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フライブルク・バロック・オーケストラ|ブランデンブルク協奏曲全曲演奏会@三鷹(2/15)

せめて、ひと月に一度の更新くらいは死守したいよね。

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c0060659_10174032.jpg【2014年2月15日(土) 17:30~ 三鷹市芸術文化センター・風のホール】
<バッハ>
●ブランデンブルク協奏曲第1番ヘ長調 BWV1046
●ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調 BWV1051
●ブランデンブルク協奏曲第2番ヘ長調 BWV1047
●ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調 BWV1048
●ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調 BWV1050
●ブランデンブルク協奏曲第4番ト長調 BWV1049
○テレマン:Vn、Obと2つのHrのための協奏曲ヘ長調 TWV54:F1 ~ジーグ
⇒ペトラ・ミュレヤンス(Vn)+ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ(Vn)/
 フライブルク・バロック・オーケストラ


いかにも雪の多い2月であった。
2月14日の昼から降り始めた関東甲信の雪は、日が暮れると勢いを増し、大規模に降り積もっていった。2月15日の朝、われわれは東京とは思われないような光景を目の当たりにするのである(別に北国ならふつう)。よって、摩周岳登山に活躍した登山靴を引っ張り出すことになり、ひさびさに「雪わらを漕いで」三鷹へ向かうのだ。

自宅からバスでアクセスできる三鷹市芸術文化センター。ここはたいへん素直な響きの中ホールを持っていて、案外、古楽の重要公演が開かれることが多い。2012年のフライブルク・バロック・オーケストラ初来日公演も、僕はこのホールで聴いた。
聴いたが、感想文を書いていない。なぜか。
僕は2012年1月に初めて「古楽のベルリン・フィル」であるFBOを耳にして、どうにもピンと来なかったのである。
理由はいくつか考えられるが、このときの演目がバッハの管弦楽組曲全曲だったのは鍵になり得る。FBOのパリパリッと(ときどきゴリゴリッと)しながら特に 束 感 の あ る 響きは、特にヘンゲルブロックが去ってからこの楽団のアイデンティティになっていると思うんだが、このキャラクタと「かんくみ」のフランス様式とは必ずしも相性がいいわけではない、と感じるんだよねえ。

そのため、翻ってバッハの「コンチェルトグロッソ」であるブランデンブルク協奏曲に相対したとき、彼らの音楽づくりが輝くのは十分に期待ができ、またその期待ははっきりと満たされたのであった。

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チェンバロを搬入する予定だった「チェンバロ漫遊日記」さんのこのエントリにも少し触れられているが、2月15日の公演はチェンバロ・コントラバス・ヴィオローネといった大型の楽器がついにホールに到着することができず、ホール備え付けのチェンバロに、市中で調達した(!)コントラバスとヴィオローネを用いるという苦肉の策で、どうにか開演に漕ぎ着けるFBO。だいいち本人たちも、飛行機がキャンセルになったため急遽新幹線で京都から戻ってきたのだから、気の毒である。

こうしたトラブルがあったためか、冒頭の第1番についてはアンサンブルの状態が最上ではなく、少し心配させられたのではあったが、やがて尻上がりに調子を出し始めるのがさすが「BPO」なのですな。
アンサンブルは優秀な個の音の積み重ねであるというすんごく当たり前のことを、第6番と第2番で胸ぐらを掴まれグワッと理解させられる。バロック音楽で時には大切な「ひとつの円やか」に、やはり彼らは収斂されない。でもその代わり、果てしない重層構造が聴こえてくる。この強靱な束感こそFBOの美質なのだなあ。

後半は第3番のアダージョが思いのほかどす黒い装飾を与えられていたのでびっくりしたが、白眉は第5番の第2楽章と第4番なのだった!
この日、第5番でチェンバロを担当したセバスティアン・ヴィーナント Sebastian Wienand氏の軽やかで色気のあるタッチ、そして通奏低音Vcを弾いたシュテファン・ミューライゼン Stefan Mühleisen氏のしっとり吸いつくような美音により、第2楽章は震えるほど美しい時間になった。
ミューライゼン氏は特に、これまで自分が生で耳にしたなかで最強のアンサンブル系古楽Vcだったと断言できます。フォルムは強固なのに芯は空疎で、その「洞」に高音楽器の旋律をぴたりと填めてしまうあの音。自分のなかに少しだけ残っているプレイヤーとしてのペルソナが、あんな音が出せたら死んでもいいなと言っている。


↑シュテファン・ミューライゼンが通奏低音に参加した、ヴィヴァルディのトリオ・ソナタ編成《ラ・フォリア》。お聴きくださいよこの音を。

トリの第4番は、言葉で形容するのが難しい。こういうときは本当にアマチュアでよかったなあと思うのよ。プロの物書きはあの究極的なアンサンブルの魔法を分析して、それをわかりやすい言葉で公衆に提供しなければならないんだから。
第1楽書の終わり、無数の美しい音の束に優しく縛られて法悦を感じてしまったことを書いておく。聴き手を音楽的ドMに突き落とす演奏実践ってどうなのよと思う。それは確実に大正義だけれども。

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アンコール。テレマンっぽいなあ、きっとテレマンだなあと思って聴いていたら当たりだった。このアンコールの演奏からすると、いまのFBOはファッシュやジェミニアーニといった華麗系下世話バロックでも平然と素晴らしい演奏をするはず。聴いてみたい。ものすごく。
by Sonnenfleck | 2014-02-23 11:34 | 演奏会聴き語り

調布音楽祭2013|バッハ・コレギウム・ジャパン「管弦楽組曲全曲」@調布市グリーンホール(6/22)

バッハの管弦楽組曲(自分愛称かんくみ)は意外に生演奏の機会がない。第2番や第3番は古楽アンサンブルの単発音楽会でたまに取り上げられるけれども、第1番や第4番は全然である。
それもそのはず、音楽的体力と美的知力が総動員されなければ、この曲集は音楽にならない。バッハの世俗音楽特有の演奏至難さを存分に持ち合わせている恐ろしい作品たち。3月末のヨハネ@さいたま芸術劇場で心を揺さぶったいまのBCJなら、どんな演奏をするのだろう、という強い好奇心で出かけたのだった(調布遠い…)

地下化された京王線調布駅(地上時代には一度だけ降り立ったことがあった)から、ごちゃっとした駅前広場に上がると、昭和の「文化会館」の姿をよく留めた調布市グリーンホールがある。内装はプチNHKホール。残響はほぼゼロ。
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【2013年6月22日(土) 17:00~ 調布市グリーンホール】
<調布音楽祭2013>
●バッハ:管弦楽組曲第1番ハ長調 BWV1066
●同:管弦楽組曲第4番ニ長調 BWV1069
●同:管弦楽組曲第2番ロ短調 BWV1067
●同:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068
○同:ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調 BWV1048~第2、第3楽章
 ※第2楽章は3台Cem協奏曲ハ長調 BWV1064 第2楽章による補遺
 →アントワン・タメスティ(1stVa)
⇒鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン


それで。この日は非常にスリリングな瞬間に何度か出遭った。天下のBCJをしてもかんくみは難しいのだろうなあと思う。
僕はこの日、1階正面10列目中央に座ったのだけれど、各曲の序曲で付点のグラーヴェが終わってから、特に後半のヴィヴァーチェに入った直後、アンサンブルに小さな罅や瑕が入っているのが意外であった。巨大な受難曲では雅明氏の下で統一的に躍動していたBCJのアンサンブルが、少しく乱れている。

ここから先は特に僕の私論なのですが、通奏低音ががっちりしている古楽アンサンブルが比較的中規模以下の器楽合奏曲を演奏する際、もし指揮者がリハーサルで音楽に解釈を付与してしまって以降だとすれば、本番での指揮行為はどれくらい意味があるのか、ということについて以前から疑問を持っています。

現にこの日、秀美氏をリーダーにする懸田氏+今野氏+優人氏のBCは、雅明氏の指揮ではなく、ほとんどの場合コンマスのアインザッツに従っていたんだよねえ。もちろん寺神戸さんは雅明氏の指揮を汲み取るし、流れが大きく曲がったり停止したりする箇所は、秀美氏の目線は必ずお兄さんの指先を向いていたんだけれど。

帝と将軍と摂関家みたいな複層的なリズム構造が展開されてしまっていたこと、個人的にはここに罅や瑕の原因を探ってしまう。
さらにティンパニが入る曲だと、指揮者に従属する関東管領みたいなもうひとつのリズム権力が存在してしまって、もうどこがリズム権力の中枢かわからん状態(客演の菅原淳さんはもちろん相変わらず素晴らしいパフォーマンスでしたが…)。彼らの演奏する受難曲やカンタータは「声」を掌握している帝としての指揮者が、圧倒的に全体をまとめているのだけれども。

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こうしたことから第1番の序曲、ガヴォット、パスピエや第3番の序曲はどうにもスリル満点な演奏を観測したのだったが、そこは歴戦のBCJであるから、演奏途中に体勢を立て直して、通奏低音とコンマスが協力しながら指揮者にうまく合わせることにつなげていったのだった。

指揮者と通奏低音チェンバロが分離しているBCJの現状では、完全完璧なリズムの統一を図るのは(あえて率直に言いますが)困難だというのが僕の感想。これは、だから誰誰が悪い!とかいうのではなくて、それをBCJが自分たちのスタイルとして披露している以上、聴衆はそれを彼らの音楽として受け取り咀嚼すべきである。

だから、指揮者が通奏低音チェンバロに座って、各パート1人の中編成、コンマスやトラヴェルソのアインザッツと通奏低音だけで成立した第2番は、僕には理想的な演奏に思われた(これは雅明氏がチェンバロに座ったから、というのでは決してなくて、仮に優人氏が座ってお父上が舞台袖に入られても、そういう演奏になったと思う)。通奏低音と一緒に安心して呼吸できる演奏って、それはそれは素晴らしいのだ。

<いくつかの萌えポイント>

・文句めいたことを書いてきましたが、アンサンブルに小さな乱れが生じていたのは急速楽章であって、第1番のクーラントや第4番のメヌエットのようにきわめて柔らかく精妙なゆるふわイネガルが効いた楽章はサイコーであった。これは本当に。陰翳の濃いイタリアンな印象が増していた最近のBCJだけど、フレンチの味つけだってやっぱり上手だ。

第4番の終曲、レジュイサンスの中盤に寺神戸コンマスがまさかの断弦!6月の湿気とガット弦の相性の悪さは折り紙付きですね。残った3本の弦で、物凄いポジションチェンジを繰り出しながら懸命にアンサンブルをリードする寺神戸氏にブラヴォ!
第2番の序曲が終わったところで、秀美氏が調弦したげにチェンバロに座った雅明氏に話しかけてDかAをもらっていた。「おい兄貴、音くれよ」「あ?…ほらよ」みたいな感じに見えました(笑) この兄弟の通奏低音は完璧すぎて可笑しい。

第1番のブーレIIをはじめとして、村上さんのFgがあちこちで神懸かっていたのは言うまでもない。通奏低音もソロも担当する恐ろしい管楽器だ。。
・管さんのトラヴェルソもクールすぎる。ポロネーズ→メヌエット→バディネリの一気の寄せで、土俵下まで吹っ飛ばされたのだった。
・演奏後に明らかに疲労困憊だったOb3人衆、三宮氏・前橋さん・尾崎さん、お疲れさまでした。かんくみ全曲ってあんなに大変なのだなあ。。

・そして話題のスターヴィオリスト、アントワン・タメスティがアンコールでまさかの乱入。自分もBCJと何かやりたい!って申し出たらしい。何が演奏できるか雅明氏たちと一生懸命考えた結果、ブラ3の抜粋という嬉しい選曲に!
肩当てのあるモダン(仕様の)Vaだったとは思うんですけど、もしかしたらガット弦を張っていたかもしれない。それであの太い音ならたいへん恐ろしいのだが、圧倒的に華のあるスターの音色で、ブラ3の第3楽章のソロを弾かれてしまった。ぐうの音も出ず。すげーな彼。
by Sonnenfleck | 2013-06-25 22:18 | 演奏会聴き語り

バッハ・コレギウム・ジャパン《ヨハネ受難曲》@彩の国さいたま芸術劇場(3/30)

3月末から4月初旬に受難曲を聴く習慣は、もちろんクラヲタになってから身についた後付け設定なのだけど、なんだかすっかりしっくりくるように脳みそがチューニングされている。
BCJによるバッハの受難曲を聴くのは何度目だろう。聴くたびに新しい発見があり、何かを得て家路につく。

今年は3/29が聖金曜日。オペラシティでBCJを聴くのをなるべく避けたい者として、翌日にさいたま芸術劇場の公演が設定されているのは幸運でした。
さいたま芸劇は、いまの居所からならそれほど遠くはない(すみトリとあまり変わらず、MMよりは間違いなく近い)にもかかわらず、これまで足が向かないホールだった。最寄りの埼京線・与野本町駅からのアプローチは、三鷹の風のホールに似ているけど、さらに最大公約数的郊外。ホール内部は典型的な中ホールで、内装もアコースティックも上質。これはもっと足を運ぶべきだなあ。

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c0060659_2245227.png【2013年3月30日(土) 16:00~ 彩の国さいたま芸術劇場】
●バッハ:ヨハネ受難曲 BWV245
→ジョアン・ラン(S)
 青木洋也(A)
 ゲルト・テュルク(T)
 ドミニク・ヴェルナー(Bs)
⇒鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン


何年か前、名古屋のしらかわホールでBCJを聴いたあたりからだろうか、僕はBCJの音楽に強いアクセントや濃厚な明暗を感じるようになってきています。初めて聴いたころのBCJはもっと平明で、レオンハルトが指揮するカンタータみたいにルネサンスのモードを感じさせる演奏が多かったような気がするのだけれど。

この日の演奏は、その明確なコントラストをさらに一歩進めた、マイBCJ史上もっとも激しく揺すぶられる音楽でした。

まず冒頭合唱の第1音に、ホールの空気がビリビリと震える。ほとんど絶叫に近いが、このナンバーは元来、それを許すくらい浪漫的でもある。さっそく秀美氏+優人氏を中心とした通奏低音隊に耳の焦点を移せば、これまでに彼らの演奏では聴いたことがないくらい激しいアタックを繰り返しているのだ。。

ユダヤ群衆を描写しながら同時にコラールを歌う合唱は、この午後、人間の醜さと美しさを交互にわれわれに聴かせて、真実の藝術を発露していたと思います。

群衆の合唱は、これもマイBCJ史上最強の立体感を表し、x軸y軸z軸、いずれの方向からも僕を苛みました。
「ユダヤの王様wwww万歳wwwwwww」のあたりなどは本当に下衆の極致で、耳を塞ぎたくなるくらい醜悪。なのに(なのに!)直後のコラールではどっしりとしたオフホワイトの光を聴衆の内面に向けて照射するのです。この激しい美醜のコントラストに滂沱の涙。いったいどうしたらいいんだ。。精神を掻き乱されるような事態に身体は硬くなるだけ。。

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エヴァンゲリスト、ゲルト・テュルクももう何度めかわからないが、やっぱりこのひとのプレーンな朗唱スタイルが好きだ。バラバ!のときに1箇所だけ入りをミスってしまったような気がするが(気のせいだったかもしれない)、その直後のテノールのアリアを弱々しげに歌う姿には思わず少し萌え。

通奏低音耳からすれば、特にエヴァンゲリストのレチタティーヴォは秀美氏のVc鑑賞大会になるわけですが、ペテロが兵卒の耳を斬り落とすときの剣の一閃、そして終わりのほうで槍がイエスの脇腹に突き刺さる一撃、いずれも強烈なボウイングによって壮絶な音がVcから発せられていました。

ソロではソプラノのジョアン・ラン、アルトの青木氏の、特にそれぞれ2回目のアリアが絶品だったなあ。特にランは非常に強い感情が入ってしまっていて(それでいて藝術としてもぎりぎり破綻していないのがすごいのだが)、歌い終えてから合唱の中に戻っても何度かまなじりを拭っていたのだった。

青木氏のアルトは何よりもあのなよやかなフレージングが魅力。受難曲のなかでバッハがアルトに与えるアリアにはだいたい艶と怨が込められているように思うんだけど、青木氏の歌唱が安定感を帯びたとき、雅明氏の思い描く受難曲の姿が固定される。

バスのドミニク・ヴェルナーは発音の不明瞭さや腰の重さがあまり好みではなく(前はそんなこと感じなかったような気がするんだけど)、今回はアンサンブルからひとり浮び上がっているように思えた。どうだったかしら。

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オーケストラも、ソロを含む合唱と同様の傾向を示しているように感じる。とりわけ管楽隊のくっきりとしたアタックや、コンチェルトの様相を厭わない歌い上げには、雅明氏の現在の好みがよく現れているんじゃないでしょうか。昔のBCJからずっとライヴを聴き続けている方に感想を伺ってみたい。

で、このはっきりした明暗嗜好が保たれたまま、6月の管弦楽組曲全曲@調布音楽祭に突入することを願うばかりなのだった。イタリアンとまではゆかずとも、光と翳がくっきりしたすこやかフレンチになる予感がする。
by Sonnenfleck | 2013-04-19 22:09 | 演奏会聴き語り

大井浩明×クラヴィコード 「6つのパルティータ」@カフェ・モンタージュ(2/9)

冬の京都になぜか今年は縁があり、こうして2月に再び訪れることになった。1月に比べれば、心なしか日差しが暖かい。
この日は夕方まで大阪の大槻能楽堂で観能。その後、たぶん生まれて初めて阪急に乗って京都・烏丸へ。ホテルに荷物を置いて、演奏会場に向かう。

「カフェ・モンタージュ」は「京都の街中の小さな劇場」として昨年オープンしたばかりの、音楽カフェ兼小さなスタジオである。京都御所南の静かな一角に居を構えたオーナーの高田氏が、音楽や演劇でたいへん先鋭的な取り組みを行なっている。関東だと、、うーん、、関東にこんな空間はないかもしれないぞよ。いや、あるいは中央線沿いの音楽喫茶たちはちょっと似た雰囲気なのかもだが。。

店内は広くない。道路に面した入り口から半地下のガレージのように下がって、その奥にこの日はクラヴィコードが鎮座している。座席は満杯に詰めて40席程度で、この楽器を楽しむには限界のキャパなのね。

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c0060659_16265151.jpg【2013年2月9日(土) 20:00~ カフェ・モンタージュ】
<バッハ&高橋悠治>
●パルティータ第1番変ロ長調 BWV825
●《アフロアジア的バッハ》~「空」「沈む月」
●パルティータ第2番ハ短調 BWV826
●《アフロアジア的バッハ》~「浮き雲」「闇のとばり」
●パルティータ第3番イ短調 BWV827
●《アフロアジア的バッハ》~「煙の渦」「瞬く炎」
●パルティータ第4番ニ長調 BWV828
●《アフロアジア的バッハ》~「さざなみ」「冷たい雨」
●パルティータ第5番ト長調 BWV829
●《アフロアジア的バッハ》~「散る砂」「黄昏」
●パルティータ第6番ホ短調 BWV830
→大井浩明(クラヴィコード)


クラヴィコードは少しスマートな置床、あるいは横倒しにしたAEDケースくらいの木箱です(的確なたとえが思い浮かばない)
発音システムは、撥弦式のチェンバロよりも打弦式のピアノにまだ近い。しかし鍵盤が直接弦を叩くぶん、機構が1段階増えるピアノに比べると打鍵がストレートに伝わる面白さがある。そして音量は極小。かつ、速やかに減衰して空気に溶ける。

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このブログにたまに登場しているオルガニストの友人は、かつてチェンバロ、スピネット、クラヴィコードを自室に隠し持っていて、仲間うちの深夜の語らいの合間に、われわれは彼のクラヴィコードを聴いたりしたものだ。

友人が早く入場し席を確保してくれたため、幸運にも最前列かぶりつきの栄誉に浴することになった。筐体からの距離はわずか2メートル。そこへ怪人(と書くのをどうかお許しください)大井浩明氏が悠々とやってくる。プロの演奏家によるクラヴィコードはこれが初体験で、どんな聴こえ方になるのか想像がつかない。

大井氏は、彼が展開している現代音楽シリーズ「POC」のために東京の音楽シーンではややもすると現代音楽専門家のように見なされがち。でもこのひとのライヴを初めて聴いたのがスクエアピアノによるベートーヴェンの《テンペスト》だった僕は、数少ない古楽とゲソのハイブリッド者のひとりとして氏を捉えてます。

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この夜、バッハの巨大な世俗山塊であるパルティータを聴いて、僕は改めて大井氏の豊かなセンスに魅了された。

まず、適切で必要十分なリズム感覚。舞曲の集合体であるパルティータは、動きのないリズム感で塗り潰すと実に退屈な音楽に堕ちる。昔取った通奏低音の杵柄で少し慎重に聴いたりもしたんだけど、大井氏のサラバンドやジーグ、クーラントは完璧にハマっていた。恐れ入る。
欲を言うなら、できればリピートありの演奏で大井氏がどんな装飾づけをするのか聴いてみたかったが、それでは終演が軽く0時を超えてお客さんがみんな帰宅できなくなっちまうので、仕方がない(笑)

そして、楽器の特性を活かしきることによる色彩感覚。パルティータが曲者なのは、舞曲じゃないナンバーも、あるいは舞曲のかたちをしていても内容物が巨大すぎて舞曲の殻をぶち破っているナンバーも、そこに混入している点だと思うんだよね。
たとえば第2番のシンフォニア第4番の序曲、ジーグ第6番のコレンテなどは、ほとんど管弦楽を想定したかのような幅広い音色を要求しているのだけど、チェンバロでそれを実現させるのは実は至難のわざ(パルティータにモダンピアノの名録音が多いのはこのためじゃないかと)。そして…クラヴィコードはモダンピアノ以外にこの音色絵巻を実現しうる唯一の鍵盤楽器だったりするわけだ。

この日の大井氏は、ダイナミクスを自在に付けられるクラヴィコードを用いて、左手でB.C.ファゴットやヴィオラやティンパニ、右手でオーボエやヴァイオリンやトランペットをそれぞれよく想起させる音を実現。このシンフォニックな箱庭!全能の小器械クラヴィコードの音が、夜の京都のしじまに次々と溶けて消えてゆく!

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素晴らしい演奏実践と、終演後にオーナーの高田氏がお客みんなに振る舞ってくれた赤ワインに気分を良くしたわれわれ。その後、カフェ近くのイタリア料理店「クァルテット・コルサーレ」に突入し、すっきり系白ワインと美味しい魚介料理に舌鼓を打ちつつ、終電がなくなるまで音楽話に花を咲かせたのであった。

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(※入店時に入れ違いで、某有名ヴァイオリニストご一行に遭遇したのが愉快な思い出になった。ご贔屓にされてるらしい。)
by Sonnenfleck | 2013-02-10 17:21 | 演奏会聴き語り

アンヌ・ケフェレック Pfリサイタル@東京文化会館(12/8)

c0060659_823649.jpg【2012年12月8日(土) 19:00~ 東京文化会館大ホール】
●ヘンデル:パッサカリア ト短調 HWV432
●バッハ/ブゾーニ:コラール前奏曲《いざ来たれ、異教徒の救い主よ》BWV659a
●A. マルチェッロ/バッハ:Ob協奏曲ニ短調~アダージョ
●ヘンデル/ケンプ:メヌエット ト短調 HWV434
●バッハ/ヘス:カンタータ《心と口と行いと命もて》BWV147~〈主よ、ひとの望みの喜びよ〉
●ヘンデル:シャコンヌ ト長調 HWV435
●ベートーヴェン:Pfソナタ第14番嬰ハ短調 op.27-2《月光》
●ラヴェル:古風なメヌエット
●同:亡き王女のためのパヴァーヌ
●ドビュッシー:映像第1集、第2集
 ○サティ:グノシェンヌ第1番
 ○ショパン:幻想即興曲 op.66
⇒アンヌ・ケフェレック(Pf)


この日は14時から新日フィルのマチネーがあって、欲張ってはしごを計画した結果がこれ。首都圏でコンサートに行かれている方はよくおわかりと思いますが、チラシ束のなかでひっそりと自己主張している小さなフライヤー、「都民劇場音楽サークル」の主催公演に初潜入。

「都民劇場」は年間10公演ほどの会員制音楽会を主催する公益財団法人です。きっと発足時に進歩的な若人だった人びとがどっと入会したからなんだろうけど、客席にいるのがある特定の世代だけ、というのは本当に壮観。噂に聞いていたとおり、客席高齢者率の極まりにドン引きである。4階サイドから見下ろされる白髪禿頭軍団の数は、N響定期とか全然めじゃないです。

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後半のラヴェル+ドビュッシーは予想の範疇に収まる、親愛の手頃感(亡き王女がレガート排除のぽこぽこした音楽だったのは驚いたけれど)
むしろ前半の「バロック音楽」が、僕にとってはエキサイティングだった。

ケフェレックはたしかに元々こういうピースをレパートリーにしているはずだけれども、はてつらつらと考えてみるに、今日の世界を飛び回るコンサートピアニストのなかで、ケンプ編やマイラ・ヘス編のバロック小品を今でも(アンコールじゃなくて)正プログラムに堂々と乗せる人物がどれくらいいるだろうか。

僕はこの日、彼女の控えめで清潔なピアノが「バロック音楽」を奏でているのを聴き、1960年代や70年代のとある晩に迷い込んでしまったような、とても不思議な感覚に襲われた。昭和の日本で遺されたライヴ録音でしかもはや聞けない、恐ろしくせっかちな拍手がいまだにこのサークルに受け継がれていること、文化会館の昭和モダン内装なども、その感覚を補強する。コンセプチュアル。

もちろん彼女のプログラミングが巧妙なのも重要。当夜はヘンデル2曲でバッハやマルチェッロをサンドし、ちゃんと「組曲感」を醸成するんだよね。おしまいのヘンデルはちゃんとシャコンヌだし。
演奏実践じゃなく、作法から構築した古楽。とても佳かった。

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さて本公演。咳、くしゃみ、いびき、鈴、飴ちゃん、私語、ナイロン上着のがさごそ、曲中の勘違いシッタカ拍手、フェルマータに被さるフラ拍手、携帯電話着信まであって、およそコンサートで考えうるすべての災厄が客席から巻き起こっていた(咳と鈴が幻想交響曲みたいな掛け合いを演じてたのには笑ってしまった)

なんとなく、このサークルの会員たちは、外のコンサートには出かけないんだろうなあと推察する。今日のフツーの音楽会マナーを純粋に知らないんだろうなあ。外からの一見さんも、こんなにマナーを知らない集団の会員になろうなんて思わないよ。少なくとも僕は、もう二度とここの主催公演には行かないことにしました。このままだと老益財団法人として20年くらいで自然消滅しちゃうんでないかしら。。

すみません。ぐちぐちと書きました。最後にこれでお口直しを。



↑ケフェレックおばさんが選んだ「組曲」のラストナンバー。

by Sonnenfleck | 2012-12-15 08:25 | 演奏会聴き語り

ヘンゲルブロック来日と離日に寄せる自己憐憫

たった三晩の公演を残して瞬く間に離日したヘンゲルブロック/NDR交響楽団のコンビ。聴衆からあがる賞賛の声を尻目に、僕は自室に籠り、PCの白い光に跳ね返す一枚のディスクを見ている。

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c0060659_10253212.jpg【DHM】
●ヴィヴァルディ:歌劇《オリンピアーデ》序曲
●バッハ:管弦楽組曲第4番ニ長調 BWV1069
●ヴィヴァルディ:弦楽のための協奏曲イ長調 RV158
●バッハ:カンタータ第42番《されど同じ安息日の夕べに》BWV42~シンフォニア
●ヴィヴァルディ:4Vnのための協奏曲ロ短調 Op.3-10
●バッハ:3Vnのための協奏曲ニ長調 BWV1064
⇒トーマス・ヘンゲルブロック/フライブルク・バロック・オーケストラ

僕にとってのヘンゲルブロックは、極めて優れた古楽指揮者である。彼がモダンのフルオケを振っているなどとはいまだに信じられない。数は多くないながら、フライブルク・バロック・オーケストラを振っての録音は圧倒的に素晴らしい。
(蛇足ながら付け加えるが、今年1月のFBO来日公演@三鷹の感想文を書いていないのにはちゃんと理由がある。僕がFBOの個性だと思いこんでいた強固なフォルム感と沸き立つリズムは、どうやらヘンゲルブロックやヤーコプスの個性に依拠する部分が大きいようであった。確かにアンサンブルや舞曲の拍感はたしかに佳かったけれど、「フランス風」という魔物が召喚できるような大きな魔方陣が描いてあったかという点に関しては、強い疑念が残った。)

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フランス風・イタリア風という二大様式に対するヘンゲルブロックの異様に鋭い嗅覚、そして彼が現在のキャリアに至った理由がわかるのが、このディスクである。

《オリンピアーデ》序曲から管組4番への顕な落差は、偽ヴェルサイユの偽性を否応なく高め、こちらの心を躍らせる。
舞曲ひとつひとつが、その煌めく何層かのコーティングでもって偽性を自己拡張しながら、あり得べからざる幻時間を形成している。のみならず、ひとつながりの人造真珠のような重みにも事欠かない(これこそがゴルツのまだ会得してない魔法と思われる)。バッハがなぜああいう様式で音楽をつくったかは、いたずらに各舞曲のエッジを立てても見えてこないのではないだろうか。

さて、ヘンゲルブロックを彼たらしめている要素が、バッハの《されど同じ安息日の夕べに》のシンフォニアと、ヴィヴァルディの3-10にさらによく現れている。

それはとりもなおさず、がっちりと肩幅の広い通奏低音で、音を三角形に組み上げる流儀なんですね。ヴィヴァルディの3-10などは僕も遊びで演奏してみたことがある曲だけど、あのヴィヴァルディらしいクリスプな通奏低音を、ここまで鋼のような土台に仕立て上げるのは至難のわざである。

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ヘンゲルブロックがつくるこうした三角形フォルムは、昨今流行の流線型をしたラテン系アンサンブルと明らかに一線を画しており、そして残念ながら、このセンスはベートーヴェンやブラームスへまっすぐ伸びてゆく。ヘンゲルブロックがNDR交響楽団というオーケストラに招かれたのは必然なんである。

バロクーはこの集いから泣きながら立ち去ることにしよう。でもたまにはバッハとかテレマンとか…やって…ね…
by Sonnenfleck | 2012-07-28 10:26 | パンケーキ(18)

アリーナ・イブラギモヴァ 無伴奏Vnリサイタル@所沢ミューズ(11/13)

今年は10月が長いなあ…という印象を持ってるんだけど、航空公園駅からミューズへの15分だらだら歩きがちょうどよく気持ちいい。ミューズのロケーションは関東最高クラス。それが実感できる季節が長くないにせよ。

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c0060659_23381619.jpg【2011年11月13日(日) 15:00~ 所沢ミューズ】
<バッハ>
●無伴奏Vnパルティータ第1番ロ短調 BWV1002
●無伴奏Vnパルティータ第2番ニ短調 BWV1004
●無伴奏Vnパルティータ第3番ホ長調 BWV1006
○無伴奏Vnソナタ第2番イ短調 BWV1003~アンダンテ
⇒アリーナ・イブラギモヴァ(Vn)


俊敏で獰猛、知能が高くてしなやかな猫科の動物を思わせた。イブラギモヴァのヴァイオリン。

更新を楽しみにしている2つのブログ、「miu'z journal *2 -ロンドン音楽会日記-」さんと「Langsamer Satz」さん。お二方をその魅力ですっかりとりこにしているのが、アリーナ・イブラギモヴァという1985年生まれのヴァイオリニストです。お二方があんまり誉めるのでどうしても気になり、今年の来日のチケットを早々に押さえたのであった。果たして客席は、こだわりのお客さんで満席。

なぜ所沢の300席ちょっとの小ホールで3000円で聴けたのか、僕は理解できない。王子ホールやトッパンホールを、あるいは紀尾井・しらかわ・いずみを連続リサイタルで満席にし、ヤフオクでチケットが高騰してもまったくおかしくない。

バッハの無伴奏としては、個人的には、もっと繊維質で静的な、様式感の強いピリオドの演奏実践が好みではある。でも、バッハを自分の様式で染め上げていく彼女の行為の高い完成度、堂々として幾分も照れず、ブレのない表現、こうしたところに完全に脱帽した。聴いたのがバッハでないほかの音楽だったら、椅子から立ち上がれないくらいの衝撃だったかもしれない。

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第1番はまだ、彼女が音楽を所有し切れていないように思われた。
第1番ロ短調はご存じのように楽句の抽象化が著しく、会話のような抑揚の巨大なブロックがぷわぷわと浮いているような曲(ドゥーブル部は宇宙的ですらある)。クーラントのドゥーブルなどは苦し紛れの早弾きで拍子が崩れ気味という感じ、サラバンドも焦点がぼやけてもやっとした様相を呈していたのは残念だった。しかし早晩、自分の切り分けで調理してしまうことだろうと思う。

なにしろ、第2番第3番を聴いてわかったことだが、彼女は彼女のセンスで楽句を切り開いて、調味し、「ピリオドじゃなく自分の好みの」フォームに整えていくことにまったく非凡な才能を発揮するみたいなのだ。高度に洗練されたクレーメル、と言い表すのがもっとも僕の印象に近い。

第2番はアルマンドの最初の一音から、第1番とは自信の持ち方が違って、大きな猫科の動物が獲物に躍りかかるときのような美しい勁さでもって楽句を支配している。クーラントの気ままなデュナーミク、グルーヴ感のあるサラバンド、明暗の対比が強いジーグ、いずれも佳い。シャコンヌでは、ボウイングがいっそう烈しさと正確さ、柔軟さを帯び、変奏をずいずい切り分けてゆく。恐ろしい緊張感と充実が両立した類い希な演奏が展開された(やっぱ音楽への自己の全面的信託という意味でクレーメル的なんだよなー)
繰り返すが、バッハの無伴奏にはクイケンみたいな静けさを求める自分でも、この午後の、イブラギモヴァの浪漫の迸りには惚れ惚れとさせられた。少なくともこれまでに実演で聴いたどのシャコンヌよりも強烈で、勁かった。

この日のお客さんは途轍もない集中力を発揮する集団で、聴きながら「自分と彼女との孤立した空間」を感じたくらいなのであった。シャコンヌの終わりとともに訪れた熱い泥のような静寂が、演奏内容と同じくらい印象に残る。

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そんなわけで、第3番は長大なアンコールのようで、却って肩の力が抜けた素敵な味わいの演奏になってしまった。ダンスミュージック。ジーグの最後でちょろっと舌を出すみたいにかわいい装飾を付けたのを聴いて、ああそういえば彼女は26歳の女性なんであったと、この日初めて気がついたのである。

サイン会は長蛇の列だったが、ハルトマンの葬送協奏曲のCD(Hyperion)を買ってサインをもらった。かわいいひとなので至近距離だとどきどきするス。
by Sonnenfleck | 2011-11-25 23:45 | 演奏会聴き語り

フランソワ×バンジャマン。

c0060659_2113932.jpg【Flora/FLORA1909】
●バッハ:VnとCemのためのソナタ BWV1014~19
●同:VnとB.C.のためのソナタ ト長調 BWV1021 *
⇒フランソワ・フェルナンデス(Vn)
 バンジャマン・アラール(Cem)
 フィリップ・ピエルロ(Basse de viole *)



注目のチェンバリスト、バンジャマン君が、重鎮フランソワ・フェルナンデスと一緒に演奏するバッハのソナタです。
このチェンバリストの只ならぬ風格については、彼が同行した、今年のラ・プティット・バンド来日公演を聴かれた皆さんのレヴューに詳しい。通奏低音奏者としてきわめてクレバーな補助と支配を行なういっぽうで、同時代的なグルーヴ感のある華やかなソロを聴かせていたこのひとが、バッハではどんなふうなのか?

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…ということを気にしながら聴き始めたのだが、僕はまず、フランソワ・フェルナンデスのヴァイオリンにすっかり心を奪われてしまった。

「シギスヴァルトの懐刀」としての実力はなんとなく感じつつも、彼ひとりの音楽を注意して聴く機会はこれまでに一度もなかったんだが、僕がとりわけ好きな第2番イ長調1015でのほんわか風情には本当に恐れ入った!
おおらかに雲が浮かぶ5月の青空のような第1楽章から、ヒバリがひゅーっと軽く飛ぶような第2楽章。地を這うイモムシのようでありながら線を太く保つことで深刻に陥らない第3楽章を伝って(草むらからも見上げれば青空がある)、いよいよこの世の快活を一手に引き受ける第4楽章のまぶしさよ。またヒバリが遠くで鳴いている。

第1番ロ短調1014の第2楽章での、自信に満ちて重い足取り(Allegro ma non troppo…)、また第3番ホ長調1016の第1楽章では、調性感をきわめて巧みに捉えてブロンズの風格を漂わせる。フェルナンデスがここまで雄弁に語るヴァイオリニストなのだということ、僕は知らなかった。

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翻ってチェンバロはどうなのか。もう一度、第1番の第2楽章を聴いてみよう。
通奏低音のいないこのソナタ集でも、半分以上の楽章は3声部で書かれているから、実質的にはチェンバロの左手が通奏低音化して支えになり、立体的な音場が形成されることになる。
アラールの左手のタイミングを聴き、「低音擦弦楽器への擬態」が完璧に処理されているような気がして、自分はたいへん驚愕しました。左手をほんの少しだけ右手の発音から遅らせることで、音量の核が遅れてくるような効果を、つまり、低音擦弦楽器のメッサ・ディ・ヴォーチェを表現してるんじゃないかと思うのだ。

もちろん、チェンバロが普通の伴奏に回る楽章では(第4番ハ短調1017の第3楽章とかね)、堅牢さと柔軟な伸縮を両立した「枠組み」の維持に余念がない。アラールのこの面はラ・プティットでよく現れていた。正確な仕事人でもある。

バンジャマン君、2009年録音のこのとき、23歳でしょう?
by Sonnenfleck | 2011-11-10 21:02 | パンケーキ(18)

on the air:Bach méridional|オノフリが導く南欧風バッハ

「AMBRONAY」っていうオサレ系の古楽レーベルがあるじゃないすか。あれの母体が音楽祭だっていうことを自分は知りませんでした。そんなわけでその中から、オノフリと彼のアンサンブルの演奏を聴く。

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c0060659_22181821.jpg【2011年9月18日/アンブロネ大修道院】
<アンブロネ音楽祭2011>
●P. A. アヴォンダーノ:シンフォニア ニ長調
●同:カンタータ《アベルの死》抜粋 *
●同:シンフォニア ヘ長調
●テレマン:カンタータ《雷神を称える》TWV 6:3 *
●ヴィヴァルディ:4Vn協奏曲ロ短調 op.3-10 RV580
●バッハ:Obダモーレ協奏曲イ長調 BWV1055a
●ヴィヴァルディ:Vn協奏曲二長調 RV.208《ムガール大帝》
→アナ・クイントン(S)
⇒エンリコ・オノフリ/ディヴィノ・ソスピーロ
(France Musique オンデマンド)

"Bach méridional"と題されたこの演奏会、バッハが編曲対象にしたヴィヴァルディの協奏曲を二つ並べていていかにもちゃんとしているのだが、そうすると前半に配されたペドロ・アントニオ・アヴォンダーノ Pedro Antonio Avondano(1714-1782)という作曲家が謎である。wikipediaによればリスボンの宮廷で活躍したイタリア人作曲家らしいんだけどね。

ただ、音楽を聴いてみてわかったのは、アヴォンダーノのきわめて器用な作曲姿勢であった。エマヌエル・バッハ(1714-1788)と同い年の彼の音楽は、エマヌエル以上に変わり身が上手だったようで、ヘ長調のシンフォニアではヴィヴァルディ風を描いてみせているが、その返す刀で、ニ長調のシンフォニアでは兄グラウン風の華麗なギャラント、そしてカンタータ《アベルの死》では一気にグルックくらいまで作風を進めている。各様式への適応の見事さはテレマン級と言ってもいいと思う。

リスボンの隠れバッハ、ということ?かな。アヴォンダーノは様式を統合してさらに新しいものを生み出しているのではなさそうだし、フリーデマンやエマヌエルのような変態っぽさはまったく感じないが、エマヌエルとクリスティアンの間にJSの「音楽的庶子」がいたらこんな感じだったのかもしれないね。

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さて、2ヴィヴァルディ1バッハで感じたのは、オノフリさんこれまで聴かず嫌いでまことにすみませんでしたという点に尽きる。
90年代、アントニーニ/イルジャルの下でコンマスをやっていた頃の録音のイメージがあまりにも強くて(つまり、なんとなく「やることが読めてしまう」ような先入観があって)、近年のオノフリを全然聴かないできたんだけど、いやいや実際は黒光りするような高級感があって面白かった。

特に、バッハの1055aでの、余裕たっぷりのダンディズムには吃驚です。
相変わらずアントニーニ流でキアロスクーロがきついのは想定どおりだけど、拍の捉え方・枠組みの作り方にしっかりとした工夫が窺われるんです。

まず、第1楽章を「よゆーッス」という感じでぶっ飛ばす演奏が主流であるなかで、あえて四股を踏むようにどっしりと構えているのが好い。根本的に音の陰影が強いので(このへんはいかにも、音色による表現に強いこだわりがある南欧のアンサンブルという感じだ)、同じ四股踏み傾向のカフェ・ツィンマーマンの録音のように、プラスチックのようなペラペラ感に陥ることもない。

逆に第2楽章と第3楽章では、拍を前に前に取ることによって、横方向への進行を軽くし、刹那的でギャラントな雰囲気を醸し出したりしている。巧妙である。1055は難しい作品だけど、オノフリの高級志向の曲づくりにはブラヴォを贈りたいと思う。
by Sonnenfleck | 2011-10-17 22:19 | on the air

BCJ第94回定期演奏会[世俗カンタータ・全曲シリーズ Vol.1]@オペラシティ(7/14)

万事につけて頭の固い我が社でも今夏はサマータイムが導入され、急に夕刻に時間ができる日が増えた。BCJのオペラシティ定期はいつも平日で、しかも会場が(職場からは遠い)初台なものだから、まったく一度も聴きに行ったことがなかったのだが、この機を逃さず参戦することに。3階ステージ真上のバルコニー席。

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c0060659_21425061.jpg【2011年7月14日(木) 19:00~ 東京オペラシティ】
<バッハ 世俗カンタータ・全曲シリーズ Vol.1>
●セレナータ《日々と歳月を作り成す時間は》BWV134a *
●シンフォニア BWV1046a/1
●狩のカンタータ《楽しき狩こそわが悦び》BWV208 **
→ソフィ・ユンカー(S1/ディアナ **)
 ジョアン・ラン(S2/パレス **)
 ダミアン・ギヨン(A/「神の摂理」*)
 櫻田亮(T/「時」*、エンデュミオン **)
 ロデリック・ウィリアムズ(Bs/パン **)

⇒鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン
→ジャン=フランソワ・マドゥーフ(Corno da caccia I)
 ジェローム・プランセ(Corno da caccia II)
 山岡重治(Flauto dolce I)
 向江昭雅(Flauto dolce II)
 三宮正満(Ob I)、森綾香(Ob II **)、尾崎温子(Taille/Ob II)
 若松夏美、パウル・エレラ、竹嶋祐子(Vn I)
 高田あずみ、荒木優子、山口幸恵(Vn II)
 成田寛、深沢美奈(Va)
→鈴木秀美(Vc)
 今野京(Violone)
 村上由紀子(Fg)
 鈴木優人(Cem)


それでですなあ。これまでに聴いてきたBCJのライヴの中でも今回のはかなり良かった。得られた知見がとても多くって、記憶に残りそうだ。

数年前、名古屋のしらかわホールでしばしば聴いていたBCJは、彼らにとって新しい領域に踏み出そうとしてる雰囲気(汎用性がきわめて高いかわりにあんまり胸躍らない「オールドクイケンスタイル」みたいなものからの脱皮)がありありとして、ある種の迷い、あるいは組織が新しく変容する前のざわめきが音楽に滲み出ていた。いま思い返せば。
そのころは、旧い演奏様式と新しい演奏様式とが交互に登場してたんだよね。つまり、白い絹ごし豆腐みたいにつるんとした上品なアーティキュレーションと、舌触りも荒々しい木綿豆腐、あるいは油揚げのごときダイナミクスを追求した音楽づくりと。この両方がざわざわと同居していた。

この変化の芽みたいなものは、この日の演目が目出度い世俗カンタータ特集だったので判りやすかったにせよ、数年後の今日、花も実も結んでいたようだった。それはすなわち、バッハの官能性を無視しない曲づくりを、ついに雅明氏が始めたということなのですよ。これってすんごい変化だと思うの。

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ああ、BCJ(および雅明氏)変わったな、と感じたポイントは三点あった。

まず《日々と歳月を作り成す時間は》終曲。ここでVnのトゥッティをあえて粗っぽくわさわさわさっ、と響かせることで、ヴィヴァルディのような乾いた熱風をテクスチュアの中に含ませ、体感温度を上げる。こりゃあエロ熱い。

二つめは《楽しき狩こそわが悦び》第4曲、エンデュミオン(櫻田氏)の甘いソロ・アリアをチェンバロのみで伴奏する局面で見せた、雅明氏の濃密な歌いぶり。
これまでに彼のソロ録音では聴いたことがないような熱烈なルバートで、櫻田氏の清潔な声を装飾していく。これは実に、自信のあるときのシューマンが発散するような骨太の浪漫によく似かよっていた。こんなに堂々とした浪漫をBCJ定期で聴くとは思っていなかった自分は、心底驚いたのであった。

三つめはやはり《狩》の、〈羊は安らかに草を食み〉として知られる第9曲。
00年代後半は「バロックの森」OPテーマとして有名だった曲だが、あにはからんや、雅明氏はこのナンバーを凄まじくねっとりとした官能で彩ったのであった。これには吃驚仰天。
まず秀美さんと今野さんのウルトラ緻密テヌート。あれは単純なスラーではなかった。僕はボウイングが見下ろせる席に座ったんだけど、弦にひたり...と吸いつくようなアップボウとか、このときの二人の右手には一生掛かっても到達できんなと思ったねえ。そして、それまで姿勢を正して座っていた山岡・向江コンビがすくっと立ち上がり、ふわとろのハーモニーを聴かす(日本リコーダー界のツートップを惜しげもなく並べる最高の贅沢)。この響きはまさしくフラウト・ドルチェ。音楽が、ずいぶん肉感的な柔らかさを表現してたなあ。

こういう音楽。BCJがこういうバッハを聴かせてくれるようになった。
雅明氏さあ、最近マーラーとか振ってるじゃないですか。そこからの連想は短絡的すぎるかなあ。でもこういうエロ熱いバッハはマーラーとの円環を想像させるよ。

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まさかのブラ1初稿とか、そこにいきなりマドゥーフ氏登場で嬉しいとか、コルノ・ダ・カッチャの朝顔の上空に座れてよかったとか、優人氏頑張れ親父に負けんなとか、でもマチャアキ+ヒデちゃんのコンティヌオはいまだに最強だなあとか、にしても親父の一段鍵盤チェンバロはどうしてあんなに鳴ってたんだとか、櫻田氏絶好調とか、パレスを歌ったジョアン・ランの装飾がとっても素敵だったとか、やっぱりオペラシティ古楽は舞台サイドに限るとか、いろいろ考えつつ、佳い演奏会でした。
by Sonnenfleck | 2011-07-21 21:57 | 演奏会聴き語り