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[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その五 能「巴」@豊田市能楽堂(5/11)~はじめてのしゅら~

豊田市は雨だった。豊田参合館の、コンサートホールの隣のあのスペースに、僕が足を踏み入れる日が来ようとは。。

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c0060659_1023311.jpg【2013年5月11日(土) 14:00~ 豊田市能楽堂】
<豊田市能楽堂主催公演「ふじ能」>
●狂言「金岡」(和泉流)
→野村万蔵(シテ/金岡)
 野村万禄(アド/妻)
●能「巴」(喜多流)
→狩野了一(前シテ/里の女|後シテ/巴御前の霊)
 飯富雅介(ワキ/旅の僧)
 椙元正樹、橋本宰(ワキツレ/従僧)
 野村太一郎(アイ/粟津の里人)
→大野誠(笛)
 後藤嘉津幸(小鼓)
 河村眞之介(大鼓)ほか


能にはいくつかの種類がある。オペラがセリアやブッファ、グランドオペラ、ヴェリズモなどに分かれているのと同じように。

 初番目物:脇能とも。だいたい「神さま目出度い!」という内容。
 二番目物:修羅物とも。
 三番目物:鬘物とも。女性の亡霊の恋する思いを描くことが多い。
 四番目物:狂い物、雑能物とも。その他もろもろ。
 五番目物:切能物とも。鬼や天狗が出てくるスペクタクル。

「修羅物」は現世で戦闘に明け暮れた武者や武将、悪人が死霊の姿で現れ、現世で果たせなかったことへの執着や修羅道に堕ちた苦しみを語り、やがて消える、という形式が多いようです。「平家物語」から着想した作品が多いこの二番目物(修羅物)に分類される能、ついに初めて見たのですが、それが唯一の女性を主人公とする修羅能「巴」だったことに運命的なものを感じるのであった。

1 「巴」のおはなし
巴御前、って知っておられるかたが多いですよね。頼朝のいとこにして悲劇のライバル・源義仲(木曾義仲)の愛妾、そして古今比類なき女武者として「平家物語」に描かれた女性です。

ものがたりは義仲が戦死した粟津(びわ湖ホールのあたり)を僧が訪れるところから始まる。僧は神前に参拝に来ていたひとりの女性を目にとめてしばし会話するが、女性はすっ…と消えてしまう。ここまでが前半。
後半、僧の前に、薙刀を持ち甲冑をまとった女武者の死霊が姿を現す。死霊は自ら巴と名乗り、義仲の死に立ち会えなかったことを悔やんで、感情の激するままに薙刀を掲げて舞う。そして消える。こんなおはなし。

2 執心の凄惨な美
神様や帝を寿ぐ脇能がビクトリアやパレストリーナのミサ曲だとすれば、修羅の怨霊が現れる能は、ヴォルフのリートやブリテンのある種のオペラのように救い難く凄惨で、静かに物悲しい
「巴」の身体的な見どころは、やはり終盤の、シテによる「薙刀のヴァリアシオン」なのだよね。普通は扇で心情を語るところを、長い薙刀で義仲への執心を表現し、能面で涙を流し、やがてクライマックスでその薙刀をがらりと取り落として、このものがたりは終わる。
シテの狩野氏は総身に力を漲らせ、必要十分に女武者の死霊を演じきったと思う。シテの技巧に関する専門的な見方がまだわからない今だけ味わうことができる、執心の本質的な部分を観測した。これは自信がある。

3 焼き切れる執心
で、「巴」の観念的な見どころがどこにあるのかといえば、やっぱりこれも「薙刀のヴァリアシオン」なのだよね。
「平家物語」の記述によれば、巴が義仲と別れて落ちていったのは義仲の最後の一戦の前であり、しかも義仲が討ち取られるのを目撃したのは彼の乳母子・今井四郎兼平。兼平もすぐに後を追って自害したので、したがって巴は、義仲の最期の様子など知る由もない。

でも、この「巴」の名無しの作者は、巴の怨霊に義仲の最期を演じさせるという思い切ったドラマトゥルギーを用いるんである。
ヴァリアシオンの強靱な舞いは、白熱電球のフィラメントが焼き切れる瞬間の強い輝きのように見えた。能の前半、舞台に巴の死霊が降りていたのは疑いないが、最後に作者は、巴の死霊に義仲の死霊を二重に降ろすことによって、巴の執心を焼き尽くさせたのかもしれない。それは彼女のための、弔いの炎である。

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五月晴れの翌日、滋賀の粟津に行った。
粟津(膳所駅から徒歩10分くらい)に「義仲寺」というお寺がある。義仲の墓所とされる場所であり、義仲死後に巴が結んだ庵がこのお寺の始まりともされている。

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立派な義仲の墓と寄り添うようにして、小さな「巴塚」が境内の緑に埋もれていた。巴の墓とも言われるし、そうでないとも言われる。しかしどちらでもよい。
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実はこの寺を愛したのが、松尾芭蕉なのだ。義仲の墓の奥に、松尾芭蕉の墓がある。時代の不思議な断層を感じますよね。
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正午前の木洩れ日を浴びてしばし境内に佇む。池では亀が甲羅干し祭り。
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執心が焼き切れてのちの世の、穏やかな昼。初夏に向けて陽射しは心持ち強い。今から900年前に、そんな男女がいたのであった。
by Sonnenfleck | 2013-06-30 10:35 | 演奏会聴き語り

調布音楽祭2013|バッハ・コレギウム・ジャパン「管弦楽組曲全曲」@調布市グリーンホール(6/22)

バッハの管弦楽組曲(自分愛称かんくみ)は意外に生演奏の機会がない。第2番や第3番は古楽アンサンブルの単発音楽会でたまに取り上げられるけれども、第1番や第4番は全然である。
それもそのはず、音楽的体力と美的知力が総動員されなければ、この曲集は音楽にならない。バッハの世俗音楽特有の演奏至難さを存分に持ち合わせている恐ろしい作品たち。3月末のヨハネ@さいたま芸術劇場で心を揺さぶったいまのBCJなら、どんな演奏をするのだろう、という強い好奇心で出かけたのだった(調布遠い…)

地下化された京王線調布駅(地上時代には一度だけ降り立ったことがあった)から、ごちゃっとした駅前広場に上がると、昭和の「文化会館」の姿をよく留めた調布市グリーンホールがある。内装はプチNHKホール。残響はほぼゼロ。
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【2013年6月22日(土) 17:00~ 調布市グリーンホール】
<調布音楽祭2013>
●バッハ:管弦楽組曲第1番ハ長調 BWV1066
●同:管弦楽組曲第4番ニ長調 BWV1069
●同:管弦楽組曲第2番ロ短調 BWV1067
●同:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068
○同:ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調 BWV1048~第2、第3楽章
 ※第2楽章は3台Cem協奏曲ハ長調 BWV1064 第2楽章による補遺
 →アントワン・タメスティ(1stVa)
⇒鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン


それで。この日は非常にスリリングな瞬間に何度か出遭った。天下のBCJをしてもかんくみは難しいのだろうなあと思う。
僕はこの日、1階正面10列目中央に座ったのだけれど、各曲の序曲で付点のグラーヴェが終わってから、特に後半のヴィヴァーチェに入った直後、アンサンブルに小さな罅や瑕が入っているのが意外であった。巨大な受難曲では雅明氏の下で統一的に躍動していたBCJのアンサンブルが、少しく乱れている。

ここから先は特に僕の私論なのですが、通奏低音ががっちりしている古楽アンサンブルが比較的中規模以下の器楽合奏曲を演奏する際、もし指揮者がリハーサルで音楽に解釈を付与してしまって以降だとすれば、本番での指揮行為はどれくらい意味があるのか、ということについて以前から疑問を持っています。

現にこの日、秀美氏をリーダーにする懸田氏+今野氏+優人氏のBCは、雅明氏の指揮ではなく、ほとんどの場合コンマスのアインザッツに従っていたんだよねえ。もちろん寺神戸さんは雅明氏の指揮を汲み取るし、流れが大きく曲がったり停止したりする箇所は、秀美氏の目線は必ずお兄さんの指先を向いていたんだけれど。

帝と将軍と摂関家みたいな複層的なリズム構造が展開されてしまっていたこと、個人的にはここに罅や瑕の原因を探ってしまう。
さらにティンパニが入る曲だと、指揮者に従属する関東管領みたいなもうひとつのリズム権力が存在してしまって、もうどこがリズム権力の中枢かわからん状態(客演の菅原淳さんはもちろん相変わらず素晴らしいパフォーマンスでしたが…)。彼らの演奏する受難曲やカンタータは「声」を掌握している帝としての指揮者が、圧倒的に全体をまとめているのだけれども。

+ + +

こうしたことから第1番の序曲、ガヴォット、パスピエや第3番の序曲はどうにもスリル満点な演奏を観測したのだったが、そこは歴戦のBCJであるから、演奏途中に体勢を立て直して、通奏低音とコンマスが協力しながら指揮者にうまく合わせることにつなげていったのだった。

指揮者と通奏低音チェンバロが分離しているBCJの現状では、完全完璧なリズムの統一を図るのは(あえて率直に言いますが)困難だというのが僕の感想。これは、だから誰誰が悪い!とかいうのではなくて、それをBCJが自分たちのスタイルとして披露している以上、聴衆はそれを彼らの音楽として受け取り咀嚼すべきである。

だから、指揮者が通奏低音チェンバロに座って、各パート1人の中編成、コンマスやトラヴェルソのアインザッツと通奏低音だけで成立した第2番は、僕には理想的な演奏に思われた(これは雅明氏がチェンバロに座ったから、というのでは決してなくて、仮に優人氏が座ってお父上が舞台袖に入られても、そういう演奏になったと思う)。通奏低音と一緒に安心して呼吸できる演奏って、それはそれは素晴らしいのだ。

<いくつかの萌えポイント>

・文句めいたことを書いてきましたが、アンサンブルに小さな乱れが生じていたのは急速楽章であって、第1番のクーラントや第4番のメヌエットのようにきわめて柔らかく精妙なゆるふわイネガルが効いた楽章はサイコーであった。これは本当に。陰翳の濃いイタリアンな印象が増していた最近のBCJだけど、フレンチの味つけだってやっぱり上手だ。

第4番の終曲、レジュイサンスの中盤に寺神戸コンマスがまさかの断弦!6月の湿気とガット弦の相性の悪さは折り紙付きですね。残った3本の弦で、物凄いポジションチェンジを繰り出しながら懸命にアンサンブルをリードする寺神戸氏にブラヴォ!
第2番の序曲が終わったところで、秀美氏が調弦したげにチェンバロに座った雅明氏に話しかけてDかAをもらっていた。「おい兄貴、音くれよ」「あ?…ほらよ」みたいな感じに見えました(笑) この兄弟の通奏低音は完璧すぎて可笑しい。

第1番のブーレIIをはじめとして、村上さんのFgがあちこちで神懸かっていたのは言うまでもない。通奏低音もソロも担当する恐ろしい管楽器だ。。
・管さんのトラヴェルソもクールすぎる。ポロネーズ→メヌエット→バディネリの一気の寄せで、土俵下まで吹っ飛ばされたのだった。
・演奏後に明らかに疲労困憊だったOb3人衆、三宮氏・前橋さん・尾崎さん、お疲れさまでした。かんくみ全曲ってあんなに大変なのだなあ。。

・そして話題のスターヴィオリスト、アントワン・タメスティがアンコールでまさかの乱入。自分もBCJと何かやりたい!って申し出たらしい。何が演奏できるか雅明氏たちと一生懸命考えた結果、ブラ3の抜粋という嬉しい選曲に!
肩当てのあるモダン(仕様の)Vaだったとは思うんですけど、もしかしたらガット弦を張っていたかもしれない。それであの太い音ならたいへん恐ろしいのだが、圧倒的に華のあるスターの音色で、ブラ3の第3楽章のソロを弾かれてしまった。ぐうの音も出ず。すげーな彼。
by Sonnenfleck | 2013-06-25 22:18 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・歌舞伎座のクラシック者]その二 歌舞伎座新開場 杮葺落四月大歌舞伎@歌舞伎座(4/21)

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【2013年4月21日(日) 11:00~ 歌舞伎座】
<杮葺落四月大歌舞伎>
●一、 壽祝歌舞伎華彩(ことぶきいわうかぶきのいろどり)鶴寿千歳
→鶴 坂田藤十郎
 春の君 市川染五郎
 女御 中村魁春 他
●二、 十八世中村勘三郎に捧ぐ お祭り
→鳶頭 鶴吉 坂東三津五郎
 鳶頭 亀吉 中村橋之助
 鳶頭 磯松 坂東彌十郎
 鳶頭 梅吉 中村獅童
 鳶頭 松吉 中村勘九郎
 鳶頭 竹吉 片岡亀蔵
 芸者 おこま 中村福助
 芸者 おせん 中村扇雀
 芸者 おなか 中村七之助 他
●三、 一谷嫩軍記 熊谷陣屋(くまがいじんや)
→熊谷直実 中村吉右衛門
 相模 坂東玉三郎
 藤の方 尾上菊之助
 亀井六郎 中村歌昇
 片岡八郎 中村種之助
 伊勢三郎 中村米吉
 駿河次郎 大谷桂三
 梶原平次景高 澤村由次郎
 堤軍次 中村又五郎
 白毫弥陀六 中村歌六
 源義経 片岡仁左衛門


1月の新橋演舞場に続いて、二度目の歌舞伎鑑賞となった杮葺落四月大歌舞伎。
銀座駅からのアプローチに若干自信がなかったのと、歌舞伎座地下の「木挽町広場」を見てみたかったのとで、日比谷線の東銀座駅からの歌舞伎座初入場となったこの日。四代目の歌舞伎座の姿を昭和通りから何度か見たことがあるくらいで、ついに五代目の建物に入ることになるのかと思うと感慨深いものがあります。朝から強めの雨が降りしきる寒い一日だったけれど、気分は晴れがましい!
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傘を閉じて入場すると、まず絨毯の鮮やかな紅が目に飛び込んでくる。靴をとらえるふんわりとした触感、華美で瀟洒な内装。食堂に土産売り場に豆大福にめでたい焼き。ロビーに満ちる楽しい喧噪。手に提げたお弁当(この日は「まい泉」のカツサンド♪)の充実した重み。
もろもろをひっくるめた雰囲気まで楽しませるシステムは、自分が初めてサントリーホールに入場した遠い昔を思い起こさせる。ここは松竹という私企業が運営する歌舞伎の殿堂なのであって、国営のなんとかパレスとは違うんである。
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なかはこんなふうです。この日の席は2階正面の後方だったけれど、意外に舞台が見やすいんだよねえ。たとえばオーチャードホールの2階正面後方なんて考えるだけでうんざりですが、そういう状況ではない。いかにも10年代の設計っていう感じです。

1 おはなし
(1)壽祝歌舞伎華彩
→「ものがたり」が薄い、能によくあるお目出度い系の演目のようでした(ラモーのオペラにもこういうのあるよね)。目出度さの擬人化である「春の君」と「女御」が、大勢の公達ややんごとない姫君と庭で舞ううちに、一羽の鶴がひらりと降りて典雅な時間をつくり、やがて鶴はどこかへ飛び去る。

(2)お祭り
→舞台はがらりと変わって江戸の三社祭。鳶衆と芸者が次々に登場しては粋な所作で舞い踊るなかで(僕らクラシック音楽好きはここでペトルーシュカの謝肉祭を思い浮かべるべき)、十八世中村勘三郎に捧ぐ「ものがたり」はやっぱり抽象化して、湿っぽくもいなせな江戸らしい空間が発生するんである。勘九郎の息子=勘三郎の孫を舞台に組み込んで客席を泣かせようとする、この愛すべき江戸ベタに、がばとねじ伏せられる。

(3)熊谷陣屋
→お昼の幕間を挟んで、また舞台は転換する。『平家物語』の「敦盛最期」を、とにかく盛大に脚色して膨張させて、最後には江戸の手刀で好き勝手に彫塑した作者。「ものがたり」は派手なギミックを備えたサイボーグネオ平家として現代に伝わる。

『平家物語』だと平敦盛は源氏方の武将・熊谷直実に討ち取られることになっているけれど、ここでは義経の命を受けた熊谷が、息子・小次郎と敦盛を入れ替え、息子の首を討ってまで敦盛の命を救う、というとんでもない話に変容しているのです。老いて石工に身をやつした平宗清まで登場して、もうわけがわからん。敦盛はマジで助かっちゃうしね。

中村吉右衛門の熊谷、坂東玉三郎の相模(熊谷の奥さん役、妖しいくらい女性らしい)、片岡仁左衛門の義経(舞台上の仁左衛門さんは両性具有っぽくて、男役なのに女形のようななよやかさを感じるのが不思議でならない)、など、豪華絢爛。知っている歌舞伎俳優さんたちがみんな出てくる楽しさよ。

2 バレエとアリア(特に「壽祝歌舞伎華彩」のこと)
声のないオペラ・バレとして、「壽祝歌舞伎華彩」は強烈な多幸感を放射していた。この多幸感は初の歌舞伎鑑賞だった1月には感じなかった類のもので、これから僕が歌舞伎への想念を煮詰めていくときに、必ずや思い出されることになる瞬間だと考えられる。
全体はだいたい次のように構成されています。

・「春の君」と「女御」のダンスによるプロローグ
・公達と姫君のアントレ
・「鶴」のアントレ

プロローグの間、舞台の中ほどにある舞台内緞帳は下りたまま。やがて、何か見えないものを合図にして舞台内緞帳が取り去られると、後景の美しい富士山と横一線に並んだ箏オーケストラが見え、そして大勢の公達と姫君が現れて舞う。

公達と姫君のアントレに移った瞬間の、客席から漏れた「…ふわぁぁ!」という官能的な歓声が忘れられない。この歓声は俳優に向けられ、舞台美術に向けられ、客席に向けられ、歌舞伎座の内装に向けられ、また、その歓声自体に向けられた純粋な官能の吐息であった。これが歌舞伎の純粋なコアの部分だったという感覚すら残っている。

そして「鶴」のアントレで奈落からせり上がってきた坂田藤十郎の「鶴」。
80歳の鶴は別段、枯れた仕草も見せず、悠然たるダンスを客席に見せつけて、花道の奥へのしのしと去っていく。藤十郎さん、そのまま食堂に踏み込んでカレーライスでも食べそうな迫力であった。同じ鳥類の形態模写でも、これより前の日に国立能楽堂で目にした91歳三川泉の仕舞「鷺」との間にある凄まじい相違に、能と歌舞伎の因縁を感じざるを得ず。もちろんどちらが良い悪いではなくてね。

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四月大歌舞伎は、このあと座席でお財布を紛失するという自分史上始まって以来のポカをやらかしてしまい、あわや歌舞伎座に嫌な思い出をつくるところであったが、親切な方が案内係まで届けてくださったらしく、事なきを得た。そのあと歌舞伎稲荷(歌舞伎座正面の脇に鎮座する稲荷社)にお礼を述べたのは言うまでもない。
by Sonnenfleck | 2013-06-22 14:41 | 演奏会聴き語り

ティエリー・フィッシャー/名フィル 第403回定期演奏会@愛知県芸術劇場(6/15)

このブログが2006年から2008年の間、名フィルブログだったことを覚えていて下さるかたがどれだけいらっしゃるかわかりませんが、ともかくこの土曜日、5年ぶりに本拠地に向かったのです。
なにしろ見よ、このハイセンスなプログラムを!元親方のティエリー・フィッシャーが名フィルに客演するときの、これがスタンダードなのよ。僕が愛したハイセンス名フィルの遺産を大切に聴くのだ。

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<水―波に翻弄される舟>
●ラヴェル:《海原の小舟》
●プロコフィエフ:Pf協奏曲第3番ハ長調 op.26
 ○ラフマニノフ:絵画的練習曲集(練習曲集『音の絵』)op.39~第5番変ホ長調
→イリヤ・ラシュコフスキー(Pf)
●フランツ・シュミット:交響曲第4番ハ長調
●ラフマニノフ:ヴォカリーズ op.34-14
⇒ティエリー・フィッシャー/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


名古屋駅に着いた直後はそれほど感じなかったのだが、東山線に乗って栄駅に到着したあたりから雲行きが怪しくなり、人混みをかき分けて県芸に辿り着くころにはすでに滝のような汗を流していたんである。これが名古屋~ウェット名古屋~♪

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さっそくビュッフェに直行して、レイコーをごくごく飲む(レイコーという言葉は名古屋に暮らすまで一度も目にしたことがなかったのだった)。ちなみにここのカウンターからの眺望は、日本の都市系コンサートホールのなかでは屈指のものである。

で、2階のL2列に座る。ちょうど指揮台を真横から見る席です。
この日の長大なプログラムは、ハ長調の2曲を小品2曲でサンドしたアーチ構造を取っていて、たいへん意志的。小舟の登場→小舟の内燃機関→小舟と嵐、難破→小舟にもたらされたひとつのエピローグ、という4楽章構成の大きな交響曲を聴いたような満足感があったのだった。

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◆第2楽章:小舟の内燃機関
僕がこの日、心底素晴らしいなあと思ってブラヴォを飛ばしたのは、まずはプロコフィエフの第3協奏曲なんである。

あえて率直に書きますと、しばらく東京のオーケストラを中心に音楽を聴いていたために、かつてとは違った印象を「フィッシャーが振っている名フィル」にすら感じてしまうのではないかという密かな危惧を持って、この日品川からのぞみに乗ったわけです。
しかしそれはまったくの杞憂に過ぎないどころか、かえってフィッシャー+名フィルの相思相愛ぶり、その結果としての素晴らしい完成度を思い知ることになったのです。こんなに優れたプロコフィエフが生で聴けたら、N響に8,500円払う必要もなければ、ベルリン・フィルに40,000円払う必要もないのだ。いや、本当にね。

名フィルは東京のオケでいうと読響にカラーが似ていて、フィーバー状態になったときのノリの良さと「ひと」の善さ、そして通常営業時のやや大味めな空気感、これが彼らの持ち味だと思っている。
フィッシャー名誉客演親方は、常任親方のころから彼らを鼓舞してフィーバー状態にするのがものすごく上手だったし、その状態を作り上げたうえで、今度は自分のクールビューティ+機知に富んだ音楽を「徹底的に」やる。この日もやっぱりそう。

まずフィッシャー/名フィルの伴奏がギンギンに尖っているのが、好いんだよねえ。歯車やバネがキチキチキチ...と噛み合って精妙なアンサンブルが組み上がっていくのがつぶさにわかる。親方の細かくてマニアックな指示をよく理解して、可能な限り実現させようとするオケの反応が非常に良くて、聴いていて嬉しくなってくるのですよ(各楽器の一瞬のミスなどはこういうときは一切関係ない)。特に第1楽章の後半と第3楽章の終盤の叙情的機械っぷりは、どこに出したって恥ずかしくない一流のプロコフィエフ。
また第2楽章も素晴らしい。ここで伴奏は急に、東欧の古くて小さいオーケストラのような響きに変わる。フィッシャーが何かをインストールしたのは間違いなく、微かな浪漫のヴェールに包まれる心地よさにびっくりなのである。

そしてソロのラシュコフスキー。彼は第8回浜松国際ピアノコンクールの覇者で(ちなみにこのとき、当ブログで勝手に応援中の佐藤卓史が第3位に入賞している)、イルクーツク出身の28歳。
華やかな経歴やロシアの若手ということから、勝手に地対地ミサイルみたいな重火器演奏をイメージしていた僕を、第1楽章の最初のタッチでラシュコフスキーは完璧に裏切った。意表を突く「溶け込み型ソロ」で、伴奏として駆動する叙情機械にせいぜいふわっとエフェクトが掛かるくらいのさりげなさ。まことに驚愕しました。

このソロを見越しての鋭い伴奏なのか、この伴奏にゆるふわソロを中てたのか、それともこの両方なのか、正確にはわからねど、作品を根幹から見直すくらい理想的な演奏だったのです。

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◆第3楽章:小舟と嵐、難破
そして休憩を挟んで「シュミ4」。
フランツ・シュミットといえばオラトリオ《七つの封印の書》…くらいしか知らない。かつてアルミンク/新日フィルで聴いたときも、作品の良さがあまりよくわからなかったのだったが、あれはテキストがあったのがよくなかったのかもしれない。「シュミ4」は都会風の寂しいマーラーで、じんわりと理解されたのだった。

この交響曲が作曲されたのは1932年から33年にかけて。宮廷歌劇場のVc奏者としてキャリアをスタートさせたシュミットは当時、高等音楽院の院長を務めるまでになり、ウィーンのアカデミックな潮流のど真ん中にいたひとだったので、作風は保守を、大いに「気取っている」。

単一楽章の曲中、マーラー風の大きな讃歌に到達しかけるんだけれど、そこであえなく破綻→ぐずぐず→立ち消え、というのが二度ほど観測される。小さな讃歌はメロディラインが短すぎてすぐに埋没してしまう。
シュミットは若いころ謦咳に接したマーラーの浪漫に終生憧れていたんだろうけれども、彼では恥ずかしくて大きな声では浪漫を歌えなかったんだろうなあ。都会風の、アカデミックな、歪んだ自己韜晦が基調にある寂しい交響曲(ミャスコフスキーに少し似てる)。しかし美は、いじけた細部にもちゃーんと宿っていて、フィッシャーはそれを見逃さない。

たとえば第1部の小さな讃歌たち。第2部に登場する甘美なVcのソロ(ひさびさに耳にする太田首席の豊かな音、お見事でした…!)。あるいはその後の葬送行進曲。そして第4部の終盤。
第4部の終盤に訪れるのは、マーラー風讃歌と冒頭のTpソロモティーフの精神的融合ではないかと思う。作曲家のなかで破綻を讃歌に読み替えるという病的な高揚が起こり、それで静かに交響曲の幕が下りてしまうんだよねえ。プロコフィエフの第2楽章で体感されたあの蒼古とした響きを、全曲にわたってオケに要求し続けたフィッシャーの自信と、名フィルに対する信頼、それにオケが応える熱い45分。

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しかしシュミ4はラストで破綻がむりやり讃歌になってしまっているので、演奏会プログラムとしてはとても解決したとは思えぬ。そこで最後にフィッシャーは「あり得たかもしれないひとつの可能性」を設定することで、シュミットを救い、聴衆のことも救ってくれる。ラフマニノフの甘い旋律もいいだろう。
by Sonnenfleck | 2013-06-16 13:49 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月5日(日)その1|ガラスの隔て。

一年のうちでもっとも5月が遠いこの時期。いかがお過ごしでしょうか。

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c0060659_22561940.jpg【351】5/5 1030-1115 B7〈メーテルリンク〉
●クープラン:《諸国の人びと》第1組曲《フランス人》~ソナード
●マレ:《サン・ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘》
●クープラン:《諸国の人びと》第2組曲《スペイン人》~ロンド、パッサカリア
●マレ:フォリアのクプレ
●ラモー:第3コンセール~〈内気〉、タンブーラン
●コレット:コミック協奏曲第25番ト短調《未開人》~第1楽章
⇒リチェルカール・コンソート
 フィリップ・ピエルロ(Gamb)
 ソフィー・ジェント(Vn)
 トゥオーモ・スニ(Vn)
 マルク・アンタイ(トラヴェルソ)
 イーフェン・チェン(トラヴェルソ)
 フランソワ・ゲリエ(Cemb)


今年度LFJの唯一の王道バロック公演(5/3のモダンチェンバロは中野しんちゃんワールドだったので…)。考えてみれば2009年のバッハはよくあんなマニアックな品揃えにゴーが出たものだなあ。

LFJ常連で、もう何度も聴いているような気がするピエルロの楽隊。深淵を覗き見るような感動は一度も得たことがないかわりに、いつも一定以上の高品質が届けられる。いまや数少ない紳士的バロックアンサンブルの最右翼(これは発展していないという意味ではなくて、すでに完成したものを丁寧に保持しているという意味です)なんだろうな。もっとありがたがって聴くべきなのか。

もともと予定されていたのはラモーのカンタータ入りプログラムだったのだが、ソプラノが来日できなくなって急遽このマレ入りプログラムに変更された由。フォリアが混入したおかげで一気にスペイン成分が濃厚になったわけだけれど、ピエルロの楽隊は洗練が彼らの美徳と考えていて、あくまでもスペインはパリから眺めた異国なのであった。異国はガラスケースのなかに並んでいる。

「展示」のなかでいちばんクスッときたのは、コレットのコミック協奏曲《未開人》である。ラモーの〈未開人の踊り Les Sauvages〉をVn2・トラヴェルソ2・BCに仕立てた愉快な作品で、明治の浮世絵というか、本歌取りだけが存在意義として結晶しているようなはかない可笑しみを感じさせた。ソフィー・ジェントは巧いなあ。



↑YouTubeにゲーベルの演奏が上がってたのでご参考まで。


【352】5/5 1215-1300 B7〈メーテルリンク〉
●フランク/バウアー:前奏曲、フーガと変奏曲 op.18
●ラヴェル:ソナチネ
●フォーレ:《無言歌集》op.17~第3番変イ長調
●同:《8つの小品》op.84~即興曲嬰ハ短調 op.84-5
●同:夜想曲第11番嬰ヘ短調 op.104-1
●ラヴェル:《高雅にして感傷的なワルツ》
⇒クン=ウー・パイク(Pf)


続けてB7。毎年思うけどB7は素直な部屋で、サイバーパンク風のごつい内装さえ気にしなければピアノや小さい室内楽を聴くにはもっとも優れている。

で、クン=ウー・パイク氏である。
僕が初めて揃えたプロコフィエフのPf協奏曲全集は、パイクがソロ、伴奏をヴィト/ポーランド国立放送響が務めたNAXOS盤なのであった。これは録音1991年の初期NAXOSながら高品質な名盤だといまでも思っていて、強化ガラスのようなパイクの打鍵がクールビューティ。

さてこの日は、まず冒頭のフランクが絶品中の絶品!
前奏曲の感傷的なメロディはパイクの硬質な音によって柔らかく包まれて、フォルムが崩れる心配もない。フーガで立ち上がる重厚なガラス建築、そして変奏曲でガラスのなかにまた寂しいメロディのシルエットを見つける。

それからフォーレの夜想曲第11番ね。前日の夕方に聴いたペヌティエとはまったく異なり、おじいさんもホットミルクも、悔悟の気持ちすら登場するかどうか怪しい。ひとのいない清潔な世界に属する夜想曲があってもいいよね。これも好い。

ラヴェルはこのときからPCに向かっている今日現在にいたるまで、絶賛聴きたくない状態なので(この作曲家についてはたまにあるのです)感想文はありません。

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この日はあと4公演聴いてしまったので、「LFJ2013今さらレポ」はもうちょっとだけ続くのである。
by Sonnenfleck | 2013-06-12 22:58 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]ジャッド/都響 第750回定期演奏会Bシリーズ@サントリーホール(4/3)

c0060659_7411387.jpg【2013年4月3日(水) 19:00~ サントリーホール】
●エルガー:弦楽セレナーデ ホ短調 op.20
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第5番変ホ長調 op.73《皇帝》
 ○バッハ/ジロティ/ホロデンコ:前奏曲
●ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番ニ長調
⇒ジェームズ・ジャッド/東京都交響楽団


ひと言、心の奥底からじわーっと温めてもらえたような、本当に素晴らしい音楽会だったのです。そのメインであるヴォーン。ウィリアムズの第5交響曲(自分愛称ヴォン5)から書かねばなりますまい。

僕はRVWの良い聴き手だとは言いにくい。それどころかイギリスの音楽全般について親しめずにこれまで過ごしてきた。
しかしこの一二年、好みはゆっくりとではあるが確実に変わりつつある。以前ほどにはソヴィエト音楽が好きではなくなり、代わりに北欧の作曲家たち、そしてイギリスの音楽作品が、僕の内面に深く浸透し始めているのを認識している。この好みの過渡期に、ほとんど決定的と言えるヴォン5のライヴを聴いてしまったのは、何かの縁なのだろうか。

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ジャッドはN響客演の常連なので何度もFMで聴いているような気がするのですが、ライヴに接するのはこれが初めてだと思う。でもN響とジャッドの組み合わせで好いなと思ったことはない。それは(この夜わかったことだけど)ジャッドがオーケストラの素顔の実力を養分にして花を咲かせる、庭師のようなタイプの指揮者であるためなんだろう。
N響はたしかに優れたオケだけれど、彼らが指揮者を下に見たときには本当に冷え冷えと乾いた音楽を平気で伝達する(そしてそうした音楽に当たる確率がめっぽう高い)。ジャッドが引き出すN響の素顔の花は、痩せ細ったしおれかけの花だった。

僕は庭師自身がそういうタイプの音楽をやるひとだと勘違いしていた。でも都響のアンサンブルを土壌にしてジャッドが咲かせた花は、豊穣で瑞々しく、何より佳い匂いのする花だったんだよねえ。

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手元にあったハンドリー/ロイヤル・リヴァプールpo盤、ハイティンク/ロンドンpo盤、そしてYouTubeに上がっていたバルビローリ/ハレoの古い録音などに比べ、ジャッド/都響の演奏はより鮮やかで瑞々しい印象を与えた。物理的なテンポの身軽さももちろんそうした感覚を生んだ要因だと思う。

でも、普通なら無意識に流されてしまっても仕方がないような木管の小さなパッセージのひとつひとつが、マニアックなくらい丁寧に描写されていたのもとても印象深いのです。

それって流れの停滞を生むんじゃないかって?いえいえ。実際の自然はどんなに小さな虫も草花も「有効」なのに、停滞しているようには見えないでしょう?必要なのは、小さなパッセージのひとつひとつが、丁寧に、かつ続けて絡み合っていく有機的な連関。互いを緻密に聴き合い補い合っている都響のアンサンブルは、楽句を発して、次行程に渡していくのがとても巧いんだよね。そうした美点を引き出しながら、RVW用の音色の文法を伝授していくジャッドの手腕もお見事。
(なお、このやり方をもう数歩進めると、ブロムシュテットのブルックナーみたいな感じになるはず。)

それゆえに第3楽章の豊かな盛り上がりもナチュラルだったし、スケルツォ楽章や最終楽章の前半などではにかみがちなシニシズムまで感じさせてくれたのは、新鮮な驚きだったと言える。これはやっぱり20世紀の交響曲なんだわね。

これは伝記的蛇足だけど、矢部コンマスが終演後にtwitterで次のような内容をつぶやいていた(ブログへの転載どうかお許しください)。惚れるぜ矢部っち。
都響の中で最も尊敬している奏者の一人が、今日演奏したRVWの交響曲第5番をこよなく愛していて、リハーサルの時からハンカチで目頭を押さえていた。彼のその思いを裏切りたくない気持ち1つで弾いたコンサートだった。もしかしたらこの曲を弾くのは最初で最後かも知れないと思って。
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前半の《皇帝》は、ムラっけがあってとことん夢見がちな、良くも悪くも「童貞っぽい」ソロの評価が分かれるだろう。僕はそれを面白く聴けたし、ジャッドと都響は完璧なサポートを実現していた。協奏曲を演るのに、ジャッドにあってフルシャになかったのは、このホスピタリティだったかもしれない。

都響の天下が続いている。どの在京オケも個性があって、僕は個人的に引き続き東響の音色のファンを自認しているけれど、都響のアンサンブルの高品質さはやはり抜きん出てしまっている感がありあり。この「何ものでもない」ニュートラルな美しさ。
by Sonnenfleck | 2013-06-08 07:46 | 演奏会聴き語り

新国立劇場《ナブッコ》|ゴーストハックとエルサレムモール(6/1)

とある日曜の午後、昼酒をしていい気分のワタクシは、ふとヴェルディに近寄ってみることに決めたのだった。
今年のお正月から始めた歌舞伎鑑賞や、(ブログにはまだ書いていないけれど)バロックオペラの大傑作、レオナルド・ヴィンチ《アルタセルセ》をヘヴィに鑑賞してきたおかげなのか、不思議なことにヴェルディのベタなリズムや破綻したストーリーに対して愛着が湧く自分を発見しているからなのです。音楽の好みは移りゆく。だからこの趣味がやめられない。

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c0060659_7584968.jpg【2013年6月1日(土) 14:00~ 新国立劇場】
●ヴェルディ:《ナブッコ》
→ルチオ・ガッロ(ナブッコ)
 マリアンネ・コルネッティ(アビガイッレ)
 コンスタンティン・ゴルニー(ザッカーリア)
 樋口達哉(イズマエーレ)
 谷口睦美(フェネーナ)
 安藤赴美子(アンナ)
 内山信吾(アブダッロ)
 妻屋秀和(ベルの祭司長)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→グラハム・ヴィック(演出)
→パオロ・カリニャーニ/東京フィルハーモニー交響楽団


まずは手近に鑑賞できる新国の公演を選ぶ。某オークションで安い席を競り落とす。序曲しか知らない作品なので、ムーティ/フィルハーモニア管の録音(1978年EMI)を取り寄せてiPodで予習しまくるのである。

一度目の聴き通しでは「ドンジャカうるせえなあ…」という率直な感想を抱くものの、二度三度と繰り返し聴いていくなかで耳が慣れてゆき、やがて若ムーティの強靱なオーケストラドライヴに身を任せることができるようになる。リズムはベタである。メロディも華やかだがキラキラして陰翳を欠く。ストーリーは超テキトー。しかしそれをこそ愛するのがイタオペ山の登山口と心得る。

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◆あらすじ
「バビロン捕囚」を題材とする歴史スペクタクル。しかしストーリーは混乱しており、主役は誰でもないという酷いありさま。フツーの現代の感覚からすると、この台本ではナブッコが主役とは言いがたい。。

☆大祭司ザッカーリアが指導するユダヤの民
☆ナブッコ王が率いるバビロニア

がいちおう対立関係にあって、ナブッコは第1幕でユダヤの地を蹂躙したうえ、民をバビロニアに連れて行く。でもナブッコに落ちた雷(雷よ?コントみたいでしょ?)のおかげで、王様は精神錯乱状態でピヨピヨ。そこへバビロニア内部でクーデターが発生し、ナブッコの庶子であるアビガイッレが権力を掌握する。

ところが「正気を取り戻した」ナブッコが急にユダヤの神さまを信奉しだし、支持されて再び王位を奪還(バビロニア人たちはそれでいーの?)。アビガイッレは自害。ナブッコは嫡流のフェネーナとともにユダヤの民とも和解して万歳万歳。おわり。視点はぐらぐらしっぱなしで、主役はいません。

◆音楽と演奏とうた
こんなにひどいストーリーなのに、ヴェルディの音楽は気持ちがよい。すっと胸がすく。
戦争シーンに合わせた行進曲や、タッタカタッタカタッタカ…と駆け上っていくようなリズム、それに乗る技巧的なアリア。《椿姫》と《オテロ》くらいしかヴェルディのオペラを知らなかった人間からすると、ヴェルディのなかにミトコンドリアのようにひっそり包含されているナポリ楽派オペラをあらためてここで発見し、実に爽快。アレッサンドロ・スカルラッティもハッセもポルポラもヴィンチも、みんなヴェルディのなかで生きてる!

それを、30年前のムーティの録音よりさらに気持ちよく実現させていたのが、今回のプロダクションの指揮を執るパオロ・カリニャーニである。
何度か読響に客演していたような気がするスキンヘッドのイタリア男、実際に聴くのはこれが初めてだけど、あちこちのオペラハウスに引っ張りだこなのがよくよく理解できたなあ。VcとCbを雄弁に語らせる、今どきの若い古楽アンサンブルのような通奏低音をヴェルディで実践したら、それは輪郭のくっきりとした音楽になるのは必定なわけです。
ピットの見えない4階席では、下から立ち上ってくる響きの生々しい美味しさ(ぷりっぷりのエビとか、汁がしたたるジューシーなトマトとか、噛みしめると野蛮な薫りがあふれるサラミとか、そういうもの)にノックアウト状態。あれっ?東フィルってこんな演奏をすることができる華やかなオーケストラだったっけ?という。

歌手はアビガイッレ役のコルネッティが美味しいところを持っていった感じ。巨体から発せられる、よくコントロールされた馬力。これがヴェルディのメゾソプラノの威力か。イズマエーレ役の樋口氏も爽やかで素敵でした。
タイトルロールのガッロはところどころで音程がよたつく。声もあまり響かない。しかし後述の演出に巧まずして合致してしまったので全然OK。

◆演出
で、演出です。演出のグラハム・ヴィックは、

☆ユダヤの民→ショッピングモールに集う現代の物質主義者たち
☆バビロニア→反資本主義的テロリスト集団

と読み替え、さらに舞台をエルサレムの神殿からショッピングモールに置き換える。舞台上には3層吹き抜けのモールが形成され、稼働こそしていないがエスカレーターまで設置されている。そして客席に入場したわれわれを驚かせるために、すでに開演前からユダヤの民によるショッピングモールでの演技が始まっており、リッチな着こなしの合唱団員たちがてんでばらばらにウィンドウショッピングを楽しんでいるのである。スイーツショップに高級ブランドショップ、アップルストアまでリアルに再現されてるので笑ってしまった(アップルストアのTシャツ店員までいました)

序曲が始まると、そこらじゅうのユダヤの民たちがバッグやシューズやクレジットカードに接吻したり、股ぐらに挟んだりする「拝金の踊り」を開始。あとで思い返すとこのシーンだけちょっと浮いていた感じもありつつ、やがて老リーダーのナブッコに率いられた極左テロリスト集団=バビロニアがショッピングモールを占領する。

このシーンあたりから、僕の頭のなかには「攻殻機動隊S.A.C. エピソード××:ナブッコ Nabucco」という妄想がむくむくと成長。
テロリスト集団の内部のクーデターなんて、いかにも!なお話だと思いませんか。対立する2集団(物質主義者とテロリスト)のいずれもが醜悪で、どちらにも正義がない。そして黒幕がいそう―

第2幕の最後で、自分は神だ!と叫んだナブッコ王に裁きの雷が下り、彼の精神が錯乱するというシーンがありますが、これもこの世界観ではゴーストハック。何ものかがナブッコの電脳をハッキングし、意志を操ったとしか見えない。さきほどから恣意的な見方を開陳しておりますが、それを可能にするバビロニア人たちの魯鈍なテロリストっぷりや、ナブッコの哀れな姿、裁きの雷のエフェクトなど、サイバーパンクを支持するさまざまな示唆があったのです。

そうなると、唆されてクーデターを起こした庶子アビガイッレは、みるみるうちに陰謀の犠牲者臭をまとうことになってしまう。黒幕は誰?ナブッコがユダヤの神さまを信奉し、アビガイッレが消えて喜ぶのは誰か?それはナブッコのもうひとりの娘・フェネーナをおいて他になし。何しろフェネーナはユダヤの国王の甥・イズマエーレと愛し合ってるんであるから。

さて《ナブッコ》の第3幕には、有名な「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」という囚われのユダヤの民たちが歌う合唱がありますが、これもヴィックの演出では金品への執着から逃れられない元・物質主義者たちの哀れな合唱に変容していました(バッグやシューズやMacBook Airの残骸を愛おしそうに抱きしめながら歌う振り付け)。救いようがないすね。
それを励ますユダヤの大祭司・ザッカーリアも、神の預言を語る直前、ハアハアいいながら腕にドラッグを注射していたので(単眼鏡が大活躍!)これまた醜い。テロリストも愚鈍だがこっちもひどいもの。

それらの混乱を強制終了に導くのが、ラストシーンの演出です。
組織のリーダーに返り咲いたナブッコ(ただし僕の二次的な妄想では黒幕フェネーナによって操られたまま)は、よりによって最後にショッピングモール1階の床をぶち抜いて、苗木を一本植えるんだよね。この唐突なエコ!演出家がラストの偽善をまったく信じていないのは明々白々。この場合は混乱を全能的に収拾するデウスエクスマキナが、苗木の形を取っているにすぎない。バビロニアの偶像は崩れたけれど、今度はこの苗木が新しい偶像である。フェネーナさえ偶像に気がつかない…!

目に鮮やかで楽しく、愉快な皮肉も効いた名演出だと思いました。おわり。
by Sonnenfleck | 2013-06-02 12:29 | 演奏会聴き語り