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おまえが落としたのは金のコレッリですか、それとも銀のコレッリですか。

c0060659_10123075.jpg【ACCENT/ACC24281】
<Corellimania>
●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-4
●モッシ:合奏協奏曲ニ短調 op.3-3
●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-1
●ロカテッリ:合奏協奏曲ホ短調 op.1-4
●コレッリ:合奏協奏曲ニ長調 op.6-7
●ヴィヴァルディ:2Vnのための協奏曲ヘ長調 RV765
●ジェミニアーニ:コレッリのVnソナタ op.5-12による合奏協奏曲ニ短調《フォリア》
⇒フロリアン・ドイター/アルモニー・ウニヴェルセル

アルカンジェロ・コレッリ(1653年2月17日 - 1713年1月8日)の生誕300年にあたる今年、コレッリの典雅な音楽をリスペクトしたアルバムがたくさん登場しているが、これはそのなかでも圧倒的に変な光を放つ一枚。浮いている。でも浮いているのは善いこと。

バッハよりもテレマンよりも、ヴィヴァルディよりもヘンデルよりも、ひと世代後の音楽家たちに与えた影響の凄まじさはコレッリのほうが上である(コレッリは「音楽の祖母」くらいには呼ばれていいと思いませんか)。そのコレッリのコンチェルト・グロッソを中心に、影響を受けた作品を据えたアルバム。コンセプトとしてはごく普通でしょう?…しかしですよ。

このディスクに収められたコレッリのop.6-1,4,7には、トランペットとトロンボーンがアンサンブルのなかでリピエーノを吹いているのです。最初の6-4を聴いたときの驚きと言ったらない。
でもこれはお遊びなのかと思ったら、さにあらず。
12曲の合奏協奏曲を仕上げたころのコレッリはピエトロ・オットボーニの楽長として大規模な宗教声楽作品を振っていたし、そもそも1689年3月19日にコレッリが彼の協奏曲をトランペットともに演奏した、という記録もあるらしい。当時のローマでは、アンサンブル補強のためにトランペットとトロンボーンが追加されることも珍しくはなかったようなんだよね(ライナーノーツではコレッリのこの3曲が祝祭性の強いニ長調であることも触れながら、この試みを説明している)

+ + +

そんなわけで初めて聴いたときには、まったくコレッリらしからぬ、きんきらきんに光り輝くテクスチュアに「ヴェネツィアかwww」って思ったのですが、演奏実践のフォルムは第一級なのです。

もったりと熱を帯びた「動的な静けさ」で聴かせるコレッリのグロッソはもちろん佳いのだけれど、独特の長~くのたくる旋律がダレやすいロカテッリのグロッソが、かなり素敵な演奏。ロカテッリには金管楽器を加えていないので、このアルモニー・ウニヴェルセルというアンサンブルの機動力がグッと表に出る。しゃっきりと瑞々しいレタスを囓るような爽やか系ロカテッリ。

MAKやルーヴル宮音楽隊のコンサートマスターだったフロリアン・ドイターが創設したこのグループは、このディスクを聴くかぎりでは「現実を忘れさせるくらいニュートラルな」面白い音楽をやる。
どうしても念頭に浮かびやすいゲーベルやミンコフスキの音楽と正反対のその方向は、百花繚乱の10年代古楽シーンではきっととても強力な武器で、僕は彼らの演奏にブーレーズのラヴェルと同様の矜恃を感じるのだ(でも通奏低音にハープやギターがいたりもするから、一筋縄ではいかない)

かくして金管楽器に彩られた72分は、自他共に認める史上最強のコレッリマニアことフランチェスコ・ジェミニアーニの「5-12」グロッソがトリを務める。ここでもニュートラルの仮面をかぶったスペインが踊り、爽やかにまた平然と幕を下ろすのであった。
by Sonnenfleck | 2013-08-11 10:15 | パンケーキ(18)

プラッソン/東響 東京オペラシティシリーズ第74回|海の日の海(7/15)

c0060659_9572230.jpg【2013年7月15日(月祝) 14:00~ 東京オペラシティ・コンサートホール】
<東京オペラシティシリーズ第74回>
●ドビュッシー:《牧神の午後への前奏曲》
●同:交響詩《海》~3つの交響的素描
●ショーソン:《詩曲》op.25*
●ラヴェル:《ツィガーヌ》*
●同:《ボレロ》
○同:《マ・メール・ロア》より第5曲〈妖精の園〉
→成田達輝(Vn*)
⇒ミシェル・プラッソン/東京交響楽団


初めに《牧神》のオーケストラの響きを聴いたときに、いつもの東響のプチ重厚な音色ではなくて、充実した中音域と華やいだメロディラインで構成された、まるで別のオーケストラのような印象を持ったことをまず書いておきたい。オーケストラをいろいろな指揮者で聴く醍醐味はこういうところに現れている。

それから《海》。これは自分×ドビュッシー史上に残るようなたいへんな名演であった…!
角ゴシック風のきりりとした太線で描かれた響きに、彩度の高いパリッとした色が乗っている。
これはよく言われていることだけど、フランス音楽は演奏実践がふわとろだと全然ハマらないことが多い。だからパレーやベイヌムの古い録音はいまでも明確な価値を持っているし、自分の聴神経の奥に眠っているフルネの音楽づくりだって、その価値観をしっかり体現していたように思うのだ。

プラッソンのことはこれまでそんなに気に留めたことがなかった。録音の多すぎる指揮者の例に漏れず、愚かな自分は無意識に彼のことを軽く見ていた可能性がある。しかしこの剛毅でカラフルなドビュッシー!大事に感じるマエストロがひとり増えた!

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後半はショーソンの《詩曲》にラヴェルの《ツィガーヌ》と続く。
ソロVnの成田氏は、これからもっともっと良い音楽家になるだろうと思う。力強く円やかな音色ははっきり言ってかなり好みなんだけれど、どの局面でも完全に均質なヴィブラートは、作品の陰影を失くす蛍光灯の照明のようでもあった。

ショーソンのオケパートは、しかしこれはまた素晴らしい仕上がり。
ワーグナーとフォーレの隙間に漂うのはオフホワイトのロマンティシズムである。プラッソンの指揮はそれほど精密には見えないが、曇天にも様々な表情があるように、光が射してくる時間や、黒雲が沸く時間、こうした「流れ」がホールの時間と同期していたのにはまったく驚いた。時間の流れはプラッソンの棒の先で操られていた。

ボレロ。この作品に「解釈」はありえない、と思っていた僕の考えを粉々に打ち砕いたのは、かつてFMで聴いたプレートル/SKDの演奏であった(史上もっとも猥雑なボレロ!)
プラッソンはやはりドビュッシーのときと同じ太い描線でデッサンを描き始めるが、乗っているのはもう少しくすんでエロティックな色である。歌い回しに加わったほんの少しノンシャランな味つけが、そんなイメージを喚起する。
(※ボレロがいちばん楽しいのは初めてピッコロが加わるあたりで、それはドラクエで言うとルーラを覚えるくらいに相当する。)

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そんなダンディちょいエロ系ボレロが華々しく爆発したあとのアンコールに用意されていたのは、精密の限りを尽くした〈妖精の園〉なのだった…!ここで泣かずにいられるクラシック音楽好きがいるだろうか。
ここで嗚咽しては恥ずかしいという気持ちが辛うじてブレーキを掛けてくれたが、危ないところだった。日々の仕事で鈍麻していく審美の感覚に対してさえこのような慰撫があるのだから、クラシック音楽を聴くのはますますやめられない。
by Sonnenfleck | 2013-08-03 09:57 | 演奏会聴き語り