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ノリントン/N響|この麗しのブリテン日和に 第1764回定期@NHKホール(10/20)

c0060659_19161033.png【2013年10月20日(日) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:《エグモント》序曲
●ブリテン:《ノクターン》op.60
→ジェームズ・ギルクリスト(T)
●同:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲 op.33a
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 op.93
⇒ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団
 *ゲスト・コンサートマスター:ヴェスコ・エシュケナージ


今年の東京の10月は天候が不順である。すっきりと晴れてカラッと暑いこともある例年に比べて、今年は台風に脅かされて、じめっと蒸し暑かったり肌寒かったり、どんより曇ったりしている。
この日、この公演に行くかどうか実はかなり判断に迷った。篠突く雨をかいくぐり、朝イチから三井記念美術館で桃山の陶器を眺めたまではいいものの(そのうち感想文が書ければよい)、どうにも寒くて動けない。風邪の神様がこっちを見つめている。

しかし風邪の神様はヤヌス。もう一面にブリテンの顔を貼りつけている。こんな冷たい雨の秋の日曜日は、年にそう何度もない絶好のブリテン日和。それでノリントンとギルクリストが《ノクターン》を演るのに聴きに行かなくてなんとする。。

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《ノクターン》は非常に精妙な音楽なので、できれば歌い手の直接の声が飛んでくる場所で聴きたい。当日券売り場で奮発して、1階の前方席を買う。

果たして、この選択は当たりだった。
BCJのソリストとして歌うこともあったらしいギルクリストは、もしかしたらどこかで聴いているかもしれないんですが、それにしても驚いたのは魔術的なディクションの威力です。ボストリッジがまるで256色の8ビットカラーに思えてしまう「24ビットカラーの不吉」。この作品でブリテンが使用した厭な色、夢幻の色、暗示的な色が凄まじい精度でプリントされていく。ギルクリストは道化のようにふざけて語り、後シテの死霊のように静かに謡う。

そしてノリントンとN響は。こちらも素晴らしいのひと言に尽きる。たとえば〈しかしあの夜〉の救い難い悪意や、〈夏の風より優しいものは何だろうか〉の幽かな空間。。
ノリントンのノンヴィブラート奏法(通称Norring-tone)が適用されたブリテン音楽を聴くのはたぶんこれが初めてなんだけど、その冷え冷えとした肌合いは、5月に接したアンサンブル・アンテルコンタンポランの対局にあるのかもしれなかった(澤谷夏樹氏が告発していたとおり、フランスの彼らは案外、発音に対するこだわりを持っていなかった…)。音楽のそれぞれの様式が演奏家に要求する実践のなかに、音の風合いや肌合いが含まれるのは、バロックも20世紀も同じなのだわいね。

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翻ってベートーヴェンの第8は?
細部の整えが行われていないピリオドのベト8は、とても残念だけれども今日ではすでに、それほど価値を持たない。同じ方角の遥か彼方にハイパーなトップランナーたちが幾人もいて、道を切り拓いた先蹤がいまや追い抜かれていることを聴衆は知ることになる。
昨年の「第九演奏会」のしっかりとした統率とはほど遠い渾沌のアンサンブルのまま、フレージングから生み出される勢いだけで音楽を推進させる様子に、ノリントンの「老い」を初めて感じた。オーケストラはブリテンのときより混乱していて、しかしそれでもアーティキュレーションが相変わらず異様に鮮やかに機能しているぶん、少なからず悲しかったんである。
by Sonnenfleck | 2013-10-27 19:50 | 演奏会聴き語り

前田りり子リサイタルシリーズ・フルートの肖像Vol.9|バルトルド・クイケン×前田りり子@近江楽堂(9/7)

c0060659_947592.jpg【2013年9月7日(土) 14:30 近江楽堂】
●オトテール:2Flのための組曲 ロ短調 op.4
●クープラン:趣味の融合、または新しいコンセール第13番
●バッハ:無伴奏Flのためのパルティータ イ短調 BWV1013**
●テレマン:2重奏のためのソナタ ニ長調 op.2-3
●C.P.E.バッハ:無伴奏Flのためのソナタ イ短調 Wq.132*
●W.F.バッハ:2Flのための二重奏曲第1番 ホ短調 Fk.54
○C.P.E.バッハ:小品(曲名不詳)
○W.F.バッハ:小品(曲名不詳)
⇒バルトルド・クイケン(Fl*)+前田りり子(Fl**)


バルトルド・クイケンのふえを聴くのはたぶんこれで三度目くらいなのだけど、むろん、近江楽堂のように狭い空間で贅沢に体感したことはない(りり子女史のふえはもう何度目かよくわかりません)

当日の近江楽堂は、あのクローバー型の空間の中央に2つの譜面台と1つの椅子が置かれて、100名弱のお客さんが四方から取り囲む形式。遅れて到着した僕は、譜面台の向きから判断するにP席に相当するブロックの最前列に「まー背中からでも近いからいいかー」と座ったのだが、後からこれが幸いする。

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で、入場してきたお師匠さんとお弟子さん。小柄なお弟子さんが立奏すると大柄なお師匠さんが座った高さとちょうど合うらしく、バルトルドは椅子に腰掛ける(あとでりり子女史が教えてくれたのだけれど、バルトルドはひと月前に足の骨を骨折してたとのことで…)
そしてありがたいことに、1曲ごとに回転しながら方向を変えて吹くよーとの仰せ。P席が一気にS席に早変わりするの図です。

さて、僕としては最初のオトテールのデュオがこの日のクライマックスだったと言ってよい。
本業の多忙が続いて、1ヶ月以上コンサートにご無沙汰していたのもあるし、バルトルド御大とりり子女史の音を至近距離で聴けるというミーハーな喜びもある。しかしオトテールの、お約束どおり終曲に置いてあるパッサカリアが、やっぱりお約束どおり中間部で長調に転調して見せるに及んで、バロックの血がじゅっと沸騰するのを感じたのであるよ。

ふつう、クラシック音楽全般をレコード芸術的に幅広く聴くひとがあれば、彼らがイメージするバロック音楽というのは《マタイ受難曲》だったり《ブランデンブルク協奏曲》だったり《水上の音楽》だったりする。ところがバロック音楽の本質のひとつであるキアロスクーロは、巨きな管弦楽や大合唱よりも、小さなアンサンブルの細部に宿っていることが多いんである。
閉ざされた部屋における密かな明暗の悦びをこっそり分けてもらうこの上ない贅沢は、ふえを知悉しきったオトテールによって、また師匠と弟子の親和する一対の息によってもたらされる。パッサカリアが緊張したロ短調から解放されるその瞬間の光を、僕たちは深呼吸するように味わう

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バルトルドのソロで演奏されたエマヌエル・バッハも(企画の主であるりり子女史には申し訳ないけれども)、この日聴きに出かけて本当によかったと思わせる仕上がり。これもバロック音楽の本質のひとつである「究極の名人芸」に触れたわけですが、目にも止まらぬ速さで鮮やかに撫で斬りされたみたいで、死んだことに気づかない浪人Aみたいな心地。御大が吹いていたのは仕込み笛でござった。

還暦を過ぎてますます進化を続けるバルトルド。BCJの女王(すいません)りり子女史も、大師匠の前では何やら少女のように可憐な姿を見せている。
by Sonnenfleck | 2013-10-14 09:48 | 演奏会聴き語り

スクロヴァチェフスキ/読響 第67回みなとみらいホリデー名曲シリーズ|そして8年後…(10/6)

c0060659_2281916.jpg【2013年10月6日(日) 14:00~ みなとみらいホール】
●ベルリオーズ:劇的交響曲《ロミオとジュリエット》op.17~〈序奏〉〈愛の情景〉〈ロミオひとり〉〈キャピュレット家の大饗宴〉
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
 読売日本交響楽団


正直に告白すると、僕はスクロヴァチェフスキを「何かもういーや」と思っていた。かつてあれほど心酔したにも関わらず、ここ最近の動向について情報を集めることすらしてこなかった。
ところが今年の読響客演のショスタコーヴィチが、何やら大変な反響を呼んでいる。そうなると現金なもので、2005年客演時のショスタコの極めて素晴らしいパフォーマンスを思い出し、やがて当日券を頼みにホールへ足が向いてしまうのであった。

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で、どうだったか。
第4楽章の凄まじいギアチェンジ、この考え抜かれ鍛え抜かれた推進力には恐れ入った。自分が8年前に書いた感想文がそのまま生きるので、引用しましょう。
緊張を保持したまま、アタッカで第4楽章。恐ろしく遅いテンポで辺りを蹂躙したかと思えば、シニカルなリタルダンドを掛けてニヤリとさせたり、楽しい仕掛けが満載。ちょっとおこがましい言い方ですが、この曲をよく知っていればいるほど面白いのです。最後、普通の指揮者は素直にコーダに重心を置きますが、スクロヴァはコーダの直前に大きなクレッシェンドを掛け、異常に肥大した山を作る。聴き手はここでもまた度肝を抜かれます。なんていう人だ。。
でも8年後の僕が腰が抜けるほど驚いたのは、この第4楽章ではなくて、第3楽章の信じられないくらい荒涼とした心象風景なのだった。
ショスタコーヴィチの第5交響曲は、もしかすると、ただ第3楽章のために存在しているのかもしれず、また、スクロヴァチェフスキと読響の8年間はそれを証明するのに十分な関係を互いに構築させたのかもしれません。

ご存知のようにこの曲の第3楽章は、ショスタコが書いたもっとも美しいアダージョのひとつです。この美しさをストレートに表現することで成功している演奏もかなり多いし、そのアプローチについて僕はそれほど疑念を持たない鑑賞者だった。そうだったけれども、今日からは違う。

スクロヴァチェフスキは、ここに甘美なブルジョワ糖蜜をたっぷり掛けたりしなかったし、「<強制された歓喜>に対する<抵抗>の自己表現」にもしなかった。爺さんの前でこの楽章はただ、凍てつく冬に「商店」に並ぶ小母さんたちの偉大さに捧げられた、バビ・ヤールの第3.5楽章として存在していた。こんなマチエールの第3楽章は、ただの一度も聴いたことがない!!

バビ・ヤールの言葉なき追加楽章とするために、ポルタメントで厭らしく粘つく2ndVnや、裸のままで乾いたアタックのCb、一斉に縦方向に叫ぶ木管隊、空間を横方向に切り裂くヒリヒリとしたハープに至るまで、スクロヴァ爺さんは容赦なく必要なものを集める。そして彼のいつもの「構築」の柱や梁として、それらのリソースを実に贅沢に使い倒す。
そのようにして組み上げられた響きの空間は、この交響曲が後期ショスタコーヴィチの培地たりうる大傑作であることを、再び僕たちに教えてくれる。「自発的に次に亘る」演奏の前では、誰かが”証言的である”と決めつけるのも、”証言的でない”とみなすのも、等しく意味がない。こうした視点を、僕たちは90歳の元祖モダニスト老人から授けられる。

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それから(これもちゃんと書いておきたい)第2楽章も見事のひと言なのだった。
この1年、能と一緒に狂言を見るようになって、優れた狂言の実践は最初から最後まで厳格な真面目さによって貫かれているということがわかってきた。この楽章はカリカチュアライズが簡単にできるので、今世紀の演奏はかなり露悪的なものが多いように思いますが、それだって狂言と同じで、クソ真面目にドタドタやってこそ活きる。露悪の裏に何もない、すっからかんの素寒貧。この日のスクロヴァチェフスキのドライヴは、ちょっとコンドラシンを思い出させるくらい、完璧だった。

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さて前半のロメジュリ抜粋。「4楽章の劇的<小>交響曲」の形式に整えられたベルリオーズの、異常な前衛性に僕たちは気がつかなければならない。膨張して1839年の木枠を突き破るその姿に、1937年に鉄の文化政策を腐食させ、次代の芽を宿していた音楽を重ねてみるのも、おそらく悪くないのでありましょう。

スクロヴァ爺さん。僕はやっぱりあなたの元に戻ることになりそうです。


by Sonnenfleck | 2013-10-06 23:00 | 演奏会聴き語り