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造園10周年/近況報告

前回の更新からずいぶん間が空いてしまったけれど、名古屋で変わらず元気に暮らしています。
東京圏の藝術シーンの最先端を追うことをやめてしまうと、気持ちはずいぶん楽になった。気が向いたときに奥さんの了解をもらって名フィルの定期演奏会に足を運び、たまに愛知県美術館でゆっくりしていると、20代のころとは違うスピードで時間が流れ始めているような気がする。しかし時間はごっごごご…と音を立てて動いている。

10年前の今日、就職活動に臨む大学3年生の僕は、友人Nの勧めに従ってブログを書き始めた。あれから10年、30代になってもこの営みを続けているとは思っていなかったが、そもそもあのころは10年先を思い浮かべるような時間の定規を持っていなかったのだった。いま、定規の種類は増えたが、使いこなせているか?

+ + +

10年前の明日、フランス・ブリュッヘンが初めて日本のオーケストラに客演する。プログラムはこうだ。

【2005年2月18日(金)19:15〜 第381回定期演奏会/すみだトリフォニーホール】
●ラモー:歌劇《ナイス》から序曲、シャコンヌ
●モーツァルト:交響曲第31番ニ長調《パリ》K297
●シューマン:交響曲第2番ハ長調 op. 61


フランス・ブリュッヘンはこの9年後、2014年の8月に天に召された。時間は動いている。僕も動いている。当分立ち止まることはなさそうだ。


by Sonnenfleck | 2015-02-17 22:44 | 日記

ブリュッヘン・プロジェクト第4夜|新日フィルのシューベルト三態@すみだ(4/15)

c0060659_238152.jpg【2013年4月15日(月) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第4夜:シューベルト>
●交響曲第5番変ロ長調 D485
●交響曲第8番ハ長調 D944《グレイト》
 ○劇付随音楽《ロザムンデ》D797~間奏曲第3番
⇒フランス・ブリュッヘン/
 新日本フィルハーモニー交響楽団


飛び去ったとんぼの影を追いかけて、追いかけちゃならないようにも思ったけれど、来てしまった。すみだ。
当日券で1階7列目中央ブロックに座る。そこが当日残っているくらい、お客さんの数は少ない。18世紀オケの3公演の後では仕方がないのかもしれないが、新日と公演の順番が逆だったら果たしてどうだっただろう。

オール・シューベルト。
前半の第5番は僕にとってはプラスの方向に評価するのが難しい演奏だった。遠くに飛び去ったとんぼの、そのまた影を眺めるようなもどかしさ。
極薄に刈り込まれたアンサンブルがなんだかヒリヒリして、あの優しい第5番が立ち上がるのに必要なふあっとした実体がなく、荒涼としたランドスケープが広がっている。弦楽隊のみんながボウイングの伸びやかさを抑えこまれ、ガチガチに凝り固まったフレーズの断片が風に揺れるばかり。このコンビが18世紀オケと同じ響きになるわけがないのだけど、でもハイドンやベートーヴェンツィクルスのとき以上に、枯れた花のような音楽になってしまっていた。

求めていたのはこれじゃないのだ…!と強く感じつつ、いっぽうで、これは00年代ブリュッヘン好みの北極点だったのではないか?という思いもある。18世紀オケの《未完成》はオケのメンツが此岸で踏ん張っていたんだなあ(ちなみにGlossaの新ベートーヴェン全集も、ああなるぎりぎり一歩手前みたいな演奏です)。リコーダー仙人がひとりで踏み込んでしまうと、こうなるのかもしれない。

+ + +

後半もこんな演奏だったらどうしよう…と思った僕を、ブリュッヘンはその音楽で温かく平手打ちにした。

僕はこれまで、ブリュッヘンと新日フィルのコンビネーションに対して、どこかで18世紀オケの影を重ねようとしてきた。ないものをねだるようにして。でもついに新日フィルは、新日フィルの特徴的な響きのままブリュッヘンの文法講座を修了し(あるいは習得に限りなく近づき)、その卒業演奏を僕たちに聴かせてくれたのだ。「守破離」で言ったらこの夜が間違いなく「離」だった。

硬く凝縮した第5番から一転し、単純に舞台上の人数が増えたことだけでは説明できないような響きの広がりが、第1楽章の序奏から徐々に生まれてくるのを観測していく。しかもその文法は弦楽器の側からアーティキュレーションに細心の注意を払わせた公平なバランス、つまり18世紀オーケストラと同様ながら、響き自体はたしかに少し腰高で細身の、あの新日フィルの音によって担われている。
これがどれほど単純で複雑なパフォーマンスであることか。2005年からの、8年越しの音楽文法講座の集大成である。

全編にわたって恐ろしく燃焼した演奏だったけれど、特に真ん中の2つの楽章はブリュッヘンのコントロールがよく効いていたように思われた。

まず第2楽章。僕はたしかにここでマーラーの子葉を聴いたのだけど、それはシューベルトのなかの古いウィーン性みたいなものが胚乳として利用されていたからに相違なく、その(ビーバーやフックスから流れてきているはずの)古いウィーン性は、ブリュッヘンが指示する管楽器の特徴的な厚みや強いアクセントによって増幅されている。それを養分に子葉が別の進化を歩むと、あのアンコールで示されたヨゼフ・シュトラウスになるのだろう。
最後の和音はとても整ったメッサ・ディ・ヴォーチェ。ブリュッヘンが新日フィルを「吹いて」いるようで、胸が熱くなる。

そして第3楽章。あの美しいトリオで自分は涙腺が壊れたようにだぼだぼ泣いたのだ。大編成の弦楽隊はパートとパートの間で静かな対話を繰り返しつつ、そこに対峙する木管隊はメリーゴーランドのように多幸感をきらきらと放射する。それらはどこまでも公正なバランスに乗って届いた。

第1楽章第4楽章は新日フィルの想いが昂ぶって、たいへん熱い演奏だった。ブリュッヘンも「しぃーっ」ていうやつをやっていなかったから、想いに応えていたのかもしれないです。豊嶋コンマスの渾身のリード、すごかったな。僕はプロのコンマスがあれほど気持ちを全身に乗せて弾いている姿を見たことがなかったし、演奏後にあれほど魂が抜けてしまっているプロのコンマスを見たこともなかった。

+ + +

アンコールには18世紀オケとの初日(僕は聴けなかった)でも演奏されたという《ロザムンデ》の前奏曲。
典雅な和音が穏やかに並んで生成されていくなかで、老人が指揮台から「クンッ」と軽い指示をコントラバスに飛ばすと、急に音楽の底が抜けて、漆黒の闇が口を開くんである。たいへん恐ろしい瞬間であって、これもずっと忘れないだろう。

その後、ロザムンデの後にもみんな譜面を急いで捲っていたので、どうもアンコールがもう一曲あったんじゃないかという気がしている。しかしブリュッヘンが車いすに座ったまま自分を指さしながら「俺はもう疲れた」みたいに豊嶋コンマスに話しかけて、そのまま解散となったのだった。
でも、これでよかったように思う。最後のアンコール曲は、もしかしたらあの最初のラモーの再演だったかもしれないし、あるいはまたバッハやシュトラウスだったかもしれないけれど、寂しく輝く美しいロザムンデが、最後に強い「。」ではなく余韻のある「―」を置いて、そうして中空に消えていった。
by Sonnenfleck | 2013-04-23 23:17 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン・プロジェクト第3夜|18世紀オーケストラのシューベルト、メンデルスゾーン@すみだ(4/6)

c0060659_7382884.jpg【2013年4月6日(土) 18:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第3夜>
●シューベルト:交響曲第7番ロ短調 D759《未完成》
●メンデルスゾーン:交響曲第3番イ短調 op.56《スコットランド》
 ○バッハ:カンタータ第107番《汝何を悲しまんとするや》BWV107~コラール
 ○ヨゼフ・シュトラウス:ポルカ・マズルカ《とんぼ》op.204
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ


嵐の夕べ、すみだで18世紀オーケストラは19世紀オーケストラに変貌していた。
ブリュッヘンが18世紀老人から19世紀老人に変容して新日フィルを指導していたのは何度か聴いているが、CDで何度も鑑賞してきた彼「ら」のロマン派作品をこの耳で最後に体験できたのは、本当に、本当に幸せだった。

+ + +

まずシューベルトは。これは僕の当初の予想にもっとも近い、典型的な00年代ブリュッヘン像をしっかりと示していた。とにかく静かで、不穏で、冷たい風がひゅうひゅう吹いているようなグロテスクな音楽。生で聴くとああいう感じなんであるなあ。
2007年のブリュージュライヴをFMで聴いて書いた感想文とほとんど変わらないので、それをほぼそのまま転載しておく。
まず1曲目の《未完成》を聴いて、冗談ではなく心臓が止まるかと思った。暗くて、激しい、どん底の演奏でありました。一筋の光明もない。

第1楽章。胸を抉るような低弦の響き、Flが断末魔の声のように引き伸ばされて第1主題を締めくくり、したがって第2主題はなかなか訪れない。訪れたら訪れたで、気を病んでしまったような暗鬱な音をしている。音楽家は、お客を集めて、お金を取って、こんなに破滅的な音楽をやっていいんでしょうか。。

展開部が来ても、再現部が来ても、この暗さがまだ続くのかという印象が強い。夜のあとに夜が明けない、残酷な音楽です。咆哮がこの世のものとは思えないのです。大袈裟に書いているのではありません。全部本当にあったことです。

第2楽章。今度は予想外に軽くてそっけない。最初の下行音型主題の提示が終わって、付点の付いた主題が登場すると、いよいよ音の量感がすーっと消えます。青く美しく透き通った沼地、それは毒が流れ込んで生き物が住めないから。
2007年7月6日
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そして後半の《スコットランド》で、僕たちは19世紀のリアルを聴いた。
19世紀のリアルとは何か?19世紀のリアルとは、つまりそれは数十年前までバロックだったということ。簡単な事実です。

相対的に数を増やしていった弦楽隊に埋もれてしまっている木管隊の旋律を復権させ(第3楽章)、低音擦弦楽器とファゴットに通奏低音のフォルムを要請し(特に第1楽章のおしまい)、トランペットとティンパニには彼らが誕生した原初の「ランドスケープ」を思い出させる(第4楽章)こと。

30年間ずっと一緒にやってきた彼「ら」が簡単そうにこれをやってのけるのを目の当たりにしながら、僕はメンデルスゾーンを愉しむ。ただ演奏実践がすべてであった時代の音楽を。これが彼「ら」の着陸地点なのだろうなあといま思うのです。第3楽章の美しすぎるメロディと、それを自在に歌い上げるオーケストラの幸せな横顔とブリュッヘンの大きくて小さな背中を見ていて、涙が出て仕方がなかった。

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正規のプログラムを聴きながら、アンコールには何をやってくれるのかを断片的に考えていた。《真夏の夜の夢》のスケルツォなら寂しくて据わりがいいな。

ところが、車いすから降りて再び指揮台に上がったブリュッヘンが長い腕を振り下ろすと、明らかにバロックのダンスナンバーがオケから流れ出したので驚く。
付点のある3拍子系、寂しいメロディ、フレーズの残り香は少なからずフランス風、なので、心のなかで密かにラモーを期待していた僕はラモーと判断したのだが、耳からの様式判断がよろしくないのはかつて大学で学んだことなのであった。



↑この16:17~。バッハのカンタータ第107番から最終コラール。
コラールなので厳密に言えば世俗のダンスじゃないわけだけど、これはたとえばバッハが管組第1番で使ってるフォルラーヌのリズムの準用なのだ。19世紀オーケストラはまた18世紀オーケストラに戻った。
今どきのハイパーな古楽アンサンブルのバロックとは少し違う、どっしりした粒あんの大福みたいなバロック。明晰より野趣。しかし付点のリズムはきつくなく、角は柔らかい。最後に彼「ら」は僕たちにバロックを聴かせてくれたのだ。何を悲しもうとしているのか。僕たちは。

客席に、徐々にスタンディングオベーションが広がっていく。東京の音楽シーンで自然なスタオベが起こることはほとんどない。そうなんだよね。みんなブリュッヘンと18世紀オーケストラを聴きに来たひとたちなんだ。僕も立ち上がる。

そして最後に舞台から流れてきた音楽も、僕たちの度肝を抜いた。
ヨゼフ・シュトラウスの《とんぼ》!
やはりメンデルスゾーンと同じ公平な管弦バランス。透き通った羽の、優しくて、華やかな、寂しいとんぼ。いまこうして思い出していても、胸にこみ上げるものがある。満場のスタオベに応えて、指揮者の一般参賀が二度。そして最後に、ブリュッヘンを真ん中にしてオーケストラみんなが横一列に並んでみんな参賀。とんぼの羽に腰掛けて、リコーダー仙人は遠くに行ってしまった。ありがとうブリュッヘン。ありがとう18世紀オーケストラ。
by Sonnenfleck | 2013-04-14 08:32 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン・プロジェクト第2夜|18世紀オーケストラのモーツァルト&ショパン@すみだ(4/5)

c0060659_23194737.jpg【2013年4月5日(金) 19:00~ すみだトリフォニーホール】
<ブリュッヘン・プロジェクト第2夜>
●モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K550
●ショパン:Pf協奏曲第1番ホ短調 op.11
●ショパン:Pf協奏曲第2番ヘ短調 op.21
 ○ショパン:夜想曲第5番嬰ハ長調 op15-2
 ○ショパン:マズルカ第25番ロ短調 op.33-4
→ユリアンナ・アヴデーエワ(Pf/1837年パリ製エラール)
⇒フランス・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ


本当はこの金曜日、会社の飲み会が入っていたのだけど、急にキャンセルになったのを幸いに、やりかけの仕事を全部引っ掴んでかばんに詰め込み、錦糸町に駆けつけたのだった。

このブログを読んでくださる皆さんであればご存知かもしれません。僕はブリュッヘンに対して特別な思い入れがあります。
彼らの(ら、の!)音楽を初めて聴いたのは、シューベルトの5番とメンデルスゾーンのイタリアがカップリングで入ったディスクだったと思う。でも2002年のみなとみらいでベートーヴェンの第9が聴けたのを最後に、「ら」の公演を聴くチャンスは日本では巡ってきませんでした。

2005年のすみだで新日フィル初共演のラモーの第1音に度肝を抜かれたのは間違いないことだけど、新日フィルとのハイドン、ベートーヴェン、ロ短調ミサなどをずっと聴いてきて、何かが物足りなかったんだ。何か?それが古楽器の濃厚な響きじゃなくて何だというのだ!

彼ら(ら、の!)の来日公演はもう行われないだろうというのが大方の意見だったけれど、10年の時を経て彼らは再び来日した。でもこの10年でブリュッヘンはすっかり老いた。ついに今宵は車いすで指揮台に運ばれてゆくくらい老いた。
ネットラジオで一生懸命聴いた00年代の「ら」の演奏、つい最近リリースされた新しいベートーヴェン全集、どれも嶮岨で静かな名演奏に変貌している。80年代の録音で聴ける「ら」の合体魔法をやるには、もう「MPがたりない!」なのではないだろうか…。「ら」の再来日に歓喜するいっぽう、僕はそう思っていました。

+ + +

でも!でもモーツァルトの40番が鳴りはじめて、僕はブリュッヘン+18世紀オケの合体魔法を正面からまともに浴びて256ダメージ!何も違わない!80年代の録音のあの濃密な音楽が戻ってきてる!

管楽隊のびゅわっ!というあの響き、弦楽器のしゃららー+ごりっ!というあのブレンド感。00年代ブリュッヘンの静謐な音色も今ではパレットに加わって、高濃度モーツァルトが描かれていく。フォルムは一切崩れず、明暗はあくまでも克明。そこへ、指揮者の爺さんが発する「zuuuuuu...ziiiiiiii.........」という風の歌が聞こえてくる。

驚いたのは第3楽章と第4楽章で、舞曲を処理するみたいにアンチナラティヴなリズムを付加してゆく指揮者と、あの旧い響きが帰ってきた18世紀オケが反応しあって、明らかにラモーの音楽が転生したようなモーツァルトができあがっていたこと。あの音は生涯忘れないだろう。
ありえない空想だけど、18世紀のどこかの宮廷に存在した老宮廷楽長とハイパー名人宮廷楽団に、仮にタイムマシンでモーツァルトのスコアを届けたら、一生懸命、彼「ら」の流儀でこんな演奏をするんじゃん?そういうことだ。

なお、ハイパー名人宮廷楽団にはウルトラコンマスがいて、ときどき中身が抜けて骨格だけになる老宮廷楽長の手の動きや目線の方向を察知し、完璧にサポートしていました。ウルトラコンマスのザッツと老宮廷楽長の震える指先の、その狭い隙間に湧き上がってくる音楽のピュアな響き。

+ + +

ショパンの感想文(特にソリスト、アヴデーエワ女史のこと)を書くのは、僕には荷が重い。
伴奏部分について語るなら、ブリュッヘンと18世紀オーケストラの演奏によって、それがまるでシューマンを思わせるほの暗い大気が充満した音楽に翻訳されていたことに触れておきたい。そしてVc首席はFgとの連携を常に意識しながら、明らかに他のパートとは異なる文法でソロパートにひたり...と寄り添っていた。ショパンのなかに潜む昔。
by Sonnenfleck | 2013-04-06 00:33 | 演奏会聴き語り

on the air:ブリュッヘン、5分間だけドビュッシーを振る@ユトレヒト(3/16)

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【2012年3月16日(金) 20:15~ ユトレヒト・フレーデンブルフ音楽センター】
●ドビュッシー/ラヴェル:《ピアノのために》~サラバンド
●モーツァルト:Pf協奏曲第17番ト長調 K453
→アンドレアス・シュタイアー(Pf)
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 op.60
⇒フランス・ブリュッヘン/オランダ放送室内フィルハーモニー
(2012年3月27日/Nederland Radio 4 オンデマンド)


150年に一度の快挙である。ブリュッヘンの振るドビュッシー(というかラヴェルというか)がどーーーうしても聴きたくて、つまりこのたかだか5分程度の音楽を楽しみにして、オランダ国営放送のサイトにアクセスしたのだった。

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今回取り上げられたのはドビュッシーのサラバンド、つまり4月1日の東京春祭ドビュッシーマラソンでも聴いた、あの曲である。あのとき藤井一興氏が言っていたけど、《忘れられた映像》のサラバンドと《ピアノのために》のサラバンドは、ほぼ同じ曲でありながら微妙に#や♭の有無が異なってるそうだ。もちろんラヴェルが知り得たのは《ピアノのために》のほうだから、編曲したのはそちらだろう。

で、たしかにフォルムは古い舞曲なれども、旋律は明確にドビュッシー、管弦楽法は明白にラヴェルである。フレージングはどことなくぎくしゃくしながら、マチエールは聴き間違えようのない濃厚なブリュッヘン節であった。彫りは深く、打点は重く、陰翳も濃い、昔ながらの彼の剛胆な音楽づくりが、ドビュッシーについてこのような方向に働くとはね。

歌い出しから古色蒼然とした音色がオーケストラに(特に木管隊には厳しく)要求されているようだ。古楽のひとがモダンオケを振って19世紀末の懐古趣味音楽をやってるんだから、状況は相当に捩れまくっているわけだが、何かストンと落ちてしまって違和感ゼロだな。最後に銅鑼がくぉーん…と鳴るまで魔法のような5分間。

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こっから先はおまけのようなものですが、モーツァルトはシュタイアーが借り猫のように大人しくてちょっと拍子抜け。というかブリュッヘンとシュタイアーの方向性があんまり違わないのかもしれない。少なくとも反発し合うという感じではない。第2楽章の終結部でも合体技・黒々とした不穏が垣間見えた。

ベト4はなんというか、かなり自由な造形になってきてます77歳。
by Sonnenfleck | 2012-05-24 22:04 | on the air

[エピローグ]弥生・オトテール尽くし御膳

c0060659_8353111.jpg【SEON(SONY)/SB2K 62942】
<オトテール>
●Flのための作品集 op.2~
  Recと通奏低音のための組曲 変ロ長調
●トリオ・ソナタ集 op.3~
  2つのRecと通奏低音のためのトリオ・ソナタ ニ短調
ほか、オトテール尽くし

→フランス・ブリュッヘン(Rec)、ヴァルター・ファン・ハウヴェ(Rec)
  ヴィーラント・クイケン(Gamb)、バルトルド・クイケン(Ft)
  グスタフ・レオンハルト(Cemb)ほか

LvBを継続的に集中して聴くのって、ほんとにほんとにほーんとに疲れる。
特に、何か新しいものを常に探しながら聴くのは。
今日はブリュッヘンのオトテールを聴くのだ。

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ジャック・オトテール(1674–1763)の音楽を、フランスバロックにおいてはラモーの次に愛好する私なれば、この古典的名盤は擦り切れるほどに聴いていなければならぬが、手に入れたのはわりと最近です。

ここでふえを吹いているおっさんと、この間まで錦糸町にいたヨボヨボの爺さまと、イメージはつながるだろうか。僕はいまだにつながらない。指揮者のほうをよくよく調べたら、フランヌ・ブリュッヘンとかいう別人だったんじゃないか。

このアルバムでブリュッヘンはリコーダーとフラウト・トラヴェルソを吹いてます。
イメージは攪乱されているけれども、しかし、指揮における変な彫りの深さ、あるいは空虚感好きにつながる音楽性は、ここでもどことなく共通していて、あえて一生懸命探すまでもないんだな。
変ロ長調の組曲のサラバンド、ロンドなどゆったり系舞曲に耳を傾けると、彼の好みは今でも大して変わってないような気がしてくる。すうっと空気の薄まるこういう瞬間、田園にもあったぜ。

ニ短調のトリオ・ソナタ、めっちゃくちゃカッコイイです。
ブリュッヘンとハウヴェは気ままに縺れ合ってひらひらと飛んでいるし、ヴィーラントの抉るようなアーティキュレーションには惚れ惚れとするし、第3楽章などいつものようにさりげないレオンハルトの推進力も素敵。第1楽章のアインザッツの断乎たる趣きは、キリッとして苦みもある柑橘系のシャーベットを口にするようだ。オトテールって大体においてはカスタードクリームっぽいのだが、これもアリ。

ただし、ブリュッヘンの通奏低音のセンスがこうしたレオンハルト的なものとずいぶん異なる、というのは、このまえのロ短を思い出してみても明らかなのね。上の例を持ち出すなら、ブリュッヘンはどう考えてもカスタードクリーム派なのである。

いっぽう、ホ短調の組曲は調性も手伝って、特に切れ味鋭くて呻る。
ハードボイルド・ジーグ。

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ヒュッと強く吹けば強靭な音になるし、ロングトーンだと息の濃度は下がる。結局今でも、息に紐づいたシンプルな音楽をやってるだけなのかも。
by Sonnenfleck | 2011-03-05 09:04 | パンケーキ(18)

ブリュッヘン/新日フィル 《ロ短調ミサ》@すみだ(2/27)

c0060659_2246244.jpg【2011年2月27日(日)15:00~ すみだトリフォニーホール】
●バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232
→リーサ・ラーション(S)
  ヨハネッテ・ゾマー(S)
  パトリック・ヴァン・グーテム(A)
  ヤン・コボウ(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


LvBにおいては、特に新しい知見を僕はブリュッヘンに期待して、ほぼすべての交響曲でそれは与えられた。
一方JSBにあって、何か極端に新しい発見はあっただろうか。いや、極端なものはなかった。2009年のワルシャワでのロ短ライヴをポーランド放送で聴いていたから、これは想像の通りであった。

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ベートーヴェンではその精神に忠実であろうとして、時には物議を醸すような仕掛けを乗せたわけだけど、ブリュッヘンのバッハはパッと聴きでは拍子抜けするくらいオーソドックスなことが多い。古楽器アンサンブルがさらに機敏に、フットワークを軽くしていく流れの中に彼のバッハはなくって、最近の流行のような分かりやすい表現を搭載することもほとんどない(もちろん全部がそうとは言えないけど>たとえば管組!)

ブリュッヘンのバッハの「響きの肉厚ジューシー路線」みたいなものは、単にコントラバスを太く弾かせているとか、その程度の細工で実現されてるんじゃないというのが今回のでよーーーくわかった。生で聴いてみないとわからないことってたくさんあるのだ。
管楽器たちを(古楽の方法から逸脱しない範囲で)最大限に厚く盛り合わせ、通奏低音のテクスチュアを(楽器の組み合わせを入念に考慮することで)細かく変化させる。特に通奏低音部隊への要求はまことに特徴的で、このアリアではVc2+Kb1、ここではVc3+Kb2、Vcはお休みでKbソロ、とか、なるほどと思わせる局面が多かったなあ。
楽譜のリズムを牽引するのが普通のコンティヌオなら、その瞬間の主役を邪魔しないように絶えずその質をチューニングしつつ、楽譜の輪郭をくっきり及びもっちりさせるのが「響きのコンティヌオ」。みたいな。

新日フィル。もうちょっとだけ精度を上げてくれ!というところも確かにチラホラあったが、どちらかと言えばそれは個々のプレイヤーの技量や疲労の問題であって、アンサンブルとして荒れているとか志向性が違うとかではないため、あげつらう意味はないだろう(これが一部のLvB曲との違いだった)。一ヶ月間の共同作業の結実として、トゥッティには極めて好い瞬間がたくさんあった。Vc小隊4名の完璧なメッサ・ディ・ヴォーチェを僕は忘れない。

ブリュッヘンのバッハの入口に、日曜日の新日フィルは確かに立っていた。(普段は定期で弾いたりしない古楽風バッハへの緊張感も大いにプラスに働いたんだろうとは思うが)18世紀オケの在東京代理店としてではなく、彼らそのものとして立っていた。これはたいへんな収穫だよねきっと。

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栗友会。第九のときはオヤッと思わせる綺麗な不自然ぶりを実現してたが、逆に今回はオヤッと思わせる「自然な」合唱に仕立て上げられていた。がなるところは強くがなり、神経質にならず、開放的な発声で、嬉しいときは嬉しそうに、辛いときは辛そうに。
アーノンクールの意を汲んだシェーンベルク合唱団と比べてどうこう言うのは容易いけど、ブリュッヘンはバッハにそういう硬い緊張・凝縮感を求めてないのね。それは別の人がやればいい。〈Dona nobis pacem〉の現世ご利益的な暖かみにくるまれて、そう思うのだった。

ソロ。見事にでこぼこしてて、気まま。それゆえにこちらも、奇妙に地上的現世的なのだったよ(就中あの不気味な声質のアルト歌手は、ロビン・ブレイズ以上の、今どき珍しいくらいのオカマっぽさで僕らの度肝を抜いた)

お客さんの反応も誇張がなくて素直であった。涙涙の大ブラヴォ合戦ではなかったし、一般参賀も起こらなかったが、みんななんとなく満ち足りていたようであった。だんだんブリュッヘンのコンセプトに乗せられちまったような気もしてくるのだぜ。ちょいガサガサでオーガニックなロ短。これもアリだろう。
by Sonnenfleck | 2011-03-01 23:15 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第4回(2/19)

c0060659_1455252.jpg【2011年2月19日(土) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第8番ヘ長調 op.93
●交響曲第9番ニ短調 op.125 《合唱付き》
→リーサ・ラーション(S)
  ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ(A)
  ベンジャミン・ヒューレット(T)
  デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン(Br)
→栗山文昭/栗友会合唱団
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団


◆第8番、ノーコメント。
この交響曲だけはいまだに正体がわかりません。ハイドンパロディ、そしてセルフパロディも含んだベートーヴェンの《古典交響曲》なんだろうなーということは薄々感じているが、この日の演奏でも確信には至らなかった。

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◆シンフォニア付きオラトリオ ニ短調 op.125a 《歓喜に寄す》
よくね、通のひとって、「第九は第3楽章まででいいんざんす」って言うでしょう。
しかしこの日の演奏を聴いてなお、そう言い切れるだろうか。

第1楽章第2楽章。泰西古典大交響曲の、大楽章としての。
ツィクルスを通していくつかの曲から奪い取ってきた交響曲性を、今度は自分の手駒として投入するブリュッヘン。確かに、古楽「風」アーティキュレーションをツールに用いながら、彼のやりたいことはフルトヴェングラーなどとほぼ変わらないのではなかったか。ジェットコースターのように上っては下る響きの波に洗われる客席。静まり返る。
そして、第8までの編成から弦の各パートを倍増させているにもかかわらず、アンサンブルの状態は前半とはずいぶん違う。劇的なパッセージで表情の彫り込みがより豊かになっているのはよく理解するけども、静かな局面においても静けさがより濃密になっているのは、これは綿密な練習の結果であろうよ。ツィクルスを通じて、新日のアンサンブルの状態は不安定と言ってしまってよかったが、当たったときのここ一番の集中力はなかなか凄い。

第3楽章レチタティーヴォ楽章としての
この扱い。まずここで、たいへん驚く。
1stVnやOb、Flなど、旋律を奏でる高音楽器の言語的な取り扱い、その揺らぎは、完璧に語りであった。そこへVcとKb、Fgまで勝手気ままに振舞うと収拾がつかなくなってしまうんだけど、そこは通奏低音としての役回りがちゃんと計算されていて、揺らぐ高音にヒタリ…とつけてリズムの一定の秩序を守る(この日のVcトップが花崎氏だったのはちゃんと意味があった)。この楽章は滔々と甘美に歌われるアリアではなく、レチタティーヴォだったわけだ。

1992年の正規全集(PHILIPS)、2006年のシャンゼリゼ・ライヴ(KARNA MUSIK)、聴き返してみればいずれもその萌芽があるんだけれども、実体験としてはもっと鮮烈であった。悠然と伸び縮みし、自由に呼吸する音楽。クラヲタに蔓延する第九アダージョ至上主義は、アダージョがアリアとして扱われることによる思考停止状態ではないのか。

そして第4楽章。要するに、レチタティーヴォのあとには何がくるかということ。
第3楽章のレチタティーヴォの雰囲気は、力強く訓練されたVc+Kb軍団によってさらに引き継がれる。その中ではあたかもVcがテノールソロ、Kbが通奏低音であるかのような分担作業が行なわれ、歓喜の主題を経てバリトンソロの登場が待たれる。。
ところが、バリトンソロがステージの上にいない。バリトンだけでなく、残りの3人もいない。合唱団は第1楽章からずっとオケの後ろに座っているのだけれど、ソリストたちが入場していない。二度目の不協和音が鳴り終わっても、ソリストが入ってこない。どうすんの!?
そうして、バリトンのウィルソン=ジョンソンが「O Freunde, nicht diese Töne!」と歌いながら、合唱団員をかき分けるようにして入場してきたとき、そして合唱団が「Freude」の入りを半拍以上、下手をすれば一拍程度早めて演技的に発声したとき、これはヘンデルがたくさん書いたオペラ=オラトリオのパロディだな、という妄想的結論に至る。ああ!そして時はもうまもなく四旬節なのであった(かつてヘンデルは、四旬節の間はオペラの上演を控えて、オペラ歌手にオラトリオを歌わせていたのです)

もうね、背すじがぞくりとしたですよ。
レチタティーヴォ→アリア+合唱という、確固たる連続性の演出にも賛辞を贈りたいけれども(第九に第4楽章は必要だということ)、僕はそれ以上に、そのもうひとつ外側の箱であるところの、演技性の表出に驚嘆させられたのだった。

これは何十年もバッハやヘンデルに立脚して音楽をやってきたひとでないと発想できない事柄だろうし、第九から最後の最後で「第九性」みたいなものを剥ぎ取って、指揮者が考えている、或る文脈の中に再び位置づける行為だった。ちゃんと思想の用意された回答であることよ。
(2008年のスタヴァンゲル響とのベートーヴェン・ツィクルスは、8&9の回のみ録音できておらず、この試みが新日フィルで初めて行なわれたものなのかどうか、ノイズなどから検証することはできない。ブリュッヘン月間終了後にでも、事務局サイドからの種明かしがあると嬉しい。)

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最後のロ短、どうなる。
by Sonnenfleck | 2011-02-20 14:55 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第3回(2/16)

c0060659_1039673.jpg【2011年2月16日(木) 19:15~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第6番ヘ長調 op.68
●交響曲第7番イ長調 op.92
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団




◆田園は遠きにありて思ふもの。
あとほんの少し、しかし確実に、何かが足りなかった。やはりあの第2楽章、そしてひどく平明な第5楽章を中心として、伝説の演奏になる芽はいくつもあったように思えたけど、結局実現しなかったのだった。

緻密なノンヴィブによる旋律感の脱落は今回も確かにあって、メロディが消えてハーモニーとリズムでできた模様だけになってしまい、ミニマルミュージックの観念的美しさまであと数ミリにまで迫った第2楽章。最後のカッコウは、ベートーヴェンがイデアの世界を描写しようと試みたのであろうということがよくわかった。

あちこちが言葉にならないくらい素晴らしかったのは事実なのだけれども、最弱音でほとんど消えかかろうとするときにオケがヨタついたのはかなり無念だったし、全曲を通して微妙にオケがざわついていて、各パート間、さらに各パート内でのアーティキュレーションがきれいに整わなかったのはなぜだったか。。さらに、響きが薄く透き通った瞬間にあちこちから鼾が聞こえて鬱。最終楽章では非常に薄汚いフラブラも飛び出して、ますます鬱。
(※もしかしたら、日曜日のしらかわホール公演が凄まじいものになるかもしれない。あの小さくて親密な空間では、マチエールの凹凸をなめすことがほぼ最優先事項として求められるだろうから。名古屋の皆さんのご感想を聴きたいです。)

◆解体されたのは指揮者か。第7番
ああ。みんなベト7を聴きに来てたんだな。セット券でずうっと僕の隣に座ってる不機嫌なご老人も、ついにこの日、初めて拍手をした。会場の様子から判断するにレビューは絶賛の嵐だろうから(まだほとんど他の方の感想を見ていないのでわからない)、あらかじめお断りしときますが、僕はわりと失望したクチです。

僕は今回の演奏、面白いと思わなかった。
こういう普通のベト7なら、別にブリュッヘンじゃなくてもよくね?ってことです。

「泰西古典浪漫主義名曲ベト7」として、かなり細部までしっかりと造りこまれていたのは衆目の一致するところと思った。素晴らしい「普通の」造形だったらそりゃ間違いなく客席は沸くよね。だって普通のベト7、みんな好きだもん。でも、あれ、ブリュッヘンだからじゃなくて、ベト7だから盛り上がったんじゃなかった?

静けさを追求することにこだわった第2楽章も予想の範囲を外れないというか、なんか手の内が見えてて、エロイカの第2楽章とか、第1交響曲の焼き直しくらいにしか思われない。リズムの整い方は、逆説的に西江コンマス担当回だったおかげで、この日が一番よかったのかもしれないが(そしてそれはベト7を普通に造形するにあたり、とても大切な要素なのかもしれないが)、僕はこのツィクルスに、新しい知見のない演奏を聴きに来たつもりはなかった。これが本音。あるいは、新しい知見に至らなかった僕が悪い。

[関連リンク]
on the air:ブリュッヘン/スタヴァンゲル響のベートーヴェン 3(2008年。)

[関連リンクその2]
[演奏会] ブリュッヘンの楽器となった新日本フィル(「現代古楽の基礎知識」)
大先輩・澤谷さんのエントリをまたも無断でご紹介。「ジーグ、マーチ、スケルツォ、コントルダンス」かあ。そっかあ。そうだったかもしれないなあ。うーん。

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2月17日、「庭は夏の日ざかり」は開設6周年を迎えました。
これもひとえに、ご訪問いただける皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます。
by Sonnenfleck | 2011-02-19 10:41 | 演奏会聴き語り

ブリュッヘン/新日フィル Beethoven Project 第2回(2/11)

c0060659_2246503.jpg【2011年2月11日(金) 15:00~ すみだトリフォニーホール】
<Beethoven Project>
●交響曲第4番変ロ長調 op.60
●交響曲第5番ハ短調 op.67
⇒フランス・ブリュッヘン/
  新日本フィルハーモニー交響楽団




◆1 生煮えとしての第4番
オケのコンディションがすこぶる悪い。エロイカと第5の過渡期の、どっちつかずの存在として第4を捉え、それを演奏精度のフェーズにまで徹底させたのであったとしたら、それは評価しなくちゃならないとは思うけど、実際には単に造り込み時間が不足しているようにしか聴こえず、僕にはブリュッヘンの意図が掴めなかった。(ところがディテールに拘る箇所もちゃんとあったんだな。第1楽章の結尾をメゾピアノくらいまで急激にディミヌエンドしたのはなぜだったか。チェリビダッケがよくやるあの技。)
崔コンマスのときの新日はほとんど外れがないと思ってたんだけども、今の彼らだったら絶対にもっと良いものを実現できるだけに、あの粗雑なテクスチュアには率直に言ってがっかり。2月8日の第1回ではパート内から誰かひとりの音が浮かび上がってしまうということはなかったが、この日に前半は特にその凹凸感が気になった。Vcもフィナティ氏だけひとり悠然とヴィブラート掛けてたしな。。

◆2 管楽合奏のための協奏交響曲ハ短調 op.67a 《運命》
このため、後半の出来如何によっては、長々と書いた前回の感想文をいくらか訂正しなければならないかと思ったのだが、幸いにして杞憂に終わった。

いつも《運命》を聴いて、特に何も考えず、弦楽合奏の間に管楽合奏が挟まっているように感じていたのだが(弦楽器経験者のナチュラル傲慢)、この演奏はまったくの逆であって、初めからおしまいまで常に管楽器が最前面に位置づけられ、各所で快楽的な花がぽうぽうと咲いていた。

特に第4楽章の管楽隊の響きの「織り」はまことに見事。ラトルなどがいかにも取ってつけたように登場させるピッコロを、楽章の初めから惜しげもなく贅沢に投入しているにもかかわらず、第1楽章からずっと強靭な管楽合奏を展開してきたために、特徴的な音色の新楽器たちの登場を難なく受け止めることができている。色鮮やかな友禅に太い金糸を這わせたような、豪奢な印象を受けた。(3階奥の僕の席からはコントラファゴットの活躍を聴き取ることはできませんでしたが、ピッコロと同じように堂々とアンサンブルを盛り上げていたことでしょう。)

また、そのような管楽合奏を消してしまわないように、ことに第2楽章など弦楽合奏の音量バランスをかなり慎重にコントロールしていたのも印象的。こうしたときにはノンヴィブラートで弦の減衰を速めるやり方が正攻法だし、現に有効だよね。

そうした中で後半は、特にファゴットの取り扱いがよく練られていたように思う。
通奏低音楽器としてファゴットを捉える考え方はハイドン中期くらいで途絶えたという認識だけども、この日は、その古式ゆかしい方法がいくぶん復活していた気がする。ファゴットはもちろん、輝かしいソロも披露するけど、同時に管楽合奏の中のリズム隊として、快楽的花弁を支える茎の役割も熱烈に要求されていたようだ。首席の河村さん、ホントにお疲れさまでした。ブラヴァ。

協奏交響曲的テクスチュアを実現し、泰西古典浪漫主義名曲《運命》の視座をぐらぐらさせること、これを交響曲性の簒奪の一種として無理やり捉えることもできるだろう。このあと、我々はついに《田園》と出会うのだが、はてさて田園交響楽はそのままの姿をしているだろうか。《田園》と空気感のよく似ている第2交響曲の第2楽章を聴いた限りでは、今回もやっぱり、時間と展開を拒否した幸せミイラ的テクスチュアが用意されているような気がする。

[関連リンク]
SIDE-B/SIDE-I (4)(2006年。18世紀オケとのツィクルスについて。)
on the air:ブリュッヘン/スタヴァンゲル響のベートーヴェン 2(2008年。)
by Sonnenfleck | 2011-02-15 22:49 | 演奏会聴き語り