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[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その八 宝生会主催公演~能「雷電」@宝生能楽堂(7/25)

前にも書いたことがあるが、僕が生まれて初めて生で能を見たのはいまからおよそ10年前、水道橋の宝生能楽堂で、演目は「大原御幸」だった。
いまになって思えば、これが「石橋」や「道成寺」だったら能への接近はもう少し早かったかもしれない。この宝生能楽堂を、とっても久しぶりに訪れたのだった。

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c0060659_911697.jpg【2013年7月27日(土) 16:00~ 宝生能楽堂】
<宝生会主催公演「時の花|夏」>
●狂言「雷」(和泉流)
→野村萬斎(シテ/雷)
 石田幸雄(アド/医者)
●試演能「雷電」(宝生流)
→辰巳満次郎(前シテ/菅原道真の霊|後シテ/雷神)
 宝生欣哉(ワキ/法性坊僧正)
 則久英志、大日方寛(ワキヅレ/従僧)
→松田弘之(笛)
 大倉源次郎(小鼓)
 柿原弘和(大鼓)
 小寺真佐人(太鼓)
●特別対談:湯島天満宮宮司・押見守康 × 宝生流二十世宗家・宝生和英


宝生能楽堂の場所はよく覚えていたけれど、中に入ってからエレベータで上階にあがった記憶が捏造されていた。入り口と同じフロアにあるじゃん。ロビーは自然光が差し込んで明るい。堂内は照明がミニマル。

この日はもともと中正面だったのですが、隣にもの凄い貧乏ゆすらーがいて地震のように椅子を揺らすので、諦めて休憩中に差額を払って正面席へ。。能の見所にも困ったちゃんは出没するのだな。。
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狂言「雷」は、武蔵野を歩いていた藪医者の目の前にカミナリさまが墜落、腰をしたたかに打ち付けたカミナリさまを藪医者が鍼で治療するという、ドリフのコントみたいなお話。
萬斎さんはカミナリさまなので面を装着して登場。マスクつきの狂言を見るのはこれが初めてですが、能に接近しつつ一線は絶対に越えないバランス感覚が面白い。ちなみに地謡もいらして最後のカミナリダンスを伴奏する(アーティキュレーションは狂言スタイル!)

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で、能「雷電」です。
宝生流の「雷電」は2年前に復曲された演目。宝生流の大パトロンであった加賀の前田家が菅原道真の子孫を称していたことから、宝生流では前田家に気を遣って「来殿」として上演してきた。「来殿」では菅公は僧正に調伏されず、最後に菅公が朝廷への寿ぎの舞いを舞って終わるみたいで、ずいぶん違うすなあ。
ちなみにアフタートークでご宗家が話してらしたんですが、2年前の「雷電」復曲後に、宗家の文庫のなかから「来殿」になる前の旧「雷電」振り付けノートが見つかり、それを元にして微妙に演出を変えたとか。第2稿の初演だったというわけですね。

◆1 菅公の亡霊と雷神
比叡山の座主・法性坊僧正が祈祷しているところへ、謎の訪問者が現れてほとほとと扉を叩く。不審に思った僧正が確かめると、そこに立っていたのは先日死んだはずの菅原道真であった。

菅公は「これから内裏に行き、仇をなした人物たちを殺すが、僧正は必ず私を調伏するために呼ばれるだろう。だがその勅命には応じないでほしい」と話す。
しかし僧正は、王土にいる以上は勅命には抗し得ないと応じたので、怒った菅公は柘榴を口に含んで戸口に吐き捨てる。すると柘榴は炎に変じて燃え上がるが、僧正は印を結んで水を放射。かつての仲睦まじい師弟は悲しく決裂してしまう。

後場では、内裏を模した畳の作り物が運ばれて来、このうえで雷神と化した菅公と僧正が壮絶なバトルを展開する。雷神は紫宸殿や清涼殿を跳躍し電撃を飛ばすが、僧正は数珠をさらさらと打ち鳴らし、やがて法力で雷神を調伏する。

◆2 ドラマトゥルギー
この作品でシェイクスピアみたいな感覚を受信したのが、自分的にはすごく面白かったのだった。
後半の大スペクタクルのさなか、地謡が「僧正いるところ雷落ちず、、」って謡うんだけど、前半、道真公の亡霊が「勅命には応じないでほしい」っていうやり取りがあったからこそ、菅公の内心に残る人間らしい葛藤(師に対する思慕や感謝の念)をここに入れ込めるようにもつくってあるのよ。この内心の分裂。いいよね。。

内裏に雷がバリバリ落ちる、道真公 vs 僧正のスペクタクルはもちろんサイコーに格好いい。しかしその奥に通底しているのは、かつて親のように教えを受けた師である僧正に対して菅公が抱く静かな感情。しっとりしたドラマであった。

◆3 クラ者の雑感
最後の雷撃シーンはまるでリヒャルト・シュトラウスの大管弦楽のような膨満感があって素敵でした。笛・小鼓・大鼓・太鼓だけで、あのド迫力。
by Sonnenfleck | 2013-09-28 09:03 | 演奏会聴き語り

メッツマッハー/新日フィル 第515回定期演奏会|Conductor in Residence 就任披露@サントリー(9/14)

c0060659_10303459.jpg【2013年9月14日(土) 14:00 サントリーホール】
●ムソルグスキー/R=コルサコフ:歌劇《ホヴァーンシチナ》~前奏曲〈モスクワ川の夜明け〉
●スクリャービン:交響曲第4番《法悦の詩》op.54
●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 op.64
⇒インゴ・メッツマッハー/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


2013/14シーズンの個人的オープニングにして、ほぼ2ヶ月ぶりのフルオーケストラ。男子の朝・男子の夜・男子の昼、みたいな高2系プログラムも興味をそそる。

メッツマッハーを聴くのは1月のアルペン以来ですが、やっぱり前回と同じように、マルケヴィチやベイヌムを想起させたのだよねえ。
鮮やかに分離した声部の襞々と(鮮やかに分裂して静止していれば、それは≒ブーレーズ)、それだけではない自在に伸縮する横への流れ。こうした美質をメッツマッハーは先輩たちと同じように備えていると思うのです。

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まずチャイコフスキーから書こう。
スタッカート多用のポツポツしたアーティキュレーションで第1楽章が始まってちょっと困惑させられた聴衆は、やがてメッツマッハーの巧妙な仕掛けに気づく。
「普通の」チャイ5であれば1stVnの分厚いレガートに覆われて見えない木管隊の密やかな声部、これが弦楽器とバランスされてしっかりと浮かび上がる。メッツマッハーが頑なに指定する急速なインテンポに率いられて、それらが鮮やかに分離しながら華々しいテクスチュアを織りなす様子は、ダンスだよ。

ハーモニーの上では無理な統合で縛られないので、一本一本の声部は主張をやめないが、それらがリズムの上で統合されたとき、ペルシアの絨毯がうねるような豪奢な美が目の前に現れる(より正確に言えば「現れそうになっていた」)
つまり、メッツマッハーが最終的に目指しているものは明確なのだよね。したがって第2楽章では、もし新日フィル弦楽隊に一層の照りや艶があったとしたら、なお適切なバランスで浪漫の絨毯がホールに敷かれただろう、という瞬間がないではなかった。それは、このコンビを聴き続けていく理由は十分にあるということを意味するだろう。

第4楽章など、VaとVcの刻みがあまりにも機能的な美しさを放つのでまるでストラヴィンスキーのように聴こえる局面もあり、たいへん興味深い。
響きを器用にまとめ、どちらかと言うと腰高な音を持つ新日フィルと、上に書いたようなメッツマッハーの目指す音楽とが、別々の方角を向いているのではないのは疑いない。あとは2直線が交わるのを聴衆は待ってる。

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前半のスクリャービン。藝術の峻厳な高みに近づくために、ここで少し不適切な表現を使うのを許してください。

多くの《法悦の詩》が「ボカシあり」だとすれば、メッツマッハーの《法悦の詩》は「無修正」だったと思われる。のたくりながら絡み合う声部たちはやはり綺麗に分離していて、このよくわからない交響曲を初めて何かの描写だと納得させてくれたのだった。直接音の多い座席で聴けたのは幸運だったと思うけど。

次はメッツマッハーのベートーヴェンかハイドンを聴いてみなくちゃいけないなあと思うのでありました。
by Sonnenfleck | 2013-09-16 10:31 | 演奏会聴き語り

次の時代に新しい風を。

以前どこかで書いたかもしれないが、フランチェスコ・ドゥランテ Francesco Durante(1684-1755)の弦楽のための協奏曲ト短調の通奏低音を弾いたことがあって、それ以来、このナポリ楽派随一の感傷主義者(もうちょっと正確に言うと「甘いメロディ量産家」)にはなんとなく心惹かれるものがある。



↑弦楽のための協奏曲ト短調
*ニコラス・クレーマー/ラグラン・バロック・プレイヤーズ

このひとはアレッサンドロ・スカルラッティの高弟としてナポリ楽派の隆盛に大いに貢献した人物なのですが、彼は面白いことにオペラを作曲せず、もっぱら教会音楽に人生を捧げてるんだよね。上にリンクを載せた弦楽協奏曲は数少ない例外。

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c0060659_12204516.jpg【Arts/475222】
<ドゥランテ>
●《預言者エレミヤの哀歌》
●《ヴェスプロ・ブレーヴェ》
→ロベルタ・インヴェルニッツィ、エマヌエラ・ガッリ(S)
 ドロシー・ラブッシュ、アンネミーケ・カントル、
 ローザ・ドミンゲス(A)
 マルコ・ビーズリー(T)
 アントニオ・アベーテ、フリオ・ザナージ(Bs)
 スイス・イタリア語放送合唱団
⇒ディエゴ・ファソリス/ソナトーリ・デ・ラ・ジョイオーサ・マルカ

したがって、劇性や旋律に対するナポリ的偏愛を一滴残らず注がれた彼の宗教作品は、ヴィヴァルディやヘンデルのそうした作品にまったく劣らない強靱な音楽として現在に伝わっている。このディスクはそのなかでも傑作と考えられている《預言者エレミヤの哀歌》と《ヴェスプロ・ブレーヴェ》を収めた一枚です。

まず《預言者エレミヤの哀歌》を聴いてびっくりするのは、そこに確かに現れている、モーツァルトのレクイエムとよく似た旋律運びなんだよね。
モーツァルトがナポリ楽派に甚大な影響を受けていることはよく知られていますが、こんなにはっきりと感知できる作品もあったんだねえ。



↑《預言者エレミヤの哀歌》序盤
*ファソリス/ソナトーリ・デ・ラ・ジョイオーサ・マルカ
◆2:45すぎくらいから、モーツァルトの元ネタっぽさが炸裂!

指揮は最近お気に入りのディエゴ・ファソリス。
彼のことはどこかであらためてちゃんと書きたいと思いますが、音の立ち上がりと立ち消えに対する彼の鋭敏な感覚と、音符の子音的特質に関する明快な好み、そして決して作品フォルムを崩さない優雅な音楽運びなど、僕は彼に「古楽界のドホナーニ」の称号を贈りたくてたまらんのです。

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《ヴェスプロ・ブレーヴェ》はもう少し前の時代の作品に寄っているような気がする。聴取による様式判断は禁じ手ではありますが、こっちはアレッサンドロ・スカルラッティと、さらにその師匠のカリッシミを経由して、昆布だしのように利いているパレストリーナ風の安寧が聴かれて愉快である。

もちろんバッハもモーツァルトも不世出のものすごい人物だし、彼らの作品は任意の瞬間の「雑な」演奏実践にも耐えうるくらい強靱なフォルムを持っているんだけれど、よりまともな藝術性を確保するために大切なのは、彼らに流れ込んでいるそれまでの潮流を忘れないようにすることだと思うの。
by Sonnenfleck | 2013-09-07 12:28 | パンケーキ(18)