L'étoile de la danse

c0060659_23165292.jpg【EXTON/OVCL-00472】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ長調 op.43
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団

レコードアカデミー賞大賞!の惹句が、わりとマジで気になって購入してみたのです。日本のオケ録音に大賞が出たことについて、陰謀論者は疑い深い視線を投げかけるのかもしれないけれど、僕は純粋に興味がある。

録音で聴いてきたインバル/ウィーン響のショスタコは、僕にとっては何か、言いたいことを言い切っていないような、噛みしめても繊維質がボソボソと口に当たるような生煮えの雰囲気を感じていた。
ところがインバル/都響のショスタコは、その半端な印象をしなやかに投げ飛ばし、もってインバル流レシピの決定版たるを得てます。ほんとです。

+ + +

ここに録音されたタコ4は、他のどんな演奏にも似ていない。

この演奏は、ザミャーチンの宇宙船インテグラル号のようなディストピア的全能でもなければ、社会主義リアリズムの泥をぼとぼと飛ばすようなどん底でもない。この演奏が表現しているのは、絶望的に乾ききった新古典主義バレエ。個人的にはものすごいショックである。
インバルはこういうショスタコーヴィチがやりたかったんだなあ。それはニュートラルかつ上手で品の佳い音のするオーケストラを絶対的に必要とする。たぶんオーケストラは「機能的」みたいな服すら脱ぐことが求められて、いわんやアクの強いウィーン響では十分にインバルの意志を実現することができなかったのだろうと思う。都響は理想的な道具なんだろうなあ。納得納得。

第1楽章で聴こえてくるのはストラヴィンスキーの遠い残響。アヴァンギャルドが支配する直前、帝政最末期のストラヴィンスキーが生み出していたバレエのように、露西亜の呪術的民話を内包しつつも肌を切り裂きそうな乾いた風が吹き抜ける音楽。この交響曲をマーラーからもアヴァンギャルドからも遠ざけた演奏で聴くのはこれが初めてかもしれない。
バレエを想起させられるのは、インバルが都響に対して命じている、恣意性を排除した音色とリズム感が完璧にハマっているからだろう。
もっとも強烈だったのは、あのプレストのフーガが「優雅」だったことである。いちばんしっくり来る形容詞がよりによって「優雅」だよ?

じっとりしつこいマーラーをやらせると今では世界で一二を争うインバルだけど、マーラー成分が混入しまくってる第2楽章は意外にふわとろ系。バレエのロマンスシーンかというくらい、拍節感を維持しつつふんわりした音響で支配する。

第3楽章もやはり第1楽章と同じ傾向。苛烈な音響や粗雑なアゴーギクは退けられ、キリッと引き締まったリズムと、冷たく乾いた優雅なマチエールで音楽が展開していく。途中の木管隊による斉奏の、どこのものでもない中庸な美しさには呆然としちゃいますよ。これが無個性無個性と貶められ続けてきた日本のオーケストラの「個性」なのかもしれないな。だとしたらこんなに嬉しいことはない。

この楽章、いつもペトルーシュカの最終場・謝肉祭を彷彿とさせるんですが、インバル/都響のこの演奏に振り付けてバレエを上演したら、さぞかしクールだろうな。作りものじみててさ。
# by Sonnenfleck | 2013-03-13 23:18 | パンケーキ(20)

ハイティンク/ロンドン響|ブリテン、モーツァルト、ベートーヴェン@サントリーホール(3/9)

いろいろな切り口の「ベスト体験」があっていいと思うけれども、「音楽それ自体」に限りなく接近したという意味で、僕はこの日、これまでで最高の経験をしたと断言できる。今日まで音楽を聴きつづけてきて本当によかったと思う。

+ + +

c0060659_23342183.jpg【2013年3月9日(土) 14:00~ サントリーホール】
●ブリテン:《ピーター・グライムズ》~4つの海の間奏曲
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→マリア・ジョアン・ピリス(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 op.92
 ○メンデルスゾーン:《真夏の夜の夢》~スケルツォ
⇒ベルナルド・ハイティンク/ロンドン交響楽団


後半のベートーヴェン、第1楽章ですでに、僕は座席の上で硬直していた。

これまでに聴いてきたベト7は、この午後にハイティンクによって実際に開帳された「音楽」の劣化した影か、過度に装飾された写しでしかなかった可能性がある。「演奏」ではなく「音楽」と書いたのは、演奏者や指揮者の刻印がそこから完璧に消えていたから。
「演奏」を研ぎ澄ましていった先の最終形態が「音楽」だとすれば、あの瞬間に(恐ろしいことに)ベートーヴェンの姿さえ透過していたのが観測されたことも何らおかしくない。あそこにあったのは旋律と和音と拍節のただひたすら心地よいつながり、言ってしまえば「音楽のイデア」みたいなものだった。

僕は普段(「僕たちは普段」でもいいのかはわからないけど)、ある「曲」のことを知っていて、いつでも頭のなかで再生できる「曲」を基準に、あるときどこかで聴いた演奏について「こいつは愉しいフレージングだ!」とか「ここは演奏実践の失敗だ…」とか考えている。

でもハイティンク/ロンドン響のベートーヴェンは、普段は実在しないはずの概念としての「曲」が、信じがたいことにそのまま目前で展開されるという、イデアの降臨としか言いようのない体験だった。快感に恍惚。そして第4楽章のコーダでは、イデア界への扉が音を立てて閉まるような圧倒的な絶望感が快感のなかに混信してきて、もう何が何だかわからない。
いや、正確には、すべてわかったと書いたらいいのか。あれは自分の頭のなかでまた鳴らすことができるような気もするんだよね。実際。

+ + +

2003年の「スーパーワールドオーケストラ」、2009年のシカゴ響に続き、ハイティンクを生で聴くのはこれが三度目だったのだけど、過去の二度はここまでの感覚を得たことはなかった。
いま極端にレパートリーを絞り込んできている彼は、イデアの在り処や呼び出し方をよく知っている作品だけを選んで振るようになっているのかもしれない。つまり磨き上げられて僕たちに供されるのは、最上の普通。この最上の普通に辿り着くために、どれほど多くの指揮者が時間と労力を欲しているのだろうか!

かたやロンドン響は、この週の他公演でアンサンブル荒れ気味という感想がTwitter上で散見されていたのでちょっと不安だったんだよね。
でもピーター・グライムズ、じゃなく「4つの海の間奏曲」が始まってすぐ、オケの機能に不満を持つ必要がないことがわかってほっとする。

冷たく湿った良好なブリテンだっただけじゃなく、ハイティンクの要請に応えて各パートが無数のギアチェンジを行うことで、整然と柱廊が組み上がっていくような巨大な音響も確保される。
よく鳴っているだけでなく、フォルムもくっきりとしていて実に気持ちよいわけだけど、そしてブリテン音楽の場合はそれが「ブリテンらしい居心地の悪さ」へとつながってゆくのだった。このまま第1幕が始まったらいいのに、と思ったひとも客席には多かったことだろう。

モーツァルトの協奏曲はあまりにも心地よくて(またベト7とは違い、自分の頭のなかに再生可能な「曲」がなくて)うとうとしてしまったので、感想を書く資格がない。ただ、ピリスの打鍵が瑞々しく、力が抜けているのに力強い、不思議な雰囲気を示していたことは記しておきたい。ハイティンクのサポートも実に温かな音色だった。ような気がする。

+ + +

こんな感想文はオカルトのカテゴリに分類されたって文句は言えない。でも、賛意を示してもらうどころか共有されたいという気持ちもあまり強くはないのです。「音楽」を聴いて心の底から驚嘆したので、そのことについて書いた。
# by Sonnenfleck | 2013-03-10 00:43 | 演奏会聴き語り

貴公子ジノの平穏

c0060659_21522668.jpg【Hänssler/CD94.219】
<ブラームス>
●Vn協奏曲ニ長調 op.77
→ジノ・フランチェスカッティ(Vn)
(1974年4月27日、ハンス・ロスバウト・スタジオ)
●セレナーデ第2番イ長調 op.16
(1978年5月16日、ハンス・ロスバウト・スタジオ)
⇒エルネスト・ブール/SWR交響楽団

―あなたはどのヴァイオリニストがいちばん好きですか?

という質問をもらったら、たぶん、僕はレオニダス・カヴァコスかクリスティアン・テツラフかエンリコ・ガッティかで迷ったあげく、結局ジノ・フランチェスカッティと答えると思う。
もともとロベール・カサドシュの相棒として彼のことを知ってから今日まで、そんなにたくさんの彼の録音を聴いたわけじゃないけれど、悲劇ぶらずアダルトな彼の唄い口や、細くてもきらきらした美しい音色に魅せられてきた。

ブラームスの協奏曲が得意だったフランチェスカッティは、5つか6つくらいの録音を残している。今回、SWRのアーカイヴから掘り出された当録音はヴァイオリニスト72歳、キャリア最後期の演奏にあたり、フランチェスカッティの晩年を伝えるものとして貴重な存在(もっとも彼は1991年まで長生きしたんだけど)

晴れた日曜日の午後にじっくりと聴いて、まずはその技巧がほとんど衰えていないことに吃驚してしまった。老境のフランチェスカッティが「ブラームス」として提出してきたのは、うだうだと悩み苦しみ抜いたあげく枯れていくヨハネスではなく、かつてカサノヴァだったことを隠そうともしない自信たっぷりのヨハネス。上のほうで書いた涼しげな行書体が70歳を過ぎてなお維持されていて、若いころの録音と同じように貴公子のようなブラームスが繰り広げられている。

年老いたヴァイオリニストはボウイングの自制がきかずに悪魔のようなフレージングになっちゃうことも多いように思いますが、フランチェスカッティは地上に留まっているようです。燦々と太陽が照るような第3楽章のボウイングに惚れ惚れ。

余白に納められているのは第2セレナーデ。

ディスク全体を通してもブール/SWR響らしさ、みたいなものはほとんど感じないが、協奏曲の美しい第2楽章の冒頭を飾るObがものすごくペェペェした音で、いつでもリームとか始められますぜマエストロ、という空気が微笑ましい。
# by Sonnenfleck | 2013-03-04 22:04 | パンケーキ(19)

ポーランドよ、永遠に野蛮なれ!

c0060659_23313847.jpg【Passacaille/972】
<Barbarian Beauty>
●テレマン:Rec+Vgambのための協奏曲イ短調
●グラウン兄:Vgambのための協奏曲ニ長調
●ヴィヴァルディ:Vn+Vcアッリングレーゼのための協奏曲イ長調
●タルティーニ:Vgambのための協奏曲イ長調

→ドロテー・オベルリンガー(Rec)
 平崎真弓(Vn)
 マルセル・コメンダント(ツィンバロン)
⇒ヴィットリオ・ギエルミ(Vgamb)/イル・スオナール・パルランテ・オーケストラ

後期バロック音楽に「ポーランド風」という薬味が存在していたことは、たぶんよく知られていると思います。それを、お豆腐と薬味を「同量で」食してみるとどうなるか、という素敵なコンセプトのアルバム。最近よく読ませていただいているブログ、mondnachtさんで紹介されていたもの。

まずは最初のトラックが、ツィンバロンによるインプロヴァイゼーション。

うおっ!と思っていると、続けざまに繰り出されるのがテレマンの有名なリコーダー+ガンバ協奏曲。たーーーくさん残されているテレマンのポーランド風作品のなかでも特に東方気分が強いこの曲で、当たり前のようにツィンバロンが遊撃的に(あるいはときに通奏低音的に!!)挿入されています。

でも、それだけなら騒ぎ立てる必要はない。
ガンバソロかつアンサンブルの組み立ても行なっているヴィットリオ・ギエルミが、作品のフォルムが破壊される寸前のところまで「野蛮な」音楽を演出しているんだよなあ。この曲でこれ以上どろどろに土臭い演奏がかつてあっただろうか?最終楽章のアレグロなんかツィンバロンによって全面的に修飾されつつ、どったどた、どたっ、ばったり!どた!という重たくて快活な舞踏が展開されている。

いいですか。たとえば90年代のイル・ジャルディーノ・アルモニコの名録音に聴くメソッドは、あくまでもアントニーニの西欧的なセンスの延長線上にあったと思うんだけれど、ギエルミがここでイル・スオナール・パルランテに命じているのは、縦ノリが最重要視される東欧の動的センス。
イルジャルをマニエリスムの最高級袋小路と表現していいなら、イルスオナールは、もしかしてこいつが真性のバロックじゃねえのかい?ポルトガルの真珠が、ポーランド方面の田園から協賛されるという面白み。

+ + +

テレマンに比べるとグラウン兄(ヨハン・ゴットリープ)はインテリっぽいよね。フリードリヒの宮廷を経由してヴェネツィアへ遠くこだましたツィンバロンの響きは、最後にパドヴァから空中に消えてなくなる。

ギエルミのガンバ、以前から巧いなあと感じていたけれど、熱心に彼のソロを聴くのは初めてかもしれない。ライナーの最後に、兄ロレンツォと一緒にやるバッハのガンバ・ソナタ集とフォルクレ集が告知されてて熱いですね。
# by Sonnenfleck | 2013-02-28 23:35 | パンケーキ(18)

尾高忠明/東京フィル 特別演奏会|グレの歌@オーチャードホール(2/23)

2011年3月12日。帰宅を諦めて会社に泊まり込んだ僕は、残ったほかの同僚とともに、倒れてしまったキャビネットたちの搬出作業に午前いっぱいを費やして、昼ごろようやく平常運転に戻り始めた中央線を使って帰宅したのだ。

この土曜日、僕はラザレフ/日フィルのコンサートに出かける予定で、Twitterの情報を見るかぎりではそのコンサートは果敢にも開催されるようだったが、再び帰宅できる保証はなかった。こうして僕はそのチケットを無駄にした。

そして2011年3月20日。僕はもう一枚、死んだチケットを眺めなければならなかった。中止が発表された、東フィルの創立100周年記念演奏会、グレの歌である。

+ + +

c0060659_20414482.jpg【2013年2月23日(土) 15:00~ オーチャードホール】
<特別演奏会>
●シェーンベルク:《グレの歌》
→ヴァルデマル王:望月哲也(T)
 トーヴェ:佐々木典子(S)
 山鳩:加納悦子(A)
 道化クラウス:吉田浩之(T)
 農民・語り:妻屋秀和(Bs)
→三澤洋史/新国立劇場合唱団
⇒尾高忠明/東京フィルハーモニー交響楽団


でも東フィルは諦めていなかった。今度は作品の初演100年目のその日に、グレの歌はついに演奏されたのだった。

1 作品のこと
《グレの歌》は、表現主義期のシェーンベルクが取り組んだ、全曲2時間を超える巨大な世俗オラトリオ=歌付きの交響曲=舞台なしオペラ。
時間だけじゃなく、編成も本当に巨大。ロマン主義の断末魔を表現するためにシェーンベルクは150人規模の大オーケストラを指定しちゃったんだよね。さらにそこへ5人のソロ歌手と混声8部合唱が加わるので、もう浪漫的妄執の産物と言っていいだろう。オーチャードの奥行きのあるステージを隅々までみっちり占有して、それでどうにか収まる。
(※この日は弦楽器があまりに多すぎて、ふだんは打楽器がいるあたりにようやく木管の1列目が並び、金管はその奥。打楽器陣の絶望的な眺望は推して知るべし。)

全曲は次のような構成(以下、当日のプログラムから抜粋)。
<第1部>(約60分)
序奏
第1の歌「今 黄昏に 海も陸も」(ヴ王)
第2の歌「月が滑るような光を投げ」(トーヴェ)
第3の歌「馬よ なぜ こうも歩みが遅いのだ!」(ヴ王)
第4の歌「星は歓びの声をあげ」(トーヴェ)
第5の歌「天使たちの舞いも」(ヴ王)
第6の歌「今 初めて告げる」(トーヴェ)
第7の歌「真夜中だ」(ヴ王)
第8の歌「あなたは 私に愛の眼差しを向け」(トーヴェ)
第9の歌「不思議なトーヴェよ」(ヴ王)
間奏
「グレの鳩たちよ」(山鳩)

<第2部>(約5分)
「神よ 自分のなさったことをご存じか」(ヴ王)

<第3部>(約65分)
「目覚めよ ヴァルデマル王の臣下たちよ」(ヴ王)
「柩の蓋がきしみ 跳ね上がる」(農民)
「王よ グレの岸辺に よく来られた!」(臣下たち)
「森は トーヴェの声で囁き」(ヴ王)
「鰻のような 奇妙な鳥」(道化クラウス)
「天の厳格な裁き手よ」(ヴ王)
「雄鳥が鳴こうと 頭を起こし」(臣下たち)
序奏
「アカザ氏に ハタザオ夫人よ」(語り手)
「見よ 太陽を!」(合唱)
実はこの2時間、地の文の時間軸ははなはだ不安定に遷移するんだよね。
第1部の終わり、第9の歌までは、時間軸はヴァルデマル王とトーヴェの逢瀬をだらだらと描写する。しかし急転直下、間奏でトーヴェの死が暗示され、山鳩は葬列を歌う。そして第2部はヴァルデマル王の最後の呪詛。たぶんここで王は死ぬ。

第3部の前半はヴァルデマル王の死後、幾星霜を重ねたのちの時代のようだ(明示はされないけど)。
亡霊となったヴァルデマル王が、やはりすでに葬られている臣下を墓から呼び覚まし、グレの大地を徘徊する描写が続く。アンデッドの長い夜は、それが一夜のことなのか、それとも繰り返される苦しみの夜々のことなのか、明確にはならない。

そこへオーケストラの序奏とともに、夏の朝の風が吹き込んでくる。時間軸はやはり明らかにならないが、「朝」がやってくるのである。この永遠の朝とともに時間が消失して、この長大なオラトリオは終わる。

時間は自由に伸縮する。そこでの主人公は誰か?ヴァルデマル王?山鳩?トーヴェの幻影?ゾンビ軍団?
いやいや。このオラトリオの主人公は「グレの大地」ではないかい。
これは呪われたグレの大地に永遠の安らぎが訪れたことを寿ぐオラトリオだったのだ。震災で中止に追い込まれたこの作品の公演が、いま復活する意義はある。せめて藝術の中だけでも、永遠の安らぎの朝が訪れたっていい。。

+ + +

2 音楽のこと、演奏のこと、うたのこと

この作品は、興味深いことに途中で作曲が中断された経緯を持つ。
この日のプログラム解説(舩木篤也氏)によると、第1部から第3部の農民の歌くらいまでが1901~03年、それ以降が1910年の作曲とのこと。この間、シェーンベルクは表現主義から無調の時代に突入したけれど、1910年に作曲された部分もいちおうは表現主義時代の様式に基づいている。…かに聴こえる。

でも、実際はそうではない。
ラトル/BPOのCDでこれまでずっと予習してきて、ここの「接ぎ木」部分はそれほど気にならなかったんだけど、生で聴くと明らかに第三部途中からのテクスチュアがそれまでと異なっていて、かなり吃驚してしまった。Twitterでどなたかが「これだけ巨大な音響になると録音には入りきらない、または家庭のオーディオでは再現できない部分が多い」と指摘されていて、今はそれがよく納得できる。

つまり、1910年部分からは、それまで分厚い「塗り」の後方に押し込められていた立体感が急に前面に出てくるということ。
アンサンブルの単位は小さくなり、ソリスティックなパッセージが急増、その小ブロック同士のぶつかり合い=異化し合いで音楽が進んでいく。表現主義的な旋律が乗っかっているけれども、これはシェーンベルク十二音に進化していく骨格だよね。



尾高氏と150人フル編成の東フィルは、立ち上がりの黄昏音楽こそぎくしゃくしたものの、初速が遅い重機械のように尻上がりに調子を上げて、やがて「山鳩の歌」に到達するころにはこの世のものとは思えないくらい絢爛な音響を振りまき始める。

このお方は案外、しっくりくるレパートリーが広くない印象なんだけど、尾高氏の真骨頂である上品でさらりと甘いハーモニーセンスは、むしろ第3部の「接ぎ木」以降、とてもよく映えたように感じた。最後の5分間、朝がやってきてからの素朴な高揚感には、胸が締め付けられるような思い。震災のあと、最初に聴いた生演奏は尾高氏のマラ5だったけれど、僕はまたこのお方に大深度心理を救われたな。

声楽は、肝心のヴァルデマル王の望月氏が不調(というより、そもそも威圧的な大管弦楽には対峙できないという声質アンマッチによる悲劇?>二期会《カプリッチョ》でフラマンを歌ったときはとっても好かった!)に見舞われてほとんど声が通らなかった以外、新国の合唱団も含めて全員大健闘だったと思う。
それにしても妻屋氏の野太いシュプレヒシュティンメ、さすがだったなあ。彼が最後の5分を朗らかに導いた。

+ + +

モニュメンタルな公演でしかも極めて良質な演奏だったのに、終演後に客席があまり盛り上がらなかったのはなぜだろう?最近「盛り上がりすぎる」公演にばっかり足を運んでいたからそう感じたのかな。。
# by Sonnenfleck | 2013-02-24 20:43 | 演奏会聴き語り

精神と時のお買い物XXXIII(堆積する箱たち)

特にここ1年半くらい、CDの扱いが雑になった。買ってきたり届いたりするCD自体がタワーを形成して、タワーレコードも形無しである。今や自分の聴きたいCDがいちばんよく見つかるのは自室の瓦礫の塔のなか。ああ、こころない天使が。。

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【HMV】
1 "Music for bass sackbut around 1600"(ACCENT) *オルトレモンターノ
2 ヴィンチ:アルタセルセ(virgin) *ファゾリス/コンチェルト・ケルン他
3 ベートーヴェン:Vnソナタ全集(DECCA) *カヴァコス+パーチェ
4 ブラームス:Vn協奏曲(Hänssler) *フランチェスカッティ+ブール/SWR
5 ワーグナー:アリア集(Sony) *フォークト+ノット/バンベルク響
6 プロコフィエフ:Pfソナタ#1,4,6(Sony) *ブロンフマン
7 プロコフィエフ:Pfソナタ#2,3,5,9(Sony) *ブロンフマン
8 プロコフィエフ:Pfソナタ#7,8(Sony) *ブロンフマン
9 ショスタコ:Sym#10(EXTON) *インバル/都響

【Amazon】
10 "Barbarian Beauty"(Passacaille) *ギエルミ+SPO
11 バッハ:トリオ・ソナタ集(Alpha) *アラール@オルガン
12 バッハ:パルティータ集(Alpha) *アラール@チェンバロ

1は、年末に聴いたノリントン/N響の第九つながり。交差するサックバットに埋もれたくて。
2と5はすでにヘビーなローテに入っている。僕のiPodはコレッリPodであるのと同時に、いまは歌Podにもなっています。バロックオペラでこんなに飽きない曲と出会えたのが嬉しいし、ワグネリアンとしての培養が再開されたのも愉快だ。

3と4は新旧好きなヴァイオリニスト対決。

9は、第4交響曲で鮮烈な名演を聴かせてくれたインバル/都響のタコ10。僕はタコ10には厳しいつもりだけど、インバルのショスタコーヴィチは彼のマーラーより自分の性に合うような気がしてる。

11と12は、そろそろ円安傾向が価格に反映され始めたAmazonのAlphaを救うラストチャンスを見計らって。ラ・プティット・バンドの新しいチェンバリスト、バンジャマン・アラール氏の演奏は鉄板である。

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そろそろ覚悟を決めてNMLに入ろうかと思います。
# by Sonnenfleck | 2013-02-23 09:29 | 精神と時のお買い物

on the air:井上道義/兵庫芸術文化センター管のプロコフィエフ(2/17)

c0060659_20123941.jpg【2012年11月16日(金)15:00~ 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール】
<プロコフィエフ>
●バレエ音楽《ロメオとジュリエット》op.64から
●Vn協奏曲第2番ト短調 op.63
→パトリツィア・コパチンスカヤ(Vn)

●交響曲第7番嬰ハ短調 op.131
→井上道義/兵庫芸術文化センター管弦楽団
(2013年2月17日/NHK-FM)


井上ミッキーのオール・プロコフィエフ。
この御仁は現代日本でいちばんプロコフィエフの指揮が似合う人物だと思っていて(それはむろんプロコフィエフそっくりの見かけのためではなく)、このプログラムがもし東京で開かれていたら間違いなく駆けつけていただろう。

放送はなぜかメインの第7交響曲から始まった。
何度も書いているけれど、プロコフィエフの内面における抒情と破壊との分裂状態は、西洋音楽史上ほかに誰も陥ったことのない苦境へとこの作曲家を誘った。晩年のプロコフィエフはどちらかというと寂しげな抒情の方向へ作風を収斂させていったわけで、硬く結晶した破壊への憧れが薄桃色の抒情のキャンパスにぱらりと撒かれている様相に胸が詰まる。リリカルマシン。

第1楽章の超然としたメロディを、臆すことなく堂々と歌い上げるケレン。これはミッキーのとっても好いところで、しかも晩期プロコフィエフ演奏においてなくてはならない美点。音楽のお尻もキュッと引き締まって、あくまでも快活だ。
解説の伊東センセは「もっと奥の意味を主張した演奏がよかった」とかおっしゃってたが、僕は全然そうは思わない。プロコフィエフの「奥の意味」は決してフォーカスされてはいけない。ショスタコーヴィチじゃないんだ。プロコフィエフは。

第4楽章での急激な「運動」性の高まりは、まるでパステルタッチの絵本に機械が描かれているようなアンバランスを示す。
とってつけたように第1楽章の主題が回帰するところも、井上ミッキーは切々と愛おしむように歌う。そのあたりで音楽の実体は終わってしまって(ミッキーもそのような重点を構築していたように僕は感じた)、終結部は全然気の乗っていない改訂版。きっとこれでいいのだ。これで…。

+ + +

来週24日はコパチンスカヤをソロに迎えた協奏曲が放送されるみたい。こっちも必聴だなあ。
# by Sonnenfleck | 2013-02-17 20:21 | on the air

[不定期連載・能楽堂のクラシック者]その三 能「砧」@大槻能楽堂~はじめてのおんりょう~(2/9)

c0060659_2310307.jpg【2013年2月9日(土) 14:00~ 大槻能楽堂】
<大槻能楽堂自主公演能 日本探訪シリーズ 研究公演>
●お話「砧考 世阿弥の砧を読み解く」
→天野文雄(国際高等研究所副所長)
●能「砧」(観世流)
→野村四郎
 (前シテ/蘆屋某ノ北方|後シテ/北方の亡霊)
 上野雄三(ツレ/夕霧)
 福王茂十郎(ワキ/蘆屋某)
 喜多雅人(ワキツレ/従者)
 小笠原匡(アイ/下人)ほか


土曜20時開演の大井浩明ワールド@京都カフェ・モンタージュに合わせ、何かいい公演がないかと探した結果、今回は大阪の難波宮跡近くに建つ大槻能楽堂を訪れることにした。観能を始めてからまだ日が浅い僕は、これが初めての国立能楽堂以外での公演であります。

地下鉄中央線・谷町四丁目(「た」にまちよんちょうめ!)から少し歩くと、古い映画館のようなコンクリート建築が姿を現す。内部の様子は、たまたまここで収録された半能「石橋」をテレビで見ていたのである程度わかっていたが、かなり古めかしい。実家にいるような独特のにおいも趣深い。

c0060659_23105223.jpg

観能3回目の今回、初めて脇正面の席を選んだのだった。脇正面は演者たちが登場する長い廊下に沿ったエリアで、正面とは90度異なる面から舞台を眺める。上の写真だと壁画の松に向かって左側に廊下が伸びて、舞台袖に通じてます。

+ + +

これまでに見た2公演(11/10「賀茂」、1/5「弓八幡」)はいずれも「脇能」、つまり神様が登場する、荘重でおめでたいオペラ・セリアのような作品だったわけですが、今度は違う。「砧」は「雑能」という雑多なカテゴリのなかの「怨霊物」に属する作品で、これでいよいよ、能の世界に深く沈潜することになろう。

現在の能の上演形態でもっとも多いのが2つないし3つの能で1つないし2つの狂言を挟むスタイルだが、この日は大槻能楽堂の「研究公演」とのことで、能「砧」の詞章(歌詞)を世阿弥が書いたとおりに復元しよう!というピリオド能公演。「砧」1作品が古典学者の解説付きで上演されました。

1 おはなし
訴訟で都に上ってから、3年もの間戻らぬ蘆屋某。蘆屋某の妻はそれを嘆き悲しんでいる。そこへ蘆屋某から伝言を預かった侍女・夕霧が帰郷、妻は故事に倣い、砧を打って己の不遇を慰めようとするが、「今年も戻らない」という伝言を夕霧から聞いた妻は、嘆きのあまり命を落とす。
後半。慌てて帰郷した蘆屋某の願いによって、妻の亡霊が現れる。砧を打ち続けよという地獄の責め苦の辛さを訴え、蘆屋某を呪い、怨む。しかし夫が唱える法華経により、妻の亡霊は成仏する。

2 ダンスとオーケストラ
今回、もっとも心を揺さぶられたのは、観世流・野村四郎氏演ずるシテ=蘆屋某の妻である。
野村氏は日本能楽会会長にして藝大名誉教授という凄い77歳。巨匠の至芸と書いていいのだろうと思う。震える指先を加齢のためとはつゆほども思わせず、むしろ哀しくも「重い女」の心の有り様を示す。
後半、亡霊の能面(痩女 ※ちょっと怖いのでご注意)を被ってからはさらに力が増し、激しく取り乱して顔を覆う仕草や、憤怒の形相で蘆屋某に詰め寄る様子、そして怨みと恋しさがメタメタに混ざった苦しみなど、すべてを身体から放射していた。ほんの少しの顔の傾け方で、能面の表情は千変万化する。凄艶のひと言。

オーケストラは太鼓を欠いた編成(笛・小鼓・大鼓)。席の関係かもしれないが、大鼓の方の声があまりにもよく通って、全体のアンサンブルが破綻しかかっているように感じた。
これは彼個人の解釈なのか、「砧」の楽譜の指定なのか、関西の能が全般的にそうなのか、あるいは僕の囃子アンサンブル観が間違ってるのか、理由は不明。観能の場数を踏まないとこのへんはよくわからんですな。

3 演出?
能に「演出」が有り得そうだ、というのも今回見出されたこと。
これまでに見た能は、いずれも、すでに舞台に並んでいる囃子方が奏する前奏曲が始まってから、演者が舞台に進み出てきた。しかし今回、アンサンブルは舞台袖のなかで前奏曲をやり、その後シテたる蘆屋某の妻がアンサンブルの面々と一緒に無音のまま登場。劇の始まる前から舞台に座っている。

ト書きに最初から厳密にそう書かれているのであれば認識は改める必要があるし、そんなん珍しくも何ともないわ、ということなら別にいいんだけど、僕としては、能にも音楽を中断したり改変したりする上演(あるいは作品)があるんだなあと今回感じ入ったことは記録しておきたい。

4 クラ者の雑感
・なお、読み替えにより舞台が1950年代のアメリカに…なったりはしない模様。

・前半で妻が落命するところと、後半で妻が成仏するところ、つまりこの作品の胆と言える部分で、同じ婆さんが二度も携帯を鳴らしおった。永遠に呪われれ。
・でもクラシックみたいに客席が殺気立つことがないんだよなあ。これは本当に文化の違いというか面白いギャップ。みんな冷静に舞台に集中してる。大人。

・BADかつ消え入るような終結は、チャイコフスキーの悲愴を蒸留して純度を高めたようであったことだ。そして彼女は妄執から救われる。
# by Sonnenfleck | 2013-02-13 23:14 | 演奏会聴き語り

大井浩明×クラヴィコード 「6つのパルティータ」@カフェ・モンタージュ(2/9)

冬の京都になぜか今年は縁があり、こうして2月に再び訪れることになった。1月に比べれば、心なしか日差しが暖かい。
この日は夕方まで大阪の大槻能楽堂で観能。その後、たぶん生まれて初めて阪急に乗って京都・烏丸へ。ホテルに荷物を置いて、演奏会場に向かう。

「カフェ・モンタージュ」は「京都の街中の小さな劇場」として昨年オープンしたばかりの、音楽カフェ兼小さなスタジオである。京都御所南の静かな一角に居を構えたオーナーの高田氏が、音楽や演劇でたいへん先鋭的な取り組みを行なっている。関東だと、、うーん、、関東にこんな空間はないかもしれないぞよ。いや、あるいは中央線沿いの音楽喫茶たちはちょっと似た雰囲気なのかもだが。。

店内は広くない。道路に面した入り口から半地下のガレージのように下がって、その奥にこの日はクラヴィコードが鎮座している。座席は満杯に詰めて40席程度で、この楽器を楽しむには限界のキャパなのね。

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c0060659_16265151.jpg【2013年2月9日(土) 20:00~ カフェ・モンタージュ】
<バッハ&高橋悠治>
●パルティータ第1番変ロ長調 BWV825
●《アフロアジア的バッハ》~「空」「沈む月」
●パルティータ第2番ハ短調 BWV826
●《アフロアジア的バッハ》~「浮き雲」「闇のとばり」
●パルティータ第3番イ短調 BWV827
●《アフロアジア的バッハ》~「煙の渦」「瞬く炎」
●パルティータ第4番ニ長調 BWV828
●《アフロアジア的バッハ》~「さざなみ」「冷たい雨」
●パルティータ第5番ト長調 BWV829
●《アフロアジア的バッハ》~「散る砂」「黄昏」
●パルティータ第6番ホ短調 BWV830
→大井浩明(クラヴィコード)


クラヴィコードは少しスマートな置床、あるいは横倒しにしたAEDケースくらいの木箱です(的確なたとえが思い浮かばない)
発音システムは、撥弦式のチェンバロよりも打弦式のピアノにまだ近い。しかし鍵盤が直接弦を叩くぶん、機構が1段階増えるピアノに比べると打鍵がストレートに伝わる面白さがある。そして音量は極小。かつ、速やかに減衰して空気に溶ける。

c0060659_16503094.jpg

このブログにたまに登場しているオルガニストの友人は、かつてチェンバロ、スピネット、クラヴィコードを自室に隠し持っていて、仲間うちの深夜の語らいの合間に、われわれは彼のクラヴィコードを聴いたりしたものだ。

友人が早く入場し席を確保してくれたため、幸運にも最前列かぶりつきの栄誉に浴することになった。筐体からの距離はわずか2メートル。そこへ怪人(と書くのをどうかお許しください)大井浩明氏が悠々とやってくる。プロの演奏家によるクラヴィコードはこれが初体験で、どんな聴こえ方になるのか想像がつかない。

大井氏は、彼が展開している現代音楽シリーズ「POC」のために東京の音楽シーンではややもすると現代音楽専門家のように見なされがち。でもこのひとのライヴを初めて聴いたのがスクエアピアノによるベートーヴェンの《テンペスト》だった僕は、数少ない古楽とゲソのハイブリッド者のひとりとして氏を捉えてます。

+ + +

この夜、バッハの巨大な世俗山塊であるパルティータを聴いて、僕は改めて大井氏の豊かなセンスに魅了された。

まず、適切で必要十分なリズム感覚。舞曲の集合体であるパルティータは、動きのないリズム感で塗り潰すと実に退屈な音楽に堕ちる。昔取った通奏低音の杵柄で少し慎重に聴いたりもしたんだけど、大井氏のサラバンドやジーグ、クーラントは完璧にハマっていた。恐れ入る。
欲を言うなら、できればリピートありの演奏で大井氏がどんな装飾づけをするのか聴いてみたかったが、それでは終演が軽く0時を超えてお客さんがみんな帰宅できなくなっちまうので、仕方がない(笑)

そして、楽器の特性を活かしきることによる色彩感覚。パルティータが曲者なのは、舞曲じゃないナンバーも、あるいは舞曲のかたちをしていても内容物が巨大すぎて舞曲の殻をぶち破っているナンバーも、そこに混入している点だと思うんだよね。
たとえば第2番のシンフォニア第4番の序曲、ジーグ第6番のコレンテなどは、ほとんど管弦楽を想定したかのような幅広い音色を要求しているのだけど、チェンバロでそれを実現させるのは実は至難のわざ(パルティータにモダンピアノの名録音が多いのはこのためじゃないかと)。そして…クラヴィコードはモダンピアノ以外にこの音色絵巻を実現しうる唯一の鍵盤楽器だったりするわけだ。

この日の大井氏は、ダイナミクスを自在に付けられるクラヴィコードを用いて、左手でB.C.ファゴットやヴィオラやティンパニ、右手でオーボエやヴァイオリンやトランペットをそれぞれよく想起させる音を実現。このシンフォニックな箱庭!全能の小器械クラヴィコードの音が、夜の京都のしじまに次々と溶けて消えてゆく!

+ + +

素晴らしい演奏実践と、終演後にオーナーの高田氏がお客みんなに振る舞ってくれた赤ワインに気分を良くしたわれわれ。その後、カフェ近くのイタリア料理店「クァルテット・コルサーレ」に突入し、すっきり系白ワインと美味しい魚介料理に舌鼓を打ちつつ、終電がなくなるまで音楽話に花を咲かせたのであった。

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(※入店時に入れ違いで、某有名ヴァイオリニストご一行に遭遇したのが愉快な思い出になった。ご贔屓にされてるらしい。)
# by Sonnenfleck | 2013-02-10 17:21 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]スダーン/東響 第600回定期演奏会@サントリーホール(5/26)

8ヶ月ものの古漬け。発酵してます。

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c0060659_21223035.jpg【2012年5月26日(土)18:00~ サントリーホール】
<マーラーのリート・プロジェクトその2>
●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調 K385《ハフナー》
●マーラー:交響曲《大地の歌》
→ビルギット・レンメルト(MS)
 イシュトヴァーン・コヴァーチハーズィ(T)
⇒ユベール・スダーン/東京交響楽団


前半のハフナーがあまりにも名演で、気分が高揚してしまったのが記憶に残る。
アーティキュレーションの隅々までピリオドのスパイスを利かせつつも重厚な拍節感が保たれているので、あたかもカール・ベームの古い録音のような「格調高い」空気も感じるのが面白かった(東響の音色ともよく合致)。この交響曲の様式はたとえばプラハや第39番とはかなり違っているので、これはフツーにアリだよねえ。

+ + +

後半は「連作歌曲集」としての大地の歌が、より鮮やかにフォーカスされる。
スダーンとオケはきびきびした歩みが全編にわたって特徴的。歌い手がいない隙間は、歌い手の不在を補完するように濃密なテクスチュアが採用される。そして歌い手が舞い戻ると「織り」がサッと薄くなるのである。

当然のことながらそれはスコアの要求でもあるはずだが、ベートーヴェンやブルックナーと同じようにマーラーのシンフォニーを集中的に録音している指揮者たちでこの「歌曲集」を聴くと、意外にもそうした趣は感じられないんである。みんなこれを「交響曲」として捉えるということだが、スダーンはそうしなかったというわけ。

加えて、楽章間の連関があまり重視されないのも面白い。《美について》と《春に酔える者》などは濃厚なお化粧が施された結果、独立したオーケストラリートのように変貌する。そしてこうした処置は、バーンスタインの得意技でもある。。
# by Sonnenfleck | 2013-02-07 21:23 | 演奏会聴き語り

[感想文の古漬け]ゲルギエフ/マリインスキー劇場管弦楽団来日公演@所沢ミューズ(11/18)

古漬けのなかでも比較的漬かりが浅いほうから。。

晴れた休日の午後に所沢に向かう西武新宿線の車窓が、たまらなく好きなんだよね。
あの変わりばえのしない多摩の平和が、この路線に凝縮されてると言っていいだろう。年に数回の所沢ミューズ遠征のお楽しみ。 ミューズのロケーション、航空公園駅から広い道をてくてく歩いて15分というのも好い。

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c0060659_238641.jpg【2012年11月18日(日) 15:00~ 所沢ミューズ・アークホール】
●グリーグ:組曲《ホルベアの時代から》
●ブラームス:交響曲第2番ニ長調 op.73
●ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14
 ○ベルリオーズ:ラコッツィ行進曲
⇒ヴァレリー・ゲルギエフ/
 マリインスキー歌劇場管弦楽団


ゲルギエフ。これまでの音盤やエアチェックから判断すると、彼が得意でしっかりモノにしている作品とそうでない作品との演奏の差があまりにも著しく、そこがちょっと不思議な指揮者です。
そんな印象も手伝って、ライヴではあんまり聴いていません。これがたぶん、2003年に読響とベルリオーズのレクイエムをやったとき以来の生ギエフ。あのときはサントリーホールの1階前方の席で、指揮者の汗が飛んできそうな熱演だった。この日はアークホールの3階正面に座る。

まず組曲《ホルベアの時代から》
小さく刈り込んだ編成の弦楽合奏の前にゲルギエフが立つと、実はこの日いちばんの予想覆しが。小体でふあふあと柔らかくまとまった、たとえばルドルフ・バウムガルトナーのような感触の響きがホールに流れ出したんである。
彼の中にある「ぼくのかんがえたりそうのようしき」で作品を整えることに成功すると、自信たっぷりの、文句の付けようがない音楽が生み出されるのだ。ゲルギエフを全面的に評価している人たちはこれが好きなんだろう。これならわかる。。

で、2曲目のブラ2は急に自信のない、へなちょこの演奏になってるんだなあ。
ブラームスは怖い。世界で一流のマエストロのひとりと目されている人物でも、準備や理解に不足があると全然料理にならない。彫り込みの浅い習作みたいなブラームスもどきを楽しめるほど、僕はゲルギエフを愛していない。

でも今日のゲルギエフは、ブラ2なら表層的にぴたりとはまるであろう過激なドライヴ感を封印してたのです(僕らが「ゲルギエフに期待する」ようなアレです)。培養中の「りそうのようしき」が彼のなかで熟成されて、いつか僕たちの前に出てくる前兆として捉えたいと思う。

そして休憩を挟んだ幻想交響曲は、極上のエンターテインメント!
ホルベア組曲と一緒で、やっぱり彼は一度モノにしてしまうととてつもないパワーを発揮して、全身から音楽を放射するような演奏を仕上げてしまう。こういうところは天才なんだなあ。
第2楽章の、絢爛にして遠くが見渡せないほど巨大なワルツ。鮮やかすぎて酔いそうなくらいの演奏実践だったことよ。得意なんだなあゲルギエフ。本当に。

+ + +

このあとゲルギエフはどうなっていくんだろう。
作品の消化は彼のなかで進んでいくんだろうか。彼の理想のベートーヴェンやブラームスが完成するまで幾度失望させられるかわからないけれど、そっと頭の片隅に置いておくくらいのことはしたいと思う。
# by Sonnenfleck | 2013-02-04 23:10 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・歌舞伎座のクラシック者]その一の下 壽 初春大歌舞伎@新橋演舞場(1/26)

「その一の上」から続く。

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c0060659_22335074.jpg【2013年1月26日(土) 11:00~ 新橋演舞場】
<壽 初春大歌舞伎>
●一、 寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)
→三番叟 中村梅玉
 千歳  中村魁春
 附千歳 片岡進之介
 翁 片岡我當
●二、 菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)~車引
→梅王丸 坂東三津五郎
 桜丸  中村七之助
 杉王丸 坂東巳之助
 金棒引藤内 澤村由次郎
 藤原時平公 坂東彌十郎
 松王丸  中村橋之助
●三、 新古演劇十種の内 戻橋(もどりばし)
→扇折小百合実は愛宕山の鬼女 中村福助
 郎党右源太 中村児太郎
 郎党左源太 中村国生
 渡辺綱 松本幸四郎
●四、 傾城反魂香(けいせいはんごんこう)~土佐将監閑居の場
→浮世又平後に土佐又平光起 中村吉右衛門
 女房おとく 中村芝雀
 狩野雅楽之助 大谷友右衛門
 土佐修理之助 中村歌昇
 土佐将監 中村歌六
 将監北の方 中村東蔵


3 観てみた&聴いてみた
今でも「ハイライト集」の上演が続いている歌舞伎の世界。こういうスタイルってクラシックではもう廃れたけど、こっちのほうが客席の欲望に忠実と言えるんだろうねえ。
そして音楽やダンスは4演目ともばらばら。これが歌舞伎感想文の難しさを助長している。丁寧に書くと長くなるし、知識を前提にすると歌舞伎ファン以外には途端にわかりづらくなってしまう。。仕方がないので地道に書いていきます。

(1)寿式三番叟
おはなし
まずこれは20分くらいの全曲上演。能「翁」から派生した演目なので、ストーリーはあってないようなもの。歌舞伎では翁と千歳、三番叟に附千歳の4人が鳴り物付きで踊る舞踊に変化している。

伴奏と役者と踊り
この演目では、舞台奥の台に13人の大オーケストラ+7人のコロスが座っていて、その重厚な伴奏で4名が舞う。三味線が7人もいると圧巻だが、どうやらコンサートマスターみたいな「首席三味線」がリードして合奏を行なっていました(このオーケストラは囃子連中、と呼ぶみたい)
さらに面白いのは、小鼓や大鼓、笛以外の打楽器。バスドラムやトライアングル、グロッケンシュピールみたいな音のする打楽器は舞台の上におらず、袖のほうでドンシャラやってるんだよね。この差は何。能から派生しているからなのか。

歌舞伎の舞いは、僕には「舞い」じゃなく「踊り」に見える。「舞い」にないあざとさや外連味、クールな肉体さばきは、歌舞伎の芸能としての矜持だと思います。その意味ではチャイコフスキーなんかのバレエとそんなに遠くない。

で、コロス(長唄連中、でいいんだろうか)が唄う歌詞。
今月の初めに国立能楽堂で素謡「翁」を聴いたばかりで、同じ歌詞が使われながらもあまりにも異なる歌舞伎の様式に驚きを隠せない。たとえるなら「Veni Creator Spiritus」というラテン語歌詞を持つヒルデガルト・フォン・ビンゲンの聖歌と、同じ歌詞のマーラーの交響曲第8番第1部と、これらの差を思い起こす。

(2)菅原伝授手習鑑~車引
おはなし
菅原道真と藤原時平の政争を土台にしたすっげえ長い演目から、3兄弟が敵味方に分かれてケンカする幕を抜粋。時平も出るでよ。
寿式三番叟は舞踊だったけれど、この演目以降はすべて劇です。

伴奏と役者と劇
さて伴奏。急に小編成になるのが可笑しい。地の文を唄うエヴァンゲリスト的ナレーター・浄瑠璃と、それを伴奏する三味線のたった二人が、基本的に全編を前に進めていく(三味線の通奏低音チェンバロ感がすごい)。浄瑠璃のディクションは明快のひと言なので、字幕なんかなくたって問題ない。

坂東三津五郎・中村橋之助・中村七之助という、歌舞伎ファンでなくても知っている著名な俳優陣を間近で見る。これがまずミーハーな楽しさとして確かに存在する。
で、よく眺めていると、彼らの肉体とそこから繰り出される所作、江戸弁と古い口語の混合する台詞捌き(能と違って役者は「唄」わず語る)があまりにも美しくてついつい引き込まれてしまうんである。やっぱりかっこええ。

劇は3兄弟がそれぞれのボスによって引き裂かれているという鉄板の設定。そして後半で時平が現れて睨みを利かすシーンは、マンガやRPGの前半でラスボスが出てきて主人公たちを圧倒する作劇法の先祖みたいな感じで、妙にしっくりくるのよな。

(3)戻橋
おはなし
河竹黙阿弥作。鬼が夜な夜な人を攫うと噂の一条戻橋。通りかかった渡辺綱は、独り歩きの妙齢の女性を守って家まで送り届けようとするが、その女性こそ鬼だった、というこれまた鉄板のパターン。最後は渡辺綱に腕を切り落とされた鬼が、黒雲の彼方に飛び去るというワイヤーアクションも見もの。

伴奏と役者と劇
オーケストラは1st2nd3rd三味線の3名のみ。これに加えて、能の地謡のように地の文を担当する3名の唄い手が、舞台上手の台座に座ってる。作品によって伴奏のスタイルがあまりにも異なっていて混乱するなあ。。
三味線は原則的には3声部ユニゾンが多いんだけど、ときどき和音を発生させることにもこだわっているようなんだよね(内声である2nd三味線とかがキーマンっぽい)。謎の音楽だ。三味線の巧拙なんてこの先もわかる気がしない。。

それでです。この演目で、僕は歌舞伎の重大な魅力にとりつかれてしまったようだ。
それは、女形・中村福助が演ずる「扇折小百合実は愛宕山の鬼女」の凄まじいエロス。一流の女形は、女性なら無意識的に行うことができる仕草や表情を、実物の何倍にも増幅して客席に放射するんだなあ。手足の指先から頭のてっぺんまで、毒々しいくらいの女性性
女性は観ていて気持ちが悪くないのだろうか、、と勝手に心配するのだが、僕らはケルビーノやオクタヴィアンを聴いて楽しめるんだからあんまり関係ないのかな。。

(4)傾城反魂香~土佐将監閑居の場
おはなし
近松門左衛門作。絵師・土佐将監に師事する吃りの又平。弟弟子に栄達の先を越された悲しみのあまり又平は自害しようとするが、妻おとくの懇願で、生涯最後の作品として庭の手水鉢に自画像を描く。すると奇跡が起こり、手水鉢の反対側の面に自画像が透けて現れる。その一部始終を見ていた将監は又平に土佐の苗字を与える。歓喜する又平とおとく。

伴奏と役者と劇
今度のオーケストラは三味線2本のみ。エヴァンゲリストたる浄瑠璃がストーリーを進め、舞台の上の役者たちもよくしゃべる。

中村吉右衛門の又平。魯鈍な表情とトロい身のこなしを演じ、セリフも吃りまくりでほとんど何を言っているのかわからない。もっとも彼の巧妙さを感じさせたのは将監から苗字を許されたときの「笑い泣き」の演技で、歓喜が極まった大笑いから嬉しさのあまりの男泣きへ、完璧にシームレスな移行を果たしていた。これが人間国宝の至芸なのか。。

そして中村芝雀のおとく。前の演目で女形のエロスにKOされていた僕はもちろんこの役者さんをしっかり観たのだが、中村福助の若々しい官能とはまた一味違った秋の落ち葉のような情感に、涙が出てくるのであった。歌舞伎に泣かされるとはねえ。周囲の善男善女もみんなまなじりを拭ってました。

この演目は昼の部のトリだけあって長大だったが、退屈とは無縁だった。他愛もないプロットだけど、破綻はしていない(少なくとも日本人の僕としては無理のない展開に思える)。これはトンデモなストーリーを音楽の力で無理矢理つなぎとめているオペラと異なるんだなあ。

4 クラ者の雑感
・歌舞伎は全般的に19世紀オペラに似ていたけど、台本に感じる納得感が善い。オペラは劇として楽しむには台本がひ弱なことが多いし、歌入りの器楽として楽しむには台本が主張しすぎる。歌舞伎は(もちろん例外もあるんだろうけど)まごうことなく言葉と音が統合された歌劇だと思う。これは非常にショックです。

・能でも思ったことだけど、終演後の拍手が恐ろしくあっさりしている。これがクラシックのマナーともっとも異なる点だろうなあ。これだけの長丁場で、最後の演目も感動的、しかもこの日は千秋楽なのに、一般参賀どころかカーテンコールすら起きないんである。みんなこの昂った気持ちをどこにぶつけてるの??

+ + +

これが歌舞伎かー。おもしれー。
# by Sonnenfleck | 2013-01-31 22:38 | 演奏会聴き語り

[不定期連載・歌舞伎座のクラシック者]その一の上 壽 初春大歌舞伎@新橋演舞場(1/26)

歌舞伎は謎の存在だった。

TVで観ていると見かけはオペラのようでもあり、伴奏音楽の大部分は三味線が君臨するジャパニーズな音響、役者の所作は客観的に見ても独特すぎる、上演中にも関わらず「中村屋!」「成田屋!」とかいう謎の掛け声が飛んでいる、客席は客席でお金持ちの和装おばはん連中ばっかりっぽい、必ず幕の内弁当を買わなきゃいけないような気がする、チケットの買い方もよくわからない、もう!

でも、ここ数ヶ月で能にはまり込んでからは歌舞伎への興味も少しずつ高まってきていた。能という巨大な岩盤の上に歌舞伎や文楽が繁栄しているのであれば、それらも確認しなくちゃならない。

+ + +

c0060659_5524249.jpg【2013年1月26日(土) 11:00~ 新橋演舞場】
<壽 初春大歌舞伎>
●一、 寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)
→三番叟 中村梅玉
 千歳  中村魁春
 附千歳 片岡進之介
 翁 片岡我當
●二、 菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)~車引
→梅王丸 坂東三津五郎
 桜丸  中村七之助
 杉王丸 坂東巳之助
 金棒引藤内 澤村由次郎
 藤原時平公 坂東彌十郎
 松王丸  中村橋之助
●三、 新古演劇十種の内 戻橋(もどりばし)
→扇折小百合実は愛宕山の鬼女 中村福助
 郎党右源太 中村児太郎
 郎党左源太 中村国生
 渡辺綱 松本幸四郎
●四、 傾城反魂香(けいせいはんごんこう)~土佐将監閑居の場
→浮世又平後に土佐又平光起 中村吉右衛門
 女房おとく 中村芝雀
 狩野雅楽之助 大谷友右衛門
 土佐修理之助 中村歌昇
 土佐将監 中村歌六
 将監北の方 中村東蔵


1 チケットを買ってみた
Twitterで先達に教えていただき、デビュー戦に選んだのは新橋演舞場の「初春大歌舞伎」。今年は1月2日から3週間以上、昼の部と夜の部を毎日繰り返していて、僕が買ったのは千秋楽26日の昼の部。初心者にもわかりやすく華々しい演目が多いというアドバイスによった。

東京では、

・歌舞伎座 ※リニューアルにつき閉館中
・新橋演舞場
・国立劇場
・その他(浅草公会堂、日生劇場などを借りて)

というあたりが歌舞伎の会場であり、このうち国立劇場以外は松竹が運営。チケットはチケットWeb松竹で簡単に買える。ちなみに国立劇場はこちら

デビュー戦でもどかしい思いをするのは自分のなかに遺恨を残すので、思い切ってサントリーやオペラシティならS席に相当する1等A席、1階の7列目を購入してみたのです。16,000円也。でもオペラに行くと思えばむしろかなり安いんだよね。これ。どうせ休憩も含めれば4時間くらい座ってることになるし。

2 出かけてみた
今回の会場は新橋演舞場。東銀座駅と築地市場駅の間くらいの、いかにも江戸港湾部っぽい場所に建っている。
建物入口でチケットをもぎって入場すると1階ロビー。お弁当や飲み物、プログラムを売る売店が所狭しと並んでいる姿は…これはNHKホールとよく似てる。NHKホールのなかにある露骨な売店や自販機が許せないとかいうクラヲタがいますが、あれはこういう施設から派生しているんだろうからむしろ正統!

座席はちゃんと椅子である。畳敷きとか枡席だったりはしない。暖色をベースに非日常が広がっている様子は、能楽堂よりはクラシックのホールに近いです。おそらく新しい建物ではないけれど、公共の施設じゃないから高級感の追求には余念がない。

客層は能を少しチャラくした感じ。つまり「≒バレエ」である。おばはんたちが主流ではあるものの、家族連れもいれば若い男女もいるし、じいさんたちも多い。そしてクラシックではマジョリティの40~50代のおじさんお一人さまが、ここではマイノリティ。

あとお弁当ね!みんな買って持ち込んでましたよ!
この日は二番目と三番目の演目の間に30分の休憩があって、そこで各自食事をする。みんなまた楽しそうになんだよねえこれが。新国立劇場のバーコーナーで高いシャンパンを啜っているお客と、どっちが幸せなのかはわからない。
僕は事前にコンビニで買っておいたカツサンドと、デザートに大福を食べました。サントリーホールでお弁当をぱくついてたら係員がすっ飛んでくるよねえ。この愉快な違和感!

+ + +

さて前段が長くなりすぎたので、ここでいったん筆を置きます。
鑑賞してどうだったかは、続き(その一の下)をご覧ください。
# by Sonnenfleck | 2013-01-29 06:21 | 演奏会聴き語り

インバル/都響<新・マーラーツィクルス>その5@東京芸術劇場(1/20)

c0060659_23334721.jpg【2013年1月20日(日) 14:00~ 東京芸術劇場】
●モーツァルト:Fl協奏曲第2番ニ長調 K314
→上野由恵(Fl)
●マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団


くどくどと感想を書く気になれない音楽会。
僕はインバルの全面的信奉者じゃない。しかしインバルに率いられた今の都響が一段階ステージを上がってしまったのは間違いなかった。こういう演奏は好き嫌いの次元で語ってはいけない気がする。

都響マーラーツィクルスの5回目。僕が聴いた芸劇公演は3度演奏されるマラ5のうちの第2回目だった。
白眉は第1楽章と第2楽章。インバルは粘り気を込めつつも違和感のない(もうちょっと言うならベタな)フレージングを全面的に採用していたけれど、縦の一瞬一瞬ではまさに痺れるような音響を作り出していた。特に弦楽の内声・管楽器たちの音色に対する優れたこだわり、マーラーに必要な、切なげに甘えるような音色を実現するセンス、これに恵まれて失敗するわけがないんである。

僕は今回芸劇のRB1列、つまり舞台直上に座ったのだけど、第2楽章に顕著なユダヤっぽいメロディの瞬間のインバルは、恍惚として鼻歌を唄いながらVaやVc、Clにねっとりとした指示を出していた(ちなみにこの席は芸劇のなかでもっとも好い音がする場所と思う)。その結果として都響が啼く。その音響はである。
繰り返すけどこういうマーラーは苦手だ。でもあの響きを評価しないなんて許されない。矢部コンマスの鬼神のようなリードも忘れがたい。

アダージェットがドライだったのも違和感がない。こういうところでインバルが見せる醒めきったバランサーとしての姿は「敵ながらあっぱれ」という感じ。

むろん終演後は凄まじいブラヴォの嵐。僕の席はだいたいステージ上と同じような聞こえ方がしていたはずで、楽員さんたちの喜びと驚きの表情もよくわかる。最後はインバルの一般参賀→インバルがTp高橋首席の手を引っ張って一般参賀その2→さらに矢部コンマスまで捕まえてきて一般参賀その3、という大盛り上がりなのであった。

+ + +

この公演の前日、マーラーツィクルス後期セット券を購入した(本当は芸劇がよかったけど、諸々の事情からみなとみらい)。後期交響曲はインバルの大きくてふてぶてしい自意識をがっしりと受け止めるのだから、これを聴き逃すわけにはいかないんだよね。ただ多くの人たちがそのように考えたみたいで、1回券がほとんど発売されないかも、という回もあると聞いている。。

みなとみらいはベルティーニのマーラーをたくさん聴いた思い出のホールだけど、いつまでも彼の思い出のなかに生きるわけにはいかない。今のハイパーな都響を、きっとベルティーニもにこにこして見つめているだろう。
# by Sonnenfleck | 2013-01-27 00:08 | 演奏会聴き語り

メッツマッハー/新日フィル 第503回定期演奏会@すみだ(1/12)

c0060659_9333315.jpg【2013年1月12日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
●J. シュトラウスⅡ世:《ウィーンの森の物語》op.325
●ヤナーチェク/マッケラス:《利口な女狐の物語》組曲
●R. シュトラウス:アルプス交響曲
⇒インゴ・メッツマッハー/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


メッツマッハーを聴くのはこれが初めてではない。前にもどこかで書いたかもしれないけど、2004年に、ペーター・コンヴィチュニー演出の《モーゼとアロン》をハンブルクへ観に行ったことがあって、そのときにタクトを執って異様に鮮やかな音楽を聴かせてくれたのがインゴ・メッツマッハーでした。これまでの新日客演はタイミングが悪くて聴き逃しちゃったけど、ついに9年ぶりの再会。

+ + +

この日のプログラムはすべて、作曲家が自然を解釈して生まれたはずの作品だったのだけれど、メッツマッハーは不敵にも、何かの描写を一切行わなかった。客席が自然を想像するための補助線としての表情づけや音色効果が、ない。

その作業はまず《ウィーンの森の物語》を、ヨハン・シュトラウスの「交響詩」のようにしてシンフォニックに仕立てることから始まった。
先月、僕はハーディングのショスタコーヴィチを聴いて、マッシヴな迫力を感じさせないのが新日の個性だと書いた。でもメッツマッハーは、冒頭から全力でゴリゴリした響きを生み出そうとしている。そしてそれが上手くいっている…!驚いてしまった。いつもの新日の音と全然違うのだから。

ともすると緩やかに「和し」がちなこのオーケストラを、鮮やかに分離させることで「主張」のぶつかり合いに導いている。ゴワゴワした織物になるけど、そのゴワゴワがダイナミックに揺れ動く愉悦は、たぶんこれが19世紀音楽のひとつのあるべき姿なんだと思うんである。
メッツマッハーの指揮姿には、彼のやりたいことがストレートに表現されている。彼が考える交響的ワルツは、豪快に跳ねたり伸縮したりする。オケもちゃんとついてきてる!

利口な女狐組曲は、さらに一歩進んで構築されている。ヤナーチェクのなかに埋まっている都会性を、ヨハン・シュトラウスからのシームレスな展開でちゃんと炙り出しちゃうんである。ヤナーチェクの青春はブルノという工業都市にあったということを忘れてはならない。
まさに小股の切れ上がったヤナーチェク。組曲のあちこちに浮かび上がる器械的リズムは、ビストロウシュカを未来主義的女狐として華麗に変化させている。どんどん先に流れていくのだ。こんなヤナーチェクがあったっていいんだよね。

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そしてアルペン。これも見事のひとことでした。
あえて無理やりに登山に例えるなら、タイムアタックトレッキング。実際の所要時間はほかの数々の演奏と大して違わないんだろうけど、体感する音楽の流れの速いことといったら!流麗だ!
そして(前半のプログラムを聴いていてもよくわかったけど)メッツマッハーは各パートの統合じゃなく、分離の良さを第一に考えている。オーケストラの100人が、100通りの軌跡で横に展開していくんだよね。穏やかにまろやかに統合された響きは、別の指揮者に求めよう。これは、すべての楽器がコンチェルティーノになりうる、リヒャルト・シュトラウスのコンチェルト・グロッソだった。

過去の《モーゼとアロン》では感じ取れなかったメッツマッハーの重要な美質として、この日のアルペンは「横の流れへの鋭敏な感覚」を気づかせてくれた。

それは、こういうふうに横方向に豊麗かつ急速な流れができる指揮者、たとえばマルケヴィチやベイヌムに通じる美質。ハイパーな解像度で。僕は聴きに行かれないけど、今日のサントリーのブルックナーは必ず面白い演奏になる。
# by Sonnenfleck | 2013-01-19 09:34 | 演奏会聴き語り