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アンドレアス・ショル リサイタル@武蔵野市民文化会館(10/12)

【2013年10月12日(土) 19:00~ 武蔵野市民文化会館小ホール】
●ハイドン:絶望、さすらい人、回想
●シューベルト:ワルツ op.18-6*
 林にて D738
 夕べの星 D806
 ミニョンに D161
 君は我が憩い D776
●ブラームス:間奏曲 op.118-2*
●モーツァルト:すみれ K476
●ブラームス:《49のドイツ民謡集》~
  かわいいあの娘は、ばらの唇
  今晩は、ぼくのおりこうなかわいこちゃん
  我が思いの全て
  下の谷底では
●シューベルト:丘の上の若者 D702
●モーツァルト:ロンド ヘ長調 K494*
●シューベルト:死と乙女 D531
●ブラームス:《49のドイツ民謡集》~
  かよわい娘が歩いて行った
  静かな夜に
●モーツァルト:夕べの想い K523
○イダン・レイチェル:静かな夜に
○イギリス民謡:恋人にリンゴを
→アンドレアス・ショル(C-T)+タマール・ハルペリン(Pf*)


武蔵野文化会館はわが庵からぎりぎり徒歩圏内なのだが、何しろ大事な公演が平日に集中するので、真面目に会員になってチケットを押さえる気にはなりません。
それでも年に数回は、こうしてどうしても聴きたい音楽会が週末に開催されたりするので気が抜けない。八方手を尽くして、カウンターテナーのスター、アンドレアス・ショルのリサイタルに足を運びました。

+ + +

ショルを初めて生で聴くのにバロックではないことについて、当初、全く不満を覚えないではなかった。バッハやヘンデルで彼が聴かせる完璧な歌唱を(それから伴奏をつける活きのいいバロックアンサンブルたちを)CDで楽しんできたのだから、これは仕方がないと思う。
でもタマール・ハルペリンとの19世紀リートプログラムに、この夜、僕は打ちのめされたのだった。

まず、何を措いてもシューベルトです。
「カウンターテナーの」という形容詞を、僕たちは無意識に欲する。それは彼らが歌うリートが表層的にはソプラノやテノールのリートとは異質な様相を呈するからだけど、硬い表層に守られて蠢くシューベルトの深淵に一度到達してしまうと、「声の種類」なんていうのは実に大したことのない問題に成り下がる。むしろ、シューベルトの硬い表層は、カウンターテナーの異質性によっていとも簡単に破られる、と書くべきかもしれぬ。ある種の劇的な薬品が染みわたるように、化学反応が起こっているから。

ショルのディクションは、よく聴き慣れた彼のバッハやヘンデルとは少し違っていた。ほんのわずかに均整が崩れて、深々と絶望するような浪漫が灯る。人間らしさに声が湿る。
そのような美しいドイツ語で実践されたシューベルトは、ほんの瞬間的な違和感の直後、そのでろでろとした深淵を覗かせる。これは恐怖であった。《ミニョンに》もだし、《丘の上の若者》も。…《死と乙女》で乙女パートと死神パートを歌い分けたのは、ファンには面白くても、少し表面的な試みだったかもしれないけれど。

そしてモーツァルトのとき、声が急激に乾いてからりと明るいディクションになったのは、まさに聴き逃がせないポイントだったと言える。僕がよく知っているショルの発音実践はこちらだったからだ。

+ + +

ただしこの日、ショルのコンディションはどうやら万全ではなかった。第一声に僅かにスモークされたような香りがあり、こんなものかなあ年取ったのかなあと思っていたら、前半のあちこちで「…ェヘン」「…コホ」と小さな咳払いを確認。
最後のブラームスではついに歌いながら咳き込んで、一時的に演奏がストップしてしまうという珍しくも気の毒な事態に。それでもすぐさま体勢を立て直せるのはプロだなあと思う。

サイン会のときにお大事に、と声を掛けたら、深く息を吸い込むとどうしてもネ、みたいな反応だった。身体が楽器であればこんなこともあるよね。今度は万全な状態で彼の美声を楽しみたいものです。
by Sonnenfleck | 2013-12-01 09:32 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン・プロジェクト第4夜|新日フィルのシューベルト三態@すみだ(4/15)

c0060659_238152.jpg【2013年4月15日(月) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第4夜:シューベルト>
●交響曲第5番変ロ長調 D485
●交響曲第8番ハ長調 D944《グレイト》
 ○劇付随音楽《ロザムンデ》D797~間奏曲第3番
⇒フランス・ブリュッヘン/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


飛び去ったとんぼの影を追いかけて、追いかけちゃならないようにも思ったけれど、来てしまった。すみだ。
当日券で1階7列目中央ブロックに座る。そこが当日残っているくらい、お客さんの数は少ない。18世紀オケの3公演の後では仕方がないのかもしれないが、新日と公演の順番が逆だったら果たしてどうだっただろう。

オール・シューベルト。
前半の第5番は僕にとってはプラスの方向に評価するのが難しい演奏だった。遠くに飛び去ったとんぼの、そのまた影を眺めるようなもどかしさ。
極薄に刈り込まれたアンサンブルがなんだかヒリヒリして、あの優しい第5番が立ち上がるのに必要なふあっとした実体がなく、荒涼としたランドスケープが広がっている。弦楽隊のみんながボウイングの伸びやかさを抑えこまれ、ガチガチに凝り固まったフレーズの断片が風に揺れるばかり。このコンビが18世紀オケと同じ響きになるわけがないのだけど、でもハイドンやベートーヴェンツィクルスのとき以上に、枯れた花のような音楽になってしまっていた。

求めていたのはこれじゃないのだ…!と強く感じつつ、いっぽうで、これは00年代ブリュッヘン好みの北極点だったのではないか?という思いもある。18世紀オケの《未完成》はオケのメンツが此岸で踏ん張っていたんだなあ(ちなみにGlossaの新ベートーヴェン全集も、ああなるぎりぎり一歩手前みたいな演奏です)。リコーダー仙人がひとりで踏み込んでしまうと、こうなるのかもしれない。

+ + +

後半もこんな演奏だったらどうしよう…と思った僕を、ブリュッヘンはその音楽で温かく平手打ちにした。

僕はこれまで、ブリュッヘンと新日フィルのコンビネーションに対して、どこかで18世紀オケの影を重ねようとしてきた。ないものをねだるようにして。でもついに新日フィルは、新日フィルの特徴的な響きのままブリュッヘンの文法講座を修了し(あるいは習得に限りなく近づき)、その卒業演奏を僕たちに聴かせてくれたのだ。「守破離」で言ったらこの夜が間違いなく「離」だった。

硬く凝縮した第5番から一転し、単純に舞台上の人数が増えたことだけでは説明できないような響きの広がりが、第1楽章の序奏から徐々に生まれてくるのを観測していく。しかもその文法は弦楽器の側からアーティキュレーションに細心の注意を払わせた公平なバランス、つまり18世紀オーケストラと同様ながら、響き自体はたしかに少し腰高で細身の、あの新日フィルの音によって担われている。
これがどれほど単純で複雑なパフォーマンスであることか。2005年からの、8年越しの音楽文法講座の集大成である。

全編にわたって恐ろしく燃焼した演奏だったけれど、特に真ん中の2つの楽章はブリュッヘンのコントロールがよく効いていたように思われた。

まず第2楽章。僕はたしかにここでマーラーの子葉を聴いたのだけど、それはシューベルトのなかの古いウィーン性みたいなものが胚乳として利用されていたからに相違なく、その(ビーバーやフックスから流れてきているはずの)古いウィーン性は、ブリュッヘンが指示する管楽器の特徴的な厚みや強いアクセントによって増幅されている。それを養分に子葉が別の進化を歩むと、あのアンコールで示されたヨゼフ・シュトラウスになるのだろう。
最後の和音はとても整ったメッサ・ディ・ヴォーチェ。ブリュッヘンが新日フィルを「吹いて」いるようで、胸が熱くなる。

そして第3楽章。あの美しいトリオで自分は涙腺が壊れたようにだぼだぼ泣いたのだ。大編成の弦楽隊はパートとパートの間で静かな対話を繰り返しつつ、そこに対峙する木管隊はメリーゴーランドのように多幸感をきらきらと放射する。それらはどこまでも公正なバランスに乗って届いた。

第1楽章第4楽章は新日フィルの想いが昂ぶって、たいへん熱い演奏だった。ブリュッヘンも「しぃーっ」ていうやつをやっていなかったから、想いに応えていたのかもしれないです。豊嶋コンマスの渾身のリード、すごかったな。僕はプロのコンマスがあれほど気持ちを全身に乗せて弾いている姿を見たことがなかったし、演奏後にあれほど魂が抜けてしまっているプロのコンマスを見たこともなかった。

+ + +

アンコールには18世紀オケとの初日(僕は聴けなかった)でも演奏されたという《ロザムンデ》の前奏曲。
典雅な和音が穏やかに並んで生成されていくなかで、老人が指揮台から「クンッ」と軽い指示をコントラバスに飛ばすと、急に音楽の底が抜けて、漆黒の闇が口を開くんである。たいへん恐ろしい瞬間であって、これもずっと忘れないだろう。

その後、ロザムンデの後にもみんな譜面を急いで捲っていたので、どうもアンコールがもう一曲あったんじゃないかという気がしている。しかしブリュッヘンが車いすに座ったまま自分を指さしながら「俺はもう疲れた」みたいに豊嶋コンマスに話しかけて、そのまま解散となったのだった。
でも、これでよかったように思う。最後のアンコール曲は、もしかしたらあの最初のラモーの再演だったかもしれないし、あるいはまたバッハやシュトラウスだったかもしれないけれど、寂しく輝く美しいロザムンデが、最後に強い「。」ではなく余韻のある「―」を置いて、そうして中空に消えていった。
by Sonnenfleck | 2013-04-23 23:17 | 演奏会聴き語り

ハーディング/新日フィル 第497回定期演奏会@すみだ(7/7)

c0060659_22122948.jpg【2012年7月7日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●R. シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》op.40
⇒ダニエル・ハーディング
 /新日本フィルハーモニー交響楽団


生でもネットラジオでも、聴くたびに印象が変わってしまって、そのへんが扱いに困るハーディング氏。この日の公演では職人的趣味性というか、ギチギチにしろしめす気質というか、彼のそういう側面を特に強く感じさせられたのだった。

+ + +

このまえ目白の永青文庫で、細川家の香道具コレクションを眺めてきたんですよ。ハーディングの「統率」は、あのいともまめやかなるオートクチュールに似て、一切の不随意を排除する。排除して、隙間という隙間を随意の螺鈿で埋めていく。暗いと思われた空白も、実は全面がねっとりと黒漆で塗り固められている。

だからあのシューベルトは、僕には極めて不自然に聴こえた。
シューベルトの演奏にあっては、空気の薄さと靄のような余韻がなにより大事だと僕は思っています。第2楽章の終末に向けて空中分解していく様子など(それが意図された結果であるにせよ、そうでないにせよ)いくつかの演奏ではよく表現されているのを知っているだけに、ハーディングの「統率」の高い完成度は不毛な贅沢としか感じられない。
しかしこのような作り込みに対して、東京のオケでもっとも感度が良さそうなのが、たしかに新日フィルなんである。彼らがハーディングをパートナーに選び、またハーディングもそれに応えたのは、本当に納得のいくところでもある。

《英雄の生涯》は、その点ではとてもよくハーディングの特性と合致する(何しろ初めから隙間のない音楽だもの)
たとえば「英雄の戦場」のきれいな捌きなんかは聴いていて胸がスカッとしたよね。あの部分のほとんどクラスターみたいな混雑した響きを、ショスタコーヴィチみたいなダッサダサのリズムに乗せてするっと解体してみせたハーディングの手腕と、新日フィルの細身のアンサンブルは、なるほどいいコンビ。

ことほどさように、蒔絵小箱やつぶらな香炉のごとき凝縮した予定調和で物事は解決されていくのだから、何を反駁することがあるだろうか。ひとまず、その「誂えられすぎ」を退屈と言い換える必要が出てこない限りは。
by Sonnenfleck | 2012-07-09 22:16 | 演奏会聴き語り

〈エスポワール シリーズ 8〉日下紗矢子(Vn)Vol.2@トッパンホール(7/2)

ベルリン・コンツェルトハウス管(旧ベルリン交響楽団)の第1コンサートマスター・日下さんの帰国公演。まずもってプログラムが好みだし、メルヴィン・タンとペーター・ブルンズもセットとあっては出掛けずにはおれない。佳いシューベルトが聴けるなら、暑いさなかに飯田橋駅からてくてく歩く労も厭いません。

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c0060659_731223.jpg【2011年7月2日(土) 18:00~ トッパンホール】
●シューベルト:ノットゥルノ変ホ長調 D897
●シューベルト:幻想曲ハ長調 D934
●シュールホフ:VnとVcのための二重奏曲
●メンデルスゾーン:Pf三重奏曲第1番ニ短調 op.49
 ○ハイドン:Pf三重奏曲ト長調 op.73-2
       Hob.XV-25《ハンガリー風》~第3楽章
⇒日下紗矢子(Vn)
 メルヴィン・タン(Pf)
 ペーター・ブルンズ(Vc)


この日のプログラムのテーマは「民俗風・民謡風」かなと思われた。ロマン派音楽を19世紀ドイツの民謡とするなら、メンデルスゾーンもなんとか座る。



前半の2曲で、久しぶりにシューベルトの魔に遭う。こういう体験をさせられることが、僕がシューベルトに惹き付けられる理由なのよね。やっぱり大切な作曲家。
ノットゥルノもファンタジーも、生でちゃんと聴くのは初めてのような気がするんだけど、どちらもぽっかりと空いたパウゼや、答えの出ない問い掛けのような切ないゼクエンツが頻発し、調性も不安定で恐ろしい。

日下さんは共感に溢れた真っ直ぐな弾き手という印象。
ファンタジーは実に凄まじい難曲だったが、前半の圧倒的な不安感、民謡風歌曲に擬態した中間部の「何か」、そして後半の錯乱した追い込み、いずれも、僕の胸の裡にまっすぐ飛び込んでくるような歌い口。

美しいもの・悲しいものとは必ずしも言い切れない複雑なシューベルトの歌が、その混ぜこぜになった色々な感情のひとつひとつが丁寧に再現されることで、きれいに紐解かれていく。極端な技巧が要求されている箇所も多かったが、あえて安全運転ではなく、シューベルトの極北の感情を体現するように右手を操っていく日下さんには敬服の一言だった。喝采を浴びる彼女がそれとわかるくらい疲労困憊していたのも、むべなるかなという感じ。

ひょっとしてメルヴィン・タンはフォルテピアノ、ペーター・ブルンズはバロックボウを使ったりするんじゃないかなあと開演前に勝手に期待していて、実際はスタインウェイにモダンボウだったのでこちらの予想は外れてしまったけれども、やはり歴戦の強者の室内楽はシンプルに気持ちいい。特にタンの軽い指捌き、繊細なルバートにはまったく惚れ惚れしちゃうのだ。



シュールホフとメンデルスゾーンでは、前半の硬質な音色から変わってちょっとリラックスした日下さんの音色が心地よかった(高品質メンデルスゾーンでは安心しきって客席でぐうぐう寝てしまった)。日下さんはアンコール前のあいさつでもmusizierenの愉しみを率直に語っておられて、素敵。来年の〈エスポワール シリーズ〉は六重奏に取り組むとのことで、今から楽しみだな。
by Sonnenfleck | 2011-07-09 07:32 | 演奏会聴き語り

on the air:旧ABQメンバー揃い踏み、シューベルティアーデ。

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【2010年6月24日 シュヴァルツェンベルク、アンゲリカ・カウフマン・ザール】
<シューベルティアーデ2010>
●モーツァルト:Pf四重奏曲第1番ト短調 K478
●ロッシーニ:VcとKbのための二重奏曲ニ長調
●シューベルト:Pf五重奏曲イ長調 D667 《ます》
⇒クリスティアン・ツァハリアス(Pf)
  ゲアハルト・シュルツ(Vn)
  イザベル・カリシウス(Va)
  ヴァレンティン・エルベン(Vc)
  アロイス・ポッシュ(Kb)
(2010年12月11日/NRK Klassisk)

ピヒラーぼっち。いやん。

僕の友人で、室内楽とメンデルスゾーンに魂を売り渡したヴァイオリン弾きがいるのだが(彼はメンデルスゾーンの胸像を自室に飾って毎朝晩拝んでいる)、小田原のあたりで彼と話をしていたときに「今ほど室内楽シーンが面白く、輝いている時代はない」との見解で一致した。
彼はアルテミス・カルテットの熱烈なファンなのであるが、僕の乏しい経験を振り返ってみても、たしかにここ数年でライヴを聴いた若カルテット~中堅カルテットは(本当に大げさじゃなく)どこも圧倒的完成度を誇っていて、この百花繚乱ぶりには聴神経スパークなのである。アルテミスも早く聴いてみたいものよな。

ところでABQは、たしかに凄い存在であった。最後のメジャーカルテットとして(ハーゲンごめん…僕ハーゲン得意じゃないんだ)、今の百花繚乱状態に「スタート地点」を提供したということだけでも、彼らは永遠に記憶されるべき。フェアウェル・ツアーのときのことを思い出すと、たいへん絶妙のタイミングで、彼らは彼らであることをやめたのだなあと感じる。

+ + +

《ます》。力が抜けきって、まことに大人の音楽であった。
シューベルトやってるオレらかっけー、という雰囲気が、若いカルテットだと隠し切れずにじわっと滲んでしまうことが多いと思っていて、しかしそれはシューベルトの音楽それ自体にも自己韜晦の末に潜んでいる毒なので別にいいんだが(オレの音楽書いてるオレかっけー)、そうした意識の力こぶから自由になってふわふわと浮遊する演奏。
こうしたふわふわは、古いウィーン系のカルテットが持つ専売特許だと思っていた。彼らの微笑ましい(そして決して責められるべきではない)技術的ムニャムニャが取り除かれ、あちこちがスマートに締め直されると、このような演奏になるのだろう。非常な幸福感である。

第2楽章アンダンテなどは桃源郷状態。桃配られてお腹いっぱい。
第4楽章は、これは驚き。ここに至ると、フツーの演奏ならば「ますキタ━」という感じで、ここがクライマックスであるかのように力が入るのが常と思っていたが、彼らの演奏では実になんということもなく、《ます》主題も、前の楽章から続いている部屋の壁紙くらいの扱いでさらりと変奏されてしまっている。
第5楽章がクライマックスなのだよ。扉の向こう側にブラームスが立っている。
by Sonnenfleck | 2010-12-14 22:05 | on the air

イェルク・デームス Pfリサイタル@宗次ホール

c0060659_6213599.jpg【2008年11月20日(木)18:45~ 宗次ホール】
●シューベルト:4つの即興曲 D899
●ベートーヴェン:Pfソナタ第30番ホ長調 op.109
●ドビュッシー:《水に映る影》、《沈める寺》、《月の光がそそぐテラス》、《月の光》
●フランク:前奏曲、コラールとフーガ
 ○ショパン:ワルツ、《幻想即興曲》、《雨だれ》
⇒イェルク・デームス(Pf/ベーゼンドルファー?)


あの120分間は何だったんだろう。何か特別な体験だったかもしれない。

シューベルトは朴訥とした語りで、しかしあくまで容赦なく畳み掛けるリズムで、オーストリア人にとってのシューベルトっていうのはこういう音楽なのかも(日本語文化圏の外の音楽家が演奏する民謡や日本語歌曲のことを思うと、こういう印象がオカルトじみているとは断言できない)。
1曲目からグスグスと鼻をすする音があちこちから聞こえてきたんですが、自分は3曲目、変ト長調のアンダンテでぼろぼろ泣いてしまいました。ハンカチがじっとりとするくらい。

続くベートーヴェンのop.109は、柳がただ風に吹かれているような軽い流れが印象に残ります。流れの中に無数に浮遊するフレーズの塊は「こうでなくてはいけない」という力みではなくて、「こうだよ」というナチュラルな示しによって形作られていました。

後半のドビュッシーになって、デームスの凄味がさらに引き出される。
どちらかと言えば脂の抜け切ったお爺さま、という感じだった前半とは著しいギャップを形成しながら、ドビュッシーでは豊満としか書きようのない分厚い和音で聴衆の頬を撫でてゆきます。《沈める寺》から『暁の寺』のイメージを感じたのは、これは初めての体験だった。

フランク前奏曲、コラールとフーガに関して、デームスは次のように書いています。
この優れた作品には偶発的な音が全く無い。すべては多声音楽に、和声法に、楽式構成に、内面からのあふれる感情に、必要不可欠のものから出てきた音である。彼はこの曲を作る時オルガンの足鍵盤を念頭に置き、10本の両手の指の中に足2本分の音を配分して、この音楽的豊かさを得た。このようにしてフランクは全く新しい形のピアノ音楽を創造したのだ。
(公演パンフレットから)
テクニックの衰えを隠そうともせず訥々と弾いた最初のシューベルトや、楽譜の流れに乗ったベートーヴェンから、自然の摂理に反して悠然と聳えるこの大伽藍は想像できなかった。オルガンの模倣は解説を読むまでもなく明らかに伝わってきますが、トーンクラスターのような音(≠フレーズ)の塊、ミィィィィーンという「鳴り」のようにもっと実際的な要素は、僕が親しんでいたパスカル・ドゥヴァイヨンの録音からは一切聴き取ることができなかったものでした。
循環する主題が最後に高らかに鳴るカタルシスよりも、自分はこのデームスの老獪なテクニックのほうにひどく感銘を受けました。彼の80年は彼に厖大な量の深い抽斗を授けたようです。

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1835年製作のコンラート・グラーフによる《ディアベッリ変奏曲》のCDを買って、最後にサインをしてもらいました。目の鋭い爺さまです。
by Sonnenfleck | 2008-11-27 06:23 | 演奏会聴き語り

ルイサダ+モディリアーニQでお腹いっぱい@名古屋

c0060659_1064823.jpg【2008年10月7日(火)19:00~ 電気文化会館】
●ブラームス:Pf五重奏曲 へ短調 op.34
●シューベルト:Pfソナタ第4番 イ短調 D537
●同:4つの即興曲 D899~第4番 変イ長調
●同:Pf五重奏曲 イ長調 D667 《ます》*
 ○ラヴェル:弦楽四重奏曲 ヘ長調~第1楽章
 ○ショパン:Pf協奏曲第1番 ホ短調 op.11(Pf六重奏版)*
        ~第2楽章
→モディリアーニ弦楽四重奏団+クリストフ・ディノ(Cb *)
⇒ジャン=マルク・ルイサダ(Pf)


のっけから恐縮ですが、全席@8000円でした。
これを高いと考えるか安いと考えるか、、僕は前者ですが、この日この値段のチケットがほぼ完売に近い売れ行きだったのは、NHKの「スーパーピアノレッスン」の「ルイサダ先生」効果なのかしらね。お子さん供が妙に多かったし。

最初のブラームスは日中の疲れがどっと押し寄せて轟沈。感想はパス。

休憩後から本格始動して…この日のソロは2作品とも面白い仕上がりでした。
ルイサダのライヴを聴くのは初めてですけど、彼のシューベルトはアーティキュレーションに異常に凝りまくっていて、お洒落かつ奇矯な造形。一部のシューベルト作品でこれをやられたら席を蹴って立ち去ることも吝かではないですが、この2作品のフレームはそうした彼のスタイルに曝されてもうまく持ちこたえている。

ソナタ第4番第2楽章がソナタ第20番に引用されているので馴染みがあります。件の楽章はノンレガートで飛び出してまるでグールドのようでしたが、そんな中からロンド主題が徐々に抒情味を増していく様子はお見事のひとこと。奇矯ではあるけれども地の部分はけっしてノリだけじゃない、というのがいいですよね。
一方で変イ長調の即興曲は、、妙に外面的に飾り立てられていて可笑しい。シューベルトの深淵に対する照れ隠しのようにしか思われない。

さて《ます》ですが。
一緒に来たモディリアーニQという若いグループはルイサダの「オキニ」らしく、たびたび共演しているとか。彼らは今年のラフォルジュルネでも来日してましたね。
ハンサムな兄ちゃんばかり4人。華やか。しかしです。
ノリと地の違いをかっちりとわきまえたルイサダの後に聴くと、ノリ一直線の彼らの演奏はいかにも青臭い学生さんのようで、ちょっとまだまだ感が強いのが実際のところ。1stVnクンなんか特に音程も発音もテキトーな感じを醸しだしていて残念(誠実にやれば素敵になるのは、最後にアンコールのラヴェルで証明されることになる)。そうした彼と、仕事人気質のVaクンとVcクンとの差があそこまで激しいのは、カルテットとして心配。

アンコールのラヴェルとショパンが、でも、モディリアーニQとルイサダのこの日のベストフォームだったように思われます。水を得た魚のように生き生きとしていたなあ。シューベルトとかブラームスってそんなに好きじゃなくない?もしかして?

最後は客席大喜びで、まさかのフル・スタンディングオヴェーション(名古屋では大珍事)。
時計を見ると21時50分を過ぎる重量級メニューでありました。
by Sonnenfleck | 2008-10-10 06:35 | 演奏会聴き語り

on the air:芸術劇場-ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン-

c0060659_8304988.jpgLFJの中で、自分が聴けなかったコンサートをこのように体験するのは不思議な気分。開催中は「裏番組」のことを考えると悔しいのでそのへんの思考を頭から追っ払っているから、唐突に「裏番組見られます」ということになると変な感じッス。

【2008年5月5日 東京国際フォーラム ホールC】
(2008年8月15日/NHK教育)
【444 or 446】
●ドイツ舞曲 D820(ウェーベルン編曲版)
⇒クリスティアン・ツァハリアス/ローザンヌ室内管弦楽団

音程も縦線も微妙なアンサンブルの肌荒れがどうしようもなく気になるんですが、たぶん実際にホールCで聴いたらこんなことはないと思う。
LFJはプラモだったんだな。演奏に辿りつくまでのパーツが普通のコンサートよりずっと多くて、しかもそれを自分のセンスで組み上げていくことになっているわけです。このようにNHKがあつらえた完成品だけを聴くのが微妙にサムイのはそのせいだろうし(自分で組んだ完成品には愛着が湧く←あれ?無意識のうちに評価を底上げしてるのか?^^;;;)、第一その出来をそのまま評価のまな板に乗っけざるを得ない。。

【448】
●ミサ曲第5番変イ長調 D678
→ユッタ・べーネルト(S)、マルグリート・ファン・ライゼン(MS)、
  トマス・ウォーカー(T)、デイヴィッド・ウィルソン・ジョンソン(Bs)
  カペラ・アムステルダム
⇒ダニエル・ロイス/ヴュルテンベルク室内管弦楽団

こちらは逆に、完成品の力強さによって多少のアラなんか吹き飛ぶ。
ロイス+カペアムのコンビが聴けたのは(広くはなく残響もない)ホールB5での合唱曲プロ、一方でミサ曲は時間の都合によりコルボ+ローザンヌの変ホ長調を選んでいたので、変イ長調が聴けたのは素直に嬉しいであります。
ロイスの曲作りはいかにも気取らずはきはきとしたピリオド風味で、シューベルトの「痛ましさ」にはあえて触れなかった様子。触れたが最後、どこまで行ってもきりがない深淵ですからね。いや、物凄くオンマイクな録音コンディションによってそのように聴こえているのかもしれないけど、シューベルトの愛らしさがストレートに提供されたのでした。

【447】
●《ロザムンデ》 D797~ロマンス〈満月は輝き〉
●同~〈狩人の合唱〉
→林美智子(MS)
  清水敬一/晋友会合唱団
⇒ペーテル・チャバ/フランス国立ロアール管弦楽団

【445】
●《ズライカ》1 D720
●《ズライカ》2 D717
●《愛らしい星》 D861
●《夜と夢》 D827
●《若い尼》 D828
●《きみはわがいこい》 D776
●《さすらい人の夜の歌》 D768
●《ミューズの子》 D764
●《トゥーレの王》 D367
●《糸を紡ぐグレートヒェン》 D118
●《ます》 D550
●《アヴェ・マリア》 D839
⇒バーバラ・ヘンドリックス(S)+ルーヴェ・デルヴィンイェル(Pf)

先行予約でも瞬殺だったヘンドリックス。
生え際に白いものが混じっていたり、強靭な声に翳りがあったり、なるほど少しお年を召されたなあという感じではあります。でも吐息ベースによる収め方がますますセクシーになっているのがそれ以上に印象的で、《夜と夢》、そして《トゥーレの王》はもう絶品中の絶品であります。やっぱりいいなあ…。生で聴いてみたかったなあ…。

+ + +

マルタンは意外と小さな人。マンゴーヴァは意外と大きな人。覚えた。
by Sonnenfleck | 2008-08-17 08:33 | on the air

やつはし

c0060659_713159.jpg【DENON/COCO-70796】
●シューベルト:八重奏曲 ヘ長調 op.166 D803
⇒フィルハーモニア・アンサンブル・ベルリン
  エドワルド・ジェンコフスキー(1stVn)、
  ライナー・ヴォルタース(2ndVn)、
  土屋邦雄(Va)、ネラ・ハンキンス(Vc)、
  エスコ・ライネ(Kb)、アロイス・ブラントホーファー(Cl)、
  ノルベルト・ハウプトマン(Hr)、ダニエーレ・ダミアーノ(Fg)

シューベルトのオクテットは、一見親密な雰囲気の機会音楽スタイルで書かれているように思われるけど、実はいつものシューベルトと同じように悲惨な主題が現れたり、緊迫のゲネラルパウゼがあったり、最終楽章で腕がすっぽ抜けたようにポーンと突き抜けてしまったり、なかなかどうして不気味な作品です。
音響面では、フルートとオーボエがいないのが大きいのかな。彼らの突き刺すような音色の代わりに、この作品でほとんど主役を張っていると言っていいのがクラリネット。ひねもす放心して遠くを眺めているようなシューベルトらしさをここでもよく発散させます。ほんと、今年のLFJでシューベルトの聴き方が変わってしまった。

さてBPOの奏者によって結成されたこのアンサンブルは、シューベルトの領分に余計に踏み込んで荒らすことをせずにひんやりとした演奏を行なっていて、それゆえかっちりとした枠組みが出来上がってきます。
前述のように重要な役目を負うクラリネットは、ブラントホーファーという(おそらく首席)奏者。シューベルトでは放心していると言っても歌い崩れてしまってはたぶん何もかも台無しなんですが、極弱音でも輪郭を保つ技術は素直に凄いなあと思います。弱音という小さなお皿に何をどれだけ盛り付けるかで奏者のセンスがわかってしまうんだから怖い。第2楽章であちこちに聴かれる薫るような弱々しさにはまったくたまげた。
第5楽章では、比較的よく聴こえるダミアーノ(現首席奏者?)のファゴットが、渋いアクセントになってこの切ない楽章を取りまとめているのも素敵。

アンサンブルに組み込まれた弦楽四重奏が特に爽やかに主張する第1楽章。爽やかだけどどこか険のある目つきをしているのは、この4人まで放心してしまったらアンサンブルが崩れてしまうので、あえて押さえ込んでいるためでしょう。一方第3楽章のようにきついエッジが立ったところでは、コントラバスのライネのゴリッとした、ほとんど耳に引っ掛かるような厳しい重低音が、いかにも20世紀末のBPOを聴くような感覚にさせてくれますね。

しかし真面目な演奏を聴かせてくれているだけに、第6楽章の奇妙さが際立つ。。
なぜファンファーレ?
by Sonnenfleck | 2008-06-14 07:17 | パンケーキ(19)

ABQ Farewell Tour 名古屋公演

【2008年5月30日(金)18:45~ 愛知県芸術劇場】
●ハイドン:《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》 Hob.Ⅲ:50-56~〈序奏〉
●ベルク:《抒情組曲》
●シューベルト:弦楽四重奏曲第15番ト長調 D887
  ○アンコール ハイドン:同第78番変ロ長調 Hob.Ⅲ:78 《日の出》~第2楽章
⇒アルバン・ベルク四重奏団


3年前のツアーで彼らのライヴを聴く機会を得、あのときは演奏中に2回も地震が起きて変な空気になったのが懐かしく思い出されます。Vaの逝去と交替を経て、しかし、ある一定のレベルを維持したまま解散することを選択したのか。
ABQを批判すればクラ玄人、みたいな風潮がレコ芸的価値観の裏返しとして蔓延しているような気がするんですよ。材料もなくそんなことをする自信は僕にはないし、世界的なカルテットを現認できる最後のチャンスだけに、チケットを買い求めました。

お客さんの入りはよくて5割5分というところでしょう。興行的には大失敗かもしれない。
ただ、こりゃ本当に聴きたい人しか来てないなあというのは、異常に張りつめた客席の空気から容易に想像されます。衣擦れすら憚られる質の高い緊張感、名古屋でもちゃんと形成されるじゃないか!いつもはどうなんだよ!

本来的な意味での「世界的カルテット」の「名演」は、《抒情組曲》でありましょう。
溶け合った最初のハイドンから打って変わって、4人が4人ともハイレベルなスタンドアローン状態。そのうえ4人ともあのベルクの言語に通暁しているわけだから、ぽつぽつ...ぶつぶつ...ぺちゃぺちゃ...とめいめいが呟くことをこそ好しとする。それでいて、たまたま各人の呟きが揃う小節はうねるような熱気をはらむ。第6楽章のトリスタン引用があんなにはっきりと聴き取れるとは思いもしませんでした。
さても黒い漆の上に金銀砂子がパッと散らされたような、実際的に役に立つことのない、まったく現実味のない美しさがホールに出現したのであった。あの生成過程を椅子の上から眺めることができたのは、確かな収穫だったと言えます。
これで後半のシューベルトがなければ、僕の中でABQの名前は《抒情組曲》とともに記憶されるはずでした。シューベルトがなければ。

ベルクの終わりくらいから、1stVnのピヒラーの音程がぼやけ、発音にはノイズが混入するようになっていました。僕はちょうど彼の背後のあたりの席に座っていたのに、その変調が伝わってくる。
もちろんピヒラーひとりのせいとは思われないけど、1stがリードすべき部分が多いシューベルトの第15番は、はっきり言ってズタズタだった部分が多くあったような気がする。ベルクの完璧なフォルムとは対照的に錬り込みが甘い部分が散見され(「あ、ここ拘らなくていいの?」っていうのが多い)、響きもももやもやして焦点が定まらない。あるいは「計算された放心」を最近のシューベルト演奏に聴いてきて、彼らのスタイルを少し古臭く感じたのかもしれない。
先駆者は追い越されてこそ?
しかし、この先駆者たちが、いつ果てるともない第4楽章のロンド主題をズタズタにしながらも物凄い気迫で繰り返す様子に、この夜は心を奪われたのです。鉄壁とか伝説とかそういう美辞麗句はこのシューベルトによって還元されていき、最後に残った、演奏行為に関する彼らの裸のプライドを聴くことができてよかった。忘れられない体験であります。

さよならABQ。

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by Sonnenfleck | 2008-06-02 06:36 | 演奏会聴き語り