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スラヴァ×セイジのモダン・タイムス

結婚してから生活のスタイルが変わり、難しい顔をして音楽をじっくり聴きながらPCの前に長時間座っているのが難しくなった。これではブログのエントリを生み出すことができない。できないが、したい。

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c0060659_22515769.jpg【Erato/WPCS22184】
●プロコフィエフ:交響的協奏曲ホ短調 op.125
●ショスタコーヴィチ:Vc協奏曲第1番変ホ長調 op.107
→ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)
⇒小澤征爾/ロンドン交響楽団

HMVのセールで756円くらいになっていた。安いね。
小澤とロストロポーヴィチ、という組み合わせがいかにも昔風に見えるのはどうしてだろう。ところが組み合わせから受ける印象に比べて、ここに録音された演奏実践は意外にもスマートで聴きやすい。ひょっとすると「モダン」かもしれない。

まずロストロポーヴィチが、一般的にイメージされるような鈍重さをあまり感じさせない(僕の脳みそに残っている指揮者としてのロストロポーヴィチがテキストの前面に出てしまっているのだろうなあ)。
80年代後半にチェロを持ったときのロストロポーヴィチが敏捷ですらあった(!)ことを、この録音が証拠として伝えている。少し強引な歌い回しと鋭敏さがミックスされたマチエール、これがモダニズムの薫りをそのまま宿しているわけですが、たぶん今世紀の若いチェリストが同じことをやろうとすれば、そればメタな視点からしか獲得できないはずなのであります。

それから小澤だけれども。
なめらかに整えようとする圧力と、ガサガサに掘り下げようとする圧力の両方から常に引っ張られて、その強い張力や緩んだときの対処にいつも悩まされているような気がするのです。このひとは。

ところでショスタコーヴィチの楽譜は、実は小澤の(僕が勝手に想像している)悩みに対して意外によく合致するのではないかと思われて仕方がない。
とある両側の圧力に「悪意のある器用さ」で対応したのがショスタコーヴィチとすれば、小澤征爾は悪意なんて考えることもなくどこまでも真摯に楽譜をなぞる。それによって、髭のグルジア人とその後継者を横目にしていたショスタコーヴィチの悪意が打ち消されてしまい、ただ器用なスコアがイコールの向こう側に浮かび上がるではないですか。ロンドン響のつるっとした音響はここで完璧にプラスに働いています。

小澤は結局、ショスタコーヴィチを彼のキャリアのなかに置かなかったことが少なくともレコード史的にはわかっているけれど、このようにニュートラルな器用さがばっちり表面に出てくるショスタコーヴィチ演奏というのは実はあまり思いつかないんである。皆さんはどうでしょうか?アシュケナージ?ハイティンク?いやいや、少し違う。何でもない何か、である。

2010年代は、ショスタコーヴィチの悪意に指揮者の悪意を掛け合わせた悪意2乗のゲテモノ演奏がはびこっている。そんなときに僕たちは小澤の器用で真摯な運転に乗った、ナイーヴで力強いロストロポーヴィチの歌を懐かしく思い出すのかもしれません。これがモダンのひとつの正体。

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プロコフィエフについて書く時間がありませんでした。追記できるかな?


by Sonnenfleck | 2015-06-03 23:21 | パンケーキ(20)

スクロヴァチェフスキ/読響 第67回みなとみらいホリデー名曲シリーズ|そして8年後…(10/6)

c0060659_2281916.jpg【2013年10月6日(日) 14:00~ みなとみらいホール】
●ベルリオーズ:劇的交響曲《ロミオとジュリエット》op.17~〈序奏〉〈愛の情景〉〈ロミオひとり〉〈キャピュレット家の大饗宴〉
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
 読売日本交響楽団


正直に告白すると、僕はスクロヴァチェフスキを「何かもういーや」と思っていた。かつてあれほど心酔したにも関わらず、ここ最近の動向について情報を集めることすらしてこなかった。
ところが今年の読響客演のショスタコーヴィチが、何やら大変な反響を呼んでいる。そうなると現金なもので、2005年客演時のショスタコの極めて素晴らしいパフォーマンスを思い出し、やがて当日券を頼みにホールへ足が向いてしまうのであった。

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で、どうだったか。
第4楽章の凄まじいギアチェンジ、この考え抜かれ鍛え抜かれた推進力には恐れ入った。自分が8年前に書いた感想文がそのまま生きるので、引用しましょう。
緊張を保持したまま、アタッカで第4楽章。恐ろしく遅いテンポで辺りを蹂躙したかと思えば、シニカルなリタルダンドを掛けてニヤリとさせたり、楽しい仕掛けが満載。ちょっとおこがましい言い方ですが、この曲をよく知っていればいるほど面白いのです。最後、普通の指揮者は素直にコーダに重心を置きますが、スクロヴァはコーダの直前に大きなクレッシェンドを掛け、異常に肥大した山を作る。聴き手はここでもまた度肝を抜かれます。なんていう人だ。。
でも8年後の僕が腰が抜けるほど驚いたのは、この第4楽章ではなくて、第3楽章の信じられないくらい荒涼とした心象風景なのだった。
ショスタコーヴィチの第5交響曲は、もしかすると、ただ第3楽章のために存在しているのかもしれず、また、スクロヴァチェフスキと読響の8年間はそれを証明するのに十分な関係を互いに構築させたのかもしれません。

ご存知のようにこの曲の第3楽章は、ショスタコが書いたもっとも美しいアダージョのひとつです。この美しさをストレートに表現することで成功している演奏もかなり多いし、そのアプローチについて僕はそれほど疑念を持たない鑑賞者だった。そうだったけれども、今日からは違う。

スクロヴァチェフスキは、ここに甘美なブルジョワ糖蜜をたっぷり掛けたりしなかったし、「<強制された歓喜>に対する<抵抗>の自己表現」にもしなかった。爺さんの前でこの楽章はただ、凍てつく冬に「商店」に並ぶ小母さんたちの偉大さに捧げられた、バビ・ヤールの第3.5楽章として存在していた。こんなマチエールの第3楽章は、ただの一度も聴いたことがない!!

バビ・ヤールの言葉なき追加楽章とするために、ポルタメントで厭らしく粘つく2ndVnや、裸のままで乾いたアタックのCb、一斉に縦方向に叫ぶ木管隊、空間を横方向に切り裂くヒリヒリとしたハープに至るまで、スクロヴァ爺さんは容赦なく必要なものを集める。そして彼のいつもの「構築」の柱や梁として、それらのリソースを実に贅沢に使い倒す。
そのようにして組み上げられた響きの空間は、この交響曲が後期ショスタコーヴィチの培地たりうる大傑作であることを、再び僕たちに教えてくれる。「自発的に次に亘る」演奏の前では、誰かが”証言的である”と決めつけるのも、”証言的でない”とみなすのも、等しく意味がない。こうした視点を、僕たちは90歳の元祖モダニスト老人から授けられる。

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それから(これもちゃんと書いておきたい)第2楽章も見事のひと言なのだった。
この1年、能と一緒に狂言を見るようになって、優れた狂言の実践は最初から最後まで厳格な真面目さによって貫かれているということがわかってきた。この楽章はカリカチュアライズが簡単にできるので、今世紀の演奏はかなり露悪的なものが多いように思いますが、それだって狂言と同じで、クソ真面目にドタドタやってこそ活きる。露悪の裏に何もない、すっからかんの素寒貧。この日のスクロヴァチェフスキのドライヴは、ちょっとコンドラシンを思い出させるくらい、完璧だった。

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さて前半のロメジュリ抜粋。「4楽章の劇的<小>交響曲」の形式に整えられたベルリオーズの、異常な前衛性に僕たちは気がつかなければならない。膨張して1839年の木枠を突き破るその姿に、1937年に鉄の文化政策を腐食させ、次代の芽を宿していた音楽を重ねてみるのも、おそらく悪くないのでありましょう。

スクロヴァ爺さん。僕はやっぱりあなたの元に戻ることになりそうです。


by Sonnenfleck | 2013-10-06 23:00 | 演奏会聴き語り

フェドセーエフ/N響 第1755回定期@NHKホール(5/18)

フェドセーエフ好きの僕は、昨秋聴いたチャイコフスキー交響楽団(旧モスクワ放送響)との来日公演のデザートのようなつもりで出かけたのだったが。

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【2013年5月18日(土) 15:00~】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第1番ヘ短調 op.10
●チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調 op.48
●ボロディン:歌劇《イーゴリ公》~序曲、だったん人の踊り
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/NHK交響楽団


フェドセーエフは意外にもこれまでN響に客演したことがなく(東フィルと仲良しだったからかな)、今回が初共演だった由。ところが彼らの90分間の共同作業を聴いて、僕は、彼らの相性が全然良くないことを知った。

現在のフェドセーエフは、兇暴な音響や音の質量を武器にするのではなく、オケの自然な円みや香りを活かすがゆえに、すべてを完璧に統率し切るような指揮をもうやめている。それでも手兵・チャイ響や、手の内を長らく学んできた東フィルは、フェドセーエフのフェドセーエフらしさを少なからず補いながら、それを自分たちの音楽とも不可分のものとして共に創る意気があるからまだいい。

しかしN響は。彼らが(彼らがと書いてまずいなら、紺マス氏がコンマスをやっているときには)自発的に指揮者に合わせよう、オケの側から指揮者を補おう、という気はさらさらなく、まったく事務的に、自分たちの負担にならない程度の適度な運動で定期公演を終えてしまう。

「オーケストラを訓練し統率することへの興味」をあまり多くは持たず、自由な霊感を大事にしている指揮者と、「自発的に協力する気持ち」に不足する"学級の秀才"オーケストラ。彼らが出会ってしまった。

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老人も少しは訓練を試みるし、優等生もその名に恥じない事務的な協力は惜しまないから、たとえば弦楽セレナードの第3楽章のようにまずまずの演奏(ピッチやアーティキュレーションに少なからず問題はあったが)が成立した箇所もあった。またイーゴリ公の周辺も、若いころのフェド節をほんの少し思い出させた。前世紀の録音で聴かれる、またチャイ響との音楽会でもちゃんと保持されていた、フェドセーエフの音楽に特有の張りと艶はここではほとんど望めなかったにせよ。

しかし…ショスタコーヴィチの第1交響曲。これは良くない。まったく良くない。心が凍えるくらい寒々しく醒めた演奏。そのために一面ではかなりショスタコらしくもあったが、あれを楽しめるほど僕はひねくれた人間ではない。

アンサンブルはギザギザで量感に乏しく、合奏協奏曲のコンチェルティーノである各パートのソロは輪郭がへにょへにょ(あのTpとVcに対してお金を支払われるのかと思うと実に厭な気持ちになる)。そしてもともとメドレー的な作品であるだけに、肝心なのは横方向への展開だけど、それすら怪しい。前に進まない。指揮者にもオーケストラもお互いに「なんでそっちがもっと努力しねえんだよ」という空気が漂う。断じてこれでは困る。

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僕はフェドセーエフ贔屓だから次のように書かせてもらうけど、N響は近ごろますます魅力がない。それなりの「当たり」にすら出会えなくなってきている。ほとんど燃え上がることのない湿った楽団に、なぜ時間を割く必要があるだろう?
by Sonnenfleck | 2013-05-22 23:02 | 演奏会聴き語り

L'étoile de la danse

c0060659_23165292.jpg【EXTON/OVCL-00472】
●ショスタコーヴィチ:交響曲第4番ハ長調 op.43
⇒エリアフ・インバル/東京都交響楽団

レコードアカデミー賞大賞!の惹句が、わりとマジで気になって購入してみたのです。日本のオケ録音に大賞が出たことについて、陰謀論者は疑い深い視線を投げかけるのかもしれないけれど、僕は純粋に興味がある。

録音で聴いてきたインバル/ウィーン響のショスタコは、僕にとっては何か、言いたいことを言い切っていないような、噛みしめても繊維質がボソボソと口に当たるような生煮えの雰囲気を感じていた。
ところがインバル/都響のショスタコは、その半端な印象をしなやかに投げ飛ばし、もってインバル流レシピの決定版たるを得てます。ほんとです。

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ここに録音されたタコ4は、他のどんな演奏にも似ていない。

この演奏は、ザミャーチンの宇宙船インテグラル号のようなディストピア的全能でもなければ、社会主義リアリズムの泥をぼとぼと飛ばすようなどん底でもない。この演奏が表現しているのは、絶望的に乾ききった新古典主義バレエ。個人的にはものすごいショックである。
インバルはこういうショスタコーヴィチがやりたかったんだなあ。それはニュートラルかつ上手で品の佳い音のするオーケストラを絶対的に必要とする。たぶんオーケストラは「機能的」みたいな服すら脱ぐことが求められて、いわんやアクの強いウィーン響では十分にインバルの意志を実現することができなかったのだろうと思う。都響は理想的な道具なんだろうなあ。納得納得。

第1楽章で聴こえてくるのはストラヴィンスキーの遠い残響。アヴァンギャルドが支配する直前、帝政最末期のストラヴィンスキーが生み出していたバレエのように、露西亜の呪術的民話を内包しつつも肌を切り裂きそうな乾いた風が吹き抜ける音楽。この交響曲をマーラーからもアヴァンギャルドからも遠ざけた演奏で聴くのはこれが初めてかもしれない。
バレエを想起させられるのは、インバルが都響に対して命じている、恣意性を排除した音色とリズム感が完璧にハマっているからだろう。
もっとも強烈だったのは、あのプレストのフーガが「優雅」だったことである。いちばんしっくり来る形容詞がよりによって「優雅」だよ?

じっとりしつこいマーラーをやらせると今では世界で一二を争うインバルだけど、マーラー成分が混入しまくってる第2楽章は意外にふわとろ系。バレエのロマンスシーンかというくらい、拍節感を維持しつつふんわりした音響で支配する。

第3楽章もやはり第1楽章と同じ傾向。苛烈な音響や粗雑なアゴーギクは退けられ、キリッと引き締まったリズムと、冷たく乾いた優雅なマチエールで音楽が展開していく。途中の木管隊による斉奏の、どこのものでもない中庸な美しさには呆然としちゃいますよ。これが無個性無個性と貶められ続けてきた日本のオーケストラの「個性」なのかもしれないな。だとしたらこんなに嬉しいことはない。

この楽章、いつもペトルーシュカの最終場・謝肉祭を彷彿とさせるんですが、インバル/都響のこの演奏に振り付けてバレエを上演したら、さぞかしクールだろうな。作りものじみててさ。
by Sonnenfleck | 2013-03-13 23:18 | パンケーキ(20)

羊の腸はレニングラードの夢を見るか

c0060659_23564722.jpg【Hänssler Classics/CD98.644】
<ショスタコーヴィチ>
●弦楽四重奏曲第3番ヘ長調 op.73
●弦楽四重奏曲第4番ニ長調 op.83
●弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調 op.108
→メタ4


2004年のショスタコーヴィチ国際弦楽四重奏コンクールで第1位を受賞した弦楽四重奏団・メタ4。ライナーノーツの情報によると、彼らの楽器は全員が18世紀のオリジナルとのことである。
ということを書くと、僕らは彼らの音をボッケリーニやハイドンの器でイメージしてしまいがちなんだけど(事実、彼らのデビューアルバムはハイドンみたいだが)、なんとまあ、彼らが取り上げたのはショスタコーヴィチ。これは彼らの出自であるコンクールを踏まえるとまったく正しい挑戦じゃないかと思うし、古楽器タコには純粋に興味がある。

さて、第3番の最初の音を聴くと、どうもこれは全員がガット弦を張っているとしか思えない。もしボウイングだけでこんな音を出しているのならけっこう驚きだけど、たぶんそうじゃない。彼らの楽器を考えるとガットが自然な選択。

ショスタコーヴィチの音楽は具体的な何かを想像させることが多い。そして時には具体性の高まりが汚濁になったりするのも魅力のひとつ。でも、メタ4さんたちの演奏を聴いていると、もっと透明感のある音楽に変貌を遂げているので面白い。古楽タコの愉悦。これは嘘っぱちかもしれないけど、つまらない真実より魅力的な嘘がより善かったりするのが藝術ですよね。

唯一、遊びで弾いてみたことがあるのが第7番の第1楽章なのだけど、ここも古楽由来な感じのサービス精神にあふれる。アーティキュレーションのあちこちに楽しいこだわりが潜んでいるいっぽうで、その楽しい発音の瞬間、他のパートがさっと最適化されてカチリカチリと前に進んでいく。クリスティアン・バッハみたいに。

第3楽章でフーガ風の展開のあと、チェロが中心になって威圧的な音型を弾くところでも、ぜんぜん圧力勝負じゃない。彼らは汚濁を武器にしないんである。そのままユニゾンで第1楽章の主題を取り戻し、ワルツを踊って終わる。カチリカチリ。

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昔、許光俊が「弦楽四重奏曲は音のぶつかり合いが汚い、指揮者によって調整されるべき」というような趣旨の奇妙な言説を披露していたけれど、許センセはガットによるカルテットを聴いてもなおそのように思うんでしょうかね。
by Sonnenfleck | 2013-01-16 00:07 | パンケーキ(20)

さようならガリーナ

Russian opera singer Vishnevskaya dies aged 86(BBC News/12月11日)
Galina Vishnevskaya, Soprano and Dissident, Dies at 86(The New York Times/12月11日)

仕事に忙殺されている12月、ガリーナ・ヴィシネフスカヤが亡くなった。
一度だけ、彼女を見たことがある。

ロストロポーヴィチが2003年の12月に東京文化会館でハイドンとドヴォルザークの協奏曲を弾いたとき。どうしてもスラーヴァのサインがほしかった僕は、終演後のパーティが終わるまで楽屋口で寒さに震えながら行列していたのだが、パーティが終わって上機嫌のチェリストに寄り添って出てきた老婦人は、ガリーナ・ヴィシネフスカヤのはずだった。彼女も人生の壮大な夕映えのなかにあった。

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このCDについて何か書いたことがあるような気がするけど、もう一度書く。
ロストロポーヴィチのショスタコーヴィチは、ぎゅうぎゅうに盛られた大皿料理のようである。この録音はモスクワ・フィルのソロイスツ・アンサンブルを使っているのに、並のフルオケでは歯が立たないような強靱な音楽が立ち上がっている。きっとこの曲の正統的な本質はバルシャイのほうに伝わっているのだろうけれども、ロストロポーヴィチの曲づくりにも教えられることが多い。

ヴィシネフスカヤは爽やかで可憐な声質の持ち主だった。彼女は夫の手になる大皿料理のなかに、爽快な香草のようにして自然に融けこんでいる。

今はモスクワのノヴォデヴィチ修道院墓地の、スラーヴァの隣に眠るそうだ。アポリネールが〈自殺〉の詩に描いたのは3本のゆりだったが、4本目の美しいゆりが夫と彼女を永遠に結びつけていることを願う。

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RIP.

by Sonnenfleck | 2012-12-23 09:31 | 日記

ハーディング/新日フィル 第502回定期演奏会@すみだ(12/8)

c0060659_5364650.jpg【2012年12月8日(土) 14:00~ すみだトリフォニーホール】
<ショスタコーヴィチ>
●Vn協奏曲第1番イ短調 op.77
 ○パガニーニ:《うつろな心》による変奏曲 op.38
→崔文洙(Vn)
●交響曲第10番ホ短調 op.93
⇒ダニエル・ハーディング/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


この日のハーディングのショスタコーヴィチは、会場に大勢つめかけていたタコヲタ諸氏のカタルシス希求を(たぶん)完全に裏切った。のと同時に、ショスタコーヴィチの音楽をもう一段階上に引き上げようというロケットエンジンの火花を、強く強く意識させる快演でもあった。

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そもそもハーディングと新日フィルの共同作業は、指揮者がオケの美点を必要十分に評価するところからスタートしているように思っている。
新日フィルはたいへん器用なオケではあるが、僕はいまだに彼らの演奏からマッシヴな充実を感じたことはない。それは彼らの個性だ。ハーディングはこの個性を十分に活かすことを大前提に、このショスタコーヴィチを構成したんじゃないかな。

ショスタコーヴィチを、量感と、響きがみっちり詰まった重さで捉える向きからすれば、きっとハーディングの音楽づくりは耐えがたかろうと思う。あるいはショスタコ自身ですら「オレは(この時期には!)こんな音楽を生み落としたのではない」と憤るかもしれない。
以前フェドセーエフのときに書いた「ショスタコーヴィチの中期様式」をハーディングはあえて完全に無視している。その結果、あたかも大人が幼時の夢を見るかのように、ショスタコーヴィチのなかに結晶化して眠っているアヴァンギャルドの毒が、じわりと表層に浮かび上がってきている。

かように俊敏な演奏の第10交響曲は、ライヴでは未体験ゾーンである。ラトル/BPOの海賊盤がちょっと似たような雰囲気だったけれど、ハーディングの要求はそれと同じか、さらにもう少しドライに音符の運動性能の向上にこだわっているふうだった。

たとえば第3楽章のワルツが完璧なインテンポだったこととか(これにはたいへん新鮮な感動を与えられた)、第1楽章や第4楽章の木管隊がオルガンのような響きを構成しながら激しく運動していたこととか、ハイドンのように理路整然とした第2楽章とか、枚挙にいとまがない。義体化ショスタコーヴィチ。アヴァンギャルドのゴーストはちゃんと宿っている。

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崔コンマスのソロは、いち新日フィルファンとしては楽しかった。でもこの協奏曲に高い完成度を期待する聴衆のひとりとしては、音量も音程も発音もすべて、率直に言って物足りなさが残った。おそろしい作品である。
by Sonnenfleck | 2012-12-19 05:43 | 演奏会聴き語り

続|オハン・ドゥリアンは誰でしょう

c0060659_6195972.jpg【PHILIPS(TOWER)/PROC1152】
<ショスタコーヴィチ>
●交響曲第12番ニ短調 op.112《1917年》
⇒オハン・ドゥリアン/
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
●《ステパン・ラージンの処刑》op.119
⇒ヘルベルト・ケーゲル/
 ライプツィヒ放送交響楽団+合唱団

バイエルン放送響とのタコ10海賊盤が驚愕だったオハン・ドゥリアン。タコ12には正規盤があって、塔様が覆刻くだすった。

工藤先生のサイトを拝見するかぎり、1961年のムラヴィンスキー盤に続く「東側系」2例目の商業録音として、このドゥリアン盤にはまず大きな価値があるように思う(DECCAのロゴが無粋)。起用されたのがソヴィエトオケじゃなく、コンヴィチュニーからノイマン時代の旧いゲヴァントハウス管というのもなにか好い。

あの滅茶苦茶な第10交響曲からこの指揮者を知った人間からすると、ドゥリアンのここでの音楽づくりは、一聴すると拍子抜けするくらい格調高い。
オケの腰の重さを十分に理解したうえでの静かな第2楽章。この森閑とした趣きはコンヴィチュニーのショスタコーヴィチによく似ているし、第3楽章なんかムラヴィンスキーの忠実な副官みたいにして、冬宮に向け整然とした砲撃を喰らわせている。それでいて第4楽章は、勝利の金管がまるでブラームスみたいな渋~い音色を投げ掛けてきてたまらなく愛おしい。そして格好いい。

むろんドゥリアンはこの交響曲の本質をがっちり見抜いて、このように仕立てている。間違いなく。
第12交響曲は、ショスタコーヴィチの体制萌え系交響曲の総決算である。最近思うようになったのは、5番とか11番、12番みたいな作品を懐疑の目で解剖するのは「粋ではない」ということだ。男の子が巨大な建築物や重厚なメカに目を輝かせるような感覚は、簡単に消えるものではない。内面の比較的表層部分が感じていることを、作曲家が交響曲にしてはいけない決まりでもあるんだろうか。

並列的に何枚も舌を持ってるんじゃなく、レタスの葉っぱみたいに幾層も重なる別々の(≒同一の)個性が作曲家を運営していたのだ。今はそう思っている。

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《ステパン・ラージンの処刑》は実は初めて聴きました。なるほど。バービィ・ヤールの第6楽章に収まっててもおかしくないし、第14交響曲のプロトタイプとも言える。聴けてよかった。ケーゲル特有の寒々しい音色もバッチリ。
by Sonnenfleck | 2012-10-30 06:21 | パンケーキ(20)

フェドセーエフ/チャイコフスキー響のショスタコーヴィチ@サントリーホール(10/17)

c0060659_838184.jpg【2012年10月17日(水) 19:00~ サントリーホール】
●スヴィリードフ:交響組曲《吹雪》~プーシキンの物語への音楽の挿絵~より
●リムスキー=コルサコフ:《スペイン奇想曲》op.34
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調 op.93
 ○チャイコフスキー:《白鳥の湖》から〈スペインの踊り〉
⇒ウラディーミル・フェドセーエフ/
 チャイコフスキー交響楽団


いよいよ本年の期待度MAX音楽会。
有給休暇も使って備えは万全。
ショスタコーヴィチの第10交響曲が好きでたまらず、これまでに正規非正規合わせて90種くらいの録音を聴きましたが、今でも録音のベストはフェドセーエフ新盤だったりするからです。前二日間の演奏からすると、フェドセーエフの好みは少し変わってきてるようです。はたしてそれがどう転ぶやら。

第10番は、現代の標準的な指揮者と標準的なフルオケが特に策を持たずに挑んでも、まあまあサマになってしまうようなところがあって、第5の次の人気作として最近は位置づけられてきている。そのせいなのかはわからないけれど、変な定石がだんだん形成されてきてて興味深くもあります。第1楽章は長いからテキトーにスパイスを掛けて、第2楽章はスリリングに、第3楽章は曖昧にそれっぽく、第4楽章の最後で派手に打楽器を爆発させりゃあ客は喜ぶぜ、みたいな。

そしてもっと厄介なのは、そういうヌルい定石だけではなく、あまり様式感に合わない珍奇な策を乗せる傾向も広がってきているという事実。
第2楽章でだけ爽快感が出るくらいスピードを上げたり(ムラヴィンスキーやミトロプーロス、ロジンスキーはちゃんとほかの楽章も快速運転です)、奇矯なフレージングに頼って第1楽章を破壊してみたり(パーヴォ何とか氏は第1とか第6をレパートリーにすべきでは…)、枚挙に暇がない。

何も懐古趣味に陥っているわけじゃない。2010年に出たヴァシリー・ペトレンコ盤(Naxos)なんか、新しい録音だけどたいへん佳いと思いますもの。
ただ、モーツァルトに様式感があるのと同様に、やっぱりショスタコーヴィチにも厳然たる様式感というものがあると僕は熱烈に思うのです。モーツァルトをカラヤンみたいに作り込む人、もう今日ではいないでしょう?

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当夜のフェドセーエフは、ただただシンプルに、ショスタコーヴィチの中期様式に対して忠実な作り込みをしていたとしか言いようがない。このスタンスは彼の二種類の録音からまったく変化していなかった。安心した。

じゃあショスタコの中期様式って何だろうか。
それが要求するものは、さほど特別なものではないと僕は考えていて、腹の底にズンと来る重い響きだったり、痛切な音色だったり、ダッサいリズムを恐れずに腹を括った乱痴気騒ぎだったりする。要するに、チャイコフスキーの様式が要求する技芸とあまり変わらないのだ。無論、初期様式や後期様式はちょっと違いますけれどもね。

2日前のチャイコフスキーと同じく、フェドセーエフが大音量を武器にしていた時代が終わったことをよく物語る第1楽章
どことなくはんなりとした色気さえ漂うゆったり感のうちに、展開部でも響きが割れずに豪壮な風格がある。変なアゴーギクが用いられないためフォルムには鉄壁の安定感があるが、その一方で弦楽合奏には人が泣き叫ぶような音色が割り当てられているため、聴き手の気持ちは不安定なままである。

第2楽章の雄渾なランドスケープには(十分予測されていたけれども)驚かされる。相変わらず縦線はざっくりしているが、拡がりを感じさせるくらい構えが大きい。この楽章はスターリンのカリカチュアだとよく言われますね。このフェドセーエフ製スターリンは冷静かつ巨大で、逃げられる気がしない。

この日の演奏は全曲にわたってテンポの揺動が聴かれなかったが、唯一、亞!と思ったのが第3楽章でした。
エリミーラ主題が初めてホルン隊の斉奏で登場した直後、ほとんど事故のようにしてガクッとテンポを落とすフェド。中間部のワルツでこそいつものフェド節が聴けるだろうと思っていた僕は、こんなところでぽっかりと口を開けた奈落にギョッとしたのであった。これ、録音でもやってたかなあ…?

第4楽章。全曲を通じて魅力的なソロを聴かせてきた木管隊が最後の祝祭をキリリと〆てくれる。ファゴットのモノローグがあれほど野太くトゥッティを突き破って聴こえた経験はないし、結尾を導くクラリネットがあれほどねっとり厭らしく聴こえたこともなかった。
フェドセーエフ自身はかなり響きの円やかさを好むようになったみたいだけど、味のあるベテランに血気盛んな若手が供給され続けているオケはそうそうすぐには変化せず、結果として複雑な味わいのブレンドになっていたのが面白かったな。ショスタコーヴィチの中期交響曲を聴くには、ベストの状態だったかもしれません。

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密かにハチャトゥリャーンのレズギンカを期待していたアンコールは、月曜と同じチャイコフスキーのスペインの踊り。残念です。ただ、前半のリムスキー=コルサコフ(これも大名演!)とスペインセットを形成したのは楽しい配慮と思われた。
(※2003年の東フィルタコ10のときってフェドセーエフはレズギンカをやったと記憶してるんだけど、どなたか覚えておられませんか?)

オケもアンコールではさすがに疲れを感じさせるが、目算4割の熱心な客席は二度の一般参賀でもってマエストロを讃えたのだった。ショスタコーヴィチにちゃんと様式があり、それが有効であることをライヴで再確認できて、心から満足しています。また、このブログでずっと以前からお世話になっているmamebitoさんにTwitterを通じてお会いできたのも、忘れられない思い出になりました。おしまい。
by Sonnenfleck | 2012-10-27 08:38 | 演奏会聴き語り

コバケン・ザ・ワールド vol.2@東京芸術劇場(9/9)そして時は動き出す…

c0060659_5381035.jpg【2012年9月9日(日) 14:00~ 東京芸術劇場】
●チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 イ長調 op.33
 ○新井満/編曲者不詳:《千の風になって》*
→遠藤真理(Vc)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
⇒小林研一郎(Pf*)/日本フィルハーモニー交響楽団


予想どおり、誠実で真っ当な第5の演奏だった。
第2楽章ですら、下品なフレージングやアーティキュレーションが注意深く避けられているのが興味深い。第3楽章の歌い込みは予想に反して抑制的だったし(それゆえに等身大の真実味のようなものが漂っていた)、第4楽章の躊躇しない快速テンポは小気味よい。これ、誠実で真っ当と表現して何がいけないだろうか。

味つけの局所的なコバケン化は、現在、本家以外の指揮者やオケでむしろ如実に進んでいて(これはなかなかショッキングな事実ではありませんか皆さん?)、本家はいつのまにか安心して聴けるような存在になったようだ。僕たちはこの事実にしっかりと気がつくべき。べきですか?

改めてどこかで書くかもしれないが、ショスタコーヴィチの5番や12番に疑わしげな表情をたくさんぶら下げるのは、かえって無粋な行為じゃないかという気がしてきている。あるいは、そうした懐疑精神には自分は疲労感を覚えるようになったと言えばいいかな。パーヴォ何とかのチャラチャラしたショスタコより、この日のコバケンのほうがより今の僕の好みに近い。

ところで残念なことに、日フィルはラザレフ親分が振るときのような注意深さを忘れて、何年か前の「奔放な」合奏に戻っていたが、これはいただけない。コバケンがアンサンブルの練磨にそれほど興味を持たないことをいちばんよく知るのは日フィル自身なのでは。彼の監督下から離れた今、オケが取り組むべきは「彼と一緒になったときでも昔に戻らない」アンサンブルの自己陶冶かもしれない。

前半のチャイコフスキーについてはあんまり語るべき言葉を持たない。ロココ的気分以外の何かを乗せられるくらい、懐の広い作品とは思われないのです。
アンコールはVcソナタ版《千の風になって》。見渡すホールのオチコチで、おっちゃんおばちゃんが泣いてたよ。みんな洟すすってたのよ。10年前の自分ならこの選曲は許せなかったが、今はこれもありだなあと感じる。

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時が動き出した新しい芸劇については、また別のエントリで。
by Sonnenfleck | 2012-09-21 05:43 | 演奏会聴き語り