「ほっ」と。キャンペーン

タグ:ドヴォルザーク ( 10 ) タグの人気記事

円光寺雅彦/名フィル 第416回定期演奏会@愛知県芸術劇場(9/6)

c0060659_10484791.jpg【2014年9月6日(土)16:00~ 愛知県芸術劇場コンサートホール】
●スメタナ:《売られた花嫁》序曲
●ドヴォルザーク:Pf協奏曲ト短調 op.33
 ○同:ユーモレスク
→スティーヴン・ハフ(Pf)
●マルティヌー:交響曲第1番 H289
⇒円光寺雅彦/
 名古屋フィルハーモニー交響楽団


半年書いてないと書けなくなるものですわな。どうやって話を運べばいいか忘れてしまった。名古屋引っ越し後やっと名フィルに行けた記念で、ひさびさに感想文を上げます。

2014.4-2015.3シーズンの名フィルは「ファースト」というテーマで、相変わらず孤高のマニアック路線を貫いている。僕が6年前に名古屋を離れる前からこの姿勢がしぶとく続いているのは、シンプルに「いい根性してる!」というひと言に尽きるのではないかと。オーケストラの財政にはあまり興味がないクラシック音楽オタクである僕は、誰が何と言おうと今でもこの姿勢に賛辞を送りたいのです。
知られざる佳い音楽を街に広める活動と、それが儲かるかどうかというのは根本的に別問題で、後者はそれについて詳しい別の方が批評すればよい。僕は前者の、作品の力による都市文化の底上げ活動を全力で応援します。名フィル定期会員の善良なるおじさまおばさま、そしてY席にお行儀よく座って熱心に聴いている中高生たちはそろそろ、Eテレで見るN響の退屈なオール名曲プログラムに我慢できなくなってきているのではないでしょうか(期待を込めてね…!)

+ + +

この日のプログラムはマルティヌーの「ファースト」である交響曲第1番がメインに据えられていて、僕はこの曲を聴きに来たつもりだったのですよ。でも終わってみれば、強く印象に残ったのは真ん中のドヴォPfコンだったわけ。

ドヴォルザークのPf協奏曲、たぶんどこかの演奏会で聴いたことがあったんだろうと思うんだけれど、ブラームスのPf協奏曲にシューベルトのセンスを振りかけたような捉えどころのない曲想が災いしてかそもそもあまりいい印象を持っていなかった。
ブラームスのPf協奏曲がそもそも輝かしいソリストの技巧を聴くという作品ではないし、それがさらに迷いの森のようなテクスチュアを与えられればなおのこと。この日もこの曲で寝てしまうことを覚悟でホールに向かったのだった。

ところが、まずソリストのスティーヴン・ハフが試みていることに圧倒されてしまった。僕はピアノが弾けないのでピアノ弾きの方が聴いたときに把握されるハフの秘策がいまいちわからないのだけど、どうせなら感性学徒のはしくれとして、どこまでも可感的に把握できればと思っている。
そうして可感的に把握できるハフの端正な美音、そしてメロディラインのごくわずかな揺れから、雨後の渓谷のような香気が音楽として形成されていたのだよねえ。その少し冷たい香気を鼻からいっぱいに吸って、ドヴォルザークの音楽を胸にためた。一説によればオーケストラとソリストの間には「危険な瞬間」があったそうだけど、少し遠くに離れた地点からの聴取ではそんなに気にならなかった、というのが本音(単に聴き取れていないだけかもしれないけどね)。

ところがねえ。。マルティヌーがねえ。
ドヴォルザークで聴かれていた渓谷の香気は、鈍重なダムのような極端につまらない解釈によってずたずたにされてしまった。円光寺氏の指揮っぷりを聴いてこれまでに佳いと思ったことはただの一度もないけど、今回も順調にその履歴が更新されました。やったね☆

この交響曲は舞踊的なリズムと冷え冷えとしたメロディをどれくらい精密に実践できるかが勘どころと思いますが、ビエロフラーヴェク/BBC響の優れた演奏で予習していったのが仇となった感あり。ずーずーずー、べーべーべー、という「力点のない」リズム把握ではもうどうにも弁護のしようがない(オーケストラの側には絶対に非がない!と断言はできないかもしれないけど、こういうもっさい性質の音楽づくりでは、プラスアルファの「自発性」が「逸脱」と見なされてしまうのだろうなあ…と推察するところであります)。こういうガックリくる経験を積み重ねておくと、佳き演奏に巡り会えたときの感動はひとしお。応援しています名フィル!
by Sonnenfleck | 2014-11-01 11:10 | 演奏会聴き語り

ブロムシュテット/N響 第1706回定期@NHKホール(9/10)

c0060659_622413.jpg

【2011年9月10日(土) 18:00~ NHKホール】
●シベリウス:Vn協奏曲ニ短調 op.47
→竹澤恭子(Vn)
●ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調 op.95《新世界より》
⇒ヘルベルト・ブロムシュテット/NHK交響楽団


ドヴォルザークについて書きますと。
僕は、この曲がこんなにブルックナーのように聴こえたことはありません。
よく聴き慣れたこの交響曲で、新しい経験でした。

第1楽章は直線的な音楽で、またブロムシュテットもそれをことさら直線的に造形していたので「ブルックナー的」は表出しなかったが(むしろ「シューベルト的」だったかもしれない)第2楽章の途中から、あれ、なんかおかしいなあ変だなあという雲行き。音塊の束ね方、浮き上がる奥のリズム。

第3楽章になるとその空気はいっそう明確になる。
スケルツォのダイナミックレンジはきわめて幅広く取られるいっぽう、細密なグラデーションをあえて止め、音量のごつごつした移動を志向している。また、緊張の強いスケルツォに対置してふつう茶目っ気や長閑さを狙って造形されるトリオなど、逆にくそ真面目に音価を引き摺って頑迷な雰囲気を醸す。そうした手法により、経過句を経て第2トリオに至る道は完全にブルックナー状態である。

さて第4楽章は、ほとんど非人間的と言ってもいいリズム管理にぞくぞくさせられる。著名なメロディたちが颱風の雲のようにひゅうと流れていくその下で、ひたすら整った打点を取り続けるブロムシュテット。ブルックナーの理想はこういうリズム管理ではないか?
再現部、第2主題とともにホルンが高く歌った直後に置いてある「たぁらんた|たぁらんた|たぁらんた」というフレーズに予想外の強い粘りを込めてアッチェレランドさせる様子。それからコーダ、金管を中心としたトゥッティのコラール風の歩みを、全要素を全開にするんではなくきちんと束ねてリズムをくっきりさせるやり方。

ドヴォルザークはもっと野放図に歌えたほうが好いという声も(演奏者と聴衆の両方から)あがりそうだけど、理性によって管理されたアントニンがアントン化する様子をしかと見届けました。たいへん面白かった。
by Sonnenfleck | 2011-09-16 06:22 | 演奏会聴き語り

on the air:ドホナーニ/ボストン響の生中継を聴く。

c0060659_18133225.jpg

【2011年1月29日 20:00~ ボストン・シンフォニーホール】
●リゲティ:FlとObのための二重協奏曲(1972)
→エリザベス・ローヴェ(Fl)+ジョン・フェリロ(Ob)
●モーツァルト:Vn協奏曲第4番二長調 K218
→アラベラ・シュタインバッハー(Vn)
●ドヴォルザーク:交響曲第7番ニ短調 op.70
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/ボストン交響楽団
(2011年1月30日/WGBH All Classical生中継)

おかかさんのウェブラジオ番組表をありがたく眺めていたら、ドホナーニのライヴが中継されることに気がつき、慌ててWGBHにアクセス。この両者、CD脳からすると見慣れぬ組み合わせですが、定期やタングルウッドではちょくちょく共演しているみたい。僕はこのカップリングは初めて聴きます。

+ + +

まずリゲティの、Fl+Obダブルコンチェルト
ここ1年ほどでバルトークへの個人的親和が急激に高まってからというもの、リゲティの中の「バルトーク性」にも同じような強い共感を覚えるようになっている。
この作品も第1楽章、まずはクラスター風のゆったり模糊とした弱音の漂いに惹かれる。確かに都市的な緊張感もあるが、それとは矛盾して土や草の強い香りもする。緩やかにグラデーションが移り変わる。とても微細で素敵なグラデーション。そして、どこまでも丁寧な音色の捌きかた。ドホナーニらしい。

二人のソリストも、このように視覚効果がなければ、オーケストラの薄さも相まってソロには聴こえない。第2楽章は微細グラデからもう少し動きが出てくるけど、ハルモニームジークみたいな趣き。かわいらしいナンバーでした。

続いてモーツァルト第4Vn協奏曲
実は、生まれて初めて生で聴いたヴァイオリン協奏曲がこの曲でしてね。以来これまで偏愛。したがってドホナーニの指揮でこれが聴けるのは望外の喜びだねえ。
第1楽章のマーチ風主題を聴くだけでもう、その仮借なくエレガントなリズムの踏み出し方に心を鷲づかみにされてしまう。ドホナーニ先生のモーツァルトの美点のひとつが、リズムが絶対に後ろに倒れないのに、別段急いでいるようには聴こえない、その魔法のような時間感覚なのだが、今回もそれがよく聴き取れる。先生も最近、でかいシンフォニーばっかり振ってたけど、モーツァルトを振ると今でもこうしてくっきりとした時間造形になるんだな。すげえな。

第2楽章の、野の花のような透明感、、いや、これなんですよ。ドホナーニを聴いていて幸せなのはこういう瞬間。冒頭の清楚な響きもよかったし、ソリストのカデンツァを受け止めて柔らかい花弁が開くような絶妙なルバートにも身もだえする。
ピリオド以前のモーツァルトのいいところだけが、高圧下に結晶化してきらきら光ってるような感じがするよね。もう20年くらいしたらこういう演奏が大絶賛されるようになって、こっちの方向に揺り戻しがくるんじゃないかと密かに思っている。

ソロのシュタインバッハー嬢は右手の線が華奢で、それがために、主張の強いピリオドアプローチに触らずにこの曲のようなピースフルなパッセージを弾いているといかにもお稽古的で、物足りなさが残るなあ。



休憩後、ドヴォ7。ドホナーニ先生の十八番ですな。
うーん。
なんだか実体感が薄い。思念の音楽みたいになっているぞ。。
WGBHのビットレートは中程度なので、前半みたいに編成が薄い作品だとあんまり気にならなかったけど、こういう厚いロマン派交響曲には向かないのかもしれん。だといいな。第2・第3楽章の寂寞としたさま、特に後者、中間部から主部に帰ってくる局面でのすべすべした移行には、生きる活力のようなものが完全に失われている。いやはや。

…これ、ビットレートのせいじゃないな。第4楽章もどことなくおかしい。
フレーズが浮き上がるジャンプ力みたいなものが、音が沈み込んで消える作用に負けてしまっている。前述のようにリズムが絶対に後ろに倒れないし、響きも往時と同じようにきゅっと引き締まっているので、音のない空隙の存在感がよけいに増しているんだな。
こんなに静かな音楽になってしまったら、このあとはもう行き止まりじゃないか。。モーツァルトは特に変化を感じなかったけど、ドヴォルザークがこういう状態では、ブラームスやマーラーなどいったいどうなってしまってるんだ。。
2011年のドホナーニ、追わねば。
by Sonnenfleck | 2011-01-30 18:32 | on the air

on the air:ペレーニ+N響 第1641回定期公演

c0060659_525583.gif【2009年2月13日(金)19:00~ 第1641回定期公演/NHKホール】
●ドヴォルザーク:Vc協奏曲ロ短調 op.104
 ○アンコール バッハ:無伴奏Vc組曲第6番ニ長調~サラバンド
→ミクローシュ・ペレーニ(Vc)
●同:交響曲第9番ホ短調 op.95 《新世界より》
⇒カルロ・リッツィ/NHK交響楽団
(2009年2月13日/NHK-FM 生中継)

ペレーニを聴くために録音定期。NHKホールで聴くよりも自宅で電波を受信させた方が、きっとよく聴こえるはず。
かつてとんでもなく品のないシューマンを聴かされたことのある指揮のリッツィには悪い印象しかないのでかなり危ぶまれましたが、いやー、ペレーニの音でだいぶ赦されますよ。ブリブリの肉厚な光沢を誇るチェリストはいくらでもいると思うけど、ペレーニのように銀の音色を持つチェリストが、この楽器をこのように聴き疲れしないマットな音色で、しかも「響かせる」ことのできるチェリストが、彼のほかにどれくらいの数いるのでしょうか。
第2楽章中間部でやはりオケに汚い強奏の指示が出されていたけど(この曲はイタオペじゃない!)、その濁りの間をすり抜けて涼やかな音を維持するペレーニ。カデンツァ部分以降のしみじみとした味わいは(ここは木管陣のセンスを含めて)絶品です。

第3楽章のトゥッティは鼻が詰まってるみたいな浅い呼吸で始まりましてガックシでしたが(花粉症の季節ですからね)、途中の副主題連中はなかなか自然な佇まいで、やっぱり悠揚迫らぬスタンスのペレーニのしなやかな身のこなしとはなんとかマッチングしていました。それからこの日のコンマスがマロ氏であり、あのお方でなかったのは本当にラッキー。

アンコールのバッハではしっかりと泣かされてしまったです。これといって何か奇矯なことをしているわけではなくて、旨い根菜みたいな力強い香りがするだけなんだけど、こういうのって意外に聴けないものなのだ。本当に素敵な音色。聴けてよかった。

で、ここで聴くのをやめました。きっと後半聴いたらゲンナリするだろうから。。ゴメンナサイ。

+ + +

ペレーニ、トッパンホールでの公演はすでに完売ですが、本日夜に札幌のkitara小ホールで行なわれるリサイタルはまだ空席があって、ちょうどこれから出張で札幌に向かう僕は、、夕方から仕事があるので聴けません(泣)
by Sonnenfleck | 2009-02-19 05:46 | on the air

ハーディング/新日フィル クリスマス特別演奏会@東京芸術劇場

【2008年12月27日(土)14:00~ 東京芸術劇場】
●ドヴォルザーク:序曲《謝肉祭》 op.92
●エルガー:《愛の挨拶》 op.12
●ヴェルディ:《運命の力》序曲
●ドヴォルザーク:スラヴ舞曲第7番ハ短調 op.72-7
●同:交響曲第9番ホ短調 op.95 《新世界より》
⇒ダニエル・ハーディング/新日本フィルハーモニー交響楽団


今年のランキングはもう締めちゃったんですが、体調がよくなったので出かけてきました。
初の生ハーディングということで、、やっぱり生で聴いてみないとわからないことが多い。

◆スタイリッシュで、
聞き及んでいたとおり細くて小さい体型ながら、フィジカルな動きをそのまま細かなアーティキュレーションに反映させてしまう手腕。下から掬い上げて空中に放り投げる仕草で音楽を膨らませるところなんか、惚れ惚れとするくらいカッコイイ指揮姿でありました。

◆器用で、
今回のプログラムはあみだくじで決めたんじゃないかというくらい統一感も何もない。
まったく粘りのないするするとした《謝肉祭》序曲から、一転してポルタメントを多用する《愛の挨拶》、遠慮会釈ない強奏でうんりきを聴かせたあとに陽気なスラヴ舞曲が流れたときには、場内から失笑が聴こえたとか聴こえないとか。。
しかしこの頓馬なプログラムが敷かれたために、ハーディングの見事な様式感の捌き分けを聴くことができて幸運であったといえます。こんなに器用にソツなくこなされてしまうとどうしようもないよねえ。。それにしても新日フィルの反応のよさには驚きました。

◆器用で、―貧乏か?
《新世界より》を聴き終えて印象として残るのが、いつもであれば暗褐色暗緑色の団子なんですよ。自分の場合。このドヴォルザークの名曲はメロディもリズムもハーモニーも豊かすぎて、それゆえに隣り合った要素同士が簡単に混ざってしまいがちであり、その結果として後に残るのは団子。
ハーディングはどうしたか?彼はそれらの豊かすぎる素材一個一個に対して、さらに気の遠くなるような細かな演出を施しているのです。普通であれば団子の材料として供出されてしまってもおかしくない経過句的なパッセージのひとつひとつに、あるいは見逃されがちな一瞬の縦構造のバランスに、憎たらしい演出がついている。
僕はラトルの演奏を未だに生で聴いたことがないのだけど、「演出」の積み重ねによって音楽を造形するタイプの演奏、その鬼のようなモデリング能力に、実際に生で接するとこういう感じなのですね。そこに浪漫性の熱っぽさは存在しないかもしれませんが、僕には、これは素直にスゲーと思われたのです。

◇芸劇
2006年のダスビ以来ほぼ3年ぶり。2b出口からのルートは健在でした。
愛知県芸の豊かな(豊かすぎる?)響きでオケを聴くことに慣れきっていたので、意外とデッドに感じられます。でも今度は、ここが自分のホームになるのだ。たぶん。近いし。
by Sonnenfleck | 2008-12-28 08:57 | 演奏会聴き語り

on the air:ティチアーティ/バンベルク響のドヴォ7

c0060659_6551454.jpg【2008年5月25日 ヨゼフ・カイルベルト・ザール】
●バッハ/リンドベルイ:管弦楽のためのコラール《Es ist genug》
●ブラームス:Vn協奏曲ニ長調 op.77
→ルノー・カプソン(Vn)
●ドヴォルザーク:交響曲第7番ニ短調 op.70
⇒ロビン・ティチアーティ/バンベルク交響楽団
(2008年11月4日/Bayern 4)

シベリウスの第5番を聴いて追っかけることにした、1983年生まれの指揮者ロビン・ティチアーティ。今度はバンベルクに現れました。

まずマグヌス・リンドベルイのコラール編曲ですが、これはアルバン・ベルクが彼のVn協奏曲に引用した、バッハのカンタータ第60番《おお永遠、そは雷の言葉》に使われているあのコラールですね。リンドベルイらしく「難しいこと言ってないで僕の音楽聴いてよ」といった感じの人懐こい曲調で、最初にそのままのコラールを提示した後、音符を装飾品のようにジャラジャラとぶら下げた、色彩的で放恣な姿に変容した旋律が登場します。最後はキレイに解決しちゃいますが。。
コラールを奏でる金管を聴いていると、バンベルク響の基礎体力の高さを感じます。

次のブラームスの伴奏からして、呼吸するように旋律を流すティチアーティのセンスがすでに活きているように思う。フレーズの息が長ければ長いほど、なめらかな稜線を見事に造形してしまうんです。そのうえでナチュラルに明るく胸がすくような響きをずっと保っているのだから驚きますよ(ノット親方の薫陶によるのかもしれないけど、バンベルク響ってもっと重い音のするオケだと思っていた!)
カプソン兄のVnは案外イケイケで攻撃的なんですが、第2楽章はそれが抑制されてひたすら美しい世界が連なっています。こういう日常の等身大の幸せっていいよね。。芸術音楽が表現するものが透徹した美だけだったら、息が詰まってしまう。
最後の和音がめちゃくちゃきれいだ。はぁぁ。
第3楽章もコーダへの伸びやかなアプローチが気持ちいい。

メインのドヴォルザーク、交響曲第7番
やっぱこの曲って都会的だよなあ。ティチアーティは変なアゴーギクを仕込んだりするスタイルではないようだし、前述のように横軸方向への運びが非常に優美かつなめらかなので、余計それが際立つ格好。逆に停滞や引き攣りを積極的に要求する性格の作品(マーラーとかショスタコとかプロコフィエフね)を彼が指揮するとどうなるか、今はまだ想像がつかないんだけど、少なくともここでは軽く弾む鞠が坂を転げていくように順調です。
いやーバンベルクのホルン隊は巧いなー。

ティチアーティ、痺れて溺れるような快感じゃなくて、明るく健康的な快感をオーケストラから常に引き出すことができる指揮者のようなんです。眉間に皺を寄せた聴き手にどう評価されるか知らないけれども、僕は彼の優美な音運びが好きです。生で聴いてみたいなあ。
by Sonnenfleck | 2008-11-29 07:13 | on the air

暗い淵から

久しぶりにニコニコ動画に潜ったら、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルの《新世界より》がUPされてるのを見つけまして。(こちら←音が出ます)
(おそらくマイクの位置のせいで)指揮者の意図から外れるくらい大音量の金管楽器に関するコメントと、しょうもない替え歌のコメントが合わさって濁流のようになっているので、うんざりして「コメント非表示」をクリックしましたが…第4楽章の壮絶に美しい弦の滴りをしばし堪能。

でも、ドヴォルザークのエグみみたいなものを、チェリは最重要視しなかったと思う。
豊かな旋律、愉快なリズム、その隙間の淵にちょっとだけ澱む苦み、、もちろんまったく無視していたわけじゃないだろうけど、それを第一に表現するべきとは考えなかったんではないかしら。美しく磨き上げることで一回転してメタな感興を催させることはあるにしても。

+ + +

c0060659_63137100.jpg【DGG/UCCG-9132】
<ドヴォルザーク>
●序曲《謝肉祭》 op.92
●スラヴ舞曲集 op.46
●スケルツォ・カプリチオーソ op.66
●交響詩《水の精》 op.107
⇒ラファエル・クーベリック/バイエルン放送交響楽団

この、明るいドヴォルザーク草原の脇の、暗い淵の奥のほうに澱んでいる不気味な苦みについて配慮を感じさせるのが、クーベリックの指揮だと思うんですね。
《スラヴ舞曲集》なんかいかにもご機嫌なナンバーが続くじゃないですか。何が苦みかとおっしゃるかたは、草原と羊でも出てきそうな第3番変イ長調のことを思い出してみてください。冒頭の長閑な主題から金管が現れる中間部へ推移する一瞬、こっちは愉快な気持ちになってるんだけど、ふと隣でゆったりと歩を緩めている譜面の顔を盗み見ると、あーもう全然笑ってない。すんげぇ怖い。
ここの空気の薄め方が、クーベリックは抜群に巧いのです。柔らかくリタルダンドしながらもちょっとヒリヒリするヒステリックな予感を響きに混ぜ込んで、と書いても何が何だかよくわかりませんが、とにかくブレンドの妙としか言いようがないなあ。

あともちろん《水の精》ですね。
アメリカから帰ってきた後の晩年の作品は自分の中ではまだまだ攻略が足りなくて、もっと聴き込まなきゃなあと思っていますが。。
何せ救いのないストーリーです。その不穏なテイストを、エッジのはっきりしたバイエルン放送響の音色を巧く用いて禍々しく描写するクーベリック。「水の精」が近づいてくる(と思われる)箇所の低弦の重厚な音色なんか惚れ惚れとします。
by Sonnenfleck | 2008-09-08 06:34 | パンケーキ(19)

読売日響名曲シリーズ 名古屋公演

調べてみると、最後に読響を生で聴いたのはなんと2005年9月、ロジェストヴェンスキーのオールグラズノフ―西行短歌の朗詠付き―@芸劇という珍妙なプログラムでありました。。オレ(アタシ)聴いたよっていう方、おられますか。。
つまり、スクロヴァ爺さん+シモーノ体制になってからの読響をライヴで聴くのはこれが初めてなんですよ。アルブレヒト時代からどう変わったか?あるいは変わらないのか?

c0060659_6581148.jpg【2008年5月27日(火)19:00~ 愛知県芸術劇場】
●ドヴォルザーク:序曲《謝肉祭》 op.92
●グリーグ:Pf協奏曲イ短調 op.16
→清水和音(Pf)
●ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調 op.88
  ○アンコール バッハ/ストコフスキー:アリア
⇒下野竜也/読売日本交響楽団


プログラムもチラシも…どうなのよ…って感じですが、お懐かしやの読響のためであれば駆けつけます。
でも客席を観察すると、読売新聞からの「聴衆」が非常に多く入っているらしい上に、企画自体が某大手警備会社の冠をかぶってるため、果たして正規料金を払って入場したのはどれくらいいるのかなあという感じ。マナーはここ最近出かけた演奏会の中でも随一の酷さで…飴ちゃんおしゃべり咳くしゃみ、指揮マネ着メロフライング拍手。

で。読響の音は一層ブリリアントに、そして一層重くなったような印象を受けました。
悪い言い方をすれば、箍が外れて放恣な方向に向かっているような気もする。これであの細かいスクロヴァチェフスキとぶつかってるんですから、予想がつきません。
しかし同時に、マエストロ下野と物凄くいい関係を築いているらしいことも伝わってくるんです。1曲目の《謝肉祭》みたいに派手派手な作品であっても、彼の指揮棒にまめまめしく反応して丁寧な造形を(一応)心がけているあの様子、、聴いててちょっと妬けてくるくらい。このコンビをフツーに聴ける東京の人々が羨ましいなー。

グリーグは寝落ち。

ドヴォ8は、(恐らく最後に生で聴いた)フェドセーエフ/東フィルの呪縛から逃れられずにいたんだけれども、当夜のまったく地に足の着いた演奏には感心しました。
まず、下野さんって結構「効果的」すれすれな演出を施すなあという印象があって。今回のドヴォ8でも第1楽章でベッタベタに歌ったり、第4楽章の「コガネムシ」を仰々しく飾ったりする。しかし、それなのに脂っこくないのがこの人の音楽の面白いところで、ギラギラはお手の物である読響を操りながらも、最終的にはほっこりした丁寧な響きを届けてくれるんですね。

グラデーションの文目が微細にコントロールされたり、弱音で歌うことがちゃんと要求されたりした結果、全曲を通じて最も強く印象に残るのが第4楽章の穏やかな再現部なんです。後ろに爆発的なコーダが控えているのに(事実シモーノは大いに煽っていたけど)、あの長閑な抒情を低い姿勢からじっくりと造形するセンスに惚れました。

ノーラン得意の「わりと気ままなソロ」も久しぶりに聴けたし、満足満足。
by Sonnenfleck | 2008-05-29 06:59 | 演奏会聴き語り

on the air:ヴェルザー=メスト/クリーヴランド管

c0060659_610139.jpg【2006年9月30日 クリーヴランド・セヴェランスホール】
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K.453
→レイフ・オヴェ・アンスネス(Pf)
●ドヴォルザーク:交響曲第5番ヘ長調 op.76
●J. シュトラウス:ワルツ《芸術家の生活》 op.316
●同:《アンネン・ポルカ》 op.117
●同:《こうもり》序曲
⇒フランツ・ヴェルザー=メスト/クリーヴランド管弦楽団

ラジオで聴いている最中もそのように思ったんですが、録音したものを改めて聴き返してみると、弱奏も強奏も恐ろしく滑らかでスマート、響きが大変に美しいということがわかります。
そうなると僕の中ではやっぱりカラヤンから受ける印象を思い出してしまう。オケから出てきている音は淡麗辛口という感じの響きなのでカラヤンとはまるで違うけど、ヴェルザー=メストが目指しているのは、ある種の善良なわかりやすさじゃないかなと思います。いよいよ揺り戻しが起きているのではないかと、、さらに根拠なく妄想を書けばそのようになるか。

さらに。
モーツァルトもドヴォルザークも僕にとっては馴染みのある作品ではないけれど(まあ、ドヴォ5といったら今やのだめですが)、ヴェルザー=メストの聴かせ方が巧妙なんでしょう。どちらもすんなりと入り込むことができました。
非常に言葉にしにくいのですが…目の前の箇所をむりやり浮かび上がらせるのではなくて、全体の展開や見通しがちょっとした表情の変化にわかりやすく示されているというのか…。カーブだったり三叉路だったりはするけど基本的にはずっと遠くまで見渡せる道路、これを揺れないクルマで安定走行しているような雰囲気。当然オケもメチャ巧。
あーこれじゃあただの妄言だよなあ。。でもそういう感じなんです。

当日は奇妙なプログラムだったみたいで、ワルツやポルカが最後に演奏されてるんですが、これらの曲における健康的で明るいマチエールにも唸らざるを得ません。全っ然イヤらしさがないんですもん。《アンネン・ポルカ》のしなやかなルバートには舌を巻きます。××年後の1月1日の様子を予想しなければなりません。。
常に音楽芸術が善良でなければならないとしたら、彼がいる現在と未来の楽壇は明るそう。
by Sonnenfleck | 2008-02-08 06:11 | on the air

レトロCDで聴くドホナーニ

c0060659_6462315.jpg【LONDON/F00L-23005】
●ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調 op.95 《新世界より》
●同:同第8番ト長調 op.88
⇒クリストフ・フォン・ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団

BOOKOFFで売ってるCDって実は遺品だったりすることがけっこう多いんじゃないかと思うんですよ…。クラシックを愛していた故人の厖大なコレクションのすべてが、図書館やディスクユニオンやバナナレコードに回収されるわけではないという、、この残酷な未来。。

これは夏に実家へ帰省したときに、近所のBOOKOFFで手に入れたもの。マルPはCD出始めのころの1986年、品番F00L-23005で、元祖「LONDON BEST 100」シリーズの1枚。何度も丁寧に読まれた形跡があるライナーノーツはヨレヨレで、一緒に印字されてる「BEST 100」のラインナップには前オーナーの手書きで丸印とレ点が書き込んであります。架蔵/未架蔵をチェックしてたんだろうな。なんか涙が出てきた。。

…あーもう!しかしかっこいいなドホナーニ先生!
ドホナーニとクリーヴランド管は、それはもうボヘミアの郷愁を音にする気なんかさらさらないようで、美しくもドライな響きをポイっと残してスタスタと前に行ってしまいます。
ジタバタボッテリして品はないがとにかく魅力的な(経験的にはフェドセーエフとかチョン・ミョンフンとかの)ドヴォルザーク、これが多くの聴き手の心に直接触れるという事実は確かに認めます。でも、こうして白々しいくらいスマートで金属的光沢を放つドホナーニのドヴォルザークが無視されていいということにはならんでしょう。

蜂蜜色に光る《新世界より》も素敵ですが、第8が耳からウロコの連続なんですよ。
第1楽章は5月のブラームスを髣髴とさせる理性の結晶。揺るぎない横線。
極上の第3楽章は、美人にテキトーにあしらわれるような快感を感じさせます(大丈夫か)。トリオのティンパニが慎み深い。
さても第4楽章の「コガネムシ」主題がまた毅然としたアクセントで演奏されて、引き続き横線は拍の「無駄な」伸び縮みを回避します(ドホナーニ・マジックにはまっている間、恣意的なアゴーギクは完全に無駄としか聴こえません。不思議なことに)。そこへ清潔にして円やかなクリーヴランド式縦線和音が軽やかに突き刺さり、流線型の響きが回転しながらコーダへ。

やっぱりドホナーニ先生は偉大。
by Sonnenfleck | 2007-10-12 06:47 | パンケーキ(19)