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スクロヴァチェフスキ/読響 第67回みなとみらいホリデー名曲シリーズ|そして8年後…(10/6)

c0060659_2281916.jpg【2013年10月6日(日) 14:00~ みなとみらいホール】
●ベルリオーズ:劇的交響曲《ロミオとジュリエット》op.17~〈序奏〉〈愛の情景〉〈ロミオひとり〉〈キャピュレット家の大饗宴〉
●ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ニ短調 op.47
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
 読売日本交響楽団


正直に告白すると、僕はスクロヴァチェフスキを「何かもういーや」と思っていた。かつてあれほど心酔したにも関わらず、ここ最近の動向について情報を集めることすらしてこなかった。
ところが今年の読響客演のショスタコーヴィチが、何やら大変な反響を呼んでいる。そうなると現金なもので、2005年客演時のショスタコの極めて素晴らしいパフォーマンスを思い出し、やがて当日券を頼みにホールへ足が向いてしまうのであった。

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で、どうだったか。
第4楽章の凄まじいギアチェンジ、この考え抜かれ鍛え抜かれた推進力には恐れ入った。自分が8年前に書いた感想文がそのまま生きるので、引用しましょう。
緊張を保持したまま、アタッカで第4楽章。恐ろしく遅いテンポで辺りを蹂躙したかと思えば、シニカルなリタルダンドを掛けてニヤリとさせたり、楽しい仕掛けが満載。ちょっとおこがましい言い方ですが、この曲をよく知っていればいるほど面白いのです。最後、普通の指揮者は素直にコーダに重心を置きますが、スクロヴァはコーダの直前に大きなクレッシェンドを掛け、異常に肥大した山を作る。聴き手はここでもまた度肝を抜かれます。なんていう人だ。。
でも8年後の僕が腰が抜けるほど驚いたのは、この第4楽章ではなくて、第3楽章の信じられないくらい荒涼とした心象風景なのだった。
ショスタコーヴィチの第5交響曲は、もしかすると、ただ第3楽章のために存在しているのかもしれず、また、スクロヴァチェフスキと読響の8年間はそれを証明するのに十分な関係を互いに構築させたのかもしれません。

ご存知のようにこの曲の第3楽章は、ショスタコが書いたもっとも美しいアダージョのひとつです。この美しさをストレートに表現することで成功している演奏もかなり多いし、そのアプローチについて僕はそれほど疑念を持たない鑑賞者だった。そうだったけれども、今日からは違う。

スクロヴァチェフスキは、ここに甘美なブルジョワ糖蜜をたっぷり掛けたりしなかったし、「<強制された歓喜>に対する<抵抗>の自己表現」にもしなかった。爺さんの前でこの楽章はただ、凍てつく冬に「商店」に並ぶ小母さんたちの偉大さに捧げられた、バビ・ヤールの第3.5楽章として存在していた。こんなマチエールの第3楽章は、ただの一度も聴いたことがない!!

バビ・ヤールの言葉なき追加楽章とするために、ポルタメントで厭らしく粘つく2ndVnや、裸のままで乾いたアタックのCb、一斉に縦方向に叫ぶ木管隊、空間を横方向に切り裂くヒリヒリとしたハープに至るまで、スクロヴァ爺さんは容赦なく必要なものを集める。そして彼のいつもの「構築」の柱や梁として、それらのリソースを実に贅沢に使い倒す。
そのようにして組み上げられた響きの空間は、この交響曲が後期ショスタコーヴィチの培地たりうる大傑作であることを、再び僕たちに教えてくれる。「自発的に次に亘る」演奏の前では、誰かが”証言的である”と決めつけるのも、”証言的でない”とみなすのも、等しく意味がない。こうした視点を、僕たちは90歳の元祖モダニスト老人から授けられる。

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それから(これもちゃんと書いておきたい)第2楽章も見事のひと言なのだった。
この1年、能と一緒に狂言を見るようになって、優れた狂言の実践は最初から最後まで厳格な真面目さによって貫かれているということがわかってきた。この楽章はカリカチュアライズが簡単にできるので、今世紀の演奏はかなり露悪的なものが多いように思いますが、それだって狂言と同じで、クソ真面目にドタドタやってこそ活きる。露悪の裏に何もない、すっからかんの素寒貧。この日のスクロヴァチェフスキのドライヴは、ちょっとコンドラシンを思い出させるくらい、完璧だった。

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さて前半のロメジュリ抜粋。「4楽章の劇的<小>交響曲」の形式に整えられたベルリオーズの、異常な前衛性に僕たちは気がつかなければならない。膨張して1839年の木枠を突き破るその姿に、1937年に鉄の文化政策を腐食させ、次代の芽を宿していた音楽を重ねてみるのも、おそらく悪くないのでありましょう。

スクロヴァ爺さん。僕はやっぱりあなたの元に戻ることになりそうです。


by Sonnenfleck | 2013-10-06 23:00 | 演奏会聴き語り

スタニスラフ、工場へ行く

2012年9月、スクロヴァ爺さんが東京に来て読響を振り去っていったが、結局コンサートには足を運ぶことができなかった。ブログやTwitterで観測したかぎりではかなり評判がよろしく、聴けなかったのは無念である。

無念なので少し昔のCDを引っ張り出してきた。

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c0060659_9372681.jpg【Altus/ALT031】
●ベートーヴェン:《大フーガ》変ロ長調 op.133*
●ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲*
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 op.67**
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/NHK交響楽団
(*:1999年1月27日/**:1999年2月5日)

僕がスクロヴァ爺さんを初めて生で聴いたのは、たぶん2004年4月に行なわれた3回のN響定期・オールベートーヴェンプロです。エロイカ(C定期)、第4+第7(A定期)、そして第5(B定期)で当方のハートを鷲づかみにした老人は、やがて読売日響のシェフに就任し、頻繁にその音楽を東京の聴衆に聴かせることになりましたが、あのときN響で味わった精密なベートーヴェンを上回る体験は(僕のところには)ついに訪れなかったのでした。

この1999年N響ライヴは、特にあのときのサントリーホールの様子をかなりはっきりと思い出させてくれる逸品ディスクで、とても大事。

ところどころ筋肉や血潮が見える読響のマッチョな弦よりも、重金属的で古インテリっぽいN響の弦のほうに、スクロヴァチェフスキらしさはより明確に宿ったのではないかと今でも考えていて、《大フーガ》の弦楽合奏を聴いてさらにその考えを深くする。細い金属線で織り上げられていくフーガの軽い手触りには、若い古楽系指揮者たちとは全然別ルートの軽快さがあるんだよね。

ルトスワフスキも素敵。打楽器が特別に峻烈かつ冷徹なリズムを指示されているのは間違いなくて、それがトゥッティを支配することで(むしろ!)前のめりの熱い音楽に仕上がっているのが楽しいです。この人のバルトークと同じで、たとえ縦線が精密に揃っていなかったりしても気にならない。熱いモダニズム!

そして第5。繰り返しになっちゃうけれども、スクロヴァ爺さんのベートーヴェンの軸にあるのは金属線の束感だと思う。しかもそれは、クリーンな工場でオートマティックに機械加工されるツルリとした束じゃなく、町工場の爺さんが技術を習得した時代に最先端だった加工技術によるものである。

何十年もその加工技術ひと筋でやってきた爺さんの製品は、声部の金属線同士が自在にほろほろと解け、解けては融合し、しかし明らかに文学作品ではなくて一個の工業製品として存在している。シンプルに駆動する第3楽章のフガートに、みな人は快感を覚えよ。
by Sonnenfleck | 2012-10-07 09:38 | パンケーキ(19)

スクロヴァチェフスキ/読売日響 第497回定期演奏会(10/16)

c0060659_2201762.jpg【2010年10月16日(土)18:00~ サントリーホール】
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


一年前に芸劇で聴いたブル9の、究極★不自然な曲づくりを目の当たりにして、この指揮者から教えてもらったことやそれにまつわる思い出を守るため、もうライヴで聴くのは止めにしよう、と思った。加齢がいい方向に作用していないとまで考えた。

このチケットを取ったのは、それでもやっぱり、何度目かの不思議体験を期待してしまったからだし、何よりも、同じブル7を取り上げた第437回定期(2005年4月)の再現を望んだからなのだった。そんなわけで今一度、スクロヴァチェフスキ讃。

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ブル9演奏との違いで最も驚きかつ安心したのは、ブルックナーらしい響きの質量をナチュラルに活かして、無理に曲げたり撓めたりはしていなかったこと。無論、2005年の定期を思い出してもそんなことはしてなかったし、CD化された1999年のN響ライヴも同様なのよね。えがったえがった。

ただし、ナチュラル極右派たるギュンター・ヴァントとスクロヴァチェフスキが異なるのは、この人がロマンのお砂糖をちゃんと知っていて、しかもそれを適度に用いる術を心得ているという点に尽きる。
人工甘味料とお砂糖とが似て非なるものであるように、例えば現代の某指揮者Tなどが恣意的に復刻を試みる音楽のロマンティックと、モダニストとして生きてきたスクロヴァ爺さんが「自分の物ではなく、むしろ自分はアンチなのだが、まさにそのためによく知っている」音楽のロマンティックと、どう違うかと言うと、それはもうまるで違うんだ。爺さまが今回のブル7で控えめに、しかし確かにまぶしてきたお砂糖は、『1984年』のサッカリンではなかったのだった。

第1・第2楽章の峰と、第3・第4楽章の丘、平原、という構成は五年前と変化ない。でも、あのときに比べてなお素晴らしい印象を残したのは、第2楽章のオトコっぽい甘美さであった。
第1楽章をいつものように骨っぽく、しかし僕がよく知っているレベルの自然さで造形した後、この楽章は内部から響きがじんわりと膨張し、いくぶんもっさりとしたアーティキュレーションの中で、控えめにロマンティックな歌心が奏でられる(ここでの読響Va隊の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい)。辛口の指揮者がふと取り出す(と見せかけてたぶんこの人は全部計算しているのだが…)ホンモノのお砂糖は絶大な効果を与える。また、こういう演奏を聴くと、ブルックナーが中二男子のような感覚をずっと志向していたような気がしてくるし、また、ブルックナー好きに女性が少ないと言われるのもなんとなく納得がいく。
クライマックスの後、ワーグナーテューバも太く円やか。

その直後の第3楽章の勢いに任せたような雑なアンサンブルもをかし。これもスクロヴァ+読響の味わいと思う。
第4楽章は予想以上に音運びのバランスがよく、音色も開放的で楽天的、ブルックナーのフィナーレを聴く愉しみを存分に味わう。第1楽章主題回帰の直前でホルン隊とワーグナーテューバ隊が左右で鳴き交わす箇所(たぶん)の処理がスクロヴァチェフスキはとても巧くて、峰から降りてきて街の鐘楼で鐘が鳴っているのを耳にするような立体的感が、やはりこの演奏でも聴き取れる。
五年前の感想文を見ると、最後の瞬間に向けた大きなリタルダンドが気に入らなかったようだが、今聴けば、これも大質量をソフトランディングさせるための自然な操作と思われた。自然な静寂と大きな拍手。一般参賀アリ。

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コアなスクロヴァファンには、むしろ前半の《未完成》が究極のご馳走だったかもしれない。あちこちのアクセントは硬い一撃、五線譜がキシキシと音を立てているようなインテンポ、、あれほど干からびて甘みのないシューベルトを僕は生で聴いたことがないですよ。。やっぱり変な爺さん。長生きしてね。
by Sonnenfleck | 2010-10-17 22:00 | 演奏会聴き語り

スクロヴァチェフスキ/読売日響 第114回東京芸術劇場マチネーシリーズ(9/23)

c0060659_9334398.jpg【2009年9月23日(水) 14:00~ 東京芸術劇場】
●ベートーヴェン:Pf協奏曲第4番ト長調 op.58
→アンドレ・ワッツ(Pf)
●ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  読売日本交響楽団


このブログ初期のころはスクロヴァ爺さんにハマっていたこともあって、熱狂的なことを書いたこともある。
名古屋で聴いたザールブリュッケンとのベートーヴェンがそんなによくなかったこと、また同様に、彼のブルックナー全集が好みではなかったこともあって、今や気持ちはかなり離れましたが、それでも常任最終シーズンの冒頭を飾るブル9となると、聴き逃すことはできない。

で、どうだったか?スクロヴァの年齢から考えて、彼が指揮を執るブル9をまた生で聴くことはもうないような気がすることを踏まえると、自分にとってはほろ苦い結末だったと言えます。
全体の造形はザールブリュッケンとの全集録音とほとんど変わりない。かなり速めのインテンポを下地に、ブルヲタが浸りたがるような壮麗な箇所ほどむしろテンポを速め、ハーモニーもどぎつく彩る、その方向は同じ。第3楽章になって急激に浪漫化するのも同じ。もともと好みではなかったこの設計を実際に生で体験してみると、かなり白ける場面が多かったな。。

もともとヴォリュームのある曲想なので、響きにも慣性みたいなものが生まれ、空間に自然なカーヴがいくつも出現するのがこの作品のノーマルなスタイルじゃないかと思います。そのカーヴを90度に交わる直角に変えてしまうやり方は、聴いていて確かにスリリングではあるけれども、スクロヴァがたとえばベートーヴェンでやるほどには、効果を素直に発揮していないように感じる。ここんところは好みの問題だから突っ込まれてもうまく反論できないけどさ。

23日はアンサンブルもガタガタで、技術的瞬間的なミスはある程度仕方がないけど、ところどころでアインザッツすら合っていないのにはガッカリ。そういう要素は仮令指揮者の指示がなくても、最低限の土台として揃えておくのがプロだと思う。スクロヴァから「アンサンブルはわざと乱せ」という指示が出ていたか、あるいは翌24日のサントリー公演のための有料ゲネプロだったのかもしれない。

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前半の伴奏は、この人としては珍しいことに非常に美しい音色を伴っていて、意外な側面を垣間見た気がする。ソリストはあまりにも粗野で驚きでしたが。
by Sonnenfleck | 2009-11-28 09:46 | 演奏会聴き語り

進め第6樹海。

c0060659_6313254.jpg【OEHMS/OC215】
●ブルックナー:交響曲第6番イ長調
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  ザールブリュッケン放送交響楽団

豊かな痛勤ライフのお供にブル6。発車メロディと混じっても。
1週間くらい毎日のように聴いていたら、この不思議な曲の魅力に憑りつかれてしまったようです。

質実剛健簡浄素朴、どっしりと奇を衒わないのがブルックナーだとしたら(あるいはブルックナー好きの方がお持ちのイメージがそうしたものだとしたら)、この曲はそこから少し外れているためにあまり人気が出ないのかもしれない。メロディもリズムもハーモニーもどれも細かく揺れ動いて質実や簡浄を体現しているとは思えず、例の放心するようなゲネラルパウゼもあまり見当たらないし、メロディもお洒落なものが多いし、、アントンおじさんは自分を開放し切った第5番の後に、自分とは縁遠いものを音にしてみようと思ったのかなあ。

そういう作品のそういうところに力を発揮しているのがミスターS。
基本的に他の作品と同じように早めのインテンポで進めていきますが、やはりスクロヴァ爺さんの指示の細かさは異常なレベルで、僕がiPodで聴いていたナガノ/ベルリン・ドイツ響の薄味演奏とは進んでいる方向がまったく違っていて驚きでした。
たとえばユニークで非常に美しいこの曲の第2楽章は、どなたかが「ブルックナーの『アダージェット』」と書かれていて、なるほどの極み。純粋無垢ではないけれども飛び抜けてビターな美しさを誇る楽章ですね。
前述のナガノの曲づくりはなかなか先が見えづらく、一面に薄い月明かりがあるだけで、茫洋とした響きに呑まれるような不安な心地よさが感じられるのですが、スクロヴァチェフスキはそうではない。彼の示す明かりは明確で、次の曲がり角、次の小道、そこの側道、とヘッドライトで照らしながら、いつもは見えない「道しるべ」を僕たちに示してくれます。ですので、夜の樹海をハイスペックな自動車で突っ切っていくようなスリリングな調子が楽しめるということ。もちろん樹海全部を克明にライトアップするようなことはしないので(神秘は神秘のまま)、たとえばブーレーズが指揮した8番とは根本的に発想が異なるわけです。

前にも実演で聴いたとおり、ザールブリュッケン放送響は物凄く魅力的な音のするオーケストラではなく、アンサンブルも微妙に雑だったりしますが、スクロヴァチェフスキの細かい要求に応える様子が素敵だし、そんなところも読響と似ている気がする。
爺さまの読響常任指揮者任期はもうすぐ終わりを迎えますが、この最後のシーズンはなるべくホールへ足を運び、爺さまの得意な作品を味わいたいなあと思っています。
by Sonnenfleck | 2009-02-05 06:38 | パンケーキ(19)

DS爺さんCH

c0060659_753355.jpg【LIVE SUPREME/LSU1070-2】
●ゴルトシュミット:Vc協奏曲
→ダヴィード・ゲリンガス(Vc)
●ショスタコーヴィチ:交響曲第10番変ホ短調 op.93
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/
  ベルリン・ドイツ交響楽団
(2003年5月3日、たぶん@ベルリン・フィルハーモニー)

こういう優秀オケで聴きたかった!
スクロヴァチェフスキ&ベルリン・ドイツ響
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番(5月10日正規発売/Weitblick)
の、前日のライヴ。前半の渋~いチョイスと併せて収録された海賊盤が出てるんですが、タコ10ヲタなら今度の正規盤も買わねばならぬであります。

初めて聴いたとき、スクロヴァ爺さんにしては引っ掛かりが少なくてストレートだなあと思ったんですけど、今取り出してフレーズ毎にちゃんと聴いてみると、変に細かい設計があちこちに施されていることに気がつきます。
第1楽章の偉大な展開部では大蛇がのたくるような「巨匠らしい」大見得が切られているし(これもメタな表現なのかなと思わせるのがスクロヴァ爺さんを聴く面白みのひとつでしょう)、再現部以降は反対におっそろしいくらい細密なデュナーミクを要求している。
第2楽章のリズム感のよさ(とテンションの低さ)は精密を通り越して不気味です。この楽章がラヴェルみたいに聴こえるのはなかなか味わえない経験。HMVが煽っているほどベルリン・ドイツ響は凄腕オケじゃないと思うけど、健闘してます。

続く第3楽章との間に齟齬がないのが、またも面白ポイント。
この楽章は意図的に不気味に演出されすぎる嫌いがあって、巧くいけばはまるけど、、そんな例はほとんど見当たらないのが実情であると思う。これくらい開き直ってドライにやってくれると気持ちいですね。克明です。中間部も変なアッチェレランドを加えて遊んでる。
逆に第4楽章のアンダンテはもったりまったりして、、対比フェチのS爺さんらしい。
最初のレミ♭ドシは叫ばない。しかし一休みしてから、、、、こっからは正規盤を買って確かめてみてください。こうやって書いたらレコード会社からお小遣いくらいもらいたいなぁ(笑)

老巨匠としての期待など意に介さない「変な」造形ですから、一直線だったり大らかだったりするショスタコーヴィチを期待していると完全に肩透かしであります。この神経質さが好き。今シーズンも生で聴けなかったなー。
by Sonnenfleck | 2008-04-17 07:07 | パンケーキ(20)

スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケン放送響@名古屋

【2006年11月30日(木)19:00~ 愛知県芸術劇場】
●ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68 《田園》
●同:交響曲第5番ハ短調 Op.67
⇒スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケン放送交響楽団


名古屋でS爺の指揮に接するのは不可能かと思ってましたが、本日願いかなって去年の5月以来1年半ぶりに爺さまの演奏会へ。東京のベートーヴェン・ツィクルスを横目に、名古屋では一晩のみ…しかしプログラムが「師走の風物詩」や「話題のベトナナ」でなかったのは幸いでした。僕は再びあの第5、2004年のN響B定期で度肝を抜かれた、あの《運命》が聴きたかった!

あのとき、第3楽章トリオ(ハ長調になって低弦→Va→2ndVn→1stVnとフガートを繰り広げる箇所)が異常な立体性をもって耳に届き、まるで音が目に見えるような、スクリャービン的な怪しい共感覚モドキを引き起こしたんです。スクロヴァチェフスキは対抗配置の人なので、最後にトリオの主題が2ndVnから指揮者を飛び越えて1stVnに向かう様子は、音符で橋が架かるようでした。こうして言葉にしてしまうといかにも陳腐なのですが、後にも先にも生演奏でああいう立体感を味わうことはなく、今に至ります。。さて。

結論から先に言うと、この日はあそこまでのものは現れませんでした。期待しすぎていたせいもあるだろうけど、あれはスクロヴァに不慣れだったN響が必死で棒についていこうとして生まれた偶然の響きなのかもしれない。今回はオケがスクロヴァの意思を完璧に把握しているからなのか、あの箇所についてはちょっとスマートすぎたカモ。

しかしもちろん、この蜜月は他の楽章・他の楽句において、限りなくプラスに働くわけです。
第5の第1楽章や第4楽章、あるいは第6の第4-5楽章の鬼気迫るうねりは、N響や読響ではそれほど積極的には聴かれなかったS爺のもうひとつの側面。
この人は基本的に鋭くクールに流す人なので、ごく偶に微少なルバートがかかったりしてテンポが揺れると…物凄く興奮する。この意外にエロティックな揺らぎ(しかし計算づく)が、スクロヴァチェフスキのもうひとつの特徴だと思う。こうした巧妙な対比をよくわきまえたオーケストラの繊細な身振り、そしてそこから導き出される曲の骨格を楽しむのが、S爺を生で聴く醍醐味なんですね。この人の音楽こそマイクに収まりきらないタイプかと。

第5の第4楽章で、冒頭の4分音符3つを高らかに鳴らした後…あろうことか次の8分音符6つをすべてダウンボウで卑屈に弾かせるという暴挙。これだからスクロヴァ爺さんを聴くのはやめられないのです。今回の伝説はこれだ。
by Sonnenfleck | 2006-12-01 20:51 | 演奏会聴き語り