに翻訳する試み。先述の土方巽の映像と決定的に違うのは、ベーコン作品の「影響下」じゃなくベーコン作品の「翻訳し直し」であるということで、僕はここにキュレーターの花押がはっきりと署名されているんじゃないかと思うの。ベーコンが東京においても無事に歴史になったことを確認して、われわれは日常に戻ることになるのです。
by Sonnenfleck | 2013-04-10 06:32 | 展覧会探検隊

ブリュッヘン・プロジェクト第2夜|18世紀オーケストラのモーツァルト&ショパン@すみだ(4/5)

c0060659_23194737.jpg【2013年4月5日(金) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第2夜>
●モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K550
●ショパン:Pf協奏曲第1番ホ短調 op.11
●ショパン:Pf協奏曲第2番ヘ短調 op.21
 ○ショパン:夜想曲第5番嬰ハ長調 op15-2
 ○ショパン:マズルカ第25番ロ短調 op.33-4
→ユリアンナ・アヴデーエワ(Pf/1837年パリ製エラール)
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ


本当はこの金曜日、会社の飲み会が入っていたのだけど、急にキャンセルになったのを幸いに、やりかけの仕事を全部引っ掴んでかばんに詰め込み、錦糸町に駆けつけたのだった。

このブログを読んでくださる皆さんであればご存知かもしれません。僕はブリュッヘンに対して特別な思い入れがあります。
彼らの(ら、の!)音楽を初めて聴いたのは、シューベルトの5番とメンデルスゾーンのイタリアがカップリングで入ったディスクだったと思う。でも2002年のみなとみらいでベートーヴェンの第9が聴けたのを最後に、「ら」の公演を聴くチャンスは日本では巡ってきませんでした。

2005年のすみだで新日フィル初共演のラモーの第1音に度肝を抜かれたのは間違いないことだけど、新日フィルとのハイドン、ベートーヴェン、ロ短調ミサなどをずっと聴いてきて、何かが物足りなかったんだ。何か?それが古楽器の濃厚な響きじゃなくて何だというのだ!

彼ら(ら、の!)の来日公演はもう行われないだろうというのが大方の意見だったけれど、10年の時を経て彼らは再び来日した。でもこの10年でブリュッヘンはすっかり老いた。ついに今宵は車いすで指揮台に運ばれてゆくくらい老いた。
ネットラジオで一生懸命聴いた00年代の「ら」の演奏、つい最近リリースされた新しいベートーヴェン全集、どれも嶮岨で静かな名演奏に変貌している。80年代の録音で聴ける「ら」の合体魔法をやるには、もう「MPがたりない!」なのではないだろうか…。「ら」の再来日に歓喜するいっぽう、僕はそう思っていました。

+ + +

でも!でもモーツァルトの40番が鳴りはじめて、僕はブリュッヘン+18世紀オケの合体魔法を正面からまともに浴びて256ダメージ!何も違わない!80年代の録音のあの濃密な音楽が戻ってきてる!

管楽隊のびゅわっ!というあの響き、弦楽器のしゃららー+ごりっ!というあのブレンド感。00年代ブリュッヘンの静謐な音色も今ではパレットに加わって、高濃度モーツァルトが描かれていく。フォルムは一切崩れず、明暗はあくまでも克明。そこへ、指揮者の爺さんが発する「zuuuuuu...ziiiiiiii.........」という風の歌が聞こえてくる。

驚いたのは第3楽章と第4楽章で、舞曲を処理するみたいにアンチナラティヴなリズムを付加してゆく指揮者と、あの旧い響きが帰ってきた18世紀オケが反応しあって、明らかにラモーの音楽が転生したようなモーツァルトができあがっていたこと。あの音は生涯忘れないだろう。
ありえない空想だけど、18世紀のどこかの宮廷に存在した老宮廷楽長とハイパー名人宮廷楽団に、仮にタイムマシンでモーツァルトのスコアを届けたら、一生懸命、彼「ら」の流儀でこんな演奏をするんじゃん?そういうことだ。

なお、ハイパー名人宮廷楽団にはウルトラコンマスがいて、ときどき中身が抜けて骨格だけになる老宮廷楽長の手の動きや目線の方向を察知し、完璧にサポートしていました。ウルトラコンマスのザッツと老宮廷楽長の震える指先の、その狭い隙間に湧き上がってくる音楽のピュアな響き。

+ + +

ショパンの感想文(特にソリスト、アヴデーエワ女史のこと)を書くのは、僕には荷が重い。
伴奏部分について語るなら、ブリュッヘンと18世紀オーケストラの演奏によって、それがまるでシューマンを思わせるほの暗い大気が充満した音楽に翻訳されていたことに触れておきたい。そしてVc首席はFgとの連携を常に意識しながら、明らかに他のパートとは異なる文法でソロパートにひたり...と寄り添っていた。ショパンのなかに潜む昔。
by Sonnenfleck | 2013-04-06 00:33 | 演奏会聴き語り

夢十八夜

不思議な話をします。

ある朝、目覚めたら、枕元にライヒの《18人の音楽家のための音楽》のCDが置いてあった。僕は寝る前に絶対にそんなことはしていないと断言できるし、僕が寝ている間にそんなことをやらかしそうな他の生物も部屋にはいなかった。僕は寝ぼけても多少は記憶が残るたちなんですが、一切、何も覚えていない。

不思議に思って見遣れば、そのCDが挟まっていたあたりの積ん聴きCDタワーに若干崩れが見られる。現実的には自分で寝ぼけてCDが必要になり、適当に(もちろん夜中なんだから部屋は暗い)たまたまライヒを選んできたのだろうと思う。
そう思いたい。

+ + +

c0060659_6155635.jpg【ECM/ECM1129】
●ライヒ:18人の音楽家のための音楽
→スティーヴ・ライヒ(Pf, Mb)ほか

《18人の音楽家のための音楽》を初めて聴いたのは最近のことです。
加藤訓子さんの驚くべきライヒ作品集にすっかりハマった僕は、いよいよライヒ自身の古典的な演奏で彼の作品を聴いてみようと思い立ったのだった。そしてみんなが誉めているこの「名盤」に手を出し、打ちのめされ…なかった。最初は。

Linnの極上にクリアな録音で加藤さんのマリンバやスティールパンに淫した愛好者からすれば、18人樂でカウンターポイントシリーズと同じ感激に浸るのは難しかった。編集の荒々しさ、楽音のハンドメイド感、そして何より、激しく自己の存在を喧伝するかのようなその「長さ」などが、ECMのドライな録音と相俟って、一昔前の流行りものに触れるみたいで少し埃っぽかった。

そう何度も聴くことなくiPodから消去されることになった18人樂。
でも。あの夢十八夜のあと、僕はもう一度この曲に向き合っている。

より短い作品であったカウンターポイントシリーズのことを考えてみると、たぶん僕は繰り返しの回数や加藤さんの演奏の変化を聴きながら「記憶」していたんではないかと想像する。
ミニマルミュージックが「記憶」されてしまうということが、犬が繋がれ鯉が生け簀に閉じ込められるのと同じであるとすれば、何度聴いてもどこをさまよっているのか理解できない18人樂には、野生のライヒとして永遠に狎れぬままにしておくべきなのかもしれない。そしてたまに会いに行く。
by Sonnenfleck | 2013-04-04 06:18 | パンケーキ(20)

「ブラボー」私たちが許可します―歌舞伎の大向こう、クラシック音楽進出へ

「ブラボー」私たちが許可します―歌舞伎の大向こう、クラシック音楽進出へ(asali.com/4月1日)

「成田屋!」「音羽屋!」「三代目!」―歌舞伎の掛け声で知られる大向こう組織が、クラシック音楽への進出を検討していることが明らかになった。

大向こうとは、歌舞伎の公演中に特徴的な掛け声を発することに特化した自主運営組織。現在、劇場公認としては東京だけで3団体、大阪には1団体が活動を行なっており、「大向こうを唸らせる」という表現のもととなった半玄人集団だ。
掛け声を発するのに大向こう組織に属する義務はないが、歌舞伎では下手な掛け声は不粋であり、大向こうが取り仕切る掛け声は歌舞伎の上演に不可欠な要素として知られる。

今回、大向こう組織がクラシック音楽への進出を検討している背景には、クラシック音楽の演奏会やオペラでの、無節操なブラボーの氾濫やフライング拍手の横行があると見られ、それらを円満に根絶したい音楽事務所やホールの関与を指摘する声も上がっている。

+ + +

ある大向こう組織は、取材に対し「なんでぇありゃあ。タイミングも考えずに叫びやがって篦棒め。あんなんじゃあ粋のいの字もありゃしねぇ。俺たちが変えてやらぁ」と息巻く。

しかしすでに同様の活動を行なっているNPO法人「トウキョウ・ブラボー・サービス」や「オオサカ・ブラボー・サービス」は、「木戸御免(=入場無料)が目当てなのでは」「笑里たんに『二代目!』とか叫んだら怒るよwwwコポォ」などと話しており、早くも新旧組織間での抗争勃発が危ぶまれている。

劇場での示威行為に詳しい専門家は、取材に対し「○シュケ○ージさんが指揮者で登場したらみんなで『待ってました!』って言おうぜ」と話す。伝統と格式のクラシック音楽の現場も時代とともに変化しそうだ。

by Sonnenfleck | 2013-04-01 06:01 | 日記