天上謫仙人、またはアバドに関する小さなメモ

c0060659_21563774.jpg【DGG/4791061】
<シューマン>
●交響曲第2番ハ長調 op.61
●劇付随音楽《マンフレッド》序曲
●歌劇《ゲノヴェーヴァ》序曲
⇒クラウディオ・アバド/モーツァルト管弦楽団

超ひさびさにCD感想文を書きましょうか。
僕が本当にアバドと出会ったのは、彼がBPOを辞めてからだと言える。まずマーラー室内管と録れた《魔笛》、これで完璧に心を捉えられて以降、モーツァルト管との一連の交響曲・協奏曲録音、ブランデンブルク協奏曲、イザベル・ファウストとのベートーヴェン、、心の底から素晴らしいと思える録音をたくさん聴いてきた。

ほとんどの場合、自分は拍節感がくっきりした演奏が好みである。それはただの速い遅いではなく、天界の数学があるか否か。クレンペラーもセルもアーノンクールもブリュッヘンも、みんな数学の音楽を聴かせてくれる。
ところがアバドは。
アバドのリズムは数学ではなくて詩ではないかと思う。若いころのアバドの録音はちゃんと聴いていないのでコメントできないが、いまのアバドの「秩序」は彼の呼吸と彼の歌に依拠して、まるで靄や霧が大気に漂うように即興的な流れを示す。これは本来は僕の好みから大きく外れるはずなのに、すべてが楽しい。そして、フレーズのあちこちが軽くすっ...と消える。

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交響曲第2番(まったく予想どおりだけど)クレイジィでもホットでもなく、ただゆるふわーっと始まる。
この交響曲は「シューマンの4曲の交響曲のなかでも地味」などと言われがちだけど、その実、含んでいるものが4曲中もっとも多い複雑な作品で、アバドがここで取り組んでいるのは第2番のなかにあるハイドンやベートーヴェンの明るい理性の音色を実現させることではないかと感じる。腹の底にガツンと来る拍節感や、焦燥に駆られた末の浪漫的自殺ではなくて。

よく聴いていると第1楽章の序奏こそゆるふわで始まっているが、第2楽章に掛けてタンタンタンタン...という軽いリズム構造が収斂していく様子がわかる。それを彩るモーツァルト管の明るい響き。こういう演奏を否定しがちな旧世代の評論家さんたちは19世紀前半の本質をいまだに見誤っている可能性があるので、われわれとしては可能なかぎり注意してゆきたい(もちろん周到な解釈の結果、演奏家がそこへ19世紀末浪漫のドレッシングをかけること自体は全然否定しませんし、僕はそっちだって大いに楽しむし、そんな使い分けは常識的にどんどんやればいいと思うのです)

この演奏の第3楽章には、ベートーヴェンの第9番のアダージョが遠くで鳴っている。なんという理性と平安の音楽だろうと思う。
シューマンの心の和平は保たれるのが難しいくらい微細なものだったかもしれないが、だからといってそれが無視されていいはずがないのだ。アバドの歌いかたは抑制が効いていて、たいへん品が良い。そしてリズムは「ゆるふわ」に戻っているが、それが古典性と両立するという奇跡のような演奏なのだ!

第4楽章は再びかっちりとまとまり、推進する音楽としてアバドのなかで設計されている。強すぎたり無理のあるアクセントが皆無なので、たいへん理知的で明晰な印象を受けます。シューマンがなぜこの交響曲にハ長調を選んだか、多くの指揮者は忘れているのかもしれない。大切なディスクが持ちものに加わった。

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もしこの1枚を皮切りにシューマンの交響曲全集が立ち上がるのであれば、エポックメイキングなできごとだと考える。他のひとがそう思わなくても僕はそう思う。
# by Sonnenfleck | 2013-07-07 21:59 | パンケーキ(19)

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その五 能「巴」@豊田市能楽堂(5/11)~はじめてのしゅら~

豊田市は雨だった。豊田参合館の、コンサートホールの隣のあのスペースに、僕が足を踏み入れる日が来ようとは。。

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c0060659_1023311.jpg【2013年5月11日(土) 14:00~ 豊田市能楽堂】
<豊田市能楽堂主催公演「ふじ能」>
●狂言「金岡」(和泉流)
→野村万蔵(シテ/金岡)
 野村万禄(アド/妻)
●能「巴」(喜多流)
→狩野了一(前シテ/里の女|後シテ/巴御前の霊)
 飯富雅介(ワキ/旅の僧)
 椙元正樹、橋本宰(ワキツレ/従僧)
 野村太一郎(アイ/粟津の里人)
→大野誠(笛)
 後藤嘉津幸(小鼓)
 河村眞之介(大鼓)ほか


能にはいくつかの種類がある。オペラがセリアやブッファ、グランドオペラ、ヴェリズモなどに分かれているのと同じように。

 初番目物:脇能とも。だいたい「神さま目出度い!」という内容。
 二番目物:修羅物とも。
 三番目物:鬘物とも。女性の亡霊の恋する思いを描くことが多い。
 四番目物:狂い物、雑能物とも。その他もろもろ。
 五番目物:切能物とも。鬼や天狗が出てくるスペクタクル。

「修羅物」は現世で戦闘に明け暮れた武者や武将、悪人が死霊の姿で現れ、現世で果たせなかったことへの執着や修羅道に堕ちた苦しみを語り、やがて消える、という形式が多いようです。「平家物語」から着想した作品が多いこの二番目物(修羅物)に分類される能、ついに初めて見たのですが、それが唯一の女性を主人公とする修羅能「巴」だったことに運命的なものを感じるのであった。

1 「巴」のおはなし
巴御前、って知っておられるかたが多いですよね。頼朝のいとこにして悲劇のライバル・源義仲(木曾義仲)の愛妾、そして古今比類なき女武者として「平家物語」に描かれた女性です。

ものがたりは義仲が戦死した粟津(びわ湖ホールのあたり)を僧が訪れるところから始まる。僧は神前に参拝に来ていたひとりの女性を目にとめてしばし会話するが、女性はすっ…と消えてしまう。ここまでが前半。
後半、僧の前に、薙刀を持ち甲冑をまとった女武者の死霊が姿を現す。死霊は自ら巴と名乗り、義仲の死に立ち会えなかったことを悔やんで、感情の激するままに薙刀を掲げて舞う。そして消える。こんなおはなし。

2 執心の凄惨な美
神様や帝を寿ぐ脇能がビクトリアやパレストリーナのミサ曲だとすれば、修羅の怨霊が現れる能は、ヴォルフのリートやブリテンのある種のオペラのように救い難く凄惨で、静かに物悲しい
「巴」の身体的な見どころは、やはり終盤の、シテによる「薙刀のヴァリアシオン」なのだよね。普通は扇で心情を語るところを、長い薙刀で義仲への執心を表現し、能面で涙を流し、やがてクライマックスでその薙刀をがらりと取り落として、このものがたりは終わる。
シテの狩野氏は総身に力を漲らせ、必要十分に女武者の死霊を演じきったと思う。シテの技巧に関する専門的な見方がまだわからない今だけ味わうことができる、執心の本質的な部分を観測した。これは自信がある。

3 焼き切れる執心
で、「巴」の観念的な見どころがどこにあるのかといえば、やっぱりこれも「薙刀のヴァリアシオン」なのだよね。
「平家物語」の記述によれば、巴が義仲と別れて落ちていったのは義仲の最後の一戦の前であり、しかも義仲が討ち取られるのを目撃したのは彼の乳母子・今井四郎兼平。兼平もすぐに後を追って自害したので、したがって巴は、義仲の最期の様子など知る由もない。

でも、この「巴」の名無しの作者は、巴の怨霊に義仲の最期を演じさせるという思い切ったドラマトゥルギーを用いるんである。
ヴァリアシオンの強靱な舞いは、白熱電球のフィラメントが焼き切れる瞬間の強い輝きのように見えた。能の前半、舞台に巴の死霊が降りていたのは疑いないが、最後に作者は、巴の死霊に義仲の死霊を二重に降ろすことによって、巴の執心を焼き尽くさせたのかもしれない。それは彼女のための、弔いの炎である。

+ + +

五月晴れの翌日、滋賀の粟津に行った。
粟津(膳所駅から徒歩10分くらい)に「義仲寺」というお寺がある。義仲の墓所とされる場所であり、義仲死後に巴が結んだ庵がこのお寺の始まりともされている。

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立派な義仲の墓と寄り添うようにして、小さな「巴塚」が境内の緑に埋もれていた。巴の墓とも言われるし、そうでないとも言われる。しかしどちらでもよい。
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実はこの寺を愛したのが、松尾芭蕉なのだ。義仲の墓の奥に、松尾芭蕉の墓がある。時代の不思議な断層を感じますよね。
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正午前の木洩れ日を浴びてしばし境内に佇む。池では亀が甲羅干し祭り。
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執心が焼き切れてのちの世の、穏やかな昼。初夏に向けて陽射しは心持ち強い。今から900年前に、そんな男女がいたのであった。
# by Sonnenfleck | 2013-06-30 10:35 | 演奏会聴き語り

調布音楽祭2013|バッハ・コレギウム・ジャパン「管弦楽組曲全曲」@調布市グリーンホール(6/22)

バッハの管弦楽組曲(自分愛称かんくみ)は意外に生演奏の機会がない。第2番や第3番は古楽アンサンブルの単発音楽会でたまに取り上げられるけれども、第1番や第4番は全然である。
それもそのはず、音楽的体力と美的知力が総動員されなければ、この曲集は音楽にならない。バッハの世俗音楽特有の演奏至難さを存分に持ち合わせている恐ろしい作品たち。3月末のヨハネ@さいたま芸術劇場で心を揺さぶったいまのBCJなら、どんな演奏をするのだろう、という強い好奇心で出かけたのだった(調布遠い…)

地下化された京王線調布駅(地上時代には一度だけ降り立ったことがあった)から、ごちゃっとした駅前広場に上がると、昭和の「文化会館」の姿をよく留めた調布市グリーンホールがある。内装はプチNHKホール。残響はほぼゼロ。
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【2013年6月22日(土) 17:00~ 調布市グリーンホール】
<調布音楽祭2013>
●バッハ:管弦楽組曲第1番ハ長調 BWV1066
●同:管弦楽組曲第4番ニ長調 BWV1069
●同:管弦楽組曲第2番ロ短調 BWV1067
●同:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068
○同:ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調 BWV1048~第2、第3楽章
 ※第2楽章は3台Cem協奏曲ハ長調 BWV1064 第2楽章による補遺
 →アントワン・タメスティ(1stVa)
⇒鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン


それで。この日は非常にスリリングな瞬間に何度か出遭った。天下のBCJをしてもかんくみは難しいのだろうなあと思う。
僕はこの日、1階正面10列目中央に座ったのだけれど、各曲の序曲で付点のグラーヴェが終わってから、特に後半のヴィヴァーチェに入った直後、アンサンブルに小さな罅や瑕が入っているのが意外であった。巨大な受難曲では雅明氏の下で統一的に躍動していたBCJのアンサンブルが、少しく乱れている。

ここから先は特に僕の私論なのですが、通奏低音ががっちりしている古楽アンサンブルが比較的中規模以下の器楽合奏曲を演奏する際、もし指揮者がリハーサルで音楽に解釈を付与してしまって以降だとすれば、本番での指揮行為はどれくらい意味があるのか、ということについて以前から疑問を持っています。

現にこの日、秀美氏をリーダーにする懸田氏+今野氏+優人氏のBCは、雅明氏の指揮ではなく、ほとんどの場合コンマスのアインザッツに従っていたんだよねえ。もちろん寺神戸さんは雅明氏の指揮を汲み取るし、流れが大きく曲がったり停止したりする箇所は、秀美氏の目線は必ずお兄さんの指先を向いていたんだけれど。

帝と将軍と摂関家みたいな複層的なリズム構造が展開されてしまっていたこと、個人的にはここに罅や瑕の原因を探ってしまう。
さらにティンパニが入る曲だと、指揮者に従属する関東管領みたいなもうひとつのリズム権力が存在してしまって、もうどこがリズム権力の中枢かわからん状態(客演の菅原淳さんはもちろん相変わらず素晴らしいパフォーマンスでしたが…)。彼らの演奏する受難曲やカンタータは「声」を掌握している帝としての指揮者が、圧倒的に全体をまとめているのだけれども。

+ + +

こうしたことから第1番の序曲、ガヴォット、パスピエや第3番の序曲はどうにもスリル満点な演奏を観測したのだったが、そこは歴戦のBCJであるから、演奏途中に体勢を立て直して、通奏低音とコンマスが協力しながら指揮者にうまく合わせることにつなげていったのだった。

指揮者と通奏低音チェンバロが分離しているBCJの現状では、完全完璧なリズムの統一を図るのは(あえて率直に言いますが)困難だというのが僕の感想。これは、だから誰誰が悪い!とかいうのではなくて、それをBCJが自分たちのスタイルとして披露している以上、聴衆はそれを彼らの音楽として受け取り咀嚼すべきである。

だから、指揮者が通奏低音チェンバロに座って、各パート1人の中編成、コンマスやトラヴェルソのアインザッツと通奏低音だけで成立した第2番は、僕には理想的な演奏に思われた(これは雅明氏がチェンバロに座ったから、というのでは決してなくて、仮に優人氏が座ってお父上が舞台袖に入られても、そういう演奏になったと思う)。通奏低音と一緒に安心して呼吸できる演奏って、それはそれは素晴らしいのだ。

<いくつかの萌えポイント>

・文句めいたことを書いてきましたが、アンサンブルに小さな乱れが生じていたのは急速楽章であって、第1番のクーラントや第4番のメヌエットのようにきわめて柔らかく精妙なゆるふわイネガルが効いた楽章はサイコーであった。これは本当に。陰翳の濃いイタリアンな印象が増していた最近のBCJだけど、フレンチの味つけだってやっぱり上手だ。

第4番の終曲、レジュイサンスの中盤に寺神戸コンマスがまさかの断弦!6月の湿気とガット弦の相性の悪さは折り紙付きですね。残った3本の弦で、物凄いポジションチェンジを繰り出しながら懸命にアンサンブルをリードする寺神戸氏にブラヴォ!
第2番の序曲が終わったところで、秀美氏が調弦したげにチェンバロに座った雅明氏に話しかけてDかAをもらっていた。「おい兄貴、音くれよ」「あ?…ほらよ」みたいな感じに見えました(笑) この兄弟の通奏低音は完璧すぎて可笑しい。

第1番のブーレIIをはじめとして、村上さんのFgがあちこちで神懸かっていたのは言うまでもない。通奏低音もソロも担当する恐ろしい管楽器だ。。
・管さんのトラヴェルソもクールすぎる。ポロネーズ→メヌエット→バディネリの一気の寄せで、土俵下まで吹っ飛ばされたのだった。
・演奏後に明らかに疲労困憊だったOb3人衆、三宮氏・前橋さん・尾崎さん、お疲れさまでした。かんくみ全曲ってあんなに大変なのだなあ。。

・そして話題のスターヴィオリスト、アントワン・タメスティがアンコールでまさかの乱入。自分もBCJと何かやりたい!って申し出たらしい。何が演奏できるか雅明氏たちと一生懸命考えた結果、ブラ3の抜粋という嬉しい選曲に!
肩当てのあるモダン(仕様の)Vaだったとは思うんですけど、もしかしたらガット弦を張っていたかもしれない。それであの太い音ならたいへん恐ろしいのだが、圧倒的に華のあるスターの音色で、ブラ3の第3楽章のソロを弾かれてしまった。ぐうの音も出ず。すげーな彼。
# by Sonnenfleck | 2013-06-25 22:18 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・歌舞伎座のクラシック者]その二 歌舞伎座新開場 杮葺落四月大歌舞伎@歌舞伎座(4/21)

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【2013年4月21日(日) 11:00~ 歌舞伎座】
<杮葺落四月大歌舞伎>
●一、 壽祝歌舞伎華彩(ことぶきいわうかぶきのいろどり)鶴寿千歳
→鶴 坂田藤十郎
 春の君 市川染五郎
 女御 中村魁春 他
●二、 十八世中村勘三郎に捧ぐ お祭り
→鳶頭 鶴吉 坂東三津五郎
 鳶頭 亀吉 中村橋之助
 鳶頭 磯松 坂東彌十郎
 鳶頭 梅吉 中村獅童
 鳶頭 松吉 中村勘九郎
 鳶頭 竹吉 片岡亀蔵
 芸者 おこま 中村福助
 芸者 おせん 中村扇雀
 芸者 おなか 中村七之助 他
●三、 一谷嫩軍記 熊谷陣屋(くまがいじんや)
→熊谷直実 中村吉右衛門
 相模 坂東玉三郎
 藤の方 尾上菊之助
 亀井六郎 中村歌昇
 片岡八郎 中村種之助
 伊勢三郎 中村米吉
 駿河次郎 大谷桂三
 梶原平次景高 澤村由次郎
 堤軍次 中村又五郎
 白毫弥陀六 中村歌六
 源義経 片岡仁左衛門


1月の新橋演舞場に続いて、二度目の歌舞伎鑑賞となった杮葺落四月大歌舞伎。
銀座駅からのアプローチに若干自信がなかったのと、歌舞伎座地下の「木挽町広場」を見てみたかったのとで、日比谷線の東銀座駅からの歌舞伎座初入場となったこの日。四代目の歌舞伎座の姿を昭和通りから何度か見たことがあるくらいで、ついに五代目の建物に入ることになるのかと思うと感慨深いものがあります。朝から強めの雨が降りしきる寒い一日だったけれど、気分は晴れがましい!
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傘を閉じて入場すると、まず絨毯の鮮やかな紅が目に飛び込んでくる。靴をとらえるふんわりとした触感、華美で瀟洒な内装。食堂に土産売り場に豆大福にめでたい焼き。ロビーに満ちる楽しい喧噪。手に提げたお弁当(この日は「まい泉」のカツサンド♪)の充実した重み。
もろもろをひっくるめた雰囲気まで楽しませるシステムは、自分が初めてサントリーホールに入場した遠い昔を思い起こさせる。ここは松竹という私企業が運営する歌舞伎の殿堂なのであって、国営のなんとかパレスとは違うんである。
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なかはこんなふうです。この日の席は2階正面の後方だったけれど、意外に舞台が見やすいんだよねえ。たとえばオーチャードホールの2階正面後方なんて考えるだけでうんざりですが、そういう状況ではない。いかにも10年代の設計っていう感じです。

1 おはなし
(1)壽祝歌舞伎華彩
→「ものがたり」が薄い、能によくあるお目出度い系の演目のようでした(ラモーのオペラにもこういうのあるよね)。目出度さの擬人化である「春の君」と「女御」が、大勢の公達ややんごとない姫君と庭で舞ううちに、一羽の鶴がひらりと降りて典雅な時間をつくり、やがて鶴はどこかへ飛び去る。

(2)お祭り
→舞台はがらりと変わって江戸の三社祭。鳶衆と芸者が次々に登場しては粋な所作で舞い踊るなかで(僕らクラシック音楽好きはここでペトルーシュカの謝肉祭を思い浮かべるべき)、十八世中村勘三郎に捧ぐ「ものがたり」はやっぱり抽象化して、湿っぽくもいなせな江戸らしい空間が発生するんである。勘九郎の息子=勘三郎の孫を舞台に組み込んで客席を泣かせようとする、この愛すべき江戸ベタに、がばとねじ伏せられる。

(3)熊谷陣屋
→お昼の幕間を挟んで、また舞台は転換する。『平家物語』の「敦盛最期」を、とにかく盛大に脚色して膨張させて、最後には江戸の手刀で好き勝手に彫塑した作者。「ものがたり」は派手なギミックを備えたサイボーグネオ平家として現代に伝わる。

『平家物語』だと平敦盛は源氏方の武将・熊谷直実に討ち取られることになっているけれど、ここでは義経の命を受けた熊谷が、息子・小次郎と敦盛を入れ替え、息子の首を討ってまで敦盛の命を救う、というとんでもない話に変容しているのです。老いて石工に身をやつした平宗清まで登場して、もうわけがわからん。敦盛はマジで助かっちゃうしね。

中村吉右衛門の熊谷、坂東玉三郎の相模(熊谷の奥さん役、妖しいくらい女性らしい)、片岡仁左衛門の義経(舞台上の仁左衛門さんは両性具有っぽくて、男役なのに女形のようななよやかさを感じるのが不思議でならない)、など、豪華絢爛。知っている歌舞伎俳優さんたちがみんな出てくる楽しさよ。

2 バレエとアリア(特に「壽祝歌舞伎華彩」のこと)
声のないオペラ・バレとして、「壽祝歌舞伎華彩」は強烈な多幸感を放射していた。この多幸感は初の歌舞伎鑑賞だった1月には感じなかった類のもので、これから僕が歌舞伎への想念を煮詰めていくときに、必ずや思い出されることになる瞬間だと考えられる。
全体はだいたい次のように構成されています。

・「春の君」と「女御」のダンスによるプロローグ
・公達と姫君のアントレ
・「鶴」のアントレ

プロローグの間、舞台の中ほどにある舞台内緞帳は下りたまま。やがて、何か見えないものを合図にして舞台内緞帳が取り去られると、後景の美しい富士山と横一線に並んだ箏オーケストラが見え、そして大勢の公達と姫君が現れて舞う。

公達と姫君のアントレに移った瞬間の、客席から漏れた「…ふわぁぁ!」という官能的な歓声が忘れられない。この歓声は俳優に向けられ、舞台美術に向けられ、客席に向けられ、歌舞伎座の内装に向けられ、また、その歓声自体に向けられた純粋な官能の吐息であった。これが歌舞伎の純粋なコアの部分だったという感覚すら残っている。

そして「鶴」のアントレで奈落からせり上がってきた坂田藤十郎の「鶴」。
80歳の鶴は別段、枯れた仕草も見せず、悠然たるダンスを客席に見せつけて、花道の奥へのしのしと去っていく。藤十郎さん、そのまま食堂に踏み込んでカレーライスでも食べそうな迫力であった。同じ鳥類の形態模写でも、これより前の日に国立能楽堂で目にした91歳三川泉の仕舞「鷺」との間にある凄まじい相違に、能と歌舞伎の因縁を感じざるを得ず。もちろんどちらが良い悪いではなくてね。

+ + +

四月大歌舞伎は、このあと座席でお財布を紛失するという自分史上始まって以来のポカをやらかしてしまい、あわや歌舞伎座に嫌な思い出をつくるところであったが、親切な方が案内係まで届けてくださったらしく、事なきを得た。そのあと歌舞伎稲荷(歌舞伎座正面の脇に鎮座する稲荷社)にお礼を述べたのは言うまでもない。
# by Sonnenfleck | 2013-06-22 14:41 | 演奏会聴き語り

ティエリー・フィッシャー/名フィル 第403回定期演奏会@愛知県芸術劇場(6/15)

このブログが2006年から2008年の間、名フィルブログだったことを覚えていて下さるかたがどれだけいらっしゃるかわかりませんが、ともかくこの土曜日、5年ぶりに本拠地に向かったのです。
なにしろ見よ、このハイセンスなプログラムを!元親方のティエリー・フィッシャーが名フィルに客演するときの、これがスタンダードなのよ。僕が愛したハイセンス名フィルの遺産を大切に聴くのだ。

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<水―波に翻弄される舟>
●ラヴェル:《海原の小舟》
●プロコフィエフ:Pf協奏曲第3番ハ長調 op.26
 ○ラフマニノフ:絵画的練習曲集(練習曲集『音の絵』)op.39~第5番変ホ長調
→イリヤ・ラシュコフスキー(Pf)
●フランツ・シュミット:交響曲第4番ハ長調
●ラフマニノフ:ヴォカリーズ op.34-14
⇒ティエリー・フィッシャー/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


名古屋駅に着いた直後はそれほど感じなかったのだが、東山線に乗って栄駅に到着したあたりから雲行きが怪しくなり、人混みをかき分けて県芸に辿り着くころにはすでに滝のような汗を流していたんである。これが名古屋~ウェット名古屋~♪

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さっそくビュッフェに直行して、レイコーをごくごく飲む(レイコーという言葉は名古屋に暮らすまで一度も目にしたことがなかったのだった)。ちなみにここのカウンターからの眺望は、日本の都市系コンサートホールのなかでは屈指のものである。

で、2階のL2列に座る。ちょうど指揮台を真横から見る席です。
この日の長大なプログラムは、ハ長調の2曲を小品2曲でサンドしたアーチ構造を取っていて、たいへん意志的。小舟の登場→小舟の内燃機関→小舟と嵐、難破→小舟にもたらされたひとつのエピローグ、という4楽章構成の大きな交響曲を聴いたような満足感があったのだった。

+ + +

◆第2楽章:小舟の内燃機関
僕がこの日、心底素晴らしいなあと思ってブラヴォを飛ばしたのは、まずはプロコフィエフの第3協奏曲なんである。

あえて率直に書きますと、しばらく東京のオーケストラを中心に音楽を聴いていたために、かつてとは違った印象を「フィッシャーが振っている名フィル」にすら感じてしまうのではないかという密かな危惧を持って、この日品川からのぞみに乗ったわけです。
しかしそれはまったくの杞憂に過ぎないどころか、かえってフィッシャー+名フィルの相思相愛ぶり、その結果としての素晴らしい完成度を思い知ることになったのです。こんなに優れたプロコフィエフが生で聴けたら、N響に8,500円払う必要もなければ、ベルリン・フィルに40,000円払う必要もないのだ。いや、本当にね。

名フィルは東京のオケでいうと読響にカラーが似ていて、フィーバー状態になったときのノリの良さと「ひと」の善さ、そして通常営業時のやや大味めな空気感、これが彼らの持ち味だと思っている。
フィッシャー名誉客演親方は、常任親方のころから彼らを鼓舞してフィーバー状態にするのがものすごく上手だったし、その状態を作り上げたうえで、今度は自分のクールビューティ+機知に富んだ音楽を「徹底的に」やる。この日もやっぱりそう。

まずフィッシャー/名フィルの伴奏がギンギンに尖っているのが、好いんだよねえ。歯車やバネがキチキチキチ...と噛み合って精妙なアンサンブルが組み上がっていくのがつぶさにわかる。親方の細かくてマニアックな指示をよく理解して、可能な限り実現させようとするオケの反応が非常に良くて、聴いていて嬉しくなってくるのですよ(各楽器の一瞬のミスなどはこういうときは一切関係ない)。特に第1楽章の後半と第3楽章の終盤の叙情的機械っぷりは、どこに出したって恥ずかしくない一流のプロコフィエフ。
また第2楽章も素晴らしい。ここで伴奏は急に、東欧の古くて小さいオーケストラのような響きに変わる。フィッシャーが何かをインストールしたのは間違いなく、微かな浪漫のヴェールに包まれる心地よさにびっくりなのである。

そしてソロのラシュコフスキー。彼は第8回浜松国際ピアノコンクールの覇者で(ちなみにこのとき、当ブログで勝手に応援中の佐藤卓史が第3位に入賞している)、イルクーツク出身の28歳。
華やかな経歴やロシアの若手ということから、勝手に地対地ミサイルみたいな重火器演奏をイメージしていた僕を、第1楽章の最初のタッチでラシュコフスキーは完璧に裏切った。意表を突く「溶け込み型ソロ」で、伴奏として駆動する叙情機械にせいぜいふわっとエフェクトが掛かるくらいのさりげなさ。まことに驚愕しました。

このソロを見越しての鋭い伴奏なのか、この伴奏にゆるふわソロを中てたのか、それともこの両方なのか、正確にはわからねど、作品を根幹から見直すくらい理想的な演奏だったのです。

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◆第3楽章:小舟と嵐、難破
そして休憩を挟んで「シュミ4」。
フランツ・シュミットといえばオラトリオ《七つの封印の書》…くらいしか知らない。かつてアルミンク/新日フィルで聴いたときも、作品の良さがあまりよくわからなかったのだったが、あれはテキストがあったのがよくなかったのかもしれない。「シュミ4」は都会風の寂しいマーラーで、じんわりと理解されたのだった。

この交響曲が作曲されたのは1932年から33年にかけて。宮廷歌劇場のVc奏者としてキャリアをスタートさせたシュミットは当時、高等音楽院の院長を務めるまでになり、ウィーンのアカデミックな潮流のど真ん中にいたひとだったので、作風は保守を、大いに「気取っている」。

単一楽章の曲中、マーラー風の大きな讃歌に到達しかけるんだけれど、そこであえなく破綻→ぐずぐず→立ち消え、というのが二度ほど観測される。小さな讃歌はメロディラインが短すぎてすぐに埋没してしまう。
シュミットは若いころ謦咳に接したマーラーの浪漫に終生憧れていたんだろうけれども、彼では恥ずかしくて大きな声では浪漫を歌えなかったんだろうなあ。都会風の、アカデミックな、歪んだ自己韜晦が基調にある寂しい交響曲(ミャスコフスキーに少し似てる)。しかし美は、いじけた細部にもちゃーんと宿っていて、フィッシャーはそれを見逃さない。

たとえば第1部の小さな讃歌たち。第2部に登場する甘美なVcのソロ(ひさびさに耳にする太田首席の豊かな音、お見事でした…!)。あるいはその後の葬送行進曲。そして第4部の終盤。
第4部の終盤に訪れるのは、マーラー風讃歌と冒頭のTpソロモティーフの精神的融合ではないかと思う。作曲家のなかで破綻を讃歌に読み替えるという病的な高揚が起こり、それで静かに交響曲の幕が下りてしまうんだよねえ。プロコフィエフの第2楽章で体感されたあの蒼古とした響きを、全曲にわたってオケに要求し続けたフィッシャーの自信と、名フィルに対する信頼、それにオケが応える熱い45分。

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しかしシュミ4はラストで破綻がむりやり讃歌になってしまっているので、演奏会プログラムとしてはとても解決したとは思えぬ。そこで最後にフィッシャーは「あり得たかもしれないひとつの可能性」を設定することで、シュミットを救い、聴衆のことも救ってくれる。ラフマニノフの甘い旋律もいいだろう。
# by Sonnenfleck | 2013-06-16 13:49 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月5日(日)その1|ガラスの隔て。

一年のうちでもっとも5月が遠いこの時期。いかがお過ごしでしょうか。

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c0060659_22561940.jpg【351】5/5 1030-1115 B7〈メーテルリンク〉
●クープラン:《諸国の人びと》第1組曲《フランス人》~ソナード
●マレ:《サン・ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘》
●クープラン:《諸国の人びと》第2組曲《スペイン人》~ロンド、パッサカリア
●マレ:フォリアのクプレ
●ラモー:第3コンセール~〈内気〉、タンブーラン
●コレット:コミック協奏曲第25番ト短調《未開人》~第1楽章
⇒リチェルカール・コンソート
 フィリップ・ピエルロ(Gamb)
 ソフィー・ジェント(Vn)
 トゥオーモ・スニ(Vn)
 マルク・アンタイ(トラヴェルソ)
 イーフェン・チェン(トラヴェルソ)
 フランソワ・ゲリエ(Cemb)


今年度LFJの唯一の王道バロック公演(5/3のモダンチェンバロは中野しんちゃんワールドだったので…)。考えてみれば2009年のバッハはよくあんなマニアックな品揃えにゴーが出たものだなあ。

LFJ常連で、もう何度も聴いているような気がするピエルロの楽隊。深淵を覗き見るような感動は一度も得たことがないかわりに、いつも一定以上の高品質が届けられる。いまや数少ない紳士的バロックアンサンブルの最右翼(これは発展していないという意味ではなくて、すでに完成したものを丁寧に保持しているという意味です)なんだろうな。もっとありがたがって聴くべきなのか。

もともと予定されていたのはラモーのカンタータ入りプログラムだったのだが、ソプラノが来日できなくなって急遽このマレ入りプログラムに変更された由。フォリアが混入したおかげで一気にスペイン成分が濃厚になったわけだけれど、ピエルロの楽隊は洗練が彼らの美徳と考えていて、あくまでもスペインはパリから眺めた異国なのであった。異国はガラスケースのなかに並んでいる。

「展示」のなかでいちばんクスッときたのは、コレットのコミック協奏曲《未開人》である。ラモーの〈未開人の踊り Les Sauvages〉をVn2・トラヴェルソ2・BCに仕立てた愉快な作品で、明治の浮世絵というか、本歌取りだけが存在意義として結晶しているようなはかない可笑しみを感じさせた。ソフィー・ジェントは巧いなあ。



↑YouTubeにゲーベルの演奏が上がってたのでご参考まで。


【352】5/5 1215-1300 B7〈メーテルリンク〉
●フランク/バウアー:前奏曲、フーガと変奏曲 op.18
●ラヴェル:ソナチネ
●フォーレ:《無言歌集》op.17~第3番変イ長調
●同:《8つの小品》op.84~即興曲嬰ハ短調 op.84-5
●同:夜想曲第11番嬰ヘ短調 op.104-1
●ラヴェル:《高雅にして感傷的なワルツ》
⇒クン=ウー・パイク(Pf)


続けてB7。毎年思うけどB7は素直な部屋で、サイバーパンク風のごつい内装さえ気にしなければピアノや小さい室内楽を聴くにはもっとも優れている。

で、クン=ウー・パイク氏である。
僕が初めて揃えたプロコフィエフのPf協奏曲全集は、パイクがソロ、伴奏をヴィト/ポーランド国立放送響が務めたNAXOS盤なのであった。これは録音1991年の初期NAXOSながら高品質な名盤だといまでも思っていて、強化ガラスのようなパイクの打鍵がクールビューティ。

さてこの日は、まず冒頭のフランクが絶品中の絶品!
前奏曲の感傷的なメロディはパイクの硬質な音によって柔らかく包まれて、フォルムが崩れる心配もない。フーガで立ち上がる重厚なガラス建築、そして変奏曲でガラスのなかにまた寂しいメロディのシルエットを見つける。

それからフォーレの夜想曲第11番ね。前日の夕方に聴いたペヌティエとはまったく異なり、おじいさんもホットミルクも、悔悟の気持ちすら登場するかどうか怪しい。ひとのいない清潔な世界に属する夜想曲があってもいいよね。これも好い。

ラヴェルはこのときからPCに向かっている今日現在にいたるまで、絶賛聴きたくない状態なので(この作曲家についてはたまにあるのです)感想文はありません。

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この日はあと4公演聴いてしまったので、「LFJ2013今さらレポ」はもうちょっとだけ続くのである。
# by Sonnenfleck | 2013-06-12 22:58 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]ジャッド/都響 第750回定期演奏会Bシリーズ@サントリーホール(4/3)

c0060659_7411387.jpg【2013年4月3日(水) 19:00~ サントリーホール】
●エルガー:弦楽セレナーデ ホ短調 op.20
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第5番変ホ長調 op.73《皇帝》
 ○バッハ/ジロティ/ホロデンコ:前奏曲
●ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番ニ長調
⇒ジェームズ・ジャッド/東京都交響楽団


ひと言、心の奥底からじわーっと温めてもらえたような、本当に素晴らしい音楽会だったのです。そのメインであるヴォーン。ウィリアムズの第5交響曲(自分愛称ヴォン5)から書かねばなりますまい。

僕はRVWの良い聴き手だとは言いにくい。それどころかイギリスの音楽全般について親しめずにこれまで過ごしてきた。
しかしこの一二年、好みはゆっくりとではあるが確実に変わりつつある。以前ほどにはソヴィエト音楽が好きではなくなり、代わりに北欧の作曲家たち、そしてイギリスの音楽作品が、僕の内面に深く浸透し始めているのを認識している。この好みの過渡期に、ほとんど決定的と言えるヴォン5のライヴを聴いてしまったのは、何かの縁なのだろうか。

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ジャッドはN響客演の常連なので何度もFMで聴いているような気がするのですが、ライヴに接するのはこれが初めてだと思う。でもN響とジャッドの組み合わせで好いなと思ったことはない。それは(この夜わかったことだけど)ジャッドがオーケストラの素顔の実力を養分にして花を咲かせる、庭師のようなタイプの指揮者であるためなんだろう。
N響はたしかに優れたオケだけれど、彼らが指揮者を下に見たときには本当に冷え冷えと乾いた音楽を平気で伝達する(そしてそうした音楽に当たる確率がめっぽう高い)。ジャッドが引き出すN響の素顔の花は、痩せ細ったしおれかけの花だった。

僕は庭師自身がそういうタイプの音楽をやるひとだと勘違いしていた。でも都響のアンサンブルを土壌にしてジャッドが咲かせた花は、豊穣で瑞々しく、何より佳い匂いのする花だったんだよねえ。

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手元にあったハンドリー/ロイヤル・リヴァプールpo盤、ハイティンク/ロンドンpo盤、そしてYouTubeに上がっていたバルビローリ/ハレoの古い録音などに比べ、ジャッド/都響の演奏はより鮮やかで瑞々しい印象を与えた。物理的なテンポの身軽さももちろんそうした感覚を生んだ要因だと思う。

でも、普通なら無意識に流されてしまっても仕方がないような木管の小さなパッセージのひとつひとつが、マニアックなくらい丁寧に描写されていたのもとても印象深いのです。

それって流れの停滞を生むんじゃないかって?いえいえ。実際の自然はどんなに小さな虫も草花も「有効」なのに、停滞しているようには見えないでしょう?必要なのは、小さなパッセージのひとつひとつが、丁寧に、かつ続けて絡み合っていく有機的な連関。互いを緻密に聴き合い補い合っている都響のアンサンブルは、楽句を発して、次行程に渡していくのがとても巧いんだよね。そうした美点を引き出しながら、RVW用の音色の文法を伝授していくジャッドの手腕もお見事。
(なお、このやり方をもう数歩進めると、ブロムシュテットのブルックナーみたいな感じになるはず。)

それゆえに第3楽章の豊かな盛り上がりもナチュラルだったし、スケルツォ楽章や最終楽章の前半などではにかみがちなシニシズムまで感じさせてくれたのは、新鮮な驚きだったと言える。これはやっぱり20世紀の交響曲なんだわね。

これは伝記的蛇足だけど、矢部コンマスが終演後にtwitterで次のような内容をつぶやいていた(ブログへの転載どうかお許しください)。惚れるぜ矢部っち。
都響の中で最も尊敬している奏者の一人が、今日演奏したRVWの交響曲第5番をこよなく愛していて、リハーサルの時からハンカチで目頭を押さえていた。彼のその思いを裏切りたくない気持ち1つで弾いたコンサートだった。もしかしたらこの曲を弾くのは最初で最後かも知れないと思って。
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前半の《皇帝》は、ムラっけがあってとことん夢見がちな、良くも悪くも「童貞っぽい」ソロの評価が分かれるだろう。僕はそれを面白く聴けたし、ジャッドと都響は完璧なサポートを実現していた。協奏曲を演るのに、ジャッドにあってフルシャになかったのは、このホスピタリティだったかもしれない。

都響の天下が続いている。どの在京オケも個性があって、僕は個人的に引き続き東響の音色のファンを自認しているけれど、都響のアンサンブルの高品質さはやはり抜きん出てしまっている感がありあり。この「何ものでもない」ニュートラルな美しさ。
# by Sonnenfleck | 2013-06-08 07:46 | 演奏会聴き語り

新国立劇場《ナブッコ》|ゴーストハックとエルサレムモール(6/1)

とある日曜の午後、昼酒をしていい気分のワタクシは、ふとヴェルディに近寄ってみることに決めたのだった。
今年のお正月から始めた歌舞伎鑑賞や、(ブログにはまだ書いていないけれど)バロックオペラの大傑作、レオナルド・ヴィンチ《アルタセルセ》をヘヴィに鑑賞してきたおかげなのか、不思議なことにヴェルディのベタなリズムや破綻したストーリーに対して愛着が湧く自分を発見しているからなのです。音楽の好みは移りゆく。だからこの趣味がやめられない。

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c0060659_7584968.jpg【2013年6月1日(土) 14:00~ 新国立劇場】
●ヴェルディ:《ナブッコ》
→ルチオ・ガッロ(ナブッコ)
 マリアンネ・コルネッティ(アビガイッレ)
 コンスタンティン・ゴルニー(ザッカーリア)
 樋口達哉(イズマエーレ)
 谷口睦美(フェネーナ)
 安藤赴美子(アンナ)
 内山信吾(アブダッロ)
 妻屋秀和(ベルの祭司長)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→グラハム・ヴィック(演出)
→パオロ・カリニャーニ/東京フィルハーモニー交響楽団


まずは手近に鑑賞できる新国の公演を選ぶ。某オークションで安い席を競り落とす。序曲しか知らない作品なので、ムーティ/フィルハーモニア管の録音(1978年EMI)を取り寄せてiPodで予習しまくるのである。

一度目の聴き通しでは「ドンジャカうるせえなあ…」という率直な感想を抱くものの、二度三度と繰り返し聴いていくなかで耳が慣れてゆき、やがて若ムーティの強靱なオーケストラドライヴに身を任せることができるようになる。リズムはベタである。メロディも華やかだがキラキラして陰翳を欠く。ストーリーは超テキトー。しかしそれをこそ愛するのがイタオペ山の登山口と心得る。

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◆あらすじ
「バビロン捕囚」を題材とする歴史スペクタクル。しかしストーリーは混乱しており、主役は誰でもないという酷いありさま。フツーの現代の感覚からすると、この台本ではナブッコが主役とは言いがたい。。

☆大祭司ザッカーリアが指導するユダヤの民
☆ナブッコ王が率いるバビロニア

がいちおう対立関係にあって、ナブッコは第1幕でユダヤの地を蹂躙したうえ、民をバビロニアに連れて行く。でもナブッコに落ちた雷(雷よ?コントみたいでしょ?)のおかげで、王様は精神錯乱状態でピヨピヨ。そこへバビロニア内部でクーデターが発生し、ナブッコの庶子であるアビガイッレが権力を掌握する。

ところが「正気を取り戻した」ナブッコが急にユダヤの神さまを信奉しだし、支持されて再び王位を奪還(バビロニア人たちはそれでいーの?)。アビガイッレは自害。ナブッコは嫡流のフェネーナとともにユダヤの民とも和解して万歳万歳。おわり。視点はぐらぐらしっぱなしで、主役はいません。

◆音楽と演奏とうた
こんなにひどいストーリーなのに、ヴェルディの音楽は気持ちがよい。すっと胸がすく。
戦争シーンに合わせた行進曲や、タッタカタッタカタッタカ…と駆け上っていくようなリズム、それに乗る技巧的なアリア。《椿姫》と《オテロ》くらいしかヴェルディのオペラを知らなかった人間からすると、ヴェルディのなかにミトコンドリアのようにひっそり包含されているナポリ楽派オペラをあらためてここで発見し、実に爽快。アレッサンドロ・スカルラッティもハッセもポルポラもヴィンチも、みんなヴェルディのなかで生きてる!

それを、30年前のムーティの録音よりさらに気持ちよく実現させていたのが、今回のプロダクションの指揮を執るパオロ・カリニャーニである。
何度か読響に客演していたような気がするスキンヘッドのイタリア男、実際に聴くのはこれが初めてだけど、あちこちのオペラハウスに引っ張りだこなのがよくよく理解できたなあ。VcとCbを雄弁に語らせる、今どきの若い古楽アンサンブルのような通奏低音をヴェルディで実践したら、それは輪郭のくっきりとした音楽になるのは必定なわけです。
ピットの見えない4階席では、下から立ち上ってくる響きの生々しい美味しさ(ぷりっぷりのエビとか、汁がしたたるジューシーなトマトとか、噛みしめると野蛮な薫りがあふれるサラミとか、そういうもの)にノックアウト状態。あれっ?東フィルってこんな演奏をすることができる華やかなオーケストラだったっけ?という。

歌手はアビガイッレ役のコルネッティが美味しいところを持っていった感じ。巨体から発せられる、よくコントロールされた馬力。これがヴェルディのメゾソプラノの威力か。イズマエーレ役の樋口氏も爽やかで素敵でした。
タイトルロールのガッロはところどころで音程がよたつく。声もあまり響かない。しかし後述の演出に巧まずして合致してしまったので全然OK。

◆演出
で、演出です。演出のグラハム・ヴィックは、

☆ユダヤの民→ショッピングモールに集う現代の物質主義者たち
☆バビロニア→反資本主義的テロリスト集団

と読み替え、さらに舞台をエルサレムの神殿からショッピングモールに置き換える。舞台上には3層吹き抜けのモールが形成され、稼働こそしていないがエスカレーターまで設置されている。そして客席に入場したわれわれを驚かせるために、すでに開演前からユダヤの民によるショッピングモールでの演技が始まっており、リッチな着こなしの合唱団員たちがてんでばらばらにウィンドウショッピングを楽しんでいるのである。スイーツショップに高級ブランドショップ、アップルストアまでリアルに再現されてるので笑ってしまった(アップルストアのTシャツ店員までいました)

序曲が始まると、そこらじゅうのユダヤの民たちがバッグやシューズやクレジットカードに接吻したり、股ぐらに挟んだりする「拝金の踊り」を開始。あとで思い返すとこのシーンだけちょっと浮いていた感じもありつつ、やがて老リーダーのナブッコに率いられた極左テロリスト集団=バビロニアがショッピングモールを占領する。

このシーンあたりから、僕の頭のなかには「攻殻機動隊S.A.C. エピソード××:ナブッコ Nabucco」という妄想がむくむくと成長。
テロリスト集団の内部のクーデターなんて、いかにも!なお話だと思いませんか。対立する2集団(物質主義者とテロリスト)のいずれもが醜悪で、どちらにも正義がない。そして黒幕がいそう―

第2幕の最後で、自分は神だ!と叫んだナブッコ王に裁きの雷が下り、彼の精神が錯乱するというシーンがありますが、これもこの世界観ではゴーストハック。何ものかがナブッコの電脳をハッキングし、意志を操ったとしか見えない。さきほどから恣意的な見方を開陳しておりますが、それを可能にするバビロニア人たちの魯鈍なテロリストっぷりや、ナブッコの哀れな姿、裁きの雷のエフェクトなど、サイバーパンクを支持するさまざまな示唆があったのです。

そうなると、唆されてクーデターを起こした庶子アビガイッレは、みるみるうちに陰謀の犠牲者臭をまとうことになってしまう。黒幕は誰?ナブッコがユダヤの神さまを信奉し、アビガイッレが消えて喜ぶのは誰か?それはナブッコのもうひとりの娘・フェネーナをおいて他になし。何しろフェネーナはユダヤの国王の甥・イズマエーレと愛し合ってるんであるから。

さて《ナブッコ》の第3幕には、有名な「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」という囚われのユダヤの民たちが歌う合唱がありますが、これもヴィックの演出では金品への執着から逃れられない元・物質主義者たちの哀れな合唱に変容していました(バッグやシューズやMacBook Airの残骸を愛おしそうに抱きしめながら歌う振り付け)。救いようがないすね。
それを励ますユダヤの大祭司・ザッカーリアも、神の預言を語る直前、ハアハアいいながら腕にドラッグを注射していたので(単眼鏡が大活躍!)これまた醜い。テロリストも愚鈍だがこっちもひどいもの。

それらの混乱を強制終了に導くのが、ラストシーンの演出です。
組織のリーダーに返り咲いたナブッコ(ただし僕の二次的な妄想では黒幕フェネーナによって操られたまま)は、よりによって最後にショッピングモール1階の床をぶち抜いて、苗木を一本植えるんだよね。この唐突なエコ!演出家がラストの偽善をまったく信じていないのは明々白々。この場合は混乱を全能的に収拾するデウスエクスマキナが、苗木の形を取っているにすぎない。バビロニアの偶像は崩れたけれど、今度はこの苗木が新しい偶像である。フェネーナさえ偶像に気がつかない…!

目に鮮やかで楽しく、愉快な皮肉も効いた名演出だと思いました。おわり。
# by Sonnenfleck | 2013-06-02 12:29 | 演奏会聴き語り

ぼくのクライズラー&カンパニー

c0060659_22571266.jpg【BIS/CD-1196】
<クライスラー>
●ウィーン風狂想的幻想曲
●中国の太鼓 op.3
●蓮の国
●ジプシー奇想曲
●ファリャ/クライスラー:《はかない人生》~スペイン舞曲第1番
●グラナドス/クライスラー:スペイン舞曲
●アルベニス/クライスラー:タンゴ op.165 No.2
●ジプシーの女
●ヴィエニャフスキ/クライスラー:カプリース 変ホ長調
●道化役者のセレナード
●オーカッサンとニコレット
●ロマンティックな子守歌 op.9
●ドヴォルザーク/クライスラー:スラヴ舞曲第2番 op.46 No.2
●同:スラヴ舞曲第16番 op.72 No.8
●同:スラヴ幻想曲
●愛の悲しみ
●愛の喜び
●ウィーン奇想曲 op.2
レオニダス・カヴァコス(Vn)+ペーテル・ナジ(Pf)

僕がクラシック音楽について初めて「これはクラシック音楽のようであるぞよ」と認識したのは、たぶん、葉加瀬太郎が率いていた「クライズラー&カンパニー」が編曲演奏するクライスラーの曲たちを子ども時代に聴いたときなのである。だからいま、葉加瀬太郎がどんなに脂ぎった太めのおっさんに変容していたとしても、彼への感謝の念が薄れることはない。

やがてクラシックへの傾倒が強まるにつれ、ご多分に漏れずそうしたものを小バカにし始めた僕は、それから後、クライスラーの小品を集めたCDを1枚も持たないで暮らしてきた。でもいま一度立ち返ってみる。

+ + +

以前も書きましたが、現役最強のヴァイオリニストはテツラフとカヴァコスだと思っています(2人は1歳違いなのよ)。抜群の切れ味を誇る最新鋭の超硬工具のようなテツラフに対して、カヴァコスはまったくその逆、20世紀前半の西欧のヴァイオリニストのように艶やかで乾いた貴族趣味を感じさす気品ある唄い口が魅力。

どの曲がどんな演奏で、という感想文はこうした音盤には似合わないだろうから、カヴァコスの銀線のように細身の美音によって織り上げられていく総体の印象を愉しむのがよい。ウィーンのお澄ましからスペインに旅し、そこからひらりと翻って後半のスラブ趣味から、最後はまたウィーンに回帰していく、この章立て。しかしそれでも、スペイン=アラブ風味が5曲続く地区ではカヴァコスのボウイングが特に冴えて、伊達な仕上がりが聴かれるようには思うんですけどね。

このディスクはカヴァコスのディスコグラフィの比較的初期に録音されたものだと思うんだけど(ジャケットのセンスもどこか冴えない)、クライスラーがたくさん作った例の擬バロック様式の作品がチョイスから漏れているのが面白い。ヨーロッパの空間を自在に移動するアルバムに、時間の軸を導入しないことによってコンセプトをくっきりさせる。洒落ていますよね。

やっぱり買ってよかったな。小さめの音で、よく晴れた土曜日の朝に聴きたい。
# by Sonnenfleck | 2013-05-28 22:58 | パンケーキ(20)

大野和士/ウィーン響のウィーン・プログラム@オペラシティ(5/18)

c0060659_1118977.jpg【2013年5月18日(土) 18:30~ 東京オペラシティ】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
○シュトラウス:ワルツ《春の声》op.410
○同:ポルカ《トリッチ・トラッチ・ポルカ》op.214
○同:ポルカ《雷鳴と電光》op.324
⇒大野和士/ウィーン交響楽団


1月に水戸で聴いた大野さんのシューベルトがたいへん好くて、その勢いで買ってしまった本公演のチケット。しかしこの週に開かれた大野/ウィーン響のほかのプログラムの出来に対して、ネット上で続々とあがる非難の声たち。果たしてどうなってしまうのか。かえってすごく楽しみになってしまった音楽会。

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オペラシティっていまだにどこに座ったらいいかよくわからないんですが、この日は3階R1列目、舞台の真上の席をゲット。Rからだと指揮者とコンマスのやり取りが明確にわかるんだけど、他の公演で言われていたような、オケ側の著しい不服従は、少なくともこの日は観測できなかったのだった。そりゃー1stVnの後ろのプルトとか全然やる気ないテキトーなボウイングだったけれど。

ウィーン響のアンサンブル能力はすごく低いというわけでもない。汚く濁っているわけではないが独特の曇った響き、ごく甘いピッチ、奇妙な音の木管隊。そして(これがもっとも強烈なんだが)あの謎の自信、あの発音の強気さ!俺たちがクラシック!(ドヤァ)という振舞い。いやー味わい深いよね。しかしあれに10,000円以上払うのは癪だ。

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アクとクセと澱みと自信過剰に満ちたウィーン響を前にして、大野さんはどんな音楽をやる?可笑しいことに大野さんのマーラーは、これがまた、オーケストラに負けないくらい自信たっぷりで、そして圧倒的に「変」だった。

大野さんのマーラーは「うた」しかないキメラなのだ。その瞬間瞬間の主旋律を(あるいはメロディではない経過句ですらメロディとして)どんどん選びとり、べろべろと舐め回し、むしゃむしゃ噛み砕いて自分と同化させてゆく。
これはヴェルディとマーラーのハイブリッドみたいなものかとも一瞬思ったけど、そんな生やさしいものではない。こんなにメロディしかないマラ5を、僕は全然聴いたことがなかった。

この「メロディしかない戦法」は、マーラーの5番目の交響曲では本当にぎりぎりのところで成立するかしないか、というやり方と思われた。
あるメロディnを、それ自体を流麗にしつこく細やかに猛々しく歌うことについて、オケに対する大野さんの指示は実に明瞭で、解釈者としての自分はこうやりたい!という音楽が客席にもはっきりと伝達されてきた(ちなみに大野さんの歌の感覚は「ベタ」で、そしてその「ベタ」は自分にとっても気持ちよくなじみ深いもので、これはユダヤじゃなく演歌だなと思わされることたびたび)

ところが、メロディnの大集合として成立すべき交響曲Nを、俯瞰で引いた視点から観察すると、メロディn内部の歌心はあれほど細やかであったにもかかわらず(またメロディnの内部では、「前進」が味付けの一種として働いていたにもかかわらず)、交響曲Nのフェーズではある種の停滞さえ感じられた。つまり、メロディn同士の連関はそれほど重視されていなかったんではないかという考えがもやもやと浮かんでくるんである。「キメラ」は前に進むことについてあまり関心がない…!

かくして前も後もなく、その瞬間のメロディに淫する袋小路的なマラ5が現れる。結果として第2楽章や第5楽章で描かれた豊饒の宇宙は実に見事だったと言えるし、逆に第3楽章の異様な退屈さ、前進しない絶望感は無類だった。重いながらも物理法則のように粛々と前進するクレンペラーのマーラーの、かっきり正反対に位置するのがこのやり方なのではないでしょうか。

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シューベルトは深淵とか闇とか、そうしたものと無縁の一本気で剛直な演奏。この勢いなら「未完成」じゃなく「完成」になっていたかもしれぬ。
交響曲第7番ロ短調 D759《完成》←くくく。あたりまえ。
しかし振り返れば、マーラーと同じ絵の具、同じ筆、同じキャンバスで作ってあったのが少し気になった。そんなものかなあ。20世紀っぽい。
# by Sonnenfleck | 2013-05-25 11:19 | 演奏会聴き語り

フェドセーエフ/N響 第1755回定期@NHKホール(5/18)

フェドセーエフ好きの僕は、昨秋聴いたチャイコフスキー交響楽団(旧モスクワ放送響)との来日公演のデザートのようなつもりで出かけたのだったが。

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【2013年5月18日(土) 15:00~】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調 op.10
●チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 op.48
●ボロディン:歌劇《イーゴリ公》~序曲、だったん人の踊り
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/NHK交響楽団


フェドセーエフは意外にもこれまでN響に客演したことがなく(東フィルと仲良しだったからかな)、今回が初共演だった由。ところが彼らの90分間の共同作業を聴いて、僕は、彼らの相性が全然良くないことを知った。

現在のフェドセーエフは、兇暴な音響や音の質量を武器にするのではなく、オケの自然な円みや香りを活かすがゆえに、すべてを完璧に統率し切るような指揮をもうやめている。それでも手兵・チャイ響や、手の内を長らく学んできた東フィルは、フェドセーエフのフェドセーエフらしさを少なからず補いながら、それを自分たちの音楽とも不可分のものとして共に創る意気があるからまだいい。

しかしN響は。彼らが(彼らがと書いてまずいなら、紺マス氏がコンマスをやっているときには)自発的に指揮者に合わせよう、オケの側から指揮者を補おう、という気はさらさらなく、まったく事務的に、自分たちの負担にならない程度の適度な運動で定期公演を終えてしまう。

「オーケストラを訓練し統率することへの興味」をあまり多くは持たず、自由な霊感を大事にしている指揮者と、「自発的に協力する気持ち」に不足する"学級の秀才"オーケストラ。彼らが出会ってしまった。

+ + +

老人も少しは訓練を試みるし、優等生もその名に恥じない事務的な協力は惜しまないから、たとえば弦楽セレナードの第3楽章のようにまずまずの演奏(ピッチやアーティキュレーションに少なからず問題はあったが)が成立した箇所もあった。またイーゴリ公の周辺も、若いころのフェド節をほんの少し思い出させた。前世紀の録音で聴かれる、またチャイ響との音楽会でもちゃんと保持されていた、フェドセーエフの音楽に特有の張りと艶はここではほとんど望めなかったにせよ。

しかし…ショスタコーヴィチの第1交響曲。これは良くない。まったく良くない。心が凍えるくらい寒々しく醒めた演奏。そのために一面ではかなりショスタコらしくもあったが、あれを楽しめるほど僕はひねくれた人間ではない。

アンサンブルはギザギザで量感に乏しく、合奏協奏曲のコンチェルティーノである各パートのソロは輪郭がへにょへにょ(あのTpとVcに対してお金を支払われるのかと思うと実に厭な気持ちになる)。そしてもともとメドレー的な作品であるだけに、肝心なのは横方向への展開だけど、それすら怪しい。前に進まない。指揮者にもオーケストラもお互いに「なんでそっちがもっと努力しねえんだよ」という空気が漂う。断じてこれでは困る。

+ + +

僕はフェドセーエフ贔屓だから次のように書かせてもらうけど、N響は近ごろますます魅力がない。それなりの「当たり」にすら出会えなくなってきている。ほとんど燃え上がることのない湿った楽団に、なぜ時間を割く必要があるだろう?
# by Sonnenfleck | 2013-05-22 23:02 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月4日(土)その3|キヤバレエの夜は亢進する。

c0060659_1032817.jpg【247】5/4 2145-2300 ホールC〈プルースト〉
●渋さ版キャバレー《屋根の上の牡牛》
⇒渋さ知らズオーケストラ


2012年のLFJに初登場し、一部の人たちから絶賛の声と拒否の叫びが轟々と上がっていた「渋さ」とやらが面白そうで、今年は聴きに行くことにしたのだった。

「渋さ知らズ」は「ビッグバンドジャズ+舞踊による総合的祝祭演劇集団」という感じであった。「祝祭集団」じゃなく「祝祭演劇集団」としたのは、その選曲や舞踊の「ものがたり」性を買いたいからだし、また元ネタや由来を広範に理解していることが求められるのも、やはりすごく演劇的です。
※ただしYouTubeで細切れに見られる彼らの普段のライヴはそんなに演劇っぽくないので、LFJ仕様なのかな。

僕が聴き取れた原曲は次のものくらい。ジャズ的というよりもっと激しい渾沌アレンジが行なわれていたし、何よりも前から2列目に座ってしまった僕には、スピーカーから発せられるあの大音量がそうとう厳しかったのではございますが。
●カルメン(前奏曲、ハバネラ、闘牛士の歌)
●ボレロ
…いや。こんなものではなくて。本当はこんなプログラムだったようだ。
(出典:http://togetter.com/li/502860)
●屋根の上の牛(ミヨー)
●カルメン~ハバネラ(ビゼー)
●カルメン~前奏曲、闘牛士(ビゼー)
●映画「冒険者たち」~すべて終わり、テーマ(フランソワ・ド・ルーベ)
●世の終わりのための四重奏曲~間奏曲(メシアン)
●ジムノぺディ(サティ)
●ボレロ(ラヴェル)
●ナーダム(林栄一)
●ばら色の人生(ピアフ)
●本田工務店のテーマ(渋さ知らズ)
こういったフランス風その他の曲たちが爆音とともに変態してゆくのだが(縦ノリverのメシアンは熱かった…)、そこに乗るのが、ものがたりがないようである、あるようでやっぱりない、舞踊なのだよね。

+ + +
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ご覧のとおりホールCの壁面にアンダーグラウンドな装飾がなされ、ステージ後景には楽団と指揮者(不破大輔氏)がけばけばしいパフォーマンスを行なえば、ステージ前景には舞踊集団が、滑稽と悲惨に満ちたダンスとマイムを繰り広げる。
◆左右の踊り子(2名):彫刻
◆フレンチカンカン(5~6名):爽やかエロス→最後に救済
◆白塗りのお客(1名):痙攣するジョーカー
◆大女の女給(1名):大切な乙女の心
◆伊達男(1名):大女の女給と結ばれる
◆学ラン(1名):三角関係に絶望
◆櫓の牛(1匹):熱い
◆平原の牛(3匹):画面を横切る
◆赤フン(1名):MC
こういう面々が、先ほどのナンバーに乗って同時多発的にステージのどこかで「ものがたり」をやっているんですよ。祝祭的渾沌。ペーター・コンヴィチュニーが演出した《モーゼとアロン》第2幕の「黄金の子牛の踊り」を思い出す。そういえばこのキヤバレエにも牛が出てくるのであった。



↑当夜もだいたいこんな感じでした。

感動!とか楽しい!とかじゃなかった。音楽の元ネタと舞踊の「ものがたり」を追うのに必死で、目を白黒させながらステージに見入った。でも、分析してやろう、把握してやろう、とちょっとでも思った時点で、お釈迦さまの掌の上に座ってしまったことになるのかもしれない…と左右の踊り子さんたちがギエムのボレロを踊りかけているのを見て、思った。変な体験だった。
# by Sonnenfleck | 2013-05-19 21:58

熱狂の復習―5月4日(土)その2|音速でカニサレる我等。

c0060659_21527100.jpg【246】5/4 1930-2015 ホールC〈プルースト〉
●深淵
●アルペジオの架ける橋
●彗星の雨
●カリブ海
●悠久
●真珠の首飾り
●魂のストリング
●鳩
⇒カニサレス・フラメンコ六重奏団
 フアン・マヌエル・カニサレス(1stGt)
 フアン・カルロス・ゴメス(2ndGt)
 ラファ・ビジャルバ(Perc)
 イニィゴ・ゴルダラセナ(ベース)
 チャロ・エスピノ(フラメンコダンス、カスタネット)
 アンヘル・ムニョス(フラメンコダンスとカホン)


直前の、悔悟に沈むフォーレから抜け出せなくて、こんな気持ちからのフラメンコなんて絶対ムリ!と思っていた。
しかしね。音楽の力は偉大なんである。ぴあの抽選システムがツキを運んできて、座った席は1階中央6列目、目前の楽団とダンサーから吹き出してくる乾いた熱風が、フォーレをドライに包み込んで別フォルダへの保存を許した。

この日まで僕は、フラメンコってもっと、運動性能がそのまま音楽になったようなマッチョな音楽だと思っていました。
でも、少なくともこのカニサレスという猛烈なヴィルトゥオーゾが作曲するフラメンコ音楽は、もっと洗練された野卑を志向していて、フォルムと情動のバランスを意識するような瞬間が連続的に現れる。ドメニコ・スカルラッティのソナタや、アルベニスやグラナドスや、ときにはモンポウからさえも遠くない。

百聞は一見にしかずです。次のクリップをご覧あれ。


↑ダンス付きの《真珠の首飾り》。見得の切り方は、その音楽の切断面も含めて歌舞伎と一緒です。ダンサー2人の臀部筋肉の発達ぶりに驚愕。


↑これは当夜の「パルティータ」の最後に置かれた《鳩》というナンバー。これはジーグだよね。耳の焦点を変えるとヘミオラもどきが…。

+ + +

カニサレスはすごく悪セクシー、しかも(しかもよ!)左派インテリみたいに軽く超絶技巧をキメていく。彼の音符の粒立ちの見事さ…そして纏っている空気の濃密な薫り。生で聴くリストとかパガニーニってこんな感じだったんだろうね。こんなに悪セクシーなパフォーマンスをやってくれる音楽家なんか、PfやVnではもはや絶滅状態でござ候。鈴木大介さんが彼との共演に興奮されてたのがよくわかった。

彼はラトル/BPOのヨーロッパコンサート2011でアランフェス協奏曲のソロを取ったので、クラシックな皆さんもいつの間にかお聴きになったことがあるかもしれませんよ。僕は注目していくことに決めた。
# by Sonnenfleck | 2013-05-15 22:37 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月4日(土)その1|ぐらぐら煮えるよホットミルク。

c0060659_20495474.jpg【234】5/4 1630-1715 B5〈ミシア・セール〉
<フォーレ「夜想曲」全曲演奏その1>
●夜想曲第1番変ホ短調 op.33-1
●夜想曲第2番ロ長調 op.33-2
●夜想曲第3番変イ長調 op.33-3
●夜想曲第4番変ホ長調 op.36
●夜想曲第5番変ロ長調 op.37
●夜想曲第6番変ニ長調 op.63


【235】5/4 1815-1900 B5〈ミシア・セール〉
<フォーレ「夜想曲」全曲演奏その2>
●夜想曲第7番嬰ハ短調 op.74
●夜想曲第8番変ニ長調 op.84-8
●夜想曲第9番ロ短調 op.97
●夜想曲第10番ホ短調 op.99
●夜想曲第11番嬰ヘ短調 op.104-1
●夜想曲第12番ホ短調 op.107
●夜想曲第13番ロ短調 op.119

⇒ジャン=クロード・ペヌティエ(Pf)


今年のLFJでこの2コマをどうしても取りたかったのには理由があって、2010年9月にマルタンが東京と名古屋で開催した「パリ・至福の時」のパイロット版、「ル・ジュルナル・ド・パリ」で聴いたペヌティエのフォーレがどうしても忘れられなかったからである。
当時の感想文にはこう書いてある。
◆夜想曲第11番を聴いて
ペヌティエのフォーレは何かの啓示だった。おじいさんと一緒にホットミルクを飲むみたいな。
手にしたマグの中身がホットミルクになるまで、何がしかの何かがあったのだろうけども、孫たる聴き手はビターな何かを感じても、その正体は掴めない。ペヌティエの静かな語り口は、そのようであった。

◆夜想曲第13番を聴いて
フォーレは、おじいさんのホットミルクが最後にもう一度だけマグの中でぐらぐらと煮え立つような、たいそう胸苦しい音楽であった。
いったいフォーレとは何者だったか。ペヌティエは自分で考えろと言った。
+ + +

ブラームスの晩年の作品が「男くさい諦念にあふれる」と評されることが多いこの世界で、フォーレに触れるひとは少なく、この作曲家は相変わらず孤高の存在のままである。
かくいう僕もフォーレのピアノソロ作品にあまり近寄らずに来たので、大きなことはまったく言えないのですけれど、ペヌティエの演奏を聴いていると、フォーレのなかにある諦観の実直さ、実直さゆえの自責のようなものを強く感じたのであった。

まさにそれこそが味わいなので、貶めるつもりは毛頭ないのですが、ブラームスは最後の薄皮一枚のところで「諦めてる俺(ちょっと)かっこいい…!」みたいな自尊心がひとつまみ分混入してるんだよね。
フォーレはこの「俺(ちょっと)かっこいい…!」がない代わりに、実直な回顧を続けるなかでふと、諦めてしまった過去の自分を責めるようにギリギリと奥歯を噛んだり、胸を掻きむしったりするような自傷っぽい痛みがあって、聴き手を何とも言えない気持ちにさせる。

ペヌティエのタッチは特段の快刀乱麻でもなければ怜悧な刃物でもない。でも彼のフレージングやペダリングによって、フォーレ特有の悔悟フレーズに付与されるエネルギー量は相当なもの。五線譜の行間がグラグラっと煮えたぎるような瞬間が確かにあるのだ。

作曲された順番にフォーレの手記を聴いていく。フォーレは全部で13曲のノクターンを残したのだが、第8番くらいまでは甘美なメロディを「悔い」が遮って、また甘美なメロディが戻るというような緩やかな三部形式構造になっている。形式を意識するのでそこに乗っかる荷物はまだ多くない。
ところが第9番以降、形式は感情の赴くままに乱れ、パッセージは複雑に入り組み、ノクターンは自責に苛まれ自傷を繰り返すような大質量の音楽に変容してゆく。特に第11番からの3曲は圧倒的に胸苦しい。聴いていてうなだれてしまう。そんな音楽。ペヌティエは第13番だけ暗譜だったが、抑制的な思弁が一度思うさま乱れればどうなるか、ということを示してくれた。丁寧なタッチは激しく乱れる。

フォーレはフォーレ以外とずいぶん違った音楽を書いたが、それは他の誰かから発したものでもなく、また、その後は他の誰にも伝わらなかった。それでよいのだし、僕はそういえば、そんなフォーレが大好きなのだった。
# by Sonnenfleck | 2013-05-13 20:54 | 演奏会聴き語り

熱狂の復習―5月3日(金)その2|その男、凶暴につき。

c0060659_18182040.jpg【162】5/3 1200-1300 G409〈アポリネール〉
●ショーソン:Pf三重奏曲ト短調 op.3
●ラヴェル:Pf三重奏曲イ短調
⇒トリオ・ヴァンダラー


LFJ常連のトリオ・ヴァンダラーの演奏を聴くのは、記憶が正しければ、意外にもこれが初めてではないかと思う。

曲順が変更され、ショーソンのトリオから演奏されることになったが、この60分間の最大の山場が第3楽章にポジショニングされていたのは僕にとってはとても嬉しいことだった。鬱勃とした(しかしあくまでも高貴な)エネルギーが、光線や空気の加減によってちろちろっと燃えたり、ぎゅわーっと外側に放射されたりするこの第3楽章。

ちょうどチェロ側の真横から彼らを眺めるような席に座っていると、ヴァルジャベディアン(Vn)とピドゥ(Vc)が、もはやアイコンタクトでも、呼吸でもなく、互いが身体を動かす気配みたいなものをアインザッツに用いながらアンサンブルしているのがわかり、あらためて常設のベテラントリオの演奏に慄然といたしました。

【163】5/3 1330-1415 G409〈アポリネール〉
●スカルラッティ/グラナドス:ソナタ3曲(当初プロから変更あり)
●ドビュッシー:《版画》
●ファリャ:クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための讃歌
●グラナドス:組曲《ゴイェスカス》~〈ともしびのファンダンゴ〉〈嘆き、またはマハとナイチンゲール〉〈わら人形―ゴヤ風の情景〉
⇒迫昭嘉(Pf)


ちょうど眠りが訪れやすい時間帯で、迫氏には申し訳ないなあと思いながらうとうと。しかし気持ちがいい。これもLFJの醍醐味のひとつなのだよね。

見事なスペインプログラム。〈グラナダの夕べ〉が入ったドビュッシーの《版画》から、その〈グラナダの夕べ〉が全編にわたって引用されるファリャへの流れはかなり鮮やか。迫氏のタッチはたいへん端正でアカデミックなものだから、一度ちゃんとしたホールでお聴きしたいです。
なお楽しみにしていたグラナドス編曲版スカルラッティは、もっと物凄くかたちが変わっているのかなあと思いきやさにあらず。どうも和音が厚くなったりしているようなんだけど、あまりよくわからなかった。

【164】5/3 1500-1545 G409〈アポリネール〉
●トゥリーナ:ファンダンギーリョ op.36
●タンスマン:マズルカ
●ファリャ:クロード・ドビュッシーの墓碑銘のための讃歌
●トローバ:ギター・ソナチネ~第1楽章
●サマズイユ:セレナード
●ルーセル:《セゴビア》
●ヴィラ=ロボス:12の練習曲~第8番、第7番
●トゥリーナ:《セビーリャ幻想曲》op.29
○マラッツ:《セレナータ・エスパニョーラ》
⇒鈴木大介(Gt)


G409という部屋はスタインウェイのコンサートグランドや弦楽合奏にはあまり向かないのです。ここはリュートとギターのための親密な空間。ひとつ前の公演で休息できたのと、大介さんの熱さに触れて一気に覚醒したのだ。

大介さんの録音で「Francaise」という素敵なアルバムがあって、実はiPodのなかに忍ばせてあるんだけれど、この公演はこのアルバムの選曲と重なるところが多かった。アルバムに副題を付けるとしたら「Francaise|パリのスペイン」かな。

冒頭のトゥリーナとタンスマンがライトでドライでとても佳いなあと思っていると、次のファリャ(奇しくもひとつ前の迫氏の公演でも取り上げられた!)のしごくエロティックな佇まいがハートをぐさり。濃密な夜の大気。ピアノのファリャとギターのファリャはなんでこんなに違うのか。。しかし大介さんがおっしゃるとおり、ファリャはこれ1曲しかギター作品を残さなかった。。

45分間のコンサートだったけれど、大介さん自ら「(このあとのカニサレスたちとの公演があって)テンションが上がりまくってる」と語るとおり、正味30分くらいでプログラムが終わってしまった。この方はああいうキャラクタなので、とぼけた味わいで今回のプログラムを解説をしつつ時間を上手に使い、最後にやっぱりスペインのアンコールで〆。

【165】5/3 1630-1715 G409〈アポリネール〉
●メシアン:《鳥のカタログ》~〈ダイシャクシギ〉
●フィリップ・ルルー:《AMA》
●ブーレーズ:Pfソナタ第1番
●ユーグ・デュフール:《穏やかな海》
⇒ユーリ・ファヴォリン(Pf)


硬派なプログラムゆえ、さっきのギターとはずいぶん客層が変わって、挙動不審テイストの熱いお客さんが多い(気を張らなくて済むのでこっちも気が楽)

ところが残念なことに本日2度目の深い睡魔が訪れてしまい、ブーレーズまでほぼ撃沈。ファヴォリン君、ブーレーズは暗譜だったな。。

で、目が覚めて耳を傾けることができたのは、スペクトル楽派のデュフールが作曲した《穏やかな海》。和音の塊が整然と並び、寄せては返す波のように空間を満たしていく作品です。波のかたちにひとつとして同じものがないように、音塊は微妙にその質量やきらめきや濁りを変えつつ寄せてくるわけですが、なんとなくブライアン・イーノみたいな静かな感覚もこちらの受容器に伝達されてきた。もちろん時折、ひどく禍々しい波も来るので、油断はできない。

+ + +

ここで本日やっと、ガラス棟4階を下りてD棟へ。ホールD7はアクセスの悪さと冷え冷えとした内装(こういうプログラムだとよくマッチするけど)を除けばいちばんまともな会場だと思います。小会場だと次点でホールB5。

【155】5/3 1800-1845 ホールD7〈メーテルリンク〉
<"20世紀パリ:音楽の冒険(Bプロ)">
●ドビュッシー:Vcソナタ ニ短調*
●ブルーノ・マントヴァーニ:《ハンガリー風に》**
●ブーレーズ:《アンシーズ》***
●ドビュッシー:Vnソナタ**
⇒アンサンブル・アンテルコンタンポラン
 ディエゴ・トシ(Vn **)
 ピエール・ストローシュ(Vc *)
 ディミトリー・ヴァシラキス(Pf * ** ***)


中野振一郎氏のモダンチェンバロももちろんサイコーだったのだが、この日はおしまいにもうひとつサイコーが。アンサンブル・アンテルコンタンポラン(EIC)のピアニスト、ディミトリー・ヴァシラキスとの出会いである。

最初のドビュッシーのVcソナタは、ストローシュのソロをすぐ間近で聴いたんですが、どうにも雑でこなれてない。今回これ以外の公演でも同じような場面にいくつか遭遇したんだよね。EICの音楽家たちのなかには、1950年以前の作品を、様式を十分に捉えないまま恣意的に弾いてしまう癖があるひとが少なくないように見受けられました。単純に演奏のチャンスが少ないからだろうと思う(Vnソナタもちょっとそういうところが見受けられた)

このコンサートの最高の収穫は、ちょこちょこっと入場し、全曲を易々と弾いてひらひら~と去っていった超絶技巧の名手・ヴァシラキスを知ったこと。
1967年アテネ生まれのヴァシラキスは、1992年からEICのピアニストを務めていて、むろんドビュッシーの深淵から照り返すようなタッチをフツーに再現しつつ(やっぱりエマール先輩と同じにおいを感じますね)、ブーレーズ作品なんかお茶の子さいさいで弾いてしまう。
彼の打鍵の軽やかさとしなやかさ、音色の美しさと音楽の要請に応える適確さには、ただただ唖然とするばかりで、ファヴォリン君のデュフールだってなかなかのものだったけど、ヴァシラキスの前ではオトナとコドモという感じもしてしまう。《アンシーズ》が、強烈な色彩と粒立ちで目前に展開していくのを聴く幸福。ああ幸福。

+ + +

5月4日(土)に続く。
# by Sonnenfleck | 2013-05-06 18:21 | 演奏会聴き語り