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アンドレアス・ショル リサイタル@武蔵野市民文化会館(10/12)

【2013年10月12日(土) 19:00~ 武蔵野市民文化会館小ホール】
●ハイドン:絶望、さすらい人、回想
●シューベルト:ワルツ op.18-6*
 林にて D738
 夕べの星 D806
 ミニョンに D161
 君は我が憩い D776
●ブラームス:間奏曲 op.118-2*
●モーツァルト:すみれ K476
●ブラームス:《49のドイツ民謡集》~
  かわいいあの娘は、ばらの唇
  今晩は、ぼくのおりこうなかわいこちゃん
  我が思いの全て
  下の谷底では
●シューベルト:丘の上の若者 D702
●モーツァルト:ロンド ヘ長調 K494*
●シューベルト:死と乙女 D531
●ブラームス:《49のドイツ民謡集》~
  かよわい娘が歩いて行った
  静かな夜に
●モーツァルト:夕べの想い K523
○イダン・レイチェル:静かな夜に
○イギリス民謡:恋人にリンゴを
→アンドレアス・ショル(C-T)+タマール・ハルペリン(Pf*)


武蔵野文化会館はわが庵からぎりぎり徒歩圏内なのだが、何しろ大事な公演が平日に集中するので、真面目に会員になってチケットを押さえる気にはなりません。
それでも年に数回は、こうしてどうしても聴きたい音楽会が週末に開催されたりするので気が抜けない。八方手を尽くして、カウンターテナーのスター、アンドレアス・ショルのリサイタルに足を運びました。

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ショルを初めて生で聴くのにバロックではないことについて、当初、全く不満を覚えないではなかった。バッハやヘンデルで彼が聴かせる完璧な歌唱を(それから伴奏をつける活きのいいバロックアンサンブルたちを)CDで楽しんできたのだから、これは仕方がないと思う。
でもタマール・ハルペリンとの19世紀リートプログラムに、この夜、僕は打ちのめされたのだった。

まず、何を措いてもシューベルトです。
「カウンターテナーの」という形容詞を、僕たちは無意識に欲する。それは彼らが歌うリートが表層的にはソプラノやテノールのリートとは異質な様相を呈するからだけど、硬い表層に守られて蠢くシューベルトの深淵に一度到達してしまうと、「声の種類」なんていうのは実に大したことのない問題に成り下がる。むしろ、シューベルトの硬い表層は、カウンターテナーの異質性によっていとも簡単に破られる、と書くべきかもしれぬ。ある種の劇的な薬品が染みわたるように、化学反応が起こっているから。

ショルのディクションは、よく聴き慣れた彼のバッハやヘンデルとは少し違っていた。ほんのわずかに均整が崩れて、深々と絶望するような浪漫が灯る。人間らしさに声が湿る。
そのような美しいドイツ語で実践されたシューベルトは、ほんの瞬間的な違和感の直後、そのでろでろとした深淵を覗かせる。これは恐怖であった。《ミニョンに》もだし、《丘の上の若者》も。…《死と乙女》で乙女パートと死神パートを歌い分けたのは、ファンには面白くても、少し表面的な試みだったかもしれないけれど。

そしてモーツァルトのとき、声が急激に乾いてからりと明るいディクションになったのは、まさに聴き逃がせないポイントだったと言える。僕がよく知っているショルの発音実践はこちらだったからだ。

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ただしこの日、ショルのコンディションはどうやら万全ではなかった。第一声に僅かにスモークされたような香りがあり、こんなものかなあ年取ったのかなあと思っていたら、前半のあちこちで「…ェヘン」「…コホ」と小さな咳払いを確認。
最後のブラームスではついに歌いながら咳き込んで、一時的に演奏がストップしてしまうという珍しくも気の毒な事態に。それでもすぐさま体勢を立て直せるのはプロだなあと思う。

サイン会のときにお大事に、と声を掛けたら、深く息を吸い込むとどうしてもネ、みたいな反応だった。身体が楽器であればこんなこともあるよね。今度は万全な状態で彼の美声を楽しみたいものです。
# by Sonnenfleck | 2013-12-01 09:32 | 演奏会聴き語り | Comments(2)

新国立劇場《リゴレット》|明るい廊下の光に208号室は隷属する(10/12)

新国立劇場《リゴレット》|明るい廊下の光に208号室は隷属する(10/12)_c0060659_10395040.jpg【2013年10月13日(土) 14:00~ 新国立劇場】
●ヴェルディ:《リゴレット》
→マルコ・ヴラトーニャ(リゴレット)
 エレナ・ゴルシュノヴァ(ジルダ)
 ウーキュン・キム(マントヴァ公爵)
 妻屋秀和(スパラフチーレ)
 山下牧子(マッダレーナ)
 谷友博(モンテローネ伯爵)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
→アンドレアス・クリーゲンブルク(演出)
→ピエトロ・リッツォ/東京フィルハーモニー交響楽団


自分が中学生のころに読んだものの本によると「俳句を詠む作法には大きく2通りある」ということであった。ひとつは季語そのものを季語以外の言葉でもって深く説明するやり方、もうひとつは季語と季語以外の事象を衝突させて化合させるやり方。でもいずれの手法に対応するにも自分には才能がないことがわかって、それ以降は俳句の道から遠ざかった。

オペラの演出もだいたいはこの2通りのどちらかで説明がつくんじゃないかなあと思う。上述の俳句ハウツー本は続けて、季語そのものを掘り下げるほうが格段に難しいと断言していた記憶があるんだけれど、これもやっぱり演出に共通するよね。

今回の新国立劇場《リゴレット》、クリーゲンブルクの演出はおかしな異化にはそれほど頼っていなくて、作品そのものの掘り下げを狙いながらオペラの娯楽性を損なわない。
細部は雑な雰囲気もあったので全知全能の演出ではないかもしれないけど、このオペラの腐りきったストーリーの、そのなかでも特に腐乱した部分を明々と照らし出す厭な演出だった。まずはその一点突破主義において、クリーゲンブルクは賞賛されてもいい。

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マントヴァの宮廷から場所を移されたのは現代のラグジュアリーホテル。ラウンジをそぞろ歩く若い女性たちが形成する華やかな視界が、オペラを観る空虚な楽しさを増強する。しかし客席側に示されているのはラウンジと廊下だけで、客室の匿名性は絶対。
そんな匿名客のひとりが、ギャングのイケメン若頭・マントヴァ公爵。公爵とその手下のギャングたちは手当り次第に女性を客室に連れ込んでは痛めつけ、残虐非道のリア充生活を送っている。次の標的は道化が囲っているとされる「愛人」とのこと。

この演出で、ラグジュアリーホテルの独特の冷たい静けさは、マントヴァ公爵の人格性の薄さに直結している。彼はセックスマシーンと言うべき正確さで事を終え、すぐに次の仕事に掛かるわけだけれども、その同質感がホテルの廊下に並ぶドアたちと瓜二つなのよね。客室のつくりがどの部屋でも寸分違わないのと、マントヴァ公爵の餌食になる女性に固有名詞が不要なことは、よく似ている。

それとは反対に、人格性が強くて替えが効かないのがリゴレットやジルダ。でも残念ながら、その固有性を活かすところまでクリーゲンブルクが考えていたかどうか僕にはわからない。マントヴァ公爵と廷臣たちの「空虚で楽しい世界」がリアルすぎて、リゴレットやジルダのほうがむしろ奇矯な人物に見えてしまうんだよね。この演出ならオペラ《マントヴァ公爵》と呼ばれるべきだったかも。

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主役の3人はいずれも好印象。リゴレットのヴラトーニャは立派な体格と朗々たる声で、なんで廷臣に加わって一緒に悪さをしないのかわからない。ジルダのゴルシュノヴァは比較的強靱な声質の持ち主で、役の頑迷固陋な一本気とはすかっと一致。
それからマントヴァ公爵のキムは(すでに各所で話題になったとおり)朝青龍によく似た見た目と朗らか残忍な美声の持ち主で、こちらも作品のキャラクタとしっかり合致してしまっていた。

指揮者とオーケストラには少し問題があったと思う。丁寧に硬く小さくまとまっているなあ、たぶんヴェルディをやるにはこれはよろしくないんだろうなあ、と冒頭から感じていたんだけど、この箱庭感はたとえばモーツァルトや《ペレアスとメリザンド》や《鼻》を活かす種類の感覚ではないかしら。ほかの作品で聴いてみたい。リッツォ氏。
# by Sonnenfleck | 2013-11-16 11:49 | 演奏会聴き語り | Comments(0)

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その十 国立能楽堂開場30周年記念公演@国立能楽堂(9/16)

内容に一部誤りがありました(ご指摘ありがとうございました)。
当該箇所については訂正・削除しました。ご迷惑をおかけした方にはお詫びします。

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[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その十 国立能楽堂開場30周年記念公演@国立能楽堂(9/16)_c0060659_1838739.jpg【2013年9月16日(月祝) 13:00~ 国立能楽堂】
<国立能楽堂開場30周年記念公演>
●能「住吉詣」 悦之舞(観世流)
→大槻文藏(シテ/明石の君)
 梅若玄祥(ツレ/光源氏)
 武田志房(ツレ/惟光)
 寺澤幸祐(ツレ/侍女)
 大槻裕一(ツレ/侍女)
 松山隆之(立衆/従者)
 土田英貴(立衆/従者)
 角当直隆(立衆/従者)
 川口晃平(立衆/従者)
 小田切康陽(立衆/従者)
 武富晶太郎(子方/童)
 寺澤杏海(子方/随身)
 武富春香(子方/随身)
 福王和幸(ワキ/住吉の神主)
 山本則孝(アイ/社人)他
→藤田六郎兵衛(笛)
 曽和正博(小鼓)
 國川純(大鼓)
●狂言「鶏聟」(大蔵流)
→山本則俊(シテ/聟)
 山本東次郎(アド/舅)
 山本則重(アド/太郎冠者)
 山本泰太郎(アド/教え主)他
●能「正尊」起請文(金春流)
→金春安明(シテ/土佐坊正尊)
 武蔵坊弁慶(ツレ/本田光洋)
 金春憲和(ツレ/源義経)
 山井綱雄(ツレ/静御前)
 山中一馬(ツレ/江田源三)
 政木哲司(ツレ/熊井太郎)
 中村昌弘(ツレ/義経郎党)
 辻井八郎(ツレ/姉和光景)
 本田布由樹(ツレ/正尊家来)
 本田芳樹(ツレ/正尊家来)
 山本則秀(アイ/召使の女)他
→松田弘之(笛)
 幸正昭(小鼓)
 亀井広忠(大鼓)
 桜井均(太鼓)


この日は台風18号が正午に関東地方最接近という最悪のコンディション。鉄道各路線が次々と運転を取りやめるなか、自分の路線は雨風にめっぽう強いためぴんぴんしており、そのまま大江戸線に潜って事なきを得た。千駄ヶ谷ルノアールで軽めのランチ(そして、千駄ヶ谷に行くたびに使ってたニューヨーカーズカフェが閉店しているのを発見!)

国立能楽堂開場30周年記念公演は、東西の人間国宝たちが一堂に会し、能が3日間+狂言オンリーで1日=4日間が費やされる一大イベントでした。第1希望は有給休暇を取っての9/17(火)、第2希望は9/15(日)だったけど、まあそううまくもゆかない。9/16(月祝)だってそうそうは見られない巨大編成作品による番組だったのだから、これは文句は言いっこなしだ。

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まず、この日いちばん好かったことから書きましょう。

◆鶏聟
吉日の婿入りで舅に挨拶しようと意気込む聟が、しかし自分はマナーを知らないので教えてほしい、と意地の悪い教え手を訪う。教え手は「これこそ当世風である」と騙して、舅に会ったら鶏がつつき合うように振る舞うのがよい、と聟に吹き込む。

そして実践してしまう聟。ところがこの狂言の真骨頂はここからで、奇怪な振る舞いの聟に相対した舅が「これに驚いては物を知らない舅と思われる…!」と考え、同じように鶏の真似をして応対するのだよね。この人間らしい悲哀。完全な真面目。

◆やはらか狂言
舅役の人間国宝・山本東次郎さん(これまでにもどこかでお姿を見ていたかもしれない)のしなやかな身体に、この日は否応なく引き込まれた。舞台上を浮遊しているのではないかという足運び、泰然と生真面目の同居、柔らかく凛として、しかも聴き取りやすいディクション、、狂言でこんなに透き通った身体感覚を感じたことがなかった僕には、たいへんなショックなのだった。

その「やはらかな」演技は、硬質な山本則俊さんの聟の演技と互いに引き立て合って、藝術としての狂言の深淵をぱっくりと覗かせていた。でも、それでいてくすくすできるのだから、まったく狂言というのは興味深いじゃないですかー。

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◆住吉詣
「源氏物語」第五十四帖「澪標」に基づく、源氏と明石の君の哀しいお話です。
住吉神社に大願を懸けて詣でる源氏の行列。たまたまそこを訪れていた元カノ・明石の君は、行列の麗々しさに気おされながら源氏にひと目会うことを望み、やがて感興を催した源氏の前でひとさし舞う。しかし源氏は留まることなく帰っていく。

◆人物たちであって人物たちでない
「住吉詣」のコアには光源氏と明石の君がいるけれど、この能には源氏の随臣たちが大勢登場する。源氏の乳母子である惟光は多少の台詞も用意され、人物として機能しているが、それ以外の人物たちはあまりそのようには見えない。

加えてこの公演では、梅若玄祥さんの源氏も、大槻文藏さんの明石の君も、軽やかさより石像のような重厚感を帯びる。より率直に言い換えれば「抑制された人物らしさではなくて、どこまでも人物らしくなさ」を辺り一面に照射していたように感じたのだった。

●正尊
この公演の少し前に、Eテレ「古典芸能への招待」で放送された「正尊」。頼朝からの刺客・土佐正尊と義経一行のチャンバラ劇です。

神様も亡霊も鬼も何も出てこないあの能は、能のフォームを利用する意味があるのだろうか?陰翳を欠いたドラマトゥルギーと、金春流の不思議な謡い方が精神を酔わせる。どやどやと頭数が揃って、しかし歌舞伎のような群舞の美しさもない。当分、この演目を見ることはないだろうなと思う。

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めでたく観能10回目を迎えまして。
あの舞台上の緊張感は、たとえば《大地の歌》の最後の3分間が80分間に引き延ばされたようなもので、およそ現実世界では味わうことができない。クラシック音楽の、弛緩した心地よさより凝縮した緊張感のほうを好む皆さんは、思い切って能に向かってみることを強くお勧めするものであります。
# by Sonnenfleck | 2013-11-04 21:33 | 演奏会聴き語り | Comments(1)

ノリントン/N響|この麗しのブリテン日和に 第1764回定期@NHKホール(10/20)

ノリントン/N響|この麗しのブリテン日和に 第1764回定期@NHKホール(10/20)_c0060659_19161033.png【2013年10月20日(日) 15:00~ NHKホール】
●ベートーヴェン:《エグモント》序曲
●ブリテン:《ノクターン》op.60
→ジェームズ・ギルクリスト(T)
●同:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲 op.33a
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 op.93
⇒ロジャー・ノリントン/NHK交響楽団
 *ゲスト・コンサートマスター:ヴェスコ・エシュケナージ


今年の東京の10月は天候が不順である。すっきりと晴れてカラッと暑いこともある例年に比べて、今年は台風に脅かされて、じめっと蒸し暑かったり肌寒かったり、どんより曇ったりしている。
この日、この公演に行くかどうか実はかなり判断に迷った。篠突く雨をかいくぐり、朝イチから三井記念美術館で桃山の陶器を眺めたまではいいものの(そのうち感想文が書ければよい)、どうにも寒くて動けない。風邪の神様がこっちを見つめている。

しかし風邪の神様はヤヌス。もう一面にブリテンの顔を貼りつけている。こんな冷たい雨の秋の日曜日は、年にそう何度もない絶好のブリテン日和。それでノリントンとギルクリストが《ノクターン》を演るのに聴きに行かなくてなんとする。。

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《ノクターン》は非常に精妙な音楽なので、できれば歌い手の直接の声が飛んでくる場所で聴きたい。当日券売り場で奮発して、1階の前方席を買う。

果たして、この選択は当たりだった。
BCJのソリストとして歌うこともあったらしいギルクリストは、もしかしたらどこかで聴いているかもしれないんですが、それにしても驚いたのは魔術的なディクションの威力です。ボストリッジがまるで256色の8ビットカラーに思えてしまう「24ビットカラーの不吉」。この作品でブリテンが使用した厭な色、夢幻の色、暗示的な色が凄まじい精度でプリントされていく。ギルクリストは道化のようにふざけて語り、後シテの死霊のように静かに謡う。

そしてノリントンとN響は。こちらも素晴らしいのひと言に尽きる。たとえば〈しかしあの夜〉の救い難い悪意や、〈夏の風より優しいものは何だろうか〉の幽かな空間。。
ノリントンのノンヴィブラート奏法(通称Norring-tone)が適用されたブリテン音楽を聴くのはたぶんこれが初めてなんだけど、その冷え冷えとした肌合いは、5月に接したアンサンブル・アンテルコンタンポランの対局にあるのかもしれなかった(澤谷夏樹氏が告発していたとおり、フランスの彼らは案外、発音に対するこだわりを持っていなかった…)。音楽のそれぞれの様式が演奏家に要求する実践のなかに、音の風合いや肌合いが含まれるのは、バロックも20世紀も同じなのだわいね。

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翻ってベートーヴェンの第8は?
細部の整えが行われていないピリオドのベト8は、とても残念だけれども今日ではすでに、それほど価値を持たない。同じ方角の遥か彼方にハイパーなトップランナーたちが幾人もいて、道を切り拓いた先蹤がいまや追い抜かれていることを聴衆は知ることになる。
昨年の「第九演奏会」のしっかりとした統率とはほど遠い渾沌のアンサンブルのまま、フレージングから生み出される勢いだけで音楽を推進させる様子に、ノリントンの「老い」を初めて感じた。オーケストラはブリテンのときより混乱していて、しかしそれでもアーティキュレーションが相変わらず異様に鮮やかに機能しているぶん、少なからず悲しかったんである。
# by Sonnenfleck | 2013-10-27 19:50 | 演奏会聴き語り | Comments(0)

前田りり子リサイタルシリーズ・フルートの肖像Vol.9|バルトルド・クイケン×前田りり子@近江楽堂(9/7)

前田りり子リサイタルシリーズ・フルートの肖像Vol.9|バルトルド・クイケン×前田りり子@近江楽堂(9/7)_c0060659_947592.jpg【2013年9月7日(土) 14:30 近江楽堂】
●オトテール:2Flのための組曲 ロ短調 op.4
●クープラン:趣味の融合、または新しいコンセール第13番
●バッハ:無伴奏Flのためのパルティータ イ短調 BWV1013**
●テレマン:2重奏のためのソナタ ニ長調 op.2-3
●C.P.E.バッハ:無伴奏Flのためのソナタ イ短調 Wq.132*
●W.F.バッハ:2Flのための二重奏曲第1番 ホ短調 Fk.54
○C.P.E.バッハ:小品(曲名不詳)
○W.F.バッハ:小品(曲名不詳)
⇒バルトルド・クイケン(Fl*)+前田りり子(Fl**)


バルトルド・クイケンのふえを聴くのはたぶんこれで三度目くらいなのだけど、むろん、近江楽堂のように狭い空間で贅沢に体感したことはない(りり子女史のふえはもう何度目かよくわかりません)

当日の近江楽堂は、あのクローバー型の空間の中央に2つの譜面台と1つの椅子が置かれて、100名弱のお客さんが四方から取り囲む形式。遅れて到着した僕は、譜面台の向きから判断するにP席に相当するブロックの最前列に「まー背中からでも近いからいいかー」と座ったのだが、後からこれが幸いする。

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で、入場してきたお師匠さんとお弟子さん。小柄なお弟子さんが立奏すると大柄なお師匠さんが座った高さとちょうど合うらしく、バルトルドは椅子に腰掛ける(あとでりり子女史が教えてくれたのだけれど、バルトルドはひと月前に足の骨を骨折してたとのことで…)
そしてありがたいことに、1曲ごとに回転しながら方向を変えて吹くよーとの仰せ。P席が一気にS席に早変わりするの図です。

さて、僕としては最初のオトテールのデュオがこの日のクライマックスだったと言ってよい。
本業の多忙が続いて、1ヶ月以上コンサートにご無沙汰していたのもあるし、バルトルド御大とりり子女史の音を至近距離で聴けるというミーハーな喜びもある。しかしオトテールの、お約束どおり終曲に置いてあるパッサカリアが、やっぱりお約束どおり中間部で長調に転調して見せるに及んで、バロックの血がじゅっと沸騰するのを感じたのであるよ。

ふつう、クラシック音楽全般をレコード芸術的に幅広く聴くひとがあれば、彼らがイメージするバロック音楽というのは《マタイ受難曲》だったり《ブランデンブルク協奏曲》だったり《水上の音楽》だったりする。ところがバロック音楽の本質のひとつであるキアロスクーロは、巨きな管弦楽や大合唱よりも、小さなアンサンブルの細部に宿っていることが多いんである。
閉ざされた部屋における密かな明暗の悦びをこっそり分けてもらうこの上ない贅沢は、ふえを知悉しきったオトテールによって、また師匠と弟子の親和する一対の息によってもたらされる。パッサカリアが緊張したロ短調から解放されるその瞬間の光を、僕たちは深呼吸するように味わう

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バルトルドのソロで演奏されたエマヌエル・バッハも(企画の主であるりり子女史には申し訳ないけれども)、この日聴きに出かけて本当によかったと思わせる仕上がり。これもバロック音楽の本質のひとつである「究極の名人芸」に触れたわけですが、目にも止まらぬ速さで鮮やかに撫で斬りされたみたいで、死んだことに気づかない浪人Aみたいな心地。御大が吹いていたのは仕込み笛でござった。

還暦を過ぎてますます進化を続けるバルトルド。BCJの女王(すいません)りり子女史も、大師匠の前では何やら少女のように可憐な姿を見せている。
# by Sonnenfleck | 2013-10-14 09:48 | 演奏会聴き語り | Comments(0)