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[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その七 蝋燭の灯りによる能「熊坂」@国立能楽堂(7/25)

c0060659_623070.jpg【2013年7月25日(木) 18:30~ 国立能楽堂】
●狂言「瓜盗人」(大藏流)
→茂山千三郎(シテ/男)
 茂山正邦(アド/畑主)

●能「熊坂」(宝生流)
→朝倉俊樹(前シテ/僧|後シテ/熊坂長範)
 宝生欣哉(ワキ/旅僧)
 茂山逸平(アイ/所ノ者)
→一噌幸弘(笛)
 鵜澤洋太郎(小鼓)
 柿原弘和(大鼓)
 金春國和(太鼓)


国立能楽堂・7月企画公演「蝋燭の灯りによる」に行ってきたのだ。時間的に狂言には間に合わなかったが、観能7回目にして初の蝋燭能であるよ。蛍光灯の下に亡霊や死霊は現れにくいのであるから。

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当日はこのように、舞台の周りにぐるりと蝋燭が灯されている。席に座っていると小さな炎は和紙の外側には露出しない。そのぶん、その影を紙に落として炎は何倍にも膨れあがる。
僕はこの公演がどうしても見たくて、発売日当日に電話をして正面席一列目真ん中を押さえていた(世が世なら御殿様が座る席ですね)。でもこの選択は失敗だったかもしれないなあと、はじめは思ったのよ。炎との物理的な距離が近いと、視界に入る周囲の闇の量が少なくなってしまうのね。

ともあれ、仕手の真ん前で身体を観察するにはもってこいの場所だ…と割り切って舞台に目を移した僕を、だんだん闇が浸食してゆく。
なんということはない。僕の目の前で、たかが23メートルのあの至近距離ですら、シテの身体性が薄まって消えてしまったのだ。闇が濃い。闇が重い。もったりと澱んだ闇があちこちを覆っている!

+ + +

◆1 盗賊と僧侶
「熊坂」のお話は次のとおり(公演パンフより一部抜粋)。
都の僧が東国へと下る途中、美濃国・青野が原にやってくる。すると一人の僧体の者が旅の僧を呼び止め、今日はあるひとの命日なので回向をしてほしいと、街道筋からはずれた古塚へと案内して供養を頼む。

僧体の者の庵室には仏の絵像も木像もなく、大薙刀や金棒などの武具が立て並べてある。旅の僧が不審に思ってたずねると、僧体の者は山賊夜盗に備えるためだと答える。やがて僧体の者は掻き消え、庵室も草むらになってしまう。

旅の僧は近在の者から、この土地で牛若丸に討たれた大盗賊・熊坂長範のことを聞き、さては最前の僧体の者は熊坂の霊であったかと思い、熊坂のために弔う。するとその夜も明け方近く、熊坂の亡霊が姿を現し、金売り吉次の一行を襲ったときのことを語る。

吉次の一行に加わっていた牛若に次々と仲間の盗賊を切り伏せられた熊坂は、最後の力を振り絞って薙刀を武器に牛若と戦うが、牛若に斬られ命運尽きたのだった。都の僧に後世の弔いを頼むと、熊坂の亡霊は松陰に消えてしまう。

◆2 面と装束と蝋燭
この「熊坂」では、長霊癋見(ちょうれいべしみ)と呼ばれる、熊坂長範が登場する能でしか用いられない独特のマスクが用意される(画像はこちら※ちょっと怖いので夜中などご注意)。
個々でも再三書いてきたが、舞台上で能面は明らかにひとの顔を志向する。ひとの顔になりたがる。蛍光灯の下ですらこのような幻視を体験するのだから、いわんや蝋燭の灯りにおいてをや…である。

斜め下から蝋燭の光に照らされた長霊癋見は、シテの朝倉氏の人格を喰い破って身体を支配し、しかし亡霊であるからその操る身体の境界を曖昧にし、ついには浮遊するかのような舞いを舞わせる。この浮遊する感覚は、現実的には朝倉氏の身体能力の高さのゆえだろうし、夢幻的には蝋燭のせいであろうと思う。
牛若との一騎打ちを再現する舞いで、シテの振り回す薙刀の切っ先は正面に座る僕のほうを捉えている。斬られる。マスクのうつろな眼窩だけが炯炯と実在する。

そして能装束である。あの蠱惑的な蝋燭光の反射、朱暗い黄金色は、装束が持っている真実のエネルギーが放出されていた証ではないかと思う。もう本当に心の底から震えるように美しいのだよ。蛍光灯の平たい光はこのエネルギーを放射させないための拘束具なのか。。

◆3 ピリオドアプローチとしての蝋燭能
それが産み落とされた時代の様式で実践するという姿勢が、古楽と蝋燭能の明確な共通項である。
ガット弦を張ることによる音色の豊かな幅と、蝋燭を灯すことによって導かれる舞いや謡いの陰翳とは、同質の「訪れ」。能における空間のキアロスクーロは、たとえばバッハやモーツァルトに不可欠なガット弦の用意やボウイングやフレージングと何ら変わらないどころか、それにも増してさらに重要な因子である可能性が高い。これがわかったのは本当に大きいです。

蝋燭のぼんやりとした灯りの下では、囃子方も地謡も、ワキですら木像のように静かで、人格を喪っている。シテが見ている幻が観衆にも逆流して、孤独な一人芝居としての能の性格を際立たせるのだよね。そういえば古楽も密室の愉楽なのであった。
by Sonnenfleck | 2013-07-29 06:23 | 演奏会聴き語り

on the air:アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコのハイドン@スロヴェニア

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【2011年9月9日 スロヴェニア・マリボル ユニオン・ホール】
●ボッケリーニ:弦楽五重奏曲ニ長調 op.40-2 G341
●ハイドン:Vc協奏曲第2番ニ長調 Hob.VIIb/2
 ○ソッリマ:インプロヴィゼーション?
→ジョヴァンニ・ソッリマ(Vc)
●ロカテッリ:合奏協奏曲変ホ長調 op.7-6《アリアンナの嘆き》
●ハイドン:交響曲第63番ハ長調 Hob.I:63《ラ・ロクスラーヌ》(第2稿)
⇒ジョヴァンニ・アントニーニ/イル・ジャルディーノ・アルモニコ
(2013年7月24日/NHK-FM)


ボッケリーニ。サヴァールの洒脱な大人ボッケリーニを知っているわれわれには、イルジャル好みに統一されたヤンキーボッケリーニはかえって格好悪いように聴こえるのだよなあ。とげとげとげ。
かねてからボッケリーニの作品は(たとえばベートーヴェンほどには)演奏者に「解釈」を許さないのではないかと思っている。魚が描いてある魯山人の絵皿にサイコロステーキを載せても仕方がないように、器に正しい料理を載せることはとても大切。

ハイドンはボッケリーニに比べて劇的に器の汎用性が増すので、アントニーニがやりたいように料理をつくっても音楽は耐えうる。
イルジャルのハイドンって初めて聴いたような気がするんだけど、溌剌とした第1協奏曲ではなく、バロックの優雅の裾を引きずった第2協奏曲で意外なマッチングを見せているのが面白い。優雅の裾の下にすね毛のいっぱい生えたごつい通奏低音を利かせているけれど、足はけっして裾から出てこないのがアントニーニの巧みさなのかも。ソッリマ(この作曲家氏の演奏実践も初めて聴いたな!)のなよっとして腰高な歌い回しを上手に支えている。

ソッリマのアンコール、NHKの番組表では「オリジナルのテーマによる変奏曲」とされていたけど、インプロヴィゼーションではないだろうか?明らかに直前のハイドンを元にした主題が上手に変奏されてた。

+ + +

さて後半。ロカテツのこの作品はちゃんと聴いたことがなかったなあ。
解説の方が話していたように、グロッソの名前を持っているくせにほとんどソロコンチェルトという詐欺みたいな曲ですが、コレッリではなく完全にヴィヴァルディに変質しているこのころのロカテッリにはイルジャル流のアプローチがよく合います。空間に溶けるようにしてぼやっと終わってしまった。ソロVnはオノフリ?

最後のハイドンは、名曲の名演奏だったと思う。
本当にここ最近、ハイドン不感症が治療される糸口が見つかり始めたんですが、ハイドンの1770年代に素材を求めることができるこの交響曲には、エマヌエル・バッハの残響がたくさんこだましているのがすぐにわかる。アントニーニ/イルジャルはもっとエマヌエル・バッハやクリスティアン・バッハをやればいいと思っている僕には、ここで示されている「チャラめな高校サッカー部員」みたいな運動能力の高いハイドンが心地よい。

それから、Vc協奏曲で感じられた「バロックの優雅の裾」の処理が、ここでも適切に行なわれているのが好ましい。第2楽章のある局面では、むしろその先のベートーヴェンの緩徐楽章にすっと繋がっていく理性の光も見える。以前よく聴いていた彼らのベートーヴェン録音(第1・第2)よりもその意味ではベートーヴェンらしい。アントニーニが少しずつ変わってきているのかな。。
by Sonnenfleck | 2013-07-25 23:11 | on the air

西瓜糖だったあの日々

c0060659_89420.jpg毎年この時期になると伝説の「ペプシ アイスキューカンバー」を思い出して感傷に浸るのですが、10年代前半も半ばが過ぎようとしているこの夏、もうちょっとだけ洗練されたウリ系飲料がコンビニの棚に並んでいました。

もともとスイカの味を好まないのにスイカの風情だけは好きなので、まずパッケージのインパクトにまず嬉しくなっちゃう。
それからキャップをぐねりと捻って液体の匂いを嗅ぐと、あの懐かしき「夏はやっぱりスイカバー」と完全に同じスイカの香りが漂ってきて、口に含んでも、喉の奥に落としても、鼻に抜けるのはノスタルジックな少年時代の思い出。そのうち山でヒグラシが鳴き始めて、庭木に水を撒いて、夕ごはんが待っている。。

いつも水っぽい「小岩井純水」シリーズなのに、なぜかここでは夏の夜のスイカ的気分をぎゅっと凝縮した素晴らしい仕上がり。純水シリーズ最高の完成度に達しているのでは。。
by Sonnenfleck | 2013-07-21 08:10 | ジャンクなんて...

野平一郎/オーケストラ・ニッポニカ 第23回演奏会|石井眞木へのオマージュ@紀尾井ホール(7/14)

c0060659_23272255.jpg【2013年7月14日(日) 14:30~ 紀尾井ホール】
<第23回演奏会|没後10年 石井眞木へのオマージュ>
●石井眞木:交響的協奏曲~オーケストラのための(1958、世界初演)
●陳明志:《御風飛舞》In the memory of Ishii Maki(2013、委嘱・世界初演)
●石井眞木:《ブラック・インテンションI》~1人のRec奏者のための op.27(1976)*
→鈴木俊哉(Rec*)
●伊福部昭:《交響譚詩》(1943)
●石井眞木:《アフロ・コンチェルト》op.50-ver.B(1982)**
○同:《サーティーン・ドラムス》op.66(1985)から**
→菅原淳(Perc**)
⇒野平一郎/オーケストラ・ニッポニカ


このブログ、そしてTwitterでも長くお世話になっているmamebitoさんが所属されているオーケストラ・ニッポニカ。これまでなかなか聴く機会がなかったんだけれど、今年は取り上げる作品の熱さが尋常でなかったし、ニッポニカの評価は年々上がるばかりだし、是非もなく出かけたのだった。

石井眞木という作曲家、さほど邦人作曲家に詳しくない僕がなんとなく彼のことを知ったつもりでいるのは、秋田県民のための偉大なるオラトリオ《大いなる秋田》(今すぐYouTubeで第1楽章を聴こう!)が、石井眞木の実兄・石井歓によって作曲されているから。でも眞木のほうの曲は《アフロ・コンチェルト》をどこかで聴いたことがあるくらいで、実はよく知らない(ちなみに石井兄弟の父である舞踏家・石井漠は秋田のひとで、僕の高校の先輩である)

+ + +

まず驚いたのは、発掘されてこの日が世界初演となった若書きの交響的協奏曲が、かなりの名品だということ。
聴いていて強く感じたのは、プログラムにあるバルトークからの影響より、伊福部からの影響のほう。俗謡的な易しいモティーフが積み重なっていくのは確かにバルトーク風ではあるけれど、そもそもあのノシノシ!ドコドコ!バンバン!という明快なリズムは伊福部、もうちょっと言うなら日本の古典芸能や民謡に特徴的なあの「超しっくりくるリズム」に他ならない。純邦楽風バルトーク。こういうシンプルな音楽観が土台にある作曲家だったんだ。
(※それから、いかにもショスタコーヴィチらしい「Fg→コーラングレ→Fl(たしか…)」という静かなソロの吹き渡しにクスリ。)

そして次の驚きは、オーケストラ・ニッポニカのシャープな巧さ!
アマオケを聴くときにプロオケを聴くときのようなドライな耳を使っていいのか、僕はいつも迷い、そして結局アマオケを聴くのを放棄する。でも幸いにしてすでにニッポニカはそういうレベルを脱していて、在京プロオケと同じ高さで遠慮会釈のない聴き方をしてもフツーにいける。団員の皆さんの高い技倆と熱い共感に支えられて純邦楽風バルトークがスパークするのだよ。ああ。

+ + +

団員による「ISHII!! MAKI!!」の掛け声も楽しい中華風伊福部・陳明志の委嘱作品、そして休憩を挟んで、これも驚愕だった《ブラック・インテンションI》
これは能ではないか!石井眞木の能!
昨年の11月から能を見続けてきて、自分のなかでクラシックから能への敷衍だけでなく、ついに能からクラシックへ逆流の兆候が!あな嬉し!フランス・ブリュッヘンがこの作品を初演してから30年が過ぎ、今日の僕はこれを能だと感じる。

◆序(1本ソプラノRec)
→ワキの登場。「これは僧にて候」とか言ってる。
◆破(1本ソプラノRec+1本バロックソプラノRec)
→前シテが登場しワキと対話する。次第に張り詰める空気。前シテの錯乱と絶叫、銅鑼。煙のように消える前シテ=バロックソプラノRec。
◆急(1本テナーRec)
→ワキ(ソプラノRec)は人格を喪ったのでもう登場しない。後シテ=テナーRecとして正体を現した亡霊が、フレーズ感の希薄な独白ののち、やがて急調子の早笛(ここのリズムの好みは1958年と全然変わってない)。ひとしきりの舞い、最後は地謡が受け取って静かに終焉を迎える。

鈴木俊哉さんをついにライヴで聴けたのも嬉しい。一部の無神経なお客が咳で静寂を妨害するなか、リコーダー本来の寂寥感のある音色と特殊奏法を駆使して、ほとんどの真っ当なお客たちを幽境に引き込んだ。

+ + +

伊福部昭《交響譚詩》は、この日唯一の物足りなかった時間。伊福部の比較的若いころの作品をやるには、野平センセの好みがちょっと淡泊すぎるのではないかと思ったのだった。石井作品ではコアの部分に相当する感覚が伊福部ではそのまま表に露出しているわけだから、もっと彫りを深く、恥ずかしがらないフレージングをオケに伝えてしかるべきだったのではないかしらん。。

で、大トリは石井眞木《アフロ・コンチェルト》である。
この作品は視覚的な効果が大きい。ちょっとわかりにくいけど、当日の終演後の写真を載せますと。
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打楽器協奏曲だけに、指揮台の向かって右手にドラムセット、向かって左手にマリンバとバラフォン(アフリカの民族的マリンバ→参考リンク、音も確認できます)がわらわらと並んでます。菅原さんは演奏中にここを縦横に駆け巡って各打楽器を打ち鳴らす。「奏でる」ではなく「鳴らす」がしっくりくる作品です。

この曲に使われているリズムは明快だよ!と言ってもいいと思う。「たたたた|たたたた|たんたんたん♪」というリズムモティーフが、ソロのドラムセットやマリンバ、巨大に拡張されてオーケストラへ伝播し、作品の額縁として機能している。でもそのすっきりした額縁のなかに、厖大な装飾が蠢いているのよ。この厖大な装飾の統制が演奏の難しさにつながっているんだろうなあ。

いっぽう、野平さんの乾いた感覚は、こういう音楽や冒頭の交響的協奏曲のような作品によく合致する。蠢いているのは伊福部作品のなかにいるような魑魅魍魎ではなく、石井が与えた拍子の法則によって縛られた音符たちなので、オーケストラへの指示もより明瞭なのではなかったかと思われる。

菅原さんは、ひと月前にBCJで典雅なバッハを叩いていたおじさんとは思えないような、鬼神のごとき打ち込みであった。これは文章で描写する努力を初めから放棄したい。薄いイエローの涼しげなシャツは彼の演奏をより軽やかなものに見せていたし、アンコールの《サーティーン・ドラムス》抜粋もまた、本プログラムに輪を掛けて軽やか。つまり重大なのは、あれが難しそうに聴こえないこと。

+ + +

コンサートが万雷の拍手とともにはねると、上空にも雷さまが来て驟雨と雷鳴。ホールの軒下で雨宿りする夕方の聴衆は口々に、アフロと13ドラムスが雨を呼んだと噂している。
by Sonnenfleck | 2013-07-16 23:28 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その六 七月観世会定期能@観世能楽堂(7/7)~はじめてのかんぜ~

c0060659_80232.jpg【2013年7月7日(日) 11:00~ 観世能楽堂】
<七月観世会定期能>
●能「景清」 松門之出 小返
→片山幽雪(シテ/悪七兵衛景清)
 坂井音隆(ツレ/人丸)
 浅見重好(トモ/人丸ノ従者)
 宝生欣哉(ワキ/里人)
→一噌仙幸(笛)
 大倉源次郎(小鼓)
 國川純(大鼓)
●狂言「太刀奪」
→大藏吉次郎(太郎冠者)
 榎本元(主)
 宮本昇(通行人)
●能「半蔀」
→関根知孝(前シテ/里女|後シテ/夕顔女)
 福王茂十郎(ワキ/僧)
 大藏教義(アイ/所ノ者)
→松田弘之(笛)
 亀井俊一(小鼓)
 柿原弘和(大鼓)
●仕舞「高砂」
→木月孚行
●仕舞「通盛」
→上田公威
●仕舞「桜川」クセ
→野村四郎
●仕舞「阿漕」
→片山九郎右衛門
●能「鵺」
→武田尚浩(前シテ/舟人|後シテ/鵺)
 則久英志(ワキ/旅僧)
 大藏千太郎(アイ/里人)
→内潟慶三(笛)
 森澤勇司(小鼓)
 亀井広忠(大鼓)
 小寺真佐人(太鼓)
●附祝言


梅雨明けの朝の渋谷を歩けば、松濤の山上に観世能楽堂あり。開店した109に雪崩込むギャルたち、パチンコ屋の入店を待つ長い行列、至近に狂乱の円山町、、これはいとも不思議のことなり。

観世流の総本山である観世能楽堂を訪ねたのはこれが初めてです。水回りを見るにつけても建物自体は結構古いようですが、内部はきれいに保たれてる。
お客さんは宝飾品をじゃらじゃら付けた威風堂々たるマダム率が(国立能楽堂に比べるとかなり)高くて、今の世のパトロンたちを垣間見る思い。彼女たちの「上品な下品」こそ、本物のお金持ちの証だろう。

この日は、というかこれが普通なんだろうけど、能三本に狂言一本、仕舞が四本というたっぷりスタイル。国立能楽堂の公演が安いのは公立ということもあるだろうが、そもそも番組が小さいからというのもあるんだろうなあ。

+ + +

◆1 ラモーまたはワーグナーとしての観世流
一曲目「景清(かげきよ)」。
これは平家の猛将・悪七兵衛景清こと伊藤景清をシテとした作品です。景清は大河清盛には出てきませんでしたが、伊藤忠清の七男。

ここではまずオーケストラによる前奏曲と、ご宗家が中に入った地謡が、いずれも荘重かつ重厚でびっくりしてしまった。2ヶ月間、自分が観能から離れていたせいだけではなくて、観世流の劇的な性格が強く観測されたと考えるのが自然のように思う。はっきりとしたキアロスクーロに、音楽的豊満さ。ものの本などに書いてある観世流の特長が徐々にわかるようになってきた。

その特長を踏まえたうえで、シテ・片山幽雪氏の、老いと悔いが滲んだレチタティーヴォが印象に残っている。手元に詞章がなくて半分くらいは聞き取れなかったのだけど、意味があるかどうかはあまり関係ないんだろうな。
かつての傲然とした武者姿の残像をこちらに放ちつつ、盲目となって手に持つ杖の震えにこもる執心。これは亡霊のなりかけとしての盲目なのだ。

◆2 ラモーとリュリのちがい
二曲目は「半蔀(はじとみ)」。
前半で若い女、後半で「源氏物語」の夕顔の亡霊が登場する複式夢幻能です。第五帖「若紫」で与謝野源氏をいったん断念した僕でも知っている(苦笑)第四帖「夕顔」の主人公が、源氏との思い出を語り舞う美しい時間。

今回の正味5時間のなかで僕がもっとも能の恐ろしさを感じたのは、実はこの作品の後半、夕顔の亡霊が、夕顔の蔓這う半蔀の奥からこちらを真っ直ぐにじっと見ていた数分なのだった(こちらに参考画像のリンクを貼りますが、ゾワッとくるので注意)。
露わになっていても人の顔と紛うことの多い能面が、蔓や花弁や瓢箪でまだらに隠れれば、それはもう明らかに人である。声も体格も普通のおじさんのはずなのに、そこにいたのは若い女の亡霊であった。舞台に風が吹き抜けて、夕顔の花が揺れる。まことに幽冥の藝術である。

オーケストラの面では、小鼓の亀井老人の、擦るような呻くような柔らかいアーティキュレーションが舞台を涼やかにしていたし、「景清」とは明らかに発声メソッドを変えた地謡もしっとりした趣があった(または、あれが地謡の「楽譜」の違いのせいなのだとしたら、わかったことが大きい)

でももしかしたら、先に述べた観世の特長は「景清」や「鵺」でこそパーフェクトに達成されるのかもしれない。曖昧に消えかかる輪郭よりも。これはリュリやシューベルトが担当すべき世界だ。

◆3 豊麗の奥に潜む何か
三曲目は「鵺」。
能の上演の最後はこういう異形が登場する五番目物によるんだよね。五番目物一曲だけで上演されるときよりも、今回のように巨大な序破急のなかで取り上げられるときの効果は無類なのだろう。スペクタクル。と、知識ではいったん理解している。

ところが、実際に見てみれば、前シテで岸辺に漕ぎ寄せてくる「異形の水夫」のほうが、後シテの鵺本体よりもよほど恐ろしかったのが興味深い。舞台に青臭い水辺のにおいが立ち込めたが、それはシテ武田尚浩氏の持つたった一本の竿のせいである。

◆4 身体のためのエチュード
実は、今回の比較的暗く静かな番組のなかで、身体性の発露をもっとも強烈に感じさせたのが四曲の仕舞であった。
仕舞というのはマスクも装束も着けず、オーケストラもなく、コロスだけを従えて任意の能の場面を舞う形式。上演のときにはたぶん流派の実力者たちがこのかたちで登場する。

上田公威氏の「通盛」と片山九郎右衛門氏の「阿漕」は男ざかりの身体の勁さを、木月孚行氏の「高砂」は優雅な身体の運びとはこういうものだということを、それぞれに教えてくれる。5分の時間の重いこと!特に片山九郎右衛門氏の身体から立ち上る整頓された熱気に、4月に近美で見たベーコン展の残像が重なってしまった!

そして2月の「砧」以来となる野村四郎氏は、「桜川」で脂の抜けた澄明な身体を見所に見せる。扇を持つ手は老いによる震えが無視できないほどではあるけれど、シテの狂乱と一体化して、しかもその周囲にはらはらと散る桜花を幻視させるくらい美しい。

+ + +

能楽堂を出ればいつの間にか夏の日は傾き、遠くに積乱雲が見える。夏なのだ。
by Sonnenfleck | 2013-07-13 08:49 | 演奏会聴き語り

天上謫仙人、またはアバドに関する小さなメモ

c0060659_21563774.jpg【DGG/4791061】
<シューマン>
●交響曲第2番ハ長調 op.61
●劇付随音楽《マンフレッド》序曲
●歌劇《ゲノヴェーヴァ》序曲
⇒クラウディオ・アバド/モーツァルト管弦楽団

超ひさびさにCD感想文を書きましょうか。
僕が本当にアバドと出会ったのは、彼がBPOを辞めてからだと言える。まずマーラー室内管と録れた《魔笛》、これで完璧に心を捉えられて以降、モーツァルト管との一連の交響曲・協奏曲録音、ブランデンブルク協奏曲、イザベル・ファウストとのベートーヴェン、、心の底から素晴らしいと思える録音をたくさん聴いてきた。

ほとんどの場合、自分は拍節感がくっきりした演奏が好みである。それはただの速い遅いではなく、天界の数学があるか否か。クレンペラーもセルもアーノンクールもブリュッヘンも、みんな数学の音楽を聴かせてくれる。
ところがアバドは。
アバドのリズムは数学ではなくて詩ではないかと思う。若いころのアバドの録音はちゃんと聴いていないのでコメントできないが、いまのアバドの「秩序」は彼の呼吸と彼の歌に依拠して、まるで靄や霧が大気に漂うように即興的な流れを示す。これは本来は僕の好みから大きく外れるはずなのに、すべてが楽しい。そして、フレーズのあちこちが軽くすっ...と消える。

+ + +

交響曲第2番(まったく予想どおりだけど)クレイジィでもホットでもなく、ただゆるふわーっと始まる。
この交響曲は「シューマンの4曲の交響曲のなかでも地味」などと言われがちだけど、その実、含んでいるものが4曲中もっとも多い複雑な作品で、アバドがここで取り組んでいるのは第2番のなかにあるハイドンやベートーヴェンの明るい理性の音色を実現させることではないかと感じる。腹の底にガツンと来る拍節感や、焦燥に駆られた末の浪漫的自殺ではなくて。

よく聴いていると第1楽章の序奏こそゆるふわで始まっているが、第2楽章に掛けてタンタンタンタン...という軽いリズム構造が収斂していく様子がわかる。それを彩るモーツァルト管の明るい響き。こういう演奏を否定しがちな旧世代の評論家さんたちは19世紀前半の本質をいまだに見誤っている可能性があるので、われわれとしては可能なかぎり注意してゆきたい(もちろん周到な解釈の結果、演奏家がそこへ19世紀末浪漫のドレッシングをかけること自体は全然否定しませんし、僕はそっちだって大いに楽しむし、そんな使い分けは常識的にどんどんやればいいと思うのです)

この演奏の第3楽章には、ベートーヴェンの第9番のアダージョが遠くで鳴っている。なんという理性と平安の音楽だろうと思う。
シューマンの心の和平は保たれるのが難しいくらい微細なものだったかもしれないが、だからといってそれが無視されていいはずがないのだ。アバドの歌いかたは抑制が効いていて、たいへん品が良い。そしてリズムは「ゆるふわ」に戻っているが、それが古典性と両立するという奇跡のような演奏なのだ!

第4楽章は再びかっちりとまとまり、推進する音楽としてアバドのなかで設計されている。強すぎたり無理のあるアクセントが皆無なので、たいへん理知的で明晰な印象を受けます。シューマンがなぜこの交響曲にハ長調を選んだか、多くの指揮者は忘れているのかもしれない。大切なディスクが持ちものに加わった。

+ + +

もしこの1枚を皮切りにシューマンの交響曲全集が立ち上がるのであれば、エポックメイキングなできごとだと考える。他のひとがそう思わなくても僕はそう思う。
by Sonnenfleck | 2013-07-07 21:59 | パンケーキ(19)