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ぼくのクライズラー&カンパニー

c0060659_22571266.jpg【BIS/CD-1196】
<クライスラー>
●ウィーン風狂想的幻想曲
●中国の太鼓 op.3
●蓮の国
●ジプシー奇想曲
●ファリャ/クライスラー:《はかない人生》~スペイン舞曲第1番
●グラナドス/クライスラー:スペイン舞曲
●アルベニス/クライスラー:タンゴ op.165 No.2
●ジプシーの女
●ヴィエニャフスキ/クライスラー:カプリース 変ホ長調
●道化役者のセレナード
●オーカッサンとニコレット
●ロマンティックな子守歌 op.9
●ドヴォルザーク/クライスラー:スラヴ舞曲第2番 op.46 No.2
●同:スラヴ舞曲第16番 op.72 No.8
●同:スラヴ幻想曲
●愛の悲しみ
●愛の喜び
●ウィーン奇想曲 op.2
レオニダス・カヴァコス(Vn)+ペーテル・ナジ(Pf)

僕がクラシック音楽について初めて「これはクラシック音楽のようであるぞよ」と認識したのは、たぶん、葉加瀬太郎が率いていた「クライズラー&カンパニー」が編曲演奏するクライスラーの曲たちを子ども時代に聴いたときなのである。だからいま、葉加瀬太郎がどんなに脂ぎった太めのおっさんに変容していたとしても、彼への感謝の念が薄れることはない。

やがてクラシックへの傾倒が強まるにつれ、ご多分に漏れずそうしたものを小バカにし始めた僕は、それから後、クライスラーの小品を集めたCDを1枚も持たないで暮らしてきた。でもいま一度立ち返ってみる。

+ + +

以前も書きましたが、現役最強のヴァイオリニストはテツラフとカヴァコスだと思っています(2人は1歳違いなのよ)。抜群の切れ味を誇る最新鋭の超硬工具のようなテツラフに対して、カヴァコスはまったくその逆、20世紀前半の西欧のヴァイオリニストのように艶やかで乾いた貴族趣味を感じさす気品ある唄い口が魅力。

どの曲がどんな演奏で、という感想文はこうした音盤には似合わないだろうから、カヴァコスの銀線のように細身の美音によって織り上げられていく総体の印象を愉しむのがよい。ウィーンのお澄ましからスペインに旅し、そこからひらりと翻って後半のスラブ趣味から、最後はまたウィーンに回帰していく、この章立て。しかしそれでも、スペイン=アラブ風味が5曲続く地区ではカヴァコスのボウイングが特に冴えて、伊達な仕上がりが聴かれるようには思うんですけどね。

このディスクはカヴァコスのディスコグラフィの比較的初期に録音されたものだと思うんだけど(ジャケットのセンスもどこか冴えない)、クライスラーがたくさん作った例の擬バロック様式の作品がチョイスから漏れているのが面白い。ヨーロッパの空間を自在に移動するアルバムに、時間の軸を導入しないことによってコンセプトをくっきりさせる。洒落ていますよね。

やっぱり買ってよかったな。小さめの音で、よく晴れた土曜日の朝に聴きたい。
by Sonnenfleck | 2013-05-28 22:58 | パンケーキ(20)

大野和士/ウィーン響のウィーン・プログラム@オペラシティ(5/18)

c0060659_1118977.jpg【2013年5月18日(土) 18:30~ 東京オペラシティ】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
○シュトラウス:ワルツ《春の声》op.410
○同:ポルカ《トリッチ・トラッチ・ポルカ》op.214
○同:ポルカ《雷鳴と電光》op.324
⇒大野和士/ウィーン交響楽団


1月に水戸で聴いた大野さんのシューベルトがたいへん好くて、その勢いで買ってしまった本公演のチケット。しかしこの週に開かれた大野/ウィーン響のほかのプログラムの出来に対して、ネット上で続々とあがる非難の声たち。果たしてどうなってしまうのか。かえってすごく楽しみになってしまった音楽会。

+ + +

オペラシティっていまだにどこに座ったらいいかよくわからないんですが、この日は3階R1列目、舞台の真上の席をゲット。Rからだと指揮者とコンマスのやり取りが明確にわかるんだけど、他の公演で言われていたような、オケ側の著しい不服従は、少なくともこの日は観測できなかったのだった。そりゃー1stVnの後ろのプルトとか全然やる気ないテキトーなボウイングだったけれど。

ウィーン響のアンサンブル能力はすごく低いというわけでもない。汚く濁っているわけではないが独特の曇った響き、ごく甘いピッチ、奇妙な音の木管隊。そして(これがもっとも強烈なんだが)あの謎の自信、あの発音の強気さ!俺たちがクラシック!(ドヤァ)という振舞い。いやー味わい深いよね。しかしあれに10,000円以上払うのは癪だ。

+ + +

アクとクセと澱みと自信過剰に満ちたウィーン響を前にして、大野さんはどんな音楽をやる?可笑しいことに大野さんのマーラーは、これがまた、オーケストラに負けないくらい自信たっぷりで、そして圧倒的に「変」だった。

大野さんのマーラーは「うた」しかないキメラなのだ。その瞬間瞬間の主旋律を(あるいはメロディではない経過句ですらメロディとして)どんどん選びとり、べろべろと舐め回し、むしゃむしゃ噛み砕いて自分と同化させてゆく。
これはヴェルディとマーラーのハイブリッドみたいなものかとも一瞬思ったけど、そんな生やさしいものではない。こんなにメロディしかないマラ5を、僕は全然聴いたことがなかった。

この「メロディしかない戦法」は、マーラーの5番目の交響曲では本当にぎりぎりのところで成立するかしないか、というやり方と思われた。
あるメロディnを、それ自体を流麗にしつこく細やかに猛々しく歌うことについて、オケに対する大野さんの指示は実に明瞭で、解釈者としての自分はこうやりたい!という音楽が客席にもはっきりと伝達されてきた(ちなみに大野さんの歌の感覚は「ベタ」で、そしてその「ベタ」は自分にとっても気持ちよくなじみ深いもので、これはユダヤじゃなく演歌だなと思わされることたびたび)

ところが、メロディnの大集合として成立すべき交響曲Nを、俯瞰で引いた視点から観察すると、メロディn内部の歌心はあれほど細やかであったにもかかわらず(またメロディnの内部では、「前進」が味付けの一種として働いていたにもかかわらず)、交響曲Nのフェーズではある種の停滞さえ感じられた。つまり、メロディn同士の連関はそれほど重視されていなかったんではないかという考えがもやもやと浮かんでくるんである。「キメラ」は前に進むことについてあまり関心がない…!

かくして前も後もなく、その瞬間のメロディに淫する袋小路的なマラ5が現れる。結果として第2楽章や第5楽章で描かれた豊饒の宇宙は実に見事だったと言えるし、逆に第3楽章の異様な退屈さ、前進しない絶望感は無類だった。重いながらも物理法則のように粛々と前進するクレンペラーのマーラーの、かっきり正反対に位置するのがこのやり方なのではないでしょうか。

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シューベルトは深淵とか闇とか、そうしたものと無縁の一本気で剛直な演奏。この勢いなら「未完成」じゃなく「完成」になっていたかもしれぬ。
交響曲第7番ロ短調 D759《完成》←くくく。あたりまえ。
しかし振り返れば、マーラーと同じ絵の具、同じ筆、同じキャンバスで作ってあったのが少し気になった。そんなものかなあ。20世紀っぽい。
by Sonnenfleck | 2013-05-25 11:19 | 演奏会聴き語り

フェドセーエフ/N響 第1755回定期@NHKホール(5/18)

フェドセーエフ好きの僕は、昨秋聴いたチャイコフスキー交響楽団(旧モスクワ放送響)との来日公演のデザートのようなつもりで出かけたのだったが。

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【2013年5月18日(土) 15:00~】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調 op.10
●チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 op.48
●ボロディン:歌劇《イーゴリ公》~序曲、だったん人の踊り
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/NHK交響楽団


フェドセーエフは意外にもこれまでN響に客演したことがなく(東フィルと仲良しだったからかな)、今回が初共演だった由。ところが彼らの90分間の共同作業を聴いて、僕は、彼らの相性が全然良くないことを知った。

現在のフェドセーエフは、兇暴な音響や音の質量を武器にするのではなく、オケの自然な円みや香りを活かすがゆえに、すべてを完璧に統率し切るような指揮をもうやめている。それでも手兵・チャイ響や、手の内を長らく学んできた東フィルは、フェドセーエフのフェドセーエフらしさを少なからず補いながら、それを自分たちの音楽とも不可分のものとして共に創る意気があるからまだいい。

しかしN響は。彼らが(彼らがと書いてまずいなら、紺マス氏がコンマスをやっているときには)自発的に指揮者に合わせよう、オケの側から指揮者を補おう、という気はさらさらなく、まったく事務的に、自分たちの負担にならない程度の適度な運動で定期公演を終えてしまう。

「オーケストラを訓練し統率することへの興味」をあまり多くは持たず、自由な霊感を大事にしている指揮者と、「自発的に協力する気持ち」に不足する"学級の秀才"オーケストラ。彼らが出会ってしまった。

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老人も少しは訓練を試みるし、優等生もその名に恥じない事務的な協力は惜しまないから、たとえば弦楽セレナードの第3楽章のようにまずまずの演奏(ピッチやアーティキュレーションに少なからず問題はあったが)が成立した箇所もあった。またイーゴリ公の周辺も、若いころのフェド節をほんの少し思い出させた。前世紀の録音で聴かれる、またチャイ響との音楽会でもちゃんと保持されていた、フェドセーエフの音楽に特有の張りと艶はここではほとんど望めなかったにせよ。

しかし…ショスタコーヴィチの第1交響曲。これは良くない。まったく良くない。心が凍えるくらい寒々しく醒めた演奏。そのために一面ではかなりショスタコらしくもあったが、あれを楽しめるほど僕はひねくれた人間ではない。

アンサンブルはギザギザで量感に乏しく、合奏協奏曲のコンチェルティーノである各パートのソロは輪郭がへにょへにょ(あのTpとVcに対してお金を支払われるのかと思うと実に厭な気持ちになる)。そしてもともとメドレー的な作品であるだけに、肝心なのは横方向への展開だけど、それすら怪しい。前に進まない。指揮者にもオーケストラもお互いに「なんでそっちがもっと努力しねえんだよ」という空気が漂う。断じてこれでは困る。

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僕はフェドセーエフ贔屓だから次のように書かせてもらうけど、N響は近ごろますます魅力がない。それなりの「当たり」にすら出会えなくなってきている。ほとんど燃え上がることのない湿った楽団に、なぜ時間を割く必要があるだろう?
by Sonnenfleck | 2013-05-22 23:02 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月4日(土)その3|キヤバレエの夜は亢進する。

c0060659_1032817.jpg【247】5/4 2145-2300 ホールC〈プルースト〉
●渋さ版キャバレー《屋根の上の牡牛》
⇒渋さ知らズオーケストラ


2012年のLFJに初登場し、一部の人たちから絶賛の声と拒否の叫びが轟々と上がっていた「渋さ」とやらが面白そうで、今年は聴きに行くことにしたのだった。

「渋さ知らズ」は「ビッグバンドジャズ+舞踊による総合的祝祭演劇集団」という感じであった。「祝祭集団」じゃなく「祝祭演劇集団」としたのは、その選曲や舞踊の「ものがたり」性を買いたいからだし、また元ネタや由来を広範に理解していることが求められるのも、やはりすごく演劇的です。
※ただしYouTubeで細切れに見られる彼らの普段のライヴはそんなに演劇っぽくないので、LFJ仕様なのかな。

僕が聴き取れた原曲は次のものくらい。ジャズ的というよりもっと激しい渾沌アレンジが行なわれていたし、何よりも前から2列目に座ってしまった僕には、スピーカーから発せられるあの大音量がそうとう厳しかったのではございますが。
●カルメン(前奏曲、ハバネラ、闘牛士の歌)
●ボレロ
…いや。こんなものではなくて。本当はこんなプログラムだったようだ。
(出典:http://togetter.com/li/502860)
●屋根の上の牛(ミヨー)
●カルメン~ハバネラ(ビゼー)
●カルメン~前奏曲、闘牛士(ビゼー)
●映画「冒険者たち」~すべて終わり、テーマ(フランソワ・ド・ルーベ)
●世の終わりのための四重奏曲~間奏曲(メシアン)
●ジムノぺディ(サティ)
●ボレロ(ラヴェル)
●ナーダム(林栄一)
●ばら色の人生(ピアフ)
●本田工務店のテーマ(渋さ知らズ)
こういったフランス風その他の曲たちが爆音とともに変態してゆくのだが(縦ノリverのメシアンは熱かった…)、そこに乗るのが、ものがたりがないようである、あるようでやっぱりない、舞踊なのだよね。

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ご覧のとおりホールCの壁面にアンダーグラウンドな装飾がなされ、ステージ後景には楽団と指揮者(不破大輔氏)がけばけばしいパフォーマンスを行なえば、ステージ前景には舞踊集団が、滑稽と悲惨に満ちたダンスとマイムを繰り広げる。
◆左右の踊り子(2名):彫刻
◆フレンチカンカン(5~6名):爽やかエロス→最後に救済
◆白塗りのお客(1名):痙攣するジョーカー
◆大女の女給(1名):大切な乙女の心
◆伊達男(1名):大女の女給と結ばれる
◆学ラン(1名):三角関係に絶望
◆櫓の牛(1匹):熱い
◆平原の牛(3匹):画面を横切る
◆赤フン(1名):MC
こういう面々が、先ほどのナンバーに乗って同時多発的にステージのどこかで「ものがたり」をやっているんですよ。祝祭的渾沌。ペーター・コンヴィチュニーが演出した《モーゼとアロン》第2幕の「黄金の子牛の踊り」を思い出す。そういえばこのキヤバレエにも牛が出てくるのであった。



↑当夜もだいたいこんな感じでした。

感動!とか楽しい!とかじゃなかった。音楽の元ネタと舞踊の「ものがたり」を追うのに必死で、目を白黒させながらステージに見入った。でも、分析してやろう、把握してやろう、とちょっとでも思った時点で、お釈迦さまの掌の上に座ってしまったことになるのかもしれない…と左右の踊り子さんたちがギエムのボレロを踊りかけているのを見て、思った。変な体験だった。
by Sonnenfleck | 2013-05-19 21:58

熱狂の復習―5月4日(土)その2|音速でカニサレる我等。

c0060659_21527100.jpg【246】5/4 1930-2015 ホールC〈プルースト〉
●深淵
●アルペジオの架ける橋
●彗星の雨
●カリブ海
●悠久
●真珠の首飾り
●魂のストリング
●鳩
⇒カニサレス・フラメンコ六重奏団
 フアン・マヌエル・カニサレス(1stGt)
 フアン・カルロス・ゴメス(2ndGt)
 ラファ・ビジャルバ(Perc)
 イニィゴ・ゴルダラセナ(ベース)
 チャロ・エスピノ(フラメンコダンス、カスタネット)
 アンヘル・ムニョス(フラメンコダンスとカホン)


直前の、悔悟に沈むフォーレから抜け出せなくて、こんな気持ちからのフラメンコなんて絶対ムリ!と思っていた。
しかしね。音楽の力は偉大なんである。ぴあの抽選システムがツキを運んできて、座った席は1階中央6列目、目前の楽団とダンサーから吹き出してくる乾いた熱風が、フォーレをドライに包み込んで別フォルダへの保存を許した。

この日まで僕は、フラメンコってもっと、運動性能がそのまま音楽になったようなマッチョな音楽だと思っていました。
でも、少なくともこのカニサレスという猛烈なヴィルトゥオーゾが作曲するフラメンコ音楽は、もっと洗練された野卑を志向していて、フォルムと情動のバランスを意識するような瞬間が連続的に現れる。ドメニコ・スカルラッティのソナタや、アルベニスやグラナドスや、ときにはモンポウからさえも遠くない。

百聞は一見にしかずです。次のクリップをご覧あれ。


↑ダンス付きの《真珠の首飾り》。見得の切り方は、その音楽の切断面も含めて歌舞伎と一緒です。ダンサー2人の臀部筋肉の発達ぶりに驚愕。


↑これは当夜の「パルティータ」の最後に置かれた《鳩》というナンバー。これはジーグだよね。耳の焦点を変えるとヘミオラもどきが…。

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カニサレスはすごく悪セクシー、しかも(しかもよ!)左派インテリみたいに軽く超絶技巧をキメていく。彼の音符の粒立ちの見事さ…そして纏っている空気の濃密な薫り。生で聴くリストとかパガニーニってこんな感じだったんだろうね。こんなに悪セクシーなパフォーマンスをやってくれる音楽家なんか、PfやVnではもはや絶滅状態でござ候。鈴木大介さんが彼との共演に興奮されてたのがよくわかった。

彼はラトル/BPOのヨーロッパコンサート2011でアランフェス協奏曲のソロを取ったので、クラシックな皆さんもいつの間にかお聴きになったことがあるかもしれませんよ。僕は注目していくことに決めた。
by Sonnenfleck | 2013-05-15 22:37 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月4日(土)その1|ぐらぐら煮えるよホットミルク。

c0060659_20495474.jpg【234】5/4 1630-1715 B5〈ミシア・セール〉
<フォーレ「夜想曲」全曲演奏その1>
●夜想曲第1番変ホ短調 op.33-1
●夜想曲第2番ロ長調 op.33-2
●夜想曲第3番変イ長調 op.33-3
●夜想曲第4番変ホ長調 op.36
●夜想曲第5番変ロ長調 op.37
●夜想曲第6番変ニ長調 op.63


【235】5/4 1815-1900 B5〈ミシア・セール〉
<フォーレ「夜想曲」全曲演奏その2>
●夜想曲第7番嬰ハ短調 op.74
●夜想曲第8番変ニ長調 op.84-8
●夜想曲第9番ロ短調 op.97
●夜想曲第10番ホ短調 op.99
●夜想曲第11番嬰ヘ短調 op.104-1
●夜想曲第12番ホ短調 op.107
●夜想曲第13番ロ短調 op.119

⇒ジャン=クロード・ペヌティエ(Pf)


今年のLFJでこの2コマをどうしても取りたかったのには理由があって、2010年9月にマルタンが東京と名古屋で開催した「パリ・至福の時」のパイロット版、「ル・ジュルナル・ド・パリ」で聴いたペヌティエのフォーレがどうしても忘れられなかったからである。
当時の感想文にはこう書いてある。
◆夜想曲第11番を聴いて
ペヌティエのフォーレは何かの啓示だった。おじいさんと一緒にホットミルクを飲むみたいな。
手にしたマグの中身がホットミルクになるまで、何がしかの何かがあったのだろうけども、孫たる聴き手はビターな何かを感じても、その正体は掴めない。ペヌティエの静かな語り口は、そのようであった。

◆夜想曲第13番を聴いて
フォーレは、おじいさんのホットミルクが最後にもう一度だけマグの中でぐらぐらと煮え立つような、たいそう胸苦しい音楽であった。
いったいフォーレとは何者だったか。ペヌティエは自分で考えろと言った。
+ + +

ブラームスの晩年の作品が「男くさい諦念にあふれる」と評されることが多いこの世界で、フォーレに触れるひとは少なく、この作曲家は相変わらず孤高の存在のままである。
かくいう僕もフォーレのピアノソロ作品にあまり近寄らずに来たので、大きなことはまったく言えないのですけれど、ペヌティエの演奏を聴いていると、フォーレのなかにある諦観の実直さ、実直さゆえの自責のようなものを強く感じたのであった。

まさにそれこそが味わいなので、貶めるつもりは毛頭ないのですが、ブラームスは最後の薄皮一枚のところで「諦めてる俺(ちょっと)かっこいい…!」みたいな自尊心がひとつまみ分混入してるんだよね。
フォーレはこの「俺(ちょっと)かっこいい…!」がない代わりに、実直な回顧を続けるなかでふと、諦めてしまった過去の自分を責めるようにギリギリと奥歯を噛んだり、胸を掻きむしったりするような自傷っぽい痛みがあって、聴き手を何とも言えない気持ちにさせる。

ペヌティエのタッチは特段の快刀乱麻でもなければ怜悧な刃物でもない。でも彼のフレージングやペダリングによって、フォーレ特有の悔悟フレーズに付与されるエネルギー量は相当なもの。五線譜の行間がグラグラっと煮えたぎるような瞬間が確かにあるのだ。

作曲された順番にフォーレの手記を聴いていく。フォーレは全部で13曲のノクターンを残したのだが、第8番くらいまでは甘美なメロディを「悔い」が遮って、また甘美なメロディが戻るというような緩やかな三部形式構造になっている。形式を意識するのでそこに乗っかる荷物はまだ多くない。
ところが第9番以降、形式は感情の赴くままに乱れ、パッセージは複雑に入り組み、ノクターンは自責に苛まれ自傷を繰り返すような大質量の音楽に変容してゆく。特に第11番からの3曲は圧倒的に胸苦しい。聴いていてうなだれてしまう。そんな音楽。ペヌティエは第13番だけ暗譜だったが、抑制的な思弁が一度思うさま乱れればどうなるか、ということを示してくれた。丁寧なタッチは激しく乱れる。

フォーレはフォーレ以外とずいぶん違った音楽を書いたが、それは他の誰かから発したものでもなく、また、その後は他の誰にも伝わらなかった。それでよいのだし、僕はそういえば、そんなフォーレが大好きなのだった。
by Sonnenfleck | 2013-05-13 20:54 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月3日(金)その2|その男、凶暴につき。

c0060659_18182040.jpg【162】5/3 1200-1300 G409〈アポリネール〉
●ショーソン:Pf三重奏曲ト短調 op.3
●ラヴェル:Pf三重奏曲イ短調
⇒トリオ・ヴァンダラー


LFJ常連のトリオ・ヴァンダラーの演奏を聴くのは、記憶が正しければ、意外にもこれが初めてではないかと思う。

曲順が変更され、ショーソンのトリオから演奏されることになったが、この60分間の最大の山場が第3楽章にポジショニングされていたのは僕にとってはとても嬉しいことだった。鬱勃とした(しかしあくまでも高貴な)エネルギーが、光線や空気の加減によってちろちろっと燃えたり、ぎゅわーっと外側に放射されたりするこの第3楽章。

ちょうどチェロ側の真横から彼らを眺めるような席に座っていると、ヴァルジャベディアン(Vn)とピドゥ(Vc)が、もはやアイコンタクトでも、呼吸でもなく、互いが身体を動かす気配みたいなものをアインザッツに用いながらアンサンブルしているのがわかり、あらためて常設のベテラントリオの演奏に慄然といたしました。

【163】5/3 1330-1415 G409〈アポリネール〉
●スカルラッティ/グラナドス:ソナタ3曲(当初プロから変更あり)
●ドビュッシー:《版画》
●ファリャ:クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための讃歌
●グラナドス:組曲《ゴイェスカス》~〈ともしびのファンダンゴ〉〈嘆き、またはマハとナイチンゲール〉〈わら人形―ゴヤ風の情景〉
⇒迫昭嘉(Pf)


ちょうど眠りが訪れやすい時間帯で、迫氏には申し訳ないなあと思いながらうとうと。しかし気持ちがいい。これもLFJの醍醐味のひとつなのだよね。

見事なスペインプログラム。〈グラナダの夕べ〉が入ったドビュッシーの《版画》から、その〈グラナダの夕べ〉が全編にわたって引用されるファリャへの流れはかなり鮮やか。迫氏のタッチはたいへん端正でアカデミックなものだから、一度ちゃんとしたホールでお聴きしたいです。
なお楽しみにしていたグラナドス編曲版スカルラッティは、もっと物凄くかたちが変わっているのかなあと思いきやさにあらず。どうも和音が厚くなったりしているようなんだけど、あまりよくわからなかった。

【164】5/3 1500-1545 G409〈アポリネール〉
●トゥリーナ:ファンダンギーリョ op.36
●タンスマン:マズルカ
●ファリャ:クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための讃歌
●トローバ:ギター・ソナチネ~第1楽章
●サマズイユ:セレナード
●ルーセル:《セゴビア》
●ヴィラ=ロボス:12の練習曲~第8番、第7番
●トゥリーナ:《セビーリャ幻想曲》op.29
○マラッツ:《セレナータ・エスパニョーラ》
⇒鈴木大介(Gt)


G409という部屋はスタインウェイのコンサートグランドや弦楽合奏にはあまり向かないのです。ここはリュートとギターのための親密な空間。ひとつ前の公演で休息できたのと、大介さんの熱さに触れて一気に覚醒したのだ。

大介さんの録音で「Francaise」という素敵なアルバムがあって、実はiPodのなかに忍ばせてあるんだけれど、この公演はこのアルバムの選曲と重なるところが多かった。アルバムに副題を付けるとしたら「Francaise|パリのスペイン」かな。

冒頭のトゥリーナとタンスマンがライトでドライでとても佳いなあと思っていると、次のファリャ(奇しくもひとつ前の迫氏の公演でも取り上げられた!)のしごくエロティックな佇まいがハートをぐさり。濃密な夜の大気。ピアノのファリャとギターのファリャはなんでこんなに違うのか。。しかし大介さんがおっしゃるとおり、ファリャはこれ1曲しかギター作品を残さなかった。。

45分間のコンサートだったけれど、大介さん自ら「(このあとのカニサレスたちとの公演があって)テンションが上がりまくってる」と語るとおり、正味30分くらいでプログラムが終わってしまった。この方はああいうキャラクタなので、とぼけた味わいで今回のプログラムを解説をしつつ時間を上手に使い、最後にやっぱりスペインのアンコールで〆。

【165】5/3 1630-1715 G409〈アポリネール〉
●メシアン:《鳥のカタログ》~〈ダイシャクシギ〉
●フィリップ・ルルー:《AMA》
●ブーレーズ:Pfソナタ第1番
●ユーグ・デュフール:《穏やかな海》
⇒ユーリ・ファヴォリン(Pf)


硬派なプログラムゆえ、さっきのギターとはずいぶん客層が変わって、挙動不審テイストの熱いお客さんが多い(気を張らなくて済むのでこっちも気が楽)

ところが残念なことに本日2度目の深い睡魔が訪れてしまい、ブーレーズまでほぼ撃沈。ファヴォリン君、ブーレーズは暗譜だったな。。

で、目が覚めて耳を傾けることができたのは、スペクトル楽派のデュフールが作曲した《穏やかな海》。和音の塊が整然と並び、寄せては返す波のように空間を満たしていく作品です。波のかたちにひとつとして同じものがないように、音塊は微妙にその質量やきらめきや濁りを変えつつ寄せてくるわけですが、なんとなくブライアン・イーノみたいな静かな感覚もこちらの受容器に伝達されてきた。もちろん時折、ひどく禍々しい波も来るので、油断はできない。

+ + +

ここで本日やっと、ガラス棟4階を下りてD棟へ。ホールD7はアクセスの悪さと冷え冷えとした内装(こういうプログラムだとよくマッチするけど)を除けばいちばんまともな会場だと思います。小会場だと次点でホールB5。

【155】5/3 1800-1845 ホールD7〈メーテルリンク〉
<"20世紀パリ:音楽の冒険(Bプロ)">
●ドビュッシー:Vcソナタ ニ短調*
●ブルーノ・マントヴァーニ:《ハンガリー風に》**
●ブーレーズ:《アンシーズ》***
●ドビュッシー:Vnソナタ**
⇒アンサンブル・アンテルコンタンポラン
 ディエゴ・トシ(Vn **)
 ピエール・ストローシュ(Vc *)
 ディミトリー・ヴァシラキス(Pf * ** ***)


中野振一郎氏のモダンチェンバロももちろんサイコーだったのだが、この日はおしまいにもうひとつサイコーが。アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)のピアニスト、ディミトリー・ヴァシラキスとの出会いである。

最初のドビュッシーのVcソナタは、ストローシュのソロをすぐ間近で聴いたんですが、どうにも雑でこなれてない。今回これ以外の公演でも同じような場面にいくつか遭遇したんだよね。EICの音楽家たちのなかには、1950年以前の作品を、様式を十分に捉えないまま恣意的に弾いてしまう癖があるひとが少なくないように見受けられました。単純に演奏のチャンスが少ないからだろうと思う(Vnソナタもちょっとそういうところが見受けられた)

このコンサートの最高の収穫は、ちょこちょこっと入場し、全曲を易々と弾いてひらひら~と去っていった超絶技巧の名手・ヴァシラキスを知ったこと。
1967年アテネ生まれのヴァシラキスは、1992年からEICのピアニストを務めていて、むろんドビュッシーの深淵から照り返すようなタッチをフツーに再現しつつ(やっぱりエマール先輩と同じにおいを感じますね)、ブーレーズ作品なんかお茶の子さいさいで弾いてしまう。
彼の打鍵の軽やかさとしなやかさ、音色の美しさと音楽の要請に応える適確さには、ただただ唖然とするばかりで、ファヴォリン君のデュフールだってなかなかのものだったけど、ヴァシラキスの前ではオトナとコドモという感じもしてしまう。《アンシーズ》が、強烈な色彩と粒立ちで目前に展開していくのを聴く幸福。ああ幸福。

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5月4日(土)に続く。
by Sonnenfleck | 2013-05-06 18:21 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月3日(金)その1|鋼のラメントは機械油の涙を流す。

c0060659_10415286.jpg【161】5/3 1000-1045 G409〈アポリネール〉
<"パリのバロック" ランドフスカの再現コンサート>
●バッハ:前奏曲ホ長調 BWV854
●ヴィヴァルディ/バッハ:協奏曲ニ長調 BWV972
●バッハ:イタリア協奏曲ヘ長調 BWV971
●クープラン:《牧歌(田園詩)》~クラヴサン曲集第2巻第6組曲より
●テレマン:ブーレ ヘ長調
●フローベルガー:ラメント~たぶん第12組曲《皇帝フェルディナント3世の悲しい死に寄せる哀悼歌》より
○クープラン:《おしゃべり》~たぶんクラヴサン曲集第2巻第6組曲より
⇒中野振一郎(モダンCem)


楽しく、豊かで、意義深い時間。個人的には、これまでのLFJ8年間のなかで三指に入る公演だった。
これは、古楽実践に巧妙に偽装した未来主義プロデュース。19世紀末のデカダンスの球根から芽を出し、20世紀になって咲いたのは、未来主義の鉄の花じゃなかったか?ランドフスカのサロンに満ちていた鉄の花の香りが再現され、かつ未来主義者の幻覚が(幾重にも時空を捩らせつつ)結実した45分だったと言えないか?何しろ人びとは未来の服に身を包み、ガラスの建築物のなかの小部屋で豊かな音楽に耳を傾け、機械の精霊を閉じ込めた小さな板を持ち歩いて会話しているのだ。

中野氏いわく、このコンサートは特定の一夜を再現したものではなく、1920年代から50年代のランドフスカの代表的なレパートリーを集めたプログラムとのこと。奏法も(これがまた猛烈に面白いのだけど)当時の演奏様式を強く意識した、と語っておられ、事実そのように聴こえるんである。

+ + +

バッハのホ長調プレリュードから、ヴィヴァルディの協奏曲編曲、そしてイタリア協奏曲に至る流れは、ねっとりした浪漫派風タッチとモダンチェンバロならではの自在なフェルマータ(!)により、ピアノでもヒストリカルチェンバロでもない、何か独自の味わいを持つ珍妙な愉しさとともにこちらへ提示される。

折り返し、クープランからはさらに壮絶な音世界。未来よ。これは未来。
モダンチェンバロはペダルの踏み込みにより、4フィート・8フィート・16フィートの化学的レジストレーションが可能なのであり(未来でしょ!)、むろん演奏中でも対応できる。
中野氏は、当時「発見」されたばかりのイネガルを「ばんがばんがばんがばんが」と極端に奏しつつ(これこそがモダン古楽に対する敬意と古楽的実践精神の結実!)クープランの牧歌世界を、テレマンの舞踏世界を、途轍もなくギラギラした別のものに変容させていく。

そして最後のフローベルガーが演奏されたとき、これがマンガなら「ギュオーン」とか「ジャキーン」という擬声語がコマのなかに入ってもおかしくはなかった。
地底を這う巨大な配管を思わせる16フィートの極低音に下支えされ、チロチロとランプが点滅するような4フィートの高音が流れるなか、巨大ロボのようなフローベルガーが立ち上がってくるのね。これはもう本当に異常な体験。鋼のラメントは機械油の涙を流し、パリの至福は1889年のエッフェル塔から始まったのだ。
by Sonnenfleck | 2013-05-04 11:43 | 演奏会聴き語り

平成25年度熱狂計画

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◆5月3日(金)
・161 中野振一郎 ランドフスカ1950|再現コンサート [G409]
・162 トリオ・ヴァンダラー ラヴェル:Pfトリオ [G409]
・163 迫昭嘉  グラナドス編スカルラッティ[G409]
・164 鈴木大介 トゥリーナ、タンスマン、ファリャ... [G409]
・165 ファヴォリン メシアン、ルルー、ブーレーズ... [G409]
・155 EnsIC “20世紀パリ:音楽の冒険(B)” [D7]

◆5月4日(土)
・234 ペヌティエ フォーレ:夜想曲全曲演奏1 [B5]
・235 ペヌティエ フォーレ:夜想曲全曲演奏2 [B5]
・246 カニサレス・フラメンコ六重奏団 ”魂のストリング” [C]
・247 渋さ知らズオーケストラ ”パリ×キャバレー” [C]

◆5月5日(日)
・351 リチェルカール・コンソート ”パリのバロック” [D7]
・352 クン=ウー・パイク フランク、ラヴェル、フォーレ... [D7]
・364 EnsIC “20世紀パリ:音楽の冒険(E)” [G409]
・365 ペヌティエ オアナ:24の前奏曲 [G409]
・325 マルッキ/EnsIC “20世紀パリ:音楽の冒険(C)” [B7]
・346 ヴォックス・クラマンティス×勅使河原三郎 ”パリ×ダンス” [C]

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なんだかんだとぶつぶつ文句を言いつつ、根本的には好きなんだろう。LFJ。2009年「バッハとヨーロッパ」以来の濃密な参加となり、きっと集中力は持たないけれど、とにかく何も考えないで浴びるほど音楽を聴いてこようと思うのでした。

期待度No.1はやっぱりペヌティエのフォーレ。続いてマルッキ姐さん/アンテルコンタンポランによるブーレーズのデリーヴ1。去年面白がってたひとがすごく多かった「渋さ」も、ちゃっかり席を取ったれば備えよし。
by Sonnenfleck | 2013-05-02 22:16 | 演奏会聴き語り